特集●オハネフ12と普通列車・山陰(1) |
2008年 3月16日更新 |
山陰本線には1985年3月ダイヤ改正まで、
京都~出雲市間にB寝台車1両を連結した夜行普通列車が存在し、
寝台発券の便を図るために「山陰」という愛称が付与されていた。
この「山陰」は廃止を控えた晩年には、下りが829レ、上りが826レの列車番号を与えられ、
下りの場合は京都を2206に発ち、途中の殆どの駅にこまめに停車しながら、
翌日0948に出雲市に到着するダイヤだった。
「山陰」は概ね、京都~福知山間、倉吉~松江間では地域の通勤・通学列車として、
また途中の福知山では福知山線経由の急行「だいせん」や同線の大阪発最終列車との接続が図られており、
鳥取・米子・松江と大阪・京都を繋ぐ長距離輸送ネットワークの一翼を担っていた。
1984年2月のダイヤ改正で鉄道による荷物・郵便輸送が実質的に廃止されるまで、
「山陰」の編成は、出雲市側から荷物車・郵便荷物合造車・B寝台車に加えて、
スハ43系を主体とした普通車6両からなる9両編成であり、普通列車とはいえ堂々としたものだった。
そして、このB寝台車こそが、ここで紹介するオハネフ12である。
オハネフ12は、1956年から新製された10系軽量客車では最初に就役した、
3等寝台車・ナハネ10がそのルーツとなる。
その後緩急車改造されてナハネフ10となり、
更に冷房改造されたことで自重が増加して、現形式に至っている。
ナハネ10は当初は寝台数が60であったが、後の緩急車改造の際にデッキ寄りの1区画から寝台を撤去し、
おおよそ2/3を給仕室に転用し、代わって元の給仕室に残り1/3を加えて車掌室としている。
デッキ側屋根上に残った扇風機カバーのドームは、かつてそこが寝台であったことの名残であり、
最初から寝台数54で設計された、オハネ12やオハネフ13との外観上の相違点ともなっている。
また、既に述べたように10系ハネは登場時には非冷房だったので、
天井に装備されたダブルファンの特製扇風機に加えて、寝台側窓には網戸まで装備されていた。
この網戸は冷房改造時に撤去されるものもあったが、
「山陰」の場合1982年11月改正まで、網戸が残存したオハネフ12が使用されていた。
僚車のA寝台車・オロネ10や鋼体化客車改造のグリーン車・スロ62などと共に、
かつては幹線の夜行急行列車に当たり前に見られたオハネフ12であったが、
1982年11月ダイヤ改正をもって優等列車での運用を廃止され、
その後は、この「山陰」ほか「はやたま」「ながさき」といった、
同じ使命をもつ列車に使用されるだけとなっていた。
この頃の10系寝台車は、車体外板は大きく波打っていたし、
車体は至るところで腐食が進行していたことからも、その終焉が近いことは明らかであった。
末期のこの状況から、10系客車を技術的失敗とみる向きもあるが、
むしろ新機軸を採り入れた意欲的設計と評すべきであり、
例えば下降窓は10系の経験が糧となって、今日では当たり前に使われる技術となっている。
即ち、問題点はこのような状況になってなお使用し続けたことであり、
その答えは10系が引退する直後の1987年4月に出されることとなる。
但し、この時代の国鉄の停滞によって、この「山陰」のような懐古的情景が永年にわたって継続したことで、
鉄道ファンが享受したしたものが大きかったのも、また事実である。
「山陰」に使用されたオハネフ12は1982年11月改正の後暫くして、
それまでの出雲区生え抜きの車両から、
急行「きたぐに」の14系化で余剰となった宮原区からの転出車に置き換えられた。
「きたぐに」の余剰車は、気候の苛酷な日本海縦貫線で使用されていたこともあり、
それまでの車両に比べて特に状態が良いとも思えなかったことから、「山陰」も早晩廃止されることを前提にした、
期限切れ車両の置き換えが主目的であったと考えられる。
最後まで使用されたオハネフ12のうち、
上に写真を掲出した2094は、1982年11月改正で竜華へ転出して「はやたま」に充当されたのち、
1984年2月改正の「はやたま」廃止を期に、再度出雲区へ転出した強運の持ち主だった。
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