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歌劇「フィガロの結婚」序曲について

★「ロッシーニクレッシェンド」の起源?★

 私は週に一度、アンサンブルフロイントというアマチュアオーケストラで下手なビオラを弾いている(欠席することも多いが・・・)。ほかの皆さんがなかなか上手なのと、若い指揮者の小西収さんというかたが実にすばらしい音楽をやるので、いつも楽しい思いをさせてもらっている。

 この団はべつに演奏会をめざして練習するというのではなくて、毎回毎回、気が向いた曲をあれこれとみんなで弾いて楽しむという、アマチュアオーケストラとしては稀有な(しかし音楽を楽しむという観点からはしごくまっとうな)ことをやっている。そして、モーツァルトもよく取り上げられる。私も、弾いたことのなかった曲をいろいろ弾かせてもらった。

 前置きが長くなったが、この団で、最近「フィガロの結婚」序曲をわりとよく弾いていて、思ったことがあるので、それを書いておきたい。



 モーツァルトの音楽は、「端正・流麗・優美・歌う」といったキーワードを用いながら語られることが多い。18世紀西洋音楽が、建物の内装品や家具と同様の装飾品としての音楽が極限まで洗練され発達したものという一面を持つとすれば、そして、その最高の達成がモーツァルトにあったのだとすれば、無理もないことだと言えよう。私を含む多くの人たちが、モーツァルトの音楽を、基本的にはそのような18世紀音楽の文脈の中でとらえようとしてきたのは(少なくともそういう傾向をもっていたのは)否めないと思う。また、大雑把な話としては、まったく間違った捉え方であるとまでも言えないと思う。

 だが、言うまでもなく、18世紀前半に活躍したバッハにせよ、後半に活躍したハイドンやモーツァルトにせよ、むしろそうした「実用品、装飾品」であるだけには終わらないものにまで音楽を充実させたからこそ、今日に残って愛好されているのだとも言える。だとすれば、かれらの音楽を18世紀音楽の文脈の中で解釈しようとばかりするのは、かえって大切なものを見過ごしてしまう結果となる恐れがある。つまり、モーツァルトだからと言って、「端正に、流麗に歌って、均整のとれた演奏で」やらないといけない、などと決め込む必要はない。



 「フィガロの結婚」は私の熱愛するオペラであって、今までにいろんな演奏で何度聴いてきたかわからない。だが、それなのに、序曲がこんなにものすごい曲だとは私は思っていなかったのである。

 小西収の指揮では、たとえば85小節から始まる低音のうなるようなモチーフも実にぶきみな力強さで奏でられるし、続くモーツァルト特有の半音階的な不思議な和声の部分とともに、音楽に深い陰影を与える。音楽が軽薄に流れていかない。これがオペラの序曲だなんていうことはすっかり忘れさせられる。

 そして237小節に始まる長い長いクレッシェンドの果てに、251小節でフォルテに達し、254小節アウフタクトから、バイオリンなどが8分音符を刻んでいるなか、全奏で和音連打が行われる。ここでの力のこめ方! 小西収は、オーケストラの疾走に急ブレーキをかけるべく全力で手綱を引き締め、一つひとつの和音を爆発的な力で弾かせる。こんなにすさまじい力のみなぎるモーツァルトを私はかつて聴いたことがなかった・・・同じ小西収の指揮で昨夏「プラハ」交響曲を弾くまでは。
私のピアノ演奏は、単に曲の箇所を示すだけのために貼ってあるので、小西収の演奏を模倣しているわけではありません。念のため。



 「ロッシーニクレッシェンド」とかいうものがあって、私は不勉強なものであまりその真髄をよく知っているとは言えないのだが、たとえば「セビリヤの理髪師」(「フィガロ」の前日譚に当たる内容のオペラだ)の序曲なら知っている。あそこには確かに、比較的単純なモチーフを繰り返しながら行われる爽快なクレッシェンドがある。「フィガロの結婚」序曲の、237小節に始まる長いクレッシェンドは、もしかしたら、ロッシーニにとってすばらしく示唆的な前例であったのかも知れない。

 だが、モーツァルトがここでやっている(そして小西収が示している)音楽は、「楽しいオペラがいよいよ始まる(近づいてくる)ワクワクする感じ」を演出するために用いられている「セビリヤ」でのクレッシェンドとは、まるで違うように私には感じられる。

 いや、そう言ってはいい過ぎかも知れない。「それを越えるものを持ってしまっている」と言えば、より正確なのかも知れない。その「越えるもの」とは一体何なのかということは、言葉にはしにくいのだけれども、それでも言ってしまうとすれば、「音楽的な力、エネルギー」のようなものではないか。クレッシェンドの間に刻々とチャージされていくものがあり、それが「顕現」するときがやってくるのである。輝かしくも神々しい圧倒的な力強い姿で。叩きつけるように、渾身の力で。



 ロッシーニに「長いクレッシェンド」という技法に関するヒントを与えたのがこの「フォガロの結婚」序曲であったのか、それともモーツァルトに示唆を与えた前例がすでにどこかにいくつもあったものなのか、そのいずれでもないのか。そのあたりについては、私はさっぱり無知だし、たいした興味もない。

 私に興味があるのは、オペラの序曲という、いわば場つなぎと雰囲気作りのためにあるような音楽においてすら、こんなに本気で自分の天才を発揮し、18世紀的な実用音楽の枠を遥かに越えて飛翔して行くモーツァルトの姿であり、同時に、そのことを私にこんなにはっきりと教えてくれた、小西収という指揮者の卓越なのである。




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