★ 究極の認知症対策 | ★ 最大の徳積み |
★ 夏休みに備えて | ★ 自死を防ぐ生き方 |
★ 日本文化の素晴らしさ | ★ 儀礼儀式は自覚と覚悟 |
★ 人生の岐路 | ★ ご利益が出る信仰 |
★ 罪の大掃除 | ★ 人生の迷子になるな |
★ 良田に種をまく | ★ 時は金なり |
★ 忘己利他 自利利他の心 | ★ 生かされている大自然 |
★ 利他の心を育もう | ★ 三徳と三毒 |
★ 真の仏弟子とは | ★ 恋慕と渇仰が運命を拓く |
★ 智慧の力 | ★ 利他の実践をしよう |
究極の認知症対策 )
いま認知症親を抱え、経済的、精神的、躯体的に、に家庭崩壊の危機が大きな社会問題になっています。
施設や病院は出来る限りの看護をしてくれますが、家族のような触れ合いはできません。家族との楽しい会
話と肌の触れ合い、五感で感じる生活が究極の認知症対策です。
あるご家庭に先祖供養のお経上げに伺いました。そこには八十八歳になる老母が見えます。久しぶりにお
会いしましたので「お母さんお元気でよろしいね。娘さん夫婦に大事にしてもらって幸せですね。」と声を掛け
ますと、奥さんのお母さんを面倒見ているご主人が言われました。
「先生、今は元気になりましたが、一年ほど前に転んで腰を骨折し、三ヶ月ほど入院しました。三か月後やっ
と会うことが許可され面会にいきましたら、婿の名前も解らず、完全に認知症の状態でした。これではいけな
いと思い、骨折は治っていましたので、家に連れて帰りました。夫婦で頻繁に寿葉をかけ、手を引いて散歩に
出かけ、一緒に食事をし会話をするようにしていましたら、見る見るうちに回復、し今では普通に会話もでき、頭
もしっかりしています。あのまま病院にいたら、今寝たきりの認知症患者になっていちと思います」と驚きのお話
でした。
家族の楽しい会議で五感(目と耳と鼻と口と身)の触れ合いが、認知症の予防と治療の秘訣です。テレビのお
守りは、目と耳だけの二感ですからダメです。一方的に情報が流れてくるだけで会話になりません。リモートは
会話は出来ますが、三感(目、耳、口)ですから不十分です。子供のテレビケームも同様です一方通行ですから
正常な成長には危険です。紙芝居やお母さんの読み聞かせは、五感と第六感(意=心)を使って雰囲気や臨場
感を子供が肌と心で感じて感受性豊かな人間に育ちます。
年を取ると会話が減り、孤食となり、手を握ってたり、肌の触れ合いが少なく脳に刺激が無くなり、認知症が進
むのです。昔は、親子孫三代同居でしたから、孫の世話をすることによって手を繋いだり、ハグしたり、会話をし
て認知予防につながっていたのでしょう。核家族は若夫婦にとっても親夫婦にとっても「気を使わない」から楽で
すが、互いに気を使う適度な緊張感がいいのです。緊張感や刺激のない楽な生活のつけが回って、年老いた
親の認で本人もみじめであり、子供たちも困っているのが現代社会の実態と言えます。
胎児や赤ちゃんの脳の発達にはスキンシップ、皮膚感覚が決定的に重要で皮膚は第ニの脳と言われています。
胎児がお腹の中でお母さんの子宮に足や手で触れたり背中で触れることが、脳の発達に大きく影響するひこと
が最新の医学で照明されています。真正会で胎教中の母親のお腹をお経を唱えながら拝む一心行は、お経が
胎児に伝わり仏縁の深い福徳円満な子に育つのです。昔から」肌が合わない」とか「肌で感じる」という言い方が
ありますが、昔の人は経験的に皮膚の働きの大切さを知っていたのでしょう。
ライフスタイるもたようであり、親の世話は長男夫婦だけではありませんが、「親密」という言葉の通り、たとえ同
居していてもいなくても、親との連絡や触れ合いを密にすることが現代社会に必要なのです。
失敗に対する姿勢の違いで、その後が大きくかわる。
失敗の原因の多くは、成功する前に諦めてしまうことだ。
最後の最後まで諦めてはいけない。
。
最大の徳積み
宗教はまず実行が肝要です。いたずらに理屈が分かったからと言って、それで人間性が良くなるわけではあり
ません。正しい理論も実践してこそ功徳があるのです。
私たちの日常生活は喜べることばかりではありません。知らぬ間に罪の業は累積され、ある日突然思いもよ
らぬ問題が起きて右往左往するのです。故に悲しいことが起きる前に少しでも徳を積んでおくことが大切です。
徳積みの最大は妙法広宣流布です。善業はそろばん勘定から言えば損ばかりでしょうが人は損のくじが喜
んで引ける間は栄えます。分の良い話に飛びついた人が、最後は大失しているのが世の姿です。
例えば法を広める法坐を開く功徳は、多くの人に喜ばれ、救われた人たちの悦びは法坐施主の喜びとなり、
わが家の徳となって、一家繁栄の基礎となるのです。
夏休みに備えて
子供にとって嬉しい夏休みがやって来ます。しかし、親にとっては子供の行動をいかにして監視すほべきかと
苦しみの増えるご家庭も多いと思います。休みに入って一週間や十日は平穏無事でしょうが、半ばを過ぎると親
のイライラが増し、愚痴と不足がこぼれ始めます。そんな頃から子供はヤンチャを言い、中学高校生ともなれば
反抗的になり暗雲が漂い始めます。この夏休み中、暖かい親の応援があれば子供は思わぬ成長をするでしょう。
それには、子供から見られて「話のわかる親」とならなければなりません。
そして、縁に触れ折に触れ、子供の人格を認めて、人の道を教えることです。小さな頃から「誉めては教える」
努力こそ尊い躾であり、楽しい夏休みになるのです。
社にも妙法(正しい教えはすべて妙法)が伝われば、世界中が楽園になるのです。
自死を防ぐ生き方
五月に〇〇倶楽部の●●さんが自死され、あんなに良い人が何故と芸能界や社会に衝撃が走りました。
その前は俳優の△△さん 、女優の◇◇さん、若手俳優の□□さんが自死されました。一見華やか成功街道
まっしぐらに思える有名人でも、どんな良い人でも悩み苦しみはあります。
この世は「苦の娑婆」なので苦は無くなりません。苦の無くなるのはお悔み(苦止み)の時以外ないのです。
一流になりトップになるほど人に言えない苦悩が出てくるのです。人生に行き詰った時に必要なのが、心から
相談出来る「教えの師」であり「法の友」です。残念なことにこの方々には、死にたくなるほど苦しい時に相談で
きる「師」がなかったのです。
お釈迦さまは「善き法の友を持つことは教えのすべてである」と申され、開祖さまは、親にも言えない、友達に
も言えないことでも相談できるのが『教えの師』であると言われました。お釈迦さま以来、師匠から弟子へニ千
五百年間途切れること伝えられたのが仏教です。開祖さまは常に「生きた師」を持てと教えられました。そのみ
教えのとおり,第一の師が亡くなられたら第二の師、第二の師が亡くなられたら第三の師と晩年に至るまで師の
添削を受けられ自身を磨き続けられたのです。最近は仏教の解説本や人格形成の本が巷に溢れ、独学する人
も多くみられますが、読書仏教、読書信仰には限界があり、師のない仏教はあり得ません。どんな小さな悩みで
も遠慮なく真生寺や教会を訪ねてご相談下さい。きっと希望の光が差し込み、大安心の人生を歩むことが出来
ます。
人生を変える言葉の力 正しく伝える
言葉には言霊と言って、人の人生を大きく変える力があります。一言で相手の人生を大きく前進させることも
絶望させることもできる言葉はとても大切です。
ある女性が知り合った男性と結婚の約束をし、彼の実家である東北の田舎に大阪から北陸線の夜行列車に
乗って彼の両親や兄弟親戚に挨拶に向かった。
もともとあまり賛成されていなかった恋愛だったので、不安を抱きながら向かった。途中大雪のため列車が進
めなくなり大阪に戻ることになった。携帯電話かない時代、彼の実家に連絡が取れない。約束の時間に間に合
わない。万事休す。思わず「鳴呼!やり切れないわ」と一言嘆いたら、隣に座っていた老紳士が「どうされました
か」と尋ねられ、事情を話すと「槍は切るものではなく、槍は通すものです。あなたの目的をやり通しなさい」と力
強く励まされ、東北に向かう方法は他にもある。米原まで戻って新幹線に乗り換えて、東京でまた乗り換えて行
