(2002.08.07/2004.01.08upd)

荘子(荘周)

目下、私の中で最もコアになっている思想書。いろいろと考えていることがあるけど、その中からぽつぽつと拾って行こう。将来的には、これで一つ作品でも作るつもり。死ぬまでに何とか…。

そうそう、こないだ放送大学で「老荘思想」の講義を聞いてたんだけど、やっぱプロの学者は読みの深さが全然違いますなあ。ただ、素人考えながら、過乗な読み込みは本質を見えにくくするような気もする。『荘子』はパズルでも暗号でもないのだから、まずはフツーに読むべきじゃないのかなあ。書いてあることと言いたいことは必ずしも一致しないのだから、重箱の隅をつつくような読み方は誤解を産む危険性があるんじゃないの?…てっとことは老子も荘子も言ってると思うけどね。こういう読み方してるから、『古事記』の中に妖怪を呼び出す呪文が隠されているとかいう人が出てくるのだ(…そりゃ稗田礼二郎だ(^_^;)。

●「本当の」荘子 (2004.01.08)

真理というのは絶対的なものではない。主観・客観ということとはちょっと違う。古い言葉でいえばまさにパラダイムつ〜もんで、そのパラダイムの中では十分に客観的であっても、別のパラダイムに立脚すれば、まったく別の真理が出て来る。

現在の正当的なアカデミズムに立脚して荘子を読めば、思想的な真理が出て来るが、道教のパラダイムに立脚して荘子を読めば、呪術的な真理が出て来る。正しいとか間違っているとかいう問題じゃない。ただ、私にとって呪術的な真理は無価値であり、荘子は思想としてしか意味を持たない。

じゃあ、「本当の荘子」はどうだったのかと言うと……。これは非常に難しい。まず、確実に『荘子』は複数の作者の産物であり、時代を経て変形もしている。また、たとえ一人の人間が書いた、そのままのテクストが存在しても、人間というのはこれまたそれほど統一性のある存在じゃない。矛盾するいくつかの要素が併存することは不可避的。おまけに、現在の学術的なパラダイムは当時の中国にはなかった。……たぶん、なかったんじゃなかったかと思う。『論衡』が逆説的にそれを立証している。

結局、どうほじくって、どう読み解くのかは読み手の責任なんだろう。わたしゃ別段学者でも何でもないので、自分の解釈が正当的でなくても構わない。ただ、書物と言うのは、読み込んでいくと、書き手の人となりに触れるような感覚というか、妙な一体感を感じる事がある。言辞の矛盾や限界を超えて「わかる」という感覚。『荘子』でも、そこに達するのが最大の目標。

何か変に宗教的で、私自身の矛盾を露呈している気がするが、まあそういうもんだ。荘子もそういう趣旨のことを言ってるしね。

●道家 (2003.11.08)

陶淵明は基本的に儒家であったし、道教(天師道)をひどく嫌っていた。しかし、その奇矯とも言える生活態度は竹林の七賢にも似て、道家的なイメージが強い。しかし、これは陶淵明の矛盾というより、日本人の道家観・道教観の誤解による。

そもそも、六朝時代に「道家」は存在したのだろうか?何晏とか王弼とか?どっちも六朝よりは少し前だけど…、彼らは「道家」なんだろうか?「道家」の定義って、難しいよね。職業でも身分でもない…。思想家とは言っても、儒家や法家のように自説を持って権力に近づくのは、むしろ邪道。そういう「道家」がたくさんいたのも事実だろうが。

「道家」というのは「権力に背を向ける態度」のことかも知れない。少なくとも、私はかなりの部分、そういうイメージで見てるな。あと、「浮世離れした妄想に没頭していても衣食住に困らない閑人」というのも「道家」的だなあ…。

荘子の言うことなんて絶対にまともな社会人の台詞じゃないもん。もっとも、荘子が裕福で困っていなかったかというと、実は全然そうではなく、むしろ、切羽詰まったところでそこまで諦観したから凄いのである。しかし、後代の「道家」はどうか?なんちゃって(^_^; だいたい、貴族とか学者の家柄とか、要するにハイソサエティに属する連中が荘子にかぶれるわけじゃない。そうなると、鼻持ちならない衒学趣味に陥る訳で、だいたい退廃的になるか神秘主義に走るか……あのな〜、他人の汗の上に胡座かいている連中が荘子を語るなって〜の! 彼らが道家思想のネガティブな面を強調しちゃうから魯迅とかにクソミソに書かれるわけで……絶対、魯迅の荘子のイメージは、役立たずのインテリだもん。

