研究Uゼミレポート

       「テーマ:中国の教科書にみる日本と中国の歴史教科書の相違
〜我々のこれからの歴史認識〜」

趙軍ゼミナール
学部学科:商経学部経営学科3年
学籍番号:9830@@@

氏名:高木 繁


私の今年のテーマは中国の教科書にみる日本と中国の歴史教科書の相違ということで
その中でも今回は特に日清戦争〜第一次世界大戦・太平洋戦争における日中戦争に的を絞り比較検討していきたいと思います。


まえがき

 まず始めにここに中国の教科書と日本の教科書の記述の違いについてを述べます。

 中国の教科書では対日本戦で活躍した人を民族的英雄として祭り上げ、その記述もとりわけ大きい。それほど中国の人たちは日中間の歴史に様々なイメージを持ち興味を抱いている。しかし一貫して言えるのは日本を誉める記述は全く無いということである。日本が中国に攻めて来た時に中国のだれだれは勇敢に戦ったという内容がほとんどである。一方、日本の教科書の内容では対中国に関していえばすごく客観的な目から見ている感じが見て取れる。事実を記述していないと言うわけではないが世界歴史の中の中国史という感じで中国の教科書のように強烈なイメージを残す記述はまったくない。それゆえ義務教育を受けた日本人はその歴史については知っていてもその事柄に対する自分の感情・意見を持っている人は少なく、持っていてもそれを表さない。それに比べ中国人は小さな頃にそのようにならってきたのでそれについて自分ごとのように考えそれに対して自分自身の意見をもっている。教科書の違いがその差を作ってきたといえばそれまでなのだがそれを教科書のせいだけにするのはどうでしょうか?我々は歴史についてもっと自分の意見を持ってもいいのではないでしょうか?そのようなことを考え今回僕はそれが間違っているか?合っているかは別として日中間の歴史について自分の意見を取り入れて行きたいとおもいます。これから検討するにあたりやはり日本と中国が対立するきっかけとなった事件をまず調べなければならない。僕が考えるにはやはり甲午日中戦争がその始まりだったのではないかと思います。日本は朝鮮で起きた農民一揆の鎮圧を理由に朝鮮に出兵し農民一揆鎮圧後も日本は引き続き朝鮮に駐兵した。当時朝鮮は中国の植民地だったために中国は日本に朝鮮にいられてはいずれ朝鮮を奪われかねないと思い中国は日本に対し敵対心を持つようになったのである。しかしこれもすべて日本の中国進出のための策略でもあったという記述も無視することの出来ない事実である。甲午日中戦争(日清戦争)で中国は敗れ、日本に屈辱的な『馬関条約』(下関条約)の調印を強いられた。これ以降、中国社会の半植民地化はますます進み、帝国主義列強は中国分割にやっきになったのです。それではここから甲午日中戦争はどのようにして勃発し、どのような経過をたどったのかについて検討していきます。甲午日中戦争以後の出来事もこのような形で検討していきます。

1. 甲午日中戦争

甲午日中戦争はどのように勃発したか?

1894年、朝鮮で農民一揆が起こった。朝鮮王国は自国の力だけでは一揆を鎮圧する事が不可能とみなし清政府に鎮圧のための派兵を要請した。以前から朝鮮への侵略を考えていた日本はこの機に乗じて朝鮮に出兵した。清政府や日本軍の力により一揆は収まったがが、日本はそれ以降もまるで朝鮮を今後も守ってやるという態度で朝鮮に駐兵し続け更に増兵した。当時朝鮮は中国の植民地であったので朝鮮に日本軍を送られては今後朝鮮を奪われかねないと思い中国の対日観は日に日に強まっていった。もちろんこれは日本が中国を誘発した行為であり、中国は見事にその誘発に乗ってしまう形となった。事の始まりは日本海軍が朝鮮の牙上の沖合で清軍の輸送船を襲撃し始まった。その事件をきっかけに清政府はやむなく日本に宣戦布告し、かくて*図1甲午農民戦争(日清戦争)が勃発した。

どのような経過をたどったか?

甲午日中戦争は平壌から始まった。日本軍の先鋒隊が平壌に迫ると、清軍の統帥葉志超は城を捨てて逃げることを主張したが、清軍の将*図2左宝貴は平壌と生死を共にすることを誓い、徹底抗戦を主張した。日本軍が平壌に総攻撃をかけた時、それでも左宝貴は病をおして兵士を励まし玄武門の城郭で指揮をとり多くの日本軍を倒した。激烈な戦闘は早朝から夕方まで続き、左宝貴は壮烈な戦死を遂げたのである。左宝貴は後に人々に民族的英雄として認められ多くのひとが彼を賞賛した。現在も中国人で左宝貴の名を知らない人はいない。そのくらい大きな功績を残していったのである。平壌の戦いの直後、北洋艦隊と日本艦隊が黄海で激突した。北洋艦隊の将兵は勇敢に戦い、日本軍に大きな打撃を与えた。弾薬が尽きると*図3?世昌は日本軍艦にめがけて突撃するように命令した。しかし不幸にも日本の魚雷が命中し全艦沈められてしまった。この戦いで北洋海洋船の受けた損失は非常に大きかった。その後有利な戦況であると判断した日本軍は二手に分かれて中国に侵入した。一方が鴨緑江を渡り、九龍城を占領し、もう一方が大連、旅順を襲撃した。大連の守備隊長は戦わずして逃亡し、大連、旅順は相次いで陥落した。次いで1895年始め、日本陸海軍が威海衛を攻め北洋艦隊は前後からの挟み撃ちにあい全軍が壊滅した。日本が旅順を占領した後日本軍は旅順で野蛮な住民虐殺をおこなった。中国の教科書ではこう書かれている。「日本侵略軍は旅順で我が同胞を狂ったように虐殺し、死者、被害者は18000人余りにも達した。日本侵略軍は自己の罪状を覆い隠すため、被害者の死体を集めて焼き、骨を棺に入れて埋葬し、「清国将兵の墓」と書いた気の札を立てて、世界の非難をかわした。」

この論述に関しては日中それぞれの言い分があり、日本側の言い分としてはそういう事実があったことは認めるが虐殺と呼ばれるようなことはしていないという意見、そういう事実すらないという意見がある。中国側の言い分からすれば日本は絶対虐殺したとの意見が強い。
                    

甲午日中戦争に対する私の見解

日本が朝鮮の甲午農民戦争に対して出兵し一揆を鎮圧したあとも朝鮮に駐兵し続けたことが日本の中国侵略を睨んだ行動である。とよく言われますが私は一概にそうは思いません。

確かに客観的な立場からみれば結果的にみても日本の行動は中国侵略を睨んだものとして取れるかもしれません。しかし主観的な立場からみれば日本が中国侵略のために朝鮮に兵をおいたとは考えられないのです。なぜなら当時日本と清は「天津条約」という友好条約を結んでおり、その条約の中に他国に対し出兵する時は、その目的が何であろうと相互通告しなければならない。という条件があったのです。中国は自国の植民地である朝鮮に一揆があったというならば出兵しなければならず、条約に基づいて日本にも通告する必要があったのです。だから日本もその規約に従い朝鮮に軍を派遣することになったのです。このことを考えれば一概に日本が朝鮮に駐兵し続けたことが日本の中国侵略を睨んだ行動であったとは言い切れないのです。その後の結果からみれば日本の中国侵略は作為的に思えてしまいますが当時の時代風景を考えればそのようなことが様々な国々で繰り広げられていることは容易に想像できる。日本の旅順侵略にしてもやはり中国の教科書には日本の虐殺が大きく載り人々に大きな影響を与えている。虐殺問題は大きく取り扱われいまでもその解決を巡って議論を交わしている。しかし僕はこの問題がいつまでも大きく取り扱われ解決しないのは少しおかしいと思う。このようなことをいえば必ず日本人は自分達がした昔のことをもう忘れたのか!戦争に対しての責任を感じないのか!と反論するひとがいるかもしれない。しかしこの「日本人は戦争について責任を感じないのか?」の質問は最も愚かな質問であると思う。なぜなら日本人は過去にそのようなことがあったと義務教育で勉強し知っているのだからいくら歴史についての認識・意見のない日本人といえどもそれに対して責任を感じていないはずがないのである。それなのにいまだに責任をとれと騒いでいるのはおかしい。その日本の行為について日本人に手をついて謝れと言いたいのであろうか?これは僕が日本人だからこういうのかもしれないが、僕がもし日本の行為の責任をとれといわれれば過去の出来事を認め、過去の日中間の歴史についてよくしる他に責任の取り方ないと思う。賠償で済まされる次元ではないのではないだろうか?これは決して「日本軍が中国軍を虐殺した」という事実を認めていないわけではなく認めた上でいっているのだ。

