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新時代の音楽演奏文化のために

〜「公開演奏会」主義からの脱却〜

補論

本論のほうで十分に論じられなかった問題について、補足したい。




補1 アマチュアリズムの積極的価値

 本論で、「アマチュア音楽家が、身近なところで身近な人たちと互いに演奏を楽しむ」という文化の創造について述べた。この「アマチュア」という概念をめぐって、いくつか補足しておきたい。

 まず、アマチュアとは何か。それは、「それを職業としているわけではない人」のことだと、とりあえず考えられるだろう。そこから普通にイメージされるのは、「プロほどうまくない人」である。だが、実は、プロよりずっとうまい人であってもいっこうに差し支えないのである。アマチュアは、「職業としているわけではない」のに、熱心にやっている。つまりは、「好きでやっている人」なのである。音楽が好きだから、演奏したい、演奏して楽しみたい。せっかく演奏するから、誰かがいっしょに聴いて楽しんでくれたらもっと嬉しい。これが、アマチュア演奏家の精神なのである。

 日本では、「アマチュア」というと、「下手な人」というニュアンスがある。日本語の「素人」も同様である。だが、私がイメージしている「アマチュア」は、そういう意味ではない。以前、丸谷先生が書いていたのだが、アマチュアリズムの伝統というのは、イギリスに学ぶといいらしい。たとえば、シャーロック・ホームズは、アマチュア探偵である。彼の推理力は、どんなプロの警官もかなわないものだが、彼は職業的探偵ではないのだ。

 イギリスで発達したアマチュアリズムというのは、つまり、上流や中流上層の大金持ちたちは、たいして働く必要なんかないわけだから、そういう人たちが、「自分の楽しみのために、真剣に遊ぶ」のが、本来の精神だったわけである。ここにおいて、アマチュアリズムとは、「趣味だから適当にやっている、プロほど熱心にやっていないしプロほど上手でもない」というような、否定的・消極的な意味ではないのだ。まったく逆で、「仕事ではなく楽しみでやっているからこそ、真剣にやっているし、熱心にやっている」という肯定的・積極的な意味なのである。だから、べつにプロより下手なわけではない。むしろ、その達成はプロ以上であったりもするのである。オリンピックから「プロ」が閉め出されていたのは、アマチュアリズムにこそ価値があると考える、このような思想が背景にあったのだ。

 アマチュアは誇りを持つべきだ。「音楽演奏文化の本当の担い手はアマチュアだ」と思っていいのである。少なくとも18世紀以前の小規模音楽に関してはそう思っていいし、本論で述べたように、アマチュアの演奏文化を土壌として、職業的作曲家たちの手になる新しい魅力的な作品が生み出されてくる可能性も私はあると思う。むしろ、それが、みんなの楽しみであるべき音楽という文化の、本来の姿だとさえ思う。商業的採算性の束縛から解き放たれたアマチュアの演奏活動こそが、音楽芸術の主要舞台になっていくべきものなのである。



補2 入場料を取るべきか

 そこで、こうした、アマチュアによる身近な場所での演奏というのは、どうあるべきか?端的に言えば、お金を取るべきか?

 私は、お金はできるだけ取るべきでない、取らない方がいい、と思うのだ。極力、無料で演奏すべきである。お金儲けが目的ではなかったはずである。また、どうせお金を取ったって儲かりはしないのだ。あまりにも費用がかさみすぎる、というなら、費用の節約を考えるべきだと私は思う。

 本論で挙げた例で言うと、実は、吉田はるみさんのピアノサロンの入場料はけっこう高い。(だが、休憩のときに立食の食事が出る。それと会場の使用料を考えると、おそらく儲けはないのではないかと想像する。)松江古楽祭の場合、メインコンサートは有料だが、無料の「ミニコンサート」がいくつも企画されている。「ら・みゅーず」の演奏会は無料。チェンバロ奏者・やましたさんのグループの演奏会は、安い入場料を取っている(が、何よりチェンバロの借り出しが高いので、満席になっても赤字)。本論に挙げなかったが、「アンサンブル・フロイント」の演奏会は無料である。

