ゼミレポート

       「三国志の登場人物の軌跡を探る」

趙軍ゼミナール
経営学科三年

9830@@@
小田嶋 浩二


もくじ
・ はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2
・ 三国志とは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2
・ 三国志のあらすじ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2
・ 三国の登場人物(魏、呉、蜀)の登場人物紹介・・・・・・・・・3
 魏の武将・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3
 蜀の武将・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9
 呉の武将・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22
・おわりに


はじめに

 三国志の登場人物について述べたいと思いますが、まず軽くあらすじについて述べたいと思います。

三国志とは 

 今から約1800年前、中国を舞台とした戦国の話である。劉備、曹操、孫権が天下統一を目指す話で、それぞれ蜀、魏、呉の国をつくり争うわけである。

三国志のあらすじ 

 西暦184年 中国 後漢王朝は粗悪な政治で乱れていた。この年ついに反乱が起きた。黄巾賊の反乱である。この時、反乱の鎮圧に参加したのが劉備である。曹操も官軍として活躍する。その後、乱は鎮圧されたが、宦官おかげで政治は乱れる。宦官虐殺が行われるが、この機に乗じて西涼の董卓が政治を握った。董卓の政治も自分のやりたい放題の政治であった。、董卓も部下の呂布に殺される。この呂布も力をつけてきた曹操に 捕えられ、殺される。劉備はこの時、曹操の元にいたが、曹操暗殺計画に参加して、逆に追われる身となる。曹操は劉備を攻撃した。劉備、関羽、張飛は離ればなれになって しまう。関羽は曹操に捕まったが、関羽は劉備が生きていることを知って劉備の元に帰った。曹操は官渡において袁紹を破 り、南下し荊州を攻めてきた。劉備は軍師に諸葛亮を迎え、諸葛亮は呉の孫権と手を結んだ。曹操は呉を攻めたが、赤壁の戦いで破れる。その後、劉備は荊州の南部を手にいれ 、ホウ統を副軍師とした。ホウ統の勧めで益州(蜀)取りに行くが落鳳坡にてホウ統が戦死。諸葛亮が救援し益州(蜀)を取る。さらに漢中を取り、劉備は漢中王となる。しかし、曹操と孫権が手を結び、留守の荊州を攻めた。そのため、荊州城は呉にとられて、関羽は戦死。関羽が死んでまもなく、持病の頭痛の悪化で曹操も病死。呉への復讐にもえる劉備は孫権を攻めるが、夷陵において敗れ、その後白帝城にて病死。諸葛亮は、劉備の息子・劉禅をたて、南の土地の反乱を平定する。いよいよ、曹操の孫・曹叡が治める魏へ進行した。街亭の戦いでは、部下の馬謖が命令違反をし敗退。その後も、魏の軍師・司馬懿によってなかなか勝てない。その中で、諸葛亮の病気も進行していた。五丈原でついに病死。諸葛亮が死ぬ前に、部下に与えていた策で退却する。この後、蜀では宦官政治で乱れきり、魏に降伏をして滅びた。魏では蜀降伏の2年後、力をつけていた司馬一族(晋)に滅ぼされる。呉では、孫権の孫の孫皓が、残虐政治を行ったので、政治が乱れ、晋に滅ぼされた。西暦280年 中国は 三国ではなく新王朝・晋によって統一された。

☆ 三国(魏・呉・蜀)の登場人物紹介

・魏の武将

曹操 孟徳    

 曹操、字は孟徳、幼名を阿瞞(あまん)、または、吉利という。曹操の身長は、7尺(1尺は約23センチ、曹操はあまり背は高いほうではなかった。)である。目が細く、派手な格好をするのが好きな男である。曹操は、魏の国をつくったことで有名だが、正確に言うと、曹操は帝の位にはつかなかった。さて、曹操の若いころは、狩りを好んだ。あまり遊びすぎているのを見かねた、曹操の叔父は、曹操の父、曹嵩にこのことを告げると、曹操は、叔父の前で、病気になったふりをした。曹嵩が叔父から聞いて、とんでくると,曹操はけろりとして、「叔父は私が、憎いのでしょう。」といった。これより、曹嵩は、叔父を信じなくなった。このように、若いころから悪知恵が働いていた。しかし、こんな曹操も、「宦官の孫」とばかにされた。父の曹嵩は、もともと夏侯氏で、宦官の曹騰のところへ養子に行ったので(だから父はもともとは夏侯嵩ということになる)、このように言われた。曹操陣営に夏侯の姓の奴が多いのも、こういう理由からである。20 才で中央政府に推挙され、黄巾賊をたたく。董卓なき後、黄巾の残党で兵力を増強、時の帝、献帝(本名、劉協)を保護し、一気に力をつける。そして、官渡で袁紹を破り、100万の軍勢なった。しかし、赤壁で劉備、孫権に敗北。次に、馬超と戦う。馬超と韓遂の仲を裂き、馬超に大勝。漢中では、張魯を破った。しかし、その漢中も蜀をとった劉備が攻めてきて、戦いに敗れた。曹操は病気になり、66才の生涯を閉じた。余談だが、曹操は、自分の墓が見つからないように、72の偽の墓を作らせたらしい。次に、曹操の魅力について述べる。やはり、頭がキレたし、人の言をよく取り入れたことだろう。曹操は兵法に通じ、自ら「孟徳新書」なる書物を書いた。また、決断力もあり、官渡の戦いでは少数の兵で大軍の袁紹を破った。そして、関羽とのやり取りも忘れられない、名場面の一つだ。横山光輝の漫画では、「避客牌をかけた自分が恥ずかしい」率直な気持ちを述べるところが気持ちよい。敵なのだけれども、実力をみとめるなど...。左慈におちょくられる曹操も、ちょっと間抜けっぽくて、ぼくはいいと思う。 皆さんは、曹操をどのような人物として見てるのでしょうか?

張遼 文遠

 張遼、字は文遠、呂布の配下として登場。曹操軍を濮陽で破る。袁術との戦いでは袁術のほうが味方に裏切られ逃げた。後、劉備が曹操に送った文書を発見した陳宮(呂布の参謀)は張遼を差し向ける。ここで、関羽との対面となる。関羽が「貴公は優れているのになぜ賊に仕えるのか」と言ったので、張遼は恥じて軍を退いた。徐州で破れた呂布は下ヒ(地名)に逃げ込む。それから冬になり、曹操軍は城の周りの川を切って下ヒ城を水攻め、呂布は配下に裏切られ、曹操につかまる。張遼も曹操軍に攻められ捕まった。張遼は「国賊を濮陽で殺せず、惜しいことをした」と曹操に雑言。曹操が怒って斬ろうとするところ、関羽は止めて「彼こそ忠義な人物」と言った。曹操は自分の着物を脱いで与えた。こうして、張遼は曹操の配下となった。やがて、劉備が曹操暗殺に加担しようとしたため、曹操は徐州を攻める。下ヒには関羽が残っていた。張遼は関羽の降伏の説得に行かせてくれと頼み、山に追いつめた関羽に説得をする。「劉備が生きていた場合、桃園の誓いの背く。また、劉備の家族を見捨てるのは臣下としてすることか?そして、漢王朝復興はどうなりますか?以上3つの罪を犯すことになる。曹操殿に降伏するのが最上」と巧みに降伏を促す。関羽は3つの条件をだして降る。曹操は関羽が自分のことをどう思っているかを張遼に聞きに行かせた。張遼は「関羽は心は劉備の元にあります」と報告した。関羽が6将斬った後、夏侯惇と対立しているところを止めた。やがて、袁紹との戦いでは、烏巣を攻め勝利を上げる。倉亭の戦いでは、十面埋伏の計の第2部隊で活躍。赤壁の戦いでは、曹操に襲いかかった黄蓋に矢を射る。張遼は曹操を守って逃げる。のち、合肥をまもり孫権と戦う。呉は太史慈の策で城の中の戈定と内応しようとした。城では「謀反だ!」の声。火も上がった。しかし、張遼は冷静に判断し、戈定を捕らえ、この策を逆手にとり、太史慈をやぶる。のち、劉備が荊州を返すのと引き替えに孫権に魏を攻めさせた。孫権は合肥の迫る。張遼は自分の命令に従わない李典(あまりにも敵兵が多いので)を巧みに励また。張遼は李典に自分の策を与え、これがみごとに奏し、孫権軍の方が乱れる。呉では張遼の名前を聞いただけで、子供の夜泣きがおさまるほどっだった。翌日、張遼は大軍で孫権を囲むが、呉の周泰によって孫権は助かった。そして、孫権と曹操は和睦した。のち、曹操が死に曹丕となった。呉と蜀の連係を知った曹丕は呉の討伐軍を出す。「趙雲が魏の領内に攻めてくる」知らせに曹丕はあわてて退却。そこを呉につかれて大敗。張遼も丁奉に矢を受けた。そのため許昌に帰ってから矢傷がもとで死んだ。

