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MIDIピアニズムにおける
ヴィルトゥオジティーの問題について

 鍵盤楽器に限らず、楽器演奏において、ヴィルトゥオジティーは避けて通れない問題である。  

 MIDIピアニストとヴィルトゥオジティーとの関係はいかなるものか、現時点での考えを書いておきたい。



1 ヴィルトゥオジティーとは何か

 ヴィルトゥオジティーという言葉は日本語に翻訳されていないのだろうか。ふつうは「超人的な技巧」のことだ、ぐらいに思っておいてよいのだろう。常人にはけっして到達できないようなとんでもない技巧を身につけ、それを披露することで聴衆を感心させ熱狂させる、名人芸のことである。

 これが最ももてはやされたのは19世紀なかばから20世紀の初頭ぐらいのことらしい。そして、ピアノにおけるヴィルトゥオーゾの始祖みたいな人はフランツ・リストであると考えておいてよいのだろう。そして、ラフマニノフがそのタイプのピアニストでは最後の人だったと言われている。だが、今生きている人で言っても、ポリーニとかアルゲリッチとかいったピアニストは、その「超人的な技巧の冴え」で私たちを楽しませてくれる点で、遺憾がない。



2 技術と音楽

 作曲家(文芸批評家ではない)の小林秀雄さんというかたが、かつて雑誌「ハミング」で、音楽における「職人芸」について書かれていた文章のなかで、批評家たちが若い演奏家のことをすぐに「技術はあるが内容がない」などと切って捨てがちなのを口を極めて非難していた。私自身はそこまで心ない演奏批評を読んだ記憶はあまりないのだが、たしかに、この国の音楽批評においては、「内容」「精神性」を重んじる傾向が強いのかなとは思う。

 だが、音楽という芸術において、「技術」の持つ重要さははかり知れない。

 ピアニストたちは猛練習につぐ猛練習をし、あの演奏困難な重い鍵盤の楽器を自在にコントロールできるように自分の指を鍛え上げることによって、初めて、精彩のある演奏が行い得るようになる。たとえばリズムの良さ、速い走句をくっきりと鮮やかに粒ぞろいの音で弾くこと、連打される和音の一つひとつを美しく響かせること、跳躍する音を間違わず正確に鳴らすこと・・・他にもたくさんあるだろうが、たとえばこれらは、ピアノ演奏において音楽表現のために欠くことのできない技術である。

 とは言え、それは当然のことである。問題は、これらの「技術」が一人歩きし、「べつにそこまで速く弾かなくてもいいのではないか、むしろそんなに速く弾いたのでは音楽が味わいにくいものになってしまうのではないか」というような弾き方になってしまう場合だろう。かつての「ヴィルトゥオーゾ」が滅んだについては、人々がそのことに気づいたことも、一つの理由だったのではあるまいか。



3 信じられない離れ業=デニス・ブレインの場合

 デニス・ブレインは、たしかモノラル録音しか残していないと思うから、1950年代に亡くなったのだったと思う。(調べればいいのだが、つい不精してしまって申し訳ない。)夭折した天才ホルン奏者として名高い人である。

 私は、この人がカラヤンと組んで録音したモーツァルトのホルン協奏曲全曲のLPレコードを持っていて、中学生のころから愛聴していた。何とも言えず爽やかで、同時に暖かでなつかしい肌合いの、本当に惚れ惚れするしかないすてきな音楽であった。

 だが、このレコードでのデニス・ブレインの演奏から、そんなに目もくらむようなすばらしいヴィルトゥオジティーを感じることは私にはできなかった。それで、かなり後のことだが、大学生のとき、ホルン奏者のG君という人に「デニス・ブレインって、どこがそんなにすごいの?」と尋ねてみた。私とすれば、「普通は人にはできないこういうことができるのがすごいのだ」といった類いの「技術的」な説明を期待しての質問であった。

 だが、G君は、こんなことを言った。

 「イシダさん、ハスキルの演奏が好きでしょう。ハスキルがいいのと同じように、デニス・ブレインはいいんですよ」

 これは、さすがに立派なお医者さんになった聡明なG君らしい、私によく通じる言い方だった。クララ・ハスキルは、べつに指がとくによく回る人ではなかったが、どの音も音楽的に弾き、どの音一つ取っても「心から出た音」だと感じられる点で、抜きんでた天才ピアニストであった。デニス・ブレインも、ホルンという楽器を吹いて、本当にすばらしく音楽的な演奏をやった人だったのである。

