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音楽における絶対的要素と相対的要素

〜音色の問題をめぐって〜



 音楽を構成する要素のなかで、音色はどんな位置を占めているだろうか。

 この問題について、過去にどんな人が何を語っているかよく知らないが、 ここでは、現時点での私の考えを書きつけておきたい。 音色の位置を明らかにするためには、 どうしても他の要素についても触れざるを得ないので、 結局、私の音楽演奏観(の技術論的側面) の全体に近いものを書かなければならないだろう。 しかし、ここでの問題意識は「音色の位置」にある。 けっきょく、この点が、「シンセサイザーや自動ピアノで(つまりはMIDI シーケンスで)音楽を演奏することの成否」に深く関わってくるからである。




1 音楽を構成する要素

 音楽と言っても幅広い。ここでは、器楽曲に限り、 いちおうモーツァルトのピアノ曲を念頭に置くが、 いろいろな他の音楽についても、きっと該当する点が多いだろう。

 音楽を構成する要素として、「音色」をその一つであるとすれば、 他には何があるだろうか。私の頭に浮かぶのは「フォルム」という言葉だが、 「音楽はフォルムと音色から成り立つ」というのでは、構成要素の列挙としては 粗雑すぎるきらいがある。というか、検討して行くさいに、ちょっと不便である。

 そこで、 ここでは、「これらを足しあわせたのが音楽」という意味での構成要素ではなく、 「音楽における重要なファクター」というぐらいの意味で、次の要素を挙げる。

 (1)楽譜に書かれた音程とその長さ=音たちの組み合わせという意味でのコンポジション(楽譜に音符がどう置かれているかということ)

 (2)全体を支配する(狭い意味での)テンポ

 (3)ルバート・アゴーギクなどの「テンポの変化」

 (4)音の強さのマクロな(構成上の効果を狙った)変化=「ダイナミクス」

 (5)音の強さのミクロな(小さな音型を音楽たらしめるための)変化 (すなわちアクセント)と不可分の、音たちのまとまりの作り方 =「アーティキュレーション」

 (6)音色

 以上である。これらのファクターは、もちろんばらばらに存在するわけではなく、 相互に密接に関連しているのは言うまでもない。

 さて、以上の要素について、その「絶対性と相対性」に注意しつつ、 考えてみたい。 論述の都合上、上記の順序には必ずしもしたがわないことを先にお断りしておく。




2 楽譜は出発点である

 モーツァルトは、自分で演奏するために曲を書いた場合は、 覚え書きとしての意味でしか楽譜を書かないこともあった。 曲は、最低限のメモとそれを補完する頭の中の記憶として、 すでに(大筋は)できている。 あとは適当に即興を加えながら弾けばよい・・・という場合も あったわけである。ふつう26番と呼ばれるニ長調のピアノ協奏曲 (「戴冠式コンチェルト」)の楽譜は、そういう楽譜であって 実際に弾くべき音の一部しか書かれていないと言われる。

 しかし、オペラや管弦楽の場合は、他人が弾くものだけに、 必要な音はほぼすべてを楽譜に書いたし、 自分で弾くとは限らなかったピアノソナタの場合もだいたい同様である。 楽譜というのは非常に不完全なものではあるけれど、 後世の我々は、彼が残してくれた楽譜を手がかりとして これをどんな音楽として鳴り響かせるかを考えるしかない。

 この意味で、楽譜は出発点であり、音楽の根幹である。 ここには、どの音程の音を、どういう音価の音符として鳴らすべきかが 書きしるされているし、全体としておよそどの程度の速度で演奏すべきかも ふつうは書かれている。

 ただし、楽譜が指定している音符の長さ、 たとえば「4分音符」とか「8分音符」というのは、 「正確に」全音符の4分の1とか8分の1を期待しているとは限らない。 「符点8分+16分」などの跳ねるリズムに典型的だが、 このリズムは「3:1」(音符の数学的な価値通り)ではない (そう演奏すべきではない)場合が多い。 曲により場所により、「19:5」ぐらいであったり、「13:3」ぐらいであったり する。逆にもっと甘く、「35:13」ぐらいの場合もある。 吉田秀和先生が、「フルトベングラーは、(ブルックナーの交響曲7番第二楽章の 第192小節で)4つの8分音符に、みんな違った長さを与える」 と書いていたことがあったが、 実はそんなことは当たり前なのである(フルトベングラーがここでそれを他の人よりも大きな振幅でやったということを吉田先生は正しく指摘しているのだが)。

 「アウフタクトは長めに」 「フレーズの歌い終わりはテンポを落ち着かせて」「速い音型はより速く(ただし不自然になるほど速くなると「走ってるよ!」と叱られる)、長い音符はより長く」などは、 言わばクラシック音楽を演奏する上での常識に属することだ。 「もっと歌って弾きなさい」とピアノやバイオリンの先生が言うとき、 それは必ず「記譜通りとは違う長さで音符を弾きなさい」という要求を含んでいる。

