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 ★ 求め続けた真の道  ★ 今こそご法が必要
 ★ 原因はここにあった  ★ 自分が変れば相手も変る
 ★ 人情薄くして、争い絶え間なし  ★ 心次第で何とでもなる
 ★ 幸福な結婚をする秘訣  ★ 教えは人生のエキスである
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 ★ 正しい信仰  ★ 三つの関門
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大切な忘れ物を思い出して

 新規開発の法話会に出席致しましたところ、施主の社長さんが、こんなことをおっしゃるのです。

 「先生、一人息子の大学受験が間近に迫りました。どんな心掛けで進んだら宜しいか教えてやって下さい。」

 初めてお会いする息子さんにこんなお話をしました。

 「近づいた受験に今更無理する必要はありませんが、まず体をこわさぬ様に気をつけて下さい。

 次に大切な事は、亡くなったお爺さんやお婆さんの顔は覚えていなくとも、毎晩寝る前と、朝起きたら仏壇の前で

両手を合わせ、『お爺ちゃん、お婆ちゃんのお陰で学校へ行けます。ありがとうございます。』とお礼を申し、『僕の

受験も近づきましたからお守り下さい』と、真剣にお願いして拝みなさい。必ずお爺さん、お婆さんが守護して下さっ

て念願成就できますよ。」  

と、簡単に申しました。

 次回法話会に参りますと、社長さんと息子さんがニコニコ顔で、

 「先生のお陰さまで無事希望校が合格致しました。息子が先生に話を承ったその日から朝晩真剣にお参りしまし

た。難しい学校でしたが、確かに祖父母のご守護のお陰でした。こんな嬉しいことはありません。」

との報告でした。

 親孝行までは教えられ、気付く人はありますが、孫としてはお爺さんお婆さんの有難味を感謝する事をうっかりし

ますと忘れがちです。

 どんな馬鹿なお爺さんでも、どんな愚痴こぼすお婆さんでも、内孫、外孫の可愛さは、目にいれても痛くないのが

真実でしょう。

 若いお母さんが乳を飲ませながら、成長する我が子に、『坊やの爺ちゃん、婆ちゃんはこんなにあなたを可愛がっ

て、手間をかけてもらったのよ。』と常に教えたら、知らぬうちに祖父母に感謝報恩の情が深くなり、亡くなっていて

も、生きておられても、どんなに喜ばれる事でしょう。逆に孫が、『爺ちゃん死んでしまえ。』と言ったら、老人の悲しみ

は計り知れません。

 方便でもよい、『お婆ちゃんとお風呂に入るとこんなに喜びますわ。』『お爺ちゃんに抱っこしてもらって嬉しそうね』

の一声が、今の時代には欠けているのです。

 敬老の念の厚い家は必ず栄えます。病気の治らぬ時も、経済のうまく行かぬ時も、真剣に親を念じ、祖父母を念

ずるとき不思議と計りしれないご守護がいただけるのであり、信仰無くしては味わえぬ妙味であり、力であります。

 

 

よみがえる教え

 「親の通った道は子が通る、親が黒けりゃ子も黒い

と教えられています様に、よほど徳でもありませんと、親子共々悲しい因縁に落ちてしまいます。

 どんなに科学万能時代となっても、金や学問、権力では因縁を乗り切る事は出来ません。因縁の恐ろしさを知る

と同時に尊い教え(妙法)を学び、少しでも皆さんに喜んでもらう徳(妙法の教えを実行)を積んでこそ、初めて悪業

も良い因縁に変る如何なる悪業の因縁も断ち切る事が出来るのです。

 第一に、怒ってはなりません。

 第ニに、親を尊びなさい。

 第三に、ご法を広める努力をしなさい。

 どんな不幸も必ず好転します。仏の教えには寸分の狂いもありません。よみがえる教えです。

 『因縁と諦めてはならぬ、因縁を乗り切る道に生きよ

 妙法とは、蓮の華の教えであります。泥沼の中に蓮根という根(実行)が張れば、やがい一本の茎が伸び、その

先に極楽の様な花が咲くのが法華経の教えです。

 先祖代々の宗旨はどうであろうとも、法華経精神をもって日々を喜び、相手を生かす人こそ真の仏弟子であります。

 

 

求め続けた真の道

  平和を求め、平和を叫びながら国際間の険悪なる雲行きは、雨をよぶか嵐を巻き起こすか一触即発の危機をは

らみ流動し続けて居ります。

 一方私達の周辺には、毎日の如く暗いニュースの連続であり、我が家庭に一歩踏み入りますと、人にも話せぬ苦

しみにもだえ、その解決すら見出せず泣き悲しんでおられる人の多いのが現実の姿であります。

 世の中には金があれば、権力があれば全てを解決する事が出来ると思う人、学問さえあれば利口な世渡りが出

来ると決め手いる人がありますが、なかなか自分の理想通りに行くものではありません

 ここにおいて仏の知恵を学ばずして解決の道はありません。凡夫の私達は『頼りにならぬものを頼っている』が為、

当てが外れて苦しむのです。

 頼りになるものとは、自ら積む善行の徳であります。徳が人生の骨であり、幸せになる急所であると自覚出来た

ら、こんな力強い事はありません。

 誰もが求め続けた真の道とは徳積みであります。

 

 

今こそご法が必要

 国政をいかに浄化し、司るかと表面体裁の良い看板を掲げてはおりますが、真実は政党分野の闘争であります。

反面同じ党内で行動を共にするべき同志が一触即発の危機、将に時を待たぬ状態であります。

 一方産業界に目を閉じれば、企業の不振は暗たんたるもので、一刻たりとて枕を高くして眠れぬ状態をかもし出し

て居ます。将来日本を背負って立つ青少年の行動は、豊かな物質文明に護られている喜びも忘れ贅沢三昧の生

活に酔いしれた現況は、非行少年、暴走族の激増等、目も覆いたくなる行動となって現われております。

 一般家庭の乱脈ぶりは、殺人あり、銀行強盗あり、交通事故あり、老人の自殺、夫婦の離婚等、毎日の新聞、テ

レビのニュースは、暗い記事で埋め尽くされています。親子は怒り合い、夫婦は不平不満、国政は闘争と汚職の明

け暮れ、誰一人これを治め、静める術もなく、唯時の汚水に押し流されて居るのが偽らざる現況であります。

 今まさに国難の時、誰がこの危機を救うのでしょう。

 幸いにも大乗仏教(法華経)を学ぶ私達一人一人が、教えをもって立ち上がらねばならぬ大きな使命があるので

す。

 個々の力は微々たるものかもしれませんが、妙法行者としての気迫をもって、教えを実行するときであります。

 社会は家庭の延長なり、家庭の円満充実無くして、社会を良くする事も、出来ません。千里の道も一歩から、足元

である親子、夫婦、親戚、知人の和を確立する以外にありません。

 二千六百年前、お釈迦様が将来を洞察されて、幸福に暮らせる薬(ご法)をお残し下さったのが仏教であり、その

中心をなすのが法華経であります。

 宗旨宗派に関係なく、お釈迦様の残された是好良薬(法)を学び実行し、家庭と社会と国を救う重大なる時期が、

今まさに私達に訪れており、ここが修行と自覚するとき、一層の勇気と活力が湧いて来るのであります。

 

 

原因はここにあった

 ある日、中年の婦人がお越しになり、こんなご相談をされました。

 実は夫が一級建築士の資格を持ち、設計事務所も開き毎日忙しい生活をしておりました。

 去年建築現場において脳溢血で倒れ、この世を去ってしまいました。事務の跡を継ぎ、私も二級建築士の資格を

もらっておりますので、女手一つで細々と仕事を続けおりますが、夫亡き後事業のこと、子供の将来のことを考えま

すと、不安でノイローゼになるぐらい、悩んでおります。この先どの様な道を歩んで行くかをご相談に参りました。」

「それは大変ですね、今日あなたに訪れた運命を正しく悟られ、これから申します仏様の道を歩まれれば心配あり

ません。

 ご主人が仕事場で亡くなられたのには、その仕事で非常に怒れたり、どうにもならぬ心配事はありませんでした

か。」

 「ある大きな家の設計をしました。工事が大半完成に近づいたある日発覚したのですが、主人の設計ミスで施主

から大変なお叱りを受け、『折角の家にケチがついた、縁起が悪いから立て直してくれ。』との大問題になりました。

 肝心な柱に切り込みを入れてしまい、ベテラン大工も青写真どおり気づかず工事が進んだのです。平信低頭謝

罪して補強工事もさせてもらい、役所の検査もこれなら大丈夫と認めていただけましたが、どうしても解決できず、

実は亡くなる当日も現場で頭を悩ましていたのです。

 実を申しますと、主人は東北の出身で、頑固な父とは意見が合わず、勘当同然で単身東京へ出て苦学し、一級

建築士の資格を取り今日を築いたのです。」

 「昔から親、親足らずとも子は子の道渡れの格言がありますが、ご主人も利口な人でしたが、大きく人生の設計ミ

スを犯していたのです。頑固な父の職業は何でしたか。」

 「ハイ、父は腕の良い宮大工でした。」

 「ご主人の一級建築士になれたこの腕も能力も、父の宮大工であった血を受けたお陰であった事も忘れ、大切な

父と言う根を切って、自分の力で今日を築かれたと言う慢心が、事業の面で設計ミスとして現われ、最後脳溢血で

命まで絶れたのです。

 病気一つ考えましても、頭の病気の大半は、目上の大切な人とのトラブルが我が身の病気となったり、親の作っ

た罪が可愛い我が子の病気となって現われているのが真実であります。どうにもならぬ事をごてごて言うのは愚痴

であって、すんだ手落ちは心から懺悔し、二度とこの失敗を重ねる事なく、正しい道を歩まれるのがこれからの使

命です。

 あなたとてご主人をうるさく思われ、感謝も足らなかったのでしょう。ましてやご主人と共に勘当された主人の父

を恨み、悪く見て居られたでしょう。」

 「先生、初めて目が覚めました。おっしゃるとおりです。父も恨んでおりました。主人に死なれてその偉大さも今

始めて気が付きました。」

  「良くお気付きになりました。今は黄泉の客となられた父にも夫にも、在りし日を思い出してお詫びし、今なおご

存命の老婆である母に、父に尽くせなかった分を、夫に従えなかった借りを、優しい言葉の一つも便りしなさい。

又わずかの小遣いでも良いから母に送金して親を喜ばす精神が、あなたの今後の運命を変えるでしょう。

 残った一人の息子さんには、夫の血もお爺ちゃんの血も脈々と流れております。お爺ちゃんとご主人は若き息子

の中に生きて居ると考え、我が子を叱らず、たとえ学生であろうとも一人前と認めて尽くしなさい。必ず明るく道が

開いて来ます。」と申したのです。

 暗雲たれ下がり、今にも雨が降りそうであったこの奥さんの煩悩の雲は、教えの縁に触れて、晴れて参りました。

 「本当に有難う御座いました。前途に希望がもてました。これから懸命に教えを学びますから宜しきご指導下さい。」

と喜ばれ、以後熱心に精進されております。

 末法の時代、妙法の教えのある人は、渡りに船を得たるが如く、暗夜に灯明を得たるが如し、力強く希望をもって、

あらゆる難関も乗り切る事が出来るのです。

 楽しんで教えを学んで下さい。これが今日教えを聞き救われた私達の仏恩に対する恩返しであり、何より徳を積

める道であります。

 