だから、一口に「荘子」と言っても、実にいろいろな異質なイメージが混じっている。

@原「荘子」(内編の内容に忠実な思想)
A荘子学派(外編・雑編の一部のように権力指向が強く変質したもの)
B反儒教の象徴(竹林の七賢に代表される礼教への反発)
C玄学(インテリ貴族の神秘主義趣味)
D道教(迷信的・呪術的な現世利益)
E運命論(中国の大衆に蔓延していた敗北主義)

これらを判然と区別するのは難しいが、そのときの「荘子」が何を指すのかはよく考える必要があるな。魯迅の荘子観はE。当時の時代状況を考えると、徹底的に否定しなければならなかった旧弊の象徴だったのだろう。

●道教史メモ (2003.08.05)

簡単なまとめ。ネタ本は『道教の神々』(窪徳忠)。でも、この本を全面的に信用するのはちと怖いな。たとえば、許遜の項では大将軍王敦の乱が劉宋のことだと書いてあるが、実際には東晋のはじめの事件で100年くらい違ってるし(そういえば、『道教大事典』でこの窪先生の許遜の記述が引用されていたが、その引用部分から王敦に関する記述は抜けていたなあ…気が付いたんだろうね、引用者が)。それはさておき…

教団という形で確認されているのは、後漢末の太平道教団と五斗道米教団、いずれも呪術による病気治療が中心で、信徒間の相互扶助や善行の勧めなども特徴。太平道教団は黄巾の乱を起こしたあと制圧されて消える。五斗米道教団の方は曹操に降伏しながらも後に伝える者がいて、天師道、正一教へと発展していく。

六朝時代になると、五斗米道が江南に渡って天師道となり多くの信者を集めるが、怪しげな秘儀や教団幹部の腐敗などの問題も顕在化してきた。特に、組織化・理論化された仏教の興隆によって、呪術から抜け出せない道教は程度の低い宗教とみなされるようになった。また、天師道による孫恩の乱という大農民反乱も起き、治安上の懸念も再燃した。

これに対して、二つの運動が起こった。一つは、北魏(北朝)の寇兼之の新天師道で、従来の天師道からいかがわしい要素を排して、きちんとした戒律を持ち、体制に協力的な道教を作り上げた。少なくとも、ここで一つ道教は大きく変化している。ただし、この天師道は寇兼之のあとを継ぐものがなかったようで絶えているらしい。

また、南朝・劉宋では、茅山道の陸修静が道教経典の編纂で大きな業績を上げた。これも、道教史においては極めて重要なことで、ここに致って、はじめて道教に経典らしい経典が揃い、宗教の体裁として仏教に対抗できるレベルになった。また、内容的にも儒教の忠孝や仏教の慈悲・因果を真似た教義を説くようになった。そういう意味では、それ以前の道教系教団の方がより純粋に道教的と言えなくもない。(ちなみに、茅山道の系譜は魏華存→陸修静→陶弘景;現在は正一教に吸収されているらしい)

もう二つ六朝期で重要なのは、葛洪の抱朴子に代表される神仙思想と、荘子・仏教をないまぜにした玄学のブーム。この辺は不勉強でよくわからないのだが、それまでの道教は必ずしも神仙思想とは密接な関係を持っていなかったが、このころから急速に神仙思想に接近したような気がする。

もちろん、五斗米道でも天師道でも、病気治療などのために超自然的な力に頼ったり、開祖が神仙でから道を授かったということはあった。道教の源流が神仙思想であったことは否定しない。が、凡人が修行によって神仙になれる、というのは中心的な命題ではなかっただろう。修行によって仙人になることが、道教の一つの重要なテーマとなったのは、抱朴子を境にしているように感じられる。