2. 馬関条約(下関条約)の特徴

この馬関条約の特徴として一番特筆すべきなのは中国が受けた屈辱的な内容であろう。後にその内容については触れるがこの条約の最も注目すべき特徴は当時世界の中で大国で力を持っているとされていた中国が日本というほんの小さな島国に過ぎない国に負け完全な不平等条約を結ばされたということである。この事実を各国は目の辺りにし「自国も」と中国の分割を始めた。その足がかりとなったのが先に述べた日本の甲午日中戦争での勝利であり馬関条約の締結であった。

馬関条約の経緯

威海衛・大連・旅順の戦いを経て日本は戦況を有利に進め戦いは日本の勝利に終わった
1895年、清政府は李鴻章を講和全権大臣にたて、日本国首相伊藤博文と日本の馬関(下関)で協議したところ、『馬関条約』の調印を強いられた。

馬関条約(下関条約)の主な内容は

@ 清政府は遼東半島・台湾・ほう湖諸島を日本に割譲する。
A 日本軍への戦争の賠償金として白金2億両を支払う。
B 沙市・重慶・蘇州・杭州を開港させる。
C 日本が開港地で自由に工場開設に従事できるようにする。
D 朝鮮の独立を認める。(つまり、日本の朝鮮支配を認めること)

しかし@の遼東半島の割譲は満州に利害関係のあるロシアが乗り出し、
ロシア・ドイツ・フランスの三国は遼東半島を返還させた。(三国干渉)

このため日本はその代償として中国に新たに3千万両を強要した。

日本はこのAの賠償金の85パーセントは軍事強化に使い、より一層戦力をつけた。

この三国干渉をきっかけに中国の弱体化を知り帝国主義の列強の*図4中国分割は進みさらに侵略が進んだのは先に述べたとおりである。この『馬関条約』締結は結果として中国の半植民化に拍車をかけていく形となった。

馬関条約に関する私の見解

馬関条約締結という事実は全く疑いようの無い事であり、事実であると私は思っています。このような書き方をすればまた色々と言われるでしょうが僕は事実を認めたとしてもそのことはそこまでせめられる事ではないと思います。なぜなら中国分割は他の国も参入していたのにとかく日本だけが戦争の責任について深く追求されるのはそこに過去の悲惨な戦いが背景にあったとしてもやはりおかしいのではないか?と思ったからです。皆さんはどう思いますか?


3. 義和団事件
 
義和団事件の特徴

義和団事件の特徴は、中国政府の思惑とは別に勃発したという点である。ここでいっている義和団とは清を助け西洋(日本を含む)を倒すと言う名目の下で集まった中国人民のことであり、彼らの武力行使により中国政府は仕方なく開戦という道を取ったのであった。

義和団事件の経緯と辛丑条約(北京議定書)の内容

1900年には清国では「扶清滅洋」を唱える義和団が勢力を増し北京の列国大使館を包囲し、列国に対し反抗を見せた。清国政府も義和団におされて列国に宣戦を布告した。

同年6月、中国人民の反乱を鎮圧する為にアメリカ・ロシア・イギリス・フランス・ドイツ・イタリア・オーストリア・日本を含む*図5八ヵ国連合国がイギリスの指揮の下、大鈷から天津を経て北京に侵攻した。それに対し義和団は天津・北京間の鉄道を破壊しその攻撃に備えた。連合軍は廊坊で義和団に包囲され、多くの死者を出しあわてて天津に引き返したのだ。しかし7月中旬には八カ国連合国により天津は陥落した。西太后は連合軍に和解を求めたが、連合軍はかまわず北京に進軍し、8月中旬北京に攻め入った。西太后は光緒帝をつれて逃亡する際に自分の命を守る為に連合軍側に義和団の鎮圧を要請した。すると義和団は清軍と連合軍の反動勢力によって鎮圧された。連合軍は北京を占領した後、軍隊に三日間の強奪を許した。教科書にはこの強奪について「今回の破壊と強奪による中国の損失の詳細な数量は永久に調べがつかないだろう」と記されていることからもその程度のひどさを見て取る事ができる。こうして実質の権力を連合軍に奪われた中国は八カ国連合国から『辛丑条約』(北京議定書)の調印を迫れられた。その条約は次のとおりである。

@ 賠償金として白銀4億5千万両を支払うこと(関税を担保)
A 清政府が反帝国主義運動の禁止を保証すること。
B 帝国主義国家に北京から三海関までの鉄道沿線での軍の駐留を認めること。
C 北京の東交民巷を「公使館区域」として認定し、各軍の軍の駐留を認め中国人に
「公使館区域」の居住を禁止すること。

この『辛丑条約』(北京議定書)は中国人民に非常に重い重圧を与え中国の主権を著しく損ねた。これ以降清政府は帝国主義列国の言いなりになってしまった。中国は完全に半植民地、半封建社会の深みにはまったのである。後に日本に要求される「二十一か条の要求」によって中国の植民地が完全になったのは周知の事であるが、それでは中国がその要求を結ぶ時までの中国の教科書の歴史的記述について引き続き少し見ていきましょう。

4.偉大な革命家「孫文」

「孫文」とはいかなる人物か?

後に辛亥革命を起こす孫文とはいかなる人物なのでしょうか?彼は名を「文」といい、広東省香山県の一農民の家に生まれた。彼が当時の中国人の中では珍しく日本と交流を持っていたことは日本でも有名である。そして彼が革命に従事する頃にはかつて彼が中山礁と名乗った事から後に人々は孫中山と呼ぶようになった。以後こちらでも孫中山と呼ぶことにします。教科書の記述をみてみると中国の教科書からも日本の教科書からも彼に対しては非常に賞賛している記述しかみられない。そしてそれに比例するように未だに人々の個々の中に彼の意思が反映されています。それでは次に孫文が革命を起こすまでの過程を見ていきます。

辛亥革命までの経緯

1894年、孫中山は李鴻章に上書し、法を改め、国を強くする提案をしたがこれは拒否された。提案を拒否された孫中山は中国を救う唯一の道は清朝と封建社会を覆すことだと悟り、同年11月ハワイで20名余りの進歩的な華僑を中心にして興中会を創立した。興中会の創立の目的は清政府を倒し資産階級の共和国建国をすることであった。興中会の創立は中国で資産階級革命派が初めて形成されたことを意味した。興中会は広州で武装蜂起し、そこを拠点にしようとした。このために孫中山は興中会のメンバーである*図6陸皓東らを革命の組織を広州に派遣した。しかし武装蜂起以前に清政府の手により陸皓東らが殺された。陸皓東が犠牲になった後、清政府は孫中山を逮捕し国外に亡命させた。こうして中国に初めて創立された資産階級革命派の革命は一時終焉を迎えることになった。1905年、孫中山は再び革命を起こす為にそのころ有力であった革命勢力の華興会・光復会・再び勢いを取り戻した興中会等の革命団体を統合して、8月に東京で中国同盟会を創立した。中国同盟会は初の全国規模の資産階級革命政党であり、革命活動を大いに発展させた。中国同盟会の創立の目的は「満州族の駆逐、中華の復興、民国の建国、地権の平等であった。もちろん中国同盟会の総理には孫中山が選ばれ、孫中山の下で機構が定められまた革命の宣伝機関紙として「民報」を創刊した。「民報」には孫中山の「民族」「民権」「民生」の三民主義が色濃く表わされており孫中山はこれを辛亥革命の思想とした。