郭嘉 奉考

 郭嘉、字は奉孝、潁川の人。程イクの推挙で曹操の元に行く。そして、劉曄を推挙した。徐州で陶謙の援軍の劉備と戦ったとき、エン州を呂布にとられたとき、郭嘉は、劉備の和睦を受けて恩を売っておいて、呂布を攻めるよう進言する。劉備が呂布に負けて、曹操を頼ったとき、荀イクらは劉備を殺すべき、と進言したのに対し、郭嘉は「劉備は有徳の人物、殺しては天下に悪名を響かせることになりましょう」と諌めた。その後、劉備の演技に騙されて、兵を与えた曹操に「これは虎を野に放してやったようなもの」と言った。のち、袁紹の兵力の多さに劉備討伐をためらうと、「袁紹は疑り深く、配下の者も出世だけを考えていて、内部はバラバラです」と討伐をすすめた。また、江東の孫策の力を認めつつあったときに、郭嘉は「所詮、孫策は匹夫の勇です。いずれ弱者の手にかかって死ぬでしょう」と言った。孫策はその通りに、3人の刺客に襲われ、それが元で死んだ。袁紹の死後、袁紹の子供たち(袁譚と袁尚)を争わせ、荊州を攻めるように進言する。袁譚の死後、并州を平定。さらに北方異民族の平定ものぞむが、風土病にかかり、養生する。しかし、曹操が帰ってきたときには、すでに郭嘉は死んでいた。歳は38歳。曹操は残されていた手紙を読み、「奉孝の先見に狂いはない」と言った。(手紙に記されている通り袁尚の首が届いたので曹操はこのように言った)のち、赤壁の戦いに敗れた曹操は「もし、郭嘉がいてくれたなら、このような敗戦にはならなかっただろうに」と語った。郭嘉は活躍期間は短かったが、すごい先読みの天才であった。赤壁で生きていればどうなっていただろうか...

典韋 

 陳留の人。陳留の張バクの配下だった。夏侯惇に見い出され、夏侯惇が曹操に推挙した。曹操はあまりの怪力に「これこそ、古の悪来じゃ」と言った。(悪来・・殷の紂王の臣。怪力で有名)さて、曹操は徐州を攻める。しかし、呂布が留守に攻めてきたため、引き返す。しかし、呂布の軍に囲まれてしまう。曹操は逃げた。この時典韋は活躍した。「敵が五歩以内に来たら知らせろ」と言い、部下が「五歩です」と言うと、典韋はほこを投げた。すべて命中し典韋は敵を散々に蹴散らした。その後、食糧調達に行ったとき、黄巾の残党と戦い、その時、許チョが現われる。典韋は許チョと戦ったが勝負が着かなく、曹操は典韋にわざと負けてもらい、許チョを捕えて味方にした。濮陽攻めで許チョと典韋は呂布と戦うが、引き分けた。後に、帝をないがしろにしていた李カクらと戦い献帝を助ける。後に、張繍の降伏を受けて、曹操が宛城に駐屯。典韋も同行していた。曹操が張繍の叔父張済の妻・雛氏の魅力にとりつかれる。張繍は怒り、参謀の賈クの策で曹操の寝込を襲う。典韋も酒を飲まされていて、武器も張繍配下の胡車児に奪われていた。典韋は曹操を逃がすために陣の入り口で奮戦。しかし、奮戦空しく、背中にやりを受け死んだ。曹操は典韋の死に涙をながし、後悔した。

夏侯惇 元讓


 夏侯惇(かこうとん、又はかこうじゅん)、字は元讓。沛国ショウの人。前漢の劉邦の臣・夏侯嬰(かこうえい)の子孫。十四歳のとき武術の師を辱めたものを殺して、さすらいの身となったが、董卓が政権をとり、曹操が反董卓連合の募集をしたとき、一族の夏侯淵(かこうえん)と共に曹操の元へ行く。曹操が董卓軍の徐栄に襲われたとき夏侯淵と共に徐栄を殺して引き揚げる。後、典韋を曹操に推挙した。まもなく、曹操の父・曹嵩が陶謙の部下に襲われ、復讐戦の先鋒をつとめる。しかし、にわかに狂風が吹き撤退した。濮陽では呂布が待ち受けていて、呂布軍の陳宮の計にかかってしまう。しかし、どうにか火攻めから逃れた。再び呂布と戦い、呂布を誘い出し大勝した。董卓の残党・李カク・郭シが洛陽に駐屯したとき、曹操の命令で献帝を保護して曹洪と共に李カクらを迎撃して勝利した。次に袁術攻めで于禁と先鋒をつとめる。袁術軍は破ったが、呂布軍の攻撃に遭い、呂布の配下の高順と戦う。しかし、その最中、夏侯惇は呂布の武将・曹性に左目を矢で射抜かれてしまう。夏侯惇は「父母から授かったもの、捨てる訳にはゆかぬ!」と言うと、その矢を抜き左目を食べた。そのまま曹性を突き殺し夏侯淵に守られ陣にかえり、傷の養生にあたった。そんな訳で、禰衡からは「五体満足将軍」などと悪口を言われる。後、曹操暗殺に加担していた劉備を攻めて破り、関羽攻めの先鋒をつとめる。関羽が劉備の元に向かうとき、「丞相の許しもないまま将を斬り、無礼も甚だしい」とし、関羽と戦う。曹操の使者が夏侯惇を止めるが夏侯惇は聞く耳を持たない。張遼が到着し関羽と夏侯惇を止めた。官渡の戦いでは、曹洪と袁紹の陣を攻撃するが大敗した。曹操が烏巣の袁紹軍の食糧基地を攻める際、留守をあずかり、袁紹軍を蹴散らす。倉亭の戦いでは「十面埋伏の計」の左第一隊として活躍。この隙に軍を動かした劉備を破り、汝南を守る。遼東では袁紹の息子たち(袁煕・袁尚)が公孫康を頼っていた。夏侯惇は「遼東を攻めましょう」と言ったが、郭嘉の予想どおり公孫康は袁煕・袁尚の首を送ってきた。後、徐庶が曹操の元に来て孔明について「私が螢の光りなら彼は月の光り」と言って警戒するように進言したが、夏侯惇は「たいしたことはない、私が生けどりにしてくれる」と言い、新野攻めにゆく。博望坡で副将の于禁・李典が火攻めに警戒して進むように進言したが時すでに遅く火攻めに遭い敗れてしまう。改めて曹操に従い劉備攻めに加わった。赤壁の戦い以降、夏侯惇は襄陽の守りに着くが孔明が兵符を手にいれていて、孔明に誘い出されて襄陽を取られてしまう。後、夏侯惇は呉と蜀の対策として、「漢中の張魯を攻めてから蜀に進攻すべきです」主張し、曹操も同意した。漢中攻めでは後詰めを し食糧運搬をする。占い師・管輅(かんろ)によれば許都に災いがあるという。曹操は早速夏侯惇に巡回させる。侍中(帝の側近)の耿紀・韋康らが反乱をおこすが、夏侯惇は冷静に対処し、これらのものを捕えた。漢中に進攻した蜀軍に対して先鋒として出陣するが、戦いが長引く。楊修が陣払いの準備をしたので「鶏肋」の真意を聞き、夏侯惇も帰る準備をはじめる。曹操はおこって楊修を処刑し、夏侯惇も処刑しようとしたが、これを止め軍を引き締めた。後、曹操の臨終の際呼ばれたが、伏皇后らの霊を見て昏倒し、病気になる。曹操の息子・曹丕が曹操の墓をまつっているところへ、夏侯惇の危篤が知らされ、曹丕はギョウ(地名)へ戻ったが夏侯惇はすでに死亡していた。

司馬懿 仲達

 司馬懿、字は仲達。御存じの通り、孔明のライバル。曹操は、司馬懿のうわさを聞き、使者を送った。しかし、司馬懿は病気を理由に仕官を断わった。曹操は、司馬懿が仮病を使っている事を知り、再び使者をだした。使者には首に縄をかけてもつれてこい、と命令を与えていた。司馬懿はついに、仕官することになる。曹操が漢中を得たときに、蜀も取るように進言したが、曹操は「隴をえて、また蜀を望まんや」と言って聞かなかった。曹操が、関羽を恐れて遷都を言い出したとき、司馬懿はこれを止めた。また、呉が関羽の首を送ってきたとき、その真意(責任転嫁)を見破り、関羽を手厚く葬るように進言した。曹丕が後を継ぐと、曹丕を帝位にという動きがおこった。司馬懿は、禅譲の形式のため、献帝が来ても、三回は辞退させ、民衆のそしりを免れるようにした。劉備が死ぬと、蜀、五路攻撃(鮮卑・羌族・孟獲・孟達・孫権)を進言したが失敗に終わった。その後、司馬懿は西涼の守りについた。孔明はこれに大いに驚き、「今のうちに征伐を」と考えた。馬謖の献策で、洛陽やギョウに流言をまき、司馬懿は官職を失った。そして、孔明の北伐が始まった。太傅の鍾ヨウの進言で、司馬懿は復帰した。孟達の裏切りを防ぎ、自ら、街亭へ進行した。街亭では馬謖をやぶる。しかし、孔明の空城の計にかかり、あと一歩で孔明を逃してしまう。やがて、曹真が病につき、呉の陸遜は兵は出してこない、とよんだ。やがて、孔明は血を吐き、密かに退陣していた。司馬懿はだた感嘆した。のち、蜀の食糧係、苟安を利用し、蜀に流言を流した。孔明は竈の数をふやして退却。司馬懿は警戒して追わなかった。つぎに、麦刈りの蜀軍を襲うが、孔明の神兵のからくりにかかり、「神出鬼没の計」と嘆息した。最後の戦いでは、孔明の木牛流馬の計にかかり、廖化の伏兵にやられる。つぎに、祁山を襲うと見せかけ、上方谷の食糧基地を襲う作戦に出た。しかし、孔明の罠にはまり、地雷で焼き殺されそうになるが、突然の雷雨で助かる。孔明から女服が送られてきたが、司馬懿はこれに耐えた。司馬懿は天文をみて、孔明の死を知り、蜀に攻撃をかける。しかし、そこに待っていたのは孔明であった。司馬懿はあわてて逃げ出した。しかし、この孔明は木像であり、孔明が作らせておいたものだった。のちの人は「死せる諸葛、生ける仲達を走らすと言いはやした。このあと、司馬懿は遼東の公孫淵の反乱を平定する。曹爽は、司馬懿がじゃまでしかたない。司馬懿は太傅(実権がない名誉職だった)にさせられた。司馬懿はボケ老人の真似をして機会をうかがった。そして、クーデターをおこし、実権を握った。しかし、251年、本当に病気にかかり、「事を成すときは慎重にせよ」と遺言し、亡くなった。

