★ 否定された時にどうするか | ★ 大らかに人間らしく生きる |
★ 信仰者と凡夫の違い | ★ 導きの功徳は無限大 |
★ 素材を活かす | ★ 人生の目的 |
★ 本当のこと | ★ 良い想い |
★ すべては仏になるための計らい | ★ 正しい師匠をもって |
★ 力を合わせて | ★ 徳人になれ |
★ 変化の節目 | ★ 拝む心 |
★ 毎日を喜んで | ★ 人生は徳次第 |
★ 下る修行 | ★ 人生を作り出す言葉 |
★ 徳 不徳の総決算 | ★ 人生の鏡 |
★ 理屈では解決出来ない | ★ 学歴と基礎力(生活力)のバランス |
★ 徳分を高める方法 | ★ 相手を生かせば生かされる |
★ すべての現象は仏さまのメッセージ | ★ 全力が全力を生み出す |
★ 親の積む徳の光 | ★ 信じることは難しい |
★ すべてはご縁の世界 | ★ 人と比べない |
★ 誰にでも幸せになれる五種法師の行 | ★ 経験者の意見を聞いて |
★ オシャレな言葉 | ★ 霊の力に守られる |
怒る人、反発する人、じっと耐える人、糧として前進する人
それぞれの人の底力・・・
自分の弱みを見せられることが率直さです
叩かれば叩かれるほどファイトが湧く人が
本当の勇者である
大らかに人間らしく生きる
お釈迦さまは「中道実践」の生き方を説かれました。
釈迦族の王子として生まれられたお釈迦さまは、欲しいものは何でも与えられ何不自由なく育ち、、妻子にも
恵まれ、栄誉栄華のいわゆる快楽の生活を過ごされましたが、どうしても心に満足が得られず二十九歳の時、
妻子も城も捨てて出家されます。三十五歳までの六年間、快楽とは真逆の難行苦行をされましたが、遂に悟り
を得ることが出来ませんでした。
お釈迦さまは極端な快楽主義や極端な苦行主義では悟りは開けないと気付かれ、快楽にも苦行にも偏らな
い「中道」こそが悟りへの道であることに目覚められたのです。何事にも執着せず、欲を離れて大らかに生きる。
人間らしく生きることが悟りに達する方法、楽しい人生を送る方法なのです。
欲のためにギスギス イライラしていると人間関係を壊したり、病気になったりします。毎日をゆったりと生きる
ことが仏教の教えなのです。
仏教は出家の教え
仏教は本来出家が基本です。悟りを開くために世俗から離れて修行をするのです。それがお釈迦さまご在世
当時のスタイルです。
しかし、頭を丸め。家や財産を捨て家族から離れて修行出来る人は一部の人だけです。お寺に入って修行し
なければ悟りを開き、幸せになれないのでしょうか。それは違います。
出家とは「出世間」ということです。つまり、常識、学問、個人の体験という世間的な価値観から離れることが
本当の出家という意味です。
一般社会のものの見方、常識の物差しではなく、仏さまのものの見方、仏さまの物差しで現実を見る。つまり
普遍の真理で現実の真実の姿を見るということです。常識は「時代と地域と人」によって違い変化によって違い
変化するものです。真理とは「いつの時代でも、どこでも、誰にでも」通用するのが普遍真理です。
無分別智が仏さまの智慧
「無分別」が仏さまのものの見方です。「分別」が凡夫のものの見方です。一般的には「分別のある人」が常
識人で、「分別のない人」が非常識のように言いますが、仏教では反対です。仏さまの智慧と凡夫の知恵は百
八十度違います。分別とは善悪、長短、早い遅い等、物事を区別する知恵です。物事を比較し、差別し、分け
隔てをする見方です。無分別とは、比較したり、分け隔てをしない、すべてを平等に見、違いをありのままに認
めていく智慧です。仏さまの智慧がないとありのままの現実を正しく喜ぶことは出来ません。ただの無力で投
