2007年 1月 6日

私が子供の頃(中・高校生時代)によく思ったことは、「人間性(ヒューマニズム)」について考える教育の時間がないのは何故だろう、ということでした。

生きることの苦しみに直面していた時に、先に生きた人々はこうした時に“どのように対処したのか”という体験談が聞ければいいのになぁ、と思ったのです。

(自分だけでなく、誰もが悩むものだと知るだけでも随分落ち着いて対処できるようになります)

 

「哲学」というものが、結局、「いかに生きるか」という問いに対する答えの数々だと知ったのは、ずいぶん後のことでした。

日本が西洋の文化思想を知る前には、中国の古典、「論語」がその役割を果たしていたと知ったのは更に後のことでした。

 

終戦後、国の復興を急ぐ日本は、経済中心で走ってきました。新しい時代をになう子供たちへの教育も、西洋文明をより吸収する能力と

工業生産力を現場で支える人材としての能力に限定されていたような気がします。(それが国語・算数・社会・理科という科目分けに現れています)

そのおかげて今の物質的に豊かな日本が築かれたわけですけれども、

しかし、昨今の非人道的な犯罪や時代に逆行するナショナリズムの高まる様子をみていると、人間が価値ある存在として生きていくために

必要なことは何かを、社会全体で手探りしていく道筋が模索されるべき時期にきているのではないかと感じます。

 

文化の発達は、まず最低限の衣食住がある程度満たされた状態でなければ、(世界の歴史をみても)充実しません。

その意味で、今の日本人は、「人間がいかに生きるべきか」を模索できる基盤の上に立っているのではないでしょうか。

 

自分(の国)は特別な存在だ、とかいうような思い込みと、その自己中心的な根拠に基づく他民族への蔑視によって、自分の存在意義を支える

などという安っぽい「人間性」の在り方は、結果的に世界を戦いに導く方向性しか残らない、お粗末なものです。

と、いいましても、「論語」を絶対視しろとか、直輸入であったがために学問化した「哲学」の暗記授業をしろ、とかいうことではありません。

 

とにかく、これは今の学校制度内の「道徳」の時間ではその役割は担えないと思います。

 

日本では、このような問題がでると、なぜか「社会規範を守らせればいい」、という解決方法しかでてこないのですが、

それは「お上意識」と「和をもって尊しとなす」という“常識”が、思いのほか私達の奥深くまで根を張っているためだと思います。

しかし、島国の中だけで「和」ができればそれでいいというのなら、この方法でも有効であったことでも、生まれも宗教も肌の色も違う人々と

共に暮らしていく国際社会のなかでは、一国の「規範」に従うだけでは理解されない(それによって相手も理解できない)でしょう。

 

それに、今この瞬間にいじめられている子供にとって、「規範うんぬん」が自分を救ってくれるとはとても思えないはずです。

 

この小さな地球上に、もう支えきれないほどの人間がいて、それぞれが主張しながら生きていくなかで無残な暴力の応酬という解決方法以外の

道を見出していくための、これからの国際化時代の人の生きる術(知恵)こそが研究開発され、教育現場などに採用されるべきではないかと思うのです。

そうでなければ、非人道的な競争の加速と争いによる解決が避けられないのではないでしょうか。

(文章がうまくまとまっていないですね・・・。すみません)