研究Tゼミレポート

       「紅衛兵の栄枯盛衰

〜文化大革命を支え、そして支えられた紅衛兵について〜」


経済学科2年 小山 勝
学籍番号 
趙軍ゼミナール


目 次


1.はじめに
2.文化大革命について
3.紅衛兵誕生
4.紅衛兵の天下
@認められた紅衛兵
A壁新聞
B紅衛兵、毛沢東と会う
C暴走する紅衛兵
Dその後の紅衛兵の姿
E下放運動
5.文化大革命と紅衛兵の結末
6.文化大革命を生き抜いた元紅衛兵
7.あとがき
8.参考文献、資料


参考文献、資料

・ 文化大革命十年史 岩波書店
・ 「文化大革命」簡史 席宣・金春明 著 岸田五郎他訳
・ 「岩波講座 4巻現代中国歴史と近代化」小島晋治
・ NHKテレビ「中国語会話」
・ インターネット等


1はじめに

 NHK日中合作ドラマ「大地の子」というドラマをみたとき、主人公(上川隆也さん演じる陸一心)が文化大革命の影響でひどい境遇におかれる状況を見てさいなまれ、くわしく知りたいと思い研究テーマに選定しました。文化大革命について調べていくにつれ、紅衛兵の活動が文革の中心、推進力になったといっても過言ではないことに気づきました。文化大革命当時人民は紅衛兵の活動を目の当たりにしていました。ドラマの中でもそのような状況がよく表現されていたので、一体紅衛兵とはどんな存在なのかについてよく調べてみようと思い、最終的にこのテーマを選びました。

2文化大革命(文革)について

 狭義の意味での文革は1965年秋から1969年4月の中国共産党第9回全国代表大会までをさし、広義の意味での文革は「動乱の10年」を指す。いずれにしても1966~76年にかけて中国全土で「闘われた」大衆運動である。

 文革の原因は主としてプロレタリア革命路線とブルジョア反動路線・修正主義路線との対立という「二つの路線」論であった。文革の原因それははっきり言って毛沢東個人のカリスマ的存在及び毛個人崇拝である。毛沢東思想を奉じる紅衛兵たちは当時の中国共産党組織や政府組織を「走資派」(資本主義への道を歩むもの)として破壊し、幹部やインテリなどをことごとく批判、放逐、処刑した。

 そもそも文革の発端といえば、1965年11月姚文元の「新編歴史劇『海瑞罷言』を許す」を契機とし1966年5月の政治局拡大会議8月の八期11中全会を経て毛沢東・林彪らが全面的に劉少奇ら「党内で資本主義の道を歩む実権派」(走資派)に対する奪権闘争を開始したことに始まる。そして1966年6月1日は、文革が大衆運動的性格を持つに至る画期であった。この日毛沢東は、北京大学学長陸平らを非難する北京大学の女性助手聶元梓が書いた最初の壁新聞(大字報)を公表するよう決定した。これによって文革は教育面・教育機関にも広がり、学生を中心とする直接的な大衆行動の段階へと入った。

 中国共産党建立の初期には、毛沢東もかつて不平等な扱いを受けたが、彼の聡明さ、強靱な意志、傑出した知力は次第に中国共産党に理解されるようになった。彼は中国共産党最高指導部の一人となり、長い革命の歳月の中で、国民党の当時を覆し、中国大陸の政治を奪取、同時に全党全国における自らの指導的地位を確立した。人民の心の中は毛沢東の権威が不断に高まっていき、全国で毛沢東の著作学習するブームがわき起こり、毛沢東思想を神格化していった。同時に毛沢東自身もまた神格化され、彼個人の神格化こそが、まさに文革の中で特殊な政治的役割を果たすことになった紅衛兵組織誕生の政治的前提となった。

