★ 業の恐ろしさ | ★ 業で築いた財産家の姿 |
★ 感謝のない生活は機械と同じ | ★ 老人に告ぐ |
★ 真実に生きる | ★ 情熱を燃やせ |
★ 喜びの油が必要 | ★ 原点にもどって |
★ 飯代は親に出していますか | ★ 大道無門 |
★ 不況何のその | ★ 年末・年始の心構え |
★ 教えの威力(偉力) | ★ 聞思修を繰り返して |
★ 人を悪く見ない教え | ★ 教えによって救われた婦人 |
★ 法は人生のエキスなり | ★ 徳器を成就して |
★ 積んだ徳は非常時に出る | ★ 老怒ったら負け |
★ 懺悔の尊さ | ★ 正しい信仰のあり方 |
★ うっかり発する一言 | ★ 心の窓を開いて |
★ 変な心を持たぬ様に | ★ 修行の心掛け |
★ 仏のご利益は計り知れない | ★ 女の幸せ |
★ 教えの相続人 | ★ 人皆仏性あり |
★ 一日も早く教えを学んで | ★ 仏の教えを実行する功徳 |
★ 実行してこそ初めて幸せになる | ★ 子を持つ親の姿 |
★ 好きなもので身を滅ぼす | ★ 修行の第一歩は起こらぬこと |
★ 悪業の報いは恐ろしい | ★ 真の信仰無くして安心の道はない |
★ 自分を良く知れ | ★ 正しき信仰 |
★ 殺生とは何か | ★ 土地を生かすある婦人 |
★ 本家、分家の栄える道 | ★ すべて自分がもと |
(1)業によって生じた病気は、近代医学や新薬では、完治出来ない(不治の病)。
(2)業(我欲)で蓄積した財産は、裁判や理屈では絶対解決出来ず、憎しみや恨みが残る。
(3)業で獲得した地位や権力は、必ず地に落ち、子孫は崩壊の道をたどる。
さて業とは何か。
日常生活において、よく怒り、よく愚痴を言い、自分中心勝手気ままの貪りをする人、これ即ち三毒の業という。
凡夫はこの三毒の生活を、気付かず積み重ねているのである。
業の消滅方法!
慈悲・堪忍・誠の三徳、即ち心を切り換え、徳積みの生活に大転換する以外にない。
不平不満を喜びに変えれば、不治の病いも必ず治る。
人の為に施し強くなれば、財産争いも必ず円満解決できる。
人を立て己を下げれば、すべて困ることなく安泰なる生活ができる。
ある方が訪ねて来られた。
話を聞けば、農家に生まれた男が、自分一代で年商八十億からの会社を興したという。
端から見れば、あり余る金の中で悠々と暮らしておられるであろうに、現実はそうでもないらしい。
これだけ金があれば、誰も彼も寄って来そうなものだが、まず当てにする長男が後を継いでくれず、サラリーマン
になってしまった。
長年連れ添った女房も見向きもせず、最近では息子の嫁と組んで、食事すら作ってくれない。
頼りにする家族には見離されたのに、”悪業の姿”病魔には好かれたようで、とうとうガンを宣告されてしまった。
さて、七十の坂を越えてこの先、生きる希望も湧かず、さりとて死ぬに死ねない。
なぜか!
彼は金の亡者となって、周りを省みることなく、札束で人の頬を引っぱたくようにして、財産を築いてきた。
これが業によって築いてきた財産家の末路である。
万物の霊長と言われる人間のすばらしさは、感謝の心、即ち”ありがとう、おかげさま”の心がにじみ出るところ
にあると思います。
この心がにじみ出ない生活は機械と同じで、やがて磨耗し、世の中から見捨てられるのであります。
物に恵まれ、何一つ不自由のない生活をしながら、犯罪は増え、金融界の汚職は後を絶たず、日本列島は台風
のごとく暴れまくり、世界平和を叫ぶ日本丸が、沈没寸前の感がします。
これでは世界の国から信用はなくなり、見捨てられてしまう危機に直面しております。
誰の責任でもない、私達一人一人に感謝の心がなくなり、自由奔放でわがままな私生活が、辛抱する、耐えるこ
とのできない弱い心を生み出しているのです。
今こそ襟を正し、心の建て直しをする重大な時期です。
家庭の建て直しなくして、真の平和は訪れません。
個人一人一人に感謝の心があってこそ、日本の平和があり、世界の平和に貢献できるのであります。
一日にあなたは何回「ありがとう」と言っておりますか
「ご飯ですよ」「ハイ」「お風呂ですよ」「ハイ」と返事はするものの、「ハイ、ありがとう」とはなかなか言っておらない。
「ありがとう」「ありがたい」が一日に何十回も言える人は毎日が充実し、楽しい日々である。
高齢化社会、長寿国となった日本、このままで将来は大丈夫でしょうか。
老人が徳一杯の生活をして、徳を使い果たしてしまったら子孫はどうなるのでしょうか。
子孫のために徳を貯え、残してやる老人にならねばなりません。
老人の考えの暗い家に子孫の繁栄はない。
愚痴多き老人のいる家は常にもめる。
自分が老人の仲間入りをしている年齢、年金をもらっている年齢となっていたら、一度正しく自分を見直しましょう。
老人を大切にしてもらえる - 電車に乗ってもシルバー席がある。バスは無料である等 - こんなに大切にさ
れ、豊かな生活をさせてもらっていて、「ありがとう」とも言わなければ、当たり前に思ってはいませんか。
席は譲ってもらって当たり前、人の施しを要求するような横着な年寄はありませんか。
”自分だけよければ他はどうでもよい”と考える老人は、家族からも嫌われ、徳を削り続けるのである。
年老いてボケる原因は、自分だけのわがままに知恵を使ってきた為・・・・・人様の為にと知恵を生かす人にボケ
た人はありません。
年を取ったから楽しみもなければならぬと、カラオケに行き、温泉廻りも大正琴もよいでしょう。健康管理の為、
早朝のゲートボールも散歩も又楽しい。
しかし、この楽しい老後の生活ができるのも、若い者が働いていてくれるおかげ、家族に理解があるおかげ、「あ
りがたい」と口癖のように喜ぶ老人であれば、百歳まで生きても人から好かれ、家宝の存在でありましょう。
感謝の念を忘れず、年は取っても徳の積める毎日を送り、周囲から愛される老人になろうではありませんか!
どんな美人でも、高慢であり心の汚い人であったら、最後人から嫌われ、つまきはじきされてしまいます。
教えの要は心を修める事であって、熱心に信仰していてもなかなか幸せになれないのは、常に不平不満が先立
ち、喜びの心が欠けていることを知らねばなりません。
私達の心は残念ながら欲のためチヂに乱れ、一点に止まらず、コロコロと迷い転がり続けているのです。
心という字に五寸釘を打ち込めば「必ず」と読みます様に、私達の心にも教えという五寸釘を一本打ち込まねば
なりません。いかなる立場においても相手の幸せを優先に考えてこそ、大乗的であり、永遠不滅の幸福を握ること
が出来るのです
何をするにも先ず情熱がなくてはならぬ。生存競争の激しい今日、うっかりすると取り残されてしまいます。
ある日、既製服の販売を担当されている方が、こんな相談をされるのです。
「先生、全く頭の止めることです。私は本店から派遣され、店頭売りを任されて居りますが、経費はかさんでもなか
なもなかなか売上は増えず、毎月赤字であり、本店からはノルマがかかり、計算通りいかず困っています。お忙し
い所済みませんが、先生一度現場を見てご指導下さい。」との申し込みを受けました。
ある朝時間を決めて店を訪れました。畳二畳ほどの狭い店ですが、なかなか小ぎれいな店であり、奇麗な婦人
服が陳列され、店先には商品も積まれていました。
単当直入に私は、こんな話をしたのです。
「なかなかいい店ではありませんか。こんないい場所で売上が増えないのはおかしいですよ。 勤めている限り、
親方に儲けてもらわなければ、貴方の月給もボーナスも増えませんね。
今見ておりますと、大会社ならいら知らず、八時にならなければ店を開けぬという考え方は改めねばなりません。
たとえ月給には関係なくとも店を任されている限り、十分でも三十分でも早く職場へ来て、店を開く気構えがなく
てはなりません。店を何処よりも早く開ければ、通り客とて拾えますよ。
会社勤めの社員でも、将来伸びる人といつまでたっても、うだつが上がらず昇進出来ぬ人とは、日常生活に対す
る情熱が違いますよ。決められた出勤時間より三十分早く職場につく人、時間ギリギリに会社へ滑り込む人、時間
に遅れてくる人の三通りがありますが、長い将来に大きな差が出て来ます。
次に沢山買ってもらえるお客様も大切ですが、それよりも冷やかしの客、返品等をされる、分の悪いお客様ほど
頭を一つ多く下げなさい。昔から『一銭を笑うものは一銭に泣く』と申しますように、儲けさせてくれないお客様を馬
鹿扱いするがため、良いお客様が拾えぬのです。
暇だからといって、椅子に腰を下ろしているような怠け者には、金は集まって来ません。儲け出す人は、仕事がな
ければ自ら仕事を作り出し、小まめに良く動かれますよ。貴方の店ももし暇であれば、ダンボールの空き箱でも荷
造りしたり、ほどいたりして、少々無駄であっても威勢よく動きなさい。
店先に立って道行く客に『何かご入用の物、お気に召す物はありませんか、特別安くしますよ』と、呼び込むくら
いの熱意がなくては店は繁盛しませんよ。特に隣近所の同業者には、誰よりも感じ良く挨拶することです。
どの世界でも出生するには、人一倍迫力をもって、自分の身を惜しまず、仕事にほれ込んでおられますよ。
貴方の心掛け次第で客を呼ぶ事も出来、店を繁盛させることも出来ます。」とわずかな時間にご指導したのです。
率直な店長さんは大変喜ばれ、
「先生、お話を聞いている内に、私の前途が明るくなり勇気が湧いて来ました。」との喜びの言葉を後にしてお別れ
しました。
二週間たってお休みの日にお越しになり、こんなに喜んでのご報告です。
「先生にお話を聞いて、今までの自分の気迫の足りない事、自分の力を発揮せず不足ばかり言っていた事を恥ず
かしく思い、その日から心を入れ替えました。
不思議な事にご指導を受けたその日から今日まで、いまだ味わった事がない程、売上がどんどん上がり、社長
始め上司の方からも、どうなった、素晴らしい成績ではないかと不思議がられ、又褒められ通しです。
心を入れ替え、喜んで働く事の尊さが始めて分かりました。毎日の出勤が楽しくてなりません。」
と手放しの喜びでした。
妙法とは蘇る教えです。率直に実行する人には驚くべきご利益が出て当然であります。
ある法話会の顔見知りの老婆がニコニコした笑顔でお参りされているのです。あまりのお元気さに引かれ、こん
な声をかけたのです。
「お婆さん、ご遠方からよくお越しになれましたね。ご家族の人にでも送ってもらわれましたか。」
「いやいや一人でバスと電車を利用して、乗り換え乗り継ぎしてやって参りました。」
との返事に驚き、お年を聞いて又びっくりしました。
「はい八十三歳です。今日は先生のご法話を聞かせて頂けるのが嬉しく、朝からうきうきして喜んで参りました。」
先生、ご承知の通り私は若い内に後家になり、女手一本で魚屋を経営して参りました。年中水を使い、立仕事ば
かりした来たせいで、長年足が痛くてなりませんでした。冷え込んだがため、立仕事のためとばかり考えて居りまし
たが、先生の教えを聞かせてもらってよくよく考えました。
最近は孫娘にも婿を迎え、手間がふえ私は何もせず、気ままにさせてもらい殿様のように暖かくして、足を使わ
ず大切にして居りますが中々痛みは治りません。
そこで考えました。体を使い過ぎて悪くなるのであれば、今日この頃のように体を休ませて居りましたら治るはず
ですが、一向に治りません。これは私の心使いが間違っていた事に気が付きました。
早く親と死別し、苦労して今日までやって来た自分の働きには、優等生の点をつけて居りました。
しかし、今日の自分が生活出来たのは、親のお陰と周囲の家族が協力してくれたという感謝をかすっかり忘れ、
その上不足だらけでありました。
これではいくら足を休ませても治るはずがないと気付きましら、先生不思議にも調子が良くなり今日も楽しんで
お参りに来ました。」
と喜んでご報告されるのです。
この元気はつらつたる老婆には全身喜びの油がみなぎっているのです。健康の秘訣はここにあるのです。私達
の生活は人と人の繋がりであり、機械に例えますと人間関係は大小の歯車の組合せです。機械が古くとも歯車の
油が切れなければ動き続けますように、人もまた喜びの油によって元気よく健康を保つ事が出来るのです。
現在は世の中が良くなり社会福祉制度の恩恵に浴し、ちよっと体が悪くても、それ医者に、薬にと願っております
が病気はますます満員の兆しを呈している現況です。科学的、近代医学は進みましたが、精神医学は少しも進ま
ず遅れているのが一大欠点であります。精神医学とは心の持ち方、考え方であります。
長患いをする患者さんは、その病人を看護する家族にも喜びが欠けているのです。その間は、中々全快出来ぬ
のです。年を取られても、尚自分の心を磨き、欠点を訂正し改められるこの老婆こそ、学ばねばならぬ私達の鏡で
あります。
若い時か、中年か或いは老年か人は一度正しく目覚めなければなりません。
モーゼは「父と母を敬え」と言明し、孟子は「考は百行の本」と教えております。お釈迦様は、「父母恩重経」という
科目を設けて、親の尊さ、親から受けた恩のいかに深遠かつ広大なものであるかを詳しく説き残されています。
何宗に属し、何様のご本尊をお祀りしようとも、親の有難さ尊さに日々感謝報恩の念を持たずしては、信仰してい
ても、仏作って魂入れずの諺の如く、真の人の道は歩めません。まして、信仰心なくして理屈をもって親を論じても
真の親心を読み取ることは、難しいものであります。私達の生活の原点は、親をどの様に眺め、どの様に扱ってき
たかにあるのです。
奇麗な生け花は根が切ってあるので、一週間もたてば枯れてしまいます。逆に、根のある樹木は、今、花は咲か
なくとも来年花が咲く希望があります。私達にも親という根を大切に保つ人には、今日はつまらぬ生活であっても、
将来は必ず幸福の花が咲くのは当然であります。これは何万年たっても狂わぬ真実ですが、これに反した生活をし
ていては、早晩自分の人生行路は行き詰まり、新芽として期待する子供、孫は朽ち果てる事を知らねばなりません。
世間には億万の財を蓄え、事業を拡大しながら、二代目、三代目に予期せぬ事態が起き、没落して行く人がある
のは何故でしょうか。一刀両断に解剖してみますと、親という根を断ち切っているか、根を粗末にして枯らしている
以外にありません。このような人生の根底に流れる基礎を学び、人にもお伝えるするのが正しい信仰であります。
「親は心の看板」余程心痛があるらしく、目は落ち窪み、顔には正気を失った相貌のご婦人が相談に来られまし
た。
「先生、私は今人生の岐路に立って悩み続けております。実は結婚に失敗し、二児を抱えての母子家庭で苦しい生
活をしています。最近になって、別れた夫から復縁を迫られておりますが、相変わらず怠け者で経済力もなく、何を
言われても信用が出来ませんので戻る気はありません。
実は私の苦しい生活に前々から同情して、親切に色々力になって下さる独身の男性から結婚を申し込まれてお
りますが、右する事も左する事も出来ず悩み続けているのです。」と深刻なご相談です。
私はこんな事を申しました。
「どちらの結婚を選ばれてても失敗だと思います。何故ならば、お若くして夫に困り、経済に行き詰るには、きっとあ
なたは、結婚前に大切な親を捨ててあるはずです。」
びっくり仰天顔色を変えて、
「先生、どんな親でも嫌ってはなりませんか? 実は、私は小さい時に両親に死別し、子供のない有識者の家庭の
養女として貰われました。優しい母、尊敬出来る父の中に短大まで名に不自由なく育てられ、お嬢様生活でした。
しかし、短大卒業寸前、母が病気で忽然とこの世を去りました。私は乙女心にこの悲しみに泣き崩れる毎日でした。
その後、父は今の後妻を迎えました。私は今まで信頼していた父の言動を許せず、後妻の母とは意見が合わず、
家を飛び出し、恋愛結婚したのが今離婚した夫なのです。その後、親の元へは近寄っておりません。」
「よく打ち明けてくれました。今日まで死ぬほど苦労されても幸福になれぬのは、あなたの心の着眼が狂っていた
からですよ。あなたのお父さんも妻を亡くして後妻を迎えられたのは、可愛いあなたをいじめるためにもらわれた
のではないのです。
その時、この道しかなかったつらい父の心を汲めず、あなたは勝手に父を見捨てて、義母を嫌って飛び出したこ
とが、根を切った草花と同じです。どんなに父は悲しみ苦しまれたことか、後妻の母も又どんなに苦しい思いをされ
