2月3日

急速に経済成長を遂げるインドの特集番組をみて、貧困から抜け出すための、その教育の“人を育てる在り方”が印象的でした。

「自分で考える力をつける」、「数学に興味をもたせるための工夫」など、教育が的を得た方向性へ進んでいるのをうらやましく思いました。

 

私は15年ほど前に2度インドを訪れましたが、当時のインドはまだとても貧しく、まともな教育を受けられるのはカーストの上位層だけでした。

私はそこで、「教育を受けられない」ということは、親の職業を真似ることしかできない現実を目の当たりにして、初めて教育の意味を痛感しました。

教育が受けられなければ、学べる手本は親しかいないのですから、選べぬ親の能力で自分の人生のすべてが決まってしまいます。

それは、靴磨きの子供は靴磨きにしかなれない、という現実でした。

 

私は、そうした状況下に長い間あったインドを垣間見ていたので、今、教育を受けられる可能性が飛躍的に高まり、自分の能力の磨き方次第で、

自分の人生を無限大に発展させられることへの喜びを爆発させながら勉強に没頭する、彼らのモチベーションの高さはよく理解できます。

これから数十年の間、インド社会がよりいっそう発展していくのは間違いないでしょう。

 

* * *

 

比べて日本はどうでしょう。数日前の新聞のコラムに、教育の改革が必要なのは「量より質」だという意見がありましたが、賛成です。

大人も子供も「何のために学ぶのか」を見失っているようにみえます。その目的が「試験にパスしてより良い地位を得るため」でしかない限り、

授業時間をいくら増やそうとも、日本の教育の質は変わらず、育てることのできる人間の質も向上することはないように思えます。

 

また、NHKの他の番組では、「家の子が写真の真ん中に写っていないから卒業アルバムを作り直せ」とか、「自分の子供を誰ともケンカさせるな」などの

常識を疑う無理難題で、学校に苦情の電話をしつこくかけてくる親が、良心的な教師を潰してしまう実態を報告していました。

 

はっきりいって日本の現状は、愛国心を植えつけて規律を守らせて、知識をより詰め込めば何とかなる、とかいうレベルではないと思います。

私は少子化もまた、地球上での人間の存在状況を理解した上での自然な、生き残るための本能だと感じています。(国家レベルの話ではありません)

今の政治家は、まるで犬の“匂いつけ”のように自分の痕跡を残したいのか、やたらと憲法をいじりたがったり、「経済のために子を産め」とか

なりふり構わず「世界一」を目指そうとしていますけど、驕り高ぶって中身を失ってしまった今の私達と、なんとか生活を向上したいと

真剣に努力し続けているインドや中国との違いは明らかで、日本の政治家の野心の方向性は、国際的な日本の現状をみていない

空虚なものに思えてなりません。(しかも競争をあおるその弊害は、これからも自殺者を増やしていくように思えてなりません。)

 

私は絶望しているわけではありません。よく政治家がいうように、「一番でなければ生き残れない」というのは本当なのでしょうか。

もしそれが本当だとしたら、グローバル化する世界が一つの社会になったときに、一つの国家、あるいは一つの民族しか生き残っていないのでしょうか。

 

私は、世界の現状と日本の現状を率直にみれば、日本の生き残るキーワードは「多様化する」しかないと思います。

他の人に出来ないことで自身や文化を磨き、独特の生産力を身につけるべきではないでしょうか。

それは難しいことではありません。ます自分にできることと出来ないことを認識し、アメリカや他国がやっているから日本もやろう、という

発想を捨てて、自分の能力、周辺環境の特殊性を最大限に生かすことを考え育てれば、誰にでもできるようになることだと思います。

 

また、「自分の特性を生かそうとする」ことの延長上に、社会の倫理観の復活も付随してくるように私には思えるのです。

 

もし、私のこの考えが正しいならば、

今の政府の管理強化(すなわち画一化主義)は、創造性のための個性を否定する方向であるがために多様化には逆行しています。

もし政府の方針が的外れだった場合は、他国と同じ土俵で戦った挙句に競争に敗れ、画一化したがためにこの民族は絶滅するかもしれません。

 

美しく豊かな風土に恵まれていたにも関わらず、その価値を理解することもできず、機械的で無思想な政策としての画一的な公共事業

(無駄なダム造成や無計画な杉の植林など)で日本の美しい自然を破壊つくしてきた行政が、いまさらのように「美しい国」を連呼し、

「俺が世界一をめざす。だから俺のやり方に全員ついてこい」という笛吹きに、皆さんはこれからもついていくのでしょうか。