げやりの人生、事なかれ主義になってしまいます。
無苦を乗り超える方法
お釈迦さまの教えは、この世は苦である。苦の娑婆であると自覚することから出発しています。苦があるの
が常態です。いちいち「苦にしない」ことです。
苦とは何か 「自分の思う通りにならないこと」であります。しかし、これは「苦の原因」の半分です。自分の
思い通りにならないことを思い通りにしようとするから苦になるのです。
思い通りにならないのが世の中です。生まれも育ちも親も環境も違う夫婦が思う通りにならないのが普通です。
我が子も思うようになりません。自分の心も自分では思うようにならないのが普通です。
苦があるのが普通、生身の人間だから病気になるのが普通、生まれた限り死ぬのが普通なのです。たまたま
苦のない状態がラッキー、健康なことがラッキー、生きていること自体がラッキーと気付けば、苦が苦でなくなる
のです。
諸行無常、真理以外のすべてが変化するのが普通なので、何事にも執われないことです。
現実の事実をありのままに見、受け入れていくこと、「苦にしないこと」が苦を乗り超える唯一の方法なのです。
頑張りすぎない生き方
自分のキャパを超えて「オレが、自分が」と我を張ることが頑張るということです。思い通りにならないことを思
い通りにしようと我を張りすぎる、頑張りすぎるから怒れるのです。怒りは病気、貧乏、災難の本です。健康を破
壊し、経済を破壊し、幸福を破壊し、すべてを破壊していく恐ろしいエネルギーがあります。
怒れるほど頑張りすぎてはいけません。
病気になるほど頑張りすぎてはいけません。
過労するほど頑張りすぎてはいけません。
何事もほどほどの中道実践がいいのです。喜んでやれる分だけすることです。「手抜きをせずに力を抜く」手抜
きは人に迷惑をかけますが、力を抜くことが大切です。
すべては自分の心の鏡
仏教は「因縁果報、縁起の教え」です。すべてのことには原因と結果があります。蒔かぬ種は生えないというこ
とです。そして蒔いた種も芽が生えてくる縁が必要なのです。つまり自分の目の前に起きる出来事は、すべて自
分に原因があり、自分の心使いを縁として芽生えてくるのです。
ある働き盛りのご主人の会社の悩みです。社長のワンマン経営やボーナスの出し方等に大いに不満があるの
です。
給料の上げ下げ、事業方針の決定は社長の専権事項であり、自分の思いのままにならないのが普通です。思
い通りにならないことを思い通りにしようとすると力が入りすぎるから怒れるのです。社長やトップがどうしても気
に入らなかったら、独立して理想通りの会社を作ればいいのです。
資金がない、人材がいない等避難批判はしても独立できる力がないのなら、自分の考え方を切り替えるしか方
法はありません。
「すべては自分の生き方のご縁です。あなたは、実の父と物心つく前に死別し、学生時代に母を亡くし、義理の
父とは意見が合わず決別しています。この因縁が切り替わらないので、職場でも上司や社長のことが喜べない
のです。今からでも、亡き両親のご恩に心から感謝し、亡き義父には心から懺悔し、義父を受け入れることが出
来れば、どこに行っても目上の人が尊敬出来、何事もうまく行くでしょう」
心が率直で柔らかくなり、教えがわかり実行すれば必ず毎日が楽しく幸せになれるのです。
信仰者と凡夫の違い
雑阿含経というお経に「箭経(せんきょう)という短い教えがあります。
ある時お釈迦さまが、弟子たちに尋ねられました。
「人は誰でも、美しいものや嬉しいことに出会えば『楽しい』と思い、病気や失敗や失恋等 痛目にあえば『苦し
い』と思うだろう。それでは、仏教を学んだ者とそうでない者の差はどこにあるだろうか?