孫文による辛亥革命に対する私の見解

三民主義の中の「民権」については日本でも最重視されているだけに中国だけでなく日本も孫文に影響された部分はあったのではないかと思いました。

袁世凱の台頭

孫中山が三民主義を基本思想とし辛亥革命を打ち立てた後、袁世凱が中華民国の臨時大統領になった。彼は中国を北洋軍閥により統治した。北洋軍閥は孫中山が築き上げた民主共和制度を打倒し、皇帝制を復活させようとした。これに対し孫中山を代表とした資産階級民主派は反発し、これ以降争いに転じていった。

袁世凱台頭〜二十一ヵ条の要求を結ぶまでの経緯

1913年、袁世凱は江西、広東、安徽三省の国民党員の都督を罷免し、兵を南下させた。

それに対抗するように江西では李烈釣・南京では黄興・また広東、安徽でも数省が独立を宣言し袁世凱に対し刃をつきつけた。これがすなわち辛亥革命に次ぐ*図7「第二革命」である。

北洋軍はすぐに兵を率い江西・南京に攻め込んだ。江西都督李烈釣は北洋水軍と十日余りの激戦をし必死に抵抗したが敗れ、また南京で独立した黄興も一度は袁世凱の兵を追い返したがその後に内乱が生じ南京を離れることになりその隙に北洋軍に攻められ敗れた。各省の独立を支持する者はいなくなり「第二革命」は失敗に終わった。「第二革命」失敗後、その戦争責任をとらされた孫中山は日本亡命を余儀なくされた。革命を鎮圧し安定したと思われた袁世凱政府であったが第一次世界大戦によってその地位は危ぶまれた。1914年イギリスがドイツに宣戦布告すると、日本は日英同盟を理由にドイツに宣戦した。中国の山東省に出兵し青島を占領した。袁世凱はあえて抗議をしなかった。なぜなら日本はひそかに袁世凱が皇帝になりたがっていて、日本の支援を切望していることを察知していたからであった。1915年、日本は中国の袁世凱政府に「二十一か条」の要求を提示し、暗に「もし誠意をもって交渉に応じるならば、日本は貴大統領(袁世凱)が更に一段と高い地位に就く事を希望する」とほのめかした。かねてから日本の支援を受けたいと思っていた袁世凱は日本の要求をほぼ全面的に呑んだのである。
二十一ヶ条の要求の主な内容

@ ドイツの所有する山東省におけるすべての権益を受け継ぐ
東北三省の南部と内モンゴル東部一帯の特権
A 旅順・大連両港と南満州鉄道・安奉鉄道の両線の租借期間延長(期限99年)
B 警察行政・兵器製造工場の運営を日中共同で行う。

という中国が今後日本に逆らう事の出来ないような一方的な不平等条約を日本は押し付けた。特に警察行政・兵器製造工場の運営については理論上日本軍が中国で犯罪を起こしても中国側に一方的に裁かれることがないという人権の不平等を示していた。

袁世凱台頭から二十一ヵ条の要求までに対する私の見解

袁世凱について中国の教科書では自分の地位を守る為に日本からの二十一ヶ条の要求をほぼ認めたという事実があるためあまりいい評価は得られていない。日本の教科書の記述では袁世凱を特に「日本の敵か味方か?」とはみていなく、客観的に事実をあったままに記している。中国の教科書を見てみて私が思うことは、袁世凱が自分の地位を守るために二十一ヶ条の要求を認めたという事実のすべてが否定されるのは少しおかしいということである。それまで中国でも自分の地位を守るために相手に迎合するというような状況は沢山あったはずだ。中国でいえば有名な三国時代はまさにこれに当てはまるのだろう。要するに戦争に勝てる見込みがない場合には血を流さずして相手を受け入れようという行動である。その理由を「中国国内の争いではなくて対日本戦だから」とするのはもう感情でものを言っているとしかとれない。同じようにこのことを考えればもちろん袁世凱に私利私欲の念がなかったとは言えないが彼の行動をすべて否定することはできないはずである。だから僕は戦わずして降伏し不平等な条約を呑んだ袁世凱をすぐさま批判する中国の教科書に少し疑問を持っている。そこまでに至るその背景・二十一ヶ条の要求でいえば袁世凱が呑まなければいけなかった理由などをさらに詳しく明記する必要があるのではないかと思った。日本の教科書を見るとやはり上で述べたとおり事実をそのまま伝えているだけで主観的な立場から述べられていない。少し中国のような主観的な記述が見られてもいいのではない
かとも思えるほどです。確かにそれは中国や韓国などに教科書の内容について改正するように言われてきたという背景があることから戦時中のような「日本軍万歳!」のような記述が改正されることがあったとしても、もう少し日本独自の個性を出した記述があってもよいのではないのかと感じました。それと比較すると少々毒々しいが中国の教科書記述は個性の面でいえば大変豊かであるといえます。

以降、資本主義世界は深刻な経済危機に陥り日本帝国主義は中国に侵略して戦争に勝つことで経済危機から逃れようとして、ある事件をきっかけに中国に一方的に戦いを仕掛けていった。これがいわゆる柳条湖爆破事件である。それでは引き続き日本と中国の行動についてみていきます。

日本軍の侵略による傀儡政権の樹立

アメリカで始まった恐慌は世界恐慌にまで発展していき、それに影響され1929年、日本では昭和恐慌が起こった。日本帝国主義はこの経済危機から逃れようとして中国侵略を急激に推し進め、九・一八事変(満州事変)と一・ニ八事変(上海事変)を起こした。日本は中国の東北領土を占領し傀儡政権を樹立した。日本帝国主義がどのように中国に侵入したのか?中国政府・人民は日本の侵略に対してどのような態度をとったのだろうか?それらについて詳しく見ていきます。

満州事変・上海事変に至るまでの経緯

近年以来、日本帝国主義は絶え間なく中国を侵略してきた。1929年、資本主義世界は深刻な経済危機に陥り、日本帝国主義は経済危機から逃れようとして中国侵略の速度を速めた。駐中国東北部の日本関東軍は、1931年9月18日夜南満州鉄道の柳条湖で経路の一部を爆破し、
*図8(柳条湖事件)中国軍の仕業だと偽った。日本軍はこれを口実に東北軍駐屯地の北大営を爆撃し、幡陽を占領した。これがいわゆる九・一八事変(満州事変)である。蒋介石は東北辺境防衛軍指令官張学良に、抵抗してはならないと命じた。東北軍の10万人あまりは山海関内に撤退し、日本軍は苦労することなく進入することができたのである。半年と経たないうちに、*図9東北三省100平方キロ余りの国土はすべて敵の手に落ちたのである。東北が陥落した後、東北人民は故郷を離れ各地を流浪することになった。日本軍はさらに侵略を拡大するために1932年に突然上海に進攻した。これがいわゆる一・ニ八事変(上海事変)である。上海を防衛する十九路軍司令官蔡延階の指揮の元に蒋介石の「抵抗してはならぬ」という命令をかえりみず奮戦し、再三日本軍を撃退した。ところが、国民政府は十九路軍の抵抗を阻止すべく、援軍や弾薬の供給を拒んだことにより十九路軍は弾薬も尽き援軍もなく撤退を余儀なくされた。同年、日本軍は上海に上陸し上海に駐留した。結果的に中国人民の主権は再度売られることになったのである。


