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MIDIによるクラシックピアノ曲演奏の可能性(新版)

 「MIDIピアニスト」は、果たしてクラシック音楽の演奏家として存在意義を持ち得るものであろうか。ピアノ音楽というものを理論的に解析し、 MIDIピアニストには現時点でどこまでの可能性があるのかを明らかにしてみたい



1 ピアノ演奏を構成する要素

 ピアノ曲をピアノで演奏するという行為を、要素に分解してみよう。

 まず、鍵盤を指で押すという行為が基本である。どの鍵盤を、どのような速度で、いつ押し、いつ戻すのかということである。

(付記)この点で、ピアニストが発音のために行う操作は、弓で弾く弦楽器や息を吹き込む管楽器に比べて、驚くほど単純である。もともと、鍵盤楽器は一人で多声部音楽を便利に演奏するための「機械的装置」としての側面が強かったのであり、機械的仕組みによって発音が行われたら、あとは基本的に「いつそれを消すか」という以外、奏者は何ら音に手を加えることができない楽器だったのである。そして、タッチの具合によっていくぶんは音量が変化するチェンバロはまだしも、パイプオルガンなどに至っては、奏者がタッチによって音量を変化させることはまったくできない上に、弾き始めてから音の強さを変化させることも、もとより不可能であるという点で、音量操作の自在な現代の電子オルガンよりもさらに表現可能性の小さな楽器なのである。これは、その広い音域・巨大な構造・多彩な音色・圧倒的な音量ゆえに、モーツァルトが「楽器の王様」と呼んだにもかかわらず、認めなければならない事実であると思う。



 鍵盤の動きはピアノの内部の機構によってハンマーに伝えられ、ハンマーが弦を打つことによって音が発せられる。私がメールで討論したことがある、ピアノ演奏を主として活動されているあるミュージシャンは、このとき「ハンマーに与える加速度の具合によって音色の違いが生じる」と考えておられるようであったが、私にはそうとは信じられない。なぜなら、ハンマーは、弦を打つ瞬間には、ピアノに特有の「エスケープメント機構」によって、鍵盤からは完全に切り離されているからである。ハンマーは、弦を打つ一瞬前には、いわば、投げたボールが飛んで行くのと同じように、慣性の法則によって「飛んでいる」状態になるのである。ピアニストが鍵盤を押さえるさいに、どんな「タッチ」で、どんな指の形で押さえようが、最終的には、それはすべて、一定の重さを持つハンマーが動く「速度」だけに還元されてしまう。一定の固さと重さを持ち、つねに同じ角度で弦を打つように作られたハンマーに対し、ピアニストが与え得る物理特性は、運動速度以外には何ひとつないのだ。したがって、ハンマーが弦を打つときに生じる「音色の違い」など、古く戦前に兼常清佐が指摘した通り、まったく生じないと考えざるを得ない。まさに、「名人が弾こうがネコが鍵盤の上を歩こうが、ピアノは(同一の強さの音ならば)同じ音色しかしない」装置なのである。

 ただ、上の兼常の指摘は、まったく正しいと思うのだが、たぶん一つだけ彼が見落としていることがある。それは、「鍵盤がピアノ本体に当たって生じる衝撃音」である。ピアニストは、指を立てたり寝かせたり、手首やひじへの力の入れ具合などを操作することにより、指に与えるクッション効果をさまざまに操作することによって、この衝撃音を変化させる。「タッチによる音色のちがい」は、この衝撃音の違いによって生じるものだろうと私は考えている。間違っているかも知れないが、今のところ、これ以外に、クラシックファン誰もの耳が知っている「タッチの違いによる音色の違い」を説明する原因は、どうしても見出せない。

 そこで、ピアニストたちは、このようにして生じる「タッチによる音色の違い」を、音楽の各場面に応じて、極めて微妙に使い分ける。そこには絶妙の技術が介在しているのである。