 

自分が変れば相手も変わる

 私の何十年前は、赤貧洗うが如き生活が続きました。父を亡くした時、私達家族は間借り生活をしていました。

何の貯えもなく、哀れな生活状態でしたが、心には教えを学び続け、一日のうち何よりの楽しい一時は親子揃って

昼間の出来事や、法話に花を咲かせて語り合う時でした。けれども、

「話声が大きい、静かにせよ!」

と家主に怒鳴られ、小さくなって、声一つ安気に出せず、不運に泣いた事が幾度あったか分かりません。

 それでも有り難い事に、ある日、一戸建ての借家をお借り出来ました。引越しをすませた晩、親子水入らず、大き

な声で話をしても誰からも叱られる事もなく語り合えた喜びは何にも勝る幸福であり、あの喜びは今もって忘れる事

は出来ません。

 師を尊敬し、苦労に耐えた日々を送ったお陰でありました。喜びは苦労の大きさによって生まれるのです。やっと

落ち着き、年老いた母にもやっと安堵の胸を撫で下ろし、『さぁこれから再出発』と勇気百倍したものです。

 しかし、人生はそんな生易しいものではありません。天は私の将来を見通して、宿題を与えたのです。

 「せっかく借りてもらったのですが、こちらの事情で、誠に済みませんが、家を開けていただくか、さもなければ私

達親子をお宅の二階で同居させてもらいたい。ここニ、三ヶ月の間に何とか返事を頂きたい」

との申し出がありました。

 借りて居る立場上、家主の言い分は聞かねばなりません。しかし、長年苦労してやっと落ち着いた母の心境を思

う時、愚痴一つこぼさずに協力してくれればくれるほど母が可哀想で、私達夫婦はつくづく徳のない事が身にしみ

ました。

 先ずは、家に困るのはかって広い田舎の家で喜ぶどころか、どのくらい不足であったか懺悔し、今安心して住む

家のないのは当然である。誰のせいでもない、私達困る者の不徳と悟りました。そして、この様に外から患い事が

起きる今こそ、内である家庭の中で、家族が団結して和を保たなければならぬと気づいたのです。

 家主のご家庭がもめる因縁だから、逆に私の家庭はここで一糸乱れず団結し、徳を積まねばならない。お借り出

きる間だけでも、古い家ではありましたが、柱や廊下を見違えるくらいに磨き上げ、苦しい生活の中にも毎月ご法

座を開かせていただき、一人の人にでもこの尊い教えを流布するお手伝いに、命を懸けて努力したのです。

 子供を叱らぬ様にと、母と妻とは涙ぐましいくらい助け合って愚痴一つこぼさず頑張り続けてくれました。

 手も足も出ない、力のない不徳な私に、無言の応援をしてくれたのです。男の出世の陰には、女が愚痴をこぼさ

ず耐えてくれる力ほど大きな支えはありません。

 自分が変れば相手も変わる、自行化他の教えの如く、奇跡のような事が起きました。

 ある日、家主がこられ、

 「誠に申し訳ありません。今日にでも荷物を持ってお宅の二階へ引越す予定をして居ましたところ、突然親戚の叔

父夫婦が参りまして、年老いた親を捨てることはららぬと大変叱られ、家に止まる事になりました。勝手な事を言い

ますが、このままずっと使って下さい。」とのご返事がいただけたのです。

 その後歳月が流れ、もめるご家庭と円満を保つ家庭とには、運命の一大流動が始まったのです。

 家主のご事情で家を手放される事になり、又、地主は別の人でありましたが、順調に話がまとまり、格安の値段

で買い求める事が出来たのです。どんな苦労が押し寄せようとも、和を保って努力が出来ましたら、これを乗り切る

事が出来るのです。末法の現代に、大乗の教えを実行するご利益は計り知れません。

  各家庭が円満なれば、病気も治り、子供の不出来もなくなり、経済も満たされるので、自然に社会は潤い、国は

栄えるのです。

 国を救い、社会を良くする為には、私達の正しい考え方と実行以外にはありません。

 

 

人情薄くして、争い絶え間なし

 魚は水に住み、鳥は木に住み、人は情けの中に住む

 現代私達の生活には何が欠けて居るのでしょう。経済も楽になった、物にも恵まれている。教育も進んだ、後進国

の人々と比べたら、月とスッポンの差の幸福です。何不自由のないはずの日本国民の私達に、金や学問ではどうに

もならない悲劇が渦巻いているのです。

 この原因はいずこにあるのでしょうか。親子、夫婦、人間関係に情けが欠け、施し心が欠けて居るのであります。

 施しと聞きますと、何か金を出す事の様に誤解をし易いのですが、情けのかけ方なのです。折角情けをかけるの

であれば、『相手の求める物を与える』のが最高の情けであり、施しであります。特に施しが欠けてもめ易いのが家

庭内です

 例えば、毎日炊事をしてもらっている女房に、殿方は食事の時方便でも良いから、『これはおいしい、上手に出来

ているね。』の言葉の施しが一言ありましたら、奥さんはどんなに喜ばれる事でしょう。中には無口の主人ですと、何

年来、美味しいともまずいとも言わず、ただ黙々と食べて居る人がいます。これでは料理を作った奥さんはどんなに

味気のない事でしょう。長い間に食べ物での喜び、感謝の施しが欠けてしまいますので、徳を削ってしまい、老後食

事の出来ない様な病人となってしまうのです。

 小さな子供さんには、握手をして「バイバイ」と、体の施しをすべきです。どんなに子供は喜ぶでしょうか。中学生、

高校生ともなれば、握手や頭を撫でてやりましたら、「馬鹿にするな!」と怒るでしょう。これは相手の求めていない

施しですから駄目なのです。その代わり、お小遣いとして、ラーメン代でもあげれば、「有難う」と言って喜び、親子で

も近親感が湧いて来るでしょう。

 老人なら若い人からの優しい言葉の施しが欲しいのです。

 主人なら、「あなたのお陰で私達の生活出来るのよ。」と、尊敬と信頼の態度を示すのが、何よりも施しとなるはず

です。

 奥さんなら、夫からの優しいいたわりの言葉や、ある時は些細な事でも労をねぎらって、「これで自分の好きな物で

も買いなさい。」と、お金か物の施しは、どんなに嬉しいものでしょう。

 親しい間柄ほど、相手の好みに応じて施し合えば、トラブルは解消するはずです。親しい仲にも礼儀ありの諺は、

親しい仲ほど言葉を以て、知恵を以て、働きを以て、又、財を以て施し合えば、ここに楽しい空気が漂い、協力が生

まれ来るのです。

 

 随分前のことですが、中年のご夫婦が大変お困りで、こんなご相談がありました。

「先生、一人娘が結婚し、今五ヶ月の妊娠中です。先方のご両親と意見が合わず、親の私がいくら嫁の道を説いて

も我がままな娘は耳も傾けず、ただ戻ると言って承知しません。ほとほと困りましたが、良い方法を教えて下さい。」

と、教えを求めて来られましたので、いろいろ今日こうした事の起きる因縁をお話しました。

 このご主人はご養子さんであり、非常に頭も良く、やり手であって、男らしい方でした。しかし、養子先には男の縁

の薄い頑固なお母さんがあり、この二人の中は常に意見が合わず、ある時は家も女房を捨てて飛び出そうと、どれ

ほど考え心の中は不平のルツボだったのです。一方奥さんは、母と夫の板ばさみとなって、毎日毎日面白く無く、夫

婦間も険悪な空気が漂い、母に対しても不満の連続だったのでした。

 こんな時妊娠して生まれたのが、今問題の娘さんなのです。いくら娘としての道理を説いても、説く親の過去の反

省なくしては、意見を聞き入れてくれるはずはありません。初めて己の罪の深さを悟られたこのご両親は、それから

涙ぐましいご努力が始まりました。

 亡き親に対する過去の手落ちの懺悔はもちろん、遠方からではありますが何度も法話を聞きに足を運ばれ、その

都度熱心に指導を受けられ、精進されたのです。

 亡き親に手向ける徳は追善供養の施しと悟られ、生前中何の施しも出来なかった不孝を詫び、精一杯の施しをさ

れました。

 不思議なことにニ、三ヶ月も立ちますと、離婚寸前まで話がもつれて居たのですが、先方様から是非戻って来て欲

しいとの事で、今までのトラブルは水の如く流れ去り、一件落着の答えとなり、現在は三児の母となって夫婦も円満、

娘さんとも仲良く、楽しい家庭が営まれて居るのです。

 私達も真の幸福を求め、荒れ狂う世の中の安心感を求めるのであれば、一回でも多く亡き先祖、親、恩人を思い

起こし、報恩感謝の実行を忘れてはなりません

 

 