・蜀の武将

劉備  玄徳

 劉備は蜀の国を建国する。字は玄徳。前漢の景帝の玄孫である。幼くして父は亡くなり、わらじやむしろを作って、生計をたてて暮らしてきた。劉備は身長7尺5寸、両耳が肩まで垂れていて、目で自分の耳を見ることができた。手は膝の下まで届く長さがある。顔は白玉のよう、唇は紅を差したようだった。学問はあまり好まず、喜怒を顔に出さない。(演義では)黄巾賊退治のための高札を見てた劉備に張飛が声をかけ、一緒に酒屋にはいる。すると、酒屋では関羽が一人で飲んでいて「俺は黄巾討伐の兵に参加する」と言う。三人は意気投合し、張飛の家の裏の桃園で義兄弟の誓をする。これが有名な「桃園の誓い」である。劉備は、黄巾賊退治で功績を上げる。しかしもらった官職は田舎の県尉だった。劉備を視察に来た督郵と言う役人は、劉備に賄賂を求めた。怒った張飛は督郵を柳の枝でたたいた。のち公孫サンのおかげで、平原の県令となった。董卓討伐軍に参加し、関羽・張飛と一緒に呂布と互角に戦う。後、曹操に攻められた徐州を(太守は陶謙)助け曹操と和睦、徐州をあずかった。しかし、袁術討伐の際、徐州を猛将・呂布にとられる。劉備は曹操の元に身を寄せる。呂布処刑後、劉備は帝に対する曹操の振る舞いに怒り、曹操暗殺計画に参加した。この計画は漏れて劉備は袁紹を頼って逃げた。この際関羽とはぐれる。袁紹と曹操の対立が深まった。劉備は袁紹に見方するが、このとき関羽は「劉備が見つかったら主人の元に帰る」という条件付で曹操の元にいた。劉備はこのことを知り、関羽を呼び寄せた。そして、曹操から逃れるため荊州の劉表を頼った。しかし、劉表一家のお家騒動にまきこまた。曹操も袁紹を討ち、荊州に攻めてきた。水鏡先生や徐庶の勧めで諸葛亮孔明を軍師とした。江南の孫権と手を結び、赤壁におき火攻めで曹操を破る。そして、長沙など荊州の南4郡を手に入れた。面白くない孫権は、政略結婚の罠にはめようとしたが、孔明の策と趙雲の働きで回避した。劉備はホウ統を副軍師に迎え、蜀をとった。そして、黄忠の働きで定軍山をとり、劉備は漢中王となった。しかし荊州では、関羽が戦死。蜀が揺らぐ。復讐戦に燃える劉備だが、張飛があっけなく死に、劉備も陸遜に敗れた。劉備は永安宮で病の床につき、223年、63歳の生涯を閉じた。 劉備の魅力はやはり、民衆を引き付ける力だと思う。

諸葛亮 孔明

 お待たせ!伏龍先生の登場です!!諸葛亮、字は孔明。普通は字をとって諸葛孔明と呼ばれる。前漢の司隷校尉・諸葛豊の子孫で父は諸葛珪。兄は呉に仕えた諸葛瑾である。孔明は自分を管仲・楽毅になぞらえた。南陽に住み、晴耕雨読の暮らしをしていた。風貌は、身長8尺、顔は冠の白玉のよう、頭には綸巾(頭巾)、身に鶴ショウ(道士の衣)をまとい、神仙の風韻を漂わせる。劉備に三顧の礼で迎えられ、荊州と益州をとって孫権、曹操に対抗する天下三分の計を提案した。劉備は孔明と親密に交わった。水魚の交わりという。孔明は、荊州をとるように言うが、劉備は劉表を攻めることができなかった。孔明は、呉の魯粛が荊州に来ので、魯粛とともに呉へ行った。呉では、曹操と戦うかどうかを論争していた最中だった。孔明は孫権と呉の水軍大都督(水軍の総監督者)・周瑜を説得し開戦へ踏み切らせた。しかし、曹操を破るには東南の風が必要だった。冬には北西の風しか吹かないからだ。孔明は、壇を築かせ祈ると、11月20日に東南の風が吹き出した。そして、赤壁の戦いに突入したのである。関羽の配置では、わざと曹操の義理を果たせる配置にした。孔明は、周瑜と「荊州をとれなかったら私がとる。」と約束した。周瑜は毒矢にあたり、苦戦をしていた。孔明は曹操軍を欺き、南郡・襄陽ととった。つぎに、趙雲・張飛・関羽の活躍で、4郡を手に入れた。周瑜と荊州をめぐった争ったが、ついに周瑜は矢傷がもとで亡くなった。ホウ統も仲間に入った。劉備は蜀に向かった。孔明は、関羽らと荊州に残った。ところが、ホウ統は途中で戦死。孔明は関羽を荊州に残し、劉備を助けに向かった。孔明は馬超を味方にいれ、ついに蜀をとった。やがて、曹操が漢中をとったので、孔明は荊州3郡を返し、孫権に合肥を攻めさせた。定軍山の戦いでは、黄忠の力を見抜き、定軍山をとる。しかし、関羽が呉に殺された。劉備は復讐戦をしようとする。孔明は諌めるが聞かない。劉備は陸遜の火計で敗れる。陸遜は追撃したが、孔明の策・石兵八陣に迷い、劉備は無事に白帝城に逃げ込んだ。劉備は息子・劉禅を託し死んだ。孔明は呉との国交回復に尽くした。成都の南で反乱が起きると孔明は、その首領・孟獲を七回捕らえ、七回許した。こうして孟獲を心から降参させた。そして、北伐である。孔明は司馬懿だけを当面の的だと思っていた。流言を流し、司馬懿を失脚させたが、姜維を仲間にした後、司馬懿は復活した。街亭では馬謖が命令違反して敗れ、カク昭には勝ったが、序盤苦戦した。ついに、司馬懿との直接対決になった。孔明は「八卦の陣」を変化させたり、上方谷で火計を使って司馬懿を攻めるが、勝てない。孔明も病気になっていた。北斗に祈って寿命を延ばそうとしたが失敗した。そしてついに巨星は落ちた。孔明は息絶えた。234年8月23日、歳は54であった。孔明は死ぬまぎわ、漢中への退却を指示していた。この策は、見事に司馬懿を欺いた。人々は「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と言いはやした。