く方法があると教えられ勇気を取り戻した。
しかし、東海道新幹線も途中で大雪でストップ、在来線を何度も何度も乗り換え、三日かかって到着した。もうダ
メかもと思いながら駅にたどり着いたら、彼が駅で待っていてくれ、、両親や家族も心から迎えてくれて、反対で
あった結婚が成就できたということです。彼女の不屈の努力もさることながら、一人の紳士のユーモアがあり、正
しい言葉の受け止め方と伝え方で一人の女性の運命を救ったことに感動しました。一声が人を生かす「ひと声」
となったのです。
日本語は素晴らしい。特に教えの言葉、受け止め方の素晴らしさを私たち宝の持ち腐れにせず、勇気と妙法
行の使命感をもって伝えましょう。
①難が有るから「有り難い」
②なったことを喜ぶ (すべては仏さまのお手配なのだから
③徳が本なり、財は末なり(人に悦びを与えた徳をが本当の財産))
④お陰さまの人生(目に見えない仏さまや先祖に守られて今日がある)
⑤心が小丸だから困るのだ、大丸になれば困らない。
⑥鉄砲玉は真綿で受けよ(どんな強い相手も柔らかく受ければ散らない)
言葉の受け止め方で人生は変わるのです。
免疫異常の病気を治す
どんなに医学が進んでも病気は無くなりません。
現代病の一つとして免疫異常の難病が増えています。潰瘍性大腸炎、リウマチ、川崎病、膠原病などの免疫
異常の病気が、幼児、若年、中年、高齢者の年代を問わず急増しています。幼児の病気は親の心の心得間違
いから生じます。
免疫異常とは、自分の体を外からのばい菌やウィルスから守る大切な自己防衛機能が自分の体の一部を外
敵と勘違いし、自分の体を攻撃し破壊する病気です。つまり、本当は自分を守っていてくれる大切な親や夫婦
や家族の一面や一部分だけを見て悪く思い、反発・反感・否定・という攻撃的な思いを強く持っているからです。
もしくは自己防衛の思いが強すぎて、自分の立場や利益を守るために相手を攻撃したり精神的に束縛したりする
こちが原因と言えます。
特に最近は「潰瘍性大腸炎」の患者が増えているそうです。
慢性的に下痢や腹痛を繰り返し、突然症状が起きるので仕事にも影響が出て安心した働けない辛い病気です。
大腸は父親や夫、目上(長)に対する悪念、怨み憎しみ、反発、反感が原因です。自分は親や夫に守られてい
る、社長や目上の人に守られている、有り難いと心から感謝する。もう一歩進んで「自分が親を守ろう、幸せにし
てあげたい」と考え方を切り替えれば、原因不明の難病い゛も必ず、薬や治療が効き治っていきます。
しかし、病気は気を病む、つまり「心癖」ですから、うっかり元の心が起き始めると再発するので、常に教えという
良薬を飲み続け、主治医(教えの師)のカウンセリング(添削)を受けることが不可欠です。教えは「心が変わればた
ちまち世界が変わる」特効薬であると同時に、ずっと飲み続けて「心癖」という体質を変える漢方薬と同じです。
法華経信仰は、目の前の悩み苦しみの解決や念願成就だけでなくも人格完成の成仏を目標に精進することが
本来の目的です。ああ助かった、もう大丈夫と苦の解決や願い事の成就で油断し信仰から遠ざかったり、精進を
怠ければ早晩元の木阿弥になってしまします。
若者は大物に合わせよ
大きな仕事をさせて力をつけさせよ
下の者を育てるには
卑屈にさせてはいけない 自信と誇りを待たせよ
日本文化の素晴らしさ
カトリック教徒であるヨーロッパのエリート達が日本文化の素晴らしさと仏教、特に法華経の広大なる考え方に
感動し、仏教徒に変わりつつあると聞く。戦後八十年余りの間に日本の家族制度の美点、日本建築、日本食な
どの良さを本家本元である日本人の私達が見失い捨ててしまっています。そしい、これがさも「近代国家なり」と
とぼけた感覚で、挨拶一つできない、体格はよくなったが根性のない若者を育ててしまったのではないでしょうか。
オリンピックで金メダルを取り、表彰台に上がる選手を称え、国旗を掲揚し国歌を奏でる瞬間は誰でも感動を覚え
るでしょう。しかし、平素日の丸を揚げたり君が代を歌うことすら忘れてしまって、そんな時だけ日の丸だの君が
代では滑稽としか言いようがない。平素から日本のすばらしさ、わが家庭の良さ、わが親の尊さを確認してこそ、
他国からも認められ尊敬される姿ではないでしょうか。
儀礼儀式は自覚と覚悟
仏教の大切な教えの一つは「中道実践」です。何事も「過ぎたるは及ばざるが如と」の格言のように、偏りすぎ
たり、頑張り過ぎたり、無理しすぎたり、やり過ぎたり、消極的過ぎたり、おとなし過ぎたり、はしゃぎ過ぎたり、
つまり極端な考え方や行動を戒めています。
最近の世相を見るに、儀礼儀式の大切さが゛非常に軽んじられています。合理主義、個人主義が行き過ぎ、守
らなければならない歴史や文化や伝統、人とのつながり、義理人情が無用の長物の如く切り捨てられるのは由々
しことであり、将来の日本社会や人間関係の在り方が大きく歪む心配があります。
特にお葬式の在り方が大きく変化し、「費用や準備が大変で面倒だ」「香典返しが面倒だ」「家族の知らない人
が多くて聴聞の対応が面倒だ」などと様々な理由で家族葬が流行りだし、無宗教でお坊さんも呼ばずお経を上げ
ない,延いては簡素が行き過ぎた「直送」が如くは、病院から斎場へ直送し、故人の人間性も品格も人生の歴史
も無視するような葬儀が増えてきたことは残念なことです。「大変」とは大きく変わる時です。喪主として葬儀を取り
仕切り、お礼の挨拶をすることによって「当主が代替わりする自覚と覚悟」ができ、社会からも後継者として認知さ
れるのです。
正しい信仰の在り方
〇〇〇教会の問題により、本物の宗教、本当の信仰の在り方が問われています。「宗教はアヘン(麻薬)なり」
という言葉もありますが、信仰のやり方を間違えると崩壊してしまいます。社会から見ればまさに「宗教はアヘン」
であり、すべてを狂わせてしまうのです。
折角子供や家族のために始めた信仰によって子供がダメになったり、家族が不幸になってしまうのは本末転倒
です。これは指導者にも大きな責任があります。子供が良くなるには、子供に強制して良くするのではなく、親の
実践する姿を見て親を尊敬し、自然に親孝行の良い子供に育つのです。
宗教の「宗」とは家の中で実践して示すのが宗教です。何を示すのか「教」とは親に安心を与える、親に喜んで
もらえる親孝行を実践して示すのが「宗教の本質」です。
「法施、身施、財世」の徳積みは大切なことですが「炊事、掃除、洗濯」の家事を放ったらかしにして家を留守に
し、家庭が崩壊するような財施(献金)の仕方は偏った極端な信仰であり、教えのない家族や一般社会から見れ
ばこれを「カルト信仰」というのです。
しかし、信仰は趣味や片手間仕事ではありません。自分や家族の人生と運命を変えるという大事業なのです。
「一心欲見仏、不自惜身命」熱心でなければ「因縁の切り替えや不徳の穴埋め」はできません。家事や子育てや
仕事を六割七割こなして時間を作り出し、教会道場に足を運び、教えを学ぶ熱心な精進があってこそ幸せがつか
めるのです。だからこそ、積善の徳積みやお参りをおろそかにしていては、いざという時に仏さまのご守護は頂け
ません。月初めの一日法坐や日曜法坐には必ずお参りして仏縁法縁を深め、「因縁切り替えや徳積み」の実践
方法を学び,師の添削を受け、仏さまのご守護頂くを信仰基盤を築きましょう。
法坐や法要行事に参加する時は、ギリギリであったり遅刻をしないように心がけ、心と時間に余裕を持って参
拝しましょう。
特にご法を伝える法施、奉仕やお役当番の身施、例月供養や先祖供養の財施の功徳は、「まさかの時、非常
時」に現れます。
常にご法の徳を積み続けている人は、人生に粘りがあるのです。病気になっても、事故にあっても一遍には死
至りません。乗り越える力があるのです。
ご法のことは娑婆の用事やお金儲けの仕事とは大いに違います。平素やるべき家事や仕事をとしっかり実践し、
家族や社会から信頼された上でお参りの時は全力を集中するというメリハリと情熱ある信仰をしてこそ大きな問
題や悩みが解決するのです。正しい信仰、正しい実践のお手本になるよう努力精進お願い致します!
