(2002.12.15/2003.04.21 upd)
マヤ文明について
国家
- マヤは多数の都市王国が併存する社会で統一王朝は持たなかった。
- しかし、国家の勢力の差は大きく、国家間には支配-従属関係が存在していた。
- 統治形態は王個人のカリスマ性と数多くの儀礼に依拠し、近代的な統治システムは持たなかったようだ。
- 王は最高の神官であり、勇猛な戦士であった。少なくとも、そうであることが要求された。
- マヤの都市国家は本当に「国家」か? 国家概念の再検討を要する。平原インディアンは「国家」を持たなかった。その延長線上で考えるべきでは?
戦争
- 国家間の戦争は頻繁に行われたが戦勝国は戦敗国を併呑せず、版図の拡大や王朝の統一への意志を持たなかったように見える。
- 戦争の原因はよくわからない。世俗的な理由のほかに宗教的な理由も大きかったようだ。
- 国家間の支配-従属関係も王個人間の関係に還元され、これを優越王(アハウ)−従属王(ヤハウ)関係と呼ぶ。
- 支配国と従属国の経済的な関係はよくわからない。人や財物の徴発や税金の概念があったのか?
- 戦争に敗れた従属国が勢力を盛り返して支配国を打ち破ることがしばしばあった。戦勝国が敗戦国を徹底的に破壊・収奪・支配しなかった証拠?
都市
- マヤの都市は祭祀センターであり所謂「都市」ではなかった。あるのは神殿や祭壇、石碑ばかりで、居住区域、商業施設、公共施設などは発掘されていない(と思う)。
- 金属器、車輪、アーチを持たず道具のレベルは石器時代並でありながら、巨大で華麗な神殿などを多数建築した。特に、暦の区切りの石碑の建立に熱心だった。
- 一般のマヤの人々は神殿の周辺に居住していたらしい。都市と呼べる規模だったかは疑問。集落レベルか?
生産
- 生産の基本は焼畑農業によるトウモロコシの生産。大規模潅漑の遺溝などは見られない。
- 人口は比較的多かったようだ。焼畑農業だけで多くの人口を養えたのは不思議。古典期末期には栄養失調の人骨がかなり発見されてるらしい。
- 交易の程度はよくわからない。戦争が多く、かなり遠方まで遠征をしているところを見ると交通手段はあったのだろうが、それが商業目的に適したものだったか?
- ただし、特定の産物が珍重され、その交易ルートを押さえることで莫大な利益を上げた国があったことも確か。
歴史
- マヤは王朝成立前の先古典期、王朝成立後の古典期、衰退後の後古典期に大別される。正確には、古典期は石碑が建立されていた期間を指す。
- 先古典期のマヤは、純粋にマヤ地方に住む人達によって形成されており、おそらくプリミティブな部族社会だったのではないか?
- 絶大なカリスマ性を持つ王による戦争と儀礼を中心とする王国が成立したのは3〜4世紀ころで、その支配者はテオティワカンから来たという説もある。
- 古典期マヤはネイティブなマヤとメキシコ高原の混血文化となる? 厳密な意味でそうなのかどうかはよく判らないが、しかし、テオティワカンとの関係が重要であったことは間違いない。
- 古典期は前期・後期・末期に区別され、末期には地域全体に大規模な衰退が始まっている。
衰退
- マヤの各都市はスペイン人侵入前に放棄された。王も不在となり、儀礼も行われず、神殿は荒廃に任せたが、そこにわずかに住みつく人々もいた。
- 衰退の原因はまだ不明。交易ルート説よりも人口爆発や疫病説が有力らしい。
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根本的な原因としては「蓄積をしない文化」という点にあったのでは? 個人のカリスマ性に依拠し、合理的理由なしに戦争をくり返し、壮大な建築に巨費を投じていたマヤの国家群は、社会的な蓄積が極めて小さく、拡大再生産ができなかったのではないか?
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それはそれとして、衰退して行く文明というのは、かなりぐっとくるものがある。SF小説に出て来るような、近未来の荒廃した地球の姿とダブルイメージなんだよね。林立する石造りの巨大な建築物は朽ちて緑に覆われ、それを作った人々の末裔たちはかつての栄光も文明もなくしてびくびくとした原始的な生活を余儀なくされている、というようなことが歴史的な事実としてあったんだよな〜。
今ある安定は決して未来永劫続くものじゃない。そんな当たり前のことをつくづく感じてしまった。当たり前の平穏は必死になって維持して行くべきものなんだよねえ。
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