 だが、並み居る大ピアニストたちの中にあっては、とくに指がよく回る技巧的な名人とは言えなかったハスキルとちがって、デニス・ブレインは、ホルンという楽器を吹いて、他の人はとてもこうは吹けない、という鮮やかな吹き方ができた人でもある。速い音型も、まったく音を外さずに、本当にみごとに吹いてしまう。ホルンという楽器が、どんなに演奏困難な楽器であるか・・・たとえばクラリネットやフルートでならば中学生でもわけなく吹けるような音型が、ホルンで吹くとなると、途方もなく難しくなることがしばしばある。そういう、たいがいのホルン奏者がもたもたした吹き方しかできないところを、デニス・ブレインが、どんなにらくらくと鮮やかに演奏していたか、今の私ならわかる。

 G君は、だが、デニス・ブレインは、「ハスキルのように」すごいのだ、と言った。これは、デニス・ブレインが、単に「普通の人はこうは吹けない」という吹き方のできる、ホルンという楽器のコントロールの能力においてずば抜けた人であるという面よりも、それを武器に、彼がどんなにいい音楽をやったかを強調したかったからなのは明らかだ。そしてそれは、しごくもっともだと思う。

 ブレインは、他の人にはうまく吹けないような難しい速い音型でも、「鮮やかに」吹くことができた。そして彼は、そのことによって、どんな音型も、じつに音楽的に、すばらしく適切な表情で吹くことができた。彼の演奏技術は、技術のための技術でない、「音楽のための技術」に完璧になりおおせていた。

 いや、本当は話は逆なのだろう。

 デニス・ブレインは、ホルンという楽器を手にして、たとえばモーツァルトの1番協奏曲の中の、移動ドの階名で言えば、

 ソミドドドー、レドレミドー

という音型において、最初のソからミはレガートに、連打する3つのドはスタカートに、また、レからドはレガートに、その次のレとミはスタカートに・・・といったアーティキュレーションで、適切なアクセントを利かせながら、軽くて丸い惚れ惚れするような美しい音で吹く。彼は「こう吹きたい」と、まず思ったに違いないのである。そして、そのために、彼は、天賦の才能に磨きをかけ、猛練習をして、そう吹けるようになったのであろう。

 彼のはそういう演奏である。単に「ホルンのコントロールがじょうずだ」というのではない、「すばらしく音楽的に演奏されている」のである。そして、ここがこう鮮やかに吹けるかどうかで、音楽の精彩はまったく違ってくる。他のホルン奏者も、ブレインが吹いたのと同じように鮮やかにここを吹きたいと思うだろうが、他の誰にもこうは吹けないのだ。だからこそ、デニス・ブレインは、伝説的な天才ホルン奏者なのである。

 ところで、「今の私なら、デニス・ブレインがどんなにすごい技術の持ち主だったかが、わかる」のは、何故かといえば、それは、「他の、デニス・ブレインほど上手ではないホルン奏者の演奏もたくさん聴いたから」に他ならない。中学生のころの私は、モーツァルトのホルン協奏曲といえばデニス・ブレインの演奏しか聴いたことがなかったのだし、ほかの管弦楽曲の中に出てくるホルンの演奏も、まだあまりたくさんは聴いていなかった。そういう私には、デニス・ブレインは「いい音楽をやる人」ではあっても、「演奏技巧が抜きん出てすぐれた人」だとはわからなかったのである。

 要するに、ある名人演奏家がどんなに上手であるかは、「もっと下手な、普通の(とは言えみんなプロ演奏家である)人たち」と比べなければ、浮かびあがって来ないわけだ。だって、さっきも書いたように、デニス・ブレインだけが鮮やかに吹ける「ソミドドドー、レドレミドー」というフレーズも、クラリネットやフルートなら、とりあえず、中学の吹奏楽部の子だってわけなく吹くような程度の「難しさ」に過ぎない。あれはホルンだから難しいのであって、他のたいがいの楽器でならば、わけなく吹けてしまうのである。極端な話、ピアノで弾くのなら、バイエル程度だろう。