3紅衛兵誕生

 ”文化大革命”期に林彪、江青反革命集団に利用された全国的な青年学生運動である。1966年6月1日、聶元梓を頭とする7人の壁新聞(大字報)が中国に大きな風波を巻き起こした。壁新聞が引き起こした学校間の交流は、まず北京大学の近くにある学校に影響を及ぼした。考え方が比較的似かよっている学生たちは自然と集まり、この風波が引き起こされた秘密を探り始めた。清華大学附属中学の数名の学生は情勢に対する分析を行ったが社会全体が毛沢東の宣伝に力を入れているという世論に影響されて、1966年5月29日「紅衛兵」組織を秘密裏に創設した。6月はじめには、北京地質学院附属中学、北京石油学院附属中学、北京大学附属中学、北京鉱業学院附属中学、北京第25中学の学生が「紅衛兵」「紅旗」「東風」などの秘密学生組織を相次いで設立した。これらはもっとも早い紅衛兵組織といえる。彼らの「誓いの言葉」、次のようなものであった。「我々は赤い政権を防衛する衛兵であり、党中央と毛主席は我々の後ろ盾である。全人類の解放は我々が当然になうべき責任であり、毛沢東思想は我々のすべてであり、毛沢東思想は我々のすべての行動の最高指示である。我々は誓う。党中央を守り、偉大な指導者毛主席を守るために、我々は断固として最後の一滴の血まで絞り出す。」こうして中学生の自由な組織として出発した秘密団体「紅衛兵」は集団的勢力として中国の政治の舞台に歩み入ることになった。

 街は大字報や修正主義批判ビラに溢れ、三角帽子をかぶせられた実権派、反革命分子が引き回しされる姿も随所で見られるようになった。紅衛兵たちは実権派の自宅に押し掛け、家宅捜査をやり、反革命資料なるものを持ち去った。紅衛兵から造反の対象とされた実権派は職務を外され、牛小屋に押し込められたり、便所掃除などの屈辱的な仕事を押しつけられた。文学者や作家や、京劇俳優なども迫害の中で死んだ。紅衛兵の街頭行動はまもなく全国各地に急速に拡大した。中共中央、国務院はこの紅衛兵運動を支持し、「各地の革命的学生が北京を訪れ、革命運動の経験交流を行うことについての通知」を出し、汽車賃を無料とするほか、生活補助金と交通費を国家財政から支出する方針を決定している。こうして授業をやめて革命をやる運動と全国的な経験交流が始まった。

4紅衛兵の天下

@認められた紅衛兵
 毛沢東は中国共産党第八期中央委員会第十一回全体会議を開き(八月一日〜一二日)「プロレタリア文化大革命に関する決定(一六箇条)」を制定した。これは「プロレタリア文化大革命」という名称を定着させ、目標が、ブルジョアジーの代表人物、資本主義の道を歩む実権派を攻撃するものであり、そのため「革命的青少年」が大字報・大弁論の形式を用い、大暴路、大批判を行うべきなど規定していた。つまり紅衛兵運動が党によって正式に認められた。

 1966年8月1日、毛沢東は清華附属中学の紅衛兵に手紙を送り、君たちの行動は「反動派に対する造反は道理があるものだ(造反有理)と言っている。私は君たちを熱烈に支持する」「ここで、私と私の革命的戦友たちは皆同様の態度をとっていることを言っておかねばならない。北京でも全国でも、文化革命運動の中で、君たちと同じ革命的な態度をとる人々すべてを、我々は例外なく熱烈に支持する。」と述べた。

 北京の紅衛兵が旧文化、旧思想、旧習慣の打破を叫んで街頭へ初めて繰り出したことを契機として1966年末には文革は奔流のような勢いの紅衛兵運動によって特徴づけられる段階へと突入した。青年労働者・大学生・中学生、それに小学生さえも含む無数のグループが各地に結成され、毛沢東の呼びかけに答えて行動を開始した。これが紅衛兵運動の始まりである。1966年後半から67年は紅衛兵の天下であった。カラフルなスカートなどを身につけた女性ははさみで切り裂かれただけでなく、時には陰陽頭(頭髪を半分だけ剃り落とすもの)にされた。ついには赤はよい色であるから、赤信号で前進すべきであり、青信号で停止すべきだとする主張さえ登場した。これらは各紅衛兵組織が勝手にやるものであるから、混乱は必至であった。紅衛兵たちは、片手に『毛沢東語録』を掲げて街中をのし歩き、列車に集団でただ乗りして上京したり、各地を渡り歩いて旧い事物や歴史遺産、旧文化、旧思想、旧習慣を打破すると称して破壊し、反革命修正主義分子の家を勝手に捜索し、党や行政機関の幹部を「ブルジョアジー」だとして勝手につるし上げたり、胸にプラカードを下げさせ、頭に三角帽をかぶせて街頭で引きずり廻したりした。