満州事変・上海事変に対する私の見解

柳条湖爆破事件をきっかけとした満州事変勃発の真相については、日中両国の資料を見ても同じ記述がある。日本の教科書でも「関東軍参謀石原莞爾は、1931年奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道を爆破し、これを中国軍のしわざとした。」として戦争のきっかけを作ったのは日本であることを完全に認めている。中国の教科書の記述には具体的にどのように日本軍が爆破事件を中国のしわざだとみせかけたのかその方法についてまで詳しい記述がある。ここでも中国の教科書からは人々の心に特別深い印象をあたえる記述がみられます。

満州国傀儡政権の擁立

1932年、日本は清朝最後の皇帝溥儀を擁し長春にて満州国*図10傀儡政権を樹立し、東北を中国から引き離した。東北三省は日本帝国主義の植民地となり、東北人民は恥辱的な生活を送る事になった。

満州国傀儡政権の擁立までの経緯

1931年、関東軍参謀石原莞爾は「満蒙問題解決法案」を制定し、「我が国の支持を受け、東北四省(黒龍江・吉林・遼寧・熱河)および蒙古を領域とし、宣統帝溥儀を元首とする新政権を樹立して、これを満蒙各族の王道楽土たらしめる」、「国防及び外交は新政権により委嘱された日本帝国が掌握し、交通・通信の主要部分も日本が管理する」「国防・外交に必要な経費は新政府が負担するもの」というようなことを規定し、日本は満州に傀儡政権を作り上げたのである。その後関東軍は溥儀を密かに天津から旅順に移した。1932年関東軍司令官代理板垣退助は旅順に赴き溥儀を訪ねた。溥儀は「新国家」の元首になる事には同意したが、帝政の復活と皇帝の称号を主張した。同年2月板垣退助は再び溥儀と面会し満州国の「執政」に就任するように要請したが溥儀は帝政の復古に固執した。板垣は溥儀が関東軍の決定に従わないと知るやいなや「軍部の要請はもはや変わる事はない。あくまでもしたがわないのならこれを敵対行為とみなし敵に対する手段を使う」と脅した。これを聞いた溥儀は焦りを感じて遂に、「暫定的に一年を期限とし、期限が過ぎてもなお帝政を実施しない場合は、即時退位する」と答えた。板垣はこれに同意し3月9日溥儀は満州国執政に就任した。

傀儡政権擁立に対する私の見解

中国の教科書でみる宣統帝溥儀の評価は、やはり国を日本に売ったとされ逆賊として評価されている。当然当時戦いもせずに板垣退助の脅迫に怯えて降伏をしたのだから中国国内から避難されても仕方がないかもしれない。しかし私は溥儀の行動が間違えであったとは思わない。当時満州事変や上海事変などが起こっておりその時に日本の恐ろしさを見ているわけであって、前例を見ても当時の中国の力では日本に勝てる確率は少なかったはずである。それを考えれば溥儀の行動は正しかったと言えないだろうか?無駄に血を流すよりも降参して人民の命を守ることが自分の使命であると考えるのが普通であろう。このような隠れた人間的な感情面を評価しない中国の教科書にはまだ改正の余地があると思いました。それは日本の教科書にも言えるのですが、溥儀の行動から見て取れるように隠れた感情を理解しその感情の部分も加筆していくことが日中両国の間違った認識さえも変えていくのではないのでしょうか?

抗日運動の高まり

九・一八事変後、全国人民は蒋介石の不抵抗政策に反対し政府に内戦の停止と日本の侵略に抵抗するように求めたり、また一・二八事変後も人民たちは十九路軍の抵抗を支援したりして抗日運動は次第に高まっていった。

抗日運動の経過

抗日運動は東北人民と未撤収の東北軍を中心に抗日義勇軍を組織し日本軍の侵略に抵抗した。このなかでも中国共産党の党員揚端宇らは東北に赴き日本に対して戦いをしかけた。
すると各地の労働者や学生も続々と抗日運動に加わり、労働者は物資面で日本に抵抗し学生は北京・天津・武漢・広州・上海等各地の学生が南京に集まって政府に戦うようにデモを起こした。これに対し国民政府は警察と軍を動員して鎮圧した。デモ隊が珍珠橋につくやいなや警察と軍は学生に向けて発砲し30余名が死亡、100余名負傷、100余名が逮捕された。これが「珍珠橋弾圧事件」である。事件発生後、全国人民は政府の弾圧に抗議し不抵抗政策に反対した。一・二八事変後も、人民は十九路軍の抵抗を支援し続々と義援金を寄せ集めた。その熱烈な支援の話としていくつかの話があるので紹介します。

1.「季節はちょうど冬で何香疑、宋慶齢という二人が抗日運動の前線に赴いたところ、寒い冬の十二月にも関わらず将兵の着ている服がいまだに夏服であることを見たのである。それを見て彼らは感動し前線から帰ると綿入れ軍服の募金を行った。すると5日の以内に3万着もの新しい綿服が集まり前線の将兵を心身共に暖めた。」
2.「何香疑はまた『自分の家の戸にここで援助を受け付けます』という貼り紙をしたところ上海人民は続々と金銭や物を届けた。」
3.「宋慶齢は負傷者の治療が困難なのを見て上海交通大学の一棟を借り資金を集め『国民将兵病院』を作り頻繁に前線の将兵を見舞った。」

これらの記述を見れば抗日運動がいかに高まっていたかがわかると思います。

また時を同じくして国民政府の日本帝国主義に対する相次ぐ妥協と投降に対しはなはだ不満持っていた国民党の馬玉祥も国民政府を無視し、日本に反旗を翻した。1933年馬玉祥は共産党員吉鴻昌らとチャハル民衆抗日同盟軍を組織した。同盟軍は奮戦し日本軍をチャハル省から追い出した。しかし国民政府はこれを妨害し、後に同盟軍は満州の傀儡政権の軍隊と国民党軍の挟み撃ちにあい失敗に終わったのである。

抗日運動の新たなる高まり

馬玉祥らの抗日運動は満州の傀儡政権の軍隊と国民党軍の鎮圧によって一時終演を迎えた。
これを機とみた日本帝国主義は、東北占領後さらに山海関内にも侵入した。国民政府は、またもや妥協・投降を繰り返したため日本の力はついに華北までに至ろうとしていた。
するとこれを国家の危機だと感じた中国人民達はまたもや抗日運動の新しい波を起こしたのである。そしてついに九・一八事変後の1935年、中国共産党は『八・一宣言』を発表し、内戦の停止と一致団結しての抗日を呼びかけた。また同年中国共産党は会議を行い抗日民族統一戦線の方針を固めた。会議では、全国人民を統一した民族革命戦線を組織すること、日本帝国主義の侵略を阻止することを確認した。この方針は全中国人民から支持された。