 要するに、自分たちの演奏機会を、名人演奏家のコンサートを頂点とするピラミッドの中に位置づけてしまってはならないのだ。

 具体的に説明しよう。

 名人バイオリニストA氏の演奏会は高級ホールで7000円。有名バイオリニストB女史の演奏会は有名ホールで5000円。コンクールで優勝した注目の新人バイオリニストC嬢の演奏会は有名会場の中ホールで4000円。大学教授にしてときどき演奏会もされるD氏の演奏会はやや格の落ちるホールで3000円。バイオリンの先生で1年に一度頑張ってコンサートをやるE夫人の演奏会は地方のホールで2000円。さて、では、アマチュアバイオリニスト・F氏はどうするか。

「安い会場でやって、 1000円ぐらいもらっちゃおうかな。チラシ印刷とパンフレット印刷にこれだけいるし、伴奏の人にこれだけギャラ払うし。うーん、それでも200人は来ないと赤字だな、頑張ってチケット売らなくちゃ」

 ・・・それでは駄目なのだ。これでは、「名人が妙技をふるう公開演奏会」のピラミッドの中に(底辺に)自分を位置づけてしまっているのである。このピラミッドの中に自分を位置づける限り、聴衆とアマチュア奏者の間に、いい関係は非常に生まれにくいし、私が描いたような、新しい音楽演奏文化はけっして生まれないと思う。聴衆は、お金を出した以上、その対価を求める。演奏を聴くというサービスを「買った」のである。奏者は、その限りで、プロとしてそのステージに立たなければならない。妙技をふるわなければならない。熱狂させなければならない。もっとも、聴衆は、それがたいして期待できないことを知っている。ならば、なぜお金を出したのか。名人の演奏に比べて7分の1程度の満足はあるのだろうと期待してチケットを買い、結果的にもその程度には満足できた、と思って納得する人もいたかも知れない。だが、奏者に対する義理、まぁたいした金額じゃないし、しょうがないか、というあきらめでお金を出している、という人も少なくないのではなかろうか。すると、いきおい、「そう再々はいやだよ」ということになる。

 これでは台無しである。ここからは、新しい音楽演奏文化は、けっして育たない。



補3 「公開演奏会スタイル」からの脱却

 発想を変えよう。会場は公民館。ピアノがないかも知れない。友人のアマチュアピアニストに頼んで、電子ピアノを持ち込んで弾いてもらうか、それともCDに録音された伴奏を使おうか。チラシは、家のプリンタで刷り出して200枚ぐらいコピーして、顔なじみの商店に張り出してもらったり、行きつけの喫茶店に置いてもらったり、自分の足でポスティングしたりしよう。パンフレットなんていらないや。B5用紙のプログラムをコピーして、念のために50枚ぐらい作っておくかな。さて、何人来るかなぁ、10人か、20人か。

 駄目だろうか? やっぱり、せめて100人か200人いないと寂しいだろうか?

 ならば、近所の学校や施設、病院・・・などに声をかけて、演奏機会を作ってもらったらどうだろう。むろん、向こうも最初は戸惑うだろうし、すぐに話がまとまるとは思えないが、ネタを振っておいて、折りを見てまた話を持って行って・・・とやっていれば、そのうち、機会は実現するのではなかろうか。

 暗い客席を前に明るいステージに立ち、モーニングかドレスを着て拍手を浴びたい、という発想を捨てさえすれば、いくらでも演奏機会は広がる。19世紀の名人演奏家の真似事は、やめようではないか。

 ただでさえ、聴衆は、無意識のうちに「公開演奏会」を聴くときのスタンスで音楽を聴こうとする。演奏する側が、「公開演奏会」のスタイルを真似ると、聴衆は、当然、ますます「公開演奏会的聴きかた」になる。かれらは妙技を期待し、傷のない演奏を望み、プロの誰彼と比べながら聴くようになってしまう。我々は、そんなことがやりたかったのだろうか?「自分が演奏を楽しんでいるのを、せっかくだからいっしょに楽しんでもらおう」と思ったのではなかったのか?

