(2008.06.20)

儒教について

儒教は孔子の思想を源流にしている。その本質は「礼」というルールで人間関係を統御し、社会の秩序を維持しようとするもの。これは、秩序が混乱した戦国時代ゆえに出て来た思想である点が重要。本来孔子の学問は、既にある秩序を守ろうとして産み出された体制教学ではない。下克上が日常的であった戦国時代に君臣秩序を構築しようとした、むしろ現実離れした理想論だった。少なくともこの時代には、身分制秩序は悲惨な権力闘争よりはマシだったのである。

儒教は漢代に国教化されるが、そこでは秩序の尊重が、身分制度肯定=皇帝権力絶対化という方向で解釈されるようになる。そして、儒教自体は国家祭祀や民間儀礼のルールを定めるものになる。そこで重視されるのは先例故実であり、経書などからそれらを探し出し、定めるのが儒者の仕事になる。祖先祭祀の種類、回数、日時、場所、参列する人々の範囲、服装、供え物、などなどを決める学問と言ってもよい。あるいは、親が亡くなれば白い服を着て慟哭し、三年喪に服すのが人として正しい姿であると。

つまり、漢代儒教は儀礼のための学問であり、現実の人間の心の問題を解決する哲学や宗教としての役割は持っていなかった。『論語』に登場する人間味溢れた孔子の姿とは大きくかけ離れた、形式的な学問に陥っていた。そのため、魏晋南北朝にかけて仏教・道教が隆盛を迎えるようになる。そこで論じられるのは、人の内面の究極の姿や、世界の根本原理など、儒教が全く不得手にしていた問題だった。隋唐五代も基本的に同じ状況が続く。儀礼の学問である儒教も決して廃れてはいなかったが、人々を積極的に惹き付ける力を失い、それと反比例するように道教・仏教が大きな力を持つようになっていった。

宋代儒教は、そうした状況を打破しようとして生まれた。それは、仏・道の否定と言うよりも、仏・道の論じている問題を、儒教の枠組の中に取り込もうという試みだった。その大成者が朱子だった。朱子学は、世界の根本原理として「理」を立てた。理は万物に内在する絶対的な真理で、人においては「性」=「生まれ付いての本来の姿」という名で呼ばれる。人は「性」に従って生きていれば、自ずと正しい行動を取ることができる。しかし、人には「気」と呼ばれる肉体的な原理も併存する。この肉体的な欲求(食欲、性欲、金銭欲、権力欲など)を生む「気」が、本来の姿である「理」を曇らせるために、人は間違った道に陥ることがある。ゆえに、修養によって気を統御し、欲望を抑え、本来の善良な本質を顕現させるのが人としての正しい道となる。また、いかなる状況に遭遇しても、常に気を統御できるように普段から己の内面を鍛える修養を「敬」と呼ぶ。

朱子学の「理」は道教の「道」とは異なり、身分制秩序を内包している。すなわち、理は世界原理として、君臣・父子の秩序を絶対視しており、忠義や孝行は習い覚える徳目ではなく、人間に本来備わる、絶対的な価値を持つ宇宙的真理だと言う事になる。その意味では、忠孝を大前提としている儒教の系譜の中にあることは間違いない。しかし、禁欲と精神修養を説く朱子学は、社会の枠組ルールを定める旧来の儒教の姿とはかなり大きく異なる。そのため、当初は思想弾圧を被ることになった。しかし、朱子没後に正当的な学問として認知され、さらに体制教学として絶対的な権威を付与された。

そうなると当然反発も出てくる。反発の方向は大きく分けて二つ。一つは、陽明学に代表される、禁欲主義に対する反発。すなわち、朱子学の説く正しい人間の姿は、現実の人間からあまりにかけ離れていて、机上の空論に過ぎないという批判。人間に欲望があるのは当然なのだから、必要なのは欲望を否定することではなく、認めながらコントロールする事である。王陽明は、欲望も含めた人の心の在り方全体が「理」なのだと説いた。欲望を取り除いた純粋な状態が「理」なのではない。こうした説は、朱子学の基礎を受け入れた上での議論であり、朱子学の否定と言うより、発展形態と言った方がよい。

