ゼミレポート

       「香港経済の歴史」

趙軍ゼミナール

経済学科3年
学籍番号 9820@@@
氏名    雨宮 剛


目 次

第一章・香港の成立(過去の歴史)
1・中国から見た香港の重要性
2・中国の『社会主義構造』
3・中国の社会主義化からの資本家たちの脱出
4・広東人による香港地盤の形成
5・自由放任の香港

第二章・現在の香港社会の内容
1・地理・文化
2・政治
3・外交
4・国防
5・経済

第三章・まとめ
1・まとめ


第一章・香港の成立(過去の歴史)

1・中国から見た香港の重要性


 中国が開放政策を開始したのは、狂気と凄絶のプロレタリア文化大革命が収束して間もない1979年のことであった。この時期、国家統治機構は機能不全に陥り、農業は疲弊し、国有企業はとてつもない非効率にうごめいていた。

 門戸を開いて海外の進んだ産業技術、経営ノウハウを導入しなければとは考えるものの、門戸を開ければ入ってくる西側からの新しい風に脆弱な中国が耐えることはできそうにない。しかし、対外開放をしなければ発展への端緒をつかむこともできない。好みをきるような苦悩の中でケ小平のなした選択が、特定地域の部分的開放であった。在外華人の出身地域である華南の窓を開き、ここに大陸の外縁で鍛えられ、蓄えられてきた「中国資本主義のエッセンス」の導入を図ろうとしたのである。


 華南に適用された政策措置は、社会主義の原則から離れた柔軟で大胆なものであった。

 「香港効果」を懐に招き入れて発展したのが華南であり、華南は改革・開放期中国の成長を牽引する最重要の地域となった。経済的な力は明らかに在外華人社会から大陸の中国社会へと向かっていったのであり、その逆ではない。


 現在の中華経済世界の図柄がこのようなものであるのは、中華経済世界の形成史を顧みて当然のことである。国共内戦に勝利した共産党軍は、往時の中国資本主義の精髄である上海企業(浙江財閥ならびにそれに淵源をもつ官僚資本系列企業)の資産を没収し、身の危険を察知した企業家、管理者、技術者は大挙して香港に逃避した。無数の市営工商業者も「社会主義的改造」によってその息の根をとめられてしまった。要するに、共産党一党支配体制下の中国において、資本主義的発展を担う主体は全土から姿を消してしまったのである。中国資本主義の精髄が集まったのが香港であった。

 かくして、市場経済を担う主体が大陸中国には極めて薄くしか存在しない一方、大陸の
外縁に広がる東アジア海域世界にこれが厚く蓄積されていたというのが、開放政策の開始された時点における中華経済世界の構図であった。そうして在外華人社会から大陸の中国社会へと向かう経済的な力を戦略化したものがケ小平の対外開放路線に他ならない。

2・中国の『社会主義的改造』

 国共内戦期の混沌を得て成立したのが中華人民共和国であるが、共産党一党支配のこの中国は、企業家的能力を育むのではなく、これを圧搾し企業家を海外へと放出する力を強めた。封建地主から暴力的に没収した土地は貧農・雇農に再分配されたものの、ほどなくして土地の共同化を求める農業集団化運動が全土を覆った。最終的に農地と農民は人民公社という中国流の共産主義組織の中に組み込まれた。中国全土の工業、商業、運輸業の中枢を掌握していた官僚資本系企業の没収も強力に進められた。地主や官僚資本の資産ばかりではない。無数の私営工商業者の行動にも「社会主義的改造」のスローガンの下で強い制約が加えられた。

 「社会主義的改造」は「三反」「五反」運動という狂おしい大衆運動を伴って展開された。三反運動とは、幹部の汚職、浪費、官僚主義という「三毒」に対する反対運動であったが、まもなくこれは「ブルジョア階級」の「五毒」すなわち贈賄、脱税、国家資産の横領・詐欺・仕事の手抜き、原材料のごまかし、国家経済情報の横流しなどに対する「五反」運動へと発展していった。党が「五毒分子」を摘発し、これを労働者が責め、人民法廷で処罰した。人民公社化運動、官僚資本も没収、私営工商業の「社会主義的改造」の過程で中国資本主義の精髄はその根を絶やされてしまった。