 だから、記譜法というのがおよそ不完全な便宜的なものに過ぎず 「およその長さ」しか記載できていないものだということは、 演奏者なら誰でも知っている。 その不完全さを補うのが、音楽的常識、音楽上の素養であり、 そこに演奏者の独自の感受性が加わって、どう弾くかが決定される。 要するに演奏者の“解釈"だということになる。

 しかし、繰り返し言えば、楽譜はクラシック音楽を鳴り響かせるために ほとんど唯一の出発点となるものであって、これに対する根拠のない改変や ここからの逸脱は許されない。 その意味で、これは絶対的なものである。




3 テンポの問題

 よく「曲を演奏するときは、まずテンポを決めて」と言われる。 あるいは、音楽評論家のかたが、ある演奏を誉めるのに、「テンポがここちよい」 と言ったり、逆に、「テンポが速すぎる、遅すぎる」ということを指摘したりする。

 たしかに、故グレン・グールドがときどきやったように 普通の人と非常に違うテンポをわざと採用する場合は、 テンポの設定そのものに、非常に意識的な音楽的主張がこめられているだろう。

 このように、音楽におけるテンポというのは、演奏者が楽曲解釈において 第一に選択すべき重要な要素であるかのように考える人が多いと思う。 だが、テンポというのは、私の考えでは、意外と相対的な性格が強いものなのだ。

 たとえば、まず、「主観的なテンポ」とでも言うべきものがある。 これは、ある演奏家がさっぱり説得力のないひとりよがりなテンポ設定をしているのを非難するときにでも 使われそうな言葉だが、ここで言うのはそういう意味ではない。 字義通り、「演奏者自身が気持ちいいと感じるテンポ」というほどの意味である。

 これが、場合によっていろいろである。 高橋悠治氏は、指揮者の岩城さんとの対談で、「自分の曲を自分で演奏すると、 どうも速すぎる演奏になっちゃうようだ」という意味を語っていた。 これを読んだとき、私はちょっと不思議だった。 というのは、私の場合、「自分の曲を他人に演奏してもらうと、 思ったより速く弾かれてしまう」ことが多いのである。 ただ、そう弾かれてみると、なるほどそのテンポもいいなと思う。

 また、ピアノ曲のシーケンスを作って行っているとき、 「制作中にこれがいいと思っているテンポ」というのがある。 別に、故意に「制作のために設定したテンポ」ではない。 ほんとうに「このテンポがいい」と思って設定してシーケンスを作っているのである。 何度も何度も部分的に聴くし、できたところまでを通して聴くこともしょっちゅう行う。 それでも、「テンポはコレだ」としか思えない、最適と感じるテンポなのである。 ところが、シーケンスが一通り完成し、 数日寝かせて聴き直す(これは必ずやることにしている)と、 ことにアレグロ系の曲では、「うむ・・・これでもいいが、 もう少し速くてもいいかも知れない」と感じる。そして、乱暴なようだが、 曲のあらゆる部分のテンポ指定を、一律に何パーセントか速くしてみる。 そうすると、「ははぁ、この方が音楽が断然生き生きしてくるなぁ」と感じたりする。 むろん、一律にテンポを上げると、どうしても具合が悪いと感じる箇所もあるが、 比較的まれで、だいたいは、全体に同一の比率でテンポを上げてやることで すんでしまう。

 ついでに言うと、この現象が数次にわたって起こることがある。 つまり、一回は全体のテンポを上げて、「これでよし」と思ったのに、 また後になって、「いや、もっと速くてもいいかも?」と感じ、 その結果、さらに速いテンポを採用するに至ることがあるのだ。 こうして決まった最終的なテンポは、最初のテンポに比べて、 結果的に10%以上も変わっていることがある。 つまり、四分音符=120/分だったのが、四分音符=132/分とか、 それ以上になったりするのである。

 これは私のテンポ感覚がおかしい、 すなわち、「テンポ音痴」ででもあるのだろうか? 私はそうではないと思う。テンポというのが、 意外と相対的な性格を持っていることの表れだと思うのだ。

 これがもっと極端だったのは、 私が仲間とやっていた弦楽アンサンブルなどの場合である。 だいたいが下手くそすぎるからなのだが、 最初は恐ろしくゆっくりな、ハッキリ具合の悪いテンポで合わせてみる。 そして、そのうち、みんながよく弾けるようになって合うようになってきたら、 テンポを上げて、速く弾くようにする。 それで、「うーん、こんなに速く弾けるようになったね、これで気持ちいいね」 というテンポで弾けるようになった・・・と思っているのである。弾いているときは。 ところが、これをテープにでも録音してあとで聴いてみようものなら、 そのどうしようもない遅さ、聴いていられないようなもたもたしたテンポに 閉口することになる。これは何故か。