た事でしょう。子供のない中にわが子として教育され、妻に先立たれ淋しい中、又可愛いあなたが飛び出してくれ
ては、お父さんは生きた心地ではありませんよ。こんな親不幸な道を自ら選んで、どうして幸せが訪れる事でしょう。
直ちに父の元へ帰って、今日までの一斉を無条件に詫びなさい。どんなにか両親は喜ばれることでしょう。もとも
と可愛さ一杯で育ててこられたお父さんは、一日も早く父のふところに戻ってくれる日を一日千秋の想いで待ってお
られますよ。義母とて率直になって近寄る娘を見捨てられる事は絶対ありません。貴方とて悪い人では有りません。
正しい世渡りを知らなかったため、我流で走って行き詰っただけです。二十悪い事をしたら、これから四十良い事を
すればその差二十善が残るではありませんか。この若さで人生の急所を知ってこれからの人生を歩まれましたら、
どんなに幸せでしょう。今日までの苦労は無駄ではありませんでしたよ。」
と、こんこんとお話をしました。
人はみな善人ばかりです。初めて知った親の恩、いかに自分の心の勘違いを知ったこの若きご婦人には、止め
どなく懺悔の涙が流れ始めました。
正しい行いをする者には必ず護ってもらえる守護神が現れのです。
「先生頑張って努力します。」
と涙とともに誓ってお帰りになりました。
あるお母さんからこんなご相談を受けました。
「先生実は、娘に好きな人が出来、長い間交際をしています。相手様は中々良い方ですが、大学を出て勤め始め
て日も浅く、給料が安いため経済的に自信がないのか結婚するとは言ってくれません。このまま交際を続けてい
て、最後断られたと思いますと、心配でなりません。何か方法はありませんか。」
と年頃の娘を持つ親の深刻な悩みです。
私は単刀直入にこんな事を申しました。
「娘さんも良い方ですが、思うようにならぬのは何か一つ欠けているのです。給料はいくらおもらいですか。」
「ハイ、長い間お勤めさせて頂いておりますので、現在十六万円ほど頂いております。」
「それは結構ですが、お家へ飯代(食事代)を入れておられますか。」
「一万円入れて、あとは自分の嫁入り支度の準備とお小遣いに使っております。」
「良く分かりました。中学生、高校生の様に何の収入もなければ、親のスネをかじっていても止むを得ませんが、ひ
とたび社会人となれば、収入の多い少ないは別として飯代を家へ毎月払って当然の事です。」
案外世の中には、しっかり金をためても、親に一銭の飯代も小遣いも渡さず、これで一人前と考えている若者が
あるのです。これでは中学生、高校生と同じ事で嫁になり嫁をもらう資格がありませんので、結婚がまとまらないの
も当然です。あなたの娘さんの場合、もらう収入の割には飯代として家に入れるねが少ないのですよ。
だから恋愛までは進んでも、結婚にゴールインする徳がないのです。
ある娘さんは教えを聞き始めて以来、もらって来る月給は袋ぐるみ封も切らず親に差し出しておられました。自分
の買う必要品があるときは最小限度親からもらっての生活をされていました。
自分には窮屈な生活でありましたが、親がどれ程喜ばれた事でしょう。結婚前、親を喜ばせた徳は結婚してから
実り、良い夫に恵まれ、今は経済的に何不自由なしの楽しい生活をしておられるのです。
又逆にある娘さんは銀行に長らく勤め何百万と結婚資金を貯め、ボーナスをもらうと毛皮のコートに変る生活が
続きました。結婚されるに当たり嫁入り道具一式を自分の金で作り、私は親に何も迷惑を掛けた事はありませんと
いう心でありました。結婚されてどんな結果となったのでしょう。嫁ぎ先の両親は難しく、主人は理解がなく、特に金
には厳しい中で泣きの涙の生活に暮れておられるのです。
どこに間違いがあったのでしょう。
お金は沢山貯め、嫁入り道具は自分で揃えられたが、親には一銭の飯代も出さず、自分は偉いものだと考えた
高上がりと無銭飲食が嫁入りして泣くような手錠がかけられたのですよ
例え親は親足らずとも、今日まで幼き時から乳を飲ませてもらい、オムツを替えてもらい、小学校、中学校へと出
してもらった親のご苦労を考えれば、いくらお返ししてたも返しきれません。飯代を出すくらい当たり前であり、臨時
収入のボーナスでも入れば、親がびっくりされる位差し出して徳をつまぬ限り幸せはやって参りません。差し出した
お金は親が何に使われようと、そんな事に執われる必要はありません。親と言う良田に蒔いた種は、年を経て良き
稔りとなって来ます。
ある娘さんの父親は、酒飲みでバクチ打ちでなんとも手におえぬ方でした。しかしこの娘さんは家が苦しいので、
昔の事とて小学校を卒業すると同時に女中として住み込み、身を粉にして働いて得たわずかばかりの給料を全部
親元へ送金されました。
父親が何に使おうと目も呟れず、ただ一心に親を思う施しの徳は見事に実り、某会社社長夫人として出世され、
お幸せな生活を送っておられるのです。
同じ姉妹でも妹さんは自分中心の生活をされ、女学校時代は派手な生活に暮れて家の事なんか何一つ尽くして
ありませんでした。結婚も猛烈な恋愛でありましたが、徳が積めてないのは悲しいもので、楽しかるべき新婚生活
も子供が出来ると別れるちぎれるの離婚話でもめ続け、可愛いわが子も死なかし、今は淋しい生活と没落されて
いるのです。
親に尽くし切り徳の種を蒔いた姉と、贅沢一杯された妹さんの一生にはこんなに運命の差が出来てしまいました。
率直な娘さんにも一歩前進した生活が出来、必ず念願成就の日の近い事を確信しております。
人間は心の広い人ほど大物である。不幸な人は、自分中心の考えにこり固まり狭い了見から人を攻撃し、自らも
行き詰った生活にあえぐのである。
私達の学びます仏様のお考えは、実に広大無辺であります。
親が子供を思うこの温かい慈悲心こそ仏様のお考えであり、少しでも私達の日常生活にこの精神を取り入れられ
たら闘争も、いがみ合いも、自殺も、殺人も無くなるでしょう。
蛇が一皮ぬいで大きくなりますように、私達も人の為に欲の皮をぬぐたびに大物になり、前途に明るみが差し込ん
でくるのです。人を生かす事によって自分が生かされる真理を知るとき、私達は楽しい人生が送れるのであります。
先日私が広島布教に出かけたおり、朝早く宿舎を出て広島駅へ行くためタクシーを探しました。都合よく一台の小
型車がお客様を今降ろしているのです。
早速駆け寄って乗車をお願いしますと運転手はニコニコしてどうぞと乗せてもらい、乗るなり私は、
「運転手さん、調子がよろしいね。」
と話しかけました。すると、
「ハイ、有り難い事です。お陰様で。」
と思わぬ言葉が返って来たのです。日常生活の中で何事によらず、お陰様と言葉がはけることは、何と素晴らしい
事でしょう。
続いて運転手は、鞄を持って乗り込んだ私をルームミラーで眺め
「お客様はご旅行ですか、旅は楽しいですね。」
と僅か十分程度の車中に、有り難い、お陰様で、楽しいでしょう等の言葉の連発には竹馬の友と再会できたような
明るい雰囲気が車中一杯漂って来るのです。
相手に喜んでもらい、自分も喜ぶ、この位徳の積める事はありません。
「こんなに調子よくお客が拾えたら、不況はありませんね。」
と申しますと、
「はいお客様、仕事があるくらい嬉しい事はありません。実は私トラックの運転手を長らくやって居りましたが、ご承
知の通り広島は某メーカーの街ですが、不況でなかなか仕事も少なく、土、日は休み、残業はなしで毎月の収入
は減る一方、家へ返れば女房、子が苦しい家計に喘いで居るでしょう。何ともなりませんでした。
そこで、私はこれではいけないと考えまして、どんな仕事でもよい、喜んで仕事をやろうと決心して、実は慣れぬ
タクシーの運転手に転向しました。まだ初めて半年ですが、老骨にムチを打って喜んでハンドルを握り、飛び回っ
ております。
不思議なことにそれ以来、かつてトラック当時の収入の八割以上実入りが良くなりまして、家内は喜び、子供も
明るくなりまして、本当に毎日生き甲斐を感じています。」
「それは結構ですね。喜ぶ人には喜びが集まって来ますからね、頑張って下さい。」
そんな頃、車は広島駅に到着しました。
客待ちの中型車は延々と長蛇の列をなしておりました。私の荷物の有るのをいち早く見てとったこの運転手が。
「お客様、お荷物が多いようですから、前の方へ車をお着け致しましょう。」
と頼まなくてもお客の便利を計ってくれるのです。
何と素晴らしい考えの運転手でしょう。
乗って居る間も気分が良い、降りるに当たって又気分が良い。
降りてみると、小型車乗車位置に今お客が立たれ、又この車は一台も小型車がおりませんので、直ぐにお客を拾
って慌しい街へ走り去って行きました。
お客を降ろすと又乗るお客が待って居る。このピストン運転には不況もなければ、笑いの止まらぬ収入が有るの
は当然とつくづく思いました。
若いお供の先生にこんな事を話すのです。
「素晴らしい運転手ですね。職業に貴賎貧富はありませんよ。男は仕事に喜びを持つのが、真の男ですよ。私達布
教師も方を伝えさせてもらえる事を喜んで懸命にやっておけば、求めなくとも前途は洋々と開けて参りますよ。」
「先生その通りですね。お供させて頂いて良かった。勇気が湧いて来ました。」
と大変喜んで下さいました。
この暮らしにくい世の中に百人が百人教えがなければ、やれ不況だ、職がない、首切り失業と愚痴に暮れて一年
を果てるのが凡夫であります。正しく歩む道を読み取って生活してくださったら、間違いなく幸福はやって参ります。
お正月を迎えると、誰しも「今年こそは」と新しい希望に胸を膨らませてハッスルしますが、一週間も過ぎますとお
正月の誓いも忘れて愚痴不足の明け暮れとなってしまいます。これでは折角新年を迎えても進歩も向上もありませ
ん。良き年を迎えるには、年末年始の美をもって終わらねばなりません。一年を静かに反省してみますと、どれだけ
徳を積めた年であったか、どれだけ罪を作ったのか元利合計が年末に悲喜こもごもの形となって現れて来るのです。
政治家であれば選挙戦に始まり、表面はもっともらしく国政を論じ国を憂いながら、心の底では権力、地位の確保
に醜い闘争の明け暮れではなかったでしょうか。商人も同様に商戦に始まり商戦に終わった一年であり、身近な例
をとればデパート、スーパー等のお客の争奪戦は、しのぎを削り血みどろの毎日であります。月給取りであれば、さ
も平和そうに見えますが、同僚が自分を追い越し出生でもするものなら、ねたみ心が起きたり相手の欠点を探し批
判したり干渉して煩悩を起こしたはずであります。年末に当たって一年中の醜い心の垢を思い切って大掃除しない
限り、新しい年を迎えても、又曇り汚れたスタートになってしまいます。
昔から商人が年末に「大売り出し」をするのも、一年中儲けさせてもらったお客様への御礼の奉仕であり、儲けん
がため有形無形の罪を作って来た穴埋めの為、思い切って皆様に喜んで頂く施しをするのが大売り出しの真の目
的であります。
しかし凡夫の知恵は大売り出し(バーゲンセール)の宣伝ビラを出しながら、客の目をごまかしバーゲンセール用
の商品を作り、さも奉仕であります、原価販売のサービス品でありますと、いい顔をしておりますが、これでは穴を
埋めるどころか、ますます罪の穴を掘っている恐ろしい事であります。
年末を「師走」(しわす)と言うのは、今日までお世話になった恩人・知人の間を走り回ってお歳暮のお届けをした
り、せめて御礼の心を披露するのに忙しいことを言うのであって、お金儲けの為に目を回すのは浅はかな人間の姿
であります。贈り物は金銭の額ではなく、品物の大小でもありません。折角施すのであれば相手に喜んでもらえる
品を贈ってこそ、徳が積めるのであります。
あるご婦人が何でも施せば徳が積めると教えの表面を覚え、随分人様に施しをされますが、一向に幸せにもな
れずかえって施せば施すほど人から嫌われ軽蔑されるのです。このご婦人の施しには大きな間違いがあります。
自分の店で商品価値がなくなり、お客様に売る事も出来ぬ虫づった様なくず物を棚ざらえの如くして施し、それで
徳が積めていると錯覚を起こしとおられるのです。大掃除のゴミを人に与えて幸せが訪れるはずがありません。
よく天災地変の災害が起きますと、罹災物質として衣類等救済に出す事がありますが、よほどの人でない限り自
分の大切な物は出しません。着られなくなった品か、不用品を出して、さも自分は社会事業に貢献したと思い上が
っていますが、なかなか徳は積めておりません。
施しするにも正しい教えから割り出した道を知らねばなりません。自分の大切な物を施してこそ、相手様にも喜ん
でもらえ重宝がられるのです。
今年こそ思い切って心からの施しをし、徳を積ませて頂く年末であり、年始にしたいものであります。
経典を紐解きますと、法華三部経の中に医王、大医王なりと書かれております。教えを世の中に広める人は、お
医者さんのようなものです。その病気(肉体的、精神的)に相当する薬(教え)を与えて、いちいちその病気を治すの
です。これには二つの条件があります。
第一は、病気を知ること
第ニは、その病気に適当な薬を与えることです。
私たちが人に教えをお伝えするにも、この両方を考えなければなりません。
この人はどこが間違っているのか、何で迷っているのか、と言うそのむ迷っている点をシッカリ突き止めるのが第一
条件です。そしてそれが明らかにわかれば、この迷いを除くためにはどういう方法でやったらよいのか考えるのが第
ニの条件です。
その迷いが分からないで、いい加減に教えを説いても、その教えには効果はありません。
先日 突然電話がかかりました。
「先生のお書きになっている人生教書を読ませてもらっている看護婦です。ここ、ニ、三ヶ月前からアゴの骨が痛み
続け、口元まで腫れてしまいました。勤めております病院で診察してもらいましたが原因不明で、精密検査の結果も
はっきりせず、ただ注射と薬を頂いておりますが、治るどころかますます痛みますので、先生のお宅までお伺いしま
すがよろしいでしょうか」
との泣いての電話であります。
近いうちに上京しますから、是非その折にお出かけ下さい。
今日はお目にかかれませんが、なぜこの様な病気になられたかの原因をお伝えしましょう。あなたも看護婦さんで、
病気に対する専門家ですが、
『病気は薬で治る病気と薬で治らない病気の二通りある事を知らねばなりません。』
こんなに医薬品の発達した現在、一週間も薬を飲めば何らかの反応があるはずです。それが一ヶ月も長ければ一
年も薬を飲みながら、効果の出ない病気であれば、薬で治らない精神的な間違いからなった病気であることを知らね
ばなりません。
もし後者であるとしたら、いくら近代医学の枠を集めても治るはずはありません。
大体病気は八割までが考え間違いから作った業で病むのです。
だから、手術をして一時的に全快しても、ニ、三年経てば再発するのは、肉体は手術したも根性の手術が出来てい
ないため、再発するのは当然ですよ。
これから申します私の診断に心当たりがあれば、直ちに反省して今日までの考え方を直して下さい。きっとよくなり
ますよ。
その病気の原因は簡単です。口の病は口で罪を作ったのです。
今、口が開けないほど痛むのは、平素口で相手の喜べない言葉を吐き続けていたか、相手を痛めつけたり、怒る
様な徳の積めない大きい口を開いた罪で今口が開けないのです。
お勤めの関係上ドクターに対し、又先輩や同僚の看護婦さんに対し、日常良い返事をしていたでしょうか。あるい
は愚痴をごてごてこぼしていた様な事はなかったでしょうか。病気が激しく痛むのは本人が激しい気性であるためで
す。
もし、そのような生活であったとしたら、直ちに心から改め、今日からどんな事があっても人様には嫌なことは申し
ません。感じの良い返事をし、皆さんに喜んで頂きますとお誓いしなさい。きっと治りますよ。」
とわずかニ、三分の通話で電話を切りました。
私が上京して会場へ到着しますと、見知らぬ娘さんがいそいそして、お茶を出したり、会場の準備をしたり奉仕をな
さってみえるのです。
「先生、先日お電話でお話を賜りました○○です。お陰様ですっかり良くなり、嬉しくてたまりません。今日先生にお
目にかかれるのを一日千秋の思いでお待ちしておりました。」
実は、先生のお声を聞いているうちに、私ほど悪い娘はないと気づき、知らぬ間に、受話器を持ちながら涙が流れ
てしまいました。
家にいた当時は、養子で優しい父に対して、随分酷いことを言ってきました。勤め先では、負けず嫌いでどんな事
