史通

(2002.02.10)

史通(劉知幾)

唐代の史書論・歴史論集。太古から唐代までの各史書の成立、特徴、欠点などを紹介し、テーマごとに比較論証している。また、歴史叙述に関する論理的な考証を行い、史書・史官の在り方を深く掘り下げて論じている。そのいずれもが非常に近代的な批判精神に貫かれているのに驚く。

著者は史官だがアウトサイダー的な文人だったようで、その性格や言動は儒教的な規範から著しく逸脱している。と言うか、儒教道徳を合理精神で煎じ詰めてしまったため、儒教規範自体を否定してしまうという自己矛盾に陥っている感がある。たとえば、孔子や左丘明の著書の欠点もズバズバ衡いている。儒教の基準から見て孔子が誤ったことをした場合、それを指摘・批判するのが儒教的か否か…。

孔子の書経や詩経の改竄・改編などに関してもかなり批判めいた筆致で解説している。聖人孔子に対してこれだから、同じ史官の司馬遷・班固などまるで敬意の対象ではない。敬って論じているのは尚書くらいのもの。それでさえ、尭・瞬の禅譲を作り事として明確に斥け、傑・紂の悪行も誇張とし、周文王・周公旦の言動を僭上としている。

ただし、その批判はしばしば揚げ足取りや瑣末的技巧論に陥ることもある。本質的な欠点と取るに足らない短所が同じウエイトで批判されているような印象を受ける。文章に重複があってくどいとか、呼び名がおかしいとか(生前に諡で呼ぶ)は、どっちでもいいことのような気もする。それと、班固の古今人表の持つ本質的な不合理さ(=人間を等級付けたがる短絡的で差別的で無価値な発想)の批判は、本質的に別次元の話しだろう。著者に取ってそれらは等しく重要な問題だったのだろうか?

もっとも、古今人表は古今人表で、時代の要請から生まれたものとも言える。単純に班固を差別主義者と決め付けるわけにはいかない。人間のランク付けの発想の根本にあるのは、身分制秩序の合理化=皇帝権力の正当化。こうした思想運動は朱子学の完成に至るまでずっと続いており、班固のパーソナリティの問題ではない。

いずれにしろ、聖人・先哲を批判することは文人として致命的だった。当然の如く、周囲の人々からは傲慢の誹りを受けた。だが、それがこれほどまでの排斥を生むものなのか? 自序は悲壮かつ壮絶。本書の批判が的を射たものかどうかは、はっきり言ってどっちでもいい。それよりも、唐代という儒教支配の時代に、あえてこうした言説をする文人が居たことに驚嘆すべきだ。

李卓吾とともに私にとって非常に重要な人物となりそうだ。

【訳書】増井経夫訳、研文出版(1981)、6000円 ※1966年に平凡社版より刊行


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