 逆に言えば、たとえばショパンの「小犬のワルツ」のメロディーをピアニストたちが弾くのと同じ速さで吹かなければならない羽目になったとしたら?クラリネット奏者なら朝飯前だろうし、フルート奏者も、腕に覚えのある人なら頑張ってみようと思うだろう。しかし、あれをホルンでやれと言われたのでは、いかなデニス・ブレインでも、「そんな無茶な」と悲鳴を上げたに違いない。そんなことができるはずはないのだ。

 ここに、ヴィルトゥオジティーというものの、一つの側面・・・というよりも、その本質がある。つまり、ヴィルトゥオジティーというのは、常人のレベルというものへの認識がまずあって、そこからの逸脱の度合い、言わば「偏差値の途方もない高さ」にその本質があるのだ。だから、ホルン奏者というのが「普通は」どの程度にしか吹けないものであるかを知らなかった中学生の私には、デニス・ブレインの演奏からは、「すてきな音楽」は感じられても、「すごい技術」は感じ取れなかったのである。

 サーカスの空中ブランコの演者が高い空中でブランコからブランコへと飛び移るのに私たちは拍手喝采する。普通の人間にはとてもできそうにない離れ業だからである。だが、テナガザルだかオナガザルだか、そういう、樹上生活をしているサルのたぐいならば、あんなことはできて当然のことかも知れない。だとすれば、そういうサルたちは、空中ブランコの離れ業を見たって、さっぱり感心しないに違いない。

 そのように、「人間業ではない」と感じさせるところに、ヴィルトゥオジティーの本質がある。「あんなことができるなんて、信じられないなぁ」という感慨を生じさせることなのである。

 では、この感慨が得られること、すなわちヴィルトゥオジティーに対する理解は、音楽にあって、どの程度に重要な要素なのであろうか?

 結論から言えば、私は、ヴィルトゥオジティーに関しては、「理解できるほうが楽しみが増すが、理解できなくても音楽の本質的理解には関係がない」という程度のものだと考える。つまり、音楽において、偏在する魅力の一つではあるけれども、やや周辺的な楽しみ、非本質的な楽しみだと思うのである。

 中学生の私は、デニス・ブレインの超絶的な名演を聴いているのに、ホルンという楽器の演奏における「標準的な水準」を知らないため、ヴィルトゥオジティーは感じ取ることができなかった。しかし、音楽が極上のものであることは、十分に感じていたし、味わっていたつもりである。今の私に、あそこまで雑念なく音楽に身を任せることができるかどうか疑問なぐらい、私は、ブレインとカラヤンの演奏を聴きながらいい気持ちになっていた。このことから、ヴィルトゥオジティーの完全な相対性、相対的性格を結論してしまっても良さそうにも思える。



4 信じられない離れ業=フリードリヒ・グルダの場合

 だが、話はそれほど単純ではない。ピアノとか、あとバイオリン、クラリネット、フルートなどにおいては、そのヴィルトゥオジティーは、門外漢にとっても比較的理解しやすい、味わいやすい傾向があるように思う。この点は、やはり、検討しておかないと正確な議論と言えまい。

 また昔話になるが、小学6年から中学1年ごろの私がシビレていたレコードの一つに、フリードリヒ・グルダが演奏したベートーベンの「悲愴ソナタ」「熱情ソナタ」などを収めたものがあった。また、少しあとのことになるが、中学2年か3年ぐらいのときだったか、同じグルダが弾いた、ベートーベンの第四協奏曲にも熱狂していた。

 周知のようにフリードリヒ・グルダは、20世紀後半を代表するすばらしい技術を持ったピアニストの一人であって、私の考えでは、とくに若いころのグルダは、単にうまいというだけでなく、その「うまさ」を音楽表現における「かっこ良さ」として生かすという点で、抜群にすぐれた人だった。とにかく、難しそうな音型を、唖然とするほどの速さで軽々と弾いてしまうというだけでなく、そのことを「上手に見せつける」というか、「かっこよく見せる」のである。

