ききゃーせ

 

鑑賞教育外野席

 「もう1回もう1回、今度は絶対聴かせてチョー」

 「本当の音楽は全然違うギャー」

 「ゲーテはどうしてこんないい詩が書けるんキャー」

 「ギターの音色がたまらんな!」

 「名曲はどうしてじれってあーの、もっとスカッとしたのないの」

 「先生、音楽室よりうちのほうがスッゲーステレオあるでよーいっぺん聴きにイリャー」

 「さワグナー」「シャレはよしなシャレ」等

  今でも時々思い出す児童生徒の語録です。

 

 緑多い尾張西地域で過ごした。小4・中3校での38年間。新任中学での初年度は、

指導書頼りの授業の進め方に加え、時折やりたいことも入れた。

 3年生のウェルナーの野ばらの発展として、シューベルトも加えて、さらにドイツ語(仮名)

でウェルナーも歌わせた。

 ウィーン少年合唱団を手本とし、耳からアタックもし、何とか一節歌い切った。これがいま

だに続く同窓会で、校歌に続いてよく歌われる。その校歌も、勤めていきなり、生徒の募集

作詞に、小生が曲をつけたものであった。一際盛り上がり、最初の卒業生が一番関わりが

深い。

 4年後、伊勢湾台風による大きな災害に巻き込まれ、校舎水没のため60人詰め込み

一クラスが、17校に分散した。二学期中は避難先の学校巡りに明け暮れ大ショック。

 落ち着いてからの授業は、寄贈されたピアノと共に二階の音楽室。でも教材は不充分、

大活躍は重いオープンリールのテレコが鑑賞の主役となり、宿直の夜に編集した自作教材

で間に合わせることになったが、結構好評でした。

 音楽教師の宿命とも言える。放課は職員室に戻れないことから、妙な個人指導?が続く

ことになる。必ず連れだって廊下に座り込み、前時の残りのレコードにじっと聴き入ったり、

時間待ちで教師が奏でるピアノに耳を傾けている者がいた。きっと孤独な性格の持ち主な

のだ。暇人がまた来てるなと相手にもせず軽くあしらった。こんな連中が、冒頭の語録を発

したり、後の同窓会で突然名言を漏らし、ハッとさせられた張本人達。その一つに、ある日

「こんな名曲を知らないのは、お前だけだ」の一言に、きついお返しがきた。

  それは、彼が、電気工事関係で金沢に転居し、石川県立音楽堂建設に関わったことか

ら、アンサンブル金沢は、しらかわホールで聴いていたんじゃ駄目、と松本理事長と同じこ

とを言った。若者の成長ぶりに感心させられました。

 次の中学校は、大規模校でも部活は、運動部中心で、ブラスはあったが合唱は無理。

 そんなことから、少人数で膝を交えて、音楽室の後ろの年表と肖像がを頼りに、細々と

LPコンサートを聴くことが多かった。授業は、時間数も多く、同じことを5回繰り返すこと

になったが、新鮮味を失わないことを主に若い力で押し切った。5年経過し、実践報告とし

て、昭和40年度愛知県音研大会で鑑賞指導をどのように進めているか(第3学年共通

教材の大曲の取扱いについて)のテーマで、六地区からの一員として発表する場を与えら

れました。翌日朝刊では、「中学三年生には田園交響楽が好まれた」と報ぜられた。

 普通の音楽が、自分の耳と、自分の心とで「わかる」ことの出来る力、少なくとも楽し

める力を啓発し、誉めてやらなければならない。このことを強調したつもりです。

 さらには、生徒達は将来社会人になり、いろんな機会で音楽に親しむであろう。これこそ

「おんかん」のメイン「音楽教育の終局は鑑賞である」と一致し心強くしました。指導書

中心の授業の組立てが基本と思っていた頭が、教材と児童生徒という路線で一時間を運転

するかに変り、すごく気分が楽になりました。こうして鑑賞で音楽を主導する一人になってい

きました。

 もう一つ、本校で心に残るのは、校歌の作曲者が山田耕筰先生。転任してすぐ、入学

式と始業式で耳にして、これまたドキッ。そんな縁で、ご夫妻で訪問される機会に恵まれま

した。耕筰先生はステッキ片手に山高帽。全校集会で、吹奏楽部のマーチと校歌を披露。

 指導と励ましのお言葉の後、校門へと、小生のオルガンに合わせ全員「赤とんぼ」を

歌ってお送りしました。この上ない音楽イベントでした。

 11年の中学校から、次の3つの小学校でもいろんな試みをしました。NHKに加えて、

愛知県独自のFM放送による、高学年鑑賞を主にした15分番組が出来、利用の手引き

も県教委から各校へ配布されて、楽しく聴くことが出来た。また、その番組作成委員にも

選ばれて、土曜日の午後、県庁の一室で、各地からのメンバーとで案を練った。

 幸いにも、初任校でのテープ教材作りがここに生かされ、仕事は手早く進んだ。それに、

出演校となって、歌と器楽のワルツ演奏を、県下に流して戴いたこともありました。

 また 夕方、町中に流れる下校の音楽(ゲコードといって親しんだ)ドボルザーク。昼

の「お仲間ランチ」のガヴォット。清掃時のモーッアルトのフルートとハープのための協奏