趙雲 子龍

 趙雲、字は子龍。常山郡の出身、身長は8尺、眉が濃く目が大きい。顔が広く肉付きが豊か。蜀の5虎将軍の一人である。(他のメンバーは関羽・張飛・黄忠・馬超)初めは袁紹に仕えていたが、袁紹に愛想をつかして公孫サンに仕えた。公孫サンは、はじめ趙雲を袁紹の罠だとわるいと考え、趙雲には後詰めをさせた。公孫サンは袁紹に敗れ逃げる。趙雲は単騎で袁紹軍に斬りこみ大活躍。このとき劉備が応援に駆けつけた。劉備と趙雲の出会いである。劉備は趙雲に「いずれまた会う日に」と言い、別れた。趙雲の再会は劉備たちの主従再会のときである。劉備は袁紹から、関羽は曹操から離れ、汝南の城へ向かったときである。このとき趙雲は公孫サンが死にさすらいの身となっていた。趙雲は劉備と主従の関係を結んだ。劉備は荊州に身を寄せた。張武らの反乱では、この鎮圧に活躍した。このとき劉備に差し出した馬が「的盧」である。徐庶の作戦でも忠実に作戦に従い曹操軍に大勝。趙雲の見せ場は次の長坂での戦いである。劉備は曹操から逃るため住民を引き連れ、南下したが追い付かれてしまった。趙雲は乱戦のなか劉備夫人を見失う。趙雲は夫人と阿斗(劉禅)を救うため魏軍に斬りこんだ。曹操軍の将・夏侯恩を斬り名刀「青コウ」を奪い、ようやく、怪我を負った夫人を発見する。夫人は「私がいると足手まといになる」と言い、阿斗を託し近くの古井戸に身を投げ死んだ。趙雲は阿斗を懐に隠し、曹操軍の囲いを突破した。そして張飛に長坂の橋を任し、劉備に報告した。その後趙雲の活躍は、赤壁の戦いで、孔明を迎えにきて呉軍から守り、烏林で曹操を待ち伏せ曹操軍にダメージを与えた。荊州南郡攻略では桂陽取りで活躍。周瑜の政略結婚の策では孔明の錦の袋の策に従い、無事劉備を帰還させた。呉は荊州のため阿斗の人質作戦にでるが、趙雲は策を見破り、張飛とともに阿斗を救った。漢中の戦いでは黄忠とコンビを組み、曹操軍に当った。趙雲はわざと城を開門させただ一騎で前に立った。曹操軍は趙雲に近づいく。しかし趙雲は顔色一つ変えない。気味悪がった曹操軍は退いた。(後の孔明の空城の計)劉備は「趙雲の満身これ胆である」と褒めた。後、関羽が討たれ劉備が呉に出陣しようとしても、趙雲は「魏と戦うべきで、呉に戦いを挑むときではない」と諌めた。劉備死後、南征で活躍。北伐では、韓徳の息子4人を相手して、全員討ち取った。(ここで趙雲はいつのまにか老将の仲間入り)しかし、敵のワナにはまり囲まれてしまう。ここで、張苞と関興(張飛・関羽の息子)が助けにきた。天水攻めでは姜維の腕に感心し、街亭の敗北では、退却のとき一兵も失わず、見事にやった。蜀の建興6(228年)趙雲は亡くなった。軍議の最中、趙雲の息子趙統と趙広が来たとの知らせで、孔明は「趙雲が死んだ」と悟った。

ホウ統 子元

 鳳雛先生です。ホウ統は字は士元、孔明とならび称される天才軍師である。しかし風貌は鍋のように黒い顔にげじげじ眉とししっ鼻。不細工な顔であった。演義での登場は、呉の周瑜に呼ばれ、魏の間者・蒋幹と曹操の陣へ向かった時の事。曹操に北兵の船酔の予防に船と船を鎖でつなぎ、ゆれを少なくと「連環の計」にはめた。帰るとき徐庶に捕まった。徐庶は「連環の計」の真意を見破っていた。ホウ統は、徐庶に曹操から逃げる策を与えた。のち、周瑜が死んだとき、孔明は呉に弔問に訪れ、ホウ統と再会した。孔明はホウ統に「劉備に仕えないか」と勧めた。呉の魯粛もホウ統を評価していたので、孫権に対面させたが、孫権は、ホウ統の風采があがらないので、評価しなかった。ホウ統は孔明、魯粛に推薦状をもらうが、劉備の元にやってきたホウ統は、推薦状を出さずに、劉備に面会した。劉備は耒陽県の県令を命じた。しかしホウ統は、赴任しても毎日酒の日々で、政務などはやらなかった。劉備は張飛と孫乾を視察にだした。ホウ統は、張飛と孫乾の前で百日分の仕事を半日で片づけてしまった。孔明は視察から戻り劉備によく話した。よって、改めてホウ統は副軍師にとりたてられた。のち、蜀の張松が蜀を献上しようとしていることについて、ホウ統は劉備に受けるように勧める。張松から「対面するとき、劉璋を斬れ」と手紙が届き、ホウ統は劉璋を斬るように勧める。しかし、劉備は聞かない。仕方ないので、魏延に命じて、剣の舞とみせかけて、斬ろうとするが、劉備にばれ引き下がった。呉の張昭が、漢中の張魯に「荊州を攻めよと」仕掛けてきた。ホウ統は、劉璋に援軍を送るようにと言ったが、劉璋は老兵ばかり送ってきた。劉備は怒った。ホウ統は、劉備に益州攻めに3つの策を与えた。劉備は「フ水関をとって成都へ進む」の策を採用し、フ水関をまもる、2将軍を捕えた。ホウ統は宴席で楽しむ劉備に、「親戚の国を取って楽しむとはあなたらしくない」と皮肉を言ってたしなめた。蜀の彭永年が、フ城は危険な土地だと告げて来ので、戦っている黄忠と魏延に忠告した。このとき、馬良が孔明からの書状を持ってきた。星が凶を告げているというのである。ホウ統は劉備を励まし、さらに、ラク城へ進行する。しかし途中、ホウ統の馬が暴れだし、ホウ統は落馬した。劉備は自分の馬をホウ統に与えた。ホウ統は南の道を進んで行く。山間の道でふと胸騒ぎを感じたホウ統は、地名を聞く。「落鳳坡」と言われ、驚く。ホウ統の道号は鳳雛、すなわちそれが落ちるのだから不吉きわまりない。あわてて後退させたが、敵(劉璋の軍)は白馬に乗っているのが、劉備だと思い込んでいた。ホウ統はいっせいに矢を射かけられ落命した。まだ36歳だった。

関羽 雲長

 関羽、字は雲長(前の字は長生)河東郡解県の人。身長9尺、顔は棗のように赤く、唇は紅を差したよう。切れ長の目に蚕のような眉髭の長さが2尺。「美髯公」とよばれた。武器は青竜偃月刀(せいりゅうえんげつとう)薙刀の一種である。関羽は劉備たちと出会う前の経歴はよくわからない。吉川英治の三国志では塾の先生、演義ではおたずね者である。さて、桃園の誓いのあと、劉備とともに行動する。黄巾討伐では敵将・程遠志を真っ二つにした。公孫サンのもとにいるときは、馬弓手をつとめた。董卓との戦いでは、自ら名乗り上げシ水関にて敵将・華雄を討ちとった。虎牢関では張飛に加勢をし、呂布と戦うがひきわけた。のち、公孫サンと袁紹の戦いでは、公孫サンに加勢をした。北海の孔融が黄巾残党に攻められたとき、劉備軍は加勢し、関羽は敵将・管亥を討ち取った。曹操との呂布攻略で張遼と知り合い、関羽は呂布処刑のさい、曹操に張遼を斬るのを止めさせた。のち、帝と曹操の巻狩りに劉備たちも同行した。曹操は帝の矢を取りその後も返そうとしない。そのとき関羽は曹操に斬りかかろうとしたが劉備が止めた。曹操の態度に許せなかったのだった。劉備は袁術をたおした。そのあと、劉備の留守中関羽と張飛は曹操の部下車冑が劉備をだまし討ちにしようとしていることを知り、逆に関羽は車冑を討った。曹操は大軍で劉備を攻めたため、徐州の近くの下ヒの城を守っていた関羽は、曹操軍に囲まれてしまった。張遼が関羽に曹操への降伏を勧めに来ので、関羽は3つの約束(1つ・漢に降伏するのであって曹操に対してではないこと2つ・劉備夫人は丁重に扱い、指一本触れないこと 3つ・主の劉備玄徳が見つかったらここから出て行くことを許可すること)を出し、曹操に降った。関羽は曹操の元にいる間は金銀や美女には目もくれなかった。この時曹操は関羽に呂布の乗っていた名馬「赤兎馬」与えた。関羽は「これで兄者(劉備)が見つかったとき駆けつけられる」と喜んだ。曹操は後悔したのであった。曹操と袁紹の戦いでは関羽は曹操の恩に報いるため、袁紹軍の顔良と文醜を斬った。関羽は劉備が袁紹軍に居ることを知り、曹操の元を離れようとした。しかし曹操は関羽を手放したくないため、避客牌を下げて会おうとしない。仕方無く手紙を残し、出発した。曹操はこれを知り、自分の度量の狭さに恥じて、関羽を見送りに出た。さて、関羽は曹操の見送りの後、通行手形を持っていなかったので、5つの関6将をきった。曹操の部下・夏侯惇が関で自分の部下が斬られたので、怒り独断で関羽に勝負した。その最中、張遼が曹操の伝言を伝えた。「自分の配慮が足りなかった、関の将を斬った罪は許す」というものだった。夏侯惇も仕方無く引き上げた。後、周倉と出会う。数日後、古城で張飛と再会する。張飛は関羽が曹操の元にいたことを知っていて、「裏切りものめ!」と切りつけてきた。後から来た曹操軍の追手を斬ることで張飛の誤解を解かせた。劉備と会うため、関定という老人の世話になり、そこの息子、関平を養子としてもらう。劉備が徐庶を味方にした時、関羽は樊城攻略で活躍した。諸葛亮が加わったとき、孔明ばかりかまう劉備を良く思っていなかった。しかし、博望坡の戦いでの作戦の見事さに脱帽した。長坂の戦いでは江夏に援軍を求めに行って間一髪で曹操軍を追い返す。赤壁の戦いでは、孔明に必ず曹操を斬ると言って出陣したが、昔の恩(関羽が6将を斬ったが許された)がのしかかり、斬ることができなかった。荊州南郡攻略戦では、長沙で黄忠と戦った。黄忠が落馬しても「馬を替えられい」と見逃した。後、荊州では、ホウ統が死んだため孔明たちは劉備の応援にゆき、関羽は荊州の守りについた。呉は、荊州の返還を関羽にもとめた。呉の魯肅は宴席上で返還を求めたが、関羽は応じず、魯肅をおどかして船に乗って去る。次に呉は、孔明の兄・諸葛瑾を使者にして、孫権の子と関羽の娘の縁談をもちかけた。関羽は「虎の娘を犬の子にはやれない」と言いはなった。呉は魏を動かした。孔明は関羽に曹操軍の樊城を攻めさせた。曹操軍はホウ徳と于禁を援軍に出だした。関羽は于禁らを水攻めで破った。呉も、呂蒙が出陣していたが、荊州の守りが堅いので、病気と偽っていた。孫権は若い陸遜を起用した。陸遜は商人と偽って狼煙台を占拠し、無血で荊州城が落ちた。関羽の部下・傅士仁と糜芳が呉に降った。関羽の陣では荊州が取られたといううわさが流れていた。しかし関羽は「流言だ」と否定した。関羽は魏の徐晃と対峙した。徐晃は公私混同はしなかった。関羽と挨拶を済ますと、「関羽を討ち取ったものには黄金千両をやるぞ」と言うや、得意の斧でうちかかる。関羽はたまらず帰陣し馬良・伊籍を成都に遣わせた。関羽は麦城に立て篭り、劉封・孟達に援軍を求めたが孟達は「救援に行っても死ぬようなものだ」として、援軍を出さなかった。関羽は、なんとか成都に向けて逃げようとしたが、呉に捕われた。孫権は関羽に降伏するように言ったが、関羽は聞き入れない。孫権の部下も「曹操でも味方にできなかったのです、殺すしかないでしょう」といった。孫権は考えたあげく、関平とともに首をはねた。219年冬12月、歳は58であった。関羽は死んでからもその霊魂が出現した。あるお寺に現われたり、呂蒙は取りつかれたりした。祝賀会で呂蒙は「碧眼の小児、紫髯の鼠輩」と罵るや、目、鼻、耳などから血を流して死亡した。呉は関羽の首を曹操に送った。曹操が「雲長殿、お変りなかったか」と首を見ると目が開き、ひげが逆立ったので、曹操は昏倒してしまう。蜀では、劉備の寝所にあらわれ「兄者、私の恨みをはらしてくれ」と訴えた。 関羽は不思議なところが多すぎる。関羽の場合は死んでからのほうがちょっとおっかないと思った。

