特集●オハネフ12と普通列車・山陰(3) |
2008年11月16日更新 |
下りの「山陰」に乗車すると、目覚めは決まって赤碕だった。
周囲を見回すと、いくつかの寝台は抜け殻になっていている。鳥取での下車客だったのだろう。
鳥取へ向かうには、京都や大阪を朝一番に出ても午前中は車中で潰れてしまう。
下りの「だいせん」「山陰」は未明に到着するにもかかわらず、鳥取での下車客は少なくなかった。
赤碕からは「山陰」は地域の通勤通学列車となるが、寝台車には何の動きも無い。
私はいつも、京都を出るときに暖房管に載せておいた缶コーヒーをすすりながら、
身体が昼間モードになるのを待ったものだ。
列車が伯耆大山に着く頃には、寝台車も少しだけ慌しくなる。米子での下車客が身仕度を始めるからだ。
寝台客の殆どは米子で下車してしまう。ホームに降り立つと、先頭では運転係員が機関車に給水していた。
私もそろそろ寝台の解体に着手する。
寝具をたたみ、昨夜は誰も使わなかった中段の寝具を空いた上段に置き、転落防止帯を外して中段の裏側に仕舞う。
中段を少しだけ持ち上げると、支えの支柱は自然に回転して壁面に戻る。
支えを失った中段を静かに下ろすと、これが日中の背もたれになるわけだ。
この、中段を背もたれにする発想は、直後に開発された20系寝台車には継承されることなく、
中段は上に跳ね上げて畳む方式となっている。
米子での下車客が降りて車内が閑散としたところで、洗面所へ向かう。
客室と洗面所を隔てる扉は良質のアルミ製で、軽くて静かに動作する逸品だった。
洗面台は、いわゆる国鉄標準型が二つ設置されていて、中間には石鹸受けが、
洗面台の両端にはコップ掛けが設置されている。
石鹸受けには、マッチ箱サイズの真新しい石鹸が準備され、
コップ掛けには、やはり定番の透明樹脂製コップが納まっていた。
洗面台の傍らにある丸い流しは懐かしい「痰つぼ」である。
奥のノブを回せば渦巻き状に水が流れる仕組みだ。
洗面台は左が湯、右が水、中央が排水栓の開閉ノブになっている。
もちろん、本車で湯が出るのは暖房中だけである。
当時はこのように手動水栓しかなく、出水中は片手が塞がるから、
洗面は必然的に水と湯を適量溜めて行わざるを得ず、
走行中は列車の揺れによる、溜め水の溢れ出しに注意が必要だった。
客室との仕切り扉を出たところのトイレと客室壁面のコーナー部分には冷水機が備えられ、
寝台客の寝覚めの喉の渇きを癒していた。
冷水機の背面には柱状の機器箱があって、
ここに飲料水専用の独立したタンクがあり、冷水機に通水していた。
冷水機自体は公共施設などで当時よく見られた四角い足踏み式だったが、
蛇口をU字管にしてコップに注ぐ方式を採ったのは、
列車の揺れで顔を濡らすのを防ぐ配慮だったのかも知れない。
ただ、コップについてはアルミ深絞り製の物が傍に置いてあり、洗面台のそれとは区別されていたものの、
当時既に一般化していた紙コップの準備はなされていなかった。
このように、飲料水コップを使いまわしたり、飲用に適さない水が出る洗面台にもコップがあったりと、
今では衛生面で採りえないような設備に隔世の感を禁じえないし、
昔の人はあらゆる面で頑丈に出来ていたのだと感心してしまう。
洗面台の背面にはトイレが2室ある。
晩年に「きたぐに」運用を解かれて宮原から転属した車両の多くは、既に貯留式に改造されていて、
車端側トイレの幕板部分には「汚物処理装置制御盤」なるものが装着されていた。
オハネフ12は旧型車に属するにもかかわらず、この装備で外観的には近代化されていたが、
いま冷静に考えると、常設の交流電源を持たない旧型客車が、
営業運転中に循環式トイレを機能させることなど出来よう筈も無く、
単に車両基地での内容物抜取りに関わる装置なのだろうと推測している。
それを裏付けるかのように、本車のトイレは、
新幹線や特急電車のような、独特の芳香のある青い水が流れることも無く、
快適さは微塵も無かった事を記憶している。
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