A壁新聞(大字報)
 清華附属中の紅衛兵メンバーは「革命すなわち造反(謀反)、毛沢東思想の魂すなわち造反」という思想に導かれ、1966年6月24日「プロレタリア革命の造反精神万歳!」と題する壁新聞を張り出した。壁新聞には次のように書かれている。「我々が主張する、『運用』に思い切り力を入れなければならないというのは、つまり主として『造反』日からを入れるということである。大胆に考え大胆に言い、大胆にやり、大胆に突進し大胆に革命をやる。一言で言えば、大胆に造反する、これこそプロレタリア階級党派性の基本原則だ!造反しないのは100%修正主義と言うことだ!」「革命者は孫悟空である。だから棒を振り回して神通力を発揮し法力を放ち、旧世界の天地をひっくり返し、上を下への大騒ぎをやり、さんざんに打ちのめし、めちゃめちゃに殴りつけなければならず、混乱すればするほどよいのだ。」壁新聞が宣伝する思想は瞬く間に中学紅衛兵組織の行動の指針となった。

 7月27日清華附属中学の紅衛兵は、従来の文革を批判し、壁新聞「プロレタリア革命の造反精神万歳を三度論ず」を打ち出した。「我々は毛主席の最も忠実な赤い衛兵である。毛主席に無限に忠実であり、必ずやプロレタリア文化大革命の最高指示−造反に関する毛主席の最高指示を、最も断固として、最も勇敢に、最も忠実に実行する」「すでに造反を始めたからには、最後までやり抜く」と表明した。

B紅衛兵、毛沢東と会う
 毛沢東は8月18日から11月26日までに八回にわたって上京してきたのべ1000万以上に上る紅衛兵を天安門広場で接見し、この「革命の少将たち」を激励し煽動した。また紅衛兵運動のエネルギーと混乱を利用して、劉少奇、ケ小平らの権威を著しく低下させ、彼らに自己批判さえさせた。

 1966年8月17日毛沢東は天安門楼上で全国各地の紅衛兵に接見することを決定した。8月18日「文化大革命祝賀大会」と銘打った毛沢東が大衆に接見する大規模な公開活動が早朝午前一時から開始され、百万人にのぼる各界の代表者が統一指揮のもとに続々と天安門広場に集まった。

 明け方5時、太陽がちょうど東から昇り始めたとき、帽章と襟章をつけた人民解放軍の軍服に身をつつみ、一人の若い女性兵士を伴った毛沢東が林彪、周恩来の後に続いて現れ、天安門城楼の下から金水橋を渡り、微笑みを浮かべて群衆に手を振り、握手を交わしながら人々の前を一周した。それから金水橋に戻り、軍帽を手にとって何度も振って見せ、再び帽子をかぶると天安門城楼へ去っていった。毛沢東が金水橋に現れた瞬間、天安門の前は人々の歓声でわきたち、それはどんどん周囲に広がっていった。瞬く間に天安門広場全体が、照りはえる紅旗と「毛沢東万歳」と叫ぶ歓呼の海となった。

 大会終了後、毛沢東は天安門楼上で百万にものぼる人々のパレードを観閲した。壇上の指導者たちもひっきりなしに手を振って大衆に挨拶を送ったが、パレードに参加した人々の目は皆じっと毛沢東の影を探し求めていた。

 天安門楼上では北京師範大学付属女子中学の宋彬彬(後に宋要武)が、紅衛兵の腕章を毛沢東の左腕につけ、毛は「紅司令」というこの紅衛兵総司令官の称号を喜んで黙認した。

C暴走する紅衛兵
 紅衛兵の無政府主義的で無規律的な行動は必然的に生産や輸送を著しく妨害し、またその性格上、大同団結をはかることができずに各地で小グループ間の激しい武闘が展開された。紅衛兵を煽動した毛沢東でさえ、どうしようもないほどの勢いになっていたのである。

 紅衛兵は元来毛沢東の唱える文化大革命のイデオロギーに共鳴して立ち上がったものだが、やがてある派閥は中央文革小組に操縦され、他方はこの指導を受け入れず、むしろ実権派を擁護し、対立するようになった。北京の大学生からなる政治意識の高いグループは、聶元梓(北京大学)などをリーダーとする天派と王大賓(地質学院)などをリーダーとする地派に分裂して、武闘を繰り返した。実権派打倒のためには彼らのエネルギーを利用した毛沢東は、頻発する武闘に手をやいて68年7月28日早朝、これら聶元梓などの指導者を呼びつけ、引導を渡した。こうして毛沢東から見てその利用価値のなくなった紅衛兵たちは、農村や辺境へ下放されることになった。

Dその後の紅衛兵の姿
 1967年春には中共中央は外地への経験交流を停止し、教室に戻って革命をやるよう呼びかけた。しかし、この指示は徹底せず、紅衛兵によるかく階級指導機関の襲撃や武闘流血事件が絶えず、1967年7〜9月の3ヶ月は混乱が極点に達した。