 さて、以上はピアニストが指で行う操作であるが、ピアノにおいては、もう一つ、ダンパーペダルおよび弱音ペダルに代表される、ペダルの操作がある。弱音ペダルは、ハンマーを物理的にずらすことによって、数本張られた弦の一部しか打たないようにし、もって音色と音量を変化させるというものである。また、ダンパーペダルは、言うまでもなく鍵盤の振動を押さえるダンパーを浮きあがらせて弦から離す機構である。鍵盤が戻ったら普通はダンパーが効いて弦の振動が止められるわけだが、このペダルによって強制的に弦の振動を持続させ、「鳴った音は鳴りっぱなし」にするとともに、叩かれていない弦にも共振が起こるようにさせることによって、音色の変化をも与えるのである。

 さらに、重要なのは、ダンパーペダルを微妙な踏みかげんで踏む「ハーフペダル」である。これによって、音色の変化にとどまらず、音どうしのつながり具合(いわゆるアーティキュレーション)の描きかたにおいても、独特な効果を発揮することができる。たとえば、ド→ソ→ミ→ソと進む「アルベルティー・バス」の演奏において、バス音にあたる最初の「ド」の音の響きを、どの程度の減衰の度合いでいつまで響かせるか、また、同様に、二番目のソの音をどのような減衰度でいつまで響かせるか・・・等々という問題に関して、ハーフペダル操作と指による鍵盤の離し方との組み合わせは、まったく無限の可能性を持っているのである。



2 電子楽器とMIDIシーケンスの持つ能力


 さて、ピアノ演奏における操作は、上記の要素に尽きていると思われるので、次に、上記のような要素を、電子楽器とそれを駆動するMIDIシーケンスの組み合わせがどの程度に引き受けられるか、ということが問題である。それを考察してみよう。

 まず、「ハンマーが弦を打つタイミングと強さ(速度)、および消音のタイミング」については、まったく問題なく表現できると考えてよい。 MIDIシーケンスによる楽器の駆動においては、実は、MIDIの通信速度の遅さや、もともとMIDIというのがシリアル通信(命令を1本の電線で順次送る方式)の規格であることから、「厳密に言えば、二つ以上の音を同時に鳴らすことはできない(同時に鳴らしているつもりでも、実は必ずずれている)」などの問題があるのだが、ピアノ曲の演奏ならば、実用上の問題はまず起こらない。だから、「音の強さ・長さ・鳴らすタイミング」については、生ピアニストと同様に、いかなる表現も可能だと言って差し支えない。

 しかし、これが「音色」の問題になると、電子楽器の不利は歴然としている。そもそも、生楽器の演奏(を録音したCD)が発するピアノの音色に匹敵するほど美しい音を出してくれると思える電子楽器を、まだ私は聴いたことがない。しかも、今のところ、「鍵盤がボディーに当たるときの衝撃音」を自由にコントロールできる電子楽器はないようだ。そこで、タッチによる音色の変化は、十分に表現できないことになる。電子楽器メーカーは、鍵盤を叩く強さに応じて衝撃音が順次変化するようすをその音色サンプルに反映させてはいるが、同一の強さの音において、数種類の「衝撃音の違い」を選択できるようにすらしていない。この点については、電子楽器の持っているさまざまな音色サンプルからその場面にふさわしい適切なサンプルを探し出してくることで対処する余地は残っているとは言え、事実上、十分な成果を上げることは困難である。

 次に、ペダルの問題。

 弱音ペダルを踏んださいの音色変化を表現するには、音色サンプルをそれにふさわしいものに切り替えることで対処するしかあるまいが、これも、現在普通に用いることができる市販の電子楽器では、十分に対応できると言えない。

 さらに、「弦どうしの共鳴」の変化に至っては、残念ながら事情は絶望的である。ダンパーを100%踏みこんだ場合、鍵盤を押さえ続けているのと同じように音が伸び続けるとだけ考えればよいのなら、ペダルを完全に踏みこんだ場合の効果はどの電子楽器でも発揮できる。だが、実際にはそうではなく、ペダルを踏んだ場合は、生ピアノでは、弦どうしの共鳴のぐあいが著しく変化するのである。電子楽器は、一つ一つの音をスタジオで録音することによってそのサンプル音を得ているが、「他にどの弦のダンパーが開放されているか」などまったく考慮に入れていないし、ペダルを踏んださいに、他の弦のダンパーが解放されるために共鳴の具合に変化が生じることも、まったく考慮されていないのである。