でも、率直に聞くことが出来ず、いちいち反発ばかりしておりました。
電話が切れた途端、何ヶ月も痛み続けたアゴの痛みがすっと取れてびっくりしました。
何と仏様の教えの素晴らしさ、先生のご偉徳に感服してしまいました。あれ以後夜勤も楽しく務めさせて頂き、少し
でも不徳の穴を埋めようと早速故郷の両親にも給料の中から送金も致しました。電話もかけて元気で働いている報
告も致しました。
早速父からも喜んでの便りも頂き、病院でもあなたは最近すっかり変ったと、皆さんから褒めて貰える様になり、自
分でも不思議なくらいです。
皆さんの嫌がる仕事も進んでやらせて貰っております。お年寄りの病人には、親孝行のつもりで優しく親切にいた
わりの心を持って勤務させて頂いております。」と手放しの喜び様です。
法は偉大なるものです。医王であるお釈迦様の教えを丸呑みにして実行された率直さが今日の幸せを握られた
のです。
法は天地自然の真理でありますので、正しい指導者につき、正しい教えを学べば、いかなる奇病、難問題も解決
するのは当然です。
昔から「聞くは当座の恥、聞かぬは末代の恥」と言います。学生でも先生に分からぬ事は、どんどん質問して聞く
生徒が成績が上がりますように、私達教えを学ぶ者にみ、先ず話を聞かねば進歩はありません。
聞思修=(聞いて考えて行う)
これを生涯繰り返して生活する人には、大きな間違いはありません。
折角の尊い人生に行き詰まりを生じたり、自殺行為行為に走るのも。正しい人に実情を訴えて意見を聞かないか
ら、自分を台無しにしてしまうのです。
自分が年上になり、親になり、位が偉くなりますと、自分のやる事には間違いないと慢心の心から我流に走り、自
分の欠点に気づかず、罪を積み重ねるのです。
例えば、母が着物を買うとき、年頃の娘さんに聞いてご覧なさい。必ず、「お母さんその柄ちよっと古いわよ。もっ
と色目の明るい物にしなさい。」と近代的な知恵を教えてくれるでしょう。父が車でも買い替えようと思ったら、先ず息
子さんにでも聞いてご覧なさい。必ず車の性能やら車種を教えてくれて、古い頭に新しさが加わり、若い者から見れ
ば話の分かる父だと尊敬もされ、和も保てるのです。
まして若い者であったら、常に親や先輩に今日自分のやっている事を聞いてし聞いては事を進めれば、先ず間違
いは起こりません。
私も月一回お師匠先生をお迎えして法話を伺っております。一ヶ月中の出来事、又今やっている自分の行動をお
話し、悪い点があれば教えて下さい。直ちに訂正致します。足りない点があれば、直ちに補いますという心で先生に
聞いております。
先生も喜んで頂け、自分が聞くが故に安心して進めますし、聞くお陰い゛先生のお知恵を取り入れさせて貰えるので
す。
道でも探し迷っているより、尋ねてみれば目的地にいち早く到着する事が出来るのです。
事ある毎に、良く聞いて、良く考えて、正しい実行を積み重ねるのが修行であります。
お経は死人に対してあげるものと、一般大衆の心に染み付いているのですが、これは大きな誤解です。実は経典
の一字一句は、私達が生きて行く為の知らねばならぬ道しるべであります。
教えは、私達これから先の永い人生航路の心の羅針盤であり、指導者は道案内者であります。正しい道、間違い
ない地図、信頼のおける指導者につけば、何の迷いもむ無く、幸せの目的地に到着できるのは当然であります。
私達凡夫は我流に走り、真実を知らぬばかりに難しく複雑に考えて悩むのであります。
修養は、怒らない、愚痴をこぼさない、貪らない、この実行が、やさしそうで又難しいのです。
ここに万古不滅のお手本があり、人生航路の道しるべとしてお残し下さったのが仏教であります。だからその時、
その時代に仏様のお心の深さを悟られた高僧名僧がお出ましになり、何とか分かり易く、あの手この手の方法をも
って仏道をお説きになり、各宗各派となっているのです。
大木から枝が出、新芽が芽をふき、初めて幹が太るのが自然の原理であります。
一般家庭においても、新家、分家が独立してこそ共々に栄えて行くのであります。本家は、分家の栄える事を願い
応援を惜しまず、分家は常に本家あっての分家であることを忘れず、本家に対する尊敬の念を持てば、両家共々
繁栄していく事間違いありません。
経典に「我が此の土は安穏にして、天人常に充満せり」二千六百年前、お釈迦様が言明されています。しかし、
現実私達の周辺は、安穏どころか穏やかでない不安の日々ではないでしょうか。永年勤めた職場も不況によって
いつ首になるかも知れず、巷に起きる青少年の非行、あげく果ては自殺、他殺の血なまぐさい事件を見るとき、我
が子において絶対間違いないと言い切れる親が何人あるでしょうか。又自分の周辺には、虎視眈々として迫り来る
人の心の醜さを感じるとき、天人常に充満せりと思えるでしょうか。
しかし、仏様の言を正しく読みとれば、経典通りの安恩且つ平和の人生が送れるのであります。
良きに悟り、人を悪く見なければ、経典通り楽しい人との触れ合いとね穏やかな日々が暮らせるのであります。
若し自分の周囲に意に添わぬ人、苦になる人が有るとしたら、自分の心の不出来を悟り、徳なき事を知って、ま
すます低い心になって自分を磨く精進に徹してこそ、真の仏教を学んだ優等生の信者であります。
ある中年のご婦人が険しい相貌でご相談に来られました。
「先生私の主人は怠け者で、その上競輪にこり、勤めをよくサボリ、家計は苦しくなるばかりで困っております。
今日は競輪がある日となりますと、前晩から主人の行動が落ち着かずおかしいのです。私も長年の感で大体分
かりますので、主人をトッチメますと、嘘ばかりついて私をごまかすのです。
私もこれ以上一緒におれません。子供を連れて離婚するより道が有りません。私の今後とる道を教えて下さい。」
との深刻な相談です。
「良く分かりました。長い間苦しかったでしょう。あなたが考えてそれ程見込みがない夫なら、離婚なさったら良い
でしょう。」
と簡単に申しますとびっくりされて
「先生別れる事はよろしいが、主人は慰謝料」もくれません。その上これからの子供を育てる養育費にも困るので
す。」
「奥さん人生は、右か左かをはっきりせねばならぬ事があります。別れる力もなくて、毎日どぶどぶ不足を言ってい
るくらい損な話は有りません。別れる事も出来ず、相手の根性を直そうと考えられるから、今日まで苦しかったの
です。相手なんか直そうと考えず、あなたの根性を直し、相手の見方を変えなさい。夫にそれ程困るのは一言で申
しますと、あなたは男に徳がないのです。徳のない者程よく怒り、人が悪く見えるのです。
結婚して金に困る原因は、いかに娘当時父親に対し孝養が出来ておらなかった不徳ですから、何回主人を変え
ても、利息が付いて悪くなる事があっても良くなる事はありません。
あなたが、怒ってもわめいても、嘘をついて競輪に走られるのが真実でしょう。今日からあなたが心を入れ替えて、
主人に協力しなさい。道楽する人ほど、人の目を盗み、妻のご機嫌を伺って苦労しておられるのですよ。
明日は競輪のある前晩、主人の枕辺に千円札を一枚置いて、朝起きられたらその千円札を主人に差し出して、
「今日は競輪の日でしょう。少ないですがこの千円札で頑張って行ってらっしゃい」と送り出す事です。
主人がびっくりするほど喜ばれるでしょう。人の喜びをもって我が徳となるのです。
又如何なる事が有っても逆らわず、「あ、ソウ。あ、ソウ。」と受けつけなさい。必ず家の空気は変り喜べる日が来ま
すよ。」
とこんな極端なお話をしたのです。
初めて教えを聞かれた奥さんですが、最後はお腹をかかえて笑われ、あの怠け者の主人がびっくりするでしょう、
実行してみますと勇気を出してお帰りになりました。
翌月お会いしますと、この奥さんの相貌が打って変って、明るくふくよかになっておられるのです。
「先生、有難う御座いました。先生のお言葉通り早速実行しました。
最初主人は途方に暮れた様子でしたが、再三努めて千円札をもらってもらい、逆らいませんでした。
ところが主人がすっかり変ってしまい、今日この頃は競輪も止め、あれ程仕事嫌いの人が家の片付け物を手伝っ
てくれますし、会社へも真面目に出勤して頂けるようになりました。
主人の申しますには、お前に貰う千円札は気持ちが悪く使えぬ。ましてや何時もギャアギャア行ったお前が静か
になったので俺は何だか張り合いがないと言ってくれまして、百八十度の大転換が出来、家の中はすっかり明るく
なりました。
率直に法を信じ、実行された奥さんにはこんなご利益が得られたのです。
ある法話会場へ、中年の紳士がご相談に来られました。
「先生、初めてお目にかかりますが、十年程前に交通事故に会い、ムチウチの後遺症で時々頭痛が起き、健康
がすぐれませんので困っております。その上、事業がうまく行かず、特に集金の面で困っております。宜しくご指導
ください。」とのお話です。単刀直入に私はこんな事を申しました。
「集金を上手にするには、まず自分の方から支払いをきれいにすることです。例えば小切手発行するにしても、相
手が端数をおまけしますと言えば、端数は切り捨てても宜しいが、勝手にこちらから切り捨てて支払うことは汚いこ
とです。
もし余裕があれば、請求書が届くなりこちらから支払う金を先方に届けるようにする事です。これはきれいな支払
いです。
月給でも月末と決めなくとも、一日も早く支払えば従業員から見れば、きれいな親方であり社長でしょう。万が一
余裕がなければ、何とかそのようにしたいと心掛けることが大切であります。
今日支払い日であったら、集金する人の立場を考えて、一刻も早く金を支払えば、同じ金でも生きるものです。」
ある旅から来られた社長さんにこの話をしましたら、
「先生の申される通りです。私も集金の経験がありますが、栄える店はまず集金日に顔を出しますと、先方から幾
らでしたかと声をかけて頂けるものです。
逆に栄えない店は、何時間経っても払おうとせず、余分言ばかり言われておりますと、次の集金に時間がなくな
りはしないかといらいらして参ります。折角もらう金も、これでは死んでしまいます。先生、商人として大いに心掛け
ねばならぬコツですね。」
と共鳴されました。
また、これは取り替えしのつかない悲しい結果を招いたある問屋さんの話です。なかなか利口で計算高い奥さん
が、会計を担当しておられました。支払い日になりますと、請求書の端数は勝手に切り捨ててしまい、小額の支払
いも全部小切手にし、銀行渡りの横線を引いての支払いでした。
小さな加工家さんは、今日現金をもらって材料を仕入れ、また家庭費に欲しくても、銀行渡りでは何ともなりませ
ん。泣くに泣けず逆らうことも出来ず、もらって帰られる後ろ姿は、気の毒な毎月の集金日の風景でした。
このような積み重ねが知らぬ間に相手を泣かし、徳を削られたのでしょう。
人を生かし、金を生かす事の出来なかったこの奥さんの自分中心の考えは、表面利口に見えましたが、仏様の
目から見ると一事が万事間違っていたのです。
どんな答えが出たのでしょう。
可愛い一人息子に縁談がまとまり、嬉しい結婚式を目前に控えたある日、平素健康で病気一つしない奥さんで
ありましたが、突然倒れ込み、薬石の効なく他界してしまわれました。
常に私達は、人を生かす事によって、生かされる事を知らねばなりません。
「ただ今、先生のお話を承っておりますと、何か私の日常生活を見透かされた様な気がします。お恥ずかしい事で
すが、応々にして汚い心の支払いをしておりました。」
「お気付きになれば結構です。きれいな支払いをする店には、きれいな支払いをしてくれるお客様が集まるのは当
然です。」
「これが仏教で申します因果の法則です。
次に商売があまく行かぬと申されましたが、ただ今頂いた名刺には専務取締役と書かれていますが、社長さん
とは意見が合いますか。又、事業内容は常に社長さんに報告してありますか。」
「これ又お恥ずかしい事ですが、社長は私の親父でありまして、ほとんど報告も連絡もしておりません。」
「それが事業不振の原因ですよ。根を切った樹木は早晩枯れてしまいます。
たとえ社長さんはお年寄りであっても、長年培われたキャリアには、経験浅い目下では味わえぬ深みがあるもの
です。現在の家にしましても、新建材を使った流行の建築もよろしいが、新しさの中に骨董的な家具調度品が奥
座敷にありますと、家に奥ゆかしさがありますように、新旧調和してこそ自然の姿ですよ。」
「よく分かりました。今が今まで自分の手落ちに気が付きませんでした。大いに反省する事ばかりです。
実は今、大きな取引で商品を出すか、注文を断るべきか心が決まりません。これはどの様にすべきですか。」
「早速事の成り行きを社長さんに打ち明けなさい。そして社長さんの申される通りにしなさい。意見を合わせる和合
が必ずよい結果となりますよ。
あなたのムチウチ症も、交通事故の縁によって起きたのであって、常に陰(心の中)で上司、特に社長さんのやり
方に不平不満のムチを打っていた心遣いが病気としてあらわれているのです。」
「先生よくわかりました。早速今晩、社長に今日までの心得違いを詫び相談します。」と喜んでお帰りになりました。
四、五日経って喜んで起こしになるなり
「先生、嬉しい結果となりました。取引の件も社長の言われる通り進めました処、大変よい結果が出まして喜んで
おります。その上嬉しい事は、平素私の命令に逆らい続けておりました課長が、ガラッと変って協力的になってくれ
まして、私の心も会社の中もすっかり明るくなって参りました。
先生のお陰様と教えの偉大さに感服しております。」
との嬉しい報告がありました。
金杯には酒が満たされ、やかんにはお茶が入る。雑巾バケツには雑巾が入れられるように、器によって入る中
味が異なってくる。もし、日常自分の周囲に訪れる諸々の出来事に、喜べない、イヤな問題が累積されるものであ
れば、これは誰のせいでもない。
今日まで自分が歩んで来た道で、如何に徳が積めなかったか、如何に自分中心の生活であって、有形無形の内
に沢山の人に徳を削っておったかが、今日の喜べない答えであると自覚しなければなりません。
これに気づき反省できれば、嘆く事も腹の立つ事もなくなり、心の波も自然と治まって来るのです。
徳の積めている人ほど、一旦緩急あれども冷静を保ち、事の善悪を正しく判断し、自らの行動を慎み、相手を常
に生かし、全てを建設的な考えで事を進められるのです。凡夫はこの逆の行動に走り、自ら品位を下げ不幸な墓
穴を掘って苦しむのであります。
天皇皇后両陛下のような徳人は、ご旅行なさっても行かれる先が清掃し、威儀を正しくしてお迎えするのです。
凡夫の私達は、頼んでも相手が気持ちよく動いてくれなかったり、嫁入りした娘さんがたまたま里帰りすると、兄嫁
のいやな態度に接し、もう二度と里へは帰らぬと怒る人がありますが、よくよく悟れば喜んで迎えられる徳がない
のです。
例えば、ルンペンが道行く人に物を施しても誰一人受け取る人もなく、逆に避けて通るでしょう。高位ある有徳の
人から声をかけられれば、誰もが身の光を喜び感激を覚える由縁は何処に有るのでしょう。
全て徳の有る、無しで左右されるのです。
常に教えられております通り「徳が本なり、財が末なり」
徳人になれば、何事も思い通りに事は進むのであります。
『和を保ち、愚痴をこぼさぬ生活
善行に向かって馬力をかける精進こそ教えを学ぶ
私達の日常の修行であります』
先日遠方からこんな便りが届きました。
先日妻が交通事故にあいました。ある車の後部座席に便乗中、大型貨物に追突されるという内容のものでして、
運転手と同乗の妻と外一名の三名が共にムチ打ち症となったものであります。
しかし、その事故の現場の形態と状況からこの程度の障害で済んだ、まさに命拾いしたとしか思えないような結
果に唯感激の限りと考えるのであります。
勿論運転手の方は、今入院中ではありますが、妻自身は自宅療養中とは云え、日常の生活には欠かず、しかも
日に日に快方に向かっておるという状態なのであります。
私は唯、日頃真生会の実践努力をしているという行いが、こうした場合において大難は小難におさえられたので
はなかろうかと思いますが、如何なものでしょうか。
かってお釈迦様はこの様な事を弟子に申されております。
『何万キロ離れておっても、私(仏)の教えを率直に信じ行うものであれば、此れ即ち仏の弟子である。』
