(2008.03.25)
●没価値という危険性
いろんな意味で非常に面白いのが陳経済。もともと有力者のバカ息子で、西門慶の娘の婿になるが、潘金蓮と密通をして西門家を追い出されたり、女遊びで嫁さんを自殺に追い込んだりと、まったくロクなことはしない。それで乞食の親分の男妾にまでおちぶれるけれど、そうなると不思議なもので、やけに他人に親切になって病人を看病したり、人から恵まれた金で仲間に酒や肴をおごってしまう。金を恵んでくれた人は立ち直ることを期待していたんだが、どうも善意の方向が期待していたのと違うんだね。金じゃ駄目だと悟って道観に入れてくれるんだが、そうなるとそこでまた持ち前のこすっからさがムクムクと……で、羽振りのよくなった春梅と再開して、またも小悪党に早変わり。結局、くだらないいざこざでやくざに刺し殺されてしまう。決して多重人格じゃない。世の中舐めたボンボンが、状況に応じて変わって行くさまが妙にリアル。先を読む聡明さも、将来を考える慎重さもなく、現在の状況だけに流されて遊んだり、威張ったり、親切になったり。それでいて「陳経済」という統一性は決して失われていない。『金瓶梅』の特徴は、一応、勧善懲悪・因果応報の枠組を持ちながら、人間の観察や描写においては、決して「価値」を持ち込まなかったこと。呉月娘や応伯爵、王六児、秋菊などの描写を見ても、人間のモノサシに儒教を使っていない。良いも悪いもない、あるがままの人の姿を赤裸々に提示している。
儒教道徳に則った人物が酷い目にあうことも、不道徳な人間が良い思いをすることもある。かと言って、逆説を述べているのでも、逆説を合理化する詭弁を弄しているのでもない。道徳と人の運命に何の因果関係もないことを、ごく当たり前にさらりと描いている。人の運命を左右するのは善悪の区別とは無縁の人間関係なのだ。明らかに作者は価値を拒否している。この「没価値」という特徴は、当時の中国社会において「好色」以上に危険なものだったであろう。