 この点、たとえばホロビッツのような人は、私の好みには合わなかった。彼が弾いた「熱情ソナタ」のレコードも私は聴いたけれど、吉田先生などが「胸のすくような演奏」と書いていらっしゃったのが不思議でしょうがないぐらい、どこで「胸がすく」のか、さっぱり理解できなかった。テンポが揺れすぎるのが気になるし、目にも止まらぬ速さで鮮やかに弾いていると感じる箇所も見出せなかったし、べつだん、音がきれいに揃っていて感心させられるということもなかった。上記のいずれの点においても、フリードリヒ・グルダの旧録音は、じつにすばらしいのである。

 私の耳がおかしいのかも知れないが、そういうわけで、私はホロビッツのベートーベンの良さはよくわからない。

 とにかく、ここでグルダが見せている「かっこよさ」はいまだにこれを越える演奏は聴いたことがないほどのものなので、よほど冴えた腕前を見せてくれないと私は感心できなくなっていた。その後、同じグルダの2度目の録音や、さっきも触れたホロビッツ、バックハウス、アシュケナージ、ポリーニ、そしてラザル・ベルマンといった名人を含めて、「熱情ソナタ」はたくさん聴いたけれど、ついに、グルダの旧録音をしのぐような圧倒的な技巧の冴えを感じさせてくれた人はいなかった。中では断然、ポリーニの演奏がすごかったけれど。逆に、ひどくがっかりしたのはベルマンという人で、すごいヴィルトゥオーゾだという評判を聞いていたのに、そして、確かに音がきれいで、あぶなげのない技術を聞かせてはくれたが、胸がすくような、凄みのある、言わば「表現としての技巧の冴えのかっこよさ」は、私には聴き取れなかった。

 たとえば、開始後間もなくの、フォルティシモで両手が交互に打ち付ける和音連打。あれは、たぶんベートーベンがこの曲でやったのが初めてなのではないのかと私は想像しているのだが、グルダでは、本当にとんでもない速さで次々と和音を打ちつけながら、どの和音も完璧な響きで鳴らし切っていて、すさまじい迫力を生んでいる。あれでこそ、あの部分は、音楽史上かつてなかった、すさまじいエネルギーが爆発する瞬間となるのだ。それが、ベルマンでは実に鈍重にゆったり弾かれていて、これでは技巧を味わうどころじゃない、とあきれ果てた記憶がある。グルダの「新録音」のほうも、演奏全体としての円熟味という点では旧録音をしのぐかも知れないが、単純に「技巧の冴えによるかっこよさ」という点では、かなり落ちるように思う。これは私の偏見ではないと信じている。グルダ自身、「自分は16歳のときがいちばんうまかった」と言っていたのは有名だ。16歳のときがいちばんうまかったのなら、熱情の初録音をした30歳ぐらいのときはそれに次いでうまかったことだろう。2度目の録音をした40歳代のころは、かなり下手になっていたはずである。

 では、なぜデニス・ブレインの演奏からはヴィルトゥオジティーを感じられなかった中学生の私が、グルダが弾く「熱情ソナタ」においては、圧倒的なヴィルトゥオジティーを満喫することができたのだろうか?

 それは、さほどたいした謎ではない。ピアノという楽器は、単にある音だけ鳴らすのなら、しごくやさしい、あらゆる楽器の中でいちばんやさしい楽器だと言ってもよい楽器である。何しろ、鍵盤を指で押せば音が鳴るし、しかも鳴ったその音は、大ピアニストが弾いた音とさしたる違いは何もない、美しい音である。発音することにおいては、こんなに容易な楽器はほかにないのである。

 だからこそ、ピアニストに求められる演奏技巧の高さは、他のあらゆる楽器を遠く引き離す、途方もないものである。細かいたくさんの音符を猛烈に速く弾くことにおける要求。遠く離れた音へとものすごい素早さで飛び移ることへの要求。つぎつぎにたくさんの音を一度に鳴らすことにおける要求。どこを取ってみても、ピアニストに求められるほどのことを求められる楽器はほかにはない。事情はホルンとは正反対なのだ。