3・中国の社会主義化からの資本家たちの脱出

 上海の企業家たちは大挙して海外への脱出を図った。中華人民共和国以前の上海は、長江流域に沿う諸都市をヒンターランドとして要する一大都市であった。また上海は東・南シナ海に沿う諸省を結ぶ沿岸航路の拠点であり、南京条約後の中国侵略をねらう帝王主義
列強にとっての最重要の都市であった。1842年の南京条約によって開港を余儀なくされて以来、上海は中国最大の貿易・金融センター、綿業を中心とした製造業の中心地へと発展した。この上海経済の心臓部を掌握したのがせき浙江財閥であり、この浙江財閥は後に「四大家族」官僚資本へと再編された。植民地香港は、この上海資本主義の精髄を受け入れることによって東アジアにおける最高の繁栄拠点へと転じたのである。

 香港に流入したのは上海の企業ばかりではない。数の上からいえば香港にやってきた人々の圧倒的多数は広東省からやってきた。1850年代には、洪秀全の指揮する農村大衆の反清組織太平天国の動乱が華南一帯を巻き込み、その難を逃れた広東人が香港に流入した。1911年以降は、辛亥革命、国共内戦、日中戦争への拡大といった一連の政治変動から身を守ろうとする人々が逃亡してきた。

 広東省から香港への人口流入は、中華人民共和国の成立後に加速した共産中国の国政の失敗が流入の主因であった。実情の知られることのなかった当時の中国の内部で何が起こっているのかを西側に知らしめたのが、広東省から香港に向かう難民の大量発生であった。
もう一つの難民の大量発生がプロレタリア文化大革命期に生じ、以降広東省からの激しい人口流入はやんだ。

4・広東人による香港地盤の形成

 商業主義の長い伝統を持ち、蓄財の才において秀でた広東人が、血縁・地縁の幇組織をベースに「信用」を武器として19世紀後半の南洋で懐の深い関係・ネットワークをつくり、その中で無一文から出発して財をなしていって、住民階層の地盤を形成し、実利を徹底的に追求しようという彼らの志向性が自由放任の香港の地で花開いたのである。香港が東アジア最大の繁栄拠点となったのには、往時に東アジア最大の商業都市上海において蓄積された資本主義的諸要素が共産革命の過程で香港に流入し、これが広東人の労働力と結びついたという事実が決定的な重要性を持つ。

5・自由放任の香港

 共産中国にとても小さく隣接する香港が、大陸が政治的混乱と経済的低迷にあったのに、きらびやかにも発展していったのは、そこが英領植民地として大陸中国とは異質の法体系に守られ、新たに流入した中国資本主義の精髄が「自由放任」のこの地でその能力を存分に発揮できたからである。イギリスは割譲・租借した香港を中国から引き離し、ここを経済的自由放任の地としたのである。

 香港は、政治的には極めて強い一元的支配の下におかれた。イギリスは、香港統治のための行政権、立法権、香港駐留軍総司令権のすべてを英国王の委任を受けた総督に集中するというシステムを採用した。立法については総督に対する諮問期間を、行政についても同じく諮問機関として行政評議会を置いたのみであった。政党を含む政治集団の存立は許されなかった。司法権を除くあらゆる統治権を総督にゆだねたのであり、住民は香港の動向に影響を与える政治権利を持つことはなかった。その意味で香港は紛れもない植民地であった。

 しかし、自由放任主義を信奉する香港政庁は、産業に対する保護育成政策の一切を探らない代わりに、産業活動に対する規制をも行わないという自由経済原則の立場を一貫して守ってきた。政庁が明示してきた方針によれば、政庁はすべての商工業活動に対し干渉はしないが、その代わり税金、金融面での支援もこれを行わない。政府の任務と考えられている必要最低限どのサービスの提供においてもチープガバメントとしての節度を守る。法人税を最低の水準にとどめる。輸出入には制約を設けない。外国為替に関する規制はしない。な以外の商工業者は完全に平等に取り扱い、外資誘致にあたっても優遇や規制を行わない。

 こうした経済的自由の保障された香港こそが、ここに集まった上海の企業家と広東人の、政治に関心を寄せることなく現世的な経済利益の追及に人生をかけようというその志向性に適合し、彼らの能力を存分に花開かせるうってつけの舞台となったのである。