お手紙のお方も、遠路の為、一度もお目にかかってはおりません。「真実に生きる」の教書をもっての交流ではあ
りますが、教えの通り率直に実行されておられる為非常時に仏の加護を受けられたのです。
常にこのご夫婦は、ご法流布のため徳を積まれ、嬉しいにつけ、悲しいにつけ徳の種を培っておけば、何が起き
ても動揺する事はありません。
この事故によって小難を喜ぶと同時に、尊い見舞金を人の為に施しされる心こそ尊い実行者であります。
「先生お陰様で、目的の高校が合格出来まして、ありがとうございました。」
「それはよかったですね。お目出度うご座います。」
「先生、今度ほど自分の愚かさと、教えがなかったら、どうなっていたかと今考えてもぞっとします。合格した喜びの
ご報告も然る事ながら、心使いの尊さが身にしみました。先生聞いて下さい。」
と、有識者の体験話でした。
「実は公立高校受験の前に滑り止めとして有名私立高校を受験することになりました。この私立受験は前から何人
と決まっていると聞いていました。ところが受験票提出寸前になって一人追加されているとの事で尋ねてみるとこん
な事です。
実はお恥ずかしい事ですが、主人には他に女性関係があって子供まで出来ているのです。こともあろうに追加され
たのがこの子であり、我が子と机を並べて同じ学校を受験するのです。私の心は動揺し、受験前にしてある日も主人
に今日までの私の苦労、悔しさ、悲しさを爆発させ、罵詈雑言をもってわめき続けました。
怒った結果は何と出たでしょう。
平素の実力では、この滑り止めは楽々合格すると高を括っておりましたところ、合格はしたものの、その点数は不
合格すれすれであったと聞きました。
やがて受験する第一志望の公立は、この成績では到底不可能ではないかと先生から助言があったのです。
今日まで「この子だけはと・・・・」命を懸けて来たはずなのに、一度ならずニ度までのこのショックに、私は脳天を打
ちのめされた悲しみでした。
しかし、有り難い事に、この場に至り平素学ばせて頂いていた先生の教えが思い出され、我に返ったのです。
『親が狂えば吾が子も狂う』、『人を悪く思えば自分が落ちる』の謹言が脳裏をかすめたのです。
ああ、私が悪かった。折角毎月教えを学びながら、急場に至って相手の落ちて行く事、罪もない先方のお子様の不
幸を望むが如き恐ろしい心・・・・・。まして主人の血の通っている子、理由のいかんを問わず、私の子供から言えば
義兄弟ではないかと気が付きました。
自分の子供さえ合格すれば良い、憎い女が生んだ子供は不幸になれば良いと考える様な心のこの母の考え違い
によって、可哀想に我が子が目的の学校へも行けぬかと目覚めた私は、何としても我が子を救わなければならぬと
決心致しました。
その晩から、我が子の合格を祈ると同時に、二号さんのお子様の合格も祈りました。そして命懸けで説いて下さる
先生の教えを、今日まで上の空で聞いていて実行せず、先生済みません。主人にも、二号さんの相手のお子様にも、
我が子にも、この母をこの妻を許して下さい。そして、ご先祖様にも今日から心を入れ替えます、どんな事があっても
相手を悪く見ません、怒りませんと妙法を唱えて毎晩涙と共に拝み続けました。
公立高校受験の日、我が子の帰宅を首長くして待っておりました。開口一番、「お母さん、僕一番苦手の国語が不
思議と良く出来た。僕の他予想では満点だと思う。」とびっくりする明るい表情の報告を受けました。
お陰様で合格通知も頂け、その上トップクラスの成績であったのです。その上嬉しい事には相手様のお子様も希望
校へ合格されました。先生にこのご報告がしたくて今日をお待ちしておりました。」
との嬉しいご報告でありました。
真の仏道は苦労無くして分かるものではありません。許す心が仏である。相手を生かし、尚相手の幸せを願える心
が出来てこそ、今日まで修行しと教えを学んだ価値があるのです。
身を削る思いをして、群がる煩悩に打ち勝ったこの奥さんの実行こそ、我が子を救う菩薩の行いであったのです。
「太陽が西の山から出ずる事があっても、
川の水が下から上へ流れる事があっても、
妙法行者の願いの叶わぬ事はない。」
ある日、泣き声で緊急電話がかかって来ました。
「先生、中学生の息子が置き手紙を残して家出をしてしまいました。どうしたら良いでしょうか教えて下さい。」
「ご心配でしょうが、自殺をしたり大きな間違いを起こすようなことは絶対ありません。これから申し上げる事を率直に
聞いて、心に思い当たる事があったら、直ちに懺悔して下さい。」
子供の大きな問題(病気。非行・結婚・進学・就職等)の大半は、この子を宿った胎教中に原因があるのです。若気
の至りで親を嫌ったり、家が面白くない等の行動、心使いの間違いで、親を苦しめ悪く思った罪が今実ったと考えて下
さい。
次に子供が帰って来ても、怒ったり愚痴をこぼす様なことは絶対しません。過去の私の心得間違いを今身をもって
我が子が教えてくれたと喜びに変え、今から真剣にご両親を拝み、我が子を拝みなさい。きっと何等かの連絡があ
るでしょう。」
といって電話を切りました。
翌朝早速電話があり、
「先生、有難う御座いました。只今子供が帰って参りました。
実は博多まで行ってこれから何処へ行こうかと思った時、ふとお母さんの顔が浮かんで、帰ろうと気が付いたそうで
す。幸い夜行寝台券が買えたので帰って来たと言っております。先生に教えられた事を心から反省し、あんな事も、
こんな心の間違いもあった、どんなにか親を悪く見た事もあった。親には淋しかったであろうと泣いて泣いて泣き崩れ
てお詫びしました。不思議な事に私が心から懺悔していた時間と同時刻に、子供が私の顔を思い浮かべて帰る決心
をしたのです。
先生、初めて気づかせて頂きました。私は大きな慢心をしておりました。今家は何不自由ないものですから、これで
良い子供の出来も良いと、過去の不徳の穴埋めにも気づかず、高上がりしておりました。
これを契機として心の高ぶりを慎み、一層ご法を勉強させて頂き、ご法流布に精進させて頂きます。」
とこんなこんな嬉しいご報告を受けました。
「成った事を喜べ」「難があって始めて有り難い」と思えと教えられておりますが、正しいご法を会得していれば事起
きる度に真の道が理解出来、苦難に耐える勇気が出て来るのです。
どんなに理屈が分かっても、相手を悪く考え、怒っていては幸福になれません。自分の意に添わぬ人を見ても、自
分を磨いて下さる善知識と考えられる人間になるよう、益々精進努力を致しましょう。
私達日本人は、有り難いことに先祖以来何かの信仰を持ち、又、持とうと努力しています。
然し、信仰さえしていれば何とかなると安易に考えている人も往々にしてありますが、真の信仰とはそのようなもの
ではありません。
『不自惜身命』即ち事に当たり命懸けでなければならないのです。命懸けと申しましても、唯狂信的に朝から晩まで
お経をあげたり、自分のやらなければならぬ仕事を放り出して、お寺や教会へ詰めかけていることではありません。
周囲から眺められて、さすが信仰している人は違うと、信じがれる行いをしてこそ価値があるのです。
かつての名僧、日蓮上人が
『極楽百年の修行より、穢土(えど)一日の修行これに勝り』
と申されましたが、まさに金言であります。
極楽修行とは、山に籠もり、寺や道場に入って座禅をし、滝に打たれる等の荒行の事であって、これはただ自分を
責めるだけで、相手がおりませんから極楽修行なのです。
穢土一日の修行はこれに勝りとは何か。
一番難しく辛い厳しい修行は、生きた人間関係において、特に足元である我が家庭や、職場で、怒らず、愚痴をこ
ぼさず、貪らずこの実行が、どの修行より勝り、上であると教えられているのです。本当にこの修行に命懸けで努力
すれば、如何なる難問題も解決出来ます。
よくご相談がありますが、私がこれほど懸命に努力して教えを学んでおりましても、家の者が一人も耳を傾けず、
逆に私の足を引っ張るような反対をします、と言われる人がありますが、これはさも反対する人が悪いように思えま
すけれども、実はそうではありません。表面は信心深く装っていても、自分の行いが仏の教えに叶っておらぬが故に
周囲から信用されないのです。
折角信仰しているのであれば、言葉使い一つからでも向上しなければ認められません。自分の柔らかい、温かい
言葉ひとつで相手を悦ばせ、導くことができるのです。
修養道場や教会で丁寧な「ザーマス」言葉の人も、案外家に帰って夫に対しては、汚い言葉を吐いたり、よく怒り、
愚痴を言っていたのでは、信仰とは逆ですから、家族の者は誰一人協力してくれないのが当然と知らねばなりません。
ある方の紹介で、経済の行き詰まり、手も足も出なくなって、この苦境を乗り越える道を求めて来られたご夫婦があ
りました。
お話によりますと、ある宗教に十年以上もの間熱心に学び、幹部クラスであったそうです。信仰を懸命にしているう
ちに何百万円のサラ金の借金が出来、他にも友人、知人にも莫大な借金があるそうです。私はこのご夫婦にこんな
ことから話しました。
「今承りますと、あなたが宗教を一生懸命やっていた為に借金が増えたように考えられておられますが、これは大き
な間違いですよ。宗教にも上、中、下、即ち深い教え、浅い幼稚な教えはあるにしても、何宗によらず人を不幸にす
る為に教えを伝える所はどこにもありませんよ。
第一に、金に困るのは、怠け心が原因です。
一体あなたの本業は何ですか。」
「はい、私はある商品の外交員をしておりました。中々商売の成績が上がらぬ時、ある人がこの信仰を懸命にやれば
きっと幸せになると勧められ、日夜夫婦とも教会へ詰め掛けて奉仕活動に努力しましたが、経済はますます苦しくな
り今日に至りました。」
「よく分かりました。信仰すれば誰彼の差別なく幸せに成れると説かれますが、これも間違いではありません。しかし、
幸せになるだけの義務を遂行せずして、唯ご利益だけ願うのは程度の低い、幼稚な信仰です。
商売人、勤め人が信仰するのであれば、自分の商売、或いは勤め人を人並み以上に努力し、その上に寸暇を惜し
んで教えを学び、ご法のお手伝いをしてこそ、家族からも、会社の上司からも、又世間の人からもさすがと尊敬される
のであって、信仰をして幸せに成った方々は並大抵の努力ではありませんよ。人の二倍以上の精進が陰で積まれて
いるのです。
本職を捨て、唯宗教にぶら下っているような怠け根性では何十年やっても幸せどころか、人から軽蔑されるだけで
すよ。
真の信仰は、怠け者には分かりません。
あなたが折角信仰しながら行き詰ったのは、その宗教が悪いのではなく、長い間外交の仕事の中に貪っていたか
らですよ。」
「先生、お言葉を返すようですが、私は道楽一つせず働いて参りまして、貪った覚えはありません。」
「そうでしょう。外交員として横道は踏まれなかったかも知れませんが、時間いっぱい外に出ているから優等生ではあ
りません。仕事が終わったらいち早く本社へ帰って、今日の働きの整理をしたり、明日の準備をするのが道です。得
意先を一回りして時間が余った時、今から早く会社へ戻っても仕様がない、ここで一服と喫茶店で油を売ったような事
はないでしょうか。
昔から油断大敵と言いますが、油断は何よりの恐い敵であるとの意味です。油を売って無駄に過ごした年月はあり
ませんか。」
「先生、そう申されるますとお恥ずかしいことですが、これが当然と油を売り続けておりました。」
「それが貪りですよ。酒を飲んだり、キャバレー遊びをしたり、競輪、競馬、ギャンブルにと惚けることばかりではありま
せん。
この貪りの種を蒔きながら、私は真面目なサラリーマンだった、お勤めは誰よりも懸命にやって来たのに、こんな不
幸になるとは自分は運が悪いと片付ける人がありますが、大自然即ち仏様の眼から見ればこんな落第生はないの
です。
つまり、運が悪いのではなく、己の心の運びが悪いのです。
世間には、長年勤め上げて莫大な退職金を手にした後、意外にも不幸な道を歩む人がありますが、これはみな働き
盛りの長い間に、時間を勤めていればこれで良いと考え、唯『月給トリ』としいう鳥になっただけで、働きに精魂打ち込
んだ努力が出来なかった末路ですよ。どうせ仕事をするなら、喜んで働かぬ限り徳は積めておりません。折角貰った
退職金も保つ徳の出来ていない為、病気、不和等が起きてこぼれてしまうのです。
あなたの場合、借金に追い回されて苦しまれるのは、何も信仰のせいではありません。そして、責めるサラ金の業
者が悪いのではありません。あなたの根性の間違いです。
あなたのこれから生きる道、幸せに成る道をお教えします。
① 今日限り人様から借りるという根性を捨てること。借金の増える人は、責められるのが辛いため次から次へと借り
手穴埋めをしようとする、『人のフンドシで相撲を取る』安易な考え方が最後サラ金に手を出してしまうのです。
② 責める借金取りを悪く思ってはなりません。借り手返さぬ私が悪いのだと知ることです。どんなに鬼の様な借金取
りでも、借り手ない人には責めませんよ。約束通り返さない自分が悪いと、心から低く頭を下げ、詫びる気持ちに
なることです。
③ 見えを捨て、今日から日雇い人夫になって、体を張って働きなさい。奥様も夫の非常時、わが家の非常時ですか
ら、パートでも良い、共働きをし働きなさい。
そして、どんな事があっても愚痴をこぼさぬこと、どんな辛くとも夫婦が団結し、親子が仲良くする力は偉大な効果
を現します。
④ 夫婦で稼ぐ日給は最小限度生活のために取って、残りはたとえ五百円でも千円でもよいから、サラ金業者へ持っ
て運びなさい。領収書の印をもらうノートも新品を使うようでは駄目です。新聞折込広告の裏を綴じ合わせて作り、
誠意を示すべきです。
⑤ あなたのご家庭には年老いたご両親がおいでですか、誓って親には悲しいこと、辛いことは言わぬこと。優しい
言葉をかけて親孝行の徳を積みなさい。
⑥ 以上の実行が出来ずして何宗をやっていてもご利益はありませんし、周囲から見られたら、信仰に惚けて居るか
らと軽蔑されるだけと知って下さい。
⑦ 辛い毎日ですから簿脳が起きるのは当然です。そこで一日慣れない仕事で体は綿の如く疲れるでしょうが、夜の
法話会がある時は、たとえ居眠りが出てもいいから出席して、仏縁を切らないことが大切です。
一日働いて一人前、その上寸暇をさいて法を聞き精進して一人前、合計二人前以上努力してこそ始めて人の上に
立ち、幸せもやって来るのです。辛いでしょうが、この心構えが出来てお働きになれば、必ず如何なる運命にも道は
開いて参ります。石の上にも三年、何千万借金があろうが、何とかなります。」
黙って聞いておられたこのご夫婦にも、何か顔色に明るみが指して来たのです。
「先生、初めて目が覚めた気持ちです。私の信仰は間違っていまし。良き先生の教えに会えてこんなに嬉しい事は
ありません。今日から心を入れ替えて、日雇い人夫になって努力します。勇気が湧いて参りました。」
真の教えは聞くたびに、たとえどんなに苦しいことが有っても、嬉しい勇気が湧いて来るものです。
ニ、三日たって、こんな嬉しい事になりましたと、紹介者に報告が有ったのです。
「実は日雇い人夫で働くのだと、菜ッパ服に身を固めて心の見栄を去ると悲壮な決意をしましたところ、不思議な事
に知人から、ある建築現場の仕事があるからやってくれぬかと就職先が決まり、月曜日から行なっています。今は、
慣れぬ仕事でへとへとになりますが、喜んで働き始めました。」
その後、疲れた体にムチを打って休みには法話会に出席されるのです。
又、幾日かたって、
「ある一軒のサラ金業者から矢の様な督促がありますが、どうしても支払えませんので、心からお詫びし誠意を披瀝
(ひれき)しても聞き入れてもらえず、ついに保証人を責め、保証人の勤め先まで督促の手は伸びたのです。保証人にも
七重の腰を八重におって詫びました。大変な迷惑をかけてしまって困らせたのですが、保証人の友人がそれを知って、
私が一時立て替えて支払いましょうと信じられないような出来事で、一番大口のサラ金の借金は難を免れました。」
との報告でした。
ここにも、妙法を会得して実行する人には奇跡の様な事実が現われたのです。
自らを灯として正しく生きる人には、常に仏(大自然)のご守護があるのです。
日常生活の些細な言葉でもって、徳が積めたり、徳を削っている事が往々にしてあります。
大きな山につまずく人はありませんが足下の小さな石につまずいて怪我をする人は多いのです。人生もその様に、
