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新時代の音楽演奏文化のために

〜「公開演奏会」主義からの脱却〜

 クラシック音楽においては、CDによる演奏発表を除外すると、「公開演奏会」という形がその主要な演奏発表の形態となっている。そして、そのことに、あまり疑問を感じない人が多いようだ。だが、これは異常なことではないかと私は考えるようになった。

 そう考えるに至った筋道を、一度まとめてみながら、新しい世紀の始まりにあたり、私が夢見る未来の音楽演奏文化のありかたを素描してみたいと思う。

 なお、日本古楽音楽普及協会発行の「古楽情報メールマガジン」に投稿し掲載されたエッセーが、本論考の下敷きになっている。




1 18世紀までの音楽演奏

 西洋音楽が本格的な歩みを始めたルネサンス時代(15〜16世紀ごろ)やバロック時代(17世紀〜18世紀はじめ)のヨーロッパにおいて、音楽は、誰のために書かれ、どのように演奏されていたのであろうか。

 私はこれらの事柄について、とくべつに勉強したことはない。だが、音楽史的常識というか、自分のごく平凡な音楽史的知識に照らして、およそ次のように認識している。細かな点は別として、大筋においては、おそらくそれほど大きな誤りはあるまいと思う。

 まず言えるのは、「金を取って不特定の人に音楽演奏を聞かせる公開演奏会というものはなかった」ということである。

 人々にとって身近な音楽として、まず、教会で演奏される宗教音楽があった。教会はどの町にもあり、人々にとって極めて身近なものだった。そこでは、声で歌われる宗教曲のほか、オルガン曲や、ときには教会ソナタなどという独特な器楽曲が演奏されることもあった。ただし、これらは本質的に「宗教行事」なのであって、楽しみのためにあったのではない。当時の支配権力でもあった教会が、音楽によって神を賛美することを通じ、人々の宗教的感情を高め、ひいては信仰心を高めるために制作し演奏していたものである。主観的には宗教的理想のための手段だったのであり、客観的には、支配者の一翼たる教会が自らの支配を維持強化するための手段だったのである。

 では、器楽曲はどうだろう。比較的規模の大きな器楽曲は、基本的にもっぱら王侯貴族のためのものだった。バッハの「ブランデンブルグ協奏曲」も、ヘンデルの「水上の音楽」も、特定の王や貴族のために、かれらのお抱えの楽団が演奏するのを目的として書かれたものだった。王侯貴族の邸宅や城においては、専属の音楽家が養われており、かれらのためにいろいろな機会に音楽が書かれ、演奏されていたのである。こういう音楽を一般庶民が耳にするチャンスは、ほとんどなかったろう。

 もしもあったとすれば、屋外行事を遠くから眺めて、かすかに聞こえる音楽に耳をそばだてるぐらいであろうか。その意味では、「水上の音楽」なんかは、ロンドン市民がけっこう聴いたかも知れない。だが、こういう聴きかたは、王様のために演じられた音楽を盗み聴いているようなものである。つまりは、一般の人々が聴けたとしても、それは「おこぼれ」にあずかっているに過ぎなかった。

 さらに、歌劇。これは、本場イタリアでは、都市の裕福な市民が享受していたのだろうが(というのは、イタリアには統一国家がなかったぐらいだから)、西ヨーロッパの多くの国では、王立の立派な歌劇場で演じられるために書かれ、古い時代には、その鑑賞者は王侯貴族にまったく限られていたのではあるまいか。ようやく18世紀ぐらいになって、富裕な市民層がそこに加わっただけだったろう。

 このように、近世初頭の西ヨーロッパでは、比較的大規模な音楽は、すべて支配者たる王侯貴族や教会がお抱えの音楽家たちに命じて、特定の目的のために書かせたものであり、演奏も、それぞれの音楽の目的や性質に応じて、教会や、王侯貴族の居城・王立の歌劇場など、支配者たちのための建物において、支配者の命によって行われていたのである。

 だが、規模の小さな楽曲については、かなり事情が違っていた。これらは、その担い手を必ずしも王侯貴族だけに限らなかった。むしろ、不特定多数の人々が演奏して楽しむことを十分に意識していた。