弟子たちは答えに困り、教えて戴きたいとお願いします。
二の矢を受けず
お答えは「第二の毒矢(箭)を受けない」ということでした。
仏教を修行している人も、していない人も、「楽しい」「苦しい」という感情の第一の矢は受けます。しかし、仏教
を知らない人達は、その感情がどんどん膨らみ底なしの泥沼に入り込んでしまうのです。例えば、失恋や受験の
失敗や失職など後から考えてみれば小さな出来事でも、必要以上に悲しんだり苦しんだりして心に致命傷を負い、
自殺してしまう人もいます。
仏教という正法を得た人は「受」すなわち受け止め方が違うのです。
「身受」といって第一の矢を受けても、「心受」第二の矢を心に受けないのです。
①楽受・・・・・ 楽しいことに出会うとそれに執着し、『もっと欲しい』と貪りの念を起こす
②苦受・・・・・ 苦しいことに出会うとそれに執着し、『イライラ』と瞋りの感情を起こす
③非苦非楽受・・・・・自分の興味のない事つまらない事には楽しくも苦しくも感じず無関心になります。無関心過ぎ
ることもよくないのですマザーテレサも「愛の反対は憎しみではなく無関心である」と言ってい
ます。興味のあることだけに執着し『物事を有るがままに見ることが出来ない愚痴の煩悩に
囚われてしまうのです
ビキナーズ・ラックも第二の矢
悪い事ばかりではありません。ギャンブルやパチンコや宝くじ等何の努力もしないのにいきなり大当たりを引き当
てるとドンドンのめり込んで、家族に迷惑をかけ、家土地まで失う人もいます。もっともっと欲しいという欲の心が第
二の毒矢なのです。
趣味も同様です。楽しいことにのめり込みすぎると煩悩に振り回され、今しなければならないこと、何が大切なこ
となのか見失ってしまうこともあります。
読経供養の功徳
経典の文字に現された一字一句は、仏さまの真理の教えであり、仏さまそのものなのです。お経の中には計り知
れない功徳が全部集まっているのです。
毎日お経をあげるということは毎日仏さまに直接お会いしていることであり、唱えるお経の声は、お釈迦さまのお
説法を直接聞いていることであり、知らず知らずのうちに仏さまの法、心理が心に浸み込んでくるのです。
信仰は受持(信)読、誦、解説、書写といって「信じる心」が中心であり、大黒柱です。その信という柱を支え、苦楽
という変化に揺れ動かされない信念を支える基礎作りの第一歩が「読、誦」なのです。
何十階という高層ビルも基礎が大きく深くしっかりしていればこそ地震にも風雨にも耐えていられるのです。信仰も
毎日の読誦修行が苦を超え幸せな人生を打ち立てる基礎なのです。
粘り強く続けましょう。きっと何事にも動じない人生が渡れるようになります。
導きの功徳は無限大
今、世界は混沌としています。アメリカも中国もロシアも北朝鮮もシリアも一触即発の状態です。日本も対岸の火事、
他国のことではなくなりつつあります。同国同士の関係は「国益と国益」のぶつかり合い、「まず自分の国の利益」で
す。だから戦争が起こるのです。
しかし、法華経は違います。「まずは人様の幸せ」です。天と地ほどの違いです。今こそ私たちが足元の家庭から
教えを伝え、親戚、友人、地域社会にしっかりと法華経の教えを伝えなければ、世界は戦争の方向に進んで行って
しまいます。
真生会の開祖さまの願いは「この尊い法華経を全国津々浦々、世界の隅々にまで広げ、すべての悩み苦しむ人
を救いたい。すべての人が人格を磨き、人格を完成させ、すべての人即身成仏を実現したい」という大誓願です。
「徳の器を大きくして、幸せになりましょう。それにはたくさんの善い行いをしましょう。」善い行いとは、親切やボラ
ンティアなどいろいろありますが、本当の善行とは、この妙法の教えを人に伝え、教えにお誘いの声を掛けをし、
お導きすることなのです。
開祖さまの開教の精神に立ち返り、一人が三人の方をお導きしましょう。生涯法を離れることのない人を三人お導
きした功徳は、上七代下七代の悪因縁から救われると開祖さまは教えられました。単純に計算して上七代で二百五