心次第で何とでもなる

 江戸きっての大呉服、越後屋(三越の前身)は、創業当時お客に喜ばれるようにと、反物の切り売りを実施したと

聞いています。当時としては画期的商法で、江戸っ子達の間で大評判となったのです。良い品を安く売ることは、今

でも昔でも商売の常識であり、誰しもやって居ることである。それにプラスアルファがなければ、上手な商売とは言え

ない。そのアルファを、越後屋の場合、『お客様に喜ばれる』と言うアイディアに結びつけたが、成功の基となったの

であります。

 私達も日常生活にあって、ともすると、遮二無二働けば金がたまり、幸福になれると考え易いのですが、本当は愚

かな誤りであることを知らねばなりません。

 家を建てるには基礎工事をしっかりするように、人生にも考え方、即ち心使いの基礎を間違えて居ましたら、折角

の努力も水の泡に帰してしまうのです。

 「心一つの置きどころ、楽も苦となり、苦も楽となる

と教えられていますが、何事をなすにも、相手の立場を良く考えて行動すれば、トラブルも無く、罪も作りません

 商人ならまずお客の身になって商売することであり、勤め人であれば、勤め先の上司や主人の意向を汲み取って

働くのが正しい道であります。家庭においては、上に立つ者は下の者の心を汲み、妻なら夫の気持ちをまず考え、嫁

なら姑に従う心こそ幸せの道なのです。

 人を優先に考えていたら、このせち辛い世の中に損するばかりするだろうと考えがちですが、これが幸福への秘訣

であり、仏さまのお考えであります。

 古い話ですが、ホームラン・キングの栄冠を勝ち得た某球団の有名選手が、開幕早々負傷して鮮烈から離れ、ファ

ンをがっかりさせました。やっと傷が治て復帰したと思ったら、又再発、打撃はもちろん、守備の面にも、不安なシー

ズンを過ごさねばならない結果となってしまいました。誰よりも練習に励み、好感のもてる選手でありながら、どこにこ

の怪我の原因があるのでしょうか。仏様の鏡に照らしてみれば、一目瞭然に心使いの間違いが分かります。

 前年の暮れ、契約交渉のおり、珍しくこの球団始まって以来の事ですが、各選手とも大なり小なり給料アップとなり、

全員一致再契約の運びとなりました。球団社長をはじめ、経営者側としては、この円満再契約のムードを以て来期

優勝へのファイトを燃やし、その喜びは新聞記事となって報道もされました。

 しかし、、ここにただ一人、今期の自分の築いた成績に慢心したのか、欲に走ったのか、給料アップに不平を持ち、

折角の全員一致再契約の夢は消え、彼一人が越年交渉となったのです。職業野球ですから、給料の交渉をする権

利は当然ありますが、全員再契約と言う事態に、自己の意見主張の為に最後までゴテた不徳が、今期開幕早々怪

我として我が身に戻り、二年連続も不可能ではなかったホームランテダービーから落伍し、ファンを沸き立たせたあ

の華麗な守備にも亀裂を生ずる結果となってしまいました。この足の故障が野球生命を短くするのではなかろうかと、

心配する報道もされているのです。

 ここに万古不滅の心理である仏の教えを紐解きますと、総ての事に当たり、「時を知れ」「相手を知れ」「己を知れ

」と、私達への道しるべが残されているのです。

 かの選手の場合、「時を知れ」とは何か。古今まれに見る全員一致契約の空気なのですから、多少の不満はあれ

ど、ここは丸呑みにして同調すべきだったのです。

 次に「相手を知れ」とは何か。彼が右するか、左するかで、球団始まって以来なし得る事が出来なかった円満契約

の金字塔が掲げられる球団の栄誉、社長の喜びの心が汲めなかったのが、相手の立場を知らなかったのです。

 次に「を知れ」とは何か。ホームランキングになれ、球団切っての人気者の成れたのも、人一倍の努力と、天才

的運動神経の持ち主であることは、万人認めるところです。しかし、忘れてならぬ大切な事は、今日の栄冠の得られ

たことは、球団あってこそ、球団社長の傘下に居ればこそ、又、絶大なるファンの応援があり、ひいては自分を生み

育ててくれた両親あっての自分であることを知るのが、『己を知る』大切な事であります。

 『実るほど、頭を下げる稲穂かな』 この名言こそ、名選手、立身出世をするエリートの座右の銘とすべきであり、

仏の叫びであります。

 彼も今こそ奪起一番、心の怪我を治療し、今後如何なる事態においても目上の心を汲み、己あるのは周囲の有形

無形のお陰と知り、感謝出来たら、今期の不成績は長い野球生活にはマイナスではない、雨降って地固まり、日本

野球史に名を飾ることが出来ると信じます。

 怪我とは「我が怪しい」と読みますように、自分の考えが怪しかった事を自覚し、今後不平のない喜びに満ちた行

動をしてこそ、すばらしいプレーとなって現われ、彼の人気はますます上昇すると同時に、中心選手である彼のこの

行動が、他の選手の範となって球団への何よりの報恩となるのです。

 報恩の厚き人は栄え、忘恩にくれる人は滅するのです

 

 

幸福な結婚をする秘訣

 ある日、親子で結婚の相談に来られました。お話の内容は、娘さんに好きな彼氏が出来、どうしても、親としては

先を考えると良い返事は出来ず、特に父親が反対をし、困って居られる状態でした。

 しかし、有り難いことに母が最近熱心にご法を聞かれ、わが子の縁談で困り、苦しむのは困る人の罪と悟られ、

自分が嫁いだ過去はどうであったか、心から喜んだ結婚であったか、又、親に心配はかけてなかったかを深く懺悔

されていたのです。

 『一度でいいから先生に、これからの進む道を尋ねてみたらどうか』と勧めますと、今まで率直に聞いてくれなかっ

た娘が母親の懺悔のご利益なのでしょうか、『是非聞かせてもらいたい』と打って変った優しい態度になって、今日

一緒に先生の元に参りましたとのことです。

 仏様は、常に相手の立場になって事を考えるのが、解決の糸口であると教えられます。

 親の反対する恋愛であり、親には聞かれたくないこともあるかも知れない、又、親の前では言いにくい事もあろう

と、娘さんの立場を考え、母親に座を外してもらい、娘さんのお話を聞きました。こちらの心が娘さんの心をほぐした

のか、ニコニコ愛想よく、好感のもてる態度で耳を傾けてくれました。

 私はこんな話から始めました。

 「例えば本物のダイヤモンドであったら、誰が見ても素晴らしいとほめるでしょう。もしもガラス玉の加工品であっ

たら、素人が見れば本物と間違えて素晴らしいと飛びつくかも知れませんが、専門家が見たら、これは本物ではない

から買うのはやめなさいと言うでしょう。

 恋愛も斯くの如く、愛し合う者同士から眺めると、アバタもエクボに見えてしまいます。

 ここで長い人生行路を渡り、苦楽を味わった玄人(即ち親とか目上)の意見を聞く必要があります。もし親が反対

されるようであったら、この恋愛は本物であるか偽物であるかをじっくり吟味しなければなりません。

 ただ親は頑固者だとか、話の分からぬ人と片付け、自由気ままな行動に出ることは大きな誤りのもとになりますよ。

どんな親でも、親の目から見て本当に良い話であり、娘が幸せになることであれば、全力で応援してやりたいのが、

偽らざる気持ちなのです。

 結婚とて同じことで、表面は良さそうに見えても、相手の中味はなかなか分かるものではありません。見合い結婚

の場合でも、普通聞き合わせをするでしょう。しかし、どんなに尋ねてみましても、とても本当の事は分からないので

す。お隣から昨晩何かをもらった家へ行って聞けば、『あそこの娘さんは良い人ですよ』と言うでしょう。逆に喧嘩した

直後の相手の家で尋ねましたら、きっと、『お隣はひどい人ですよ』と言われるでしょう。どちらを信じていいのか分か

りません。

 本当は、自分をしっかり聞き合わせすれば良いのです。家庭は円満か、仕事は喜んでやっているのか、お金の浪

費はしていないか等を尋ねてみる必要があります

 昔から、似た者夫婦、似たり寄ったり、向こう三軒両隣と言って、良く似た者がよって来るのです。

 五点の女に五点の男が一緒になってゴテンゴテンするのです。

 万一五点同志であると気づいたら、いち早く自ら努力して、十点の人間になることです。

 現代思想の狂いは、権利の主張ばかりして、義務の遂行が出来ていないことが多いのです。娘さんでも、独身時

代に父を尊敬し、父に孝養の出来た人は、誰と結婚しましても夫に喜べ、経済に恵まれ、我が男の子で必ず喜べる

のです

 そして結婚前母と仲良く、母を労わり、母の手助けの出来た娘さんは、どんな姑さんの所へ嫁入りしましても、こち

らに徳が積んでありますので、必ず家庭円満の生活に恵まれます

 反対に娘時代身分不相応な我がままな生活、贅沢な生活をして、手足を十分延ばした人は、結婚を境にして、夫

で苦しみ、姑に押さえられ、経済に行き詰まり、手も足も出せないような生活になってしまうのです。

 これは高校生、大学生にも当てはまります。学生時代に学生の枠を外れた横着がしてありますと、就職してから、

精神的に苦しみの壁にぶつかり、何ともならぬ時を迎えるものです。

 適齢期をともなった娘であったら、町内を歩くにも頭を低くご挨拶が出来て当然です。女子大を卒業しても、家族の

者に挨拶も出来ず、化粧だけは女優の如く、服装は人形のように飾っても、中味の人間性が出来ていなければ、美

人とて女としては落第です。

 女として、まず掃除、洗濯、炊事が出来ぬようでは、本当の幸福はつかめませんよ。

 私はピアノが弾けます学歴がありますとうぬぼれても、この美しい心と奥ゆかしさが築いていない限り、女性として

本物ではありません。偽物の女では、早晩バケの皮が剥がれて人から軽蔑され、自ら落ちてしまいます。ガメツイ女

に力のない男がワンセットとなっているのです。」

 数々の女の道を話します内に、恋愛に燃えて親の意見に耳を傾けなかった娘さんも、初めて自分の今日までの生

活が偽物であったと気づかれたのでしょう。

「先生、今お話を聞きますと何一つ出来ておりません。日曜のたびのデートする事意外考えておりませんでした。お

恥ずかしい次第です。結婚に今ゴールインする資格がない事がわかりました。これから自分の生活をやり替えたい

と思います。」

「それは良いことに気づかれましたね。今燃え上がっている恋愛はそっとしばらく棚の上に置いて、一生懸命娘とし

てやらねばならぬ道を努力しなさい。この実行さえ出来れば親は必ず認めてくれますよ。

 どうせ結婚するなら、家族から惜しがられる様な貴重品となりなさい。あの娘には困ったものだと思われて嫁に行

くようでは不良品ですから、結婚してもやがて不良品として戻されて来るのが世の常です。 きっと立派な結婚が出来

ますから、今こそ自分を磨いて人生の基礎を作ることです。」

 この娘さんの心に明るさと、やらねばならぬ勇気が湧き出たのでしょう。「頑張って実行します。」と喜んでお帰りに

なりました。

 

 