玄学の方はさらによくわからない。ただ、老子ではなく、むしろ荘子の方が中心であった点に非常に興味を引かれる。そう言えば、王国宝の父親が『廃荘論』を書いてるんだっけ? また、清談にうつつをぬかしていた貴族連中が、同時に天師道の熱心な信者であったことも考え合わせると、相当ねじれたブームであったような気がする。学者でもない人々の間で『荘子』が『老子』と同格、もしくはそれ以上に扱われるのは極めて異例ではないか? それとも玄学の時代というのは、みんな学者を気取っていたのかね? どっちかというと宗教的・神秘主義的な色彩が濃くて、理性的な思索は少なかったように思うのだが。

唐代・五代は不勉強なので(当面興味の対象外(^^ゞ)すっとばして、いきなり北宋に入ると、五斗米道系に対抗する有力な道教である全真教が成立する。全真教の成立には呂洞賓(あれ?こんな字だっけ?)が重要な役割を持つのだが(教団自体は王重陽と弟子の馬丹陽らが作った)、それはひとまずおいて、全真教は儒道仏三教同源の教えを持っていたのが特徴的。

…そうか、三教全部が真実を述べているから「全真教」で、五斗米道だけが唯一正しい道教だから「正一教」か……ホントかな?

道教に限った事ではなく、中国には歴史に培われた普遍的な信仰や道徳があり、何何教と名乗ったところで、その普遍的な価値観に反するわけにはいかない。だから、どんな宗教でも教えは自然と似通ったものにならざるを得ない。逆に言えば、民衆の信仰心(つ〜よりも呪術的傾向)というのは、個々の宗教よりも遥かに大きく、どんな宗教でも民衆の信仰の中に飲み込まれざるをえないのだろう。そういや、中国の舟山島を旅行したときに、仏寺に紙銭を燃やす炉(金亭って言うのかな?)があったのには驚いた。何でも、元々はなかったんだが、信者が燃やしたがるので作ったそうだ(^_^;

●荘子メモ (2003.07.23)

一般的に、宗教は、@死後の世界を説明することによって、A不条理な現実の帳尻合せをして、B社会の倫理構造の維持に勤めるもの(私の勝手な定義)。しかし、道教はこの定義からややズレているような気がする。道教にも死後の世界はあるが、地獄や天上界の思想は仏教の影響を強く受けたものだろう。豊都に代表される現実のコピーのような「あの世」の方が、漢民族のよりネイティブな冥土観のような気がする。だから、道教では、大衆に倫理を強制する道具として「死後の救済」ではなく、「現世利益や子孫の繁栄」のようにより直接的な願望を利用している(祀を絶やさないことによって、死後も“餓えない”ようにするというのも、仏教やキリスト教に比べればかなり直接的な願望だと思われる)。

「道教」は呪術によって現世利益(長生、健康、富貴など)を得ようとする民間信仰を、ある程度組織化したもの。ただし、善行の勧めや悪行の抑制のために、呪術の中に道徳律を組み込んでいる。「呪術、現世利益、倫理」が道教の三大要素で、前二者が道教と他の宗教とを峻別する特徴だと思われる。以上が私が勝手に考えた「道教」の定義。いわゆる宗教とはかなり趣を異にしているように感じられるし、基本的に道家思想とも関係ない。もっとも、他宗教にも呪術や現世利益の要素はあるし、「道家思想」なるものもどのように定義するかにもよるのだが…。程度問題と言われればそれまで。

原・荘子は極限の自由を求める極めてラディカルな思想。富貴や名誉はおろか、長生願望や道徳、あるいは知恵や善悪の区別さえも人の本来の姿を損なうものとして排している。また、死を自然なものと考え、長生願望を否定する姿は、明らかに「道教」とは相容れない。「道家」という言葉には、仙人然とした隠者のイメージが付いて回るが、原・荘子の思想内容に忠実になれば、不具者、乞食、無能者(これらを列記することの問題はひとまずおくとして)こそ、「道」の体得者のイメージに近いものとなる。真の自由を得た者は、経済的に困窮した上に他人から蔑まれる存在とならざるを得ない。