 そして、ハーフペダル効果についても、ほとんどの電子ピアノや音源モジュール(鍵盤のついていない電子楽器)は対応していない。現在普通に手に入るピアノ用音源モジュールでは、わずかにヤマハ製PLG-150PFだけが、これに対応しているに過ぎない。これ以外の普通の音源でハーフペダル効果を実現するには、多数のトラックを使用して、一つ一つの音の減衰の具合を「エクスプレッション命令」の連続変化によって加減するぐらいしか方法がないが、これは非常に面倒な方法だし、また、音源にかかる負荷が大きくて、自由自在に行えるとはとても言えない。

 以上のように、電子楽器とMIDIシーケンスによってピアノ曲を演奏するという行為には、大きなハンディーがいくつもあるということが明らかである。こんなに貧弱な機能しか持っていない電子音源で、果たしてピアノ曲の演奏など、満足にできるのであろうか?


3 近代ピアノ曲の場合は難しい

 結論的に言えば、私は、「現代ピアノ、またはそれに非常に近いピアノによる演奏を想定して書かれた作品については、電子音源で十分な演奏をすることは困難だ」と考えている。

 と言っても、もちろん、簡単にあきらめることもない。ピアノといえば、ショパン、シューマン、リスト、ドビッシー、ラフマニノフなどの錚々たる「ピアノの天才」たちの曲を弾きたいと思うのは人情だ。そして、これらの作品の場合は、生ピアニストたちにとっても音をならべるだけでけっこう大変な場合が多く、 MIDIで音を鮮やかにならべてやれば、それだけで、「けっこう聴ける出来」になりやすいのもまた事実である。

 だが、すぐれたピアニストたちとなると、音を並べるだけで苦労するどころか、曲の細部に至るまでその表情を精彩あるものに仕上げ、そのさい、絶妙のタッチの変化とたくみなペダル操作を組み合わせて、多彩な音色を駆使している。とすれば、高い次元においては、上記のような音色面でのハンディーによって電子楽器が最初から不利な地点に立っているのは否めないのである。

 そもそも、現代ピアノを愛し、現代ピアノを知り尽くして作品を書いたこれらの人々は、当然、ハーフペダルも、ペダルによる音色変化も、そしてタッチの変化による音色変化も、すべて、その作品の演奏において用い得ることを前提として作曲していると考えねばならない。したがって、それらの効果を用いることができない楽器でこれらの人々の作品を「生ピアノで弾く場合に劣らず」美しく演奏するのは、非常に難しいと私は思うのである。

 かと言って、何か「電子楽器ならではの表現力によって・・・」と考えるなら、主として音色的な面で、生ピアノで弾いた場合とは異なる方向での魅力を開拓せねばなるまい。そうなると、これは「ピアノ曲の演奏」ということから、少しずつ離れた世界の作業になってくる。すなわち、この考え方をどこまでもつきつめて行けば、とどのつまりには、かつて冨田勲氏が発表され世界的に有名になった、ドビッシー作品のアレンジ演奏のような仕事につながって行かざるを得ないであろう。

 こうなると、これはもう「電子楽器でピアノ曲を弾く」というのとは別の仕事になってくる。ということは、言いかえれば、「MIDIピアニスト」は存在価値がないということが証明されたということになるだろう。