 ホルンという楽器は、確かギネス・ブックに「最も難しい楽器」として掲載されているはずで、単に音を出すだけでも難しいし、音が裏返ってしまったりする事故も起こりやすい。また、指を使っての音の操作はほんとうに限られていて、唇の形や息の吹き込み具合の加減だけでいろんな音程を出さなければならない。もともとのホルンは、まったくただの管であって、指の操作は何も使わない楽器だったぐらいのものである。その結果、ちょっとした唇の形の違いや息の入れ方の違いによって、狙った音とはぜんぜん違う音程の音が鳴ってしまう、いわゆる「音を外す」という事故が、プロ演奏家でもしょっちゅう起こる、恐ろしい楽器なのである。しかも、そういう事情だから、つぎつぎに素早く別な音に移っていくのは非常に苦手である。だから「小犬のワルツ」はどんな名人にも吹けないのだ。作曲家たちは、だから、ホルンに吹いてもらう楽譜だと思ったら、そう細かな速い音符を書き込んだりしない。うんと手加減して、やさしい楽譜を書くのである。

 ピアノはホルンとは逆である。音を出す仕組みとして、これほど単純で容易な楽器はほかにはない。それだけに、作曲家は、ピアニストにはものすごい高レベルの要求をつきつけるのである。その難しさは大変なもので、そもそも、「こんなに速く指が動いたり、こんなにすさまじいたくさんの音をつぎつぎと打ち鳴らしたりできるなんて、信じられない」と、誰でもが感じるような、ものすごいことをさせられるようになった。言わば、人間にとって基本的な動作である、「たたく」とか「ある場所を狙って手をそこに持って行く」といった事柄において、ピアニストに求められる水準が、常識的に考えられないような高いレベルになってしまっている結果、ピアノなんて一度も弾いたことも聴いたこともないような人でも、「何だか、すげえよな・・・」と思えるような、技巧的な冴えが、素直に感じられるのである。



5 「純粋なヴィルトゥオジティー」

 そこで、私はここで、普通に言うヴィルトゥオジティーとは一応区別される、「純粋なヴィルトゥオジティー」という概念を提出してみたい。どうも、あまりうまい言葉が思い付かないのだが。

 ここで仮に「純粋なヴィルトゥオジティー」と呼ぶのは、「その楽器における通常の技術水準や演奏困難さについて予備知識がなくても容易に感じられる、音たちの動きのめまぐるしさ・小気味良さに由来する爽快感」といった概念である。つまりは、中学生の私がフリードリヒ・グルダの「熱情ソナタ」の演奏から感じ取った「かっこよさ」に近いものである。

 これが存在し得るための第一の基礎的条件は、おそらく、「人間の体の動きそのものとしてこんなに速くて正確なものは考え難い」と感じられるほどの音の動き方であることだろう。ピアノのように指で叩く運動であるにせよ、クラリネットやフルートのように、息の吹き込み方や唇・舌の操作と指の動きが組み合わさったものにせよ、「そもそも、人間に、このような速さと正確さを兼ね備えた音のコントロールが可能なのか」と驚かされるようなものであるということだ。デニス・ブレインのホルン演奏が、この条件を十分に備えているものではないということは、もはや言うまでもあるまい。

 だが、この第一の条件に加えて、「音楽的効果として説得力のある、かっこいい表現にそのスピードと正確さが奉仕していること」を挙げたい。たしかに音の動き方の速さと正確さから私たちはそれを生身の体で制御している人間の存在に驚嘆することができる。だが、それが音楽的な意味での快感に少しもつながっていないような場合は、この「純粋なヴィルトゥオジティー」を味わうことはできないはずだ。要するに、どんなに音が速く動いていたって、それが音楽的な意味で気持ちのいい動きになっていなければ、極端な話、ただの騒音としか聴こえないこともあり得る。「技術はあるが内容がない」と、心ない批評家が若い演奏家を安易にけなすとき、むろん小林秀雄さんのそうした批評家に対する非難は極めて正当なものではあるが、背景にこの事情がひそんでいることも確かである。

 私ごとで恐縮だが、「松江」のCDに対するライナーズノートをお願いしたバロックオーボエ奏者・大谷文彦氏は、私の演奏における「トリルの美しさ」について、「一粒一粒が真珠の輝き」だと誉めてくださった。私とすれば、身に余るお褒めに感激した箇所だった。だが、私の経験からご報告させていただくと、実は、トリルが「鮮やかに」鳴っているように聴いていただこうと思うと、原則として、隣り合う音どうしを同じ強さで弾いてはならないし、隣り合う2音が相次いで鳴るのを仮に「1サイクル」と呼ぶとすれば、前後する2つのサイクルを無闇と同じ強さで弾いてもいけないようなのだ。逆に、何サイクルかが集まって形作られる一個所のトリルの内部において、音の強さは激しく変化させなければならず、各サイクルに割り当てられる時間(つまり音の長さ)もかなりの長短をもうけなければならない。そうでなければ、気持ちよく聴こえる弾き方にはけっしてならないようである。

