〜印象に残っている文章〜

■記号論集■  鶴見俊輔 著

「言語の本質」から抜粋

東アフリカの文盲の黒人部族のしゃべるチチュワ語は、二つの過去形をもっている。

第一過去形は、すでに起こったことでその影響が今も残っていることをさす。

第二過去形は、すでに起こってしまったことでその影響が今では残っていないことをさす。

だから、「私は食べました(1)」と言えば、今わたしは食事をすませてきたばかりでおなかが

いっぱいだから、ごちそうしてくれなくてもよいということになり、

「私は食べました(2)」と言えば、食べてからずいぶん時間がたって

もうおなかがすいたから、何かごちそうしてくれないか、というふくみをもつことになる。

 

このような文法的区分がはたらいているところでは、過去にたいする感覚は研ぎ澄まされてくる。

日本語のように、一つの過去形しかないところでは、過去は過去として昔におこったあらゆることが

おなじ仕方でとらえられ、過去にあり現在にも生きている伝統という感覚はつくりにくい。

小学校の校長が、「本校の三十年の伝統は・・」というような演説をすることが、

日本における伝統ということばの用例であるが、

そのなかではあらゆる過去が同時的・並列的にとらえられているのである。

過去の中の今ものこっている部分、また、のこるべき部分にたいする敏感さを研ぎ澄ましてゆくためには、

今われわれが日本語にもっている文法的区分では十分ではない。

 

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