教えは人生のエキスである

 ある日、中小企業の社長さんが来教され、こんな相談をされました。

「先生、私の会社は商事会社で小売店も経営しています。日曜日になりますと沢山のお客様があり、有り難いことで

すが反面万引きがあって困ります。これを防止する方法はありませんか。」

わたしはこんなお答えをしました。

「世の中は八分の利口に二分の馬鹿と申しまして、二分ぐらいは製品を作ってもロスが出来ますよ。

 あなたは来るお客に全部の商品を買ってもらおうと思いますから苦しむのてす。

 お客様が全部万引きではありません。別段万引きを養成するものではありませんが、悪い面に執らわれず、少額

でも買って下さるお客様を喜び、全力を良い面に投入することです。

 社長さん自ら悪い目でお客様を見ると、従業員までお客様の顔を見ると万引きではないかと眺めるようになります

よ。上乱れれば下乱れるの因縁となってしまいます。人を見る目を変える、これが万引き防止の方法です。」

と申しました。

 半月程過ぎて社長さんが来られ

「先生不思議な事が起き、今日は嬉しいご報告に参りました。

 先日お話を承ってつくづく自分の心の狭さを恥じ、従業員に自分の心使いの悪かったことを反省し、これからは

一人や二人の万引きなんか気にせず、買ってもらえるお客様に全力でサービスするように』と訓示をしました。

 先生どうでしょう。今まで苦虫をかみしめたような顔で店番をしていた女店員が、安気になったのでしょうか、すっ

かりにこやかな顔となって店が急に明るくなりました。するとどうでしょう。あれ以来すっかり万引きはなくなりました。

先生の話には魅力があり、仏教の教えの偉大さに驚きました。」と大変な喜びでした。

 二ヶ月程たって起こしになり、

「先生忙しい毎日でなかなかお目にかかれませんが、やはり話を聞きませんと煩悩が起きていけませんね。

 特に私の父も先生のご法話を聞かせていただき大変喜んでおります。私は商売が忙しいのでなかなか聞かせて

頂く機会がありませんが、父は年寄りでこれはといった仕事もありませんので、少しは聞けば良いのに足を運ばず

困ったものです。」

「社長さん、最初に話を聞いた者が足を運ばずして、後の者がどうして聞くでしょう。教えは暇だから、時間がある

から聞けるというものではありません。忙しい中、時間を作り出し、身を削っての精進があって初めて法が身に染み

込むものです。」

「先生、私の考えが間違っていたのですね。実は子供が小児ゼンソクで困っております。」

「ゼンソクはゼニ不足の心使いが原因です。

 お金のあるなしに拘わらず、金の出る時入る時、ゼーゼー、ヒュウヒュウと不足をこぼしておりますとこの様な病

気になります。大人が病む時は自分の考え違いであり、十五才までの子供の病む時は親の心使いの間違いから

大半は起きて来ます。」

「そう言われますと、確かに毎日お金の事で不足こそ言いませんが喜んでいません。私達夫婦が反省せねばなり

ませんね。

 次に商売の件ですが、経費ばかりかさみ、全くやりにくいのですが何か良い方法はありませんか。」

「簡単なことですが、五百万経費がいれば一千万儲ければ良いのです。がめつく儲けようとするのが素人であっ

て、仏様のおっしゃるお金儲けの方法は施しの種を蒔くことです 。

 あるお店ですが、母子で父亡き後一生懸命努力されています。頭も低く、上品で町の一等地に店がありながら

、従業員一人も増えず発展もしておりません。

 又ある一軒の店は、前者と同じで二世が社長となって営業しておられますが、発展に発展を続け、従業員も何

十人と使い、工場も持ち、加工屋さんも何十軒とかかえて、その地方のは業界ではトップクラスの隆盛です。

 どこにこの大きな差があるかと実態を調べますと、原因があるのです。前者の店は盆や正月にはタオルの一本

やカレンダーの一組のに施しはありますが、取引の金額が案外大きい割りに、お客様へのサービスの値引きは

ありません

 後者も同じく大きな取引をされていますが、お客様の新築とか開店とか、事あるごとに、もらった方がびっくりす

る程の施しをどんどんされるのです

 出して損するように表面は思えますが、施しの種は何倍にでもなって戻って来るものです。これが後者の店の栄

える要因です。」

 続いてこんな体験をお話しました。

 「ある八百屋さんが細々と小売を営んでおられました。常々教えを聞いておられるのでこんな指導をしておりまし

た。

 沢山買って下さるお客様も大切ですが、特に少額のお客様を大切にしなさい。その上、子連れで見えますお客

様には、たとえ儲けが少なくとも串飴の一本でも子供さんにサービスしなさいと、常に申しており又実行しておら

れました。」

 ある日この八百屋の奥さんが深刻な相談をされるのです。最近店の近くにスーパーが出来まして、お客は私の

店を素通りして皆スーパーに行ってしまい、もう店をたたむ以外にありませんとの悲観の相談でした。

 「奥さん心配ありません。一時的に客は逃げた様に見えますが平素あなたの店はお客様を大切にし、子供さん

には串飴の一本でも施してありますから大丈夫、客は戻って来ますから、今しばらく愚痴をこぼさず、一人のお客

様でも喜んで迎えて時を待ちなさい。」

 と元気づけていたのです。

 半月もしますと、明るい顔で奥さんが来られも喜んでお礼を言われるのです。

「先生のおっしゃる通り、最近は前よりお客様が増えて参りました。

 あるときも常連のお客様がお子さんの手を引いてスーパーへと私の店を素通りされたのです。やるせない思い

でその人の後ろ姿を眺め、資本力の無い情けさと店舗の小さいことに悲しみ泣いておりました。ところが素通りし

たお客様がこんな事を言って私の店へ舞い戻って来て下さったのです。

『スーパーの入り口まで行きますと、この子が大声張り上げて、お母ちゃん、八百屋のおばちゃんの店に行こう。

八百屋のおばちゃんはいつも僕に串飴くれるけど、このスーパーは何にもくれないからいやだ。と子供が承知し

ませんのでごめんなさいね、これからはあなたの店で買いますからね。』と言って、私の店では大切なお客様にな

って頂きました。施し心ある人は富者なりと先生に教えて頂いた意味がつくづく分かり、一時はどうなるかと心配

しましたが、今日この頃は同業者が増えましたも動揺する事なく、自信をもって店をやっています。お陰さまで売上

もどんどん増えて参りました。

 教えには寸分の狂いも無く、先生のお言葉は仏様のお声と信じて今後も施し強く頑張ります。」

と、大変なお喜びでした。

「社長さんこれが儲ける秘訣ですよ。商売ばかりでなく、個々の家庭でも同じ事が言えます。

 与える人は長者であり、欲しいの心は乞食なのです。昔から好きな物で身を滅ぼすと教えられておりますが、

お金の好きな人はお金で身を滅ぼし、酒好きな人は酒で身を滅ぼし、甘い物の好きな人は甘い物で病気になって

身を滅ぼします。

 これは皆自分中心の考えで貪って徳を削ってしまうのです。

 自分の好きな物を人に与えてこそ、わが身の滅びるのを防ぐことが出来るのです。まして人の為に尽くし、こと仏

法流布の為に尽くす功徳は、求めなくとも計り知れない徳となって自身に戻ってくるのです。

 種を蒔かずして実りはありません。これが世渡りのコツ、幸福への近道であります。」

とお話しました。大変喜ばれた社長さんが、意気揚々と何か前途が開けたようです。「先生の処へはこれから再三

お尋ねしますから、どうか宜しく」とお帰りになりました。

 

 

物から心の時代へ

 時代は「物から心の時代」に移り変っています。日本も戦後の艱難辛苦(かんなんしんく)を乗り越え、物質的にも経

済的にも最高に恵まれ、昔を思えば極楽の生活をしています。

 しかし、この幸せになれた今日、心底から満足感を味わっている人が果たして何人いるでしょう。政治家も企業家

も、国民一人ひとりも満点の生活の中に一抹の空しさを感じ、将来の不安にも心の動揺を隠し切れぬのが真実で

はないでしょうか。

 物質文明をあこがれた時代から、いよいよ心の時代に移って来たことに私たち国民は今こそ目覚めればなりませ

ん。

 物に恵まれ、経済が豊かになった今日こそ、国民一人ひとりが正しい考え方、心の持ち方を学ばぬ限り、国の前

途の安泰は勿論、国民の真の安心は得られません

 現代社会において、真の商道を歩み続けている商人、商社が少ないがために国際間でも国内においても相次ぐ

倒産や大企業と言えども社運に大きな危機をもたらしているのです。

 一言で言えることは「儲け過ぎ」が行き詰まりを生じているのです。

 業績を伸ばし、利益を得るために形振り(なりふり)構わず活動し勤勉努力しただけで、人生は決して豊かになるも

のではありません

 たくさん儲けたら、たくさん国家、社会、親兄弟のために吐き出せば企業内容は充実し、個人の生活も安泰なの

です。

 智慧は無くても、商才に長けていなくても、この真実の道こそ大自然の法則であり、この鉄則に従って日々努力

すれば何の心配もにないはずです。

 こんなやさしい原理がなぜ実行できないか?

 それは自分が可愛いという欲が妨害してしまうのです。自分の力に応じて収入の何割かは生活を切り詰めてで

も、お世話になった親にご恩返しの還元をし、力があり財があれば、国家社会あるいは善行に還元し、施しするの

が人として幸せに生きる秘訣であります。

 

 

師匠

 一休和尚が結婚式のお祝いの言葉として「親が死に、子が死に、孫が死ぬ」と色紙に書いて贈りました。

 お祝いの席上縁起でもない「死ぬ、死ぬ」とは何事か。一休和尚ともあろう方が常識外れであると客人の一人が

問い質すと、一休和尚が笑顔で応えました。

 「こんなめでたい言葉はない。世の中に親、子、孫と順番に死ねる家庭が何軒あるか考えて見なさい。よほど徳

のある家意外は、逆事が起きて泣き悲しむではないか、常日頃ももめごとが多く、怒り争いあって和が欠ける家庭

に逆事の悲劇が起きるのである。だから今日のめでたい結婚式に、あえて新婚夫婦の将来のため、この言葉をは

なむけに贈るのである」と説明され、なるほどと一同うなずいたのです。

 栄えるご家庭は、この真理に叶った生活ができているのです。

 昔から「親しき仲にも礼儀あり」と言います。礼儀を保つとは、何も「三つ指突いて挨拶せよ」ということではありま

せん。「親しき間柄こそ、ちよっと遠慮しなさい」との深い意味があるのです。親子だから、夫婦、兄弟だからといっ

て、言いたい事を腹いっぱい言ってごらんなさい、どんな家庭でも、職場でも、最後取り返しの付かぬ事態を生じて

しまいます。どちらかが一歩下って遠慮いするからこそ、話し合いが出来、事が円満解決するのです。

 大乗仏教の偉大さ、特に法華経の素晴らしさは「生きた人間同士の世渡りの方法、真理」を教えているのであり

ます。

 しかし、その尊い真理の教えを学ぶには、師匠が必要です。

 師匠なき信仰は、ハンドルなき自動車に乗っているのと同じで、一旦緩急あるときには進む道もわからずに迷い

苦しみ、心は我流の道を突っ走って取り返しの付かぬ泥沼に入ってしまいます。ここにおいて仏教では「篤く三宝を

敬え」と教えられています。三宝とは<,仏・法・僧>のことです。

 とは宇宙の真理であり尊いものですが、法すなわち経典とか聖書がなかったら真理も解りません。または如

何に尊くても、法を解りやすく指導してもらえる師がなかったら、実生活には役立ちません。

 伝教大師は「三十年かかっても良き師を選べ」と申されました。自分の私生活を整え、常に向上心をもって努力し

ている人は、必ず立派な師と縁を結ぶことが出来るのです

 

 

心のきずな、人は情けの中に住む

 「製品の悪いのは製造元の責任

 「親の通った道は子が通る

 「子供は親の心の鏡なり

 この真実が理解出来、親自身の姿勢を訂正した時、子供のすべての問題は解決するのです。

 お金や物を与えていれば子供は無事成長すると、物質中心主義、金銭至上主義の育て方はしていないか。

 古今を通じ「人は情けの中に住む」のてあって、物や金は幸せになる方便であり、真実は愛情である。

 自動販売機のうどんがうまいか、屋台店で「いらっしゃい」と一声掛けてくれるうどんがうまいか。後者には、

にじみ出る人情があふれている。

 例えば、子供の遠足や修学旅行の弁当を「お母さんはパートで忙しいから、弁当はコンビニで買って行きなさい。

お金はここにあるから」こんな答えが母から帰ってきたら子供はなんと考えるだろう。反発することも出来ず、黙って

買って行く弁当は、見た目きれいで美味しくとも、母の愛情はひとかけらもない。また、日常生活において、爺さん

婆さんと意見が合わぬと何日も物を言わず、挙句に子供を置いてポイと家を出て、心の憂さを晴らす行動をするの

が当然と考える母があるとすれば、子供から見たわがままな母としか思えない。子供の教育、家庭作りは妻だけで

はなく、夫にも責任がある。  会社が面白くない、上司が気に入らぬと言って愚痴をこぼし酒を飲み、妻と口論する。

肝心なことはだんまりを決めて知らぬ顔では父としての魅力はゼロである。家庭においてよく耐え忍び明るく振舞う

母、今日の仕事に精一杯汗を流し努力する父の姿こそ、子供に生きる力、勇気を与えるのである

 欲に走って老人を見捨てぬよう、欲に走って恩人に対する感謝を忘れぬよう、根が切れた草木は早晩枯れます。

 そして、常に積善の施しを忘れぬよう、命懸けで今日一日を前進しようとする親あってこそ始めて青少年が伸び伸

びと育ち行くのである。この努力こそ青少年の非行防止、自殺防止の特効薬である。  

 