一二・九運動と西安事変に至るまでの経緯

1935年、日本軍は再三出兵し*図11北平・天津はその脅威にさらされた。国民政府は何応欽を派遣し日本の梅津美治朗と「何梅協定」(両人の名前からとって付けたもの)を結んだ。
協定の主な内容は、国民政府勢力の河北省撤退とすべての抗日運動の取り締まりであった。
その後日本はまた華北五省を自治としようと考え華北を第二の満州国に仕立てようとしたことにより華北の情勢は急を告げた。これに対し中国人民は華北の危機情勢を打開すべく中国共産党の指導の下で学生が主体となり抗日闘争を開始した。1935年、北平の学生数千人は大規模な
*図12デモを行い「打倒日本帝国主義!」「内戦の停止、一致対外(一致団結して日本に対抗する)」「華北の自治反対!」のスローガンを高々と唱えた。しかしデモ隊は国民党の警察と軍の弾圧にあった。これがかの有名な一二・九運動である。同年12月北平では一万人余りの学生が警察と軍隊の弾圧をすり抜けて再度華北自治反対のデモを行った。一二・九運動後、北平・天津の学生達は南下して工場や農村に入り抗日の広報活動を行なった。学生達の闘争は中国全国人民の支持を得て全国に抗日運動の新たな高まりをもたらした。しかし国民政府はこのような抗日運動の雰囲気の高まりをうけても依然として「外を襄じるには、まず内を案じる」政策に固執した。1936年には国民党は上海で内戦の停止・統一抗敵政権の樹立の要求を目的として創立された全国各界救国連合会の指導者沈釣儒・宋慶齢・何香疑を含めた七人を逮捕しその態度を変えることはなかった。しかしそんな中、国民党の愛国的な将校たちが立ち上がったのである。中国共産党が抗日民族統一戦線政策を実行すると愛国的な将校張学良、*図13揚虎城は内戦を停止し団結して日本に立ち上がるという案を支持して内戦を停止し、蒋介石に対し共産党と連合して抗日するように働きかけた。だが両者の必死の説得にもかかわらず、蒋介石は共産党と連合して抗日する事を拒んだ。説得ではおぼつかないと考えた張学良、揚虎城の両者はさらに強く抗日に迫るために実力行使に及んだ。この中国共産党と蒋介石率いる国民党間の争いが「西安事変であった。この日がちょうど12月12日だった為「双十二事変」とも呼ばれています。

西安事変の果たした役割と一連の抗日運動に関する私の見解

西安事変後、国民党内の親日派の何応欽は内戦拡大を企てこれを機に蒋介石の地位を奪おうとした。このような複雑な情勢の中で中国共産党は全民族の国益を考え、西安事変の平和的解決を主張し、調停のために周恩来を西安に派遣した。中国共産党の努力により蒋介石は遂に内戦の停止・共産党と連合しての抗日という提案を受け入れた。結果的には学生によるデモ活動に刺激を受けた国民党の愛国的な将校たちがち立ち上がったことにより蒋介石はその態度を変えざるを得なかったわけである。西安事変が平和に解決された事により、十年にわたる内戦は終わりを告げ、国民党・共産党両党の合作が行われ連合して抗日するという新しい政権が誕生したのである。学生を中心にしたデモ運動「一二・九運動」や国民党の愛国的な将校たちの活躍が蒋介石に抗日運動を促進させる結果となったのであるがそのときの彼らの状態を考えてみると本当に一丸となって日本に対抗したということが容易に想像できる。このような彼らの強い団結力は中国ならのものではないかと思う。日本でも江戸時代には商人の米の独占化や凶作により百姓一揆が起こり団結して米屋打ち壊しをおこなったがこれは中国人民の抗日運動とは別であると思う。日本の米屋の打ち壊しは農民一人一人が食べるのに困り、農民がみんな食べるものが足りないという状況にささらされ「これでは生きていけない!なんとかせねば!」という個人同士の目的が一致し、一人では何もできないことを悟り団結したという形なのである。いわば自分自身のためだけに動いていると考えている。中国の抗日運動に対する団結の仕方は少し違う。彼らは個人個人の目的が一致したからではなく「すべては国のために」という精神を持ち団結していたのである。悪く言ってしまえば国の思うがままに動くロボットか!ともとれるがそれは少し僕は違うと思います。確かに今の時代で考えれば「思うがままに動くロボット」になって行動するのはばかげていると感じられるでしょう。現在の日本ではもちろん、中国でもそう感じる人が多いといえるでしょう。しかしその当時の「すべては国のために!」というスローガンが生んだ団結力は単なるロボットではなくて意志を持ったロボットを生んだといっても過言ではないのではないでしょうか?

櫨溝橋事変

日本軍は本格的な中国進出として、1937年7月7日夜日本軍は北平付近の櫨溝橋に向け侵攻した。これに対し中国軍隊は奮って抵抗し全面的な抗日戦争はこの時から始まった。
全面的な抗日戦争のきっかけになったのが*図14櫨溝橋事変であり別名「七・七事変」ともいう。それでは櫨溝橋事変とは、いかなる事変であるのか?民族存亡の危機で中国国民党・共産党はいかにして民族統一戦線を成立させたか?華北、華中の広大な領土がどのように日本の手に落ちたか?それらについての経過を見ていきます。

櫨溝橋事変勃発から日本の華北・華中占領までの経緯

櫨溝橋は北平西南に位置し、平漢鉄道の要所であった。事変勃発前夜、北平の周囲三方は既に日本軍と傀儡政権の支配下にあり、北平より南に通じる唯一の道が櫨溝橋であり軍事上必然的に争いの元になる地であった。7日夜日本軍は櫨溝橋付近で軍事演習を行った。そして一兵士の失踪を口実に、宛平県内での捜索を強引に要求したがこの緊迫した情況の中でたかが一兵士のために国の存亡に関わるような行為はできないと中国軍守備軍は拒否したことから日本軍はその行為をきっかけとして宛平に発砲し、戦争の幕が切って落とされた。戦いの幕が切って落とされると、第二十九軍司令部は櫨溝橋死守の命令を発し日本・中国双方とも激しい白兵戦を展開し戦闘は激烈を極め、双方櫨溝橋の争奪を繰り返した。日本軍は櫨溝橋の侵略と同時に北平・天津に向け大規模な進攻をした。南宛の激しい戦いを経て一時は混戦状態となったが7月末には北平・天津は相次いで陥落した。これに対し中国共産党は抗日を*図15電報で発表し中国全人民に団結して民族統一戦線を築き上げ、日本の侵略者を中国から駆逐しようと呼びかけた。国民党の蒋介石も櫨山で抗戦する用意があるといい国民党・共産党は共に抗戦する事に合意したのである。九月下旬、国民党はついに国共合作宣言を公布した。このように民族の危機がもっとも厳しい局面に立たされた時、両党は再び協力し抗日民族統一戦線を結成し全民族の戦いを始めた。
日本軍は、北平・天津を侵略占領すると直ちに中国に向け全面進攻を開始した。北方では華北に進軍し、南方では8月13日大挙して上海に攻め入り南京を脅かした。8月13日に起こったために八・一三事変という。日本は早期決戦で三ヶ月以内に中国を滅ぼそうとした。国民戦争は主戦場で多数の抗戦をし日本の侵略に対し抵抗していた。八・一三事変勃発後、中国守備軍は奮って反撃に出た。日中両軍は上海とその周辺で三ヶ月に及ぶ激戦を繰り広げた。しかし11月に上海が陥落したことにより戦争は終結した。櫨溝橋事変後まもなく、日本軍は太原を奪取しようとして山西に進入した。国民政府は太原会戦を組み、*図16八路軍は山西前線に赴き会戦に参加した。9月これにつけこんだ日本軍の一隊は平型関に進攻した。これに対し八路軍が向かえ討った。すなわち史上にいう「平型関の勝利」である。これは中国が交戦を開始して以来、初めての最大の勝利であったといわれている。