 1967年10月14日、中共中央は「大中小学校で教室に戻り革命をやることについての通知」を正式に発表し、全国の各学校が一律に授業を開始し、授業を行いつつ、改革を進めるよう要求した。とはいえ、多くの学校では実現できておらず、武闘は不断に発生していた。中学高校の授業再開にとって重大な問題の一つは、大学入試を停止したために、1966,67年度卒業生が中学でも高校でもあぶれており、授業再開の障害となっていることだった。卒業生の分配問題は緊急であったが、当時社会は大混乱しており、多くの地域でまだ革命委員会が未成立の情報のもとで、分配工作は進めようがなかった。67年までは、大量の中学卒業生は依然学校にとどまっていたのであった。

E下放運動
 1968年になると、中学卒業生の分配問題は一層深刻化した。卒業生の分配は大学だけでなく、中小学校においても普遍的な問題であるとし、各部門、各地方、各大中小学校が1)農村、2)辺境、3)工場鉱山、4)基層の4つに向かい、卒業生の分配工作を立派にやるよう要求していた。四方面のうち3)工場鉱山と4)基層とは、秩序が混乱しており、新規労働力を受け入れる余裕はまるでなかった。そこで卒業生は事実上、1)農村と2)辺境に分配された。1968年7,8月から紅衛兵への再教育が叫ばれ、毛沢東が指示を繰り返した。1968年末に毛沢東はこう呼びかけた。「知識青年が農村へ行き、貧農下層中農の再教育を受けることはとても必要である」。これを契機として、下放運動が巻き起こり、紅衛兵運動は終焉した。

 下放運動は毛沢東特有のイデオロギーによって支えられていた。それは青年学生に対して再教育を行うことによって修正主義を防ぐという考え方であり、再教育の内容として強く意識されていたのは、極度に平等主義的な社会主義論であった。

 1968年、69年の二年間で約400万あまりの年卒業生(68~69年度)が農村や辺境に下放された。

 1973年この年に全国知識青年下放工作会議が開かれ、長期計画が検討されたが、この計画は実現されるにいたらず、政策は依然混乱していた。1976年2月、毛沢東は再び知識青年の問題についての手紙にコメントを書いて、知識青年の問題は専門的に研究する必要があるようだ、と指摘した。しかし、毛沢東の死までに彼らの問題は解決されなかった。

5文化大革命と紅衛兵の結末

 “ある紅衛兵の告白 梁暁声 情報センター出版局”のあとがきによれば、現代中国政府は文化大革命を全面否定するという見解を出しているそうである。となれば、1960年代に紅衛兵であった著者たち10代の少年少女の行動は如何なるものだったのか、ということになる。一部の人をのぞき特に勉強もせず、また、勉強をさせてもらえず、現在に至る中年層の彼等に与えられた視線が結局のところ「否定」であったというのは、あまりにもむごすぎるような気がする。

 では下放運動はいかなる帰結をもたらしたのであろうか。第一は人材の欠落である。1968年から78年までの10年間に全国で下放した知識青年は約1623万人である。一部の青年は後に学習して学力を取り戻したが、大部分は中学かそれ以下の学力しかない。下放運動は中国と世界の教育水準の格差を拡大し、近代化にとっての困難をますます増やすことになった。青年が農村の現実を知ったことにはプラスの面もある。第二は経済的マイナスである。文革期に国家や企業は下放青年の配置のために約100億元あまり支出した。これらの一部は開墾事業に貢献したが、経済効率ははなはだ悪かった。

 紅衛兵−下放青年の体験を持つ世代はまさに現代中国の失われた世代である。この世代の空白は彼ら自身にとっての損失であるばかりでなく、中国の近代化にとっても人材の面で大きな痛手となって、その後遺症は長く続いている。

6文化大革命を生き抜いた元紅衛兵

 いろいろ文化大革命に生きぬいてきた紅衛兵たちについて述べてきたが、それでは実際に文化大革命を体験された唐亜明(作家)さんと趙先生のお話を紹介します。まずはじめに、唐亜明さん。唐亜明さんは1953年北京生まれ。1983年来日、90年自らの経験を記した『ビートルズを知らなかった紅衛兵』を発表。99年『翡翠露』は開高健賞奨励賞を受賞しました。彼が体験した文革について次のように語っています。

