6月14日(号外)

また首相の発言について意見しておかなければなりません。首相の状況判断はすでに空想の領域に踏み込んでいると思われ、非常に危険です。

この一週間のあいだに、靖国神社参拝について記者に問われると、「中国の胡錦濤主席からも、韓国の盧武鉉大統領からも、日本の国民からも

(靖国参拝の)理解を得ていると私は思っている。」と答えています。私の記憶が確かなら、会談で「適切に判断する」と曖昧に答えただけだったと思います。

ここには主観としての希望的観測と客観的な現状認識が混濁しています。一国の首相が、自分に都合の悪い現実から目や耳を閉じ、

空想の領域で状況を解釈している姿には、背筋の寒くなる思いがします。まるで敗戦色濃厚だった昭和19〜20年代の大本営発表とそっくりです。

 

このことについては戦争末期に参謀になった堀栄三氏の本に詳しいですが、例えば昭和19年、フィリピンでの戦闘を目前にして、台湾沖航空戦で

日本軍の大戦果が上がったという発表がされました。「撃沈 空母10、戦艦2、巡洋艦3、駆逐艦1」というものでしたが、

後にわかった実際の戦果はその十分の一もありませんでした。

すでにベテランパイロットの多くを失い、未熟なパイロットが敵の防空弾幕の中で見た爆発を撃沈と勘違いした情報を鵜呑みにしていました。

しかし、この希望的観測によって捻じ曲げられた誤情報をもとに、大本営参謀は「今こそ海軍の消滅した米陸軍を殲滅すべき好機である」として

もともとフィリピンルソン島で決戦を行うはずだった計画をレイテ島に戦略の大転換を行ってしまいますが、この希望的観測情報に基づいたレイテ戦は

日本の大敗北に終わり、8万人(97%)が生きて帰れませんでした。

 

私は率直に言って、日本人には未だに主観と客観との区別ができない人が多いと思います。

日本人が感情的で論理的な思考が弱い、ということも同じ性質のことを別な言葉で言っているのだと思います。

客観的状況把握というのは、言葉を鍛錬して感情によって左右される自らの感覚を補正する力がついて初めて可能だと思うのです。

絵を専門にする私は、人間の感性というものには、望んだものを受け取り、気に入らないものを排除する、という特性があることを日々実感しています。

そのことが視覚表現において、写真と絵画を大きく分けることになっていると思います。いや、おそらくは写真も極めれば極めるほど、

望むもの以外がいかに写らないようにするか、ということが人の感性に近づける表現になる、と考えるようになるのではないでしょうか。

 

しかし、芸術上のことならいざ知らず、人の命を危険にさらすことになる重要な決定において、

片方の立場の主観(希望的観測)に基づく情報で状況判断していたのでは、現実問題を合理的に処理し、より良き展開へ進めることはできません。

それどころか、取り返しのつかない誤解を生んだり、多大な犠牲者のでるような失政を巻き起こしても不思議ではありません。

「私はそう思う」ことと、実際が「どうである」ということの認識を分けて判断することはリーダーに不可欠な能力ですが、それが小泉首相には欠けています。

 

主観的な思い込み(“大和魂”などの精神主義一辺倒)に傾き、客観的な情報収集・状況把握を「弱腰」と非難したりして怠ったがために、

合理的な戦略を練ることができず、物量差ととも日本があの戦争において敗北した二大原因となったことを、首相はどのように理解しているのでしょうか。

あの戦争の戦死者たちが命に代えて私たちに残してくれた大切な教訓を、小泉首相は「慰霊」を口にしつつ、足で踏みにじっていると思います。

 

国のリーダーがこうしたことすらも理解できず、自分勝手な主観を元に政策判断をすることが許されるようならば、この国に未来はないとしか思えません。