 

相手の立場に立って

 難しく物事を考えるのは、頭の悪い証拠である。料理にしてもあっさりした塩味には、くどさがなく、すっきり後味が

良い。書にしても簡単な縦棒横棒が大切であって、画数の多い字は難しいように思えるが、実は縦棒横棒の組み合

わせである。人生には子供の問題、経済の問題等ずいぶん複雑きまわりない事が私達日常生活の周辺にうず巻き、

この処置にある時は苦しみ、ある時は泣き、またある時は自分の生き甲斐すら無くする人がいる。

 このような苦しみを乗り越えるものの考え方は、いかなる事があっても、すっきりさっぱりあっさりした心境を作らね

ばならぬ。日常生活に起きるすべての事件の解決方法は、自分の立場から考えたのでは完全ではない。常に相手

の立場に立って物事を考える事が最善の方法である。

 例えば夏休み。親の立場から考えれば、来春の受験を目指して、この夏こそ全力投球で勉強して欲しいと思う。そ

れは親の見解で、それで子供は反発する。相手である子供の立場から考えれば、夏休みは「夏は休め」といって、

のびのびと何の束縛も無く自由な夏であるから、あるときは朝寝もしたい。ある時は水遊びもしたい。これが子供の

気持ちである。

 そこで「受験も近づいているし、宿題も多く出ているから、眠かろうが少し頑張ってくれないだろうか」という指示で

あれば、どんな子でも、自分の気持ちを汲んでくれた親の言葉であるから、自覚をした行動をするのである。

 道楽者や酒飲みの主人、息子を持つ親や妻から考えて、そんなに酒を飲めば体を痛めるし、信用がなくなり自滅

するであろうと、この観念で忠告したり意見を言ってもまず通らない。酒飲みであれば「お酒は朝から飲みたかろう。

道楽がしたかろう。しかし、子供もいて家庭の事情でこれ以上続くと家はどうにもならぬから少しお控え願えないか」

と謙虚な気持ちで夫に語り、息子に話す妻や親があるとしたら、相手はいつとはなしに更正してくれるのである。仏

の教えには「相手の立場になれ、相手を尊べ」と常に教えられるが、これこそ人生の難問題解決の近道である。

しかし、凡夫の我々は頭で解っていてもなかなか行動に移せない。だから常に良縁、仏縁にふれる努力をする間に

実行できるのである。

 朱に交われば赤くなるたとえの如く、常に努力して良き教えの縁に近づき思想を向上せねばならぬ。

 

 

ご供養の偉大さ

 信仰を始めますと、何宗を問わず、先祖供養とか水子供養、商売供養等あらゆる角度から布施を勧めております。

 供養の本当の意味と功徳の尊さが分かりませんと、浅はかな考え方から宗教は金取りであると思い込み、尊い仏

の教えに対して批判や悪口を言う人も出て来るのです。

 また、せっかく信仰をしながらも、いつ金を取られるかわからないと、おっかなびっくりの逃げ腰で教えを聞いている

人もあります。

 数多くの宗教の中には法も教えも説かず、ただ迷う者の弱点をついてさも本当らしく過去の欠点のみ指摘し、生き

る道も伝えずお金を取るインチキ宗教も確かに一部にはあります。しかし、一部の宗教のみを見て善なる宗教まで

金取りと見るには大きな間違いです。

 供養とはいかなる意味か、分かりやすくご説明しましょう。例えば、高価なビールをたくさん飲めば腹が張り、トイレ

で出して体調を整えるでしょう。その逆にせっかく飲んだビールだからもったいないと出すことをしなかっら、腹はパン

くするでしょう。

 人生も同様に、地位が出来、財産が増えれば増える程、その財産を人のために使うことをしなければ、財が頂点に

まで蓄積された頃、財では解決できぬ問題が出てくるのです。期待をかけた子供がどうにもならない、あるいは、なく

てはならぬ大切な人を亡くす。または医学では治らぬ病人を抱えるとか、家庭の和が欠けてもめ続け等、これらは

が家に徳が切れた姿です。長者の万灯、貧者の一灯の言葉の如く、長者は長者らしく、貧者は貧者の身分から徳は

積まねばなりません。どんなに理屈がわかっていても、種を蒔かぬ限り芽は出ず、実は稔りません。一番尊い施しは

仏事に供養することです。経典に「篤く三宝を敬い、普く衆生に施し」とあります。

 三宝とは「仏、法、僧」であります。仏と法と僧に徳積みをしたうえに、家族や社会に施しをするのが正しい順番です

 

 

正しい生き方

 人には誰にもうぬぼれ心があります。このうぬぼれ心が思わぬ失敗を招き、人生に行き詰まりを生じ易いのです

  自分は正直で何一つ悪いことはしていないのに思うようにならないと嘆く人、また年と共に淋しい孤独の生活に

落ち、世の中の矛盾に腹を立て、挙げ句の果ては病気となって経済に行き詰まり、生きる気力から無くし、ただ日暮

れ腹へりの生活に陥っている人が案外多いのです。

 その原因は人間としてこの世に生まれてきた目的を正しく知っていないからである。人間として生まれてきた目的

は「自分の魂を磨くため」であり、自ら磨く努力をしなければ誰かが磨き役になる。

 どんな幼稚なことでも、信頼出きる人に聞いて進め

 もし人から言われて腹が立ち、不平不満が充満するのであれば、自分は正しいと言う自惚れ心。すなわち慢心の

姿であります。仏様の眼から眺められれば、みな修行未熟で満点の人は一人もありません。

 この真理が理解出来れば、甘んじて人からの忠告、嫌がらせを受け付けるか、一歩前進して常に自分を磨く努力

が出来るはずであります。老若男女を問わず、死ぬまでに何をするのが人間としての使命なのかを知っている人が

以外に少ないのです。その使命とは「徳を積む」ことであります。若き時か、中年か、老年において人は一度は目覚

めねばなりません。

 、聞いて、考えて、行なう(聞思修)。これが修行の基礎であり、人生の安全運転のコツである。

 

 

妙法は人間改造の教え

 妙法とは妙なる法であり、人間としてよみがえる教えです。人生も「日に新しく、日に新しく」の心構えを持って生活

に改善、改造を加えない限り、平和な家庭も魅力を失ってしまいます。

 正月を迎え「今年こそは」の新年で誰もが新しい年を迎えます。「新年おめでとうございます」とは、「新しい年に新し

い芽を出しとうございます」という意味です。日常生活に大きな改造は出来なくとも、せめて小さな改造をしたら、どれ

ほど活気が湧き正気がみなぎることでしょう。

 運命は自分が作り出すものです。細かい小さなことが出来ずに大きな欲望を抱いても、所詮夢と消えてしまうので

す。人生の喜びは、人を生かした時に生じるのであり日常生活の中の小さな善行、進歩の積み重ねが徳となって、

金や物には替えられない幸福が得られるのです

 真生会は人間改造の教えとその方法をどなたにも納得の出来るよう親切に導き、人生の道しるべとして自信を持っ

てお伝えしております。一人でも多くの人にこの教えをお伝え下さる努力が菩薩行であり、仏様へのご恩返しなので

す。

 

 

徳人になる

 苦労なくして悟りは開けません。法華経は「抜苦与楽(苦を抜いた後に楽が与えられる)の教え」とあります。わか

り易く申しますと、九(苦)を通らないで十(充)にはならないことです。人間である限り、大なり小なり苦のない人は

一人もありません。この苦を乗り超える方法は唯一つ、苦しみの中から喜びを見出してこそ、初めて幸せが生まれ

て来ることを知らねばなりません

 喜びを見出す方法は、自分の徳分、即ち過去の善行の実績を知って、現在の自分よりちょっと下を見れば、まだ

まだ守られていることに気付くはずです。この時、初めて自分の周囲には喜びが充満していると自覚が出来、今ま

での不足不満の生活が切り替えられ、直ちに運命は好転し始めるのです。

 あなた任せで幸せがつかめるものではありません徳の積める生活が出来ておれば、幸福は舞い込んで来るの

です。言い換えれば徳人になることです。徳さえあれば人困ることは何一つありません

 

 

言葉にのしをつけて

 お中元や贈り物の品に、のし紙をつけて送るのが礼儀です。家庭においても職場においても「頼みます。すいませ

ん。ありがとう」と言葉にのしをつけるのが、家庭円満、商売繁盛の秘訣です。

 人間関係がなぜうまく行かないのか。それは、真実を言い過ぎるのが原因です。

 親しい間柄ほど、方便(相手を喜ばす方法)を上手に使うのが、和合への近道なのです。

 短い紐でも、つなぎあわせれば荷造り紐として仕えます。日時生活において、小さな善でも積み重ねれば、やがて

大きな力となります。

 「小さなありがとう」の積み重ねが、大きな幸せを生み出すのです

 

 

宝くじの一等賞を当てる方法

 「空くじを先に全部引けば、誰でも最高の一等賞は当たる」こんな易しい真理ができないため、苦しみ抜いている

のが凡夫です。

 酷寒肌をさす冬があって、次に花咲き鳥歌う春を迎えます。酷暑のうだるような真夏を乗り越えた後に、実りの秋

が訪れます。

 人生も斯くの如く、若き時代に今の苦境を耐え忍ぶ努力をしたならば、誰彼の差別なく、中年に人生の春を迎え、

実りの秋が訪れるのが当然です。

 この真理にいつ目覚めるかが問題です。聞いてみればなるほどと理解が出来ます。どうせ信仰するなら良き指

導者を得れば一目瞭然、道は開けてくるのです。分の悪いくじを引き、常に徳を積む事(人を喜ばせること)を主眼

にした生活を続ける事が安心の出来る近道であります。

 理屈家は、そんなことは分かっているが金が無い者が金を良田に蒔けるかと言われるでしょうが、これが欲の間

違いで、魂の良い人は無ければ無い中から、貧者の一灯でも捧げるその心が、長者の万灯に匹敵する力となる

のです。

 

 

情熱を燃やせ

 正しい目標に向かう情熱は、人を動かし自分の運命を変えるのです。人生奈落の底から這い上がり成功した人、

生死をさ迷い続け大病を克服した人、皆強い精神力と苦難にぶつかった時の気魄が、今日の基礎となっているの

です。

 病人なら必ず治るのだ、治ったら親の為に生き抜くのだと。看護人ならもう一度良くなってもらいたい、私の真心

で治ってもらうのだとの情熱があれば病気など必ず吹っ飛んでしまいます。昔から申します通り「病気は気から」で

す。

 事業でも、お勤めでも、他人の仕事が良く見えたり、他店の商売がうらやましく見えている間は、儲け出す事も立

派に勤めることもできません。

 なぜならば、心には不足が充満して喜びの活力が欠けているからです。どんな非行に走る子供であっても、親が

「今に良くなる」「もともと悪い子でないから」と、わが子を信頼し、たゆまぬ愛情をもって眺め、応援を続ければ改心

しないはずはありません。

 誰かが、仏さまのご精神である「広大無辺」なる慈悲を持って愛情を注いだら、閉じこもった頑なな心にもほのぼ

のとした気力と情熱がきっと湧いて来るでしょう。

 

