(2004.02.02/2005.05.17)

稲荷信仰

以前から、何でキツネが神様なんだろうと不思議に思っていた。日本では動物神の信仰はあまり一般的ではない。それが、キツネに限って全国的に信仰対象になるというのは、どういうことだろう?−−というのがそもそも疑問の発端だった。普通、動物は神様そのものではなく、神様の「眷族」「お使い姫」(ツカワシメ)とされることが多い。熊野権現だと烏、春日大社だと鹿、虚空蔵菩薩だと鰻など。だから眷族が本尊と同一視されたのかとも思ったのだが…ま、当たらずしも遠からず、というところだろうか?

●稲荷は狐ではない

結論から言うと、稲荷は狐ではない。やはり狐は稲荷大神の眷族に過ぎないそうだ。伏見稲荷のHPにちゃんと書いてあった。しかし、稲荷と狐の同一視は非常に古くから起きている。それには理由が三つほどあるらしい。 インターネットで調べただけなので、ミケツカミ以外の説は定説ではないかも知れないが…。ちなみに、ダキニ天は密教の神様で超人的な力を持つ羅刹の一種だそうだ。また、「三狐神(ミケツカミ)」とは天狐、地狐、人狐を指し、熊野の阿須賀(アスカ)神社等に祭られている。ダジャレで信仰が起きるというのも、現代人の感覚では理解できないが、古代の日本人は音が通じれば意味も通じると考えていたようだ。言霊信仰の一種なのだろうか。

●稲荷の祭神とウカノミタマ

稲荷は狐ではない。音が通じることから狐に付会されたに過ぎない。では、狐に付会される前の稲荷とはどんな神様だったのだろう? 実はこれはかなり大きな問題のようで、伏見稲荷のHPでもストレートには答えていない。また、百科事典などを調べても明確に書いているものは見つからなかった。文献によって微妙にニュアンスが異なっている。この問題を考えるには、まず稲荷神社の祭神を確認する必要があるだろう。

ということで、調べてみたら稲荷社にはウカノミタマ、サタヒコ、オオミヤノメ、タナカノカミ、シノカミの五柱の神様が祀られていることがわかった。その中心は食物と豊穣の神であるウカノミタマ。他の四柱の神々も、概ね稲作や豊穣と関係のある神らしい。ここでは主祭神であるウカノミタマについて少し調べてみよう。

ウカノミタマは、古代日本神話に登場する穀物と豊穣の神様で、『古事記』ではスサノオとクシナダ姫との間に生まれたことになっている。クシナダが「クシ・イナダ」(奇し稲田)であるならば、両神の交合から生まれた神が穀物と豊穣を司るのは自然なことだろう(スサノオはむしろ田を荒らす神として性格を持っているのだが…)。

ただし、ウカノミタマはウケモチノカミ、ミケツカミ、オオゲツヒメなどと同一視されることがある。これらはそれぞれ別の系譜を持つ神々であるが、食物と豊穣を司るという点で共通している。ウカノミタマをオオゲツヒメの子供とする説もどこかで読んだような気がする(出典は失念したが…)。

  ちなみに、ウケモチとオオゲツヒメはハイヌベレ型の説話(女神の死と穀物の起源)を持つ。『日本書紀』ではツクヨミ−ウケモチノカミ、『古事記』ではスサノオ−オオゲツヒメの間で、ほぼ同じような説話が見られる。ただし、『古事記』の場合は、スサノオのタカマガハラ追放からヤマタノオロチ説話の間に唐突に挟み込まれている。これに対して、『書紀』におけるこのエピソードは、三貴神が生まれた直後に語られる、穀物起源と昼夜の分離の起源を同時に説明するもの。やや冗漫な気はするが、脈絡は整っている。どちらかが他方を真似たと考えるならば、原典はツクヨミ−ウケモチのような気がする。

いずれにしろ、稲荷の祭神は日本古代の神話に起源を持つ豊穣神・食物神である。そもそも、「稲荷(イナリ)」という名前自体が「イナ・ナリ」で稲作と非常に深い関係がある。となると、「稲荷信仰はウカノミタマを主神とする稲作に対する信仰だ」という解釈が成り立つし、事実「広辞苑」の説明なんかもそういうふうに取れる。ところが、伏見稲荷のHPの説明はこうした解釈とは大きく異なっている。同HPによれば、五柱の祭神は「稲荷大神の神徳の神名化に過ぎない」というのだ。

●神と属性

つまり、日本にはそもそも稲作や食物に対する信仰があり、それを象徴する神としてウカノミタマが居て、そのウカノミタマを祭ったのが稲荷神社だ−−という解釈は間違いなのだ。では、どんな解釈が正しいのかと言うと……「稲荷大神」という偉大な神様が別に居て、その神徳(属性)を表現するために、五柱の神々を祭っているに過ぎない。稲作や食物は稲荷大神の属性かも知れないが、稲荷大神の本質ではない。

たとえば、ギリシア神話の太陽神アポロンは医学や音楽の神でもあるが、医学や音楽がアポロンの本質ではない。いわんや「太陽神」という属性はヘリオスを吸収した結果にすぎず、アポロンの本質とはまったく異なる。アポロンの本質は「光明によってイメージされる高貴で聡明で力強い青年神」である。同じように稲荷大神も本質において「強い神」であり、稲作や食物はその属性に過ぎない、と解釈するのが正しいような気がする。

神話が語られ、系譜が作られると「〜の神」といった、自然現象や文化行為をそのまま神格化した神様がゾロゾロ現れるので、神とは属性から作られるものだと思われがちだが、神の原初の形態は「なんだかわからない恐ろしいもの」なのだ。祟るものであり、恐いものであり、畏れるべきものであり、ただそれだけのものなのである。有力な神は、最初から世界を構成するパーツとして構想されたものではない。信仰を集める過程で属性が付与され、結果的に世界秩序の中に位置付けられたに存在にすぎない(たとえば、菅原道真がその典型)。

もちろん、どうしてもウカノミタマにこだわりたいと考える人もいるようで、ある百科事典では「稲荷大神としてウカノミタマを祭る」というような表現をしていた。つまり、稲荷大神は役職名で、ウカノミタマがその役についていると解釈するわけだ。「祭神」を「属性」として捉えるよりは自然だが、これも伏見稲荷の公式見解とはかなり異なっているように思う。やはり、稲荷大神は五祭神を超越した独立神と考えるべきだろう。

(まだまだ続く(^^ゞ)   

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