櫨溝橋事変と日本の華北・華中占領に対する私の見解

櫨溝橋事変は本格的な日中戦争が始まるきっかけとなった事変であることは見逃す事はできない。それまで中国軍は蒋介石率いる国民党が抗日することを拒んでいたので、共産党と力を合わせて抗日することがなかった。しかし中国共産党・国民党が協力して団結して民族統一戦線を構築し力を一つに合わせ日本軍に初めて本格的な反抗をみせたのである。そういう意味でこの櫨溝橋事変は非常に重要な意味を持っている。その重要性を知る意味でも櫨溝橋事変の内容のそのものについても触れておきたい。国民党は共産党が提出した国民党と共産党との協力宣言(国共合作宣言)を公布した。両党は協力し正式に抗日民族統一戦線を結成し全民族の戦いをはじめた。北平・天津侵略、八・一三事変勃発後中国軍守備軍は奮って反撃にでた。日中両軍は上海周辺で激戦を繰り広げた。この戦闘で国民政府は軍隊40万人余りを投入し一度は日本軍を退けたが日本軍は20万人余りを投入し、優秀な武器を用いて形勢を逆転させた。宝山県を守備する500名の中国兵は、日本の30隻余りの軍艦と飛行機による攻撃を受け町は火の海と化した。宝山県の営長跳子青は守備勇士軍を率いて少しでも息の続く限り最後まで戦い抜く覚悟で二中夜奮戦し死に際になっても引くことはなく最後は白兵戦で壮絶な最後を遂げた。この一連の行動を上海の新聞では「この度の跳営隊全員の戦死は、偉大かつ壮烈を極め、人々は粛然として敬意を禁じえず、感動に堪えない。これは中国人民のみの名誉ではなく、全人類の名誉でもある。その偉業は永久に歴史に残るであろう」と報じ跳営隊を民族的英雄としてばかりでなく人類の名誉であるという過大評価ともいえる記述をしている。以上のような記述から中国にとって櫨溝橋事変がどれほど重要な出来事であったか感じ取るのは容易であろう。もちろん中国国内だけではなく日本国内でも櫨溝橋事変は話題にされることが多い。私が去年の二月に北京に行った時、ルームメイトが北京から櫨溝橋事変の跡を見に行こうと櫨溝橋に約半日かけて行ったそうです。櫨溝橋近くの歴史記念館に入って展示物をみたところやはり上記に述べたような櫨溝橋事変で活躍した将校のことを祭り上げ日本の行動を批判する物も多かったと言っていました。彼は「噂には聞いていたけどやっぱり本当だったんだね。」と驚いていました。また櫨溝橋近くで彼は中国人に話し掛けられたそうです。結果的に彼は中国語が会話程度にしかできなかったせいや、その中国人の言っている事が分からなかったこともあり何も起こらずにすみましたが、今その話の内容を考えれば櫨溝橋事変のことであったと考えても何の違和感もないでしょう。彼もそう言っていました。
その展示物の記述については私自身見たわけではないので意見を出す事はできませんが私は彼が日中両国の歴史について最低限度の知識は抑えている人だと思っていたのできっと私も同じように感じとったのではないかと思いました。中国現地に行くと中国の教科書の内容が国内で実物を見ることできます。日中両国の歴史に興味のある方はもちろん興味のない人でも一度でもそういう場所に行けば中国の歴史や教科書内容について多少かいま見ることができるのではないかと思いました。僕も来年行こうと思っています。

南京大虐殺

南京大虐殺自身については資料の量が半端ではないので後に南京大虐殺の経緯を述べるところで見ていくことにし、ここでは南京大虐殺に至るまでの経過を見ていきます。
1937年12月に日本軍は南京攻略を開始し、その際に国民政府は重慶に移り重慶を戦時中の副首都とした。翌年春、日本軍は山東より二手に分かれて南下し徐州を攻撃した。
国民政府の司令官李宗仁は、日本軍を山東で阻止する一方、山東台児荘でも阻止した。台児荘では双方とも激戦を展開し、日本軍は大敗を喫して奔走した。国民政府は交戦が始まって以来の大勝利を収めたのである。このような中国軍の抵抗は三ヶ月で中国すべて殲滅させるという日本の企てを打ち砕いた。このまま勢いに乗ると思われた中国軍であったがまたもや国民政府は人民が日本との抗戦によって力をつけることを恐れて戦闘人民をわざと動員させず、元の政府と軍隊だけによる抵抗路線を採用したため、敵の進行を食い止めることができなくなり太原・徐州を相次いで失った。1938年10月には広州・武漢も日本軍に占領された。国民政府が元々敵などいなかったのに自ら内に敵を作り出してしまったことにより、中国は華北・華中の広大な領土を失ったのである。

南京大虐殺の経緯

ここでは日本軍が南京で行った*図17南京大虐殺について具体的に詳しくみていきたいと思います。そもそも南京大虐殺とは何か?と考えてみれば、やはり日本軍が南京において中国人に対しひどいことをしたということが我々のイメージである。それではここから具体的にその内容についてあげていきましょう。日本軍が南京を侵略して以後、日本軍の赴くところ、「焼・殺・淫・奪」が行われた。皆さんもうおわかりだと思いますがもう一度ここで説明しておきます。「焼」とはそのままの意味で家や建物を焼くこと。「殺」とは中国軍隊や人民を殺すこと「淫」とは女性をレイプすること「奪」とは中国人民の財宝・食料などを奪うことです。日本軍が南京でしたことは以上の4点でした。日本軍は南京占領後南京人民に対し大虐殺を行ない驚くべき大罪を犯した。その例についてここで何点か挙げることにします。「1937年12月15日、武装解除した軍隊及び警察3000人余りが、日本軍によって南京寒中門外に集められ機関銃掃射を浴びさせられた後、死者・負傷者もろとも焼かれた」「18日には日本軍は南京幕府山で老若男女57000人余りを捕らえ、針金で数珠つなぎにして、下関草蛙峡まで追い立てそこで機関銃掃射を浴びせた。まだ息のあるものは銃剣で突き刺し最後には死体を焼いた。」「日本の『東京日日新聞』では“紫金山のふもとで”と題して次のように報道した。日本軍の少尉である向井と野田は百人切り競争を行ない、野田は105人、向井は106人を切ったというがどちらが先に100人目を切ったかが不明なので、勝負がつかないため、新たに150人切り競争を行った。」このように南京市民のある者は射撃の的にされ、ある者は銃剣の対象となりある者は生き埋めにされた。戦後の極東国際軍事裁判によれば日本軍は南京占領後6週間以内に武器を持たない中国の人民30万人以上を虐殺したとのことである。

南京大虐殺に対する私の見解

南京大虐殺…この事件は中国人民なら誰でも知っていると思う。その知り方については親から聞いたり、義務教育の中で習ったりと様々であろうが、なんらかの形で南京大虐殺は中国人に悲惨なイメージを残しているだろう。それは日本人も同じでやはり同じような悲惨な出来事であったのだというイメージを持っているといえる。ただ違うのはその歴史認識について中国人に比べ日本人は余りにも過去の歴史について認識していないということである。それは個人個人の問題ではなく日本と中国の教育制度の違いからきていると思われる。私自身の経験から思い起こしてみると日本の教科書の内容では日中間の戦争の歴史については小学生の高学年6年生位に始め日中間の歴史大体の内容を把握した時は高校二年生頃であったのを覚えている。(個人によって多少ズレは生じますが)その中で南京大虐殺ということ言葉は、南京大虐殺があったという事実と南京大虐殺で「日本軍は多くの中国人を殺害した。」という説明だけで終わっていた。もちろんそれは文部省で歴史教科書についてどこまで教えてよいかという規制があったから教師も南京大虐殺についてそれ以上は突っ込めなかったというのが理由であると思います。それに比べ中国の教育制度では小学校・中学校の頃から日中間の歴史について深く触れその内容を生徒同士で深く検討させ自分なりの意見を持たせようとしている。その認識が合っているにしろ合っていないにしろ歴史を知らないで相手の国・人のイメージを作り上げるのは全く愚かであると思います。だからこそイメージを作り上げるための知識を得なければならないのです。私は元々日中間の歴史について興味を持っていたので大学受験のために深く歴史を勉強したり大学に入って研究したことでやっとその歴史について知る事ができ、それについての意見も自分なりに出せるようになったのでよかったのですが、今から考えれば中学生や高校生の時に南京大虐殺についてちゃんと説明を受けたかったと思います。しかしこれは私だけではなくきっと日本の義務教育を受けたものなら皆そう感じているのではないでしょうか?ここで持論を述べさせていただけば日本の教育方法は今変換の時がきているといえます。具体的には今までよりも教科書の内容をより詳しくし教師自身の考えを含めて学生達に歴史事実を認識させることが必要なのである。そしていままででも述べてきたように歴史に対し忠実にその史実を述べ、時代の流れやいまわしい事件について学生に話し合わせる必要がある。そうすることによって日本人は日中両間の歴史認識について知らなさ過ぎるなどといわれることもないだろうし、中国人にいいイメージを持ってもらえるようになるかもしれません。現にある中国人留学生は日本に来る前は、やはり日本に対していやなイメージがあったが日本に来てから日本人とその歴史認識について深く話し合ってイメージが変わったと言っていました。このように双方が自分なりの歴史認識を持っていれば互いに分かり合え、日本が過去にしたことをわびることにも繋がるのだろ思います。