 

真実の教え

 仏教は私たちの日常生活に欠くことの出来ない心のエキスであり、形式の浅い教えではありません。真の正しい

仏教が理解できましたら、人生に生きがいが生まれてくるのです。

 日常の仏事にも深い意味があるのです。仏花を捧げるのは「私は花のような美しい心で相手様の感じの良いお

付き合いを致します」という誓いをお供えするのです。線香は「自分の身は灰になっても皆様に良き香りを与えます」

おりんをたたくのは「どんなに批判され、叩かれても、怒らず愚痴らずひねくれず、たたかれるたびに良き返事をし、

良き音色を出します」お水をお供えするのは「水は方円の器に従うように、どんな相手にも合わせます」お仏飯をお

供えするのも「白米の如く、くもりの無い真っ白な心でお互いに盛り立て団結し、菩薩の心で頑張ります」と仏さまに

誓い、故人にご報告するのが真実の祈願であり、お参りであります。この意味もわからず、笑顔を忘れ、不機嫌な

返事をし、人を批判し、愚痴をこぼし、人を悪く見る醜い心で形だけでのお給仕をしても意味はありません。

 神仏道を説いても拝んでもわが行いにせずば甲斐なし  仏様の教えを日常生活に実行して、初めて神や仏に守

護されるのです。

 

 

ニ十年先を見据えて

 ニ十年先の日本、ニ十年先の我が家を考える時、胸を張って必ず現在より日本は発展し、我が家は栄えますと

断言出来る人が何人いるでしょうか。

 経典に「未来を知らんと欲せば現在を知れ」と記されています。現在の考え方がみらいのにつながると知る時、

どのような考え方をもって日々働き、暮らしているかが問題です。「社会は家庭の延長なり」社会が悪いと論ずる前

に、本当はわが家庭の親子兄弟の生きた人間の生活が悪いことに気付かぬ限り、社会も国も決して良くはならない

のです。

相手の考えを変えようと必死に思えば思うほど、わが意の如くならず、あげくの果ては相手を批判し、一日たりとも

安心の出来る日はありません。経典には「自行化他」の自らの行を持って他を化けと教えられますが、これ以外に

平和の確立はありません。相手を批判し、欠点を指摘し、相手の根性を改めさせられるほどの徳人が果たして何

人あるでしょうか。この真実がわかれば、先ず襟を正して自分を改め、私生活を改善する以外に家庭を浄化し、社

会を明るくすることは出来ないのです。親が目覚め、喜びの実績を積み重ねておけば、現在十代の中高校生がニ

十年後若鮎の如く活躍するでしょう。

 

 

無理をしないで無理をして

 病気をしたり年をとったら。無理をしたらいけないと考えるのは当然の常識である。しかし、仏様の考えは私たち

凡夫の逆である。年をとったらと言って、引っ込み思案で明るさに欠け、愚痴が多くなり始めたら、家族からも見放

され、人からも嫌われ、心も身体も老化して生き甲斐を見失ってしまう。病気をしたからといって、医者と薬ばかりを

頼りにして、身体を使わずに食べてばかりいたら、気力は衰え、よい発想も浮かばず「ただ生きている」という人間

になってしまう。

 幸せを呼び込むのは他人任せではいけない。真理に添って自分を開拓する自力を出すことが大切である。

どのような環境にあっても、

○ 良縁(仏縁)には無理をしても近づくこと。

○ 良い事には無理をしても汗を流すこと。

○ 良い事には無理をしても施しの種を蒔くこと。

今は苦しくとも、善なる種を蒔くから徳が身に付き、病人なら全快するでしょう。老人なら若さがにじみ出るでしょう。

経済苦の人なら、貧者の一灯でも捧げる徳積みの精進が必ず楽になるでしょう。こんなことは誰でもわかってい

るはずですが、なぜ勇敢に出来ないのか?

 それは欲が邪魔しているからです。「諸々の苦しみは貪欲が本なり」と仏教では教えています。欲を少なくすれば

苦はなくなるのです。

 

 

厳父・慈母

 厳父とは頑固でわからず屋の父のことではない。正しい世渡りの道を教えてくれる父のことである。最近の父は

幻父(jまぼろしの父)が多い。ただ黙々と働き、金儲けに懸命であって、大切な事もすべて妻任せから就職から結

婚に到るまで我感知せずの父親が多く、こんな幻の父は子供からも妻からも尊敬されず、老後は粗大ゴミ扱いさ

れているような父では、子供は立派に育ちません。

 任された妻は、慈悲深く優しさがあれば慈母として奥ゆかしい存在でありますが、頼りない夫に満足がいかず、

ただ家庭内でやかましい母であったら、子供の成長に赤信号がともって当然と思います。

 昔から自信、雷、家事、親父と言いますが、ただ親父は何者より怖いものと言う浅い意味ではありません。

地震(自信)  仕事に生活に自信を持つこと

(かみなり) 神仏に威厳があるように父親らしい威厳を保つ事

火事(家事)  一家の総て大事な事を正しく指導し、目配りすること

 この三つを備える父親は子供から妻から眺めて頼もしい魅力があり、尊敬できる父親である。子供の難問題は

親夫婦の考え方、姿勢が原因であります。

 

 

支えられたり、支えたりが人生

 人を育てることほど、むずかしいことはない。逆に人を育てるほど、楽しいことはない。

 『人』という字を分析してみましょう。

 「ノ」「乀」では字になりません。それぞれが支え合うから「人」となるのです。

 上に立つ者は、常に下の者の支えがあって今の自分があると考えるのが正しい。とかく部下の未熟さ、欠点に

執われると、いらいらしたり、注意や指導をする心に怒りが充満するものである。

 すでにこの時、上司といえども怒った方が勝負は負けであり、病気で言えば、胃が悪くなったり、手足に不自由

を覚えるようになる。

 逆に下の者は、未熟な自分も上の引き立てがあってこそ、今の活躍があると考えるのが正しい。されど、上司

から注意や指導をされた時、むくれたり、よい返事が出来ないのであれば、既に上昇気流から落伍し、自ら墓穴を

掘っているのである。 

 頭痛や腸の病気になる人は、常に目上に逆らい不平不満を唱えた結果である。

 女性であれば、生理は狂い、激しい痛みに襲われるのである。薬を飲んでも、心の切り替えをしない限り、完全

なる健康は保てない。

                 我他人を敬えば、他人も亦我を敬う

 

 

家庭教育 子育ては忍辱行(堪忍)

 「人のために生きなければ決して幸福にはなれない」ことをしっかり身に付けさせることが家庭教育の要である。

これは一度や二度言い聞かせるだけで教えられるものではありません。子供は口で教えようとすることより、親が

毎日行なっていることを見ていて自分の生き方を選んでいくものです。つまり親の精進なくして子供の躾は出来ない

ものです。昔から《三つ子の魂百まで》とか《鉄は熱いうちに打て》と申しますが、お互い一人前の立派な人間に成

長していくためには、生まれてから大人になるまでに、人間として大切なことをしっかり教えられるということが、どう

しても大切なのです。

 人間の生き方というものは、誰からも導かれずして自然に養われるというものではありません。どのような偉人で

あろうと、子供のうちに人間として正しい方向付けがなされる必要があります。子供たちに対する方向付けは、広く

はその時々に生きる大人全体が果たすべき役割であり責任であるといえましょう。特に家庭における親の責任は

重大であります。

 子供教育を手抜きをした付けは将来に必ず回って来ます。親の誇りであり自慢の子供がある日突然「魔さか」と

いう事件に巻き込まれ親の夢が一瞬にして消え去る事もあります。どこかが狂っていた。誰の責任でもない。親の

我流の歩みがわだちに落ち込んだのだと悟ることである。

 

 

日本の歩む道(金や物を生かして使う)

 円高ドル安の波は怒涛の如く日本経済に大きなうねりとなって押し寄せております。

 物や金の時代は過ぎ、今こそ心の時代であります。

 大企業の経営者も、国政に携わる政治家も心の眼を開いて、優秀なる技術と知恵を貧しき国々に施す時である

と自覚し実行するチャンスと思います。この救済に乗り出す暖かい愛の心は貧しき国々の人々に喜びの灯となり、

求めなくても感謝の心となって戻ってくる、ここに世界の平和が確立されるのです。

 星雲の志を立て、人一倍の努力の結果、驚くほどの財を貯め、不動産を有するお金持ちはありますが、金では

どうにもならぬ問題を抱え、死ぬにも死に切れぬ地獄の責め苦にあっている人はいないでしょうか。

 例えば、世継ぎのない寂しさ<我が子を死なす苦しみ、頼りにならぬ子を持っての苛立たしさ、これらは当人で

なければわからぬ苦しみと思います。何が間違い、何がこの苦しみの原因であるのか、一言で申しますと、金の

虜となって徳を貯めることを忘れた金欲の間違いであります。今からでも遅くありません。金欲の皮を一枚脱いで、

国の為、社会の為、貧しき人の為、即ち人心救済の良田に施しの徳をしっかり積めば、身に徳がつきこの苦しみ

から脱皮し、明るい人生が渡れるのです。物や金は天からの預かり物であって私有するものではなく、生かして

使うべきであります。

 

 

心を耕せ、何事も前向きに考える

 昔、私の父が竹やぶを畑に開墾するため、大変苦労したことを思い出す。毎日鍬やつるはしを持って竹やぶの

根を断ち切るのにひと苦労した。

 竹の根が地震に強いように、人生安楽の基礎は良い根をしっかり張らねばならぬ。もし悪い根(過去の不徳の

根)がはびこっていることに気づいたら、いかなる苦労をしてもたゆまず、へこたれず、コツコツと根抜きの努力を

しなければならない。過去の己の非を悟って、人生の開拓に気づき、開墾(修行)に手をつけると<ちょっとやそっ

とで悪の根が断ち切れるものでない。一難去ればまた一難、心身ともに腐り、壁にぶつかり、手も足も出ぬ時が来

る。この時こそ、幸福になるか不幸に進むかの岐路である。メロンでも肉でも、腐る一寸前が一番おいしいのと同

じで、身はぼろをまとっても心は錦であり、一級品でなければならぬ。過去三十年、失敗やら罪を作ってきたとした

ら、今日から心を入れ替えて五十年善行をするんだ、この面魂こそ運命を開墾する根性である。

 不幸と嘆く人ほど、愚痴が多くて粘りが無い。どんなに辛くとも苦しくとも『今によくなる。今に道が開く』と、明るく

考えることが明るい人生を迎える心構えである。どうしても前進できぬ時は、足踏みしていても心の後退はしては

ならぬ。その時こそ仏を念じ、親を念じ、師を念じよ。自力を出せば、必ず他力の応援がある。

 

 

抜苦与楽

 日本の名山富士の山は、七里の裾野によって堂々たる風格を現している。

 人生も是の如く、よく耐え、よく忍び、よく努力した下積みの裾野なくして安楽な生涯を迎えることは出来ない。

 幸せを勝ち得るチャンスや宝は、自分の身近にゴロゴロ転がっている。凡夫の私達はこの幸せの宝に気付か

ず見逃しているのである。

 幸せの宝とは何か?