夢のない人生は暗い 誰でも夢はある 夢はなくならない
しかし目の前の執着という指一本でで
何も見えなくなってしまう執着という指をのければ
夢はまた見えてくる
人生の岐路
人生には三度慎重に考えばならぬ岐路がある。①食を定める時 ②結婚に踏み切る時 ③親の死んだ時
この時の考え方が間違ったら生涯禍根を残し失敗の道を歩むのである。こんな立場の時は、親か信じる徳人
の意見を聞き、添削を受けるのが賢明な策である。
二十二歳の同年齢の若者が恋愛をし結婚を申し出したら、彼女の親に大反対をされたというカップルが相
談に来られた。良さそうな青年であり、優しそうな娘さんであるが、何故親が反対するのか。表面上は良さそ
うでも、親から見ると中身である二人の考え方が一人前に成長していないから反対されるのです。経済力、住
宅問題、職業の不安定はないかなど、親から見ると信用がないのです。失敗させたくないという親心なのです。
恋愛は反対しませんが、成人になったら自分中心の考え方で事を選ぶのではなく、相手の立場を考えて行動
することが出来てこそ一人前なのです。
ご利益の出る信仰
長年信仰していても目に見えたご利益が出ないと、信仰がマンネリ化して情熱が冷めてくる人があります。
せっかく信仰をしながら、なぜ結果現象としてのご利益が現れないのでしょうか?
それは、教えが知っているだけの知識になってしまって「あれも知ってる。これも知っている。」と自高我慢に
なって本当の実行ができていないのです。知っているたけの知識の教えでは問題解決の力にはなりません。
納得出来るまで師に何度でも相談し指導を受け「なるほどそうか」と腹に落ちれば実行ができ、ご利益という
答えが出るのです。
「問思修」師によく聞いて納得し、腹に落として教えられた通りに実行するという信仰の基本がしっかりして
いればご利益は出ます。自分流に考えて、自分に都合の良いことだけを実行する「思修」の信仰では結果は
出ません 。
無功徳の功徳
何か良いことが起きることを仏さまの功徳と思う人が多いと思いますが、今日一日が大禍なく、当たり前の
ように過ごせることも目に見えない仏さまの大きな功徳であり、これを「お陰さま」無功徳の功徳と言うのです。
信仰心のない人は、学歴。地異・財産という現実にある目に見える自力を頼りに生活していますが、自力で
はどうしようもない事故や病気や通り魔など想定害外の出来事に見舞われた時はアウトになってしまいます。
「煩悩ありと雖も煩悩なきが如く、生死に出入すれども怖畏の想なけん」と経典にあります。病気や悩みがあ
ってもその苦に振り回されず、生死にかかわるような大きな変化にも動揺が無くなることも大きな功徳です。
信仰心があり平素からお経を上げ,仏さまに徳積みをしている人は、まさかの時、人智人力を超える力、目に
見えない仏(大自然)の大きな計らいや先祖の念に守られ「お陰さまで無事でした」と大難が小難、小難が無難
になるのです。常に目に見えない仏さまのバリアーで守られているのです。熱心な信仰者でも、ついうっかりお
経上げや徳積みを忘れバリアーが途切れると、途端に事故や病気や不和などの禍が起きるのです。
人間改造の妙法
仏教とは「すべての人が仏になるための教え」です。釈尊の説かれた八万四千という膨大な経典の中で法華
経は「諸経中の王」であり、「人を救い、世の中を良くする」という菩薩行によって自分の人格を完成し良い人間
になる、つまり成仏するための教えです。また、そういう「菩薩を育てるための教え」です。
法華経は人間いかに生きるべきかが説かれており、すべての人間に内在仏性を磨き出し、潜在的可能性を発
現させ、あらゆる困難らも挫けない確固たる自分に生まれ変わることができ「人間改造の妙法」というのです、
よく起こる人が優しくなる。よく愚痴をこぼす人が感謝できるようになる。欲の深い人が施し強くなる。消極的な
人が積極的になれる。怠け癖の人がよく働くようになる。親を恨んですて人が親孝行になる。人の欠点ばかりが
苦になる人が長所が見れるようになるなど、法華経の教えと経力によって、まったく新しい自分に生まれ変わる
ことができるのです。妙法の教えをたくさん聞き、毎日お経を上げ、菩薩行を実践すれば、生まれ変わった充実
した生き甲斐のある人生が送れます。
人生の使命を知る
人間は年を取るから老いるのではありません。理想を失い、現実に甘んじるようになると若者であっても精神的
に老いるのです。余生安楽き「老いの泉」であり、死ぬまで世のため人のために行動することが「生命の泉」です。
「死ぬまで生きる」は開祖さまの名言です。老人が最後まで人間らしく生きるには「働き続ける」ことです。「働く」
とはお金儲けではありません。体力は衰えも愚痴をこぼさず、自分のできることで傍(周囲)に楽(希望)を与えるこ
とはできます。年を取っても引っ込み思案になってはいけません。発想も行動力も年寄り臭くなります。孫や若い
世代とも交流して流行を知り、経験の知恵を伝え、そこにいるだけ、生きているだけで重みのある「文鎮老人」に
なることです。
若者も自分だけの成功、自分だけの小さな幸せをょ求め、それで満足するようなスケールの小さな「青年老人」
になってはいけません。せっかくの人生を「どうしたら世のため人のために貢献できるか。何人の人を幸せにでき
るか」と常に情熱を燃やし、自らを鼓舞して夢と自信に満ち溢れた青春を生きましょう。人間の精神を支えるもの
は使命です。
自分は何のために生まれ何のために生きるのか。その最高の意義を説いているのが法華経です。自分の成
功や家族の幸せも大切ですが、自分の家家だけが平和で幸せでも、隣が不幸という火宅であれば、自分の家に
もいつ飛び火してくるかわかりません。個人の幸せという小さな人生観から脱却し、一人でも多くの法友をつくり、
共に幸せになるための法華経を伝え、人のために尽くすことが自らの生活と生命を守り、仏の境涯へと近づいて
行ける秘訣なのです。
その実現のためには、日々の足元の実践が大切です。親を大切にし家族を幸せにしてこそ、他人を幸せにでき
るのです。今日の仕事に喜んでいる人が、世の中を良くすることができます。日常の個人的なわがままを卒業し
てこそ、家族や同僚から認められ尊敬されてこそ、大きな夢と使命が達成できるのです。
生きるとは希望を持つこと 人は希望がなければ生きられない
希望がなければ探せばいい もしその希望さえ失ってしまったら
最初から作り直せばいい そうやって生きていくのが人生
罪の大掃除
私達の日常生活は毎日が喜べる日ばかりではありません。家の中で、畳の上で、毎日怒っり愚痴をこぼした
りして、どれくらい罪を作っていることでしょう。あたかもほこりが溜まるのと同じ状態です。家のほこりは毎日掃
除しますように、月に一回ぐらいは教えを聞いて心の大掃除をしない限り、特別に大きな悪い事はしていなくても
、知らぬ間に業は累積され、ある日突然思いもよらぬ問題が起きて右往左往することになるのです。
故に悲しいことが起きる前に、少しでも徳を積み、罪の大掃除をしておかなければなりません。善行は、そろば
ん勘定から言えば損ばかりでしょう。しかし、損のくじが喜んで引ける間は栄えます。部の良い話に飛びついた
人が、最後大失敗しているのが世の中の姿です。
人生の迷子になるな
皆さんの人生は充実していますか。 沢山の収穫はありそうですか。
こんなに一生懸命やっているのになぜ? 一体自分は毎日何をやっているんだろうか? このままでいいんだ
ろうか・・・? 人生の迷子になっていませんか。ひた向きに努力しているのに心にも生活にもゆとりが無くなって
いませんか。
目先のことばかり、一生懸命になってはいませんか。反対に夢ばかりが大きくて足元が揺らいでいませんか。
今どこにいて、じこに向かって進んでいるのか、居場所も目的地もわからなくなり、茶ノ木畑に迷い込み、毎日が
不安と不満に囲まれ、人生の迷子になっていませんか!