  “文革の頃は今日までとても仲のよかった友達が明日には自分を告発するかもしれないという状況だったから、世界や社会、人間をいうものに少し冷静になることがで きた。どのような悪事を働き、なにをしゃべったかを告発され、多くの人がこの告発に よって捕らわれました。たとえ気づかなくても文革のことを書かなくても作品に影響し ています。

 文化大革命は私の人生の一部であり、歴史なのです。よい歴史であれ、悪い歴史であれ 簡単に否定や肯定はできません。事実としてありのままに(毛沢東バッチや紅衛兵腕章 を)残しておきます。”このように語っていました。
 
 次に趙先生のお話です。私が直接伺いました。次の通りです。

 “文革開始時小学校卒業にちょうど中学入学した頃でした。私は紅衛兵でしたが、紅衛 兵というのは、総称であって実際にはいくつものグループが存在し、それぞれにグルー プ名がありました。紅衛兵になるには、そのあるグループに志願して許可を得ると、紅 衛兵になることができるわけであったのです。実際紅衛兵の活動は「走資派」(ブルジ ョワ的存在、医者、先生など)を批判、他の紅衛兵グループとの闘争が主でした。中に は争いの末亡くなったもの、手傷を負ったものが多数発生しました。

 全国で交流会(紅衛兵の)がありましたが、友達が増えたと思われるでしょうけど敵が 多くなりました。紅衛兵になったからといって友達の数はそんなに変わらないです。文 化大革命の10年間、親などは自己批判書などを書かされ続け、私は紅衛兵として活動 したが、1967年の秋頃には農村へ下放されました。

 国(公安)の機能は麻痺していたから公安などは過剰な活動をする紅衛兵を取り締まる ことはなかった。67年の秋頃に紅衛兵は毛沢東により紅衛兵は解散され授業が再開し たが、教育内容は毛思想がほとんどであった。”

7あとがき

 学校や職場に「毛沢東思想労働者宣伝隊」が派遣され(六八年七月)、紅衛兵の役割は終わったものと見なされるにいたった。

 後に明らかにされた公式統計では七〇数万人が迫害を受けたと言われる。大衆、特に青少年に至っては熱狂的に毛沢東を賛美し、毛に利用されながら残された結果は政治への不信と相互不信、憎悪・恐怖、肉親や友人の死への悲嘆などだけであった。これらすべての人々の不満・不信そして不安が、文革を真に集結させず、「動乱」を五年ではなく「一〇年」にしてしまう基本的な政治・社会・経済的要因であったと言ってよい。

 なぜ毛沢東は紅衛兵を利用したのかということについて考えてみたい。毛沢東という最高権力者が持つ権力は、近代的な国家、政党の最高指導者というより、むしろ伝統的な中国の皇帝の権力を想像させるに十分である。毛沢東は権力ナンバー2に対して決して気を緩めなかった。この最高権力者の地位と意志の貫徹を保障するものは軍事力であり、この時代でいうならば紅衛兵であったような気がする。

 毛沢東は紅衛兵に支えられ、文化大革命はまさしく大革命へとのし上がったような気がする。一体なにをしようとしたのかわからない。ただ、中国の中にある虐げられ続けた人々が紅五類(労、農、解放軍、革命幹部、革命烈士家庭の出身者)としてあがめられ、黒五類(地主、富農、反革命分子、悪質分子、右派家庭の出身者)を駆逐する。なにもかも破壊する。親も兄弟も関係なく、とにかく弱いものが強く強いものが弱い時代であった。子供が親を叩きのめし、親は子供の前に打ちひしがれる。紅衛兵はひたすら毛沢東を後ろ盾に街を破壊し尽くす。伝統芸術も美術も工芸もなにもかも破壊の中に捨てさってしまおうとする。その時代に生きてきた人にとってすべては狂気の十年間であったに違いない。

 紅衛兵がもたらした暗い部分、悪影響を与えた部分を少し誇張してしまったような形になったが、決して紅衛兵のすべてがいきすぎた行動をとっていたわけではない。圧倒的多数は党と毛沢東への信頼から“毛主席を防衛し”“反修防修”の闘争に参加するもの考えていたのである。

 政治家どうしの対立や政治潮流については難しくてなかなか理解しにくい面もあるが、この人民との関わりのつよかった紅衛兵に少しでも関心を持ち、もっと文化大革命について知りたいと思っていただけたなら私はうれしいし、このレポート(論文)はうまくいったと思う。私自身さらに文革について調べてみたいが、研究Tでの発表はここで終わりにさせていただきたい。

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