十六人のご先祖があります。下七代も子供が二人生まれたとして二百五十六人の子孫となります。合計五百十二
人の運命が救われるのです。
人様をお導きするには、法華経の信仰をする私たち自身が開祖さまのように「笑顔で楽しく」教えと生活のお役を果
たしていなくては、人は信じて付いて来てくれません。それには自信と勇気が必要です。自信がなくては笑顔になれ
ません。それにはまず[毎日お経をあげることが心の基礎作り」です。
次に徳積みの布施の実践です。布施が出来てこそ教えが深くなるのです。特に法施の布施行が最高です。この尊
い法華経をしっかりお伝えしましょう。
素材を活かす
早く育つ木は木目が粗くじっくり育った木は木目が細い
どちらも使う場所次第で活きてくる
目に見える表に現れた姿にとらわれず
内に秘めた良さを活かす
人生は効率ではない
ゆっくり育つ人、早く育つ人、
どちらも必要である
人生の目的
人格の向上と完成が人生の目的である
生まれて来た時より 死んで逝く時の方がましな人間になろう
誰にでも仏性がある
仏性は磨けば光る宝の珠
人に磨かれるのが辛ければ自分から率先して磨くことである
光り輝ければ皆に尊ばれる
本当のこと
お釈迦さまは「どのようにしたら、人間は苦から解放されるのか」と修行を重ねられ、すべての苦は「根本の無明」か
ら生じているのだと悟りを開かれました。
根本の無明とは、「本当のことを知らない」つまり「宇宙の真理・世の中の真実」を知らないということです。親の本当
の思い、子供の思い、社長の思い、社員の思い等、相手の本当の思いを知らず、自分中心の考え方や言動が誤解
と錯覚を生み、罪を作り不幸という苦を生み出しているのです。
最近[忖度」ということが国会の論議の中心になっていますが、本来[忖度」とは「他人の心をおしはかること。目上
や相手のこころを汲み取り行動すること」であり、悪いことではありません。
しかし、今国会で問題になっている官僚の忖度は根本が間違っているのです。社会や相手が本当に良くなるために
相手の思いを察するのではなく、権力者や周囲の顔色を伺い、自分の地位や立場の保身と出世のために「損得」の
計算で動いているから結果がおかしくなるのです。何事もまず自分の立場や自分の利益を第一にに考えて行動する
ことは、我欲から始まっているので、先へ行くほど正しい結果から大きく外れてしまうのです。
末法顛倒の衆生
一般常識の価値観と仏さまの智慧による価値観は、時として百八十度違います。仏教では一般常識には四つの顛
倒があると教えています。
常顛倒・・・変化するものを変化しないと考える。
楽顛倒・・・苦であるものを楽と勘違いする。
浄顛倒・・・不浄なものを表面だけ見て浄らかと思う。
我顛倒・・・支え合いの世の中なのに自分の力だけで生きていると勘違いする。
具体的には、地位が上がるほど、自分の立場に執着し守ろうとしたり、学歴が付くほど親や人をバカにする。お金が
貯まるほど守銭奴と化し、心が貧しくなり人を下げたり、現状に満足出来なくなって際限なく贅沢を求め、貪欲の生活
となり、最後は惨めな人生となる人も多くいます。人としての正しい生き方を教えてくれるのが仏教であり、法華経な
のてす。
自分が蒔いた種
ある法座にきれいな母親と年頃の娘さんが初めてお参りに来られました。「先生、娘は二十六歳になりますが、結
婚が出来ないのです」と最初から涙ながらのご相談です。
事情を聞くと、家業は地元でも有名な老舗で、経済もしっかりしています。娘さんは大学を卒業し お勤めもしてお
り、何の問題もありません。しかし、見合い話がいくつも来るのですが、しばらくすると全部向こうからお断わりが来る
のです。あまりにも断られるので、お世話する方に何故断られるのか理由を聞くと、「お宅の血筋家柄の問題で断ら
れるのです」とのことです。うちのどこに問題があるか尋ねると、「お母さん、あなたの実家に問題があるのです」と
言われるのです。
しかし、それは誤解であり 事実無根であると、どれだけ説明しても相手さまには通じないのです。だから余計に悲
しいのです。