 上海の実業家の多くが繊維業者であり、かつまた第二次世界大戦後の荒廃期にあった当時の東・東南アジアにおいて決定的に不足していたものが繊維製品のどの消費物資であったがゆえに、工業化は繊維を主導産業として出発した。工業化の始発に先立って流入した難民からなる豊富な低賃金労働力は、この労働集約的産業にとって極めて好都合な条件となり、香港の繊維産業の国際競争力は一挙に高められた。

 第二次世界大戦時、香港の最大の危機は大陸におけるプロレタリア文化大革命とともにやってきた。劉少奇、ケ小平らの「実権派」への執拗な政治的攻撃が開始されたのが1966年のことであり、その後10年にわたって中国を狂気と凄絶の淵に投げ込んだのがこの文化革命であった。

 香港とマカオの左派勢力が大陸の大衆運動に呼応し、これに介入する軍・警察との間に紛争がおき、紛争は反英・反政庁闘争へと発展した。香港における反英・反政庁闘争は北京、上海、広州の反英・反政庁闘争を誘発、両者の相乗効果によりデモ、ストライキ、テロが頻発して、1967年の香港は革命前後を思わせる物情騒然とした有様であった。株価と土地の値下がりは激しく、中産層や企業家はこれで香港も終わりかという強い危機感に襲われ、第三国に向けて出立する人口もいつにない数に上った。

 しかし、その一方で、危機にあってこそ新しく生まれる商機に機敏に反応して自らの活路を開こうというしたたかな一群の人々が活発な行動に打って出た。今日香港を代表する資産家になったのは、この香港暴動により不動産や株を買い占めた人々に他ならない。危機を飲み込んでいき続ける町が香港なのである。

第二章・現在の香港社会の内容

1・地理・文化
 面積・・・・・1,097平方キロメートル(東京都の半分)
 人口・・・・・約697.48万人
 人種・・・・・漢民族(約98%)
 言語・・・・・広東語、英語、中国語(北京語)他
 宗教・・・・・仏教・道教、カトリック、プロテスタント、回教、ヒンドゥー教、シーク教、ユダヤ教

2・政治
 政体・・・・・中華人民共和国香港特別行政区
 元首・・・・・江沢民中国国家主席
 議会・・・・・立法会一院制
 政府・・・・・香港特別行政区政府
 内政・・・・・ 97年7月1日、香港は英中共同声明に基づき中国に返還され、香港特別行政区が成立した。
         返還後、「一国二制度」は基本的に順調に機能し、社会状況も安定しているが、経済面では97年のアジア経済危機を背景に98年はマイナス成長となった。99年にはプラス政庁に転じ、回復の兆しが見られつつあるが、失業者が6.1%と多いなど全体的に厳しい経済状況だ。
         返還後の暫定議会であった臨時立法会に変わる第一期立法会議員の選挙は98年5月24日に実施され、7月2日より活動を開始した。

3・外交
 外交・・・・・ 外交部香港事務所が新設され、代表はバ・イクシン前国務院新聞弁公室主任。

4・国防
 軍事・・・・・陸・海・空軍からなる香港駐留部隊は約5000人規模。

5・経済
 主要産業・・・金融業、工業(電子、電気、繊維)、不動産業、観光業、水産業。
 GDP・・・・約1,618億米ドル。
         一人当たりのGDPは24,282米ドルでアジア3位の高さ。イギリスの一人当たりのGDP18,700米ドルを抜く。ちなみに日本は39,640米ドルでアジア一位。
 貿易・・・・・貿易総額3,518億米ドル。
         輸出額1,731億米ドル。輸出品は衣類・同付属品、電気機器・同部品、通信・音響機器、繊維系・織物。相手国は中国・アメリカ・日本。
         輸入額1,787億米ドル。輸入品は電気機器・同部品、通信・音響機器、繊維系・織物、衣類・同付属品。相手国は中国・日本・アメリカ。
         貿易収支は、176億米ドルの赤字であるが、サービス収支は例年黒字。(96年、167億米ドルの黒字)
経済成長率・・2.9%
物価上昇率・・−4.0%
 失業率・・・・6.1%
 通貨・・・・・香港ドル
 為替レート・・1米ドル=7.8香港ドル
 金融・・・・・外資準備高918億米ドル(97年10月世界3位)。
        ちなみに1位は、2,256億米ドルの日本で、2位は、中国の1,303億米ドルとなっている。
        外国為替市場902億米ドル。
        株式市場583社上場は、物価総額4,456億米ドルで東証第一部の約1割5分(96年末)となっており、アジア2位。
        銀行182行・預金額2兆4,300億香港ドル、日本円で36兆円。
 財政・・・・・97年度予算は歳出2,030億香港ドル、歳入2,347億香港ドルで317億香港ドル(41億米ドル)の黒字。
 中国との経済関係
  香港と中国の経済は非常に密接な関係にあり、特に中国が改革開放政策を打ち出した
 78年以来、その関係の発展ぶりには目を見張るものがある。
  貿易については、中国は香港にとって最大の貿易相手、香港は中国にとって第三位の
 貿易相手になっている。
  投資については、中国が78年以降受け入れた海外直接投資の60%が香港からのも
 のであり、香港は中国にとって最大の投資元になっている。また、香港に進出している

