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2007年 1月 6日
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この世が生き残りを賭けた競争社会であることは、残念ながら間違いない。だからそのことに目をそむけてしまった理想社会論は無意味だと思う。
しかし重要なことは、もうすでに世界に認められ、確立された価値を奪い合うというような限られたキャパシティの中だけで競争することになれば、
大手家電店の安売り競争のように勝者は限られ、敗れた者は去っていくしかない。
これは野山にありながら同じ餌場で他の動物達と食べ物を奪い合うようなものだ。
そんなとき、生物はどのように生き抜くか。多様性である。高地や極寒の地のように他の生物が生きられないような厳しい環境を選んで適応したり、
他の生物には食べられないような物を食べられるように変化したりして生き延びてきた。多様性はある生物が生き延びるための仕組みといっていいだろう。
私が安倍首相とそれを支える人たちが危険だと思う最大の要因は、この「多様性」がどのようにして生じてくるか、ということに対して無理解すぎるからである。
私は「いままでにあったもの」ではなく、「これからできるもの」を生み出せる人材をいかに育てられる社会にするのか、という視点が不可欠であると思う。
モノを生産することでしか外貨を得られない日本が、今後衰退せずに生き残るためには、“言われたことを上手にこなすだけの人材”ばかりではいけない。
そのためには、魅力的な個性をいかに前向きに育てるか、という観点からの推進が必要なのであり、愛国心に基づく形式的な儀礼の押し付けなどは
その生育に逆行するだけである。
「再チャレンジ」などという聞こえのいい言葉をいうくせに、安倍首相の心底には国家主義が大きくあって、明らかに物言う個性を拒否している。
こういう風潮を総理大臣自らが醸し出している社会下では、これからの日本が生み出さなくてはならない魅力的な生産物は生み出されないだろう。
正月早々、ニュースで彼の発言を聞かされるとうんざりします。人間的な中身をもてなかった人間ほど精神論を声高に叫ぶ傾向があります。
一発ずつしか打てない銃しかない状況でも(それも終戦の年には物資不足でほとんど支給されなかったらしい)「大和魂で戦え」といわれて、
アメリカの機関銃のまえにバンザイ攻撃と呼ばれる無謀な飛び出し攻撃で討ち死にする覚悟が、(安倍総理を支える)方々にはあるのでしょうか。