 私の考えは、こうである。

 演奏中は、必死で音楽的に必要なだけの表現内容を込めて弾こうとしているので、 脳をPCになぞらえれば、「演奏に対するタスク」がものすごく重くかかっている結果、 「耳から入ってくる音に対する処理速度」 がものすごく遅くなっているのではないか。 だから、弾いているときは、あの遅いテンポを、十分に生き生きした 快速なテンポと感じるのだ。 ところが、単に聴くとなると、脳のタスクは軽く、聴くだけのことをすればよい。 そうなると、処理がものすごく速くなり、「なんで次の音がまだ鳴らないんだ」と 感じる・・・つまり、テンポを遅く感じるのだと思う。

 別な例を挙げよう。ベートーベンのピアノソナタや交響曲には、 メトロノームによるテンポ表示がつけられている。 彼が若いころにはメトロノームはなかったのだが、 壮年を過ぎてこれが発明されたので、 喜んだベートーベンが、さっそく、古い作品にもメトロノーム表記を加えたのである。

 しかし、この表記を守る人はあまりいない。 というか、ソナタ全曲を弾いたピアニストで、この表記を尊重して弾いた人は 一人もいないであろう。 楽聖ベートーベンが、自分の曲を演奏すべきテンポを、あんなに明確に、 数値で示しているというのに、演奏家たちは、それを守らないのである。

 何故か?

 一つには、 「正しいテンポ一般」というのは存在しない、と音楽家たちが(賢明にも) 考えているからだろう。 テンポだけが独立して存在するわけではなく、他のすべての要素と組み合わさって 音楽が成立する。だから、ある楽曲を自分の信じる最良の演奏で再現しようというとき、 テンポはその解釈内容に応じて選択されなければならない。 つまり、ベートーベンがあのテンポを考えたのには、 そのテンポに基づく彼なりの演奏イメージがあったのだろうが、 別の演奏家が、楽譜から 別な演奏イメージを感じてしまったとすれば、 そのイメージを音に具現化させるときには、 それにふさわしいテンポが選択されなければならなくなるということだ。

 そして、もう一つは「あのテンポ指定は“主観的テンポ"で、 実際に弾くのに用いるとおかしい」と、どの演奏家もが感じるからであろう。 耳がぜんぜん聞こえなくなっていたことと関連があるのかどうか、 ベートーベンのテンポ指定はどうもおかしいのである。 それなりに納得の行くテンポが指定してある場合が多いのなら、 演奏家たちはもっとベートーベンの指定を尊重しようとしたのではなかろうか。 ところが、ベートーベンの指定はどうもおかしい、 ならば、あれは一応参考程度にして、 テンポは自分で選ぼう・・・という空気になったのではないかと 私は思う。

 では、なぜ、ベートーベンのテンポ指定はおかしいのだろうか。 ここで、さきの高橋悠治氏の「自分の曲を弾くと速すぎてしまう」という証言が 思い出される。作曲家は、自分の曲については、当然ながら誰よりも熟知していて、 曲に対する脳の処理速度がむちゃくちゃに速いのだと思う。 だから、「これで十分に必要なことは伝わる」と感じるテンポで弾くと、 非常に速いテンポを選んでしまうのだろう。 まして、ベートーベンは、物理的に鳴っている音を聴くことはもはやできず、 彼の頭の中だけで音が鳴っていたのである。 処理速度は、耳という媒体を経ていないだけに、一層速かったことだろう。 耳で聴いてから処理するのは、言わばPCでインターネット回線を通じて ブラウザにWEBサイトを読み込むようなもので、 ベートーベンのように頭の中だけで鳴らしてみるのは、 ハードディスクにあるコンテンツをブラウザに読み込むようなものだ、 とでもたとえることが可能かも知れない。 そういうわけで、ベートーベンの、ことにアレグロ(快速なテンポの曲) におけるテンポ指定は、だいたいにおいて、 とてつもなく速い、速すぎる結果となったのだろうと私は想像する。

 しかし、ならば、どうして私の作曲においては、 自分が考えているテンポの方が むしろ遅いことが多いのだろうか。 これはちょっと謎なのだが、思うに、私の作曲方法が、非常に「手探り」である ことから来ているのではなかろうか。 というのも、私は恐ろしく遅筆である。というか、私にとって作曲とは、 「次にどんな音が来るべきか」を苦しんで苦しんでやっと見つけていく、 という作業なのである。これはつまり才能が乏しいからであろう。 だから、やっと見つけた一つ一つの音がすごくいとおしく、 そう簡単に弾き飛ばしたくないのである。 (たいした音たちではないのだが、出来の悪い子ほどかわいいとか言うではないか。) それで、自分で考えているテンポは遅くなるのだろうと思う。