 たとえば、古くはルネサンス期のフランスの作曲家・ジョスカン・デ・プレなどが書いていたシャンソンにせよ、親しみやすいメロディーといい簡素な伴奏といい、どこから見ても、あれはきっと、王侯貴族のためというよりも、むしろ庶民が、自身で演奏したり、辻音楽師が演奏するのを楽しんだりすることを意識して書かれたものだったろう。庶民から得る対価で生計を立てていた職業的辻音楽師もいたのかも知れない。いずれにせよ、シャンソンは、庶民が、自分たちの生活の場で、生活の場面のなかで親しんでいた音楽だったに違いない。

 シャンソンは歌だが、器楽曲についてはどうか。たとえばバッハのインベンションや平均率クラヴィア曲集は、おそらくもともとは家族や自分自身のために書かれたのだろうが、彼はのちに広く一般の使用に供するため、出版している。ドメニコ・スカルラッティは、その膨大なソナタをポルトガル王女の練習曲として書いたと言われるが、やはりそこから30曲ほどを選んで出版した。のちには18世紀なかばに宮廷音楽家クリスティアン・バッハが作品5のクラヴィーアソナタ集をロンドンで出版したし、同じころ、幼いモーツァルトのオブリガートバイオリン(フルート)つきクラヴィーアソナタを、父レオポルトがパリで出版している。

 このように、作曲家たちは、宮廷や教会など、当時彼らに仕事を与えてくれる主人に仕え、基本的にはその枠内で仕事をしながらも、一般の音楽ファンが練習に使ったり演奏して楽しむのに自分の曲が役立てると思ったら、そのために楽譜出版をすることもあったのである。したがって、クラヴィーア曲なんかは、かなり古くから、そういう目的も十分に意識して書かれていたに違いない。きっと、多数のトリオ・ソナタなどの小規模器楽曲についても事情は同じで、宮廷で貴族たちのために演奏される目的だけで書かれたものではなく、一般の人たち、とくに都市(ヨーロッパでは中世に都市が成立している)に住む人々が楽しみのために演奏するようなことも視野に入れながら書かれたのであろう。

 以上、近世初頭の西洋音楽の演奏について素描してみたわけだが、ここでもう一度確認しておくならば、以上を通じて、やはり、「公開演奏会」なるものはまったく存在しないのである。音楽は、貴族は貴族なりの、庶民は庶民なりの生活の場で、あるいは生活と密着した場所で、演奏され、楽しまれるためにあった。けっして、お金を払った不特定の人々を特別な会場に集めて演奏するものではなかったのである。



2 公開演奏会のめばえ

 この情勢が決定的に変わったのは、市民社会が出現した19世紀である。19世紀後半から20世紀にかけては、完全に「公開演奏会の時代」だと考えてよい。

 18世紀後半から19世紀はじめにかけてが、そこに至る過渡期だったと言ってよかろう。つまりは、1756年生まれのモーツァルト、そして、1770年生まれのベートーヴェンらが活躍した時代である。この過程をざっと振り返ってみることにしよう。

 モーツァルトは、少年時代はザルツブルグの宮廷に仕えた宮廷音楽家だった。だが、何度かのヨーロッパ主要国への旅を通じてさまざまな音楽体験を重ねつつ成人し、自分の圧倒的な才能を確信するに及んで、彼は、ザルツブルグなどという地方都市の宮廷作曲家の地位に満足できなくなる。かれはヴィーンに移り住み、そこで「自由な音楽家」として、商業的に成功することをめざす。もちろん、オーストリア皇帝の宮廷に仕える宮廷音楽家の地位は彼としても望むところではあったのだが、そういう地位を望むだけにとどまらず、彼は、作曲家・ピアニストとして、新作ピアノコンチェルトの演奏によって大勢の人たちから喝采を受けること、そして、多数の市民たちに愛されるオペラを書くことに、情熱を傾けたのである。

 モーツァルトがヴィーンで開いていた「予約演奏会」というのが、彼の発明だったのかどうか知らない。だが、音楽史上、「公開演奏会」の前駆的形態として、これはかなり重要なものと考えてよいのだろう。

 ベートーヴェンの場合は、宮廷作曲家なんて地位は、もう望まない。皇帝になる前のナポレオンに共感を寄せる、共和主義者だったぐらいだから、それも当然だろう。もう宮廷にしがみついてもしょうがない時代でもあった。彼は、モーツァルト以上に誇り高い芸術家だった。そして、貴族のためでなく全人類のために音楽を書こうと考えている人だった。なるほど、貴族のパトロンを持ってはいた。だが、彼はけっして自分のパトロンである貴族に対しても、ぺこぺこしない。貴族たちは、主人ではなく、後援者なのである。そして、ベートーヴェンは、その圧倒的名声を背景に、自分の作品を出版社に売ることで生計を立てる。まだ音楽著作権は確立していないから、作品は出版社に売ってしまっておしまいである。だが、それでも彼は作品を書き続けていれば、何とか生計を立てることができた。交響曲などの場合は、楽譜がそんなに売れたとはとても思えないが、そう言えば、今日のと同じような公開演奏会を開いて発表していたから、それが収入になったのだろう。あとは、だれか金持ち(だいたいは貴族)に作品を献呈するので、献呈された人からの礼金なんてのもあったらしい。

