カレソンのアルトの音について


− 特に1983年以前のCCD卒業生へ −


文責 さえらのすし 2002

 CCD50周年記念事業の一環として続けてまいりました「シャンテ・スタンダード」(愛唱曲集決定版)編集の終わり近くになって、カレッジソングのアルトの音が一部異なることが発見されました。
 そしてCCD史上ある時期を境にそれ以前と以後で異なる歌い方をしていることも明らかになりました。
 つまり2種の譜面があり、その両方ともそれなりの由来をもつものですが、「シャンテ・スタンダード」としてはカレソンを二つの譜面で収載するわけにはまいりません。
 いろいろ各方面のご意見を頂戴し、慎重に勘案した結果、次を結論とすることと致したく存じます。各年代指揮者・パトリの方々はもちろん、歌ってきたメンバー各位のご了解をいただきますようお願い致します。

結論
 14小節・4拍目(第1節歌詞で“-der”)のアルトはF(変ロ長調のソ)とする。
 ついでながら、16小節の全パートは2分音符+2分休符である。

経緯

  • カレソンの譜面については、あの「イェス君」のような問題は一切ないものとして今まで進めてきました。

  • ところがSAさん(1956卒)からの指摘で、上記個所にDとFの相違のあることが浮彫りになりました。

  • その直後、早同交歓のエール交歓を聴き、現役がFで歌っていることに気付いたため、早速現役MRさん(A・2年)に問い合わせたところ、その通りであることを確認しました。

  • 次いでNNさん(1988卒)からも同様の回答を得ました。

  • 私(1959卒)が入学時に貰った楽譜はDでした。3-4回生時指揮をしていてFと指示した記憶はなく、Dのままだったろうと思います。また妻(1962卒・A)は当然Dだったと言います。私以前のCCDがどう歌っていたかを証する資料は残念ながらありません。

  • 「シャンテ・スタンダード」編集委員であるTHさん(1965卒)、MSさん(1974卒)からはいずれもDとの回答をいただきました。この約10年間に変動したことは考えられません。

  • それでMSさんとNNさんの間約10年間の学指揮の方々約10人にこのことを注記した上で往復葉書で問い合わせました。その結果、MGさん(1977卒)、KHさん(1979卒)、TYさん(1981卒)、TE(旧KE)さん(1981卒)、KIさん(1983卒)、いずれもDと答えられました。特に後述の同志社が出した「同志社歌集」をシャンテに転載した後も上級生の指示でFをDに訂正したとの証言があります。

  • NNさんは1984入学と思いますので、どうやらKIさんの卒業(1983)からそれまでの1年間にDからFへの「大変更」が行われたのではないかと推察します。

  • 歌集「シャンテ」は1964年の初版以来しばらく手書き(ガリ版)でDが伝承されています。

  • 同志社大学学生部が1969年以降発行している「同志社歌集」(当初からFで掲載されている)が新入生に配布されて、これが浄書譜であることからシャンテもこれを転載するようになりました(年次未調査)。しかし暫くの間は前述のようにハンドで訂正して1983年頃まで推移したようです。

  • そのように「伝統でD」としてきたCCD内の空気が、学内定番の「同志社歌集」の通りFで歌うという風に変わったのが1983〜1984年だったと推察するのです。

  • 「同志社歌集」は初版以来Fのまま変わっていません。ただこの基になったのが何だったかわかりませんでした。

  • 一方、CCDに伝わったDでの譜面は1955年より遡れず、これも謎でした。

  • SAさんの高校時代のホザナコーラスの楽譜ファイルの中にカレソンを手書きで写譜したものがあるのを拝見しました。時期的には1949年かその前後です。それにもやはりFで書いてありました。

  • 最近に至り、塩路良一さん(1960卒)から重大な示唆とともに資料の提供を得ました。これが今回の結論を導く大きな引き金になったのです。
    @ CCDのDの譜面は1950年代によく使われたキャンプソング集「SING ALONG」(同志社の宗教部あたりが編纂したのではないかと思われる)によっている。
    A 「同志社歌集」の基となったと思われるのは「DOSHISHA COLLEGE SONG」という印刷楽譜で、表紙は神学館(現クラーク記念館)やハリス理化学館の写真が入り、まさしく-derのアルトがF、wideが2分音符+2分休符となった楽譜。そして裏表紙には「親切第一/大阪銀行/住友改稱」という時代を感じさせる広告と、下部に「23.10.1/齋舎印刷/京都市(あと不明)」という印刷所の記載がある。1948年のイヴを控え、同志社が印刷・配布したものと思われる。