 弾いてくれる人は、もっと冷たく、出来上がった楽譜から出発するので、 楽譜から感じられるメッセージを音にしていく。 だから、速いテンポも選びやすい。 実際、弾かれてみると、「なるほど、そういうテンポ、いいなぁ」と 私が思ってしまうのも、かれらが十分に正しいテンポを選び、 そのテンポでこそ表現される音楽的内容を音にしてくれているからである。

 ベートーベンは、モーツァルトなどと比べて遅筆であったかのように言われるし、 実際、作品数もモーツァルトに比べてずいぶん少ないが、それでも、 その速筆ぶりは私の比ではない。 彼の場合は、音を探って行ってはいない。たくさんの候補が思い浮かび、 その中から最良のものを選んでいく吟味に時間がかかっただけだと思う。 故レナード・バーンスタインが、「運命」交響曲についてスケッチを分析した おもしろい試みがある。あれを見ても、確定された作品の決定稿に至るまでに、 実に豊富な楽想が楽聖の頭に浮かび、僕らのような凡庸な人間であれば 「これだっ」と思って当然採用するような楽想が、 数多く「こんなの駄目」と捨てられて、「もっといい楽想」に置き換えられて、 今日残った姿の曲が仕上げられていったことがよくわかるのである。

 この意味で、ベートーベンは「努力する天才」の典型だった。 ゲーテが言ったという「天才とは努力し得る才能である」という言葉を、 彼ほどよく体現している人はいない。 努力は凡人もするけれど、 ベートーベンの凄いところは、 凡人なら満足してしまうような多数の80点の楽想に、 すべて「駄目出し」をして、90点以上の楽想が見つかるまで 妥協しなかったところにある。 僕みたいに、40点の楽想すらなかなか見つからず、 うんうん言って40点、45点ぐらいの楽想がようやくのことで見つかったら、 それでもう大喜びして書きつけていく人間とはまったく格が違うのである。 ついでに言えば、モーツァルトやシューベルトは、90点以上の楽想を じつに楽々と見つけられた、とんでもない天才である。

 少し脱線してしまったが、 まぁそういうわけで、私が、天才作曲家たちと逆に 自分の曲について演奏家たちが考えるよりもむしろ遅いテンポを 「主観的テンポ」として想定する結果となるのは、 作曲の才能が極端に乏しいからだということで、ここでは置いておく。

 このように、テンポというのは、実はかなり相対的な性格の強いもので、 ある楽曲に対する「これが唯一正しいテンポだ」などと言えるテンポは 存在しないと言ってもよい。 かなりいろいろなテンポが可能であり、 それに応じて、たとえばゆっくり目のテンポを選んで、 細部におけるキメの細かい表現を実現したり、 逆に速い目のテンポを選ぶことで、 大味ではあるが勢いと曲全体の大づかみなフォルムがくっきりと浮かび上がる 演奏を行うこともできる。そのように、表現内容とテンポは密接な関係にある。 曲のどの美点をとくに強調するかに応じて、 いろいろなテンポがあり得るのである。

 グールドが、ベートーベンの「皇帝協奏曲」を演奏するとき、 指揮者のストコフスキーに「二つのテンポ」を示して、どっちにするか聞いた という話は有名だ。 グールドにとって、どちらも別々な狙いを持つ、有力なテンポだったのだろう。 「遅い方」をストコフスキーは選び、その結果、一枚のレコードが成立した。 しかし、「速い方」でやったなら、 グールドはまた別な美点のある演奏を行ったことだろう。

 モーツァルトの「29番・イ長調」の交響曲についても触れておこう。 この曲の第一楽章の演奏には、 私の考えでは、「二分の二拍子派」と「四分の四拍子派」 がある。奇怪なことに、ベーレンライター社のスコアでは二分の二拍子、 オイレンブルグ社のスコアでは四分の四拍子になっているのである。 その結果、どちらの表記を信じるかによって、 2倍ものテンポの差が生じる。

 2倍である! これはまったく別世界であって、 とても同じ曲とは思えないぐらい違うテンポによる演奏が、 CDショップの棚に併存しているのである。

 と言っても、私は4つほどの演奏しか知らない。 指揮者だけを言うと、カール・ベーム、オトマール・スウィトナー、 ブルーノ・ワルター、ネヴィル・マリナー。 前二者が遅い方(すなわち四分の四拍子)、後の二者が速い方(二分の二拍子)を 採用している。聞くところによると、カラヤンも遅い方らしい。