関平

 関平、関定という者の次男である。関羽が劉備との再会したとき、関羽の養子になった。博望坡の戦いでは、劉封とともに、孔明の策に従い勝利をおさめた。赤壁の戦いでは、父・関羽に従うが、曹操を見逃した。劉備が益州を手に入れるときも、従軍し、フ水関では、敵将を捕え、魏延・黄忠の後詰めをし、敵の陣を奪う。ホウ統が死んだとき、敵軍を防ぎ、孔明への使者となり、荊州に向かい、父・関羽とともに荊州を守る。襄陽の戦いでは曹仁と戦い、襄陽をとる。樊城では、ホウ徳と戦い、勝負が着かなかった。関羽は水攻めで于禁を捕えたが、毒矢の傷を負ったので、名医・華佗をよび、治療させた。関平は、徐晃に対し偃城をかため、迎かえ撃つが背後を呉に攻められ、孤立して行く。麦城に立て篭り、奮戦したが捕えられ、関羽とともに首をうたれた。

張飛 翼徳

 張飛、字は翼徳(正史では益徳)。劉備のもう一人の義弟。身長8尺、豹のような頭に、まるまるとした目。燕のおとがい、虎のひげ。声は雷のよう、荒れ馬の勢いがある。この人は寝るときまぶたを閉じない。武器は1丈8尺の蛇矛。元は肉屋。義勇兵の高札を見ていた劉備に声をかけ意気投合した。黄巾賊との戦いでは副将・トウ茂を討ち取る。官軍(董卓)を助けたときバカにされ、怒る張飛だった。劉備が安喜県の県令に就任したが都の勅使・督郵が賄賂を求めた。怒った張飛は督郵を縛りつけ柳の枝で打った。のち、董卓討伐軍に参加し虎牢関で呂布と戦ったが、引き分けた。董卓討伐軍が解散し公孫サンと袁紹が戦う。この時、劉備軍は公孫サンに加勢。趙雲と知り合う。この戦いの後、劉備は平原の相となる。北海の孔融が黄巾の残党に攻められたとき、劉備は加勢に行き、関羽・張飛は賊を蹴散らした。次に、陶謙からの援軍の要請に答えて、徐州に加勢にゆき、劉備は陶謙の後を継ぎ、徐州の太守となる。やがて、袁術と戦うため、張飛に留守を任せるが、酒を飲みすぎ、曹豹に恨まれ、呂布に徐州を取られた。のち、劉備は呂布と和睦したが、張飛が呂布の軍馬を盗んだため、劉備は曹操の元へ身を寄せる。曹操の元では張飛は特になにもしていない。劉備が曹操暗殺計画に参加したため、劉備とともに農民のふりをする。曹操は劉岱と王忠を使って徐州を攻めたが、張飛は夜襲をかけるとみせかけ、敵の伏兵の外に兵を置き、劉岱を生け捕りにした。やがて曹操の本隊到着。張飛は遠路疲れているので夜襲をかけてはとし、劉備も同意したが、曹操軍も備えがあり、結局敗れ、劉備、関羽とはぐれる。のち、関羽と再会したが、張飛は曹操に仕えていると思い込み、「この裏切り者」と関羽に斬ってかかる。しかし、この時個人の感情で関羽を追ってきた曹操軍の蔡陽を斬ったので、張飛も納得し誤解を解いた。劉備と再会し汝南で力をためるが、曹操軍の夏侯惇に攻められ、荊州の劉表の元へいく。荊州の江夏で発生した反乱で、張飛は陳孫を一突きにし、江夏を平定。劉備は徐庶を軍師として迎え、曹操軍の曹仁との戦いでは、敵将・呂翔をうちとる。また、曹仁の敗走に襲いかかり大勝。徐庶は母を人質にとられ、曹操の元へいったため、劉備は諸葛亮の庵を訪ねる。張飛は雪の日にでかけるのに文句をつける。しかも、孔明は留守。春になり又庵を訪ね劉備に張飛は面白くない。孔明は在宅だったが昼寝しているのに怒り、「もう許せん。裏に回り火をつけてやる」といったが、関羽が押し止めた。張飛は朝から晩まで孔明、孔明の劉備に文句をいうが、劉備は「私が孔明を得たのは魚が水を得たようなものだ」といって相手にしなかった。張飛はしばらくの間、孔明のことを「水」と言った。しかし、博望坡の火攻めで夏侯惇に大勝。張飛も関羽も孔明の才能を認めた。やがて、曹操軍本隊が到着。劉備は南へ逃げるが、長坂で襲われる。農民連れの劉備軍はどうすることもできない。阿斗を連れて帰ってきた趙雲と長坂橋でバトンタッチ。張飛は橋の上から「我は燕人張飛。誰か勝負する者はおらんか!」と大喝。曹操軍は夏侯傑が落馬したのを合図に一斉に逃げ出した。やがて、赤壁の戦い。張飛は曹操の退路を待ち伏せて攻撃した。荊州南郡攻略では、零陵は張飛が張り切ったが、くじ引きで趙雲が役を果たす。武陵では、こんどこそやらせてくれと誓紙を書き出陣。武陵太守・金旋は部下・鞏志が降伏を勧めたが聞き入れなかったため、鞏志に矢で射殺される。張飛はほとんど戦わなかった。のち、ホウ統が県令をしてるとき、孫乾とともに視察にいって、ホウ統の才能を見せつけられる。呉では、阿斗を人質にとり、荊州を返してもらおうとしたが、趙雲と張飛が阿斗を守る。入蜀の戦いでは、夜襲をかけると見せかけて、厳顔を捕える。張飛は厳顔の潔い態度に感服して敬意を表した。このため、厳顔はラク城までの兵をすべて降伏させたので、張飛は速く到着した。次に西涼の馬超が現われた。張飛は馬超と戦うが夜になっても勝負が着かなかった。やがて、馬超は孔明の策にかかり劉備に降伏。曹操軍との戦い巴西の戦いでは、わざと酒浸りだとう情報を流す。曹操軍の張コウは夜襲をかけたが、これは張飛の罠で敗北した。瓦口関の戦いでも魏延と連係して張コウに大勝した。劉備は皇帝になったが、関羽が帰らぬ人となった。張飛は「おれ一人でも弔い合戦をしたい」と言って、呉の討伐を行う。しかし、張飛は部下に「三日以内で全軍の白の服を整えろ」と無理な注文をつけたのでその部下がもう少し時間を下さいとと言ったところ、張飛は50回鞭で打たせ、「明日じゅうに用意しろ。できなければ首をはねる」と言ったので、この部下は張飛が寝ているのを襲って、首を斬り、呉に走った。張飛は55歳であった。