「お母さん、事情はよくわかりました。世の中は困る者の罪、自分が蒔いた種が芽生えてくるのです。今娘さんの結
婚で困るということは、お母さんのあなたの結婚で、嫁ぎ先の姑か、実家の母に罪が作ってあるのでしょう。もしくは、
この娘さんの胎教中に何らかの理由で堕そうとしたか、生みたくない要らない子ではなかったですか。そういう子は
大きくなった時、いない方がいいと思えるような苦しみを与えるのです。心当たりはありませんか?」
「嫁ぎ先の亡き母には大変親切に優しくして頂き、尊敬し今でも感謝しております。しかし、実家の母にはいい思い
はありませんでした。
実家は貧乏人の子沢山で私はその長女でした。嫁ぎ先の母に見初められ、うちの嫁に是非来て欲しいとと乞われ
ましたが、家の格が違い過ぎると再三お断わりしました。嫁入り荷物も結婚式もすべてこちらが準備するから、あなた
の様な器量良しの娘を息子の嫁に迎えたいと、もったいないような嫁入りでした。
しかし、実家の母は本当に着物一枚、タンス一本も用意してくれず、肩身の狭い思いで嫁ぎ、母の不甲斐なさを責
めました。間もなく最初の子を妊娠し、実家で男の子を生みました。その時も、母は子供の産着も何も用意してくれま
せんでしたので、また嫁ぎ先の姑が全部準備してくれました。その時も私は、情けなさや恥ずかしさで母を責めまし
た。次に二人目を妊娠した時は『絶対女の子は要らない。産むなら男の子』と思って生まれたのがこの娘です。
なぜなら、気が付かない間に合わない母は、どうせまた何も準備してくれないだろうから、女の子を産んだら、まだ
嫁ぎ先に迷惑をかけて肩身の狭い思いをしなくてはいけない。男の子なら、長男の物で間に合うから、恥をかかなく
て済むと思ったからです。そして、また母を責め恨みました。それがいけなかったのでしょうか。」
「人に与えた思いを自分が受けるのが真理です。お気持ちはよくわかりますが、母に与えた思いが巡って、今あな
たは同じ苦しみを受けているのです。大切な娘やかわいい孫に、何かしてやりたくても貧乏で何もしてあげられなか
った母の情けない気持ちを、あなたは今お金持ちで何でもしてあげられるのに何もしてあげることができない情けな
さや悲しみを受けているのです。」
種は小さく実は大きい
蒔いた種は小さくても年月が経つと大きな実となるのが真理です。当時あなたが当然と思って実母を責めましたが、
何かしてあげたくてもあげられなかった母の本当の心が分からなかったあなたの「無明」が今日の苦しみの種まきです。
幸い実母は健在ということですから、早速実母にお会いし一度心からお詫びの懺悔をすることです。そして、これか
らは初中後母のもとに足を運び親孝行をして喜んで頂くことです。
娘さんも自分のことですから、今日の幸せな境遇に心から感謝することと、おばあちゃん孝行をして喜ばせてあげる
ことです。祖父母を大切にした人はきっと子孫に恵まれ幸せな家庭を築けますとご指導致しました。
その後、この母娘は毎月ご法座にお参りされ、指導通りに実家の祖母を大切にし喜んで頂く実行を続けられました。
半年ほど経ったとき、お見合いの話があり、呉服屋さんの跡取り嫁としてめでたく嫁いで行かれました。この時は実
家の血筋家柄のことは一切問題になりませんでした。真理に目覚め、実践すれば必ず苦を乗り超え、幸せがやって
来るのです。
良い想い
人生は想いと想いの世の中
悪念は悪い結果を生み、
良い想いは幸福につながる
毎日の生活の中に良い想いを
持って生きることが、幸福に
なる大切な生き方である
すべては仏になるための計らい
道元禅師は「すべての存在は仏さまの悟りそのものである」と解釈されました。つまり、人間で言えば髪の毛も爪
も手も足も、その人の一部であり、その人そのものであるように、すべての存在や出来事、善い事も一見悪いことと
思えることもすべて仏さまの一部であり、仏さまそのものだと受け止めることが正しい悟りなのです。
簡単に言えば、世の中や自分に起こるすべての出来事は、私たちを仏さまと同じ境涯に導くための「仏さまの計ら