 上記の演奏は、いずれも名演である。 遅いテンポ(4拍子としてすら遅い!) を採用したベーム/ベルリンフィルハーモニーの演奏は、 典雅な気品と細やかな味わいに富み、聴く者をうっとりさせずにおかない。 他方、速いテンポを採用したマリナーの演奏は、 切れ味が鋭く実に爽快で、解放感にあふれている。 同じ楽譜から、まったく違うのにどちらも素晴らしい演奏を実現しているのである。 スウィトナーやワルターの演奏も、それぞれ立派なものであった。

 楽譜の表記について言うと、たぶん「速い方」が正解なのだろうと思う。 というのは、この曲の拍子感は、やっぱり二拍子だと思うからだ。 ベームの演奏は、二拍子だとすれば、アレグロどころか、 もう完全に「アンダンテ」である。 しかし、ベームはワルターの演奏その他からこの曲を二拍子と解釈する立場の 楽譜や演奏が存在することは熟知していながら、あえて、 「自筆がどうなっていようとこれは四拍子と解釈してゆったりと演奏することで 最高の魅力が発揮される」と信じて演奏したに違いないのである。

 ベームはテンポについて柔軟な考えを持っていた演奏家だったと思う。 晩年にモーツァルトのオペラを演奏したときは、 歌手が気の毒になるぐらい、ものすごいたっぷりした遅いテンポを採用していた。 しかし、そのテンポだからこそ実現できる、 細やかな表現は言語に絶する美しさを放っていた。 彼の場合、晩年に至って細部に対する演奏解釈がとことん精密なものになった結果、 それをすべて表現するために、あのテンポが選択されるようになったのだろう。 そして、あの、吉田先生の言葉を借りれば「嫌が上にもゆっくりと取ったテンポ」 に乗って、はたして今後これを越える演奏が現れるのかと思われるような、 質の高い演奏が実現されていた。

 だから、あのテンポに誰も文句をつけることはできない。 しかし、何という遅さであることだろう。 29番交響曲の録音といい、 晩年のオペラ演奏といい、グールドもびっくりの非常識な遅さである。 しかし、その説得力にもまたびっくりなのである。

 以上、いろいろな例を挙げたが、要するに、 クラシック音楽において「テンポ」というのは 楽曲解釈において独立して決定できるような要素ではなく、 かなりの幅のある相対的なものであることを示したつもりである。




3 ダイナミクスと、アーティキュレーション、ルバート、アゴーギク

 外国語ばっかりが題名に並んで申し訳ないが、 これらにかわるいい日本語を知らないので、お許し願いたい。

 ダイナミクスとは、要するに強弱の変化のことである。 だから広義には、音の強さの違いについてのすべてを含む意味になるのだが、 普通は、楽節に適切な表情を与えるための小さなアクセントづけとは区別している。

 たとえば・・・モーツァルトのK284cのソナタの冒頭では、フォルテ(強い音) で和音が鳴らされ、 続いてフォルテのままで十六分音符8つと四分音符から成るテーマが示される。 そのあと、今度はピアノ(弱い音)で八分音符4つ、四分音符二つ、十六分音符4つ、 八分音符二つ、前打音つきの八分音符から成る「合いの手」が弾かれる。 この場合、モーツァルトがちゃんと最初に「フォルテ」を書き、そのあと「ピアノ」 と書いているのだが、そういうふうに書いているかどうかは別として、 「最初の一群の音たちは強く」「次の一群の音たちは弱く」という扱いにするのが、 ダイナミクスである。 クラシックの音楽では、ポップスに比べ、ダイナミクスははるかに重要である。 ポップスの曲をテープレコーダーに録音すると、音量の針のふれかたは だいたい一曲のどこを取っても同じぐらいである場合が多いが、 クラシックでは、その変化の幅が非常に大きい場合が多い。 ブルックナーの交響曲などは、とくにその点で際立っている。 実際、演奏会場で聴くと、 耳を澄まさないと聞こえないようなささやきのような音量の部分もあれば、 耳をつんざかんばかりで体全体に振動が伝わるような、巨大な音量の部分もあるのだ。

 ダイナミクスは、主として、曲全体の構造や、 比較的長い部分どうしの間におけるコントラストなどに関連しているものである。

 さて、最初の強い音で弾く8つの十六分音符のうち、1つ目と5つ目は、 拍の頭の音なので、他の音に比べていちだんと強い音で弾かれなければならない。 また、この音型は、私の考えでは、すべて次の音につなげて(レガートに) 弾かれなければならない。こうやって、ひとまとまりであることを強調しつつ、 生き生きした音の群れにまとめる。ところが、次の弱く弾く八分音符は、 どれもごく短い音で(すなわちスタカートで)弾かなければならず、 続く二つの四分音符は、最初の方をやや強く、 そして次の四分音符になめらかに続くようにし、 あとの方の四分音符はやや短く切って、この二つの音の一体感を出す。