 なぜそうなのかを考えることはここでの課題ではない。だが、音楽演奏における「機械的な正確さ」というものが、それだけでは「かっこ良さ」を表現することに必ずしもつながらないのは、確かであるようだ。何が言いたいかというと、いかに「速く、正確に」弾けていても、どうもそれだけでは人間の耳に気持ちいい演奏にはならないようだ、ということを、私なりの経験で、感じているということなのである。

 そこで、「純粋なヴィルトゥオジティー」が感じられるためには上記の二つの条件が関係しているとして、では、「より本質的、より重要」なのは、いずれの条件であろうか?

 それは、以上の考察の流れから、すでに明らかではなかろうか。すなわち、どんなに「人間業ではない」と思われるほどのすばやい指の動きが披露されても、それが音楽的に適切な効果に結びついていなければ、批評家から「内容がない」と一蹴されかねないことになる。大切なのは、目にも止まらぬ速さや正確さが、音楽表現に奉仕していること、胸のすくような気持ちのよい「かっこよさ」を実現することなのだ。

 ただ、そうは言っても、第一の条件、「生身の人間の業なのに、とてもそうとは思えない速さ・正確さであること」が、前提的なもの、すなわち必要条件であるという可能性は残っている。早い話、仮に、いかにMIDIピアニストの演奏においてトリル演奏が鮮やかであったとしても、そのことは、MIDIピアニストの肉体が速く動いていることを意味しない。聴く人はそれを知っている。「コンピューターにやらせてるんだから、速く弾けても当たり前」なのだ。ここにおいて、ヴィルトゥオジティーは、その前提条件を失い、まったく成立しなくなってしまうのではないか、ということは、一応考えられる。

 今のところ、私は、この説に対しては、完全に否定するだけの論拠を持ちあわせていない。だが、二つのことを言っておきたい。

 一つは、CDを聴くぶんには、どうせ演奏者の姿は目には見えないのであって、説得力のある音楽が鳴り始めたら、その瞬間に、それが指で弾かれたものかコンピューターが演奏しているものかというのは、どうでもいい問題になることもしばしばあるということである。大谷先生をはじめとして、私のつたない演奏でも、気に入ったとおっしゃってくだるかたが、少しはいる。そうした人たちは、私の演奏(と言っても機械が弾いてくれているのだが)における「技巧の冴え」を、素直に感じてくださっている場合が多い。そういう感じかたが、どうも、人間には可能であるらしい。

 そこで、自分のことを例にして語ってしまって僭越至極だとは思うのだが、やはりこのことは、上記二つの条件のうち、第二の条件、「速さや正確さが音楽表現に奉仕していること」が、第一の条件たる「『人間業なのに』、そうは思えないような速さ・正確さであること」よりも、より重要であるということを物語っているのではなかろうか。「純粋なヴィルトゥオジティー」が「純粋」であるゆえんが、ここにある。音が発せらるために採用された方法の如何を問わず、音たちそのものの運動の小気味良さから胸のすく感じを味わうことは、十分に可能なのではないか、と私は思うのだ。

 余談になるが、それとともに、要は、聴き手が偏見や悪意なく素直に聴いてくださるかどうかという、聴き手の姿勢の問題も大きいのかなと私は想像している。「これ、どうせ機械がやってるんだろ?俺は機械はキライなんだよな」と思いながら聴いてくださる聴き手の心には、けっしてMIDIピアニストの音楽が届くことはあるまい。

 言っておきたいことの第二は、ピアニストたちの指の速さや正確さが一種の「職人芸」と呼んでよいものだとすれば、 MIDIピアニストにも固有の「職人芸」の側面があるということである。これが、「機械で演奏している。生身の人間の業ではない」というMIDIピアニストの弱点(?)を補ってくれる、有力な要素ではなかろうかと私は考えている。