平素の会話の中に明日を築いているのですから、一度じっくり自分の今日一日を反省してみるのも大切な修行です、
どこの家庭でも一日中母親が働き続け、忙しい中に夕飯の準備をして、子供達に用意が出来た事を告げます。
その一コマを想像して下さい。
「ご飯が出来たよ。早く食べなさい。後が片付かないから・・・。」
これで母親は間違いないと努力しているのですが、「後が片付かないから・・・」が余分な一言だと気づかないのです。
「ご飯が出来たから、早く食べて下さい。」なら、今日の母の苦労は充分実り、徳が積めるものを、最後の一言で折角
の勤労も水の泡に帰し、相手に不愉快な思いを与えて徳を削ります。
風呂を沸かして家族を呼ぶにしても、
「お風呂ですよ、早く入って。ガスがもったいなから・・・。」
最後の一言がなるほど真実でしょうが、余分言であり、夫にしても子供にしましても、反発はされなくとも、主婦として
優等生の案内ではありません。例をあげれば数知れず日常生活に手落ちが有るはずです。
昨今は湯加減も風呂の中から自分で自由に調節は出来るもの、お風呂を案内するのに、ただ沸いたから入って下
いでは無責任です。湯加減といって、適温適量を確かめてから、どうぞと案内してこそ入る人が喜ばれます。
お客様や高貴な方には、きっと一度ならずニ度までも湯加減してご案内するでしょう。つい慣れてしまった家族には
これでよいと決め込んでしまっているむお母さんが多いのです。
常に誰彼の差別なしにあいてを尊ぶ人こそ、相手から尊敬され、徳が身についていくのです。
口は災いのものと言いますが、言葉一つで相手を生かすことも殺すことも出来るのです。私達は無意識の内に口で
罪を作っておりますが故に、歯を痛める人が余りにも多いのです。これを悟らぬ限り、高額を払って入れ歯をしたり、
治療しましても中々思い通りに治らぬのは当然であります。
親しき仲にも礼儀あり。
親しい親子、兄弟で三ツ指ついて挨拶しなさいと言うことではありません。
「親しい仲ほど一口遠慮せよ」「十口言いたいことが事があってもニ口控えて言え」という金言です。
この処世術を身につければ、家庭の争いはありません。
県外から次の内容の電話がありました。
「先生、一児を持つ主婦ですが、幼い頃から片方の耳が難聴で日々の生活に困り、悲しい毎日を過ごしています。ど
の様な心使いをしたら宜しいでしょうか教えて下さい。」
と、蚊の泣くような弱々しい声て゜のご相談でした。
私は、このご婦人に仏になれる、如何にして仏心に灯をともすことが出来るかを念じつつ、お話を始めました。
「奥さん、聞こえない耳ばかりに執着して、毎日を悲しんでおられるのではありませんか。
片方は聞こえる耳がある。よく見える目もある。丈夫な手も足もある、元気な子供もあり夫もある、あなたの周辺は
嬉しい事ばかりではありませんか。
私達は、どうにもならぬ悪い面にとらわれて、自分は不幸だと自ら穴を掘り、その中にはまり込んで泣いているので
す。不幸なら不幸の中にどこか良い所があるはずです。この長所を見出せば喜べますし、長所を生かす人が一番幸
せですよ。
仮にあなたの耳は先天性の欠陥があって、形は治らなくても心の持ち方一つで明るくもなり生活に困らなくなります
よ。耳は物音を聞き、人様の意見を聞く為についているのです。
うっかりしますと、耳に欠陥ある人は、常に人は私の悪口を言っているのではないか、私を批判しているのではな
かろうか、私を馬鹿にしているのではないかと、実際は耳に聞こえない事まで心で悪く聞いているのではないでしょう
か。」
「先生、その通りです。」
「そんなに悪く聞く耳はますます悪くなり、折角代行を務めてくれる聞こえる耳まで悪くなってしまいます。
あなたの場合生まれながらの難聴となれば、これは前世に余程人の意見を聞かなかった為、今世聞こえないのだ
と悟り、今世は少しでも人の意見を聞かせて頂こうと心の耳を立派に使うことです。
耳鳴りは、人の声をうるさく聞く人に起こります。又、耳がボーンとして聞きにくい人、聞こえない人は、常に人の意
見に耳を傾けようとしない頑固一徹の考えが、長い月日に聞こえるだけの徳を削っておられるのです。
逆に絵像金仏等の仏様の耳をご覧なさい。大きくて、ふくよかで、人の声を充分聞くように形の良い立派な耳がつ
いています。
耳の形一つ見ても、人の根性が良く出ています。
今日まで、自分は不幸だと思い続けたカーテンを開きなさい。心の窓を開けば、爽やかな風も、輝く太陽の光も差し
込んでくるでしょう。」
「先生有難う御座いました。お話を承っている間に心が明るくなって参りました。
先生のお声が良く聞こえる片方の耳がある喜びを今始めて気づきました。結婚するときも、耳が悪いばかりに私は
不幸であったと今が今まで思い続けていたのです。耳の悪い私を貰い受けてくれた主人のある喜びを少しも気づき
ませんでした。
私の今日までは不足だらけでバチ当たりでした。
先生、目の前が明るく開けて参りました。今までの考え違いを切り替え、皆さんの意見、皆さんの声を率直に聞く人
間になります。有難う御座いました。」
開運(即ち運が開く)とは良い所へ足を運ぶと悟りが開け、運が良くなるのです。
親の元へ、師の元へ、教えにと勇気を出して心を運び、身を運ぶ人から幸福になること間違いありません。
仏の縁に触れ、仏の教えを学ぶ時、自らの腐った煩悩の心を打ち消し、仏心に火がつき、即身成仏の生活ができ
るのです。
私達日常生活の中には、ある日突然、予期せぬ大変な事が起きて来ることがあります。
平素「変な心使い」を積み重ねた結果が、大変な事件が起きると知らねばなりません。喜ばなければならなぬ時に
愚痴をこぼし、欲に走ってはならぬ時に欲深い心を起こし、施さなければならぬ時にケチな心を起こし、怒らなくともよ
い時に怒ってみたりする心使いは、仏様の目から見れば、これみな変な心使いなのであります。
私の家へ毎日のように出入りしてくださる、若い人の良い外交員があります。
来られる度に私が在宅であれば、ご法の話を少しずつして、この青年にもみ正しい生きる道を伝えているのです。
ある日彼の上司の係長さんが代行で来られました。
「今日は彼はどうしましたか?」
「実は昨日の日曜日、会社のソフトボール大会で支店長の打ったボールが当たり、指を折ってしまい今日は私が代わ
りにお邪魔しました。」
平素心易くもしておりますし、彼は先生、先生と仕事を通じよく私を慕ってくれる青年で私も好感を持っていますので、
きっと私の言うことを分かってくれると信じ、この係長さんに彼に伝えてもらう様に次の様に申しました。
「折角の休日に楽しくソフトボールをやったなら、ホームランを打つとか、ファインプレイの守備をしたとか、優勝カップ
をもらったとか、表彰されたなら宜しいが、指の骨を折ったとは何と徳のないことですね。すべての出来事は偶然も奇
跡もありません・自分が蒔いた種がはえただけです。
簡単ですが、原因は不足だらけで一週間勤めていたのですよ。手を痛めるのは常に手仕事に喜びが少なかったの
です。
世間には良く病気や怪我で会社を長期間休んだり、プロの運動選手が故障を起こして休まなければならぬ事態が
起こるのは、無理をしたとか過労が重なったからではありません。
口に出すか出さぬかの差はありましても、常に今日与えられた仕事に不足があるか、上司に逆らい続ける心の累
積で働き、プロの世界で活躍するだけの徳の切れた姿です。
疲れたのであれば、眠れば戻るはずです。
あなた方、外交をなさって見えても嬉しいことばかりはないでしょう。例えば、支店長とか社長とかが今日もうるさく
ノルマ、ノルマと尻を叩かれる時もあるでしょう。
十人のうち九人までは、ここで上司は無理を言う、俺ばかりこき使うと怒って働き、不足不満で働きます。
怪我と言う字を分析しますと、我が怪しいと読みます通り、自分の心使いが怪しかったのです。
どんな不況時代が到来しても、儲け出す人は儲け出します。
どんなに首きり問題が出ても、困らず幸せになる人はなりますよ。例えば銀行や保険の外交員の方でも簡単に成
績を上げ、金を集める方法はありますよ。」
「先生その様な方法があったら教えて下さい。」
「金の集まる顔になりなさい。お客様から見てあなたにお金が渡したい、預金をしたい、定期に預けたいという顔に
なれば、どれだけでも集まるでしょう。
その顔になるには、支店長や社長が無理を言われた時『承知しました、何とか期待に答える様やってみます。」と、
強い球でも上手に受ければ、次の投球がうまくできるのと同じです。
たとえ上司に言われる通りの成績が上がる上がらぬは別として、気持ちよく上司の気持ちを汲み取った時、上司
が喜ばれるでしょう。上司を喜ばしたこの徳が金を集める顔となる秘訣ですよ。」
と申しました。
「先生有難う御座いました。今日は百万円のご注文より素晴らしい心の宝を頂きました。」
と、心から喜んで帰られました。
この世に生を受けた限り、苦のない人は一人もありません。
昔からこの世の中を『苦の娑婆』と言って、どんな高位高官の人にも苦はついてまわります。これが真実です。
しかし、人間誰でも苦の無くなる時は一度あります。その時は、死んだ時、棺桶に入る時です。だから世間では
『おくやみ』、即ち『苦止み』と言うのです。
私達の考えが狭いが為、人の意見を受け入れられず怒れるのであり、私達の考えが小さいが故に、折角の幸せ
もこぼれてしまうのです。私達の考えが浅いから、愚痴がこぼれるのです。又、私達の考えが近視眼的になるが為
に、目先のことばかり考えて人間同士衝突したり、トラブルを起こす結果になり泣くのです。
折角教えを聞きながら、自分の意に添わぬことが起きたり苦が解決しませんと、私には何のご利益もない、これだ
け良いことをしているのに報いがないと愚痴をこぼし、嘆く時が往々にしてあるのではないでしょうか。
いかなる事態が起きましょうと、自分より少し下を見れば喜べるはずです。
「上を見れば欲しい欲しいの星だらけ、下見て暮らせ、星のけもなし。」
下見て暮らせば、ああもして欲しい、こうもして欲しいの煩悩もなくなり、まだまだ自分は護られているのだと知った
時、今日の運命が好転するのです。
喜びの自覚こそ人生の得難き幸せの原動力あり、信仰する者の心でなければなりません。
ある朝、熱心なご信者のお母さんと、今妊娠中の娘さんが訪ねられました。
「先生、大変な事を今お医者様に言われまして、どうしたら良いかとご相談に上がりました。
実は昨日娘の出産日でしたが、産まれる気配がありませんので、診察してもらいに行きました。すると医者が首を
かしげレントゲン写真を何枚も撮られ、明日お母さんと一緒に来なさいとの事で、只今参りました。
医者の言われるには、胎児が全然下っていない、その上妊婦の胎盤の発育が悪いから、これ以上過ぎると子供
が大きくなろうとしてもなれず、母体にも危険があるから、すぐ入院して明日にも手術をするから準備して来なさい
と、藪から棒の話です。
こんな重大な事ですから、今こそ信じています先生にご指導を受けるべきだと考え、病院から直接伺いました。」
との緊急なご相談だったのです。
『信ずる一念岩をも通す』
このお母さんは、古くからの熱心なご信者で、今日まで幾多の難問題が起きる度に、真剣に教えに従い、私の指
導を丸呑みにして実行され、結果あらゆることが成就して来た実績と、先生に相談すれば間違いないと、率直に師
の声は仏の声と信じておられるのです。
人間は信ずる人のあるくらい力強い事はありません。
妊娠したということは、産む条件が揃ったということです。無事に生まれる生まれないは最後徳次第であって、母
体には関係ありません。
必ず自然に生まれますから心配ありません。
仮に帝王切開手術をして楽に生むことは結構ですが、因縁から申しますと手術して生み落とした子供は、メスを
入れた因縁でいつの日か手術することがきっと起きるでしょう。
実はある奥さんが三人目の子を妊娠されました。しかし、母体は結核に犯され、体力もなく、骨と皮にひどく痩せ
た婦人でした。専門医の診断では、到底母体が保たないから早急に子供を流せと言われたのです。
ところがこの方は日頃深く教えを学んでおられた為、急場に至って不動の信念が湧いて来たのでしょうが、普通の
人が眺めたらとても出産出来る状態とは思えません。ましてや専門医の医師から見れば、そのように言われるのは
当然でしょう。
けれども、教えが本当に分かって来ますと、何をやっても結局は徳次第であり、どんな名医にかかりましても、生き
る徳が切れたら薬石の効なく死ななければならない。又、生きる徳さえあれば医薬に見放された人でも回復すると、
徳を強く信じる事ができるのです。
病弱と言う母体には、全く徳がありませんから、今日から徳を積むことに専念し、目的成就のために決して怒って
はなりませんと、説きました。
子供は宝なり、何としてももう一人欲しいとの情熱に燃えたこの婦人の精進は涙ぐましい程でした。幸い教会が近
かったので、毎日教会への日参が始まりました。健康でない体での連日の日参は並大抵ではありませんでした。
家庭にあっては年老いた両親を拝み、親に喜んでもらう徳を積み続けられたのです。
私生活に贅沢をしている時ではないと、やがてお産で入院する準備の寝間着一枚も新品は揃えず、着古した物で
辛抱して、その節約した尊い浄財を人心救済の為に使って下さいと、何十回となく、貧しい中から先祖の供養に、安
産供養にと施しの徳を積み続けられました。
臨月まで母体は無事保つことが出来、二千何百グラムの女児を安産されました。
医学では信じられない奇跡的とも言える安産に、最初妊娠すらも大反対であった医師、看護婦さんも、小躍りして
喜んで下さったのです、」
それから妊婦にこんなお話をしました。
「健康なあなたが一日位予定が遅れたからといって、医師から手術しなさい、母体が危険だとびっくりすることを言
われましたが、それは医師が悪いのではありません。
今日なかなか母親になりきれないということは、今日まで母に心配かけて来たのではありませんか。親の心を汲
み、親の有り難さを反省しなさい。子供は十月十日の胎教中が一番大切だから、総仕上げとして親の恩を知り、今
日まで間違っていた自分の心を手術せよと教えてもらっているのですよ。」
こう話続けます中に、この妊婦に初めて今日自分が幸せに暮らせる陰に、親は辛い中を私を守って下さった、私
の我がままを許して下さったのである。お母さん済みませんでした、有難うご座いましたと、始めて親の偉大な深い
愛情が分かって来たのでしょうか、とめどもなく両眼から涙があふれました。
かたわらでじっと聞いておられたお母さんが言われました。
「先生もご存知の通り、私もこの娘を妊娠していた当時、又その前後どれだけ実家の両親に心配かけたか分かりま
せん。今改めて反省させて頂きます。娘だけが悪いのではありません、母はまだ生きていますが、既に亡くなりました
父は、私の事でどんなに心配したか知りません。娘だけが悪いのではありません。今日娘がお産に苦しむその種は
私が蒔いてあります」と、このお母さんは、ここという時に親不孝であった自分を深く懺悔されたのです。
とさすが平素教えが浸透しているこのお母さんは、ここという時に親不孝であった自分を深く懺悔されたのです。
三日後、お母さんから明るい声のお電話で、今朝無事に女児が誕生されたと嬉しいご報告がありました。
若いご婦人が因果の理法を知らぬまま、自由放題に子を流し、自分中心に考えてやたらに手術して産む、自然に
逆らう無理な人生を渡られる時、この母や子の将来はどうなるのでしょうか。
ある日、教えを聞いて喜んでおられる方の紹介と言って、上品な母親が本部に来られました。
「初めてお目にかかりますが、実はこの娘の事で困っています。初孫が生まれて三ヶ月ですが、嫁ぎ先のご両親や
婿から、子供は当方で育てるから実家へ帰って考えてこいと言われ戻されて参りました。勿論この娘の至らぬ点、
気のつかない面は多々あるでしょうが、先方もなかなか難しい人達で、仲人に入って貰いましても話が付きません。
その上、娘はわが子の事が忘れられず、精神状態が変になるほど悩み続けています。どのようにしたらよいでし
ょうか。」
「それはお困りですね。しかし、世の中の出来事はその問題の急所がわかれば案外簡単に解決するものです。
相手の欠点にとらわれている間は素人の考え方で、自分の欠点を見出す事がこの問題を解決する糸口です。