道に迷った時は出発点、原点に戻ることです。
就職した時の原点、結婚した時の原点、子供が生まれた時の原点。
「初心忘るべからず」最初はどんな純粋で率直だったか、あの時の情熱はどこへ行ったのか、原点に戻って人
生を眺め直してみたら、今の居場所も、進むべき目的地もきっと見えてきます。見えたら、勇気を出して歩み方
を変えてみましょう! きっと光が見えてきます。
幸せな人も不幸な人も一生懸命
幸せな人も不幸な人もどちらも一生懸命生きていますが、不幸な人は、不幸になるに間違ったことを間違った方
法で一生懸命頑張っています。
「火の車作る大工は無けれども己が作りて己が乗りゆく」根から悪い人はいませんが、人生のどこかの時点で、
正しい真理ではなく自分流の間違った偏った考え方を持ち、不幸な方に向かって一生懸命頑張って来られたのだ
と、仏さまの真理の教えに照らし合わせると一目瞭然なのです。しかし、自分で正しいと思って生きて来ているので
、自己採点では間違いに気付けません。教えの師の添削指導を受け、仏さまの真理の物差しで自分の人生を計り
直すしかないのです。
プロの意見を聞いて
現在の教会の建物は築五十念を過ぎ、別館も築四十年を過ぎ老朽化と、外壁も傷んであちらこちらひびが入り
、
雨漏りもひどくなってきました。
今まで素人大工で応急修理してきましたが、特に教会屋根の雨漏りが激しく、天井裏には十数個のバケツが置
いてあります。今はホームセンターに行けば素人大工用の道具や材料が売っていますので、物干し場から気を付
けながら大屋根に上がって瓦屋根の雨の入り込みそうな所にコーキング用のシリコンを打てるだけ打って補修を
してきましたが、なかなか雨漏りきは止まりません。
プロのちゃんとした補修が必要と思い、塗装業者とさんと瓦屋さんに現場を見てもらいました。
「蛇の道は蛇」「餅屋は餅屋」の諺のように専門的な分野に関しては、専門の人に聞くのが正しいのです。
現場を一目見た瓦職人さんが、開口一番「これではダメです。折角苦労してやられましたが、一番やってはいけ
ない最悪の所にコーキングをしてあります。隙間を埋めたつもりが雨水の通り道を塞いでダムを作り、そこに溜ま
った雨水が溢れ出て雨漏りになっているんです。コーキングした後の方が、前より余計に雨漏りしていませんか」
言われる通り、雨漏りは止まっていません。かえって屋根裏のバケツが増えました。所詮素人と素人、自分流で
一生懸命やっても「労多くして効少なし」であったことが分かりました。
屋ね瓦の仕組み、雨水が瓦屋根を流れていくシステムを知りませんから、一生懸命間違ったことをやっていた
のです。本職からコーキングを打つ正しい場所を教えてもらって「なるほど」と納得できました。
自分流では最後苦労の末、自分が流されてしまいます。自分流でめくら滅法、闇雲に頑張っても、幸せになれる
どころか、やればやるほど幸せから遠ざかってしまいます。
人生のことは伴星のプロに聞く 教えの先生に聞い尋ねて行うことが大切なのです。仏さまの真理を学び、大自
然の哲理、世の中の仕組み、徳の積み方をしっかり学ぶことです。「聞くは一時の恥、聞かぬは末代の恥」と言い
ますが教えを聞かない人生は「末代の苦労」となってしまいます。
年を取っても転ばない心構え
簡単です。一声で言えば何事にも不足わ思わない、喜んでやることです。
大きな岩につまずいて転ぶ人はありません。小さな小石や小さな段差につまずいて転ぶのです。つまり、日々の
生活の中に小さな不足不満が溜まると何かに引っかかって転ぶのです
ある高齢者さん家族の話です。
六十歳半ばの娘さんがパートに出かけた後、九十歳過ぎの老婆が娘のやり残した洗濯物をしたり、娘婿の昼食
の準備をしたり、いろいろ仕事を見つけては家事をしてみえます。
転ぶと危ないから、ハートから帰ってから私がやるからと言っても、おばあさんは「大丈夫、気を付けてやるから」
と言って動くので心配ですというお話です。
おばあさんは「私は少しでも家族の役に立てることが生き甲斐で、楽しくやっています」と言うことです。
私は二人に申し上げました。「娘さんの心配はもっともですが、お年寄りから仕事を取り上げたら、すぐにボケて
しまいますよ。おばあさんが、なんこんなでことまでしなければならないのかと、不足を言いながらやっていたら心
配ですが、喜んでやって見えてますから、転びませんよ。娘さんも、おばあさん有難う、助かるわ!と感謝の気持
ちを忘れなかったら、おばあさんが怪我をしていることはありません。
世の中には言った通りになりますから、『何もやってはいけない。じっとしていればいい』と口ぐせにしていると、
病気をしてでも転んででも本当に動けなくなってしまいますよ。」
お年寄りの気持ち、世話をする立場の気持ちをお互いに理解し、感謝と喜びの心があれば、決して困るような
ことにはなりません。
<小さな不足から、大不足が生まれ、小さな喜びから大喜びのことが生まれる>
これが仏さまの真理です。
自分の好きなことをしていて夢を叶えたいならはせ
人がやりたくないことでも、いろいろしっかり勉強すること
そうすれば、夢を広げる力ができる
勉強が足らなければ、夢の選択肢が狭くなる
良田に種をまく
人に迷惑もかけないが、人のために良いこともしない。これでは先細りのじり貧となってしまいます。人生は
良い種も悪い種も、知って蒔いた種も知らずに手からこぼれた種かも生えてくるのが真理です。同じ種でも滋味
豊かな良田に蒔いた種は育ち稔りも大きいのです。良田とは仏事のこと、親や恩人、社会貢献のことです。
徳積みの種まきにも順番があります。経典に「篤く三宝(仏・法・僧)を敬い普く衆生に施し」とあります。まず仏事
のこと、法の弘まること、法を伝える人に感謝の布施をすることです。その次に普く衆生、つまり親や家族、広く
社会に施すのです。「人生は徳が本なり、財は末なり。徳積めば物は自由になるものを徳も積まずに困る世の人」
と教えられています。
力と願いに応じた施し
日本の税金は累進課税です。収入の多い力のある人が沢山税金を払い、収入の少ない力のない人を支えると
いう仕組みになっています
イスラム教では「ザカート」と言って、お金持ちが貧しい人に施すのは当たり前で、お礼は言わないそうです。そ
れは神様から富を託されたお金持ちの義務だからそうです。日本でも昔は財産家のことを「お大尽」といいました。
つまり、財力で大きな施しをし、世のため人のために尽くす人のことです。
あるおばあさんの相談です。
「先日、孫が下宿先から帰った時、お腹の周りに湿疹ができ、かゆがっていました。ちょうど久しぶりに兄弟で食
事に行くというので、あなたが食事代を出して施しの徳を積むときっと治るよ言いましたら『おばあさん、それ本当
?だったら僕が今日はご馳走するよ』と率直に聞いてくれました」
かつて開祖さまから、湿疹やかゆい病気の時は、施しをすると治ると教えて頂きましたから、そのように伝えまし
たが良かったでしょうか」
「おばあさんの助言は正しいと思いますよ。孫さんは一流企業に勤め給料も高く、毎月例月供養もされ実家にも
生活費の応援をされていますし、真面目で無駄遣いをする青年ではないけれど、きっと貯まり過ぎたんでしょうね。
力に応じてもっと施しをすると運命が良くなっていきますよ」
「先生、実は気になることがあります。今度、嫁が車を買い替えるので、私も孫たちもお金を出して協力したので
すがこの上の孫は、もっと出した方がいいと思うのですが、どうでしょう」
「どのくらい出されたのですか?」
「はい、○円です。孫は将来結婚して家を建てるために、しっかり貯金していると思いますが、親孝行のつもりで
もっと出すといいと思うのですが・・・・」
「そうですね。○円も決して少なくないですが、孫さんはもう適齢期も過ぎ、いくら貯金があっても結婚が決まらな
ければば、貯金も役には立ちませんね。思い切って母親に喜んでもらう徳を積むと結婚運が開けるでしょうね。お
ばあさんはどのくらい出すといいと思いますか」
「はい、私は□円ぐらいは出すといいと思います。結婚すると付き合いが増え、何かと入用が多くなり、そんなに
出来なくなりますから、今の独身のうちがチャンスだと思います」
さすが長年信仰で鍛えられ、どんなに苦しい時でも邦法座を聞き続け、法の施しと徳積みによって病気や経済
苦など幾多の問題を乗り越えられた方は、徳を積むことに対する絶対の自信があり、年を取られても徳の積み方
のスケールが違います。
「おばあさん、私もそれがいいと思います。あなたには長年信仰で培われた徳分と自らが徳を積んできた体験
がありますから、自信をもって孫さんに伝えてあげて下さい。親は良田であり、一回だけでなく何度でも機会ある
たびに、良い種を蒔いておくと時期がくれば何倍もの徳の収穫がありますよ」と申し上げました。
反対に富士の山ほどの大きな罪を作り、先祖からの不徳の因縁の大きな落とし穴があったら、スプーンに一杯
や二杯徳を積んですぐに解決するものではありません。ダンプカーで何倍分も運ばなければ罪の大穴は決して埋
まりません。
また折角埋めた罪の穴も油断して放置しておくと、気付いた時にはまた穴が開いてくるものです。
なり、高速道路でも繰り返しアスファルトの補修工事をしているから、安心して走れるように、人生も同様、生活が
豊かなり、学歴もでき、新築に住み、新車に乗れるよう生活は、人生の高速道路です。しかし、高速道路の事故は
大事故につながります。幸せというスピードが早ければ早いほど、人生街道の点検補修を続けていく必要がある
のです。
人生の点検補修の基準になるのが仏法です。常に自分を磨き、仏さまのものの見方「今の考え方や行動が徳
が積めているのかどうか。自らも喜び、相手にも喜んでもらえるかどうか」が幸不幸の分岐点になるのです。
お金の正しい使い方
お金のことを「お足」と言います。足の役目は動くことです。お金は貯めこんで動きを止めてしまったら萎えて力
を失います。どんなきれいな水でも流れが止まったら腐り始めるのと同じです。お金は自分のためだけではなく、
仏事や神事への布施、寄進、ご先祖への追善供養、親や家族、人や世の中のために使ってこさ活力ず保たれる
のです。つまりお金は善いことに動かしながら、貯めていくことが大切です。
《考は百行の本》と言います。時には子供に徳を積んでもらう受け皿になることも、子供の将来の幸せのための
親の役目だと自身を持ちましょう。
皆さん、徳積みの大切さを知り有難さを信じましょう。布施は仏の境界に近づく第一歩です。特に法の施しは、
財施の百倍千倍、百千万億倍の功徳があります。家族や友人等縁ある人に法の施しを実践して、計り知れない
功徳を頂いて下さい。
見て見ないふりをしない小さな親切が
次の親切を生むような優しい世の中にしよう!