荘子の説話の中には、そうした無能者が他人からひどく慕われ愛される話もあるが、どう考えても現実にはありえない。ありえない寓話で荘子が何を言わんとしていのか、それを考えるべきだろう。さらに言えば、そうまでして極限的な自由を主張するのはなぜだろうか? 一つは、戦国時代という時代背景。

秩序崩壊と下克上の時代、それは要するに競争社会。「競って勝たなければ幸福になれない」という弱肉強食時代には、一人の勝者の陰に無数の敗者がいる。あなたも私も敗者になる確率の方がずっと高いのだ。だったら、その枠組みから逃げ出してしまおうじゃないか。強者に食われるのがいやなら、食う気も起こさせないような存在になればよい。無論、そうなるには世俗的な幸福は捨てざるを得ないだろうが…。すべての執着は束縛であり、そこから自由になることによってのみ、弱者は真の勝者となる。

一般的なイメージでは、荘子は現実離れした市井のインテリのように思われがちだが、原・荘子の思想は明らかにそんなのんびりしたものではない。弱者としての自己存在が、冷酷で圧倒的な現実とギリギリの線で切り結ぶために必死で作り上げた実践哲学、思想の刃とでも呼ぶべきものだろう。

もちろん、のちの荘子学派の主張はそこまでラディカルではない。簡単に言えば、「道=かくあるものをかくあらしめている根本原理→存在の本来的な性質」を重視し、人に礼を強要したり、賞罰によって制御しない方が国はよく治まる、といういささか卑小な統治論に堕している。これはむしろ老子に近い。学派として存在するには、権力者に登用されなければならないからだろう。だが、そもそも権力に近づくことを何より嫌った荘子にしてみれば、これは思想の変質・変節とでも呼ぶべきものに違いない。

六朝期の玄学ブームの中で、荘子がどのように受容されたかはまた興味深い点だが、それについてはまだ勉強不足で何も言えない。しかし、玄学は所詮貴族の遊び、荘子の持つラディカルさがどの程度理解されていたか…

●時代で読む

これは荘子に限らず、あらゆる思想書に言えること。思想書は文字だけではなく、成立背景を考慮に入れて読まないと往々にして誤謬に陥る。そして、曲解が定説となり誤ったイメージが定着してしまう。その良い例が孔子だが、その話はまた別のところで。荘子にしても、隠遁主義、敗北主義、運命論者、退嬰的、現実逃避というイメージは誤ったものだ。しかし、多くの文人たちにそうしたイメージを植え付けてしまったことも事実。人は「読みたいようにしか読まない」。だから、隠遁とか仙道とかを望んでいた連中が、荘子をそういうふうに読み、そうしたイメージを作り上げてしまったのだ。

もちろん、そうした傾向が荘子の後継者(外編・雑編の作者)や荘子自身にあったことも否定はできない。しかし、荘子の根本にあるのは「ふてぶてしさ」「図太さ」と言ってもよいものだと思う。運命を受け入れる――というか、受け入れざるを得ない運命を前にして、自分自身の内的な平衡をどのように保って行くか、を説いたもののように見える。北冥に魚があっても、午睡で蝶に変身しても、常に荘子の関心は戦国時代の没落貴族が毎日直面していた切実な問題にあったように感じられる。

●逍遥遊篇

これは全体の前書きと言うか、作者の基本姿勢を述べた編。

知には、目前の実利を追う小さな知もあれば、実利とは迂遠な大きな知もあるが、荘子が述べようとしているのは大きな知について。小人物には大きな知が理解できずに嘲ったり、実利がないと言って馬鹿にするが、そんなにコセコセせずゆったりのんびりできることに意味を見出せばいいじゃないか。――まあ、ここで述べていること自体はそれほど奇異なことじゃない。宅建の問題集より哲学書を読む方がココロが豊かになるよ、ってことだな。でも考えるべき点が二つある。

一つは、現在ではさして奇異とも思えないことを、なぜ一編掛けて力説する必要があったのか? 答えは、当時は実利を伴わない知がとてつもなく奇異なものだったから。考えてみれば、諸子百家は遊説して権力者に召し抱えられることが目的だったのだから、実利から遠い空論では相手にされなかっただろう。しかし、荘子はあえて空論(?)の道を選んだわけだ。