まずあなたのお宅の家族構成と娘さんの結婚前の事をお尋ねします。」
「はい、私の家は娘一人、息子一人です。この娘は大学卒業後なかなかの有識者で財産もある家へと嫁いだので
す。私の主人は五年前に亡くなり、おじいさんもこの二年後に亡くなりまして、現在はおばあさんと私、それに息子
の三人暮らしです。」
「よく分かりました。
娘さん、あなたは世渡りの方法を知らぬが故に、今日行き詰ったのですよ。どの家でも大黒柱と言って、中心に
なって建物を支える大切な柱がありますように、あなたの嫁ぎ先の大黒柱は姑さんなのです。
あなたは一家のボスである姑さんに仕える事を知らなかった為に今日のトラブルが起きたのです。
例えば、お中元の贈り物をする時でも、何でも送れば良いというものではありません。相手様のご家庭のボス(中
心になる人)に喜んでもらえる品を送るのが、一番徳が積めるのですよ。
あなたも折角お嫁入りしてお子さんまで出来ながら、こんな悲しい事にぶつかった原因は、知らず知らずに姑さん
に尽くし方が下手なものですから、ボス的存在の姑さんのご機嫌を損ねてしまい、それが波及して舅さんやあなた
のご主人からまで責められるのです。
過去をよく思い出してご覧なさい。この姑さんの一言で、良きにせよ悪しきにせよ、家の中で事が起きたり治まっ
たりしているでしょう。
男ばかりが一家のボスとは限りません。あなたの嫁ぎ先は、この姑さんにさえ方便でもいいから気に入ってもらえ
ば、万事うまく行くのですよ。」
「先生、今始めて気が付きましたが、本当にその通りです。どんなことが有りましても、お母さんの一言で、お父さん
も、又主人も勝てません。
私が何でもいいから皆さんに尽くせば良いと、漠然と考えていました事が間違いだったのですか。」
「その通り、中心になる人を外して、いくら他人の人達に尽くしましても効果は半減します。
まして誰よりも新参者のあなたが、学歴が有ろうが美人であろうが、古い実力者に逆らっていては負けですよ。
次に、女の人は、若い時か中年か、あるいは老年に至ってか、一度は女中の働きをしなければ決して一人前には
なれません。
女中と言いますが下品に聞こえますが、女の中と書きますように、中とは矢が的の中心に射た姿、即ち、女として
一番大切の事なのです。
昔の女中さんは、朝は誰よりも早く起きて仕事をし、夜は一番遅く寝て、ご飯は残り物を食べ、お風呂は家族の最後
に入り、その上給料は誰よりも安かったのです。娘時代にこの働きを心からやってありましたら、結婚後は誰よりも幸せ
に、奥様という地位に昇格するのですよ。
それが、折角奥様となりながら、その地位も認められず、叱られ、責められるということは相手が悪いのではなく、こ
ちらに女中の働きがしてなかったからだと知らねばなりません。
娘時代それがやれなかった人は仕方がありません。それならば、結婚してから十年くらいは無条件で女中の心得で
努力することです。
昔から女の道として、『三従の義』があります。
① 娘時代は親に従い
② 嫁しては夫に従い
③ 老後は子供に従う
この道が実行出来なければ、如何なるご家庭でもご婦人は波乱の治まる時がありません。年老いたご婦人が案外
わが子、わが嫁から嫌われ、老いて尚辛い仕事をしなければならないのは、決して誰のせいでもないのです。若い時
代の怠け根性、体裁ばかり繕って心から働いてない報いです。
老後になってお金に困る人も同じで、若い時代に無駄金が使ってあれば、持つ資格を失って金が集まるはずがあり
ません。
あなたも大学まで卒業させてもらえたのは、ご両親に財力があったからです。有識者のご家庭であり、財産のあるご
家庭のお嬢様であったことはお幸せでしたが、伺いますが、大学から帰って炊事や洗濯、掃除をお手伝いされた事が
ありますか。
せめて言葉だけでも、お父さんのお陰で大学を出してもらって有難う、お母さんのお陰で何不自由なく一人前にして
頂けてもったいないと、親に感謝の気持ちで暮らした事がありますか。
親から借りっ放しの生活をしておいたのであれば、嫁ぎますと先方には借金取りが待ち構えていて、毎日請求される
のは当然だと知らねばなりません。
仮にあなたが、今のお宅でなく、他家へ嫁いでいたとしても、自分自身に借金があるのですから同じ事です。
この女中の働きをやらずして、嫁ぎ先を悪く見る資格はありません。舅、姑、夫が責めて下さったお陰で、初めて正し
い教えを知って人生に目覚め、自分の間違いに気付くことが出来たと考えれば、先方様はあなたの先生ではありませ
んか。
これからは女中のいう低い心になって従いますと決心が着けば、必ず迎え入れてもらえるでしょう。
人生は山彦と同じで、『有難う』と言えば『有難う』と戻るでしょう。
私が悪かったとお気付きになれば、先方様も私達が言い過ぎて悪かったと、必ず変って頂けますよ。」と人の道を説
かせて頂きました。
静かに聞いておられたこの娘さんにも、しらぬ内に自分の不出来、親に我がまま一杯であった事が付かれたのか、
両眼から止めどなく涙がこぼれ始めました。
そしてお母さんに申しました。
「ご主人がなくなった後、二年後にお舅さんが亡くなられたとは大変でしたね。
幾つになりましても親として子に先立たれるくらい悲しい事はありませ。そのお舅さんの辛かった心、今ご存命のお姑
さんの悲しい心を汲まれ、我が娘が嫁ぎ先で幸せになってもらいたいのであれば、お母さんが親の淋しい思いを汲ん
で、今日から懸命の努力をしてお姑さんに喜んでもらい、亡くなったお舅さんには心からの懺悔をする事が大切です。
これが、娘さんの幸せを築く基礎工事となるのです。
流す涙が真の懺悔であったら、必ずこの問題は解決致します。
初めて今日の不幸の原因は自分にあり、親の心を汲めなかった不幸からと気付かれ、お母さんは亡きお舅さんとご
主人のご供養をして、喜んでお帰りになりました。
仏様の教えを通して考えますと、解決しない事は一つもありません。
後は勇気を出して、聞いた通り実行する事です。
世の中に、子孫に財の相続させる親はいくらでもあります。ところが、相続させた財で子孫が円満で暮らしているかと
思いますと、権利の主張、分配問題で裁判までして、身内同士が争い続けている家庭が随分あるのです。
譲る財産に徳という裏付けがありませんと、かえって悲劇の種となってしまいます。
財はなくとも、正しい教えを相続させる親ほど立派な人はありません。又、教えを相続できる子供くらい幸福者はあり
ません。
世の中には、折角熱心に信仰していても、その人が亡くなると残った家族から信仰が消え去り、誰一人耳も傾けられ
ないご家庭もあります。
学んだ教えは率直に実行してこそ効果があります。しかし、愚痴を交えた日常生活には、子や孫は魅力がないが為
ついて来ないのであります。
私達も一層の修養をして、子孫に教えの相続の出来る親となるよう精進致しましょう。
「馬鹿と呼べば、馬鹿ともどる」
「有難うと呼べば、有難うともどる」
これ山彦でありますが、私達人間生活も斯くの如く、自分の心使いは必ず相手にこだまして自分に戻って来るのが真
実です。
今日喜べないという人は、誰のせいでもない、常日頃誰彼なしに喜びが与えていないが為、喜びが戻って来ないので
あると悟って、今日からでも行いを改めなければなりません。
仏様のお言葉に『人皆仏性あり』と教えられております。
表面は幸福そうに見えても、生きている限り各自心の中は、悩みあり不満あり、妬みあり、苦しみのない人は一人もあ
りません。
煩悩が積み重なって来ますと、病気となり、不和となり、経済の破綻となって現われて来るのです。
これら諸問題の解決は学問や常識では根本的に片付くものではありません。
信仰のあるなしにかかわらず、最後信仰的に物事を考えてこそ初めて解決の糸口が掴め、円満に事が治まるのです。
その良い例が、宗門の中に案外醜い争いが続発している現在の世相です。
表向きは立派な衣を身にまとえども、心は欲と理屈で相手を攻め続け、挙句の果ては自らも地獄に落ち込み、大衆か
らは見離され、折角の信仰も魅力がなくなってしまっています。
仏教的に申しますと、今日の苦しみも、今日の嘆きも、すべて悪業の因縁によって生ずると教えられております。ところ
が、教えが浅いとこの簡単な仏語の表面だけを知って、「全て因縁ですわ、諦めねばなりません。」と、さも悟ったが如く
念仏を唱えお題目を唱えている方がありますが、これは急所を知った信仰ではありませんから、大衆から見ても、若者
からも、こっけい且つ狂信信仰と軽蔑され、嫌われるのです。
真の教えは、「因縁と諦めるな、因縁を乗り越える道に生きよ」と説かれています。
悪業の因縁はどうして作ってしまうかが問題です。罪を作るのは全て、生きた人間関係の中です。
実の親子でも年齢の差がありむ、夫婦に至っては、育ちが違い性別すら異なっておりますので、元々合うはずがあり
ません。まして他人の集まりである会社や事業場において、円満に進むはずがないのです。この難しい人間関係を上
手に乗り越えるには何か狂わない心棒が必要です。それを握っておらぬ限り常に怒りと不足が充満しています。
上から見れば目下は間に合わない、気が付かない、任せる事が出来ないと、不満勝ちとなるでしょう。
逆に目下から上を眺めると、目上は無理ばかり言う、私をこき使う、私ばかり目のかたきにして文句ばかり言うと、さも
目の上のコブのように苦になり始める頃から、人を悪く見て罪を作ってしまうのです。
家庭においても同様、親子、夫婦の中において喜べませんと、主人の帰宅も、我が子の学校帰りも、道草をしてまとも
な時間に帰らなくなってしまいます。
これが心配の種となり、折角相手の為を思って一言注意した事が逆の結果となり、言われた方は怒り、行った方は嫌
われてここに悪業の因縁を作り、報いの出たときには、どうにもならぬ事が起きて困るのが世の中の実相であります。
いかなる立場の人の人も皆、一個の人間として立派な仏の性を持っています。
相手の尊い仏性を尊ぶ心が起こせたとき、馬鹿な人を見たら気の毒と思い、無茶をする人を見たら可哀想と慈悲心
が湧いて来るのです。
人を見て馬鹿扱いするから、馬鹿な行動や言葉が我が身に戻って来るのです。
私達は日常生活において、相手は尊い魂の持ち主と信じられる位楽しい事はありません。わが親を信じ、夫を信じ、
子供を信じ、職を信ずる豊かな心を養う事こそ修養の第一歩であります。信ずる者こそ救われるのであります。
人肌脱いで親を喜ばせる徳は最大です。逆に親を泣かせたり、心配させる行為は最大の不徳となってしまいます。
凡夫はこの道が分からない為、若き時代から勝手気ままの生活をし、親のことは微塵も考えず暴走の結果、結婚して
世の無常に苦しみ、老いて悲しい運命にさらされ、生きる事すら苦痛となって泣き暮らす人が余りにも多いのです。
仏様の教えに人は一度は目覚めねばならぬ。若い時か、中年か、老年において、と申されます。
一日も早く目覚めた時、長い人生に幸せが多いのです。
親は尊いものです。どんなに親の事を思って良い事をしても、それ以上に子供の幸せを願って下さるのが親なのです。
親孝行出来たと考えるのは慢心であり、親孝行の真似事をさせてもらっているだけです。
この真似事が積もり積もって徳となり、わが子が成長した暁、又嬉しい親孝行をしてくれるのです。
親を喜ばす行為は、休みなく死ぬまで続けなければなりません。
若い年頃は、体裁を重んじ、我がまま一杯の無軌道に走り、親の心を汲まぬ青少年が多い昨今、私の周辺には少し
でも親を喜ばそう、兄弟を労おう、寸暇を裂いてご法のお手伝いをしようとする青少年が、県内、県外各地に増えて参り
ました。
良い仏縁に若い時代に会い、「人生とは何か」と目覚めた青少年くらい幸福者はありません。
世の中には親苦労し、子楽して、孫児の末は乞食かなの枠に入り込むのが常です。
徳を積む事を忘れてためた財産は、子々孫々苦しみの淵に落ちて行くのです。
親が施し強い生活を喜び進めば子も孫も知らぬ間に善行を好んで行ないます。
これが偽らぬ真実の道であります。
私達は幸い真実の道を知った限り、今からでも遅くはありません。法を学び勇敢に今までの欲の心を改め、怒りを捨て
喜びを見出す努力をすれば、必ず苦から抜け出す事が出来ます。
お金は尊いものです。無駄に使ってはなりません。
しかし、お金は貯めて喜ぶ為だけのものでもありません。泥水でも浄化槽をくぐれば、清水となる如く、施しは自らの生
活に潤って参ります。
人生も斯くの如く、働いて得た金も一度は、親と言う浄化槽か人の為、法の為の浄化槽を潜らせた時、初めて力強い
清水となって我が身に戻る事を知れば、勇気が出て、善行にいそしめるはずであります。
宗教はまず実行が肝要であります。ただいたずらに理屈が分かったからといって、それで人間性が良くなるもるもので
はありません。正しい理論も実行しなければ何もならないのです。
私達の日常生活は毎日が喜べる日ばかりではありません。家の中で、畳の上で、毎日怒ったり、愚痴をこぼしたりして、
どれくらい罪を作っている事でしょう。あたかもほこりが溜まると同じ状態です。家のほこりは毎日清掃しますように、月
に一回くらいは思い切って大掃除をしない限り、別に大きく悪い事はしていなくとも、知らぬ間に業は累積され、ある日突
然思いもよらぬ問題が起きて右往左往する事になるのです。
故に、悲しい事が起きる前に、少しでも徳を積み、罪の大掃除をしておかなければなりません。
善行は、算盤勘定から言えば損ばかりでしょう。しかし、人は損のくじが喜んで引ける間は栄えます。歩の良い話に飛
びついた人が、最後大失敗しているのが世の中の姿です。
例えば、ご法を広める為に座を提供した事によって、そこへ法話を聞きに来たひとが自分の心使いの誤りを悟り、本当
にお話を聞いて良かったと喜ばれ、暗夜に灯明を得たるが如く、又、魚が水を得たるが如く喜ばれる姿は全国各法話
へ行く度に身近に感じます。この人様の喜びは、法座施主の喜びとなり、わが家の徳となって、繁栄の基礎となるのです。
永年役所勤めをされ、社会的には立派な地位を得られたのですが、定年退職後、杖とも柱とも頼る一人息子の期待
外れの行動に泣き悲しんでおられたある夫婦がありました。
「自分達は人に何一つ迷惑をかけたことも無く、真面目に人生を歩んで来たのに、なぜこんな不出来な子が出来たの
か、ましてや虎の子としてためて来た預金も、折角もらった退職金も、わが子が作った借金の穴埋めのために無くなって
しまい、このには神も仏もない。」
と嘆かれるのです。
このご夫婦の今日までの考え方、人生航路はこうでした。
第一に、今我が息子で苦しまなければならないのは、過去親と意見が会わず、親子の縁が切ってあることが最大の原
因です。
けれども、かかる不徳の大穴がありましても、善行をもって埋める努力がしてありましたら、大難は小難として乗り越え
る事が出来ますが、学問や地位が邪魔をしたのでしょうか、自分は正しいという慢心が、わが子によって大衆の前で大
恥をかき、今日泣く運命を迎えているのです。
この方達の過去の考え方は、『自分は人に迷惑をかけていない、さりとて月給取りの身で、収入が決まっているのだか
ら、人の為とか、自分が損をするような事はする必要がない』と、人肌脱いで人に喜んでもらう施しの種が蒔いて無いの
です。これでは子孫は当然じり貧になってしまいます。
例えば、会社の重役、何々の長となる事は名誉なことですが、長となればなる程、余程の施しの善行を重ねない限り、
金銭では解決出来ない行き詰まりを生じるものなのです。
過去如何なる悪業ありと言えども、ご法流布に協力、精進する徳の偉大さは、計り知る事の出来ない功徳が頂けるの
です。
良いことは思っているたげでは効果は出ません。
思い切って実行してこそ、計り知ることの出来ない好結果を得るのです。
親を喜ばせる功徳、仏法を広める徳は、大きなご利益があります。
『徳は総てに優先する』と信じて、善行は勇気を出して実行することです。
親の道を子が通る。子供は親の鏡なのです
子を持つ親として、心の底から我が子に安心しておれる親が何人あるでしょうか。巷(ちまた)に起きる青少年の非行、
家出、自殺、登校拒否、ノイローゼ、数限り無い暗いニュースに、我が子だけはと淡い希望を抱いて、他人事のように
考えていますが、ある日突然脳天を打ち砕かれるような出来事が起こらないとは限らないのです。
事件が起きてからでは取り返しのつかない事もあります。これを未然に防ぎ、親子共々楽しく生活する方法を把握出来