黄忠 漢升

 黄忠、字は漢升。南陽の人。元は、荊州の劉表に仕えていたが、後は、長沙の韓玄に仕える。60を越えた老将で、「老いてますます盛んな人」で有名。長沙で関羽と戦うが、馬がつまずき転倒したが、関羽は決着を着けなかった。翌日、黄忠は得意の弓で勝負したが、わざと弓を空打ちして、最後の一本を関羽の兜に当てて昨日のお礼をする。しかし太守の韓玄は黄忠を疑り、斬首しようとしたが、魏延がかけつけ助けられる。その後、病気を理由に家に退き籠ったが、劉備がじきじきに訪れ、ようやく降伏し、劉備軍となる。劉備が孫権の妹との政略結婚のとき、劉備が荊州に帰る際、張飛らと、周瑜を攻める。入蜀戦では先鋒をつとめる。蜀の武将(冷苞、トウ賢)を捕え、抜け駆けした魏延を助ける。魏延と交代で水攻めに警戒し、襲ってきた蜀の呉蘭・雷銅を防ぎ進軍する。落鳳坡でホウ統が死に、窮地にたった魏延を救い、孔明を待つ。綿竹で李厳を降伏させ、成都へ入った。葭萌関の戦いでは蜀の老将・厳顔とコンビを組み、敵将・韓浩を討ちとる。次に、定軍山を取ろうとしたが、孔明は「老いているので心配だ」としたが、逆に、黄忠はやる気を出し矢を孔明の前で折って見せた。孔明は副将に法正を付けた。敵の夏侯淵は打ってこない。蜀軍では自ら戦いに出たいと言っていた陳式が魏軍に捕まり、また、黄忠は魏の将・夏侯尚を捕虜にしていたので人質交換を願い出た。その際、黄忠は夏侯尚の背中に矢を当てたため、夏侯淵との戦いになる。法正の策で赤と白の旗を振り合い、敵を混乱させ、夏侯淵を討ちとる。次に来襲した張コウとの戦いでは、趙雲と組む。黄忠は敵の兵糧を襲うが、逆に囲まれた。しかし趙雲に助けら、魏軍を破った。次に襲来した徐晃・王平戦では趙雲と組み、魏軍を破る。王平は蜀に降伏し、蜀軍は曹操を追いつめ、漢中を取った。劉備の関羽復讐戦では黄忠は先鋒をつとめる。劉備は陣で「関興・張苞など若い者が役にたってきた」といったので、黄忠は負けん気をおこし、呉軍に攻め入る。黄忠は呉の潘璋を攻める。しかし黄忠は矢を受けてしまう。関興が助けに来る。劉備は黄忠に「私の言葉のせいでこんなめにあわせてしまった」と謝ると、黄忠は「私は貴方に仕えることができ、歳にも不足はありません。どうか天下の統一を...」と言うと、息を引き取った。

魏延 文長

 字は文長。劉備が曹操に追われて、襄陽に来た時に門兵を斬って劉備を入城させようとしたが、結局、長沙の韓玄のもとに落ちのびる。黄忠が関羽と戦っていた時、黄忠が韓玄に疑われ、斬首されそうになった時、黄忠を助け、関羽に投降した。しかし、諸葛亮は魏延に謀反の相が出ているのを見て、斬首させようとしたが、劉備のとりなしで助かる。後に、入蜀で活躍。はじめは抜け駆けを行い、黄忠に助けられる。黄忠と組み、蜀の将・張任を捕らえる。瓦口関では張飛と呼応して勝利を収める。漢中攻めの南鄭での戦いで戦い、斜谷では矢で曹操の前歯を二本折る。その後は、南征で活躍し、何度も孟獲を捕らえた。北伐にも参加。しかし、度重なる北伐に戦果が上がらず、自分の「子午谷から長安を攻める」という策が諸葛亮に聞き入れてもらえず、次第に不満を言うようになってくる。孫権は、そんな魏延の性格を見事に見抜いていた。諸葛亮は胡盧谷の戦いで司馬懿親子とともに魏延を始末しようとしたが、大雨が降り、司馬懿も魏延も助かった。諸葛亮の寿命を伸ばす祈とう中、魏延は燭台を倒してしまう。諸葛亮は自分の死後の魏延の処理を楊儀に託した。諸葛亮没後、魏延は自分の頭に角が生える夢を見た。趙直に大吉だと言われて喜ぶ。後、魏延は姜維たちが退却したのを知り、怒って蜀の桟道を焼いてしまう。やがて、漢中で楊儀・姜維と対峙。しかし、諸葛亮の策で味方だと思っていた馬岱に斬られてしまった。

馬超 孟起

 馬超、字は孟起。西涼の太守・馬騰の長男。顔は冠の玉のよう。十七歳で父・馬騰と董卓の残党李カク・郭シらを討つべく、攻めのぼった。迎かえ撃ってきた王方らを蹴散らしたが、途中で食糧が尽き、敗走した。このとき、馬超は後詰めをし父を守った。後、父が曹操に呼ばれたので、馬超は全軍で許昌を襲おうと進言したが、父に説得され、西涼の守りにつく。しかし、馬超は夜に自分が雪原で虎に襲われる夢をみたため、ホウ徳に夢占いをしてもらった。結果は凶だった。それからすぐ、逃げ帰った馬岱から父や弟が殺されたと聞かされた。馬超は韓遂と協力し曹操を攻め、ついに潼関をおとした。曹操は馬超の勇猛さに舌を巻いた。馬超は曹操をもう少しのところまで追い詰めるが、槍の先が木に刺さり曹操を逃してしまう。(このとき曹操が派手な恰好をしていたので、西涼の兵たちは「赤いひたたれを着けているのが曹操だ!」と言った。曹操がひたたれを脱ぎ捨てると「ひげが長い奴が曹操だ!」と言われ、今度はひげを剣で剃り落した。しかし、今度は「ひげが短いのが曹操だ!!」と言われ、顔を覆い隠し逃げる曹操だった。これほど馬超のほうが有利だったのである)曹操は氷の城を築いた。馬超は許チョとの一騎打ちに挑む。馬を替え、許チョは鎧・兜を脱ぎ、裸で馬超に挑む。しかし両軍が入り乱れての戦いとなり、引き分けた。曹操は賈クの進言で、韓遂・馬超の離間の策を行う。所々塗り消した手紙を韓遂に届けた。馬超をそれをみて、見られて都合の悪い部分を消したと信じ、曹操と通じているのではないかと疑念を抱く。韓遂は立場が悪くなり、本当に曹操に通じた。曹操が押し寄せ、乱戦となり、馬岱やホウ徳とはぐれるが、後に合流して隴西の臨トウめざして落ちのびた。そして、漢中の張魯に身を寄せることになった。葭萌関に劉備軍が押し寄せてきたので、馬岱と馬超は葭萌関の守りにつく。張飛は馬超に一騎打ちを申し込むが夜になっても勝負が着かない。見かねた劉備は二人を止めた。そして、劉備は馬超が「錦馬超」とよばれるにふさわしい働きをみて気にいる。孔明の策で馬超と張魯の仲が裂かれ、蜀の武将・李恢(りかい)に説得されて、劉備に降る。馬超は、曹操の息子・曹彰との戦いで活躍する。その勢いで曹操の陣へも斬り込み、敗走する曹操軍を追撃した。劉備が漢中王になり、馬超は「五虎大将」に任じられた。馬超の配下であったホウ徳は東川で別れてから、曹操に降って、関羽攻めの先鋒をつとめていた。さて、劉備は関羽を助けなかった劉封と孟達をいずれ処刑するつもりで太守に任じたが真意を知った孟達の親友である彭ヨウは書面で孟達に知らせようとしたが、この使者が馬超の兵に捕まり、馬超は酒を酌み交わし、彭ヨウの真意をうまく聞きだし劉備に報告した。劉備が関羽の仇討ちを行う際は、漢中を守った。南征では趙雲の守っていた陽平関の守りに着く。孔明が南征から帰ってくると、馬超が病死していることが説明されている。