 このような処理を、「アーティキュレーション」という。 アーティキュレーションとは、 音のつながり具合(つまりは次の音が鳴るまでの間における、響きが続く長さ) や微妙な強さの違いを加減して、 いくつかの連続する音たちのグループを、 適切な表情に仕上げることである。 だから、アクセント(ある音だけを前後の音よりも強く弾くこと)は、 アーティキュレーションと最も密接な関係にある。 (ただし、中にはダイナミクスの問題に属するアクセントもある。)

 ルバートとは、前にも触れた、「音符の長さを数学的に計算された長さとは 違う長さで弾くこと」とでも言えばよいか。たとえば、四分音符=120/分 という速度は守りながら、ある小節の中の、 最初の音は少し短くして次の音に早く移り、そのかわり、 最後の音をそのぶん長くして帳尻を合わせ、小節を通じてのテンポは守る・・・ というような処理がこれである。 また、さきほど例にあげた、符点音符を用いた跳ねる音型のときに、 符点音符の音とあとの短い音との比率をどのようなものにするか、というのも、 ここに含めてもよいかも知れない。

 ルバートとは「盗む」という意味だそうだ。つまり、 他の音符に与えられている筈の時間の一部を盗んでしまうことなのである。 モーツァルトが「右手がルバートしているときに、左手はぜんぜんそのことを 知らないかのようにリズムを保っていないといけない」と 父親あての手紙に書いているのは有名である。 何よりもルバートの本質をよく示した言い方だと思う。

 ルバートは、アーティキュレーションの適切な処理とともに、 短い一連の音たちに生き生きした表情を与えるのに役立つ。 私はあまり多用しないが、たとえばK300hのソナタの第一楽章、 4〜5小節めに出てくる上昇分散和音の美しい句では、 ややせき込んで弾くルバートを用いている。

 ルバートとは区別されるアゴーギクとは、 「帳尻を合わせないテンポの変化」とでも言えばいいかも知れない。 つまり、だんだん遅くなる「リタルダンド」だとか、 だんだん速くなる「アッチェルランド」などは、 代表的なアゴーギク処理である。 だが実は、リタルダンドやアッチェルランドなど、 作曲者が楽譜に書き込んだようなアゴーギクは、 言わば強弱におけるダイナミクスと同じような地位にある。 つまり、楽曲が語るお話の大筋に関連する、 おおづかみなフォルムを描くために用いられている表現手段である場合が 多いのである。

 これに対し、アーティキュレーションと協力しながら、 「ある短い一続きの音たちに最も適切な表情を与えるために」行われる、 こまかなアゴーギクというのがある。というか、クラシック音楽では、 毎小節毎小節、こうした小さなアゴーギクの連続であると言ってもよい。 まさしく、「八分音符が四つ並んでいても、 それを四つとも違う長さで(つまり違うテンポで)弾く」 のがクラシック曲の演奏である。「アウフタクト(強拍の前の拍、 小節の最後の拍)は少し遅いテンポになり、冒頭の拍もそれについで長く(遅く) なることが多い。そして、そのぶん、アウフタクトをのぞく弱拍は短く(速く) きりつめられることになる。 この意味でのアゴーギクは、アーティキュレーションと最も密接な関係にあり、 また、ルバートとの境目は非常に微妙である。 私個人は、ルバートと(細かな)アゴーギクを、 あまり厳密に区別する必要も感じない。

 では、これらの要素(ダイナミクス、アーティキュレーション、ルバート、 アゴーギク)は、音楽においてどの程度重要であろうか。

 私の考えでは、これらこそが、演奏家が最も注意を払わねばならない、 最重要の要素である。 いくつかが連なってひとまとまりをなす音たちの鳴り方を、 最も表情豊かに鳴るようにととのえてやり、また、 全体として楽曲が説得力ある内容を表現するように、ダイナミクスと大づかみの方の アゴーギクを適切に処理し、 音楽全体を形作る。 一口で言えば、もっとも広い意味における、音楽のフォルムを整えること。 演奏家の仕事はこれに尽きる、とさえ思う。

 ただし、ここに残された問題として、 音色の問題がある。音楽が美しい音の集まりであるとすれば、 どのような美しい音で弾くかは、もちろんそれなりに重要であろう。 しかし、私の考えでは、音色はフォルムに従属する。 二義的な重要さしかない。

 節を改める。




4 音色の問題

 ようやく音色を論じるところまでやってきた。

 私は「テンポ」の節で「テンポの相対性」を述べたのと同じ意味で、 「音色の相対性」を主張する。 ある音が美しいと感じるか、それほどでもないと感じるかは、 音楽の表現内容と密接な関係がある。 演奏家は、なるべくなら皆に「美しい」と言ってもらえるような 音自身の練磨も心がけているはずだが、 しかし、そもそも、音自身として「美しい、美しくない」などということが、 あるのか。

