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11月2日

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ずいぶん長いこと自分のHPを放置しておりました。

率直なところ、世の中に何かを発信したい、という気持ちがすっかりしぼんでおりました。

(いったい誰に何を発信しようというのでしょう?)

せっかく声をかけていただいていた個展の予定すらキャンセルしてしまい、

この企画に関わってくださった方々に多大なご迷惑をおかけし、たいへん申し訳ありません。

 

先月の衆議院選挙では、黙っていることは敵(安倍政権)を利するだけだ、と思いつつも、こうした虚無感から声をあげることをしませんでした。

私自身の無能さを痛感しつつ、第4次安倍政権が発足してしまったことは、私の気持ちをいっそう暗くさせる出来事です。

独裁的な安倍政権を民衆が支持する現状を見せつけられ、ナチス・ヒトラー政権を学び直さなければならなくなっているもの苦痛です。

ナチス時代にアメリカに亡命し、ナチス政権と民衆の関係を研究したハンナ・アーレントの思想が(歴史を繰り返さないための)重要な論考だと

思いつつも、その難解な文章にはばまれて頓挫していました。

そんな時に籾井会長体制の終わったNHKの「100分 de 名著」の番組でハンナ・アーレントの「全体主義の起源」を取り上げてくれ、

仲正昌樹先生の解説がわかり易くて助かりました。

***

「全体主義は首尾一貫性の虚構をつくり出す。この虚構の世界は現実そのものよりはるかに人間的心情の要求に適っていて

ここで初めて根無し草の大衆は人間の想像力の助けによって世界に適応することが可能となり、現実の生活が人間とその期待に与える

あの絶え間ない衝撃を免れるようになる。」

「ナチスやソ連共産党は、大衆が見たいように現実をみさせてくれる物語を提供し、彼らを組織化することに成功した。

大衆の現実逃避的で、スケープゴートを求めるメンタリティを巧みに利用し、特定の世界観の下で、無構造であったはずの大衆を組織化しようとする(略)

( 「いまこそアーレントを読み直す」 仲正昌樹 著 講談社現代新書より抜粋 )

 

「大日本病の再発」とても言いたくなるほど、官邸主導のここ数年の“日本はすごい!”啓蒙活動にはうんざりしていますが、

そんなに簡単にエサに釣られるものだろうか、と思っていながら、現状は根拠のない選民意識を持つ人も多くなっているような気がします。

 

ネットの時代はすぐに欲しい情報にアクセスできるため、多くの人が自分の嗜好にあった情報しか受け取らない傾向が強まる、

という指摘は以前からありました。

幼い頃から自分に快適さを与えてくれる情報ばかりに埋もれて成長した時、つまり自分を否定するような社会の壁にあたらずに人格を形成したとき

いったいどんな性質の人物となるのでしょうか。

(しかし現状はその偏りによって戦争を招きかねないレベルで、教育などによる何らかの補正が必要なレベルになっているような気がします。)

また、本を読まなくなり、ネットの断片的な文章からそれこそ見出しだけを読んで社会や人間を知った気になっている人が増えた、

とも言われます。

 

本を読むと(小説であれ社会批評であれ)、他者(著者)の思考経路を辿ることになります。

自分とは異なる思考回路に触れることで視野が広がり、自分の思考が鍛錬され、

また、自分と異なる考えに触れることでかえって自分が見えてくることもあると思います。

広い視野と己の客観的把握の能力は、変動する現実社会に振り回されずに生きていくための必需品だと私は思いますが、

最近激増している感情的な犯罪からは、その行動の前に理性の抑制は全く効いていないとしか思えないものが多すぎ、

「理性を鍛錬する」という言葉が死語になっているのでは?と疑いたくなる有り様です。

 

折しも日本社会は下り坂の退却戦の真っ最中で、上り調子の時は楽観的でいられたことも、不安材料には事欠かず、

社会問題の根本的解決には特効薬などなくて、コツコツと小さな改善を積み上げていくしかない厳しい現実を見るよりは、

虚構の物語を垂れ流す権力者を支持したくなるのかもしれません。

***

アーレントの分析によれば、「国民国家」の下での経済的繁栄、生活保障、社会的安定感に慣れてきた「大衆」は、

その「国民国家」に対する信頼が揺らいで、不安を感じるようになった時、現状からの救済の物語を渇望するようになる。

(略)

「国民国家」の下での「一億総中流化」の幻想が崩壊して、経済的格差が拡大し、雇用・年金・医療・教育などの基本的なインフラが

崩壊しかけていると言われる現在の日本には、物語世界観が浸透しやすい状況があると見た方がいいだろう。」

( 「いまこそアーレントを読み直す」 仲正昌樹 著 講談社現代新書より抜粋 )

 

追記 : 私はこのところ、子供の頃に読んだ手塚治虫の漫画「三つ目がとおる」の主人公・写楽がイジメをしたりする人間にむけて

「脳みそをトコロテンにする機械」をしばしば作ってやっつけたのをよく思い出すのです。

(この機械が発射する光を浴びせられた人間は脳みそがとろけて白痴になってしまうのです。)

漫画の中では、学校のグランドを埋め尽くすような大きな機械として描かれていましたが、

あれはたぶんテレビのことではなかったか、と思うのです。

テレビが普及し始める昭和30年以前は、本は学ぶ教科書でもあり、数少ない娯楽でもあったはずです。

それがテレビの普及により、昭和40年以降の生まれの私たちは、明治や大正生まれの人よりは圧倒的に本を読まなくなって馬鹿になったと

ずいぶん言われたものです。

確かに個展などに来てくださった明治生まれのおばあさんとの話では、子供の頃に四書五経を暗記させられた、とおっしゃっていましたから

そうした方から見た時、私たちの教養の無さを嘆いていたに違いありません。

 

世の中が科学の発達によって便利になればなるほど、使わなくなった人間の能力(感性・思考)は低下していく気がします。

そして鈍くなった理性や思考でもって破壊力のある高性能な文明機械を乱用するなら、文明が滅んでいくのは当然のような気がします。