(2004.07.02)

キッカイくんに脳味噌を殴られるのこと

実家で荷物の整理をするついでに、昔のマンガを引っ張り出して読んでいたんだが、『キッカイくん』がえらいこと面白い。面白いと言うより楽しい。冷奴とドクター・ポチが絶品である。サンコミ版を持っているのだが、残念ながら三巻と六巻(最終巻)が欠落している。これは全部読まなければ気が済まない、と…早速古本を探すことにしたのだが…

●入手困難

Yahoo!オークションで検索してみて我が目を疑った。サンコミ版でも一冊数千円、元祖のKCコミック版に至っては一冊1万数千円の値段が付いて、しかも買ってる奴がいる。オイオイ…。いくら巨匠の絶版本とは言え、このプレミアはいくらなんでも……。で、他所を探しまわって、Amazonでようやく竹書房版の1巻と4巻(最終巻)を入手できた。これは古本らしい値段だったので納得したが、この竹書房版ですら全巻揃いだとプレミアが付く。

で、読んでみて何となく理由がわかった。この内容では今後の再版は極めて難しいだろう。連載当初はいかにも楽しい作品だが、だんだんイジメのギャグが多くなってくる。永井豪のイジメは陰湿ではなく、非常に乾いた破壊的なイジメなのだが、それにしても残酷であることは間違いない。また、そのイジメの根底には弱者への差別意識がある。それは永井豪が差別意識を持っているということではなく、差別意識が充満している世の中の欺瞞を残酷な笑いで剔り出していると見る方が正しいのだろうが、世間はそこまで正しく読んではくれない。これでは出版社も手を出しにくいだろう。

●脳味噌をぶん殴られた

と言うわけで、けっこう入手が難しい作品になりつつあるのだが、作品自体のエネルギーは凄い。最後まで読んで脳味噌をハンマーでぶち殴られたような気分だ。もちろん、再読のはずだ。子供のころ、永井豪の作品は残らず読んでいたから。リアルタイムでそれを吸収したことの幸福と不幸、それは多感な時期に巨大なエネルギーに触れることができたという幸福であり、それを当たり前のように感じていたため真の凄さを実感できなかったという不幸であり、こんなものを読んで育ってしまったのだという現在の私から見た恐怖である。

『ハレンチ学園』第一部でもそうだったが、当時の永井豪はことごとく大人社会と摩擦を起こした。それは子供にスケベな物を見せるからいけないのかと思っていたが、どうも根は遥かに深かったようだ。以前何かのインタビューで「世の中が馬鹿馬鹿しく見えてしょうがなかった」と述懐しているのを読んだことがあるが、永井豪はその気分を子供向けの作品として具象化することのできる特異な才能の持ち主だった。その鬼才の脅威を大人社会は直感的に感じ取っていたのだろう。スケベとか残酷とかではない。大人社会が子供に見透かされるのを恐れた。大人社会を成り立たせている根底にクサビを打ち込まれる事を恐れた。だから叩いた。

『キッカイくん』で一番ショッキングだったのは、やはり冷奴の死だった。そもそもギャクマンガでは死は禁じ手。まして冷奴は作品世界を背負っている、絶対に死んではいけないキャラクターだった。それを実に下らない方法で殺してしまった上、ご丁寧な弔辞まで付けて笑っている。思い切り突き放されて、感情のやり場に困ってしまう。そもそも、冷奴は永井豪自身の分身ではないか…

●天才が枯れるとき…

永井豪は好きなことを描き、必然的に大人社会とぶつかり、人気とは無関係に作品の幕引きを迫られ、捨て鉢のエネルギーで暴走し始める。恐らく、この『キッカイくん』もそうではなかっただろうか? ラスト近くで、唐突に少年マガジンの編集長が泣きながら登場してくるが、単なる内輪ギャグではないだろう。出版社としては両刃の剣のような作家である。だが、こうした作家のスタンスは長くは保てない。鬱屈した感情無しに成り立たないからだ。永井豪は例外的に長く保った方だとも言えるのだが、それでも社会的に認知されたり、巨匠と呼ばれるようになってしまうと、そのエネルギーと魅力は急速に枯渇していった。

中島敦に『狐憑』という短編があるが、私は石森章太郎も松本零士も永井豪も吾妻ひでおも、結局、読者に食われてしまったのだという感を強く持つ。文字通り、骨までしゃぶられてしまったように思う。だが、こうして食われてしまった作家たちの絶頂期の何と凄かったことか…。逆に、横山光輝や藤子不二雄や諸星大二郎のように、自分との距離を正しく保った作家たちは、コンスタントな面白さを保っている反面、爆発力に欠ける。どちらが作家として幸福なのかはわからない。

ただ、忘れたころに過去のエネルギーの塊に触れると、まるで生命力が再生するような感覚をおぼえる。懐古趣味とは全然違う。この感覚は食われてしまった作家にしか出せない。


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