 これは節を改めて詳しく論じてみたい。



6 職人としてのMIDIピアニスト

 芸術とは、人間の手仕事であるところに、その根本的な成立要件がある。たとえば、富士山の美しい姿は、人を感動させることがしばしばあるだろうが、富士山は芸術作品ではない。「自然の芸術品」といった表現が比喩的に用いられることはあるが、それは言わば作者としての「神様」を擬人的に想定するような気持ちで用いられる表現であって、芸術作品が与える感動と自然の美しさが与える感動とは、区別しておかなければならない。

 もともと芸術作品とは、かつて吉田秀和先生がストラビンスキーの言葉などを引きながらどこかでお書きになっていたように、椅子などの家具を作ったりする職人芸と同様の職人的技術にその基礎がある。それは作曲という抽象的な作業においても、また演奏芸術においても何ら変わることはない。作曲者たちは音符を組み合わせて音たちの活躍の場を整えることにおいてみずからの「技術」を駆使する。私たちを感動させる彼の「仕事」の基礎には、確固たる職人芸が横たわっている。演奏家においても、すでにさんざん論じてきたように、鍛え上げられた腕前がその仕事の基礎にあるのであって、小林秀雄氏が言うように、職人芸が背後になければ立派な芸術は生まれないのである。

 ところで、MIDIピアニストは、「機械に演奏させる」のであるから、職人芸とは無縁な存在であるかのように思うかたもいらっしゃるかも知れないが、そんなことはない。ここにもやはり、一種の職人芸、それなりの技術と手作業の裏付けがあるのだ。

 このことを、少しでもMIDIをやってみたことがあるかたは、わりとすぐに理解してくださるようだ。楽曲を構成する各音の強さ・長さ・タイミングなどを一つ一つ吟味し決定していって楽曲の演奏を制作する MIDIピアニストのいとなみは、神経を研ぎ澄ませて膨大な手間をかける、非常な根気を必要とする職人仕事なのである。寄せ木細工や漆塗りなどの職人さんが一つの商品(作品)を仕上げるのにどれぐらいの時間を必要とされるか知らないが、たとえば私がモーツァルトのソナタの演奏を制作するときに要する「それに専念して、1曲につき1か月」という時間は、職人が一つの作品を完成するのに要する時間としておそらく短い方ではあるまいと想像している。

 むろん、それは、事情を知らない人にはわからないことである。スキャナを通じて楽譜を読み取ってその通りのMIDIシーケンスを吐き出してくれるという「便利な」ソフトウェアだって存在する(私は後述する理由で今後ともそうしたものを一切使用するつもりはないが)ことだし、それどころか、メロディーを入力したら、それを元にさまざまな編成によるアレンジをほどこした演奏を自動生成すると称するソフトウェアもあるご時世である。そしてコンピューターの性能の進化はとどまるところを知らない。 MIDIピアニストの演奏も、何か、最新のソフトウェアの持つ「音楽的演奏を実現するアルゴリズム」の助けを借りて、制作されたのだろうと想像されたかたも少なくはなかった。

 だが、そんな、「クラシック楽曲の演奏を助けてくれるアルゴリズム」など存在するはずもないし、今後も、ごく限定的な用途のアシスタント的なツール以外は、けっして現われまい。ここで私が想像しているのは、たとえば、符点音符の「ハネかた」を、元々の3:1以外にもさまざまな比率のものをたくさん用意してくれていて、そのなかから選べるようになっているようなシーケンスの断片集だとか、そんな感じのものである。そのように、ある程度、便利な「選択肢」を用意してくれるような補助的ツールはあり得る。だが、どこまで行っても、ある曲のある箇所の音符をどう弾くかを「決定」するのは演奏者の意志でしかあり得まい。楽曲の譜面を元に、どう弾くのが最適であるかを「選択」してくれるアルゴリズムなどが、存在し得るはずがないと私は思う。それは、「文学作品の翻訳をすぐれた翻訳家以上に上手にやってくれる自動翻訳ソフト」と同じぐらい、あり得ないものだろう。

 このように、ちょっとした誤解も、よくある。だが、それは、ひとこと説明すればすぐにわかっていただけることだ。「コンピューター上に演奏者の意志を書き付けて行くというだけのことで、どの音をどう鳴らすかを決めているのは、すべて演奏者なのですよ」というぐらいの説明で、すべては了解される。 MIDIピアニストの演奏制作が、丹精をこめた職人仕事であることは、きっと広く理解され得ることに違いない。

 だが、「楽譜を読み取ってMIDIシーケンスを作る」ようなソフトウェアもあるというのに、なぜ、MIDIピアニストは、そういうものを使わないのか?あとでいろいろ手入れするにせよ、そういうものを使ったほうが便利ではないか?