 だから、むしろ、あらゆる面で、公開演奏会スタイルから離れるほうがいいのである。なるべく、「公開演奏会」を真似ないようにしよう。違うスタイルでやろう。すなわち、立派な会場はいらない。光沢紙に刷ったパンフレットなんかいらない。カラー印刷のチラシもいらない。立派な体裁のチケットもいらない。無人のステージにおもむろに登場するという演出はいらない。黙って演奏するという演出もいらない。

 「いらない」のではない。「ない方がいい」のである。既存の「公開演奏会」を連想させるものは、何ひとつない方がいい。まったく違うスタイルを創造しよう。「そうか、これって、いわゆる演奏会っていうのとは違うんだ。この人が演奏して楽しんでいるのを、ちょっといっしょに聴かせてもらうということなんだ」と思ってもらえるようなスタイルは、ないものだろうか?

 私は演出の才能がないので、あまりいい考えがあるわけでもないのだが、ない知恵を絞ってみよう。たとえば、客席には披露宴みたいにテーブルを置く。お茶を出す。お菓子でもすみに置いておいて、無人スタンド式に実費をもらってもよかろう。お酒も置いてもいいかな?

 「ステージ」は、会場のまんなかへんにでも作っておく。というか、場所を確保して、鍵盤楽器や譜面立てを置いておけばいいわけだが。演奏者自身も客席にいる。そして、ちょっと立って、なんか話をして、「じゃぁ何なにを弾きます」とか言って、演奏する。終わったら、またなんかしゃべって、また弾く。集まった人たちとの対話もどんどんやる。途中休憩のときにはあちこちのテーブルに話しに回ったりする。休憩後の演奏では、客席にいた別の人が伴奏者になったりする。

 イメージ的には、ちょっとしたパーティーのような感じである。形式にとらわれず、いろんな企画があっていい。たとえば、場合によっては、自分(たち)の演奏だけでなく、他の人のアトラクションがあってもいい。手品の得意な人が5分間、手品をやるとか、カラオケで町内の名人が一曲歌うとか。そういう集まりであってもいいのではないか。

 と、ここまで話が飛躍すると、「ついて行けない、何か違う」と思われるかたも多いかも知れない。「それじゃ学芸会じゃないか」と思われるかも知れない。だが、人により、また地域性により、会場により、その形態も内容も、さまざまに考えられる。別に上記のようなイメージの集まりだけが唯一の可能性ではないし、まったく別の形もあり得る。天気のいい日曜を選んで近所の公園で演奏するのを気候のいいころ月に一度ぐらいずつやってもいいかも知れない。自分が住んでいる団地の広場やマンションの玄関ロビーで演奏したっていいかも知れない。

 だが、どういうやりかたを採用するにせよ、「公開演奏会」の呪縛から解き放たれることが、ぜひとも必要だと私は思う。「公開演奏会ピラミッドの底辺」に自分を位置づけてひけ目を感じながらプロの真似事をするのはやめよう。アマチュアであることに誇りを持ち、アマチュアこそが音楽演奏文化の担い手であるというプライドを持って、第一には自分の楽しみのために演奏し、その楽しさを地域の人たちと分かち合うための演奏機会を考えていけば、おのずから、いい形がみつかっていくと私は思うのである。

 そう、アマチュアは、別にお金が欲しいわけではない。思ったほど「お客」(ではないのだ、「聴く人」である)が集まらず、2人か3人でも、べつにいいではないか。アマチュア演奏家は、自分が演奏して楽しみたかったのである。「せっかくだから、聴きたい人はどうぞ」と思っただけなのだ。たしかに、かつての共同体は崩壊し、都会に住む人は孤独である。だが、音楽を通じて、新しい、人と人とのつながりを作り出していくことは不可能ではないはずだ。

 というわけで、初夢の一席でした。同じ夢を見てくださるかたは、いないかしら?

2001年1月5日



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