ましたら、これ以上の喜びはないでしょう。
それには、私達の平素の心使いが大切です。
財があり、地位もあるご家庭にこんな事件が起きました。杖とも柱とも頼る一人っ子の学生さんが突然家出をしてしま
ったのです。八方手を尽くして探されましたが、何の手がかりも無く一夜は過ぎてしまいました。
翌朝、途方に暮れたお母さんから、事の次第を電話で打ち明けられましたので、私はこの様に申しました。
「それはご心配ですね。仮に方々探しましても、壁一重向こうに居れば見つかるものではありません。
それよりも、物事には総て原因(種蒔き)があって結果(報い)がありますように『何故』を究明するのが先決ですよ。
何にしましても、子供が家を飛び出すには、家庭か、親に魅力が無くなった為に、寒風の吹く外の方が良くなったので
す。例えば、商品か店に魅力があれば客は寄ります。
我が子も斯くの如く、父に、母に魅力があれば、年齢の差無く寄って来ます。毎日ガミガミ怒る母、済んだことをゴテゴテ
言う親は、子供から見れば魅力がありませんから、当然家から離れてしまうでしょう。仮にこの様な行動は起こさなくとも、
中学、高校ともなりますと、親に対して口数少なくなり、親を無視する態度に出るのはみんな親がうるさ過ぎからです。
折角我が子の為と思って学用品も買い、クラブ活動の費用も応援し、人の持つ物を持たせてやった事は親として尊く、
我が子に対する良い事でありますが、日々学校から帰って来るとろくろく勉強もせずにテレビばかり観ている、勉強して
いるとばかり思っていたら机にもたれて眠っている、ちよっと注意するとニ言目には「うるさい、わかっている」と反発する、
本当にこの子には困ったものだと、知らぬ内に愚痴をこぼし、不足に思っていたのではありませんか。
毎日の不足が累積して、今日の大不足の結果が生じたのです。
子供から眺めて、我が家に、我が親に魅力がなくなった原因は奥さん、あなた自身がつくっていたとお気付きになるこ
とが大切です。製品の不出来は製造元の責任でありますように、この子の製造元は親の私であると知る時、親にどう
して我が子を責める資格がありましょうか。
お母さんの心の中に『もし帰って来たら、こんなにお母さんは心配したのよ、皆さんに迷惑を掛けたのよ、何故こんな
行動をしたの』と、一言言ってやろうという気持ちがありましたら、子供さんは戻りませんよ。
何も言わず、温かく迎えてやろうと決め手下さい。今回の行動が是か非かは、お子さんが一番良く知っております。
次に、お宅はご主人が亡くなられたのですが、母一人子一人何の不自由なく生活できるのは、生前頑張って下さった
ご主人の遺徳と、ご先祖様のご守護のお陰であると自覚されることが大切です。
三度の食事を忘れても、忘れてならぬ親の恩と教えられます。
わが子のことは四六時中忘れませんが、ご主人の恩、親の有難味をお忘れではなかったでしょうか。どうか今からでも
遅くはありません。家にご仏壇があればその前で真剣に、ご両親にご主人に『今日までうっかりしていた不出来をお詫び
して下さい。そして、今私一人ではどうにもなりませんから、どうかお力を貸して下さい』と、心から念じることです。
お母さんのあなたが、『心から悪かった』と懺悔出来ましたら、何処にみえましたもお子さんも、『僕が悪かった』と気付
かれて電話がかかるか、何かの方法で連絡があります。心配されなくとも、きっとご無事で戻って来られます。真剣にご
努力下さい。」
こんこんと親の道をお伝えしました。
「先生、良くわかりました。先生の一言一言が私の胸に突き刺さります。おっしゃる通り、私は子供から見られて良い母で
はありませんでした。我が子を見る度に不足に思いこそすれ、決して喜ぶ事はありませんでした。今から心を改めます。
そして、両親の有り難さ、夫の尊さをしっかり思い起こして懺悔致します。有難うございました。」
数時間たちましたころ、明るい声で奥さんから電話がありました。
「先生、ありがとうご座いました。ただ今電話連絡がありました。今日まであんな優しい言葉を一度も言った事のない息
子でしたが、
『お母さん、心配掛けてご免ね。良く反省してみたら僕が悪かったよ。今からすぐ帰るから・・・・。』
と、こんな嬉しいことを言ってくれるのです。
先生のお言葉通りになりました。親の間違った心使いが、すべて我が子を不幸にするのだということが、初めて身にし
みて分かりました。」
その後、このご家庭も母親の正しい人生観により、息子さんも打って変って朗らかになられ、母から見ても心から信頼
出来る立派な学生になられました。
鉄は自ら錆を出して滅び行くように、我々人間もうっかりしますと、好きなものによって身を滅ぼしてしまうのです。
昔から、腹八分目が健康のもとと聞かされていますが、つい美味しいからといって十二分に食べ過ぎ、腸を痛め、胃
を病むのです。
金集めに惚けた末路は、金でどうにもならぬ墓穴に落ち込み、犯罪まで犯してしまうこともあります。
女の好きな人は女で身を滅ぼし、家庭を崩壊し、相手も傷つけ、自らも哀れな生涯を渡るのです。
酒の好きな人は酒によって身を滅ぼし、人からも信用を失ってしまいます。
仏様の教えに、「中道を渡れ」と戒められていますが、特に好きな事はほどほどにしておかなければなりません・
酒は礼儀に始まって乱らに終わるものであります。最初のうちは、お近づきの印にとか、礼儀だとか言って飲み始め
ますが、限度を超しますと乱れてしまうのです。
平素立派な事を言っている重役さんも、宴会の席で一度乱れ狂えばもう三文の価値も無くなってしまいます。
自動車でもあまりオイルを食うようになりますと、ポンコツ車として値段は落ち、最後スクラップとなってしまいますよう
に、人間も自らの器を知らずに好きなものに溺れるようになりますと、これは人生のポンコツでスクラップに回されてし
まうでしょう。
酒を飲んではいけないと言うことではありません。しかし、余程自覚しておりませんと、気狂い水と同様の働きにより身
をくずしてしまうのです。ましてや、指導者、人の上に立つ者が乱れましたら、全く人格は地に落ち、徳切れで廃物とな
ってしまいます。
酒は高価なものですから、平素余程立派な働きをした徳がない限り、徳負けしてしまうのであります。
心したいものです。
如何なる理由がありましょうとも、怒ってはなりません。
「怒りは地獄の業なり。病気、不幸、災難の本」となります。
自分が今日まで歩んで来た道を反省しますと、随分怒ったことがあるはずです。怒ったばかりに職場を捨て現在職に
困っている人、怒ったばかりに夫婦離婚した人、怒ったばかりに相手を殺害し、一瞬にして相手も自分も生涯を台無しに
した人も、数多くあるはずです、
よく怒る人は病気も治りません。又も子供の病気は、親が怒っていては治りません。
よく怒る人は経済も楽になれません。
よく怒る人の家庭は常にもめ続けます。
何が難しいと言っても、怒らぬ修行ぐらい、簡単な様で難しいものはありません。私は絶対に怒りませんと言う人が時
々ありますが、まず千人一人でしょう。表面に出すか、内心で怒っているかの違いだけで、よく怒るのが凡夫(普通の人)
なのであります。
永年仏門に帰依しておりましても、表向き立派な指導者でありましても、よく怒る人は、仏様の目から眺められますと、
「三歳の童児」に劣る智慧しかないと言えるのです。
故に修行に卒業はありません。死ぬまで修行を続けて、怒らぬ人になることが大切です。
決して怒ってはなりませんが、つい怒ることもあります。そこで怒り方にも三通りあることを知って下さい。
① 岩に刻みし文字の如き怒り方
② 砂に描き文字の怒り方
③ 水に描きし文字の怒り方
①の怒り方は一番不幸になります。岩や石に刻んだ文字は、何年たちましても、破壊しなければ消えません様に、いつ
までも怒り続けていることは、自分の運命を最後破壊してしまうのです。
②の怒り方は、丁度砂に書いた文字は風か雨にあえば消えてしまいます様に、一時的には怒りましても、何かの縁によ
って怒りを消して行く人です。
③の怒り方は、水に字を書きましても、書く後から消えてしまいますように、怒ってもすぐに怒りを消そうと努力する人です。
さて、私達は今どの段階にいるのでしょうか。①の人は②に切り換え、②の人は③に改めるべく精進することこそ、自
分の運命を好転させる秘訣なのであります。
徳のない人ほどよく怒ります。不徳な人ほどよく貪り、徳の切れかけた人ほどよく愚痴をこぼすものです。
それでは、どのようにすれば怒らぬ生活が出来るかが問題です。
それには正しい仏法の縁に触れることが大切なのです。仏の教えの縁に近づく努力をしておりますと、知らない間に仏
の真似をするようになり、怒らない人となれるのです。
(人を生かし、人様に喜んでもらうことによって、自分に喜びが戻り、怒ることが少なくなります。善行を進んで実行する事に
より、徳がつき、怒ることは半減し、喜び事が生じて参ります)
私達はうっかりしますと、過去の罪を忘れがちになりまして、今日の幸福に甘んじてしまい易いのですが、忘れた頃に、
ある日突然何事が起きてくるやら分かりません。
過去作った大きな罪は、十年、二十年の月日を経て答えが出て参ります。
私達は交通事故等で人を殺すような事はしていないかも知れませんが、うっかりしますと、ある時は嫁と姑の争いから
相手を憎み、相手が一日も早く死んでくれたらと思ったことはないでしょうか。
あまりにも勤めが苦しいと、上司や親方にに対して、果たしてどんな心遣いを抱いていたで゜しょうか。
刃物こそ向けませんが、相手の心を殺した事もあるかも知れないのです。
商人であれば、店を発展させんが為、金を集めんが為にしのぎょ削って、見積もりで相手を殺し、集金で相手を責め続
けた事も幾多あると思います。
勤め人なら、人の出生を陰からねたんだ事も数々あるでしょう。
我が子可愛さの為に、受験進学に際してどんな思いを持った事でしょう。
こんな恐ろしい心遣いの中で得た地位、名誉、財産は、いずれかの日に悪業となって、悲しい報いが訪れると自覚す
る時、私だけは間違いないと胸を張っておられる人が何人あるでしょうか。
人皆善人ばかりですが、過去の悪業の報いによって今日苦しみ、この業の消滅をしない限り、人間の知恵や学問、医
学では解決出来ない事は幾らでもあるのです。
正しき仏法を学ぶ時、この悪業の消滅には、縁に触れる度に、親の為、人の為、仏法流布の為に施しの徳を積むこと
により、過去いかなる業あれども即身成仏出来るのです。
激動する年代に突入せりと、巷に報道されておりますが、まさしく国際間の雲行きも怪しく漂い始めています。一度、
目を国内に転じれば、交通事故の惨事、青少年非行問題、ギャングまがいの殺人、強盗等、数え上げれば背筋の寒
くなる様な事ばかり起きております。
どれ一つ取り上げても、常識や学問だけで割り切れない事ばかりで、何を頼りに生きれば良いのか、ただ激動の波
におののき巻き込まれてしまってはならないのであります。
この苦難を無事乗り越える方法は、たった一つ、私達各自が正しい信仰心を以て事に当たる意外はありません。
正しい信仰心とは何か。一宗一派に凝り固まり、やたらに念仏を唱え、題目を唱えて、絵像金仏に参拝するだけが
信仰ではないのです。
人間として持って生まれた尊い仏心を発揮して相手を尊び、相手を生かす行いをしてこそ、争いも治まり、人の和も
保つ事が出来ますむ。そして建設的なはつらつとした人生を送る事が出来てこそ、正しい信仰といえるのです。
すべての出来事を正しく見て、正しい心で実行すれば、光輝く生活が目の前に現われて来ると教えられている
のです。
今こそ、老若男女を問わず、大自然の哲理である仏の教えを深く学び、実行して行けば、個人の安泰は言うに及ば
ず、国家社会の隆昌につながるのであります。
徳無き者でも、正しく己を知って徳を積む事に専念すれば、必ず運命は好転するものであります。これを教えるのが
正しい教えです。
ある事業家が相談に来られました。
「一生懸命商売に精出しておりますが、益々資金面が苦しくなりまして、今日は思い切ってご相談に参りました。
人の為、相手の立場を考えて、売上代金も極力無理な請求もせず、又、手形も相手の言う通りの支払い期限に延ば
して受け取っています。ところが、今日その手形が落ちると思っておりますと、不渡りになります。慌てて、先方に掛け合
いますと、ああでもないこうでも無いと逃げられ、あげくの果ては無茶を言われ、全く正直者が馬鹿をみる始末です。こ
の様な場合、先生どちらが悪いのですか。」
とのご質問です。
「仏様は、相手を知れ、己を知れとおっしゃいます。あなたが事業で貸倒になってしまうのも、本当はあたな自身が、
ご自分の事業の資金面の力を知らないからです。どんなに相手に頼まれましても、自分にこれ以上貸す力が無いと知
ったら、お断りするのが正しい商人の道です。
相手に騙されたのではなく、あなた自身が自分を騙しているのではないでしょうか。
自分に金が無い、これ以上の余裕は無いと自覚していたなら、『誠に済みませんが、表向きは有るように見えますが、
実は資金繰りに困っていますので、この商品は現金で買っていただきたい。その代わり、値段の方でサービスしますか
ら』とか万一手形取引なれば、『私の店は二ヶ月までが最大限ですから』と言い切れる商人であってこそ、正直な、立派
な商人です。
誰でも自分の見栄やら欲で、体裁の良い、力以上の事をやって最後苦しむのです。折角商取引しながら、果たして集
金出来るだろうか、手形は落ちるだろうかと、毎日不安は募り、決して喜べません。何をやりましても、喜びが欠けては
駄目です。喜べないのは、自分の方法が欲で間違っているからです。」
「次の問題はどうしたら良いでしょうか。
実は、銀行への借入金が多くなり、利息返済に困っておりますが、父から譲り受けた土地がありますので、これを処分
しまして身軽になりたいと思っています。先祖の物を売ったりしまして、バチはあたりませんか。」
「昔から、借り着より荒い着で暮らせと教えられます。
使いもしない土地を持っていて、銀行で借りているくらい不経済な事はありません。
自分の贅沢や道楽ではなく、子々孫々が立ち上がる為に、発展的に使うのであれば、先祖出伝来の土地、田畑を手
放したとしても決して罰は当たりません。
親が遺産と残してくれる財宝は、ただ持ちこたえているだけが親孝行ではありません。正しく活用し、子孫が発展し、
栄える為であれば、親や先祖は喜んでくださるのです。
あなたの店が資金繰りに苦しく、今、金融機関への利息払いに四苦八苦しているのであれば、勇敢に土地を売り、身
軽になってご商売に全身全霊を打ち込むことです。
お父さん亡き後、お母さんがご存命であれば、良くこの理、目的を話し合われ、意見の和合を計ることが第一です。
もし反対されて話がまとまらない時は辛くとも耐えて時期を稼がなければなりません。
うまく話がまとまりましたら、あなたの持つ土地の中で、一番良い土地を第一に手放しなさい。そうすれば、値段も良く、
又お金も早く手に入るでしょう。
よく世間には、人様に物を差し上げて、『自分は施しをしている、徳を積んでいる。』と思っている人がいます。
しかし、本当に人様に喜んでもらうためには、自分の大切な物を差し上げてこそむ喜ばれるのです。家の不用品を、
又、自分がいらないような物を差し上げても、もらった人もいらない物かも知れません。かえって迷惑をかけている場合
もあるのです。どうせ貰って頂くなら、貴重な物を差し上げてこそ徳が積めるのです。ただなんでも施せば良いというもの
ではありません。
もしあなたが、お父さんからもらった土地を手放されるに当たり、思うように売れなかったら、息子としてあなたは生前
中、父にどのように尽くしたかを反省しない限り、売ることも金にすることも出来ません。
父と意見の合わなかった人は、商売に行き詰まり、職に困り、最後男の人に困るのが、因果の二法です。」
「先生、よく分かりました。今まで私は、人が悪い、相手が悪い、そして自分は間違っていないとばかり考えておりまし
た。父の生前中は、父は頑固者と考え尊敬どころか、軽蔑の念すら抱いていました。根本が腐っているのですから、何
をやりましてもうまく行かないことが今分かりました。
今日から心を入れ替え、父に詫び、初心に戻って努力します。なんだか目の前が明るくなりました。勇気を出してお伺