 たとえば、西洋音楽では、純音(正弦波)に比較的近い音をめざして どの楽器作者もどの楽器奏者も研鑚を積んできたと言われる。 その結果、西洋音楽の楽器の音は、あまり不規則な倍音を含まない、 整った音になっていった。 ウィーンフィルのフルート奏者に習った吉田雅夫氏は、「管楽器の理想の音は クラリネットの音だから、なるべくクラリネットに近い音を出せ」 と言われて参ったという話を語っていたことがある。 これなども、 西洋音楽の音楽家たちの、「美しい音」への執着を物語る話かも知れない。 しかし、西洋音楽の楽器の音色で最も正弦波に近いのは他ならぬフルートの弱音だ とも言われているので、ちょっと話は複雑だ。

 クラリネットのやわらかでなめらかな音は、たしかに美しい。 人間の声にいちばん近いのが、この「一枚リード」の楽器群だとも言われている。 人間にとって最も美しいのは人間であろうから、 音でいちばん美しいのも人間の声なのかも知れない。 実際、西洋音楽の演奏家で、もっとも「音色」が重視され珍重されるのは、 歌手においてであろう。

 もちろん、人間の声と言ってもいろいろある。 浪速節の潰したような味わい深い声、 日本の民謡歌手たちのシンの強い声、 読経する坊さんや祝詞をあげる神主さんのよく響く声も、私は美しいと思う。 だが西洋音楽では、人間の声も「正弦波」をめざして徹底的に鍛えられ、 ウィーン少年合唱団のような、まるでフルートの合奏でも聴いているのかと思うような 清んだ響きを追い求めてきた。 クラリネットの場合は、むしろ大人の男性や女性歌手の声と似ている。

 とにかく、おおざっぱな話として、西洋音楽で用いられる音色は, たとえば日本の琵琶や尺八のような、衝撃音・摩擦音を多く含む、 自然音に近い音ではなく、人工的に発せられる純粋な音色をめざす方向で、 そのバリエーションが作られてきたという事情があるのは、周知の通りである。

 しかし、もう一度問うが、「音そのものの美しさ」なんてものが、 本当にあるだろうか。 小川のせせらぎの音、琵琶や尺八の雑音だらけの音は、 美しくない音であろうか。

 私は、音色の美しさは、音楽のフォルムに奉仕する限りで発揮されるものだと 思うのだ。 クレメルやパールマンの美しいバイオリンの音も、 バッハの、あるいはモーツァルトの、フランクの、フォレの、 魂に語りかける音楽の一部になりおおせて初めて本当に美しいのであって、 極端な話、音だけ取り出せば、別に車のクラクションの音や豆腐屋のラッパの音と、 何ほど違うとも私は思わない。 その証拠に、デジタルシンセサイザーでバイオリンのサンプル音を聴いてごらんなさい。 何だこりゃ、と思うことは請け合いだ。 しかしこれらの音は、ビブラートこそかけずに弾いていると思うが、 熟練した演奏家に実際にバイオリンを弾いてもらって録音しているのである。 とてもそうは思えない、どうということのない音だ。 そして、これを使って弦楽曲などをシーケンスで表現しようとしても、 全く問題にならないような情けない成果しか上げることができない。 (「そうでもないぞ、こんなにいいシーケンスがある」というかたがいらしたら、 ぜひご教示いただきたい。)

 どうしてこうなるのか?

 クレメルもパールマンも、バッハのある無伴奏パルティータを弾くときに、 一つ一つの音の発音の強さからその後の伸び具合、そしてビブラートのかけ方、 すべてにわたって、 バッハの書いたひとつひとつの音符が音楽全体において占める位置を感じ取って、 それにふさわしいフォルムで奏でているから、美しいのである。 バイオリンなどの弦楽器、クラリネットなどの管楽器の場合、 音色の問題が特に難しくて、MIDIシーケンスではとてものことに 模倣することができないのは、 シンセサイザーの音色そのものが汚いからではなく、 これらの楽器における「音楽のフォルムを形成する手段」としての、 持続的な音の強さや微妙な音色の経時的変化が、 デジタルサンプリングのシンセサイザーでは、 とてものことに模倣し切れないからだと私は考える。 これに対し、 ピアノの音は、いったん鳴ったら音色の変化も音量の臨機な変化もないから、 シンセサイザーでも十分に音楽のフォルム作りができるのである。