い」なのです。毎日の生活や人生そのものがすっぽり「仏さまのお慈悲の懐に抱かれている」のです。そう受け止め、
ありのままが有り難いと感謝出来た時が仏さまの境涯なのです。
悪念悪言は自分を傷つける
しかし、教えのない凡夫や教えの浅い人は、自分にとって都合の悪いことは「仏さまの計らい」とは受け止められ
ず、相手を責める悪い想いを持ったり、言葉でもって相手を攻撃し、さも自分がさも正しい、自分が勝ったと錯覚しま
すが、本当は悪念と悪言はブーメランのように戻ってきて最後は自分が傷つくのです。相手を許し感謝の言葉をかけ
ることが出来れば、幸せが舞い込んできます。これが真理です。
かつて五十代の独身女性(両親と三人姉妹の五人家族)がおられました。ご信者さんの紹介で、開祖さまのが入院
中の病院へ拝みに行かれ、相談を受けられました。全身の皮膚が化膿し膿血が流れ、髪の毛はもちろんのこと、眉
毛もまつ毛も手足の爪も抜け落ち大変な病状の中、二人のお姉さんが心配そうに付き添って看病しておられました。
医者は様々な治療の手を尽くしましたが、原因不明で治る見込みがないのだそうです。
「いくつもの宗教を尋ね、いろいろな病院にもかかりましたが、一向に良くなりません。先生、私は治ることが出来る
でしょうか。」
「大丈夫です。法華経の教えよみがえる教えです。病気は気から、あなたの心の間違いに気付き、心から懺悔し、
仏さまのものの見方に切り変えることが出来ればきっと治ります。」
「先生、何故こんな恐ろしい病気になったのでしょうか? 私の心の何が間違っていたのでしょうか教えて下さい。」
「『単刀直入に申し上げます。全身が腐り、膿血が流れるということは、あなたは大切な肉親縁者を恨んでいるのが
原因です。心当たりはありませんか。」
「肉親縁者を恨んでいると言われれば、確かにあります。今こにいる二人の姉と亡き両親のことを恨んでいます。許
すことが出来ません。」
「こんなに看病してくれる姉さんたちと、亡き両親のことがなぜ許せないのですか」
「姉たちは年頃が来たらそれぞれに結婚し、子どもにも恵まれ幸せな家庭を築きました。残された私が成り行き上
暗黙の裡に後取りという状況になり、親頼っていました、私は普通のお勤めでは両親を養うことは出来ないと思い、
借金をして小さなお茶漬け屋をはじめ、一生懸命働きました。やがて父が亡くなり、母も亡くなり、ふと気が付くと結婚
適齢期もはるかに過ぎ、私一人が取り残されてしまったのです。
なぜ自分だけがこんな苦労をして寂しい人生を送らなければならないのか、何のための人生だったかと思うと、亡き
両親が許せませんし、私の犠牲の上に幸せな家庭を築いている二人の姉が恨めるのです。これが私の偽らざる気
持ちです。」
「あなたの心情はよくわかりました。しかし、理由の如何を問わず、親を恨んだり、姉たちを恨んでいることが大きな
間違いです。悪念と悪言は他を傷つけず、ただ己のみ傷つくというのが真理です。恨み骨髄に達するという言葉があ
りますが、あなたは折角最後まで両親の面倒を見るという善いことをしながら、ちょっとした考え違いから「憎さ百倍」
の怒りをもって肉親を心の底から恨み憎しんだ業が病気の原因です。
親もあなたを不幸にしようと思って頼りにした訳ではありませんよ。きっと『申し訳ない済まなかった。おまえにも幸
せになってもらいたい』という思いで見守っていると思いますよ。ここにいる姉さんたちにも同じです。移る病気では
ないといっても、全身から膿血が流れる病人を毎日誠心誠意看病して下さるのはあなたのことを思えばこそ、姉妹
だからこそですよ」。
「先生、よくわかりました。本当にこの病気は治りますか。どうすれば良くなるか教えて下さい。」
「妙法の教えの通りに行えば必ず治ります。次の三つのことをしっかりと実行して下さい。
①子供の幸せを願わない親はいません。両親の深い思いを汲まずに恨んだことを懺悔し、生み育てて下さったことに
心から感謝し、守って頂けるように祈ること。きっと親は全力で守って下さいます。
②姉たちの幸せを逆恨みしていたことを懺悔し、こんなに献身的に毎日看病してくれる二人の姉がある『私は幸せ者