 それは苦労であり、苦しみである。仏さまの教えに抜苦与楽(苦労の後に楽しみが来る)とあります。

 運命の悪い人は、折角自分が握っている苦労の宝を自ら磨き、乗り切る方法を知らず゛、愚痴と不足と怒りによ

ってチャンスを見逃し、宝の持ち腐れとなっているのである。

 幸せをつかむ人は、苦労に泣いてはいない。苦労の山を勇敢に粘り強く登る努力に汗を流し、血を流している。

 苦労の山は、我流の智恵では登り切れない。仏さまの教えをしっかり学び、自らの心の切り替えをしてこそ幸せ

の山頂に到達するのである。

 教えの無い人は、みんな苦しんでいます。今こそ自分の幸せに甘んじず、人心救済ご法流布に苦労を買う時で

あります。

 教えを伝え、お導きをする精進こそ、自らの運命をより良く向上させる最大の近道であり、真実の道を知った私

たちの使命である。

 

 

開運の鍵を握るのは女性

 一軒の家の運命を変えるのはご婦人の考え方一つです。女の人には子供を生み出す力があります。将来を生

み出す力があります。だから正しい信仰をして、正しい考え方を持つ必要があるのです。ひとたび、女の人の考え

た方が変れば家運の挽回は出来るのです。

 日々の生活の中で女の人の気をつけることは「口は禍のもと」と言って、愚痴をこぼしていては、家の中は良くな

りません。

 法華経は、人生の世渡りを教えます。。人を愛することを忘れた人は寂しい生活を送ります。

 ある若い女性から「私は独り暮らしをしておりますが、勤務先での人間関係がイヤで堪りません」という相談のお

電話です。その方から以前「私は父を嫌っていますが、現在父は病気で入院しております。母は離婚し、再婚しま

した」と聞いておりましたので、その娘さんに言いました。「ワイシャツでも、第一ボタンが食い違うと、途中は良く

ても最後は食い違いますよ。人間の幸せは中心である親をどう考えていたかによって決まります。親との意見の

食い違いは、将来子供も駄目になります。今から人生の世渡りを覚えなさい」とご指導いたしました。

 法華経を聞いているだけでは信者です。法華経を末法の世にご法を伝える、人心を救う菩薩を育てる教えであ

ります。ご法を生活のいたる所、縁あるごとに話d、教えを伝える日々を送って下さい。

 

 

口は禍のもと

 教えを重ねて聞く事は、世渡りの知恵が出来る事なのです。情熱があれば教えは人に伝わります。今日始めて

教えを聞いた人でも、縁ある人に学んだ教えをお伝えるすることが大切です。

 

 ある時、子供を連れた若いお母さんが相談に来られました。その二才数ヶ月の子がほとんど口が聞けない様子

なのです。「製品の悪いのは製造元の責任」です。昔から「口は禍のもと」と言います。

 言葉でどれほど罪を作っているかわかりません。罪が深いと三十年経ってからでも胎教中の罪は出てきます。

子供でもよく考えてみると、第一の基礎は胎教中です。親が胎教中に泣いて過ごした時の子は、ここはという時

にメソメソしている。こんな所へ嫁に来るんじゃなかったと思っていた時の子は、学校へ行っても横着です。またよ

く怒った時の子は、本当によく怒ります。

 そのお嫁さんは次男の嫁で、在所の跡取りは長男夫婦がされました。父母がいなかったら、長男夫婦は親代わ

りです。

 どんなことがあっても兄夫婦を尊敬しなければなりません。ところがそのお嫁さんは、在所へ行った時でも、山の

上に家があるので下まで行っても自動車から降りたことがないのです。それではいけない。主人が行かなくても

「私が行って来ます」と言える嫁にならないといけません。そうすると亡くなって顔を見た事のない父や母が『良い

嫁だ』と喜ばれる。

その『良い嫁』が生んだ子供にどうして不都合なことがあるのでしょう。

 世の中は不足に思っていると大不足になる。喜びから喜びは生まれてくる。この子を見ると、物は言わないかも

知れませんが、元気に走り回っています。それなのにあなたは一日中この子を叱ってばかりいます。それなら、こ

の子が物も言わないで動くことも出きず、静かになってしまったとしたら・・・・あなたは泣きますよ。あなたは欠点

ばかり見ているからいけません。もっと人の良い所を見る努力をし、この子のためにも口で人を喜ばせる事を一

生懸命おやりなさい。

必ず良くなります。とお伝えしました。

 教えを聞く人は、仏さまの教えと言う定規があるから、その定規に合わせていく所に、自分の行いの訂正が出

来るのです。

 

 

心の改造

 長く教えを聞くだけでは幸福にはなれません。自分に良い運命がやってこないのは、《心の改造》自分の日々の

生活に変化がないからです。日進月歩、幸せになるため、人を救うためには、どうしたらよいのかと常にひらめき

が必要です。

 また、法を十年 二十年と学んできますと「先生のおっしゃることはわかった」と我流になりがちです。常に「先生

から見られたら、どうでしょう」と添削を受け、自らの心を改造してこそ信仰生活の効果があるのです。

 信仰は、仏、法、僧(師)を心から信頼し、恋慕する熱意が必要であります。

 ある大阪の娘さんに「私は阪神ファンで、今度阪神対中日の試合を観戦に行きます」とお話しますと、後日その

娘さんから阪神のユニフォーム、帽子、メガホン等応援道具一式が送られてきました。

 私はそれを見た時に、野球でも本当のファンになるためには、意気込みと熱意が必要であると思いました。心

から《仏のファン》になってこそ、教えもより深く学び取ることが出来るのです。

 ある信者さんのお店の新築パーティに招待されました。そのお宅の奥さんは二十数年前に教えを聞かれまし

た。

その方は結核にかかり体は痩せ細りガダガタの時、三人目の子供さんを宿しました。医者は子供を流すことを

勧めましたが、私は奥さんに「どんな病の時であろうと、子供を宿すということは生まれる条件が整ったからです。

無事生まれるかどうかは徳次第です。教えを信じて精一杯努力して子供を生みなさい」と伝えました。奥さんは

法華経を信じ毎日日参をされました。途中喀血する時もあり、死ぬか生きるかの命懸けの精進をされ、供養を続

けられました。医者は「結核患者では産むことは出来ない」と言っていましたが、無事女の子を出産されました。

その子は今二十一才の娘さんです。

 体の弱い奥さんは、娘さんが小学校一年生の時に亡くなりましたが、死ぬ間際まで自分の不徳の懺悔と子供を

良くするために徳を積み続けられました。命を懸けた徳積みは、今新しい世代に教えを残されました。私は三人

の娘さんたちに「結核で亡くなったお母さんの恩を忘れず、男で一つで三人の子供を育てたお父さんに感謝して

いる間は、必ずお店は繁盛します」とお伝えしました。《仏のファン》として、大いに燃え、心の改善をはかり、徳積

みの努力をしていきましょう。

 

 

人生の宿題

 人生に宿題はつきものである。

 宿題のない人生には向上も発展もない。病気、経済、人間関係等、生きていく限り宿題は誰かが背負い、抱えて

いる。

①宿題をにこやかに受けて前向きに努力する人。

②不平不満で希望もなく足踏みしている人。

③最悪は怒って逃避し逆上する人。 の三通りに分かれる。

 さて、自分はどの道を選び歩んでいるのでしょうか。

 苦労は幸福を生み出す原動力である。しかし、自分中心の苦労は、いくら努力しても花も咲かず、実も稔らず徒労

(無駄な骨折り)になるのである。

 檜舞台で活躍できる人、裏方仕事で目立たぬ人、人生はひの都度、千差万別の役者にならねばならぬ。馬鹿役で

も進んでやりぬく人こそ、人生の千両役者でありね大衆から拍手喝采の声援が、尊敬と信頼が身に付くものである。

これを徳と言うのである。徳の切れた地位、財力、体力は、一旦下降線を走り出すと止めようがない。

 毎日は登り坂(苦労の坂)を歩む姿勢であらねばならぬ。

 日陰の草にも春が来る。

 大自然の真理を深く読み取り、力強く宿題をやりこなす人こそ真の信仰者であります。ひとわく大きく人心救済、菩

薩の道を歩みましょう。

 

 

心の平和

 乱世、混迷の日本を、世界の危機を救うのは誰か。

 人任せでは世の中は良くならない。この時代の荒波を乗り切る人、波にのまれて没落する人、ただ漠然と波間を

漂う人の三通りに分かれるのが世の常であります。

 果たして今の自分は、どの段階に生活を続けているのでしょうか。いかなる変化、流動にも動揺なく、毅然として

乗り越えるのは財力、権力、学問ではありません。信仰心なくして、いかなる人も安心立命の生活は出来ません。

豊かなる心の持ち主、徳にあこがれる人にならぬ限り、真の平和の到来はありません。

 日本人一人ひとりが「今、自分は何をなすべきか」の使命を自覚し、心の立て直しと勇敢なる行動に移さぬ限り、

日本の平和も、世界の平和もありえない。

 自分中心の考えから脱皮し、人様の幸福を念じ、世の中の浄化、平和の為に、体力も知恵も財力も生かして使お

うと、己の欲を脱皮してこそ心の平和が築けるのである。

 この正しい使命を遂行するには、堅固なる信力、不退勇猛精進の信仰あってこそ、誓願が成就するのであります。

 日本を救い、世界の平和確立は、まさに宗教者の責任であり、厚き信仰心ある私達の責任であると知って、一層

の精進に堂々と立ち向かいましょう。法華経の教えの深みは、菩薩行の実践にあるのです。今までの信仰の殻か

ら脱皮して菩薩行に一歩前進しましょう。

 

 

法華経

 法華経とは、常に時代の潮流の即して新しい息吹を吹き込み、即実践に通用する教えであります。

 教えを学び行ずる私達の私生活は、常に周囲から眺められていることを自覚し、善行には積極的、行動的、活動

的であり、教えの真髄を深め、他の範たることを示さなければなりません。

 国家社会に貢献し、還元出来る活躍をしたいと思っています。

 皆様も、現在の幸せの殻を脱皮し、人心救済の菩薩行に一層の活躍を期待します。

  世界は大きく変動しつつあります。

 自己中心の狭い心では、時代の波から取り残されてしまいます。

 徳を積む事に馬力をかける人にのみ、仏様のご加護により輝かしい運命が築けるのであります。

 今日生かされている喜びを自覚する時、相手の心も理解が出来、足並み揃えて協力出来、真の信仰者としての

誇りと魅力ある行動がにじみ出るのである。

 自分の力に見切りをつける弱い人になってはならぬ。

 すがすがしい毎日を迎えましょう。

 

 

平和の輪

 平成の時代を迎え、平和の中にも世界が今大きく動き始め、これまでとはまったく異なる新たな方向へ勇気

ある第一歩を踏み出しかけております。

 この転換期に当たり、日本の国、しいては日本国民である私達はどう動くべきか・・・・

 自分の幸福にのみ努力する小乗的考えの時代は終りました。

 今まさに決定して大乗的発想、すなわち人の為、世の為、しいては世界平和のために目先の小さな平和の壁

を破り、勇敢なる行動をもって大きな平和の輪を広めるべく大躍動する重大なる時であります。十字架を背負って、

わが身を省みず、国民の幸福と安泰を願い続けられた昭和天皇のご遺徳を偲び、この大御心に沿うべく一致協力

勇気ある活動を展開してこそ私達の一大使命であります。

 「温室生活からは、英雄は生まれぬ」

 奮起一番 大道に向かって躍動致しましょう。

 

 

これでいいのか

 春だ、春だ、春が来た。

 一雨ごとにうららかな陽光を浴び、

 大自然は明るく活動している。人間生活は大自然と調和して、初めて平和が保てるのである。

  日本経済の非常時の今、そのうちに・・と!!