 せっかくだが、私はそんなもの使う気になれない。なぜかといえば、最大の理由は、「そんなもの使っても百害あって得るところはごくわずかしかない」ような気がするからである。シーケンス制作において、ある一つの小節についての弾き方の確定に、10分を要するとしよう(実際、だいたいそんなもので、通常は、数分から十数分、長くて20分かそこらである。)このうち、単純に、ノートナンバーとステップタイム、すなわち、読譜ソフトが「自動的に」作ってくれる範囲の情報を入力するのに要する時間は、じつに数十秒に過ぎない。私が使用している「レコンポーザ」というソフトウェアは、キーボードからまったく手を離すことなく、テンキーなどを使って入力ができる。音の高さを指定する「ノートナンバー」は通常二桁の数字(または音名入力で、アルファベット一文字と一桁の数字)にすぎないし、ステップタイム(つまり四分音符なのか八分音符なのか・・・など)は、ファンクションキー一発で確定できる。また、同じ長さの音符が連続する場合や、同じ音程の音符が連続する場合などには、それに応じて入力の手間が簡単になるように作られている。

 こんな簡単な作業ぐらい、自分でやったってぜんぜん苦にならない。そして、どうせベロシティー(鍵盤をたたく強さ=127段階)や、ゲートタイム(実際にその音が持続する長さ=2〜3桁の数値)は一つ一つの音について入力しなければならないのだし、その音符を弾くときのテンポも、いちいち指定しなければならない。それらを行って、はじめて私は、その部分を鳴らしてみる。そうしないと、じつにもってケッタイな、音楽ならざるものを聴かなければならない羽目になるからである。それは自分のイメージに対する暴力ですらある、とは、前にもどこかで書いたことがあった。

 そして、ある部分の弾き方について苦労して確定したら、それを別の部分にある程度流用したりする。クラシック楽曲には、同じ音型・似た音型が何度も繰り返し出てくる場合がよくあるから、そういう場合には、すでに作った弾き方をできるだけ流用して(つまりペーストして)、それに手直しを加えることで作っていくのが、実際的だし能率的なのである。それをやるのに、すでに機械が打ち込んだ「ベタ打ちの音符」が存在したのでは、かえって面倒になる。

 そういうわけで、MIDI用語で言う「ベタ打ちシーケンス」を自動生成してくれるソフトウェアなど、私には用がない。だが、その理由は、上記のような実際的な「メリットとデメリットの勘案」から来る判断だけではないかも知れないのである。やはり、一つ一つの音符を自分で入力する職人仕事を私は愛しているのかもしれないと思う。私は、中空成形金型業界にその名を轟かせた、すぐれた職人(旋盤工)を父に持ったことを誇りに思っている。そして父の職人気質を受け継いでいることを、私は嬉しく思っているのである。

 MIDIピアニストの演奏には、肉体的訓練を経た職人仕事は関係しない。だが、そこには、作曲家が一つ一つの音符を五線紙にたんねんに書きつけて行くのにも似た、「主として頭と耳を使った、根気の必要な職人仕事」が介在している。もしもMIDIピアニストの演奏が、楽しんでいただけるほどに音楽的なものになっていたとしたら、そのことを、手間暇をかけた仕事の丹念さ、人間の行った丁寧な「職人仕事」の成果として味わっていただくことも、可能なのではないかと私は思うのである。

 MIDIピアニストの演奏制作における以上のような職人仕事の性格は、 MIDIピアニズムにおけるヴィルトゥオジティーの存在のあやうさをそれ自身として補い切るものではないかも知れない。だが、MIDIピアニストの演奏には、手を使って弾く生ピアニストとは違う種類の、このような職人仕事の介在がある。それを知っていただき、そこに思いを馳せていただくことが、この演奏方法による演奏を十全に味わっていただく上で、何がしかの支えたり得るのではないかと、私は期待しているのである。

(了)


2000年7月29日 (改訂・2001年1月24日)




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