 だが、ベートーヴェンの時代に至ってもまだ、公開演奏会は支配的な音楽演奏の形態とまでは行っていなかったように思われる。ラズモフスキー四重奏曲はロシアの貴族の注文で書かれた。晩年の弦楽四重奏曲も注文作品だったはずである。いずれも公開演奏会用の作品ではなかったわけだ。ピアノ曲も、ベートーベン自身が演奏したのを含め、公開演奏会で弾かれることもあったのだろうが、やはり依然として、主として愛好家が弾いて楽しむために書かれていたのだろう。そして、ベートーヴェンのソナタは、そのためのものとしてはいささか高度すぎて、損した面もあったのではなかろうか。

 だが、この二人、モーツァルトとベートーヴェンの時代に、公開演奏会というものがうぶ声を上げたこともまた確かなことのように思われる。



3 公開演奏会の時代とその作品

 大作曲家ベートーヴェンは、ある日、天才的な少年ピアニストの演奏を聴いた。フランツ・リストである。リストは、ベートーヴェンのピアノの弟子であるカール・チェルニーの弟子であって、ベートーヴェンの孫弟子にあたる人である。このリストがヨーロッパ中で公開演奏会を行って人々を熱狂させたのは有名だ。あるいは、バイオリニストのパガニーニが登場し、やはりヨーロッパの寵児となる。公開演奏会の時代の到来である。人々は名人演奏家の妙技に熱狂する。作曲家たちは公開演奏会で演奏するための作品を書くようになる。おりしも、近代市民社会の成立により、古い共同体は崩壊し、人々は自分の孤独な魂と向き合いながら生きていかなければならない時代になっていた。音楽もまた、孤独な天才が、あるいは密室で告白し、あるいは人々を自分が築いた別世界に誘うものとなった。公開演奏会は、こうした音楽が演奏されるにふさわしい、唯一の場所であった。

 だから、19世紀以後の作品を、公開演奏会で演奏するのは、いいのである。ブラームスやマーラーの交響曲を公開演奏会で演奏するのは当然のことであって、あれらの作品は、そうするために書かれたのである。ショパンやフォレやラフマニノフのピアノ曲も、公開演奏会で弾くがよろしい。リストのソナタような妙技をひけらかした華麗な音の舞いもシューマンの小品のような傷つきやすい魂のため息も、ブラームスの交響曲のような寂寥感にさいなまれる老人のすすり泣きも、公開演奏会で演奏されるためにある。「純粋に音楽を聴くだけのために、安くないお金を払い、わざわざ実生活からは隔絶した特別な場所に集まった人たち」を前にして、高度な技術を持つ専門的音楽家が演奏して聞かせ、精神的にも、作曲者が作り上げた別世界へと連れ去るためにある作品なのだ。



4 身近なところで身近な人が演奏する文化

 さて、公開演奏会が成立する以前の音楽演奏のありかたと、19世紀における公開演奏会の成立のようすを振り返ってみた。18世紀以前の音楽と19世紀以後の音楽が、いかに異なる社会的背景を持つものであるか、そして、19世紀に成立した「公開演奏会」が、18世紀以前の音楽といかに無縁なものであるか、もはや明らかであろう。こんにち、あらゆる作品が公開演奏会で演奏されるのは、単なる歴史的な成り行きによるものである。すなわち、19世紀に公開演奏会が支配的な音楽演奏の形式になってしまった結果、18世紀以前の音楽も、しかたなく、この形式に取り込んで演奏されるようになったのに過ぎない。けっして、これらの作品自体が、この演奏形式を求めたのではない。むしろ、この演奏形式は、18世紀以前の音楽と衝突する性質を持ってさえいるのだ。

