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9月9日
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私は安部官房長官が、かなり強い意志をもって「国家主導の社会」を強化しようとしていることにとても警戒しています。
皆さんは気にならないのでしょうか?
とりあえず、彼の著作「美しい国」を立ち読みしてみて、私が彼が“ヤバイ”と感じる理由がはっきりしてきました。
一言で言えば、彼が「ひどく観念的である」ことです。例えば“文化”、例えば“教育”。“国家”についても。
(観念的=実際に自身で成し遂げよう、あるいは創りあげようとした、いわば“生みの苦しみ”を知らない、頭の中で想定されただけの事物)
私もかつてガチガチに観念的な人間でしたので、「観念的な人間の危険性」を熟知しているつもりなのです。
人が「育つ」、あるいは創造物が「生まれる」ために、“こうすりゃ、ああなる”というような“原因と結果”がはっきりしていることなんてほとんどありません。
しかし、観念的な頭の中では、言葉の論理の整合性が合えば、「正解のような答え」を言葉にすることは出来ます。
しかし、理屈の上では成り立っても、例えば実際に人の心を動かす要因を確実に割り出すことなんてできません。
「がんばれば⇒なんとかなる」。これは戦時中日本軍が自国の物量不足や補給作戦の不備を、最前線の一兵卒に精神力で“補え”というときの
常套文句でした。「大和魂でがんばれ」です。これは東京三宅坂の参謀本部にいるから言えることで、太平洋の島々や中国の内陸部で
食糧も武器もなく、援軍のあてもなく餓死していった人々が残してくれた教訓です。
「日本の文化」というとき、一体いつの時代のどのあたりの文化活動のことをイメージして語っているのでしょうか?
文化は時に孤立することによって、時に思わぬ相手〈異文化)とのダイナミックな交流・混合によって育まれるものですが、そうして生まれてきた
2千年の文化を一本の道筋だけで解釈する乱暴さは、創作現場を知らない机上の空論としか思えません。
また、「教育」を語るとき、原因と結果がはっきりしている場合なんて少なく、多用な要素が複雑に入り組んで作用したりしなかったりするものを、
原因を決め付けて国家がなんとかできると考えるのも、やはり教育に携わったことのない人の空論に思えます。
「地球市民」への偏見は、特に私を驚かせました。
「地球市民」はあり得ない。「国家」が人間の基本的な単位だ、と言い切る安部氏の思い込みは
彼が国のリーダーとなったとき、かなり迷惑なものとなるでしょう。
その反論として彼が挙げている、外国へ旅行してその土地の人から「どこの人ですか」と聞かれたら、「地球市民」と答えるのか、というのですが、
これはかなりトンチンカンな言動です。
人は自分が育った環境に適応して、多大なる影響を受けながら成長するものです。だから、その風土に愛着を持つのは当たり前です。
自分の育った土地の歴史や風土を学ぶ必要もあるでしょう。でも、その境界線が必ずしも「国境」である必要はないでしょう。
同じ国内でも沖縄で生まれた人と北海道で生まれた人では、四季の感覚も習慣も食べ物も異なるでしょう。
本州であっても、太平洋側と日本海側ではずいぶん気候が異なります。
明治維新で廃藩置県が行われるまでは、薩摩藩の人は、鹿児島が自分の郷土であって、間違っても水戸ではなかったでしょう。
私は将来的に、まだまだ増大する人間〈現在65億、2050年には93億だそうです)どうしが仲良くやっていくためには、
現在の「国境」をより緩やかなものにしていかなければならないと思います。いきなり廃止しろ、などといっているのではありません。
人間は〈他の生物同様)環境に適応して生きるものですが、若い頃に適応の形は完成してしまいます。20歳くらいまでの環境適応で
その後の50年を生きていくことになるでしょう。
だから、世代が変わっていくのに合わせて、少しずつ環境を変えていくのが適切な変化のあり方だと思います。
地球市民でありながら、日本という風土の人間であることは可能です。それを、「地球市民なんてあり得ない」と言い切ってしまう安部氏は危険です。
彼の頭の中には、彼が作り出した世界のツジツマが出来ています。彼の危険性は、その自分の頭の中にできているツジツマだけが真実だと
強く思い込んでいる点にあります。彼は自分のツジツマに合わないものを認めようとしないでしょう。
小泉さんより理屈っぽい分、自分の理屈に固執する確立は高いです。
私も理屈っぽい方なので、自分の危険性を次のように判断しています。
理屈っぽい人間は、上手く自分をコントロールしないと、その力は善にも悪にもなる。
その境目は、完璧な論理の構築などは人間には不可能であることを自覚し、
自分自身の論理を常に監視して疑い、現実とぶつかって支障が出来るたびに是正し続けること、これが肝心です。
この是正するシステムを自分の中に持っていない理屈屋は、自分だけが正しいと思い込み、
自分の考えにそぐわないものに対して、排他的、攻撃的になります。これが厄介なのです。私は安部氏には、その危険性があると思っています。
常にう自分の自分の筋立てだけが正しいと思いがちになる。