 しかし、それならば、「現代ピアノ成立以前」の音楽については、事情はどうであろうか。

 その前に、まず、現代ピアノと、それ以前の、いわば「古ピアノ」との境目は、どこにあるか。これは、人によって考え方が違うだろうが、私としては、「鋼鉄製フレームの採用」を最大の目安として、鋼鉄製フレームのエラールなどを用いた「ショパン以後」を現代ピアノの作曲家と考える。つまり、モーツァルトやそれ以前の作曲家はもちろんのこと、ベートーヴェンやシューベルトまでは、「古ピアノの作曲家」と考えてよいと思う。静岡県磐田にあるハピコ音楽センターなどで、歴史的なピアノを弾いてみた経験で言っても、ベートーヴェンが使ったブロードウッドのピアノまでは、モーツァルトが使ったアンドレアス・シュタインや、アントニオ・ワルターと同じく、鍵盤が浅く音量も小さい「ピアノフォルテ」の世界の楽器だと感じた。

 そこで、これらの「古ピアノの作曲家」の場合は、電子楽器で演奏する上で、どの程度の可能性があるだろうか。


4 18世紀以前のピアノ曲の場合

 結論から言えば、「古ピアノの作曲家」の作品については、俄然、電子楽器による演奏は可能性が大きくなる、と私は考える。

 まず、最初に確認しておきたいことは、古ピアノ(ピアノフォルテ)作品ついては、「現代ピアノで弾くことにそれほどの正当性がそもそもない」ということである。18世紀に発展途上にあったピアノフォルテと現代ピアノとでは、あまりにもその音色が違うし、音量の差はもっと著しい。それにもかかわらず、多くのピアニストは、これらの作曲家たちの作品を現代ピアノで演奏するし、それこそが正統な取り扱いだと考えられている。古楽器の複製などを用いて演奏する演奏家は、むしろ少数派であるし、聴く側にも、その愛好者はまだ多くない。

 これは何故であろうか。

 一つにはもちろん、芸術上の理由があろう。現代ピアノが獲得した大きな音量をはじめとする表現力の幅の広がりは、楽器としての「進歩」であると考えることもできる。そこで、現代ピアノが登場する以前の曲についても、より「進歩」した楽器で演奏することにより、作曲家がイメージしていた以上の魅力を付与した演奏が可能になる、と楽観的に考えるわけである。

 だが、より大きな本質的理由は、別にあるのではなかろうか。すなわち、何よりも、現代のピアニストは現代ピアノにしか習熟していないし、演奏会場にも現代ピアノしか備えつけられていないし、また、もともと採算が十分に取れるような演奏会を行おうと思ったら、音量の豊かな現代ピアノを用いるしかない、などの「実際的」な理由が大きいのではないか。さらに言えば、現代ピアニストは主として現代ピアノのための作品(ショパンを中心とする19世紀ロマン派の作品)を弾いているのであり、その同じ楽器を使って、ときどきは18世紀以前の「古ピアノ」の作品も(ときにはピアノで弾くことはあまり想定していない大バッハの鍵盤作品すらも)弾く、という「習慣」なのだと言ったほうが、より当たっているのではないか。そうとでも考えなければ、作曲者が想定していなかった楽器で演奏することがむしろ作曲者が想定していたはずの楽器で演奏するよりも広く行われているという現在の状況は、十分に説明されないように思われる。「楽譜に忠実な演奏」であることを重視する現代のクラシック曲演奏において、そもそも使用する楽器に関する作曲者の指定(想定)を守らないというのは、ある意味では、はなはだ奇怪なことである。

 このように考えてくると、古ピアノのための作品は、ずいぶん乱暴な取り扱いをされているとも言えるのである。そこで、なぜこんな乱暴な取り扱いがまかり通ってきたのかを、もう少し掘り下げて考えてみよう。