もう一つは、じゃあ「大きな知」って何なのよ、ってこと。これは以降の編で詳しく述べることになるのだが、この編だけでは馬鹿には見えない王様の服みたいで、何ともウソ臭い。しかし、ちょっとだけ基本的なことが述べられている。それは、自己の価値観を確立して世俗の毀誉褒貶から超然としている、ということ。これはかなり重要なテーゼなんではないか。

●斉物論篇

内篇の中核となる編だが、具体例や寓話も十分ではなく、かなり抽象的でわかり難い。単純な相対主義ではないのだが、論の勘所を言葉で表現するのはかなり難しい。

万物斉同の立場として@物は存在しない(無)、A存在はするが区別はない、B区別はあるが価値として等しい、があり、三つとも真理であるけれど、ここではBの立場=価値として等価であることに主眼が置かれている。@とAはあまりに宗教的すぎて言葉で表現するのは難しいのかもしれないなあ。

では、すべてのものが価値として等価とはどういうことか? これも文字通りの意味ではないようだ。

@大前提として自明の善悪は存在する。これは議論の余地はなく、万人が自然にそう判断するもの。人を殺してはいけないとか、健康は大切だ、の類。
A問題は人によって善悪の判断が別れるもの。儒家と墨家の議論など。これがどっちの言い分でも同じだと言っている。

人のさかしらで善悪や是否の議論をかき混ぜてみても、所詮は自然にありきたりの判断に落着くものだ。そもそも議論になるような問題に、正しい判断を下すなど無理(あるいは無意味)だ。したがって、良し悪しの区別を付けること自体が愚かしいことだ――こういう書き方をすると、存外つまらん話なんでがっかりするんだが、どうもそういうことらしい。「朝三暮四」はまさにこの典型の寓話だろう。結局同じことで怒ったり喜んだりしているのだから。こう考えると「斉物-論」ではなく、「斉-物論」ではないかという説にも何となく共感できる。

ただね、「胡蝶の夢」はそういう論には収まりきらない。それに、その程度の話なら、こんな大風呂敷を広げなくてもよさそうなものだからね。で、彼我の対立を超越した境地、すなわち「道枢」についても述べているようなのだが、これがどうもよくわからない。ともかく、この編はちょっと読むと議論のテクニックのような感じがするのだが、その根底にあるのは、より根本的な世界のありかた。万物を斉しく見て、自然と体得されるものに身を任せると言う境地。何か、こう、言葉ではわかったようなわからんような……、「あ、これだ!」てのがないんだよなあ。議論がくっつかない…。

斉物論を考える時に、どんな絵を描くか?

功名や富貴や名声、よく言えば理想のためにカツカツとしながら生きている人間――そういう連中は荘子の眼前にゴマンといただろう。成功して増長してるヤツも、失敗して消沈しているヤツもいただろう。そのどちらもが荘子の目からはくだらない人間にしか見えなかったに違いない。くだらないことで競争して、くだらない理由で勝って、くだらない傲慢さを振りかざしている、ああ何てくだらない人間なんだ。「その向こう側」に行ってしまった荘子は、たぶん、そんな感慨を持ちながらこの斉物論を書いたのではないか? 「愚かな争いはやめなさい、どっちも同じようにくだらないんだから」。そんな感慨を催させた荘子のあり方がより重要なんだろうなあ。荘子は特定の対象を念頭に筆を進めていたような気がする。そこをもう少し掘り下げれば、いろいろ出て来るんじゃないかな。

ここからはちょっと寄り道。最近、道路公団民営化がどうのこうのと議論が喧しいが、賛成側と反対側の議論が噛み合っていないように思う。逆に言えば、議論が噛み合えば、ことの是否は自然に出て来るわな。だからこそ、議論をそらしたり論点をずらしたりして、自分の利益を守ろうと必死になる連中がいるわけだ。荘子の言いたいことも案外こんなことではないのかな。本当は、議論をまとめるのはごく簡単だろう。だが、利害を調整したり、利権亡者を政界から追出すことは簡単じゃない。中央の犠牲になってきた地方と、地方の味方のふりをして利権をしゃぶる政治屋、そして自分たちで何でも決めることができると思っている中央、こういう連中を相手にしたら、荘子の思想は役に立たない。