そのために一人が 善行に勇気を出そう !!
時は金なり
仕事中に私語(おしゃべり)の多い人は、にぎやかで明るいが、仕事の能率が上がらず、マイナスが多い。
「時は金なり」井戸端会議の好きなご婦人の家庭は、無駄が多く大抵は経済に苦しんでいる。
例えば、幼児のお迎えに幼稚園バスが来る。バスと共に子供たちは団体生活に飛び込み、帰宅するまで先生
の指導に従って頑張っている。
しかし、集合場所でわが子を見送った後、いつまでも井戸端会議をしている母親は、母として失格である。会社
でも会議は短い方がいい。会議が長引くと、為になる話より人の悪口や批判が多くなる。留守を守る母や妻の行
動が、学校での子供の成長や会社での夫の成績に現れる。遠く離れた場所にでも敏感に通ずるものである。
忘己利他 自利利他の心
仏教は慈悲の教えと言われます。悩み苦しむ相手に寄り添い、共に悲しむ「共苦」の心です。
比叡山を開いた伝教大師・最澄は「忘己利他、己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」と教えられました。
つまり、自分のことは後回しにして相手の幸せのために尽くすことが、本当の慈悲であるという教えです。
一方、同じ時代に活躍した弘法大師・空海は、修行の究極は「自利自他」の実践であり、釈尊の教えはこの「二
利」に尽きると断言しています。
「自利」とは自分の幸せのため、「利他」とは相手の幸せのためということですが、自利と自他は相対する別々
のものではなく、切り離すことのできない」体のもので車の両輪と同じです。どちらかが大き過ぎたり小さ過ぎて
バランスが悪いと真っすぐに進めません。
そして、自利=自分の本当の幸せを突き詰めていけば、利他=相手の幸せに行き着くのです。世の中に自分一
人だけの幸せはあり得ません。共に幸せを分かち合える人があってこそ本当の幸せなのです。
例えば、自分がどれだけ幸せでも、家族の誰かが病気・貧乏・不和という不幸で苦しんでいたら、本当の幸せ
とは言えません。自分の家庭は円満でも、隣の家がもめていたら、安心して暮せません。
また、自分の国は平和でも、近隣の国が戦争をしていたら、いつ誤ってミサイルが飛んで来るかもしれませんし、
実際多くの国々が悪影響を受けています。
伝教大師の忘己利他の教えのように「自分のことは後回ししにする」ことは難しい事のように思えますが、実は
相手の幸せを優先することの方が、早く自分の幸せを得られるのです。本当の幸せは自分も相手も幸せになって
こその幸せなのです。利他を忘れた自己中心的な自利の行動は最後不幸を招きます。
幼児の置き去り事故はなぜ起きるのか
最近 幼稚園園児が送迎バスに置き去りにされ、熱中症で亡くなるという悲惨で痛ましい事件が起き、胸の張
り裂ける思いです。
その後、政府からの対策通達にもかかわらず、同様の事件が続いています。なぜこんなことが起きるのでしょう。
世の中はすべてご縁の世界です。送迎バスでの事件は、たまたまいつもの運転手と送迎役の保育士さんがお
休みという不運な縁が重なったのです。高齢の園長とベテラの先生が代行したため不慣れであった?との釈明で
したが、そこに園児の一人ひとりを思いやるという深い愛情、つまり利他の心が欠けた機械的、自動販売機作業
の結果と言えます。
続いて、三十代の若い父親が二人の子供を幼稚園に送った後、後部座席のチャルドシートにいた三人目の二
歳児を保育園に送ることを忘れて出勤し、炎天下の車の中に置き去りにされた幼児は亡くなりました。父親は「仕
事のことを考えていて忘れた」というが、忙し過ぎたのでしょう。「忙しい」とは心偏に亡くなると書きます。何の心が
、無くなるのか、相手を思いやる「利他の心」が無くなって、自分の都合という「自利」が中心になっている生活の結
果と言えます。
子ども食堂の実態
コロナの影響により生活困窮家庭が増え、全国で六千箇所も子供食堂があるそうです。その活動目的は、①子
供への食事提供、②子供の居場所作り、③ひとり親家庭の支援などです。
つまり、夫婦共働きが当たり前に子供や生活のためと言いながらお金儲けが優先され(自利)、ゼロ歳児から託
児所に預けられ、子供への手間暇や愛情(利他)が他人まかせになっているのは本末転倒ではないでしょうか。
また、離婚によりシングル・マザーやシングル・ファーザーのひとり親世帯が急増しているのです。なぜ結婚して
間もないうちに離婚するのでしょう?
夫婦が互いに自分の要求や主張ばかりを言い(自利)相手のことを思いやる心(利他)が無くなるから離婚するの
でしょう。相容れない父親と母親の境目にすき間が出来、弱い立場の子供が一番被害を受けているのです。
子供食堂の活動は尊いことですが、夫婦や親子の間での実践無くして根本解決にはならないのではないでしょ
うか。一考が必要です。
自利の家庭生活を見直す
小さな頃から、家のお手伝いよりも勉強をしなさい、塾に行きなさい、土曜日はスポーツクラブ・・・と家のこと(利
他)よりも自分のことだけいればいい(自利という偏った育て方が、日常生活の主流になっています。その延長線
上で社会人になっても家ではお客様状態の若者が多いのです。
男女とも平素から勤めから帰るとお据え膳で、母親が食事の準備や後片付けをしていてもスマホいじりをして何
も手伝わない、休みの日は自分のやりたいことだけをしている若者が多いのではないでしょうか。母親だってパー
トで疲れているのです。これで結婚しても、実力不足、スキル不足で家事や子育てが重荷となり、夫婦の協力も出
来ず、離婚になっていくのです。
もう一つの社会問題は、増え続ける高齢運転者のアクセル踏み間違いによる暴走死亡事故です。
本当に人さま安全のことを思えば(利他)、個人差はありますが高齢となりちよっと危ないなぁと自覚出来たら免許
の返上をするべきでしょう。しかし、生活の利便性を優先するから(自利)事故は増えるばかりです。被害者や被害
者家族ももちろん、加害者家族の人生まで狂ってしまいます。
しかし、高齢者に免許を返上するように言うのは簡単ですが、たちまち生活に困ってしまいます。高齢者の生活
(利他)も考えてあげなければ、無責任(自利)で根本解決になりません。
なぜ免許が返上できないのか?それは若者都合(自利)の核家族が当たり前となり、代わりに乗せていってくれ
る家族が同居(利他していないからです。
両親が高齢になったてり、独居老人になったら、子供夫婦のもとに引き寄せるか、実家に戻って同居しない限り
免許は手放せないでしょう。しかし、引き寄せることも現実は難しいでしょう。
そうしたら、老人医療制度のように後期高齢者になったらタクシー代を一割負担とか二割負担にして、買い物や
通院など気軽に利用できるようにになれば免許は返上できるでしょう。事故に係る悲劇や物的被害、人的被害、
医療負担などを考えればお安いものではないでしょうか
しかし、財源とか制度の問題で実現は難しいかもしれません。
祈りと徳の生活
頼る家族がいない。タクシー代で経済が持たないとなれば運転するほかありません。老人も若者も自分の運転
技術を越えた時、事故が起きるのです。ではどうしたらよいのでしょうか。自分の力を越えた時は目に見えない神
仏のご加護に守られる以外にありません。
車に乗ったら必ず手を合わせ、お題目を三回唱え「どうぞ無事目的地に着きますように。用を果たして無事帰って
これますようように」と毎日毎回唱え、毎月の交通安全のご供養をして徳のエアバックで「仏さまに守られる生活」
をする以外に方法はありません。どうぞ今日から、老人も若者も身に口に心に(身口意)妙法を唱える生活を実践し
ましょう!