  • そして最近、拙宅の押入れの奥から出てきた楽譜、それが塩路良一さんの譜の1958年版でした。表紙はカラーで同志社中学チャペルの絵。中はカレソンと野村芳雄先生の「我らの母校」とのカプリング。裏には「1958同志社出版部刊」とあります。野村先生の曲が出来た時のものと思われます。カレソンの譜は塩路良一さん提供のものと全く同じで、少なくとも1948年から10年変わっていないことを裏付けています。そしてこれが「同志社歌集」へそのまま引き継がれているのでした。

  • この辺りを考えると、1940年代後半の創立まもないCCDは、この「F版」を使っていたことも考えられます。

  • 同志社大学学生部が1969年以降発行している「同志社歌集」になぜFで掲載されたのか、その根拠がわからないため、あえてOfficialであるべき「同志社歌集」に(異は唱えないまでも)疑問符をつけてきた私でしたが、1948年10月というCCD2年目に同志社で出版された楽譜が見つかり、そしてその10年後の同一の譜面が見つかった現在、1948年より時代が下ると思われるソング集「SING ALONG」では、前者に正当性を認めざるを得ないのではないでしょうか。

  • 結論の出せることではありませんが、「正誤」の問題ではなく「正当性」の問題といえるかも知れません。

  • いっぽう(現在遡れる範囲において)1955ガリ版譜に端を発し、その後CCDで1983頃まで歌い継がれていたカレソンの版は、1955前後に同志社で使われていた「SING ALONG」と同一であることが判明しました。

  • 双方の異同は2ヵ所 @アルト-derがCCD=D、「同志社歌集」=F Awideの小節がCCD=2分音符(+2分休符)、「同志社歌集」=付点2分音符(+4分休符) -- です。

  • 現在のCCD現役が未だDで歌っていればそれを決定版とするにやぶさかではありませんが、現役は17年ほど前に既に「同志社歌集」の版に統一してしまっています。今後現役は当然これを引き継いでいくでしょう。なぜなら、今や現役にとって17年以前まで先輩がどう歌っていたかということよりも、現在同志社学生部がそれなりの校訂を経て出版している「同志社歌集」をOfficialと認める方に合理性を見出すだろうから です。

  • 根拠と考える1948年に同志社が出したカレソンの譜面は、学内の常識的観点から、当時在籍の学生全員に配布されたものと考えるのが常道です。これは、1958年に我々CCDメンバーに配布されたことからも類推出来、当時の楽譜が、発行の次年度に同志社中学に入った塩路良一さんにも配布され、使用痕跡があるということからも推測できます。

  • 「SING ALONG」は1955以降どこまで使われていたか、CCDにおいては多分CHANTER初版の発行される1961年まででしょう。60年・70年安保闘争を軸とする学園生活の変遷とともに使われなくなったと思われます。ということは相当早い時期にこのバージョンは消えていたということになります。

  • 私の指揮者時代である1958年に同志社から出版され、学生に広く配布された「F」楽譜を、当時のCCDは私を先頭として「SING ALONG」所載のD版をたてに、完全に無視してきました。その意味から現在忸怩たる思いを免れません。

  • 「同志社歌集」にあるということは、ホザナコーラスのみならず、同志社の他の合唱団体に同様にOfficialとなっているということに等しいと考えます。

  • カレソンはCCDの「伝統の歌=愛唱歌など」である以前に「学校の歌」であるということを再認識すべきでしょう。オール同志社の財産ともいうべきものです。

  • CCD50年の歴史の中で、33年間はDで歌ってきたのかも知れません。Fで歌う年代は17年に過ぎないのかも知れません。しかし今後は現役がFで歌い継いでいくでしょう。その数が確実に増えていくでしょう。それがCCD今後の姿です。

  • CCD100年へ向けていまわれわれなすべきことは、1983年までのOBがそれ以降のOB及び現役と同一の目線に立つことではないでしょうか。これは「過ち/誤り」などではもちろんありませんが、全同志社合唱祭の開催される今年、「改むるに憚ること莫れ」と考えてはどうでしょうか。

  • ということで、当初結論の通りで「シャンテ・スタンダード」を統一したいと考えています。各位のご了承をお願いする所以です。