 実際、この衝突は起こり、18世紀以前の音楽は、「名人たちの公開演奏会」という演奏文化においては、居場所がなくなってしまった。その結果、名人たちが公開演奏会で妙技をふるった19世紀に、18世紀以前の音楽はいちど滅んだのである。もっとも、音楽学者ランドンによれば、これはベートーヴェンの音楽の強烈な個性に起因するのだそうだが、それだけで説明しきれるものでもあるまい。ともかく、モーツァルトだって、今よりもはるかに冷遇されていたし、ましてそれ以前の音楽など、すっかり忘れ去られたに等しかった。それが、20世紀になってようやく少しずつ見直されるようになり、さらに戦後、急速に再評価が進んでいったのである。

 だが、18世紀以前の作品を本来のかたちで演奏する社会的条件や文化は、すでに失われていた。音楽演奏の世界に存在する手段は、録音を別とすれば、19世紀に成立した「公開演奏会」だけである。そこで、仕方なく、「身近な場所で身近な人が演奏するのを互いに楽しむ」ためにあった18世紀以前の作品が、「名人演奏家が妙技をふるって聴衆を魅了する」ための場である「公開演奏会」で、演奏されるようになった。当然、19世紀作品ほどの人気はないが、それでも、何とか居場所を確保するようになったのである。

 それはそれで喜ぶべきことである。だからべつに私は、18世紀以前の音楽を「公開演奏会」で取り上げるのがいけないと言うつもりは、まったくない。だが、少なくともそれは、これらの作品を演奏する上で、唯一のやりかたでないのはもちろんのこと、さほどふさわしいやりかたでもないはずだ、とは思う。そして、18世紀以前の音楽にとっては、生活の場から隔絶しない身近なところで、身近な人が演奏するのを楽しむ、というあり方のほうが本来の姿なのだとすれば、その姿を復活することはできないものか、と考えてみたいだけである。

 つまり、19世紀以後の作品については引き続き名人演奏家たちの公開演奏会でやっていただくとして、18世紀以前の作品については、それが本来想定していたような演奏のしかた、楽しみ方を取り戻し、さらにはそれを通じて、一度失われた音楽と生活との自然で無理のない関わりかたを回復していく(いや、日本にはもともとなかったものだから、「創造していく」というべきか)ことはできないものだろうか?

 もちろん、現代日本は18世紀以前のヨーロッパとはまったく違う事情をたくさんかかえている。たとえば、クラシック楽器の辻音楽師なんて存在は、もはや非現実的なものだと思う。その最大の理由は、実にくだらないことだが、人がたくさん集まるようなところの道には、必ずひっきりなしに自動車が行き交っているということである。その上、あちこちから、スピーカを通した各種の音楽やアナウンスが遠慮なく鳴り響いてきたりさえする。日本の町はうるさすぎるのである。電気楽器なら駅前の広場や歩道橋の上でも演奏できよう。あるいはサックスぐらい音量が豊かな楽器なら、何とかなるかも知れない。だが、フラウト・トラヴェルソやリコーダーやリュートを町角で演奏しても、圧倒的な周囲の騒音に飲み込まれてしまって、さっぱり駄目だろう。

 問題は屋外で演奏する場合だけではない。たとえば友人たちを家に招いて互いに演奏したり聴いたり・・・とやろうと思っても、日本の都市部の住居では、難しい場合が多かろう。それやこれや、中世のヨーロッパと現代日本では、あらゆる条件が違う。それは自明のことである。

 だから、別に18世紀の音楽演奏の形をそのまま現代に再現しようというのではない。そんなことは不可能だし、また、正しいことでもあるまい。だが、その精神は受け継ぐことができる。大切なのは、身近なところで身近な人が演奏しているということである。電車やバスで出かけなければならないようなところにある、閉鎖された空間にまで出かけていき、安くないお金を払って演奏を拝聴する、というのではなくて、身近な生活の場、あるいは生活の場と直接につながった、開かれた空間で、お互いに演奏したり聴いたりし合うようなことは、できないものであろうか。

 18世紀以前のヨーロッパならばたぶんどこの町にもあった、静かな広場は、今の日本にはない。だが、そのかわり、たとえば、公民館、学校や学習塾のあき教室、病院・保育所・老人ホームなどの公共施設の広間や集会場、大きなマンションビルによくある玄関ロビー、もちろん教会・お寺などの宗教施設・・・と、音楽演奏にふさわしい場所はいくらでもある。