 私は、このことには、大きく言って二つの事情が関係していると思う。

 一つは、「この時代のピアノ曲は使用楽器についてかなり柔軟に考えられていた」という事情がある。ベートーヴェンの初期作品に至るまでの鍵盤曲は、しばしば、「チェンバロまたはピアノフォルテのためのソナタ」などと題され、あんなに著しく音色の違う2種類の楽器のどちらで弾いてもよいことになっていたのである。 また、ドイツではクラビコードという小型の鍵盤楽器も非常に愛好されていた。18世紀ごろまでのドイツ系の作曲家の場合は、クラビコードでの演奏も念頭に置いていたと考えたほうがいいのである。すなわち、作曲家たちは、作曲に当たって、特殊にチェンバロ、ピアノフォルテ、あるいはクラビコードのうち、どれか一つの音色を、絶対的な前提として想定することをしなかった。これらを総称する「クラヴィーア」用の音楽として書くという態度であったのだ。当然、音楽は、音色に大きくは依存しない発想の音楽、音色にあまり依存しない書き方の音楽になる。つまりは、演奏に当たっては、各音のタイミングと、長さ、そして、多少の強弱の変化(チェンバロにおいても、通説とは違って、ある程度の強弱の変化はある)によって音楽を語って行くようなつくりになっているのである。こういう音楽ならば、弾く人の考えや好みに応じて、あるいは都合に応じて、音色については、許容範囲がかなり広いのだ。

 もちろん、クラヴィーアの音色すべてに共通する特徴はあるわけだから、基本的には、「発音の瞬間に最も大きな音がして、その後は自然に減衰していく」という音である必要があろう。つまりは、オルガンのような一定の強さで持続する音で弾くのでは、作曲者の意図から外れすぎて、音楽の姿を正しく表現できない可能性が高くなる。しかし、たとえばハープやギターで弾くのならば、それほどの不都合はないはずだということになる。そこでたとえば、少し古いクラシックファンならば、ハーピストのリリー・ラスキーヌが、フルート奏者ジャン・ピエール・ランパルと組んで、モーツァルトの「オブリガートつきピアノソナタ」を演奏した名演のレコードがあったのを思い出すだろう。あるいは、ザルツブルグ音楽祭で、名テノール歌手ペーター・シュライヤーが、ギターの伴奏でシューベルトの「美しき水車小屋の娘」を歌った演奏会のことを思い出すかたもいらっしゃるかも知れない。つまり、こんなことが可能であるぐらい、「シューベルトまで」のピアノ曲というのは、音色に関する要求が柔軟なのである。同じことをショパンのピアノ曲でやったならば、それは致命的な欠点のある演奏となることは火を見るよりも明らかだと私は思う。

 さて、現代のピアニストが18世紀曲を現代ピアノで演奏するのが普通である理由の二つ目は、「ピアノフォルテという楽器じしん、歴史上、たえず進化し、変化していった楽器であった」ということである。モーツァルトは、20歳のとき、それ以前に弾いていたピアノフォルテに比べてアンドレアス・シュタインの製作したピアノがいかにすぐれているかを感激した調子で父親に書き送る。そのモーツァルトが、さらに10年ほど後には、アントニオ・ワルターが製作した、さらに改良されたピアノを愛用していたことが知られている。そして、ハイドンは、年下のモーツァルトよりも長生きした結果、イギリスで、新しい「イギリス式アクション」を用いたブロードウッドの力強い響きに魅せられて、響きの豊かなソナタを書くようになる。ベートーヴェンの場合も、幼いころに弾いていたチェンバロから、おそらくワルターなどのウィーン製ピアノフォルテを経て、さらにエラール、ブロードウッドなど、より音域が広く響きも豊かなピアノフォルテへとつぎつぎと愛用楽器を変えていく。

 そして、産業革命の進展と市民社会の出現により、鋼鉄製フレームの採用を可能とした技術的進歩と大音量への欲求が一致したところに、ついに現代ピアノが登場し、チェンバロやピアノフォルテは決定的に駆逐されるに至った。そう、ピアノフォルテは、いったん滅んでしまったのである。そういうわけで、このようにピアノが「進化」していった結果、鋼鉄製フレームの現代ピアノは、19世紀後半から20世紀前半にかけて、18世紀のピアノフォルテ作品を弾くことのできる、唯一の正統的な楽器であったのだ。ようやく20世紀も後半になって、「オリジナル楽器」への探求の動きが始まり、古い時代のピアノフォルテが複製されて、少しずつ使用がこころみられるようになってきたに過ぎないのである。