  こんな怠け心では日本の将来は危ない。

  心に五寸釘を打ち込んで、必ずと読むように必死になり、不動の精神を以て各自与えられた任務に励み、徳を

以て事を進める時である。

 孔子の弟子、荀子の言葉に

 「着眼大局、着手小局」とある。

 目のつけどころは大きく洞察をし、実践は小さなことの積み重ねという教えである。

 大きな洞察の出来ないのは、小利にとらわれるからである。足元の実践がおろそかになるのは、背伸びするから

である。

 徳人は身を低くしている。

 

 

開運の秘訣

 ただの仕事が出来ないようでは信用は生まれない。お金のやりくりが大変だと嘆く人は、お金に頼りすぎてはいな

いか。

 挨拶にお金はいりません。

 笑顔にお金はいりません。

 親切にお金はいりません。

 運のついてこないのは、お金のかからない心の仕事を疎かにしているからだ。

 今、挨拶が出来ていますか。

 今、笑顔が出来ていますか。

 今、親切が出来ていますか。

 人生、力の入れどころに真心を尽くしたいものだ。

 繁盛せぬ店ほど、社員が暗い。

 繁盛せぬ店ほど、休みが多い。

 繁盛せぬ店ほど、笑顔が少ない。

 心の革命を起こせば運は開く。革命とは徳積みである。

 親指と他の四本の指がつながれば、それぞれ丸が出来ます。丸とは平和であり、円満であり、お金のことです。

会社なら社長、家庭なら親、常に社長と社員の心がつながり、親と子の心がつながれば経済は回るようになる。

どこを切ってもトップと同じ血(考え方)が流れる組織は発展し、家庭は栄える。

 

 

最高の運命

 「今日訪れた運命は最高である」と悟れたら苦は解消する。

 なぜならば、現在幸せの花が咲いて喜べる人、逆に悲しいことにぶつかって泣ける人、何の不思議もない。

 今日までの過去に蒔いた善悪の種が、今実っただけである。

 凡夫の人間は、我流で判断するので間違うが、大自然(仏さま)は平等であって寸分の狂いもない。

 悲しい運命の人は、今日から良い種を蒔く努力をすれば、必ず幸せの花が咲く。

 今は幸せの人も続いて善行の種を蒔き続けることである。

 

 私たち法華経を学ぶ者は、目先のことに執われていては真の信仰者ではない。

 自己中心の狭い視野の考え方では行き詰る。常に相手の立場になって行動することである。

 いかなる難問題でも、慈悲と誠の心があれば万事解決する。

 言い換えれば「相手を悪く見ない」暖かい心で抱擁して相手を育てようとする大きな器を作ることである。

 

 

先祖(親)なくして自分はない

 今日の自分はどうして成り立っているのか?

 大自然を眺めれば一目瞭然わかるはず。

 目に見えない土の中に、しっかり根が張っているからこそ、枝葉が繁茂し花が咲き、実が稔るのである。

 人生も是の如く、先祖や親は自分を支えてくれる尊い根である。

 どんな親でも、親は親である。

 先祖という根、親という根に絶えず水を与え、肥料を施してこそ、自分という幹が太り、子孫である枝葉で喜び

を味わうのである。この真理に狂うことは絶対ない。

 信仰心が深くなればなるほど、故人となられた親や先祖には喜んで報恩の心で追善供養をし、幸いにも親が存

命であれば、あらゆる角度から孝養に心がける努力をしてこそ、安泰なる生活が出来るのである。

 人生は貸し借りの二通りである。

 親に尽くし切った貸しの多い人が何をやっても順調に車が運べるのである。

 喜んで先祖供養をし、親に孝養を尽くしましょう。

 

 

信徒の信念

 信仰には率直さとねばり強さがなくては続かない。

 若者の生活には、ねばりが欠けている。年輩者には訪れた運命に率直さが欠けている。

 老若男女とも、この欠点を改めるべく教えを学び修行すれば必ず運命は好転する。

 平和を願うのは万人の求める願望であります。この願望の達成は各自が相手の人格を認め合うことでありのす。

 人誰しも自分を認めてもらえば、その喜びでやる気とパワーがにじみ出るのであります。

 如何なる難問題も、仏眼を以て眺め、慈悲と誠の心で対処すれば解決は必ずする。智者学者といえども、教えのない

人凡夫でありね悩みは果てしなく続いているはずである。悩める人の救済は広宣流布の働き手以外にありません。

 

 

心のひかり

 思い出の積み重ねが親子の仲、同行二人が師弟の仲、この心の絆が尊い。

 信仰とは行いの中にある。行いが正しくなければ信仰にならず、理屈に走る人ほど中味が軽く、説得力がなく、

人は遠ざかる。

 いかなる強い決意も時間と共に弱まるものである。良き法縁から遠ざかれば考えは凡夫に下がり喜べなくなる。

 顔は心の看板である。年齢に合う責任の取れる顔になって始めて人望が集まるのである。不平不満の考えと怒

り続ける心が充満すれば自分の顔は「鬼畜」に似てくる。日に一度は、しっかり鏡に自分の顔を写し眺める必要

がある。

 凡夫の人間は我流で判断するので間違うが、大自然(仏様)は平等であって寸分の狂いもない。悲しい運命の

人は今日から良い種を蒔く努力をすれば必ず幸せの花が咲く。

 今幸せの人も続いて善行の種を蒔き続けることである。

 

 

近づく お盆先祖供養

 忘れてはいませんか 

 今日自分が生きていられるのは、自分の努力と考え、平然と生活している人があるとしたら、この人はまことに三歳

の幼児にも劣る愚かな人である。

 父母亡くしてこの世に生まれて来た人は、三千世界に一人もいないはずである。 

 樹木に例えれば、大地にうずもれた根(先祖・親)の力で幹(自分)が太り、枝葉(子供・子孫)が繁茂し花が咲き、実

が稔るのが自然の原理である。

 根が枯れ、虫づけば、早晩幹は枯れ、枝葉には花も咲かず実もならないでしょう。

 だから、親の供養、先祖供養は、何をさておいてもせねばならぬ大切な仏事の一大行事とされているのです。

 喜んで捧げましょう。

 お盆先祖供養、親の恩、先祖への感謝の真心が今の幸せが続く原動力であり、運命を好転させるエネルギーとなる

のである。

 

楽しい生活の秘訣

 腹が立つ時は、自分の知恵の行き詰まりと悟らなければならぬ。

 事の真実を正しく見る知恵がないので腹が立つのである。

 よく怒れる人には病気、貧乏、不幸が付きまとう。

 「お先にどうぞ」と譲る車には事故が無いように、相手を生かす人は

 常に楽しい生活が出来るのである。

 

 

自らの長所を出し切って

 池に小石を投げ入れると、波紋は次から次へと広がって行く。

 一軒の家庭でも一人が喜びの石を投げれば、夫に子供に孫にと

喜びは広がって行く。

 

 自分の尊い長所を出し切る事が、知らぬ内に人を善導し、自らも

幸せにする事が出来るのである。

 

 

正しい信仰

 お陰さまと喜び、感謝の念を持つ人に不幸はない。 

「おれが」の強い人ほどよく怒り、自ら不幸を招くのである。

 私たちは身近に起きるすべての出来事の受け止め方を間違えているから人が悪く見え、自ら苦しむのである。

「困る事のすべては自分が原因である。」と自覚するのが正しい信仰をする者の心構えである。自分を直せば良く

なると自信を持つことである。

「み仏の在りがいずこ尋ね来て、我が身と知るぞ今日の嬉しさ」悟れば今日から極楽となる。

 

 

三つの関門

 お人として生きていくには誰もが通る三つの関門がある。一つ目は就職する時、二つ目は結婚する時、三つめは 

親の死の時である。この三つの関門にあたり、正しい目標を選び正しい行動を取ることによって将来の幸せを招く

のである。

就職する人の心構え


どんなに学歴があっても入社すれば一年生であり新平である。
「三日前のゴキブリ」より下である。

この姿勢が三年続けば必ず信用が付き頭角を現す事が出来る。

二十歳になる青年が、禅寺で住職をしている叔父の寺に入門することになり挨拶に来られた。「素晴らしい門出ですが、

今時お坊さんになると言ったら友達は笑ったでしょう」「はい友達は笑いました」「笑った友達は二十年後に泣くでしょう。

君の選んだ道は立派であります。なぜならば目的が『人心救済』の仕事である。贅沢な生活を夢見る年代に辛くとも苦し

い道を選んだ君は立派である。堂々と胸を張り選んだ道に誇りを持ちなさい。

 入門されたら、あなたのどこを切っても住職様と同じ思想の血が流れていなければなりません。電話の声も、お経の声

も住職の声と瓜二つ見分けがつかない処まで住職の真似をする事です。自動車にハンドルがあるように、人生には師匠

を持たねば我流に走って危険である。良き師に巡り合える事は宝の山を見出したのと同じである。親を尊ぶ人には必ず良

き師に巡り合い、明朗な人生が歩めるのである。



人生とは絶え間ない改善である

 日々の生活に改善の心がある限り、生き甲斐が生まれ活力が出てくるものである。発展隆昌の波に乗っている企業を眺

めると、寸暇を惜しんで製品改善に、会社運営に、マイナーチェンジかモデルチェンジに心血を注いでいる。

 私は運が悪いと嘆く人がある。「運」とは運びと読み、「命」とは心のことであり、心の運びがよくなれば誰彼の差別なく運命

は好転する。どんなに金があり、地位のある人でも、日々怠けて贅沢な生活をし、欲の深い生活をしていれば運命は悪くなっ

てしまう。人生は波乗りに似ている。病気、貧乏、不和の波はどこの家庭にも大なり小なり押し寄せてくる。この不幸の波を乗

り切り、幸せの波に乗る方法を教えているのが仏教なのです。




怒りは不幸の引き金

 何が起きても責任を他に転嫁することは出来ない。自分が歩んできた善悪の種まきが答えとして出てくるのである。よく怒った

人には交通事故や思わぬ災難が起きるでしょう。不平不満であった人には病気が起こるでしょう。欲深だった人には金に困るこ

とが起きるでしょう。

 聖人君子でない限り満点の人は一人もいないはずである。「
怒りは不幸の引き金」である。たと手落ちがあっても怒らぬことに

徹すれば、大難は小難で守られる。今日の続きが明日である。今日こそ怒ってはならぬ。笑顔の一日を送らねばならぬ。言葉の

一つも物の一つも施そう。みの心構えで毎日を送れば、希望の人生が誰でも迎えられる。


 田中偉仁

 

T O P

心のひかり 心のとびら 心のオアシス