 美しい音色の魅惑とは、 音楽のフォルムに奉仕するときに音が発揮する力である。 シューベルトの「アルペジオーネソナタ」 第一楽章を弾くロストロポービチのチェロの、第一テーマの最高音を弾く音は、 音楽史上にこんなに美しい音が他にあったとは思えないほどに美しく、 あの一つの音だけで人間を陶然とさせるほどの魔力を放射する。 だが、前後をはぶいて、その音「だけ」を取り出して、誰かに聞かせてみたら どうだろうか。 「豆腐屋のラッパ?」と言われなければ幸いである。

 音楽は結局のところ音色のある音を通じて鳴り渡るものなのだから、 ある意味では音色は音楽の本質的な部分をなす。その事実と、 「音色はフォルムに奉仕する限りで美しいのだ」という言い方は、一見、 両立し難い逆説的な言い方に聞こえるかも知れないが、 実は単純なことなのだ。

 ピアノの音は美しいと思いますか?では、ピアノに両手を置き、 ドレミファソラシドの音を全部一度に弾いてごらんなさい。 美しい音がしましたか?

 これは極端な例である。しかし、子供がでたらめにたたいている のを聴いた日には、美しいはずのピアノの音もただの騒音でしかないだろう。 そういう単純な話なのである。

 慣れの問題もある。シンセサイザーで弾いた私の演奏のCDの音色に違和感があったという人は、少し我慢してつきあって、何度か聴いてみていただきたい。 きっと慣れてきて、違和感は薄れる。だって、モーツァルトの時代のピアノは、 スタインウェイともSC−88とも違う、ぜんぜん別の音色なのだ。 あなたはスタインウェイの音に慣れているだけである。 音色の美しさは、慣れに大きく左右される、かなり相対的なものだ。 そうでなければ、あのペンペンいうクラビコードや、カンカンと金属的に鳴る ハンマークラービアの音こそ美しいと思っていた18世紀の音楽家はどうなるのか。

 「でも現実に君のCDのシンセサイザーの音は 本物のピアノほどキレイじゃないと思うよ」 と言われるとすれば、それは、 演奏が駄目だからだと思う。 あの音にもっともふさわしい弾き方が、あるはずだと私は思うのだ。 それが、もし、私の持つ音楽性との矛盾の大きなものであれば、 私には違う楽器が必要である。 しかし、今のところ、それほどの不満は自分では感じない。 私の耳の限界なのかも知れない。 だが、シンセサイザーの音が「駄目な音だから」ではないと思う。

 別の角度から説明してみよう。

 熱心なMIDIシーケンス作者たちが最も嫌うことは何か。 それは、「自作のシーケンスを、 自分が使ったのと違う音源を使って聴かれること」である。 これは、私もそうである。 シーケンス作者は、自分が作った演奏フォルムを、 少しでも違う音色で鳴らして聴かれることを極端に嫌う。 実際、違う音源で鳴らしてみると、「これは自分が意図していた音楽とは まったく違う」と感じるのである。

 このことは、音楽における音色そのものの重要さを物語っているであろうか? 私は違うと思う。これは「音色がフォルムに奉仕する従属的なものであること」 をこそ語っているのである。

 シーケンスは、ある音源(音色)を前提として、 音楽のフォルムを彫啄して制作されている。 ところが、別の音源で聴かれると、仮に「より美しい、上質な」音源であっても、 音楽は台無しになってしまう(と感じる)のである。 たとえばここに、安物の、10年近く前に出た「SC−55」という音源がある。 私のCDにおさめられている、 「モーツァルトの幼年時代の曲」は、 この音源の音色を使ってシーケンスが制作されたものだ。 そうである以上、このシーケンスは、この音色で鳴らさないと、 音楽にならないのである。 いま私は格段に性能がよくなり、音色サンプルの品質も格段によくなった、 SC-8850という音源(楽器)も持っている。 だが、このシーケンスをSC-8850の「より美しい」音で鳴らしても、 音楽は台無しになるだけで、決して良くなりはしないのだ。

 「美しい音色」一般など、ありはしない。 音色は、音楽のフォルムを形作る一要素となって、初めてその美しさを発揮する。 だからこそ、私たちは、安物のポータブルラジオで音楽を聴いても、 想像力を働かせて観賞し、感動することができるのではないのか。 バチバチと雑音が入るSP盤で聴く、ティボーのバイオリンの音に陶然となれるのは、 彼が絶妙のフォルムで音楽を奏でているからではないのか。

 もちろん、何事も極端になってはいけない。 やっぱり、西洋音楽を演奏する限りは、 音色はそれなりに「澄んだ音色」「ここちよい音色」であることが必要だ。 だが、その重要さは、あくまでもフォルムに従属するものとしての重要さである。 汚すぎる音では、美しいフォルムを形作る要素になり得ない。 だが、ある程度以上の品質を持っていれば、 それに合わせて、音たちの活躍の場を整えることはできるのだ。

2000年1月23日






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