(2008.03.24)

牧野信一が嬉しいのこと

牧野信一『ゼーロン・淡雪』(岩波文庫版)。ぐぐぐ…絶版ということで、古本屋で探してプレミア付きで入手。でも、その直前に再版が決定していた。まあ、再版よりも100円高かっただけだけど、何とも…。それはともあれ、牧野信一の名前を知ったのは完全に偶然で、嫁さんの親戚のおじいさんの形見分けでいただいた本の中に入っていた『鬼涙村』を読んだのが最初。出版社は忘れたが文庫本だった。当時の記憶は定かではないのだが、けっこう気に入ったらしく、講談社文学文庫のアンケートハガキに「牧野信一を出してくれ〜」と書いて送った記憶がある。しばらくしたら本当に出してくれたので魂消たが、今は絶版のようだ。

で、何でまた読んでみようと思ったかと言うと…実は、これも放送大学の影響。最初に読んだ『鬼涙村』には『父を売る子』が入っていて、これの印象が非常に強く、そういう作家(家族と出自に拘泥する私小説作家)だと思い込んでいたんだが、どうも神髄は別のところにあるらしい、というような示唆を受けたわけ。いわゆる「ギリシャ牧野」の世界に強い魅力を感じたワケだ。実際、あの自虐的で厭らしい女々しさが、実にうまく昇華されていて、なかなかぶっとんだ。

で、まあ、素人が文学論をぶっても仕方ないので、簡単に作家と作風をまとめておくと、え〜と、生まれはどこか知らないけれど、御殿場線沿線のどっかの村らしい(ちゃんと調べて書けよ(^^;)。足柄山とか小田原とか国府津と言った地名がよく出てくる。そこそこの財産家であったが、家庭的には不幸で−−その作品を真に受けるなら−−傲慢で不細工で無教養で淫乱で主家の乗っ取りを計るようなとんでもない婢の血を引いていることになるが、そこはそれ、私小説作家=極度の露悪家というご時世の作家ですから、割り引いて考えなくてはいかん。つ〜か、この人の場合、常に不真面目で、私小説はもちろん、随筆の類でもどこまで真に受けて良いのか、ハナハダ疑問に感じる。

その後、悪辣な親戚のために、財産をごっそり掠め盗られて、ほとんど無一文になるが、早稲田在学中に文学の世界に入り、多くの才能有る人々と知り合い、自身も作家デビューを果たす。でも、初期の作品は自分の家庭の醜聞をネタにした私小説で、なんて言うのか…今から見ると、非常に「小さい」作家だというイメージが強いようだ。日本文学全集などでも、私小説作家集の隅っこの方に位置付けられているだけである。

しかし、中期から作風ががらりと変わり、前述の「ギリシャ牧野」と呼ばれるような、現実とギリシャ神話や騎士道物語が混交したような、しかし決して美しい幻想譚や快活な冒険譚などではなく、自堕落と破滅の匂いをぷんぷんさせた、乱痴気騒ぎのような作品を書き始める。従来、この時期の作品はほとんど黙殺されていたが、最近になって再評価が進んでいるようだ…というようなことを聞いたワケだ。今回読んだ岩波版の『ゼーロン・淡雪』では、表題作の『ゼーロン』や『吊籠と月光と』『酒盗人』がそれにあたる。クセが強くて多少とっつきにくいけど、確かにハマる魅力を持っている。

しかし、その後、牧野は再度私小説的な世界に帰っていく。もっとも、同じ私小説と言っても、初期の作品群とはかなり異なった作風のものになっていった。まあ、歳くったし(と言っても四十になるかならないかくらいじゃないかな?)、私小説にもカイギャク味(変換できね〜ぞ、オレの辞書)やテイカイ趣味(これもだ)が入ってきて、自分に対する適度な距離感みたいなものは感じられるけどね。…あ、これは私の個人的感想。で、多分、四十そこそこで自ら命を絶っている…らしい。このあたりもちゃんと調べちゃいないので、年齢は当てずっぽうだけど。

で、まあ、個人的には酷く気に入ったわけだ。多分ね、自己愛が強いと言うか、ほとんど自慰的な作風と言うか、そういうのを嫌う人にはどうにもならないだろうけど、個人的に強い共感を覚えるな。確かにね、自分のゾーモツをひけらかすだけの私小説はいただけないけど(自虐的な読みの楽しみは別として(^^)、そこに何かが憑依したとき、ゾーモツもまた愛すべき物語に変わるんだろうね。そうね……「距離感」と「憑依」、うん、うん、何かとてもわかる気がする。


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