 中資企業は1800社、投資累計額は425億米ドルに達しており、英国資本を別にすれば中国が香港にとって最大の投資元となっている。

第三章・まとめ

1・まとめ

 中華人民共和国の成立にいたるまで中国の資本主義的発展を担ってきたのは、浙江財閥に淵源をもつ上海企業であった。彼らは共産党一党支配の上海を逃れ香港に集まり、そこで企業家的能力を開花させた。加えて、清国の末期に同じく華南の人々が帝国主義列強の植民地支配下にあった東南アジアに流入し、その異郷の逆境の中で商業的才覚を発揮し、この能力が大陸の周辺の東アジア諸国に蓄積されていった。要するに、大陸中国には企業家は存在せず、その一方、大陸の周辺に市場経済を担う中国人が豊富に存在していたのである。

 中国が改革・開放に自らの新しい活路を見出そうとしていたケ小平時代の出発時点において、市場経済化を担う主体は中国にはいなかった。香港や東南アジアで磨かれた「中国資本主義の精神」に頼らずして中国が市場経済化を多少なりとも本格的に展開することは不可能であった。この事実を正しく見据えていたのがケ小平であり、彼にとっての「開放」とは在外華人のエネルギーの大陸への導入のことであった。

 香港を中心とする在外華人企業の導入の場として設定されたのが、広東省や福建省などの華南である。華南が対外開放の場として選択されたのは、ここが在外華人の代表的な出身地域だからに他ならない。そして、この華南が改革・開放期の中国において最高の成長率を見せ、そうして中国の高成長を引っ張ったのである。言い換えれば華南の高成長は、自らを「香港化」することによって実現されたものだということができる。

 中国から香港に向かう経済的な力ではなく、香港から中国に向かう経済的な力の方向が基本である。上海がいずれ香港の地位を代替するであろうという話があるようだが、長い歴史的時間を代替するというわけにはいかない。株式時価総額や外国為替取扱額において上海は香港数十分の一に過ぎない。香港の中継貿易機能無くして中国の貿易は成立しない。対中投資の圧倒的大きな出し手が香港に他ならない。香港の金融なくして中国の対外資本の取り入れは不可能である。

 香港を中心とする在外華人の「中国資本主義の精神」の導入こそが、改革・開放期中国の高成長の真因なのである。この事情は、香港返還後も変わることはない。香港は1997年の7月1日をもって、長い英領直轄植民地としての役割を終え、中国に返還された。香港における中国の主権回復により、香港の繁栄が侵害されるのではないかという不安は返還後の今もなお少なくない。しかし、経済的に見る限り、中国の近代化にとって香港の持つ役割はなお決定的な大きく、香港の現状を見放して中国の発展は有り得ないだろう。

参考文献

・ インターネット
・ 『ライジングドラゴン香港&華南』森幹男 ジェトロ
・ 『中国経済は成功するか』渡辺利夫 ちくま親書
・ 『中国破局』中国情勢研究会 実業之日本社
・ 『中国の未来政治』宇佐美暁 東洋経済新報社

題目 香港経済の歴史
所属ゼミナール 趙 軍 先生
氏名 雨宮 剛

 トップページへ ‖ 戻る(返回)