何も打つ手がない時、一つだけ打つ手がある。
それは勇気を持つこと 迷った時は
ともかく勇気を持ってやって見る
すると道が開ける 怯えて何もしないと何も進まない
生かされている大自然
大自然の前には人間の知恵など到底及ばない。どれだけ人間の技術が進んでも、一たび大自然が動けばひと
たまりもありません。
我々人間には科学技術の進歩で「人間に出来ないことはない。この世の中は人間様のものだ」ぐらいに慢心し
過ぎてはいないでしょうか。
私達は生きているのではなく、大自然に生かされているのです。「帽子は頭に靴は足に」こんな当たり前のこ
とも、科学が進み自然の原理に逆らった行いは、古き帽子を足に履き、真新しい靴を頭にかぶるようなもので、
どう考えてもおかしいのです。私達の生活にこのような間違いはありませんか。枝葉が繁茂するのも目に見え
ない根のお陰、根を切ってしまって花が咲くということがあるでしょうか。大自然に逆らった行いを続けていれば、
企業も家庭も遅かれ早かれ亡びゆくのは目に見えています。
利他の心を育もう
利他の心とは一言で言うと「相手のことを思いやる心」です。最近はね国も家庭も親子も夫婦も自分のことを優
先にし過ぎています。だから戦争や紛争が起き、世界各地で難民が溢れ、家庭においては育児放棄や児童虐待
ね若年離婚や熟年離婚が増え続けているのです。
誰でも自分が一番可愛く大切でしょうが、お互いがちよっと相手のことを思いやる心があれば、家庭も世の中も
もっと住みやすくなるはずです。これを慈悲の中というのです。
しかし、一朝一夕に慈悲の心、利他の心が育つものではありません。「三つ子の魂百まで」「門前の小僧、習わ
ぬ経を読む」の諺のように、小さなうちすら親と一緒に仏縁に触れ、仏様に手を合わせる習慣があってこそ、自然
と身につくのです。子供に強制するのではなく、親の後ろ姿を見て子供は育つといわれるように、子供から尊敬さ
れ、信頼される信仰者になることが大切なのです。
最近は、小さなうちから信仰に触れさせることを良い宗教もカルト宗教も十把一絡げ「宗教的虐待とか束縛」と
決めつける風潮は大変危険です。・
「学歴、お金、地位」つえ得られれば、人生の勝ち組であるといあ利他の心の伴わない世の中は、弱肉強食の
殺伐とした世界になってしまいます。
身施(奉仕)と法施の功徳
宿泊業を営む老婦人が心臓弁膜症を患い、急に動いたり立ち上がる時に心臓が踊るようになったのです。医
者の診断は、心臓移植しか治る方法はないというこどです。
このご婦人は、開さまの「無理をしないで無理をする」という教えを信じ、喜んで仕事に励むと決めておられまし
た。ところが、今度は二年ほど前に肺がんが見つかったのです。
「先生、もう老体ですから、手術をしても抗がん剤治療をしても体力が持ちませんから、手術も治療もせずにこ
のままで頑張ります」と請願されたのです。
「あなたがそのように決心されたのなら、九十の齢まで長生きできた丈夫な体に生んでくださった親を念じ、寿
命の来る日まで健康に働けますようにとお願いし、そしてこの尊い妙法の教えを説いて下さった仏様とその教えを
伝えるために開祖さまを心から念じることです。仏様を念じ開祖さまを念じてこそ、仏祖・開祖のお徳の御光があな
たを守ってくださいます」とご指導したのです。
そして、月に一度総本山の法坐の当番をお付けし、体験法話の法施の功徳を積んで頂いているのです。このご
婦人の開祖さまの教えに基づく体験法話は、多くの人に感動と勇気を与えているのです。その功徳は計り知れま
せん。財施の百倍千万倍の功徳に守られると経典にあります。
そして、法要行事の時は、若いご信者さんと一緒に幕をたたんだり物を運んだり、後片付けの身の功徳をつん
でおられるのです。不思議とその時は体がすいすいと動いて心臓が踊らないのです、数か月に一度検診に行かれ
るのですが、この頃は主治医ががんの影が無くなってしまったと首を傾げられるのです。ここにも妙法の不可思議
なご守護が照明されているのです。
病気は気からの事実
信仰の三本柱は「解・信・行」です。つまり、教義、信じる心、体験(実行)のことです。「信」から信仰に入る人が多
いのですが、カメラの三脚と同じで、どれか一本の足が短かったり、一本足であれば不安定で倒れてしまいます。
この三つの柱ヲバランスよく整えていくことが、正しく信仰を続けていくコツです。教えが深く解れば、信が強まり、
信が強まれはしっかり実行が出来、実行が出来れば教えがさらに深まるのです。このサイクルがどんどん大きくな
っていけば、功徳がはっきり出るようになります。
しかし「信じる一念岩ををも通す」という格言があるように「信の力」き信仰の原動力と言えます。
先日もある老婦人から嬉しい報告がありました。
このご婦人はイボ痔の痛みが強くなり、「病気平癒、痛み解消の健康祈願をして欲しい」とご供養の申し込みが
あり、毎朝総本山でご祈祷させて頂いておりました。
医療ミスでない限り、病気は何らかのストレス、つまり自分の心使いが作ったものだから、心構えを切り替えれば
快方に向かうものです。
世の中の現象はすべて諸法実相、結果現象の中に原因が現れているのです。法華経の教えに「本末究竟等」
があります。本と末とは等しい、原因と結果は同じである、蒔いた種と稔った実は同じいう真理です。
そこでこんな説法を致しました。
「物を排泄する肛門は下の口です。ものを食べる口は上の口です。イボ痔で下の口が痛むとすれば、上の口で
愚痴や相手を攻めたり腐すような言葉を吐かないことです。治療をするにもこの心使いを切り替えることが根本治
ですよ」
「先生よく解りました心当たりん゛あります。早速に切り替える心掛けます」と何十年というベテラン信者さんです
が、率直に聞き入れられたのです。
後日、掛かり付けの医者に再度診てもらうと専門医に掛かって手術した方がよいと言われ、専門医に掛かられ
たのです。
すると、専門医は゛少し腫れていますがイボ痔ではありませんから、手術の必要はありません」と言われ、薬も出
なかったのです。
「えっ!痔じゃなっかったんだ。手術も必要ないんだ!」と、この老婦人は専門医の診断も率直に受け止め、大
安心されたのです。
すると不思議なことに、それ以来疼痛も無くなり、指で患部を触っても腫れもなく治ったのです。漫画のような話
ですが、まぎれもない事実なのです。本当の信仰には奇跡やご守護が必ず現れます。
しかし、イワシの頭も信心からと闇雲に祈ったり頼んだりするものではなく、「解・信・行」の調和のとれた信仰に
奇跡のようなご守護が頂けるのです。
失敗を恐れる方が失敗を犯すよりも悪い
失敗すれば何かが学べる
自分の力でどうにもならないことは心配するな
自分の力と能力で何とかなることは頑張ればよい
自分の力と能力でどうにもならないことは悩まないことである
三徳と三毒
業によって生じた病気は、近代医学や新薬では絶対完治できない(不治の病)。業(我欲)で蓄積した財産は、裁
判や理屈では解決出来ず、憎しみや怨みが残る。業で蓄積した地位や権力は、必ず地に落ち、子孫は崩壊の
道をたどる。
さて、業とは何か!日常において、よく怒り、よく愚痴を言い、自分中心の勝手気ままの貪りをすること、これを
三毒という。凡夫はこの三毒の生活を気付かず積み重ねているのである。
業の消滅方法は、慈悲・誠・堪忍の徳積み生活に大転換する以外にない。不平不満を喜びに変えれば、不治
の病も必ず治る。人のために施し強くなれば、財産争いも必ず円満解決できる。人を建て己を下げれば,全て困
ることはなく安泰なる生活が出来る。
真の仏弟子とは
お釈迦さまはご在世中にこんな事をおっしゃいました。
「私と共に食事をし、寝起きを共にして修行する者があっても、その者の心の中に、常に妬みと不足と怒りがあれ
ば、それは私から遠く離れた弟子である。たとえ、私と千里離れた遠くにいても、よく私の教えを守る者は最も身近
な親しき弟子である。」
この釈尊の教えを深く理解しますと、仏様の教えは実行し守るべきものであって、ただひたすら聞くだけではいけ
ないのです。
昨年の二月、約三十年ぶりに突然遠方の○○さんから電話がありました。
「先生、大変長い間ご無沙汰いたしておりましたが、この度兄弟が立て続けに亡くなりました。二人とも独り身でした
ので、これからのご供養は私がさせてもらおうと思いますが、お戒名を付けて頂けませんか!」という電話でした。
諸般の事情で長らく法縁が途切れていた方ですが、開祖さまとの古いご縁の方ですので、よく頼って来て下さったと