陥落地区での日本軍の統治

中国人民は一年余りに渡り抗日を続け、短期決戦による中国撃滅という日本の企てを粉砕した。その後日本の中国侵略にどのような変化が起こったか?旺精衛政権(偽国民政府)はどのようにして成立したのか?日本軍は陥落地区でどのような統治を行ったか?について教科書を比較しまとめていきます。

日本軍の侵略方針変更と旺精衛政権成立そして日本の統治までの経緯

広州、武漢陥落後、戦況に大きな変化が起こった。日本軍は中国の広大な領土を占領したために戦線が長すぎて兵力不足になり国内の資源にも影響を及ぼした。日本軍はやむをえず侵略方針を変更し、国民党に対する大規模な軍事進攻をやめ、代わりに政治的投降の呼びかけを主とした。この例のひとつとして挙げられるのが傀儡政権の樹立である。日本は一ヵ所占領するごとにその都市に傀儡政権を樹立させ、そしてその力を使い植民地的統治を行った。これが日本の当時の侵略政策「中国を以って中国を制す」であった。日本帝国主義の誘惑に国民政府内の親日派の親玉である旺精衛は応じ*図18傀儡政権の親玉になったのである。日本は南京で旺精衛を盛り立て偽国民政府が成立した。そして主要兵力を八路軍および後方の抗日根拠地に投入し占領地区の軍事支配と経済略奪政策を強化し後方を固めた。1938年末、日本の首相近衛文麿は「善隣友好」、「共同防衛」、「経済協力」で成る三原則の声明を発表し、国民政府に投降を呼び掛けた。もちろんこの政府はすべて日本政府のいいなりであり日本に突きつけられた不平等条約を鵜呑みにしてしまった。偽国民政府は国を売り敵に投降する「和平反共建国」を方針として、国家の主権を大幅に売り渡す条約をむすんだ。すなわち偽満州国の承認・日本人顧問による旺精衛政権の操縦・日本との共同による反共、等に同意した。また偽国民政府は傀儡軍隊を出して日本軍の後方にある抗日根拠地へ加わって、植民地的統治と経済略奪を支持した。陥落地区で日本軍は銃剣で植民地支配を維持した。また憲兵・警察・裁判所・監獄等、中国人民を鎮圧する為の機構を作った。憲兵、警察、特務はしたい放題で、気の向くままに中国人民を逮捕したり、厳刑を課したり、拷問したり、殺害したりした。もし一言「私は中国人だ」といえばたちまち日本に反旗を翻す思想犯・政治犯とされた。また日本軍は陥落地区の人民を保甲制に編成し戸籍を調べ*図19「良民証」を発行し、厳しく人々を支配した。そして日本軍は戦線が長くなり、生産原料や各種の物資が足りなくなったため、中国を物資調達の供給基地にしようと考えて陥落地区で略奪をした。日本はこの略奪政策を「現地調達主義」と称した。そして教育の面でも日本帝国軍は中国の学校で「中日親善」「共存共栄」などという論理を宣伝し学生達に奴隷化思想を吹き込んだ。また日本語を必修「国語」科目と定め陥落地区の各学校で強制的に教え、言語で中国人を同化させようとした。陥落地区の人民はこのような亡国民の生活を送ったのであった。

日本軍の方針変更と旺精衛政権成立・日本の統治に対する私の見解

ここでは日本の中国に対する一方的な統治に対して見解を出して行きたいと思います。
前述した南京大虐殺では日本軍は中国に対して基本的人権そのものを踏みにじるような統治をした。この時の統治は南京大虐殺の時のように「焼・殺・淫・奪」のようなあからさまな残虐行為ではなく中国人民の日本に対する反抗心を刈り取ってしまうようないわば人間の精神を傷つけるという方法で中国を統治した。南京大虐殺ももちろん非情な行為であるが反抗心が生まれる分、精神的には潰されていなかったのである。この統治は「生かさず、殺さず政策」といえる本当に卑劣極まる行為であった。その様々な行為については資料によってみてもらいたい。特に教育の面ではもう中国は日本の一部であるかのよう振る舞い日本語を母国語とせよ。とし中国語を使うものは反日心のある者ととられ厳刑・死刑に処されたのであった。中国が生んだ言語そのものを奪おうとしたわけである。のちに太平洋戦争で日本が負けてもGHQ総司令官マッカーサーは日本の統治を日本の天皇に任せ、二度と戦争しない事だけを約束させ、英語を日本の母国語にさせなかったことを考えれば日本が中国でした事はこれ以上にないほど人権や国を馬鹿にしている。今でこそ国際的に活躍できる人材が必要とされ言語の重要性は日に日に増してきて母国語以外の言葉が使えても普通になってきてその国々にとっての言語そのものの価値は薄れてきているが、その当時では母国語を取られるということは命を失ったと同然であったといえる。そんなことをしてしまった日本は中国の国そのものに国辱的な行為をしたのであった。

日本軍による中国統治の終焉

国民党政権が*図20像湘桂戦場で大敗を喫して以降、日本軍は本格的な太平洋戦争に突入しアメリカと激しい戦いをしていた。時を同じくして中国共産党は抗日の力を増大させていった。
それでは抗日の中心となった中国共産党はどのようにして抗日根拠地の軍を率いて部分的反政を行なったのか?中国が実際にどのようにして最終的に日本の統治の手から逃れていったのか?これらについて考えて行きたいと思います。

