3月29日(号外)

〜卒業式における国旗・国歌への敬礼の強制について私が思うこと〜

あいかわらず残り続ける、日本の社会の中央集権体制(いわゆるお上が何でも決めてくれる)の弊害は著しい。

「秩序が欠けているから国家への忠誠を教育すればよい」なんて特定の個人(権力者)の“思い込み”がまかり通ってしまい

トップダウンで一般民衆に(人間の在り方をすら)強制する社会の異常性から、いつまでも脱却できないでいる。

強制的な指導で受動的な人間を量産することは、生産力で生きていくしかないこの国の国益をむしろ損なう行為にしか思えないし、

これからより拡大する国際社会において、かつての廃藩置県のような英断が再び求められないと誰が言えよう。

国という組織すら解体してより上位の人間(国際)社会のあり方が模索されなければならないかもしれない時に、

「藩を解体とは何事だ!」と権威をふりまわし忠誠を強制する藩主(あるいはその重臣)を気取る人間の多さに辟易する。

明治においては、藩を解体できて国が一つになれたことで、(国内で分裂していたために欧米に植民地化された)当時の中国のようにはならなかった。

「ほら、国は大事じゃないか」という話ではない。藩という既存の組織に執着せず、広い視野で物事が見れていたことが重要なのだ。

 

しかし当時、それを主張した福沢諭吉などは(旧体制派による)暗殺をおそれ、宿帳などには偽名を書いていたそうだ。

旧権力に依存(経済的、あるいは思想的に)する人間の保身志向は、いつの時代でも正常進化の障害物となる。

 

秩序が欠けているのは、むしろ模範となるべき大人のレベルの劣化、

(日本は大東亜戦争で多くの優れて魅力的な人材を失った=優れて良心的な人ほど先んじて死んでいかざるを得なかった)や

学生の思考力・言語力の低下によって“社会”という直接手に触れることのできない抽象的な概念を把握できないからだろう。

他者の存在に対する把握能力の低下も同じ原因を源にしていると私は考える。

 

現在の東京都教育委員会の方向性は間違っている。中央集権体制の権限を勝手に乱用しているだけである。

果たして彼らの人間性や思想性が現場の先生たちよりも、いったいどのくらい優れて豊かだというのだろうか。

今教育で改善しなければならないことは、子供たちに自分でものを考え、高度に自分で判断できる力を身につけさせることであろう。

現場を知らない中央の権力者がトンチンカンな方針を出す政官体制は、もはや国民の教育水準が上がってきた現代においては見直されるべきである。

中央とは何か。何をもってエリートとするか。もし今後も中央集権体制を維持するとするならば、(その必要があるとは思えないが=現場に分権すべき)

彼らの人間性・能力を精査することが政治においても教育においても問われなければなるまい。