思い「よろしいですよ、お戒名をお付けしますよ」
こんな事情から、こご法縁が復活したのです。
先日、一月末に三回忌の法要をお願いしたいの連絡を頂き、お伺いしますと、かってこのお宅のご法坐にお参り
しておられた懐かしい方もお見えになり、「先生、お久しぶりです。お会い出来てうれしい。私の今日の幸せは○○
さんが、事あるたびに先代会長先生(開祖さま)から学ばれた法華経の教えをもとに色々と教えて下さり、支えて下
さったお陰です」と心から喜ばれて申されるのです。
招いて下さった当家の奥さんは八十三歳、この法友の奥さんは八十歳ですが、三十年前と少しも変わらぬ若々し
さで、とても明るい相貌なのです。何故か!それは教えに率直で、考え方が前向きで、出来事にくよくよせず、心に
執われがないからなのです。
「遠く離れていても、教えを信じ実行する者は真の仏弟子である」との釈尊のお言葉通り、仏様と開祖さまを信じ
教えを実行してみえる方は、事情で長らく法縁を遠ざかって見えましたが、心に信仰を保ち、妙法を信じて実践して
おられたからこそ、年より若く見えお幸せなのだと感じました。
法を実践すれば法に守られる
続いてこう申されるのです。
「教えを聞いた最初に、開祖さまから真生会の教えは、
①子供の良くなる教えです。
②そのためには、主人を立てて大切にすること。
③子供を怒っては育てないこと。誉めて育てること。
と教えて頂き、今日までみの三つを守って一生懸命努力したきました。
主人は十三年前に七十二歳で亡くなりましたが、一生懸命主人を立てて大切に育ててきました。今は独り暮し
ですが寂しいこともなく、お陰様で健康で二人の親孝行息子に恵まれて本当に幸せです。心から感謝しています。
難しい主人で、面と向かって誉めてくれたことはありません。でしたが、子供の良くなることを信じて、主人を大切
にし、子供は怒らず、誉めて誉めて育てた結果、二人とも立派に出世し、親孝行をしてくれるのです。」と喜んで報
告してくださいました。
言った通りになる
さらにこうおっしゃるのです。
「あと五年、八十五歳になったら、息子が戻ってくるので、八十五歳までは心配をかけないように元気で居られる
よう何とか頑張ろうと思います」とおっしゃるので、このように助言しました。
「奥さん、世の中は真剣に言った通り思った通りになるのが人生です。八十五歳までは元気で頑張るという気持
ちはわかりますが。あまり意味のない年齢を切ってはいけません。八十五歳までは元気で頑張るぞ、そして息子が
帰って来たら、ますます元気で楽しい老後を暮すぞ…と思い、言葉に出すといいですよ。きっとそのようになります」
と申し上げました。
「会長先生、解りました、そのように切り替えて頑張ります」
幸せになる人は,やはりどこまでも率直なのです。
人は何か大花願いがありますと、つい年数を区切ったりしますが、子供のためなら自分はどうってもいいとか、私
はどうなってもいいから、○○の病気が治りますように・・・と願掛けいる方法があります。心情はよく解りますが、
正しい「願の掛け方」とは違うのです。
人を経てれば健康になる
健康の「健」という字は、人偏に建てると書きますが、長年の法友でうるお二人はお互いに「今日の幸せのあるの
は、あなたのお陰です」と感謝し称え合って見えるのです。そして、当家の奥さんは、車いす生活でリハビリ中のご
主人を建てて真心こめてお世話され、法友の奥さんは最後まで主人を建て続けられたところに明るく健康の秘訣が
あるのでしょう。
仏恩、師恩、親恩に守られる
最後に、当家の奥さんが「先生、長らく離れておりましたが、先代会長先生と奥さんの御恩は忘れておりません。
毎月御命日の日には、感謝の読経供養をさせて頂いております」と仏壇の過去帳を見せて下さいました。
仏を念ずる人は仏恩に守られ、師を念ずる人は師の恩に守られ、親を念ずる人は親の思いに守られて生きること
が出来るのです。
お金は幸せのすべてではない
お金は幸せになる為のの単なる道具、一つの道具である
お金は、その使い方によって幸せを生み、不幸も生み出す
自分も喜べ人に喜んでもらえる生きたお金のの使い方をしよう
恋慕と渇仰が運命を拓く
信仰の第一歩は「信の力」であり、仏を求め師を求める求道心です。愛する人を恋慕う情熱、炎天の砂漠でカラカ
ラに乾いた喉を潤すために一滴の水を懇願する命懸けの心があってこそ、人智や人力ではどうにもならない苦難を
乗り越え、運命を切り拓くことができるのです。困った時だけの信仰では、真の幸福は道なお遠しであります。月に
一度や二度は直接参拝し、何度も繰り返し法話の配信を聞いて心を磨き続けましょう。仏縁法縁から遠ざかると、
人の心はすぐに曇って凡夫に戻ってしまい、小さなことに怒ったり、感謝の足りない愚痴不足、欲しい欲しいの貪り
の生活になってしまいます。
質直意柔軟
「質直」とは自分の考え方という「我」や得て手不得手という「自分の都合」を捨てて、折角頂いた開祖さま会先生
の教えやご指導を「意柔軟」率直な心でご指導通りに実践することが大切です。常に添削を受け、聞いた通りに実
践した時予想外の仏様のご守護の結果が頂けるのです。衆生は仏様に直結していますが仏様の現象を見ても意
味が解りません。仏様の真意を開さま。会長先生が教えて下さり、教会長や幹部がご信者に伝えて下さるのです。
仏に近づけば仏に守られる
仏様は、いつでも、どこでも。誰にでも大きなご守護の力で守っていて下さるのです。しかし、仏様の姿が見えな
い程、教えの声が直接聞こえない程、仏様から遠ざかった生活をしていると、仏様のご守護が届かないのです。
腹が決まれば事は動く
仏法華経は陽気な教えであり、積極的な教えです。真面目でおとなしいだけでは問題は解決しません。果報は
寝て待てというような怠惰なことでは運は開けません。損得計算で言われたことだけをやる月給取り根性や前例の
ないことはやらない苦情のあったことだけ動くというような事なかれ主義の役人根性では幸せ根性では、幸せはやっ
てきません。信仰も商売人根性でないといけないと開祖さまは言われました。商売人根性は金儲けとは違います。
お客様の少々の無理にも頭を下げ、朝令暮改、良いとわかったらすぐに切り替えて実行する積極性が本当の商売
人根性なのです。
恥ずかしがって、質問の出来ない生徒は伸びない。
人生は学び、死ぬまで 勉強 質問しないことは人生に
とって大きななマイナスである
聞くだけの信仰も信仰のマイナスである
引っ込み思案や消極的な人は、感動・知識・出会い等
多くの宝を失ってしまう
智慧の力
人の知恵を越える力が仏さまの智慧の力です。智慧の働きが運命の力を変えるのです。
科学や医学と言う学問、個人の体験という「知識」をすべて活かすという「智慧」に変化させた時、想像を越える現
象が現れます。 今目の前に現れた現象にはすべて意味があり、自分にやって来る出来事は単なる偶然ではなく、
必ず自分に必要なことなのだと正しく受け止めた時、勇気が湧き正しい実践ができるのです。
「うきつらき、心にそわぬことをみな、良きに悟りて喜びを得よ」杉山教祖の(御歌)とあります。辛い出来事を良きに
悟るための智慧が仏慧であり法華経の教えなのです。
開祖さまも「命がけになれば、なんとかなる。きっと良くなる。」そのためには「相手を尊ぶ、人を悪く見ない」ことであ
ると教えられました。 相手を尊く考えるための智慧、人を悪く見ないための智慧が、仏さまの智慧なのです。
法華経に「末法の時代は衆生が顛倒している(考えた方がひっくり返っている)と説かれています。つまり自己中心的
で先ず自分という時代になると教えのない一般の人々の考えは「仏さまの利他の心、まず人さま」とは正反対になっ
てしまうので、争いや苦悩が絶えないのです。
そこで、正しい仏さまの智慧、法華経の教えで世の中を見れるようになりますと、すべての人が苦悩の大火に焼き尽
くされてしまうと見える時でも、仏の智慧で見れば、自分の周りには天人のような人々が満ち溢れ、いつも安心で穏や
かな場所になると示されています。人智では見えない世界が、仏智により見えるようになるのです。
慧眼で見れば善人ばかり
高齢のご主人が突然の発病で緊急入院され、病気平癒の日参祈願をされているご家族があります。
検査の結果、主治医から脳腫瘍と診断されましたが、高齢と患部が難しい場所のため、手術ではなく投薬治療しか
ない。先進治療の特別な薬なので、治療費は高額になります。年齢から言っても体力が持つか、どのくらい効果がある