いして本当に良かったと思います。今後ともよろしくご指導お願い致します。」
と、大変喜んでお帰りになりました。
徳のない人ほどよく怒り、よく貪り、よく愚痴をこぼして、不幸になる道を走り続けます。
心の方針が決まれば、事に当たって勇気が湧いて参ります。そして正しい目的が定まれば、後は前向きに努力、精進
あるのみです。毎日の私達の生活そのものが、幸せになる道場なのです。
経典の一節に『如来の知見は広大深遠』なりと記されています。仏様の考えは、広くて、大きくて、深く、遠大であって、
私達凡夫の知恵では到底計り知る事は出来ません。
信仰心を起こし、教えを学ぼうと一念発起したならば、常に仏縁に近づき、法話を数多く聞く努力なくして真の仏の精神
をマスターする事は出来ません。
寸暇を惜しみ、粘り強く、命懸けで精進しなさい。その努力によって仏の思想が理解出来、いかなる人も仏になれると
言明されております。
暇が出来たら話を聞く、遠いから聞く機会がない、足がないから出掛けられない、あの人が行かぬから私もやめた等、
こんな怠け根性で仏様が命懸けで説かれた教えが分かるものではなく、又自分が救われるものではありません。
仏教書を沢山読んだから、或いは大殿堂で長年修行し、火の行、水の行、座禅の行をしたから、さも仏教を知り尽くした
と考える人もありますが、これとて無駄ではありませんが、仏教の一部を知っただけに過ぎないのです。
その証拠として、長年修行し法を伝えた布教師の末路が表面地位もあり、権力も出来、立派な堂がらんを構え、人様か
らは和尚様と言われ、先生と呼ばれながら、実際は人にも弟子にも見せられぬ哀れな姿で病み、精神的に地獄の苦しみ
にあえいでいる人もあるのです。
折角の修行をしながら、何故この様な事になるのでしょうか。
人心救済即ち菩薩行はして来たと自称しても、「仏作って魂入れず」のことわざの如く、欲のため真の菩薩行が出来て
おらず、美名に隠れ、袈裟、衣を身にまとえども、行いは貪り、怒り、愚痴をこぼして自ら徳を削った末路であります。
昔からの言葉の中に『行者の行き倒れ』とありますが、このことを教えているのであります。
たとえ、身はぼろをまといながらも心が錦であって、日々の生活の中に相手を生かし、人様を喜ばす行いが即ち仏様の
おっしゃる菩薩行であり、この人こそ大自然に護られ、知らぬうちに幸福になれるのです。
仏教の偉大さは机上の空論ては分かりません。事にぶち当たり、肌で覚えてこそ分かるのであります。
仏教の教えの中に『殺生』してはならぬと戒められております。
これは単に生き物を殺してはならぬ、生臭いものを食べてはならぬと受け取り易いのですが、仏様の教えはそのような
浅い意味ではありません。
万物すべてを生かして使う事が殺生しない事であります。
例えば、昔から腕の良い職人(現在なら技術者)さんが、腕が良くても一代貧乏している人があります。
何故か、良い腕即ち技術を持ちながら、これだけは家伝極秘にして人にも弟子にも教えず、この腕を生かさず殺してし
まいますので『宝の持ち腐れ』となって、自らの家計は何時迄立っても楽にならないのであります。
金持ちの人は金に物言わせ、使いもせぬ土地を安く買い求め、何年か後、値上がりで財は増えますが、その間使わず
して持っていた貪りは、金は出来、財は増えても、金ではどうにもならぬ道楽息子を抱え、医者や薬では解決出来ぬ病人
を抱え、外見は何一つ不自由のない殿様の様な家に住みながら、地獄の様な心で苦しんでおられる人が世の中には多
いのです。
たとえ新車でも、傷つけてはならぬ、使っては汚れると考え、車庫に一年も二年もおいて置けば、いざ使おうと思っても
バッテリーが上がり使い物にならず、売りに出しても値段は一年落ち二年落ちとして何十万かの値下がりとなります。
これも使わぬ車なるが故、殺生しているのです。新築の家でも入居せず放って置けば痛んでしまいます。
金も、知恵も体も、正しく使ってこそ初めて成仏し、生きてくるのです。
私達は家庭においても、身の周辺には気づかずして随分物を殺生しております。
ご婦人の例を挙げますと、装飾品にしても、着る物にしても、高価な物がタンスの肥やしとなって眠っている事はないで
しょうか。
経済にしても斯くの如く折角貯めた定期預金も、自分も使わず、子供にも使わせず、まして仲の良くない嫁には見せる
事も話す事も出来ず、隠し持っている人も世の中にはあるようです。
利息は増えても死に金であって、紙くずをためているのと同じであります。
紙くずなら火をつけられますが、お金や定期預金などの証書では、焚きつけにもならないばかりか、お尻もふけません。
大きな事業家や、政治家、地位ある方のご家庭には、お中元、お歳暮の贈り物が随分あるはずです。
例えばお砂糖、醤油なども使いきれず、廊下やお勝手の隅でほこりをかぶっていることはないでしょうか。
これ又物を使わずして殺しておりますから、貧乏の始まりを毎日実行している姿であります。
水も上から下へ常にさらさら流れる川には、その中に住む魚は新鮮であり味も良いのであります。
逆に流れる事もない池は、水量は増えても水は濁り、中に住む魚はグロテスクであり、臭みはあっても新鮮さも味も良く
ないのと同じ事で、親の間違った人生観の中で育つ子供は、家の為にも社会の為にもならぬのが当然であります。
時代は移り変り、『使い捨て時代』から『省エネルギー時代』となり、ガソリン、ガス等の節約が叫ばれて来ました事は結
構ですが、その前に使いもせず持ち込んでいる物を生かして使う事に気づく事が優先であり、どの位無駄を省き、徳を削
らぬ生活が出来る事かと思います。
だからと言って、何でも放り出せというものではありません。『良田』を求めて施す事であります。『良田』とは生かして使
ってもらえる人の事であります。
中年の奥さんがこんな相談に来られました。
「主人が突然亡くなり一時は途方にくれまして何一つ手につかず、ノイローゼ状態となっておりました。
こんな事では亡くなった主人にも申し訳ない。まして成人した息子にも暗い思いをさせて済まぬと気づきました。」
「人は自分中心に考えますとなかなか思い通りにならず、誰もがノイローゼになります。」
「生前主人が買い残しておいてくれました土地に家を建てるのが宜しいでしょうか。現在住んでいます所は、私の郷里
の一部に居りますが、年老いた母がいますので、母の元を離れては親不孝にはなりませんかお尋ねします。」とのご相談
です。
「ご主人の買い残された土地に家を建てられるのが宜しいかと思います。あなたは元々、お嫁入りしたのであって、里に
は跡取りの弟さんがお見えですから、直接の面倒を見なくても、間接的に親に喜びを与えるのが親孝行であります。
ご主人が亡くなっても息子さんが成長され、建設資金にも見通しがつけば、いつまでも里に世話にならず、新天地に飛
躍してこそ親孝行ですよ。
親元にいるばかりが親孝行ではありません。親の本当の心を汲みとることが真の親孝行です。
それよりも勇気を出して、新天地で息子と元気で協力される姿こそ、故人に対する何よりの追善であります。今お達者
でおられるお母さんのご意見はどうですか。」
「はい、母は新しい土地へ出るが良いと申しております。」
「お母さんの賛成があれば何も心配ありません。一刻も早く腹を決めなさい。建築に当たり資金面は宜しいか」
「はい、主人の生命保険が下りておりますし、今日まで貯えました金をあわせますとどうにかなりますがね住宅ローンで
も借りては如何ですか。」
「金が無ければ住宅ローンを借りることも宜しいが、何十年かの後は元金と同額ぐらいの金利になります。
世の中には建築資金がありながら、税金逃れで銀行から長期借り入れの形式を取る人がありますが、これは欲間違い
で、貧乏になる練習をしているのです。
自分のお金があれば自分の力で建てるのが正しい考えです。金は無くなっても新築の家となった事を喜ばなければなり
ません。
もしどうしても金が足らねば、今住んでいる家と土地を売りなさい。それには地続きであるので、まず跡取りの弟さんに
買ってもらうのが道であります。」
「実は、前に弟にこの土地を買ってもらえぬかと言いますと、事業の関係上、地続きになるので欲しいけれど、金が都合
出来ぬから買えぬと言ったことがありました。
今先生から色々お話を承っている内に考えましたが、私も若くして夫に先立たれる様に男に徳がありません。
まして期待をかける息子とて、徳がなかったら夫の二の舞になっては大変と考えます。
坪数はあっても田舎の事で大した金額でもありませんし、私の病気の時から今日まで長年にわたって、里や弟にはどれ
程世話になったか分かりません。
この際お礼の意味で、弟に家、土地を無償でもらって頂いたら、地続きで弟も事業がやりやすいと思います。
こんなことでもして、里の弟に、施しの徳を積んだら如何でしょうか。」
「それは素晴らしい事にお気づきになりました。これこそ『良田』を得て種を蒔く事になります。どんなにか暖かいあなた
の心に弟さんも喜ばれ、亡き父も夫も姉弟仲の良い姿に、あの世から拍手して喜ばれる事でしょう。
新築の前に徳を積まれるのですから、工事はきっとうまく進む事間違いありません。
ご主人が夢に画いて買っておかれた土地も生き、今までの家土地は弟さんにもらってもらい、これ又生きて世に出まよ。
それが殺生せず、すべて生かす事になり、あなた方親子は、たとえ男に徳がない家系でも運命は改まって行くのです。」
「先生、ありがとうございました。もやもやしていた心がすっかり晴れてしまいました。元気を出して早速話しを進めます」
と、お見えになった時の顔色とは打って変って晴れ晴れととた顔になられ、目は喜びに輝きお帰りになりました。
私の手足となって大活躍して下さるお弟子にこんな立派な人があります。商売は自営業を家中と店員一人を抱えて
頑張り、寸暇を惜しんで仏法流布に一役買っておられます。
長男として両親に徹し切っての親孝行をされ、奥さんも若い方ですが心から協力されて、実に良く教えに沿った実行
をしておられるのです。
自分の家は借家でありながら、不自由を良く忍んで、分家へ出た弟さんには家も建て、嫁入りした妹さんも、何不自
由なく生活して見えますが、常に自分の家の事は後回しにして、支店に当たる弟や妹の事に尽くし切っています。
この姿を見て、ご両親は、跡取り夫婦にはどれ程喜んでいられるか分かりません。
家庭は円満であり、商売は繁盛に繁盛を極め小姑に当たる弟夫婦、妹夫婦からは『兄さん、姉さん』と尊敬の的で
あります。
これこそ本家としての本分を全うし、栄える道であります。本家たる立場にある者は、まず分家、支店の立ち行くよ
うな全力をもって応援してこそ、本家の威厳を保ち、栄えるものであります。うっかり欲がからむと、分家が栄えたり、
支店の伸び行くことを喜ぶどころか、手足をもぎ取る様な心使いを起こす本家がありますが、恥ずかしい限りであり
ます。
会社でも本店は金が出るばかりで、実際は支店が金儲けをするのですから、本店の新築は後回しにしても、支店
の活躍し易い様に一大応援する会社は永遠に栄えていくのです。
反面分家や支店は、常に本家、本店のお陰で今日あることを忘れず、常に感謝の意をもって、事ある度に本家、
本店へ足を運び、力が出来たらお返しする事をしなければなりません。何時までも、もらう事ばかり考えているよう
では乞食根性であって、事ある度に本家、本店に足を運び、力が出来たらお返しする事をせねばなりません。
何時迄も、もらう事ばかりを考えているようでは乞食根性であって、一日も早くも早く本家へ恩の返せる分家になって
こそ、一人前と知らねばなりません。
教えを学ぶ事によって、各自のやらねばならぬ使命に生き甲斐を感じ、勇気と喜びが湧き出て来るのです。
凡夫の私達は日々身の周辺に起きる、全ての出来事(病気・貧乏・不和)の受け方、考え方を間違えているが為、
嘆き、怒り、挙げ句の果ては、人が悪く見え始め、自ら掘った墓穴に落ちて苦しむのです。
「困る事の全ては自分が原因である」と自覚するのが、正しい信仰する者の心構えであります。
自分を直せば良くなると、まず自信を持つ事です。
山彦と同じで、『馬鹿やろう!』と叫べば、『馬鹿やろう!』とこだまして、自分に戻って来るのが自然の原理でありま
す。
ある朝、こんな電話がありました。
「実は二才の子供を置いて嫁さんが蒸発し、途方にくれ、どのようにしたらよいのでしょうか。」
事情を聞きますと、チンピラに多額の金をゆすられ、これが夫婦のトラブルの原因らしいのです。
私は、こんな話を短刀直入にしました。
「今日お金に困る事が出来たのは、過去身分不相応な贅沢をして、金を粗末に使って来たが為なのですよ。
チンピラになる人は、仕事が嫌いで、贅沢が好きで、怠け者なのです。如何なる事情にせよ、その様な人と拘わり合
いとなり困るのは、あなたの日常生活がチンピラとよく似た心ではありませんか。良く自分を振り返って下さい。」
「はい、先生のおっしゃる通り、今の仕事もあまり好きではありませんし、職も転々と変えております。お金も確かに
無駄に使って来ました。お恥ずかしい次第です。」
「あなたを責めるチンピラが悪いのではありません。あたたの怠け根性を直させる為、少々高い月謝を要求されたと
考えなさい。
絶対相手を悪く考えず、要求額は支払うと心に決めて話を進めなさい。今すぐに全額視し払えなければ、生涯かかっ
て月賦でも払いますと誠意を示すことです。あなたの正しい自覚と、相手を悪く見ない姿勢を持って、話を進めなさい。
きっと相手にもあなたの真面目な態度は通じ、なんとか解決の道が開けます。命までは取りませんよ。
次に奥さんの件ですが、どんな時でも、『相手の立場』から考えますと正しい智慧が出て来ます。
たとえ奥さんが勝手な行動を取られたにしても、可愛い幼児を置き去りにして蒸発されるに至った母として、妻の心
境は断腸の思いだったでしょう。
今日まであなたが働けたその陰には、子供を育て、家庭のやり繰りをして我が家を守り続けた裏方役の奥さんは、
どんなに苦しい毎日であった事でしょう。
あなたは、この妻の労を労い、ある時は『ご苦労である、良くやってくれる。』の言葉の一つでもかけた事はありまし
たか。
妻から見る夫の魅力は、前向きになって仕事に精出す勤労の姿以外にありません。
金が無くとも、あばらやで住んでいても、喜んで働く男の姿ほど尊いものはありません。妻に逃げられたのは、妻が悪
いのではなくあなたに男としての魅力が欠けていたのです。
『あぁ済まなかった、僕が悪かった、よく怒り、薄情な夫であった、許してくれ。』と心からお気づきにになれば、何処の
地に家出された奥さんにも、あなたの暖かい心の電波はき通じ、必ず帰って来られます。
あなたの今の心境は、『妻がいつ頃帰って来ますか』と尋ねたいでしょう。逆に私があなたにお尋ねしたいのは、『あ
なたの根性がいつ頃変わりますか』ということです。今からでも改められれば、直ちに何らかの方法で連絡があるでし
ょう。」
「先生、骨身にこたえてよく分かりました。みんな私が悪かったのです。今から心を入れ替え、自分の姿勢を正します。
」と、大変率直に話を聞いてもらいました。
しばらくしますと、日曜法座に出席され
「先生、ありがとうござました。先生のお話を聞いている内に、悩み続け他問題もすっかり晴れました。
こんな嬉しいことはありません。自分が全ての責任である事を忘れ、相手ばかり責めておりました。初めて目が覚め
た思いです。これから頑張ります。」
「それはよかった、真の仏法に縁を結び、これから生きる正しい道を学べた事は何よりの宝ですよ。
今悟ったからと言っても、まだまだ平和の家庭を築くには、何回も行き詰まり、泣きたいたいような事は起きて来ます。
その時こそ何回でも指導を受ける事ですよ。聞いては進み、聞いては行うことを忘れず努力して下さい。」
と、付け加えたのです。
幸、不幸の決定者は我が身と知った時、勇気も湧き、さあ頑張るぞの嬉しさがおのずと湧き出てくるのです。。
自行化他(自分が行なう事によって他を化す)と知るとき、自分の尊さが自覚できるのであります。
人誰もが尊い仏性を持っているのですが、この尊い仏性は煩悩に埋もれてなかなか目を出しません。仏縁に触れ。
教えを聞くことによって初めて、真価を発揮するのであります。
著 田中偉仁
心のひかり 心のとびら 心のオアシス 心の宝
ウンド・ロッヂ伊吹(音楽合宿 ゼミ合宿歓迎)
サウンド・ロッヂ伊吹
心のオアシス 心のとびら 心のひかり