 さて、そこで、電子楽器でこれらの「現代ピアノ登場以前」のピアノ曲を演奏する可能性は、どの程度にあるだろうか。

 すでに以上の考察から明らかではないかと思うが、私の考えは、「電子楽器にも、現代ピアノにかなり近い可能性、遜色ない可能性がある」というのである。第一に、音色・音質が、現代ピアノとは異なっているということは、これら古ピアノの作品の演奏に際しては、何ら欠点とならない。第二に、作品そのものが、音色に大きく依存していない。第三に、したがって、作品の表現内容は、音の強さ・長さ・タイミングによって描かれる「フォルム」に依存しており、この点では電子楽器の表現可能性は現代ピアノに何ら劣ることはないからである。

 次に、MIDIシーケンスで演奏するという問題だが、これについては、この場合の演奏上の課題が、ある音色を前提としての、一つひとつの音の「強さ・長さ・タイミング」の問題に帰着するのだとすれば、生ピアニストが指で弾くのに比べて何ら不利な点はないばかりか、むしろ、一つひとつの音についての弾き方を徹底的につきつめ、演奏者が納得が行くまで磨きつづけることができるという点で、 MIDIシーケンス制作による演奏の方が、生ピアニストの演奏よりも一面では原理的に有利な立場にあるとさえ言えると私は考える。前述のミュージシャン氏は、「雰囲気」などの要素や「精神性」については MIDIシーケンスによる表現は不可能だという説であったが、この説には一切根拠がないと私は思う。たとえばオルガン曲について考えてみれば誰にも納得が行くであろう。機械装置であるパイプオルガンの演奏においては、いったん使用する音色が定められたならば、演奏者が行っている操作は各音の鳴り始めのタイミングと鳴り終わりのタイミングの管理がすべてなのであって、ここにおいては、どんな「雰囲気」も、どのような「精神性」も、各音がどういうタイミングで発せられ、いつ消されるかという操作のみを通じて生じる現象なのである。そこには他の原因は一切介在しない。古ピアノのための曲においては、これに、音が弾かれるときの「強さ」が加わる。だが、それだけである。ここにおいて、MIDIシーケンスの音楽演奏能力には何らの欠点もないのである。

 もちろん、それはあくまでも一般的可能性としてである。奏者が瞬時の判断を積み重ねてリアルタイムに(すなわち普通に)演奏するという音楽演奏の自然な姿とはかけ離れた、一音一音の鳴りを確認しつつ試行錯誤もまじえて演奏を構成するというMIDIピアニストの方法によって、現在までにどの程度のことが達成されているか、という問題は、上記の理論的可能性の問題とは一応別の次元に属する。それについては、MIDIピアニスト個人が、みずから語るべきことではなかろう。ただ、一つだけ付け加えておきたいのは、古ピアノ作品を演奏するさいの、現代ピアノの問題点である。それは、音色の違いがあるというだけにはとどまらない。巨大な音量を得るために重く深くなった鍵盤は、古ピアノのそれとはまったく違う、演奏困難なしろものになっているのである。これがために、現代ピアノは、かつての「神童モーツァルト」がやったように6歳やそこらで弾きこなすことなど、とうていできない演奏困難な楽器になってしまった。ことに難しいのは、弱音で速い音型を鮮やかに表情豊かに演奏することではないかと私は考えている。そして、MIDIシーケンスによる演奏が、そのような技術的困難にまったく無縁であることはここで改めて言うまでもあるまい。

 電子楽器をMIDIシーケンスで駆動するMIDIピアニストの演奏方法は、少なくとも18世紀以前の「古ピアノ」のための作品を演奏するさいには、現代ピアノによる生演奏と、同等に近い可能性か、ことによるとそれ以上の可能性をすら持っている。その可能性を現実のものとできるかどうかは、ひとえに、MIDIピアニスト(たち)の音楽性だけにかかっているのである。







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