もう一つ、この編では「真宰」なる概念が出てくる。かくあるものをかくたらしめている根元的で姿を持たない何物か。それは非人格的な神の概念、自然の摂理のようなもの。そこまでは理解できる。これも問題はそのあとだな。たぶん、この真宰が万物斉同を支える根底なんだろうなあ。

●応帝王編

まず、主題が政治論にあることは間違いない。ただし、内容は政治の否定=無為の肯定にある。だから原・荘子的なのかと言うと、ここんところが微妙で、政治を完全に否定しているなら、こんな編はそもそも作らないだろう。純粋に無為自然を肯定するなら、無為自然を肯定する編を書けばよいわけで、何も政治を持ち出してこれ見よがしに否定する編を作る必要はない。何か権力に対して、変な色気を出しているような感じがしてならない。好きな子に意地悪をするような幼稚なイメージが付きまとう。これは、荘子の筆ではないんじゃないかなあ…

●荘子と老子 (00.08.20)

ひとくちに「老荘」と言うけれど、老子と荘子では思想内容にかなり大きな違いがある。少なくとも、『老子』という書物と『荘子』という書物の内容を比較すると、類似点よりも相違点の方が目につく。司馬遷が『史記』の中で『荘子』を『老子』の説くところを出ない、としていたのが「老荘」というイメージを決定づけたと思われるが、これはあまりに儒家的な視点での分類ではなかったか(ちなみに、「老荘」という言葉の出典は『淮南子』らしい)。

単純化して言えば、『老子』は為政者の統治ノウハウを逆説的に説いたものであり、『荘子』は逸民の生活を肯定したものだ。問題意識としては老子は儒家に近く、ある意味では儒家的統治思想を裏返したものとも言える。これに対して荘子は、陶淵明などの田園詩人や竹林の七賢などの奇矯な隠遁者に近い。統治−非統治の関係で言えば対極にある。

これもちょっと違うな…。荘子は、「隠者でござい」と言ってこれ見よがしに山に篭るようなこともあまり肯定していなかったような気がする。むしろ、市井にあれば市井の中で、山にあれば山の中で、周囲に流されずに生きることが重要なんだろう。

思想というのは時代背景を無視しては語れない。下克上の乱世において、孔子は欲望丸出しの人間に「礼」というタガをはめる事で秩序を回復しようとした(戦国の時代背景を忘れて、儒家を反動と呼んだり、道家を退嬰的と見るのはナンセンスである)。これに対して老子は、逆にタガをなくした方がより秩序のある世の中になると主張した。方法論は異なるが、意識している問題はよく似ている。どちらも政治論であり統治論のなのだ。

ところが荘子は、そうした乱世に秩序を作り出す事は不可能と見て、ひとりでさっさと逃げ出してしまった。残った俗物どもがいくら殺し合いを続けていようと、自分の知ったことではない。強いて言えば、自分と同じ隠遁の道を選ぶ者を嘉しただけだろう。

また、現在残っている書物に何が書かれているか、という問題と、その時代時代の人々がそれをどのように読んだかは、まったく別次元の話だ。極論すればアフォリズムとアイロニーでしかない『老子』はその晦渋な表現ゆえに、過乗な神秘性を付与され、老子自身も道教の最高神に神格化された。それは張魯の五斗米道教団で、老子が極めて独特な解釈をされていたことを思えば納得できるだろう。

これに対して『荘子』の華麗で雄大な文章は文人たちに愛されはしたが、それはあくまでも教養としてであり、宗教的な様相を帯びることは少なかった(例外的に南朝期の玄学の流行があったが)。『荘子』の文章は空想的ではあるが意味の明確な比喩であり、多義的な解釈の余地は少ない。怪力乱神を語っていても神秘性はないのである。老子が太上老君として極めて強い神格化をなされたのに対して、荘子も唐の玄宗の時代になって、南華真人という称号を贈られたが、一般には広まらなかった。あらゆる束縛から自由になろうとする荘子の思想は、自らの偶像化や思想の教条化を強く拒絶していたといってもよいだろう。


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