・呉の武将

孫権 仲謀

 孫権は呉の国をつくった人である。孫権、字は仲謀。孫堅の次男で、父の孫堅、兄の孫策のあとを継いだ。目が青かったので「碧眼児」と呼ばれた。まず孫権は、父の仇である、荊州の劉表の配下、黄祖討伐に乗り出した。黄祖のもとで働いていた甘寧というものが投降してきたので、黄祖の首をとることができた。やがて、劉表が病死し、曹操から「協力して劉備を滅ぼそう」との使者がきた。配下の魯粛は劉備と手を結んで荊州をとるほうがよいとすすめ、諸葛亮孔明(以下孔明と表記)に説得され、開戦に踏み切る。そして、赤壁の戦いとなる。その後、孫権の配下の周瑜は、荊州をとりに行くが、毒矢を受けてしまう。荊州はまんまと、孔明にとられた。劉備に政略結婚として、自分の妹を嫁がせて、劉備を呼び寄せて討とうとしたが、孔明に見抜かれて失敗した。後に、毒矢がもとで周瑜が死に、魯粛がホウ統を連れてきたが、ホウ統の風采が良くないため、孫権はホウ統を良く思わなかった。このため、ホウ統は劉備に仕えた。さて、次に孫権は劉備の子供・劉禅(阿斗)をさらい荊州をとろうとしたが、劉備の部下の趙雲と張飛によって阻止された。孫権は部下の張紘の遺言で秣陵に移り、建業と土地の名前を変えた。やがて、曹操と濡須で対決、しかし戦いが長引き曹操と和睦した。劉備は漢中王となり、孫権は孔明の兄の諸葛瑾をやり孫権の息子と関羽の娘の縁談を持ちかけた。しかし、関羽は断った。孫権は曹操と手を結び、曹操を攻める関羽の背後をつかせ関羽を捕えた。孫権は関羽を部下にしたいと思ったが、部下の諌めで首をはねた。劉備は復讐にきた。連日連敗で諸葛瑾を遣って和睦したいと働きかけたが、劉備は聞かない。孫権はすべてを部下の陸遜に託した。陸遜は、劉備を火攻めで破った。孔明は劉備の死後、孫権と和睦した。孫権は帝位についた。孔明は魏と戦う。孫権にも出兵を要請したが、孫権は兵を出すふりをした。孔明はなくなった。蜀は、呉の真意を探った。孫権も、魏への牽制のため蜀と同盟を強調した。やがて、魏では司馬一家が実権を握ていた。呉では251年秋、暴風雨のため洪水となり、呉の代々の松柏も根ごと飛ばされ、建業の南にまっ逆さまに、突きささった。孫権は、病に倒れ、息を引き取った。在位24年、71歳であった。

周瑜 公瑾  

 周瑜、字は公瑾。孫権の兄孫策とは義兄弟の誓いをしている。周瑜は巴丘の守りについていた。この間に孫策は亡くなった。周瑜は孫権にも兄とかわらぬ忠誠を誓い、自分が以前世話になった魯肅を推挙した。黄祖討伐のときは水陸両軍を率いた。大勝をおさめ、荊州の劉表に備え、水軍の訓練に入った。孔明が呉に来て、曹操と開戦か降伏かで真っ二つになった。周瑜は、孫権から呼び出された。開戦派も降伏派も周瑜の家でも言い合った。周瑜は自分の意見は言わずに皆を体よく帰した。そして孔明と面会した。孔明は「曹操は大喬と小喬を欲しがっているのでくれてやれば引き上げるでしょう」と言った。(大喬と小喬は呉では花の二喬といって絶世の美女だった。孫策は大喬を、周瑜は小喬を妻としていた)周瑜は怒り、開戦を決意する。しかし、自分の意図を見抜き、呉を開戦に巻き込んだ孔明に対して殺意を持った。孔明に曹操の食料基地をおそわせて曹操に孔明を殺させようとするが、孔明は「愚かなことだ」と言って、周瑜を怒らせ巧みに策から逃げる。次に劉備を呼び寄せて、殺してしまおうとしたが、関羽が劉備の側を離れないので失敗。ここで、曹操からのスパイ、蒋幹が来る。蒋幹は周瑜とは幼なじみなのだ。しかし、周瑜は懐かしいだけでこの陣に来るのはおかしいと見事に見抜き、逆に曹操軍の水軍都督・蔡瑁がわが呉に降伏しようとしてるぞとの情報を流し、曹操に蔡瑁を殺させた。孔明が気になり、魯肅に探らせるとこの策をお見通しだった。益々殺意が大きくなり、孔明に十万本の矢を三日以内に調達せよと難題を与えた。孔明は濃霧の夜、わらをたくさん積んだ船をだし、曹操軍に攻撃すると見せかけ矢を使わせわらに刺さった沢山の矢を持ち帰った。周瑜は孔明に曹操軍を破る策を聞く。周瑜と孔明お互い自分の考えを手に書いて見せ合うと両方「火」の字。周瑜は孔明の殺意を無くした。曹操は殺された蔡瑁の族弟・蔡和、蔡中を偽り投降させ、呉の情報を集めようとした。周瑜は蔡和、蔡中が家族を連れてきていないので、すぐにこの策を見破り、曹操に偽の情報を流すようしむけ、さらに、黄蓋をわざと百たたきにし、苦肉の策を実行する。ホウ統を呼び、再度訪ねてきた蒋幹とともに曹操に送り、ホウ統に船を鎖でつなぐ「連環の計」を実行させる。周瑜はこのあと血を吐き倒れる。冬には北風しか吹かないのを憂慮してたのだ。孔明はこれを見抜き南の風を呼んだ。周瑜は風さえ吹けばもう孔明は不要ということで、部下の者に孔明を殺すように仕向けた。しかし孔明はもう趙雲の船にいた。さて、赤壁の戦い後、荊州南郡攻略に乗り出す。劉備も狙っていることを知り、魏の曹仁と一進一退の攻防をし勝利する。しかし、孔明はこの隙に南郡、関羽に襄陽を取らせていた。魯肅が劉備と「荊州は劉表殿のもの、長男の劉キ死後呉にかえす」と約束を取ったので周瑜は柴桑にもどり、曹仁から受けた矢の傷の養生に当たった。その後、なかなか荊州を返さないので、孫権の妹(孫夫人)と劉備を結婚させ、劉備を人質に取る作戦に出た。しかし、趙雲が孔明の策を実行したため、呉国太(孫堅の第二夫人)に気に入られ、手が出せない。劉備が荊州に逃げる所を捕まえようとしたが部下の徐盛らは孫夫人に一喝され果たせず、劉備は孔明のもとに戻ってしまう。周瑜は陸上から追撃すると、劉備の兵たちは「周瑜は戦に負けた上に夫人も取られた」とはやしたてた。周瑜は矢の傷が開いて昏倒してしまう。曹操は周瑜に南郡の太守の地位を与えて、劉備と孫権を争わせようとした。周瑜は劉備のため益州を攻めると見せかけて実は荊州を攻める作戦に出た。しかし、これも孔明はお見通し。趙雲や関羽に四方から攻められ、また矢傷が裂けた。そうすると孔明から手紙が届いた。「周瑜殿、益州を取るおつもりのようだが、益州は要害そう簡単にはいかないと思われます。曹操は赤壁の恨みがあるから、攻めてくるでしょう。まことによい謀りごととは思われません。ぜひよくご賢察ください」この手紙を読み、周瑜は天を仰いで長嘆し、「この世には周瑜がいながらなぜ、諸葛亮まで生まれさせたのだ!」と繰り返し叫びついに息絶えた。建安15年(210年)冬、12月3日であった。歳は36歳だった。メールでは呉のファンのなかでは、かなりの人が好きな武将に周瑜の字があったです。周瑜と孔明のやりとりが私は一番面白いと思う。周瑜ももう少し長生きしてしてたら良かったのにと思う武将の一人です。

孫堅 文台

 字は文台。孫権、孫策の父親。呉郡富春の人。孫子の末裔。額ひろく、顔が大きい。虎のような体に熊のような腰。武器は古錠刀(こていとう)。17歳のとき、盗賊を殺して名をあげた。これで校尉に推挙された。会稽郡で反乱があったが、孫堅は義勇隊を集めこれを打ち破った。これで、各地方の県の丞を歴任した。黄巾の乱で郷里の者達を集め、朱儁に加勢する。孫堅は黄巾賊を斬り大活躍し、別郡司馬となった。のち、長沙の太守となり、江夏一帯の賊を平定した。袁紹・曹操の董卓討伐軍に参加した。シ水関では華雄を相手にし、一度は勝利をおさめるが、食糧係の袁術が食べ物を送らなかったため、敗れさる。袁術に抗議。袁術は部下のせいにして、孫堅に謝った。陣に帰ると、董卓から縁談の話がきたが断った。董卓討伐軍は焼け野原の洛陽にはいる。この時、孫堅は古井戸から光輝くものを発見した。部下の程普聞き、玉璽(帝の印鑑)と判明した。孫堅は仮病を使い、長沙に帰ろうとしたが、袁紹は仮病の噂は聞いていたので、問い正した。しかし、孫堅はうそをいったため斬りあいになろうとした。その場は諸将たちがなだめた。孫堅はそのまま洛陽から去り、袁紹はおおいに怒り、荊州の劉表に孫堅の帰り道を塞げと使者を出した。劉表は孫堅を襲うが、何とか逃げきり江東に帰る。袁術は、袁紹と不和になったため、劉表に食糧の借りを頼んだが、断ったため、袁術は孫堅に書を送り、劉表と孫堅を戦わせた。孫堅も帰り道襲われていたから、 劉表を攻撃した。しかし、劉表の部下カイ良の策で待ち伏せに遭い、山の上からの石と矢を浴びて死亡した。歳は37であった。時は、初平3年(192年)11月7日であった。これで、孫一族と荊州の劉表は仇の間柄となる。

