古い絵日記21
5月 5日

「手段」を「目的」を履き違える、という言葉があります。 

「目的」を達成するために「手段」というものが考案・実行されます。

しかし、人間の社会では、この当たり前のことが、逆転して「手段」自体が「目的」になってしまうことがしばしばあります。

今回は、「手段」と「目的」を取り違えるようなリーダーは最悪だ、という話です。

 

例えば、「お金を稼ぐ」ことは、本来良い生活をするために必要な「手段」として欲求されますが、

いつの間にか、より「お金を稼ぐ」ために生活を犠牲にすることになってしまっていることは誰でも経験があると思われます。

 

もう一例挙げると、「勉強する」ことは、本来親の能力を超えて自分の可能性を拡大するために必要な「手段」なのですが、

いつの間にか、誰よりも良い点数をとるために、試験対策としてのコツを覚えることが勉強だと錯覚して、受験後の自分の人生には

何の役にも立たない“バラバラな知識の詰め込みという徒労”だけが残るものが「勉強」だと思い込んでしまったりします。

 

なぜ、そういうことになってしまうのでしょうか?

一般に「競争」に勝たなければ生き残っていけない」と広く信じられているからではないでしょうか。

そして「競争」になったとき、人はなかなか冷静ではいられません。

負けまい、として無理をし、無理をした結果、本来充実させるはずだったものを犠牲にし、最悪の場合は自分の命まで絶ってしまったりします。

 

なぜ、「競争」になったとき、冷静さを見失いがちになるのでしょうか?

それは、本来の「目的」を見失ってしまうからではないでしょうか。

いや、本来の「目的」について、意識的に考えて自覚としてそれ(目的)を持ってないのではないでしょうか。

 

なぜ、「目的」を自覚的にもっていないのでしょうか?

私が考えるに、「手段」は教えられるが、「目的(正確にはその動機」は教えられないからではないかと思います。

戦後の高度経済成長からバブルあたりまでの時代に育った人間には、社会が右肩あがりであって、社会システムがよく機能しているように思えます。

そういう社会が安定・成長している時代には、自分の「目的」などなくても、社会のシステムに上手に乗っかる「手段」さえ学んで身につけておけば

経済的に生活は安定し、それなりに人生が潤ってしまうので、「目的(人生の動機)」の喪失を疑わずに生きられてしまいます。

 

だが、際限のない成長が神話であるとわかった今、

自らの「目的」を明確に意識して「手段」との健全なバランスをとって生きていくことが、とても重要になってきているように思えてなりません。

 

なぜ、私はこんな話をきりだしたのでしょうか?

安倍政権のやっていることが、「目的」のない「手段」の競争的達成感だけを追い求めているように思えてならないからです。

政治というのは、常に「手段」です。戦争も「手段」です。憲法も「手段」です。

その「手段」をどのような「目的」のために適切に使うのか、ということが、大変な重みをもって政治家には常に要求されていると思います。

 

「国民の生活を文化的で豊かなものであり続けるようにすること」。これが私が国の政治家に求める第一の「目的」です。

かつての大東亜戦争には、こうした「国民中心の目的」はありませんでした。国家のプライドの維持が中心にありました。

だから戦争では駆け引きが出来ずに泥沼化しました。負けるとわかってからも消耗戦を拡大し続けました。

 

なぜでしょうか?

戦争という「手段」であったはずの競争に勝つことが「目的」になってしまっていたからです。

戦争に完全な勝利などはありえない。あるとすればどちらかが相手を完全に絶滅させるしかありません。

だから「手段」としての戦争は(あってはならないが)、最悪の場合でも駆け引きを有利にするためにほんの少し用いて上手に手を引くべきものです。

しかし日本軍は、そもそも「目的」が「手段」としての戦争になんとしてでも勝つ、ということに凝り固まってしまっていたがために、

相手を絶滅させるか、こちらが絶滅させられるまで戦う、という幼稚な競争になってしまっていました。

「手段」が「目的」になってしまっていたのです。

なぜでしょうか?

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さて、現在安倍首相は、憲法九条を主なターゲットにして憲法改悪を主張しています。内田樹さんのブログで語られているように、

自衛力を制限なしにしたとしても、「アメリカの許可のもとで、アメリカの国益に沿う戦争ができる軍隊になるだけ」なのは誰も反論できないでしょう。

それにもかかわらず、「改憲」を主張するのは、「手段」を「目的」と勘違いしているのではないでしょうか。

 

彼の思想からは、狭くなった地球上でよりよく他民族と共存してくための「目的」が全く感じられません。過去だけを見て

再び“プライド”という際限のない欲望を満たすために政治という「手段」を使い、国民を不幸に導く愚を冒す前に、

速やかに権力の座を立ち去ってほしいと切に思います。

 

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