日本軍による中国統治の終焉に至るまでの経緯

1943年から1944年の春にかけて、日本は太平洋戦争の戦場で次々と敗れ海路はアメリカ軍によって断ち切られた。東南アジアに侵入していた孤立した軍隊を救援するため1944年日本軍は中国東北から広州、南寧に通じる「大陸交通線」という作戦を開始した。まず始めに日本軍は14万人余りの兵を動員して河南に進攻した。河南に駐屯する国民党の40万の大軍は戦わずして逃亡した為、わずか一ヶ月で河南全域が陥落した。河南省陥落後、日本軍は相次いで長沙、衡陽、桂林など軍事要地を占領した。同年、日本軍は銃を一度もつかうことなく南寧を占領した。このようにして日本の作戦は見事に成功してしまったわけである。しかし1944年から1945年始めにかけて世界の反ファシスト戦争は着々と勝利を収めヨーロッパにおけるドイツの敗北はもはや明らかとなった。日本も太平洋戦争でアメリカからの激しい攻撃にあい苦境に陥った。世界の反ファシスト戦争の展開は、中国人民の励みとなった。そして日本の力が弱り始めた1944年初めには中国共産党が指導する抗日根拠地の軍は局地的に反抗を開始した。それに対し日本軍は鉄道沿線の比較的大きな都市を支配するだけであった。中国共産党の指導をする*図21抗日本拠地の軍兵は中国を侵略した大部分の日本軍とほぼ全ての傀儡軍に打撃を与えて中国全民族抗日の中心的存在となり抗日戦争の勝利という重要な役割を果たした。そして日本にアメリカによる原子爆弾が投下されるとソ連政府は、対日宣戦の声明を発表し中国東北に駐屯する日本に向けて進攻するためにソ連軍を派遣した。時を同じくして毛沢東は「日寇に対し最後の一戦を」と中国全土に呼びかけた。その呼びかけに答え朱徳総司令官は八路軍・新四軍をよびその他の
*図22抗日軍隊に日本軍が投降を拒否するようであれば殲滅せよと命令したのである。アメリカとの戦いで既に力のなかった日本はもう反抗する力もなくアメリカによるポツダム宣言により日本による中国の植民地的支配は終焉を迎え、台湾なども中国に返還された。ここにきて中国はようやく肉体的にも精神的にも苦痛を味わされた日本の統治から解放されたのであった。

日本軍による中国統治の終焉に対する私の見解

日本軍による中国統治の終焉についての私の見解は正直言ってもうこれ以上日本が国辱的な行為を続けることをしなくなった(できなくなったいう方が正しいのであるが)ことに非常に安堵感を持ててうれしいということである。日本は中国に対し様々な方法で肉体的苦痛・精神的苦痛を与え人権そのものを踏みにじる行為をしてきた。そのような行為に対しての見解といえばこれ以上の言葉は思い浮かばない。ここでわたしが言って置きたいことは安堵感を持つこと自体が見下しているのではないのか?と考える人がいるかもしれないが、今回の研究で私は日中両国の歴史をみながら教育制度を見てきたが決して中国を見下した目で見てはいない。ここまでいうと言い過ぎになるかもしれないが国辱的行為を重ねてきてしまった日本に同情さえするくらいである。
まとめ

今回私は中国の教科書に見る日本と中国の歴史教科書の相違ということで教科書内容に特に違いが見て取れる甲午日中戦争から太平洋戦争終焉までの日中間の歴史について見てきました。

各歴史史実になぞらえて歴史の特徴・経緯・自身の見解の三本を基礎とし研究してきたのですが

中国の教科書を見て一貫していえるのは南京大虐殺の記述に代表される自国に対する愛国心を含んだ記述です。しかしこれは中国に対してだけに言っているのではないのです。南京大虐殺の記述がとりわけ日中両国で大きな扱いをされていますが戦時中の虐殺行為に関わる問題は諸外国にも当然ある。1915年のトルコ政府によるアルメニア人の「虐殺事変」も世界的に有名である。被害者数については五、六十万人、あるいは百万人、二百万人説などがあるが、トルコ政府は虐殺行為そのものの計画性を強く否定していて歴史教育でも「虐殺していない」と統一した教え方をしている。結局のところこの事件も戦争行為に関連した殺傷行為の存在を前提にして、それらが組織的であったかどうか、規模はどうであったか、といった要素は時が経てば経つほど確定できなくなるという困難を抱えてしまうのである。トルコ政府の例のように南京政府についても似たようなことがいえます。「戦争に際しては様々な悲劇、あるいはそれに付随したある種の犯罪が起きる」という普遍的な歴史原則を双方が理性的に確認してから早い時期に処理し日本が反省すべき問題であったのです。日本が中国に対し植民地支配や侵略を行った事はやはり無視することが出来ない。だからこそ、太平洋戦争敗戦の責任をとって自決した阿南陸総に象徴されるように、戦争について黙って語らずで当時の軍人・将校達が当時の対日認識についてきちんと表明しなかったことは悔やまれる事実である。また阿南陸総だけではなく他の人々も個人として「責任」を表明する事もありえたのである。その事実を知った上で日中双方による事件の共同調査などを軍関係者と交えて行っていれば良かったのである。このような歴史事実や認識をみて私が感じた事を述べさせていただければ歴史認識については「本当に我々日本人はあなたたち中国に対して国辱的な行為をしてしまった。しかしそれを認めるか認めないかは個人の価値観の問題であって様々で歴史の解釈は統一できるものではない」というしかないと思うのです。大原則として国家間の戦争に際しての謝罪や賠償は通常講和条約を結ぶ事で決着がつく。日本はすでに戦争の自国の行為を詫び後始末をすませ決着はついているのです。それ以上の謝罪は法律的な話がすんだ後で二国間の関係を円滑にするための外交礼儀的に行われることはあっても何度も何度も謝るという性質は持ち合わせていないのです。だから各個人が中国に言われたから守りに入いるというのは最もおかしいことだと思います。日本側からも「言うべき事をきっちりという」ということである。それに対し中国は何度も何度もあやまって欲しいという内容の要求をしてきた。しかし、南京がどうのこうのという以前に日本の歴代内閣総理大臣が今までに何度も誤り、天皇・皇后の両陛下が北京で違感の意を表明されたりしたことを知らない人が実に多い。「そんなこと知らない。まだ謝ってない」という人もいたり、占領政策以来「日本を強くしてはならない」という誤った強い先入観を持った人もいまだにいるのです。石原慎太郎が数十年にわたって叩かれ続けたのは彼の唱える「自主防衛」が嫌われたからなのです。ところが中国は中国共産党政権が徐々にカリスマ性を失っている事により、実体経済が非常に悪くなってきている。特に日本の対中感情が悪いために対日投資が冷え込み、その結果欧米の対中投資が冷え込んで中国の経済を圧迫しているのです。そのため現在の中国政治担当者は、日本の対日感情をなんとか緩和しようとしている。これは本当にそう思っているかどうかは別として戦術として行っているのです。だからこの一年ほど中国は正面から歴史問題を日本側に突きつけることを控えている。このような歴史の裏の事実を知ることによって自分の知識とすることができ、歴史について新たな知識を得るたびに自分自身歴史に対する知識に裏づけされた考えを持つことができるようになるのです。そして上記に述べたように日中両国の人々が歴史認識するために互いに話し合う事により今までの戦争・時代の流れそのものの評価まで変わってくるのではないでしょうか?特に隠れた感情を理解しそれを加筆していくことが日中両国の間違った認識さえも変えていくのではないかと思います。

2000年は中国の時代だとよく言われます。皆さんも日中両国の歴史については少し自分なりの考えを持っていることをお薦めします。        

これで研究Uの研究発表を終えます。


テーマ:中国の教科書にみる日本と中国の歴史教科書の相違
〜我々のこれからの歴史認識〜
目次

まえがき
1. 甲午日中戦争
2. 馬関条約の特徴
3. 義和団事件の特徴
4. 偉大な革命家孫文(孫 中山)
5. 袁世凱の台頭〜二十一か条の要求                           
6. 満州事変・上海事変
7. 傀儡政権の擁立
8. 抗日運動の高まり
9. 抗日運動の新たな高まり
10. 櫨溝橋事変
11. 南京大虐殺
12. 陥落地区での日本軍の統治
13. 日本軍による中国統治の終焉
まとめ


参考資料:

世界の教科書に見る日本(中国編)編集 財団法人国際教育情報センター
中国近代史(第四版) 出版 中華書局 李時岳・李徳征編
諸君!(第33巻) 文藝春秋


題目:中国の教科書にみる日本と中国の歴史教科書の相違
〜我々のこれからの歴史認識〜
所属ゼミ:趙軍ゼミ
氏名:高木 繁

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