魯粛 子敬

 魯粛、字は子敬。臨淮郡東城県(りんわいぐんとうじょうけん)の人。周瑜が孫権に推挙した。もともとお金持ちであったが、貧しいものには財産を分け与えた。孫権は魯粛と一日中談論しても飽きなかった。魯粛は曹操を討つのは難しいのでまず、江夏の黄祖、荊州の劉表を攻めるべきだと言い、一人の人物を推挙した。諸葛瑾(諸葛亮の兄)である。後、曹操が江陵に入ったと聞き、孫権は重臣と協議した。魯粛は、先ごろ劉表が死んだので弔問という名目で劉備の元をおとずれ、劉備に孫権と誼を結ぶように言った。そこで、孔明は魯粛とともに孫権の元へ向かった。魯粛は荊州でのことを報告し孫権に孔明を引き合わせた。次に、周瑜に孔明を引き合わせた。周瑜は孔明は殺してしまったほうがよいと言うが、魯粛はあくまでも、劉備との連合を大事にし、「兄の諸葛瑾に呉に来るよう説得させてみては」と言った。どうしても孔明を殺したい周瑜は孔明に十万本の矢を調達するように言ったので、魯粛は孔明の言う通り、草束を積んだ船を用意し、孔明とともに曹操の陣で矢狩りをした。そして孔明の策に感服した。蔡和、蔡中が投降してきたとき、魯粛は周瑜の心がわからなかったが、孔明に真意を教わる。周瑜が風が吹かないため、倒れたとき、魯粛は孔明に相談し、孔明の指示どおり、山に壇を築かせた。赤壁の戦い以後は、劉備が油口に陣取ったため、周瑜と劉備の元に行き、呉が荊州をとると言い、取れないときは劉備が取ってもよいという証人になった。荊州を取られて悔しがる周瑜をみて、魯粛は劉備の元に行った。しかし、孔明に「荊州は劉表殿のもの。彼がいない今、長男の劉キ殿のもの。劉キ殿を我が主人劉備が面倒をみているのだ」といわれ、仕方なく、劉キが死んだら、荊州を呉に返すということになった。のち、合肥では大小の戦いがあった。このとき、程普が到着する前に魯粛が到着した。孫権は下馬して魯粛を迎え、「こうすれば、おぬしには名誉なことであろう」と言うと、魯粛は「これくらいでは足りませぬ、我が君がすべての地を手におさめられましたとき、良き馬車にて、召し出されたときこそ、私は光栄きわまります」(「どうか天下統一してください」ということ)と答えた。孫権は手をたたきたいそう喜んだ。荊州では劉キが死んだので魯粛は弔問に出かけた。しかし、又孔明に「蜀を取ったらすぐお返しします」と言われて、誓約書をもってしぶしぶ引き揚げる。帰ると、周瑜は怒って、「君は人がよすぎる、いつ蜀を取るというのだ、何十年も待つのか?」と言われてしまった。周瑜は策略をたてたので孫権に報告した。しかし、周瑜の策は孔明に見抜かれ、周瑜は死んでしまう。魯粛は周瑜の後継者となる。周瑜の葬儀が終わり、孫権にホウ統を推挙したが、孫権はホウ統を用いなかったので、劉備への推薦状を書く。後、孫権に言われ、荊州返還について関羽をよび、もし承知しなかったら殺そうという計略をたてたが、関羽は魯粛から手を離さず、部下も手が出せず失敗した。のち、曹操が漢中をとったため、劉備は荊州三郡(長沙・江夏・桂陽)返還を条件に孫権に救援を求めたため、魯粛は陸口に駐屯した。曹操の元にいた管輅が占うと呉は大将を一人失うとでた。そのとおり、魯粛は陸口を守っていたが死んだとの知らせが来た。

呂蒙 子明

 呂蒙、字は子明。江夏の黄祖に仕えていた甘寧を孫権に引き合わせた。赤壁の戦いでは曹操を追うが、張遼に食い止められる。周瑜の死後、孫権に濡須に築城を勧めた。魯粛が関羽と話し合うことになったとき、これに同行したが、関羽が魯粛の手を離さなかったので、呂蒙たちは何もできなかった。劉備は荊州3郡を返すから曹操を攻めるように申し出たので、呂蒙と甘寧は先鋒で出陣したが、甘寧と凌統が仲間割れをおこしたので、仲裁した。結局、張遼に負けた。濡須で曹操を迎かえ撃つが孫権が敵に囲まれ、孫権が逃げてきたところを助け上げた。そして呂蒙も陸遜に救われた。関羽は狼煙台を建てて呉軍に注意したため、呂蒙は何もできず、陸遜の知恵を借りた。病気と偽って陸遜と交代し、関羽を油断させた。呂蒙は商人に扮装して狼煙台を襲い、荊州城を落す。そして、荊州の民を安心させるため、一切の略奪を禁じた。竹の笠を拾った兵士まで殺し、徹底させる。関羽は孤立していく。麦城から逃げ出した関羽を待ち伏せ、捕えた。荊州入手のお祝いの宴席の上で関羽の霊に取りつかれ、「碧眼の小児、紫髯の鼠輩(青い目ヤロウ!紫ひげのねずみヤロウ!)」「我は関羽なり!」と言うと、体じゅうの穴から(鼻とか耳の穴)から血を流して死んだ。

太史慈 子義

 字は子義。東莱群黄県の人。母親の命令で北海太守・孔融を助ける。劉備とともに黄巾残党・管亥を破る。孔融のもとを去り、揚州刺史・劉ヨウの配下となる。そこで、孫策と激しい一騎打ちを行い、孫策に認められ、孫策に帰順した。孫策死後も,孫権に仕える。赤壁の戦いでは黄州境で曹操を待ち伏せる。後に、合肥の戦いで魏の張遼と互角にわたりあう。太史慈は合肥城内の戈定と内通しようとした。諸葛瑾が注意するが、太史慈は聞きいれない。城内に火の手を上げるまではうまく行ったが、張遼の冷静な判断で逆に城内に誘い込まれ、矢を浴びてしまう。太史慈は矢傷がもとで亡くなった。41歳であった。
 
甘寧 興覇

 甘寧、字は興覇。巴郡臨江の人。もと、錦帆賊で、川や湖を荒らしまわっていた。しかし、前非を悔いて劉表のもとに身を寄せた。甘寧はしばらくすると、劉表が無能だと考え見切りをつけ、江南へ行こうとした。しかし、黄祖に止められる。黄祖が呉と戦った時、呉の武将・凌操(凌統の父)を射るなどの活躍を見せた。しかし、黄祖は元海賊ふぜいな者は重用しない。甘寧はついに呉の孫権のもとに降る。黄祖の軍勢を相手に見事な働きを見せる。その祝勝会で、凌統が父の仇として甘寧に斬りかかった。孫権はこれを止め、甘寧を外勤にした。後に、魏の水軍者であった蔡クンを射殺して、勝利する。カン沢と呼応して蔡和・蔡中を欺く。甘寧は蔡中に案内させた後、蔡中を斬り殺す。曹操軍の馬延と張ガイを斬って功を上げた。のちに、夷陵の曹洪を攻めて城を取るが、逆に囲まれて周泰・周瑜に救われる。周瑜の蜀取りをみせかけ荊州を取ろうとした策の時、先鋒をつとめるが、孔明に見抜かれて不成功に終わる。合肥の戦いでも先鋒をつとめる。その祝勝会でまた凌統に殺されそうになる。曹操の出鼻をくじくため、百騎で夜討ちをかける。百名にはがちょうの羽を目印としていたので、一騎も失わずに帰陣した。次の日、凌統が落馬し、楽進に刺されそうになったとき、甘寧は楽進を射て落馬させ凌統を助けた。これより、甘寧と凌統は和解した。のち、劉備が関羽・張飛の復讐戦の時、甘寧は下痢を起こしていたが病をおして出陣した。蛮王・沙摩柯にであう。この戦いで、沙摩柯から矢を受けてしまう。そのまま馬に運ばれ富池口までくるが、そこの大樹の下で座り込んで亡くなった。

おわりに

 今回、なかなかテーマが決まらず苦しまぎれにいろいろな、テーマをやってみたがどれも長くは、続きませんでしたそれならば研究という風にあまり堅くならないで何かできないだろうかと思ったとき、三国志について何かしたいなーあと思うようになりました、しかし三国志については昨年度優秀な論文が多数でていたのでどうしようかとも思いましたが、人物を中心にまとめたものがなかったので人物中心にまとめてみるのもおもしろいのではと思いました。三国志を知ったきっかけは、家庭用ゲームです。そこで操作していた劉備や曹操について深く知りたいと思い実行に移しました、様々な武将や歴史の背景を調べている内にそれぞれの生き様や価値観にふれられ特に三国志時代後半の周喩と孔明の駆け引きなどがおもしろかったです、きっと僕個人の意見ですが周喩は孔明の才能に嫉妬していたのではと思いますその中で周喩の出した難題を次々と解決してしまう孔明はすごいと思った、それと司馬懿との駆け引きでもまた孔明のすごさ改めて知りました、そしてそれ以外の武将にもそれぞれ一人一人にドラマがあり大変興味深かったです、そしてますます「三国志」の面白さとスケールの大きさを知りました、そしてそれとともに久しぶりに三国志のゲームがしたいなとも思いました。

参考文献

・ 三国志 人物事典 小出 文彦監修 新紀元社
・ 漫画「三国志」    横山 光輝
・ インターネット          

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