 そういうところで、アマチュア奏者が気軽に演奏する、周囲の者もそれを気軽に楽しむ。そういう文化を創出できないであろうか。

 いや、「創出」などと言ってはおこがましい。そういう潮流はすでにあるからである。松江古楽祭は、松江という町に根づいた音楽祭たるべくうぶ声を上げ、音楽祭の中心になっている松江バロックコンソートは、すでに上記のような身近な場所での演奏活動を何度も行っている。たとえば音楽祭の中にも、ミニコンサートという、会場ロビーなどを利用した無料演奏会が織り込まれていた。大阪のチェンバロ奏者・やましたさんを中心とするグループも、教会を利用して親しみやすい演奏会を行った。当然、ふだんは礼拝のために通っている信者さんたちが多数聴きに来てくださっていた。奈良のピアニスト・吉田はるみさんをアマチュアと言ってはいけないと思うが、彼女の場合も、お寺を利用して親しみやすい雰囲気の演奏会(彼女は「ピアノサロン」と呼ぶ)を行い、「地域のピアニスト」として活動されている。

 このように、こういう精神の活動は、すでにあちこちで実践されているのであり、私の考えは、むしろこのような活動に触発され、考えつづけてきた結果、しだいにまとまってきたものなのである。



5 新しい音楽文化への展望

 私は、18世紀以前の音楽を中心に、身近な場所での演奏をアマチュアが気軽に行い、聴きに行くほうも気軽に徒歩や自転車で聴きに来る、という世の中を夢見る。19世紀の音楽、たとえばシューマンなどは、こういう演奏機会にあまりふさわしいと言えない。彼の音楽は名人芸が必要だし、内容的にも、閉鎖空間を必要とするような気がする。ショパンもたぶんそうである。むしろブラームスやウェーバーの室内楽ならいいかも知れない。でも、技術的にはかなり難しい。開放的な空間で身近な人たちに向かって演奏するのにふさわしく、しかもアマチュアが演奏して楽しくやれるのは、やはり18世紀以前の音楽だろうと思う。

 だが、こうした文化をもっと大きく育てて行くためには、18世紀以前の音楽だけを演目としていたのでは、限界があるかもしれない。むかしの音楽家たちも、きっと、みんながよく知っている歌を弾いたり、変奏曲にして演奏したりしていたに違いない。モーツァルトも、「流行っている歌」を変奏曲にしたり、自分のオペラの中に取り入れたりということをさかんにやっている。とすれば、今の我々が、よく知られた歌などを題材にした音楽をこうした身近なところでの演奏に取り入れて悪いはずはない。リコーダーアンサンブル「ら・みゅーず」の演奏会では、むしろそうした「よく知られた曲」がプログラムの中心をなしていた。多数の人たちが楽しめるようにするためには、そういうこともおおいに必要になるのであろう。

 さらに、こうした草の根的な音楽演奏の活動が、もっともっと何倍・何十倍もさかんになり、全国各地に根づいていくならば、作曲家たちも、そうした音楽演奏にふさわしい新たな音楽を提供し始めるのではなかろうか、と私は夢を広げてみる。

 作曲家たちは何をしているか。「公開演奏会」という閉鎖空間で、「専門家」が、高い入場料を払う用意のある熱心なファンだけを集めて偉そうに演奏するという文化は、「現代音楽」という公衆から見放された音楽を生んだのである。むろん、「現代音楽」のすべてが駄目な音楽だというのではない。だが、全体として、あまりにも「専門的」であり、著しく非大衆的であるのは、争われない。私には、その内容的傾向や演奏機会のあり方を含め、全体として、あれが音楽の望ましい姿だとは、どうしても思えないのである。音楽が、人々とともにあり、人々の生活の場とともにあるようになれば、そこに、今までにない新しい音楽が生まれてくる可能性が開けるのではなかろうか。せっかくすぐれた才能を持つ作曲家たちが、閉鎖空間でひっそりと鳴らされるための音楽ではなく、あるいはそれだけではなく、再び、多数のアマチュア音楽家が演奏し、身近な人々とともに楽しむための音楽を創造するためにその才能を発揮するようになってくれないものであろうか。

 私は、主として「リコーダーの曲集の制作」と「伴奏の制作」を通じて、このような新しい音楽文化のために、何か自分が役立てないものだろうかと考えめぐらせているのである。道ははなはだ遠いとは思うが、目標は大きいほうが楽しい。私にとって、モーツァルト演奏とならんで、伴奏演奏やリコーダー曲集の制作が魅力的なのは、このような新しい文化を力強い潮流とするのに何か役立てそうな気がするからなのである。

 幻想であるのかも知れない。だが、幻想だったとはっきりわかるまでは、私はこの夢を捨てない。

2001年1月4日


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