曲、ポール・モーリアの「シバの女王」。それに交通安全パレードでは、全員リコーダーで

ドレミの歌、さらには、運動会で高学年組体操のバックに管弦楽曲を流し、強烈に身体にし

み込ませ、最高の音楽鑑賞の場にすることが出来ました。ホルストの木星に始まり、スター

ウォーズ、三年目には、サンサーンスのオルガンシンフォニーの終楽章。スケートのイナバ

ウアーの先取りでもあった。誰も寝てなんかいられない。身も心も名旋律に浸れる十分間と

なった。

 一番長く、多くの出来事に出会えた三つ目中学校。何よりハイライトは、おんかん第7回

ヨーロッパ、第1回夏ゼミに参加させて戴けたことです。羽田空港で、松本理事長から「本

場の音楽を<本場で味わって今後に生かして下さい」の力強いお言葉をしっかり受け止め、

ウィーン、ザルツブルク等の音楽祭巡り、人生最高の出来事となりました。

 その成果として、会合の後を利用して音楽の場を設定したり、地区での音楽祭仕掛人に

なったり、音楽の街から持ち帰った。

 多くのヒントを生かして今日まで役立てています。ゼミでは村田武雄先生始め多くの方々

と、三泊四日の密着研究。それ以後は、授業の切り口にはっきり変化を自覚。一時間の内

容もすっきりして、音楽の面白さを直接子供らに伝えることが出来るようになりました。

 NHK学校番組も多く取り入れ、担当の渡辺学而先生のソフトな口調と名曲が人気となり、

リクエストコーナーで、自分たちの希望曲が流れた時の輝きとガッツポーズで音楽室がホット

になりました。ここらあたりから待たれる授業が続きほっとしました。

 さらにも小山清茂曲「管弦楽の木挽歌」では、四つの場面こどに、頭に浮かんだ情景を

素描させて、より楽しく内容をとらえさせる等ヒットは続いた。

 また、教育実習生の研究授業で、筝曲を扱ってくれたことから、必要にせまられていた日

本音楽を深めることになり、鑑賞で避けて通りやすい項目の強化につながりました。逆に教

えられることが多くありました。

 ちょうどこの頃、おんかんから、「日本一の聴衆を育てよう」の合い言葉が伝わり、即同

調。それには 自分がそうなることだの使命と心得、年三百六十回コンサートに出かけよう

と志ました。実際は、二百八回でした。

 今74歳になり、週一、年五十回位。でも、これはと決めるものは逃さない、自分流の

主義は貫き、「居なければびわ湖ホール、出かければ歌舞伎座」の意気込みで、一時そ

の気になった評論家気分も抜けていない。今だにJR夜行のお世話になることがあります。

 この春地元校の応援で、選抜大垣日大と帝京の準決勝に、甲子園ライトスタンドに出か

けました。見事初出場の岐阜が、強豪を破りました。高らかに流れた校歌、作曲は、小生

が高校時代ピアノと歌のレッスンに通った恩師、現在も合唱指揮で頑張っていらっしゃる水谷

昌平先生でした。ひとしお懐かしく聞くことが出来ました。外野席のこだわりをもう一つ。

 新幹線のない頃の東京へ月一回、アリゴ・ポーラ先生の家に、ベルカントのレッスンに通

っていました。その岐路時折立ち寄った後楽園のナイター、巨人・阪神熱戦での光景。阪

神ファンが回を追うごと、そっと眺めるスコアボードの右側に、縦長大看板「世界のパイオ

ニアステレオ」がくっきり輝いていました。翌朝もタフで、定時に登校して授業は進めていま

した。

 足掛け4年通って、東京オリンピックの最中に、名古屋で、教職員としては事始めのリサ

イタルを開くことが出来ました。記者から先生歌手と命名。それ以来ずっと欠かすことになく、

公開の場で、独唱は続けています、何よりも健康第一です。

 9月松竹座「蝉しぐれ」拝見。何と時代物のバックにブラームスの弦楽六重奏曲第1番

のニ楽章がふんだんに流れ、他幕では、ラヴェルの死せる乙女のパヴァーヌも効果的に使

われていました。コンサートとは正反対の客層の心をしっかりととらえていました。

 名曲は、何回使われても、その場に十分役立って、しかも、新鮮にせまり涙を誘う。

音楽って凄い力を持っていることをここでも実感出来ました。

 勤めてすぐこんな場面に出くわしていたならば、もっと効果的に授業を進めることが出来て、

大曲の取り扱いに恐れ悩むことは少なかったでしょう。もっと素早く、日本一の聴衆も育てる

近道を知ることが出来たでしょう。

 何しろ、何かと話題を振りまく、宮崎県では、バナナにモーッアルトを聞かせているのだか

ら。でも確実に、街角には音楽があり、イベントでは和太鼓始め、サウンドが流れ、音楽の

都ウィーンや街中モーッアルトのザルツブルクには近づきつつあると思います。

(2007.9.30 著 鬼頭孝夫)

 

歌声 hいきな娘(唄 鬼頭孝夫)

T O P

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