はやってみないとわからない。ずっと飲み続けなければならない薬ですが途中で止める人もある。どうするか家族で決
めて下さい。治療をされないのなら介護施設を探して退院して下さい。明日にでも返事して下さい。後が詰まっています
から・・・ と突っ慳貪で、不親切な説明でした。
不安になられ、どうしたら良いか解らなくなってしまい、ご家族で相談に来られました。
一見無慈悲なひどいお医者さんのように見えますが、家族の情としてどんな苦労をしても、いくらかかろうが、これから
先の治る保障のない高額治療を続けるのは大変だから、他の方法を考えましょうという仏さまから遣わされたお医者様
だと思って悪く見ないことです。
家族が心を一つにし団結して次の方法を見つけましょうとお話し、一緒に方便品、寿量品と陀羅尼品を唱えて病気平
癒と今後の道が開けますようにと一心にご祈願しました。
無量の神力、陀羅尼
お釈迦さまが、「法華経はすべての人が救われ成仏できる教えであり、法華経を心から信じ、たとえ教えの一部でも
読誦し、理解し、率直に実行する功徳は、数え切れないほど多くの仏を直接供養した功徳よりはるかに大きい」と説か
れたことに大感激をした薬王菩菩薩、勇施菩薩、毘沙門天や持国天、羅刹女や鬼子母神が、法師や説法者を守るため
に説かれた呪文が「陀羅尼神呪」です。
宇宙に偏在される六十二億恒河沙(ガンジス川の砂)ほど多くの仏さまから擁護する(かばい守る)エネルギーが注が
れ守護守護されるお経なのです。
重病人が非常時に打つ強力なカンフル注射のようなお経ですから、平素から毎日上げるのではなく、仲るか反るか「
一旦緩急の非常時に集中して念を込めて一心に唱えるお経です。心を切り替え、翌日さっそく病院を尋ねて主治医に
会いますと、昨日どは別人のように笑顔で迎え下さったのです。そして、同席した看護婦長さんから、解りやすく丁寧な
説明があり安心できたのです。
「会長先生のお祈りのお陰です。別人かと思えるぐらい信じられないような変わりようでした。」
「私の力ではありませんよ。陀羅尼という計り知れない仏さまのエネルギーと、あなたたち家族が教えを信じ、相手を
悪く見ないことを率直に実践したから仏さまのご守護がストレートに頂けたのですよ」とお経の偉大さをお伝えしました。
古いのと汚いのは違う
古くても手入れをして価値のあるものは骨董品として大切に扱われます。対して古くて汚いのものは古道具として粗大
ごみに出されます。
人間も年を重ねて老人になっても、身も心も手入れを怠らず磨きをかけていますと、骨董品の輝きがあり誰からも大切
にしてもらえます。
私たち人間は、年を取ってもいつも身綺麗にし、特に教えで心が光っている老人は、皆に尊敬され大切にされる存在
になると思います。
反対にどんなに若くて見た目の4肌艶はよくても、外からは見えない心の中が愚痴不足の垢で曇っていたら、古道具に
なって誰からも見向きされなくなってしまうでしょう。
皆さん、外からは見えない心の窓を開いた時、感謝や喜びで光り輝いている人間になりましょう。そうすればどこに就職
しても重宝がられるでしょう。待ち望まれて結婚もできるでしょう。誰と結婚しようと大切に迎えられ、明るく楽しい家庭が築
けると思います。どうぞ、平素から一回でも多く教えを学び、仏縁に触れ、輝く自分を作っていきましょう。
利他の実践をしよう
戦争や紛争は利他の心(相手の幸せを思う心)が失われ、偏った自利の心(自分の幸せ、自分の利益を求める心)の最悪
の結果です。
年々猛威を振るう自然災害も、人類が人間だけの快適な生活を求め過ぎ、他の生物や限られた資源を浪費し、他者のこ
とや者を大切にする心を失ってきた結果です。今目覚めなかったら、人類存続のターニングポイントを越えてしまいます。
正しいこと、人としてのマナーや生き方を伝えて来なかった年配者や親の業だと言えます。知らない者の業ではなく「伝え
ない者、教えない者の罪」であります。
見て見ぬふり、知っていて伝えない罪は大きいのです。最後伝えなかった業の報いは、何倍になって耐え難いものとして
我が身に降り掛かって来ます。それが今日本の抱える高齢化社会の寂しい独居夫婦に起きている悲惨な事件の増加では
ないでしょうか。
老後の終活がさかんに言われますが、ご先祖さまあっての今日、周囲の皆様に支えられての人生、報恩の家は栄え、忘
恩の家は亡びるという真理をしっかり子孫に伝えていくことこそ、本当の終活てはないでしょうか。身の回りの整理や小さな
お葬式を遺言して子供たちに金銭的迷惑をかけないことが親としての本当の役目なのでしょぅか。
開祖さまは「平素から施し強い生活をして徳が積めていれば、たとえ蓄えは少なくても、お葬式や初七日法要の費用ぐらい
は香典でまかなえる」と教えて下さいました。実践してあれば本当にそのとおりです。
派手な葬儀をする必要もありませんが、家族だけの小さなお葬式で、ご縁のあった人にも見送られず、生きていた存在すら
も残らないな寂しい人生の幕引きでは、なんのための人生であったか解りません。
日暮れ腹減り、何という目標もなく毎日を何となく過ごす、消化試合のような人生空しいものです。老いも若きも大いに考え
ましょう。
誰でも、あなたも、自分も死んだら先祖になるんです。いいご先祖になれる為に最後まで利他行むの実践をして毎日を有意
義に精一杯生き切りましょう! 。
大活躍の陰に利他がある
WBCが終わり、メジャーリーグでは大谷翔平選手、ダルビッシュ選手、古田正尚選手が大活躍をしています。彼らは天賦
の才能と人並以上の努力だけでは、その実力に応じた陰の徳積み利他行の素晴らしい実践があるのです。
大谷選手は年間MVPに選ばれた賞金を闘病中の家族や子供を支援する非営利団体「ミラクルず・フォー・ギッズ」に寄付
したり、オールスターゲームのホームランダービー参加賞金十五万ドル(1650万円)を全額、球団トレーナーや陰で支えて
くれる球団スタッフに寄付をする等野球と慈善活動の二刀流です。メジャーリーグでは表彰された選手が慈善団体に寄付を
する風習が伝統的に根付いています。素晴らしい文化です。
また、大谷選手がグランドでゴミ拾いをすることは有名ですが、これは高校野球時代に監督から「楽しいかどうかではなく、
正しいかどうかで行動となさい」と教え込まれたからです。やはり、親や指導者が教え子に「教えるべきことは教え、伝えるべ
きこととは伝える」ということの大切さの実例だと思います。
ダルビッシュ選手には、十歳ごろ父の出身地であるイランで地震あり、その父から自分の小遣いを送るように助言を受けた
ことが最初の寄付だったのです。
日本ハム時代には、水不足や水の汚染などに苦しむ発展途上国の人々に安全な水を提供することを目的に「ダルビッシュ
有・水募金」を設立し、公式戦で勝利投手となるとに十万円の寄付を続けています。昨年は難病、筋萎縮性側索硬化症(ALS)
の研究機関に一万ドル(約百万円)を寄付し、九月には北海道地震の義援金として一千万円を寄付しました。「人を助けたい。
多くの人を。死や癌に限らず、何からも」とその思いを伝えています。
吉田正尚選手は、オリックス時代から公式戦でホームランを一本打つごとに十万円を「国境なき子どもたち」に寄付し、カンボ
ジア、フィリピン、バングラデシュなどの開発途上国で貧困に苦しむ子どもたちへの支援をしています。
世の中は洗面器の水と同じ
誰でも自分の幸せや成功を求めますが、幸せや成功の近道は、相手の幸せ、相手の利益を優先することです。ちょうど洗面
器の水のように、自分の方、手前に水をかき寄せると横から二つに分かれて出て行ってしまいます。
反対に相手の方、向こう側に水を押し出せば横から倍になって戻ってきます。これが真理です。
例月供養や法要での先祖供養や念願成就の祈願供養は大切な徳積みですが「「自分の幸せ」のための自利の徳積みです。
釈尊や開祖さま共募さまのご命日に捧げる報恩感謝の徳積みや、いつでも救援募金の「つなぐよ子に」や被災地への復
興支援募金はまさに利他の徳積みです。どうぞご協力下さい。
人生最後は徳次第です。まわり道をせず本当の幸せになために心掛けてやってみましょう。必要な時に必要なだけ廻って
来るのが積んだ徳であると教えられています。本当のことですよ!
人生はご先祖さまからの命のリレー
今は自分が走っている
次は誰にバトンを渡すのか、
しっかり繋いで行こう!
。 T O P
田中偉仁 田中庸仁