もう一つは、禁欲主義にしろ欲望肯定にしろ、人間の内面に関する事柄は本来儒教の説く所ではない、という根本的な批判。宋代儒教(道学)誕生の歴史を根底から否定するものである。確かに、孔子は世界原理を説くようなことはなかったし、精神修養論を教えの根幹とすることもなかった。ゆえに、宋明儒学は儒学の名を借りた道・仏の残滓にすぎない。本来の儒教は政治論・統治論であり、哲学でも宗教でもない−−こうした批判を最初に説いたのは、実は日本の伊藤仁斎や荻生徂来であり、やや遅れて中国でも清代の考証学派が同様の言説を説く事になる。つまり、儒教の原点への回帰の運動である。

で、どうなったのか?どうなったんだ? 実は、小島先生の講義を聞くまで、私は現在も儒者が存在しているとは知らなかった。しかし、現在の儒者のほとんどが陽明学派に属するのは何となく納得できる。カトリック→プロテスタント、ドイツ観念論→実存主義、国家仏教→鎌倉仏教、基本的に同じ構図であり、完成された思想の権威を超克した思想にこそ、ヴィヴィッドな生命力が宿る。一方で、考証学は手法の実証性が評価されることはあっても、積極的な思想内容を発信することはできなかった。やはり、生き残るべくして生き残ったのは陽明学だった。そうは言っても、陽明学も所詮は儒教であり、儒教と民主主義が相容れないのは、動かしがたい事実だ。現代社会で通用するのだろうか?

君主が民の声に耳を傾けるのが美徳とされていても、それを持って民主的な思想とは言えまい。それが通るなら、目安箱を設けた江戸幕府も民主政権ということになる。さらに、儒教は長い間体制教学として社会的差別を固定化して来た。その過去は消しがたい。しかし、それは孔子の思想の罪なのか? ソ連国家の罪をマルクスに押し付けることができないように、体制教学化された儒教の罪を孔子に押し付けることはできないだろう。さらに、身分制秩序と民主主義という概念対立を、硬いイデオロギーの場で論じること自体、さして意味があるとは思えない。もし、戦国時代に民主主義が現実的な選択肢として存在していたら、孔子があえてそれに反対したとも思えないのだ。

現在、中国本土では儒教がブームなのだそうだ。政府もかつてのような儒教弾圧は止め、むしろ好意的な態度を取っているらしい。人々も政府も、高度経済成長の中で崩壊しつつある社会道徳を再構築するよすがを、儒教に求めているのかも知れない。意外に、現在は孔子の時代に近い状況なのかも知れない。とすれば、現在説かれる儒教こそ、孔子本来の精神を継ぐものと見なす事ができるのかも知れない。もっとも、私個人としては、儒教を肯定する気は毛頭ない。功罪共に勘案した上で、なおかつ、儒教が持つ本質的な欠点が目につくからだ。すなわち、利用されたのは孔子の罪ではないが、利用されやすい思想を説いたのはやはり孔子である。……まあ、利用価値のない思想なんて残らない、というのも事実なのだが。

  元ネタ:「朱子学と陽明学」(小島毅)、「日本の思想」(清水正之)など。と言っても、自分流にかなりアレンジして書いているので、内容・表現が間違っているとしたら、すべて私の責任です。ちなみに、何でこんな文章を書いてみようと思ったのかと言うと、実は小島先生の講義がこういう歴史的な順序に沿った説明ではなかったから(^^; 個人的に、歴史文脈の中から思想発展の必然性を読み取る、という理解の仕方の方が性に合ってるので。ま、ノートを兼ねた再構成なんだけど、確かにこういう作業をすると理解は深まるね。そ、人から学んだことを自分の言葉で表現しようとすると、理解が抜けている部分が実感できるんだよね。学ぶには書くこと。

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