である』と心から感謝し後姿を拝み、「面倒見てくれてありがとう」と声掛けをすること
③自分より若い大学を出た立派なお医者さんや看護婦さんが、こんな恐ろしい病気の患者を誠意をもって診て下さる
ことに感謝し拝むこと
今日から実行今日から治り始めます。毎月布教に来た時に拝みに来ますから、勇気をもって頑張りましょう」
恨む心も強いけれども、心を切り変える力も強かったこのご婦人は、長年の恨みや憎しみを《あっさり、すっきり、さ
っぱり》と切り換えられ、実践されました。その結果、瞬く間に健康を回復され、半年ほどの間で前回されたされたの
です。この事実を見る時「世の中は自分が蒔いた種が芽生える。蒔いた種は自分が刈り取らねばならない」という妙
法の心理がはっきりと証明されたのです。
人生には「なぜ自分だけがこんな苦労を背負わされるか」と思えるようなことが多々あります。それは仏さまが与え
て下さった幸せの昇給試験であり宝くじです。折角の仏さまからの昇給試験を逃げたり避けては損です。しっかりと受
けて立ち、やった者勝です。合格すれば想像以上の幸せがやって来ます。宝くじでも最初に当たりくじを引けば、残り
は外ればかりです。分の悪い外れくじをすべて引いてしまえば、残りは一等賞が必ず当たります。この心理が解かれ
ば勇気が湧きます。信じる者こそ救われるのです。信仰に近道はありません。毎日しっかりお経を上げ、法話をたくさ
ん聞き、縁ある人に教えを伝え、お導きすることによって教えがより信じられるようになるのです。
正しい師匠をもって
人間は生きてある限り、悩みのない人は一人もいません。精神的に弱い人、苦労を知らぬ人ほど、一度難問問題
にぶつかると、ここから逃げよう、人が何とかしてくれるだろうと他力に依存する弱さがあります。この軟弱な根性を
切り変えぬ限り、いつまで生きても苦しみに追い回され、悩みから脱することは出来ません。いかなる悩み苦しみが
あろうとも、これを乗り超える道を教えているのが仏経です。
しかし、せっかく信仰しながらも、いつまで経っても悩みが解消出来ず悶々している人がありますが、それは正しい師
匠を得ずして形式のみをしった自己流の信仰であることに自ら気付かねばなりません。理屈をこねまわしたり、高慢
な考えの人には仏教の偉大さ、信仰のありがたさは自覚できません。
力を合わせて
河原の何トンもある大きな岩も、大雨が降って鉄砲水が来れば、
ひっくり返されて流れていく。
ビクともしないような人生の難問題も、親子、兄弟、夫婦が心を
一つに集中すれば、必ずひっくり返し動かすことができる。
バラバラではいけない。お互いを理解し、固い信念と率直な気持
ちで力を合わせることである。
徳人になれ
自力を出さずして徳人にはなれません。
徳とは信用であり、いかなる立場にあっても信用される人間になるには最小限十年の歳月が必要である。
もし二年や三年で信用と信頼を求めるのであれば、十年分を短期間でやり抜く努力と人一倍の忍耐力と、群がる煩
悩に挑戦し、命がけの精進をする以外、他力を求めても得られるものではありません。
すべてを善意に考え、前向きの姿勢で事にぶち当たる心があってこそ、予期せざる叡智が生じ、自らの行動に活力
が生まれ、これが周囲の信用となり、自分の徳となるのである。
変化の節目
「暑さ寒さも彼岸まで」の諺どおり猛暑と豪雨と蒸し暑さに悩まされる夏も、九月を迎えると途端に朝晩はかなり涼
しくなります。「諸行無常」の心理の通り、同じことはいつまでも続きません。常に変化し続けるのが大自然の摂理で
す。
春夏秋冬の四季の変わり目を「土用」と言います。立春、立夏、立春、立冬までの二週間が土用の期間です。季
節の変わり目に体が付いていけず、体調を崩す人が多いのです。気学では土用の期間中に大木を切り倒したり、大き
く土を掘り返したりすると「五黄殺」といって強烈な腐敗作用、自壊作用を受けるとされています。つまり高熱を伴う大病
をしたり、人間関係や事業の計画が自滅崩壊しやすいとされるのです。
しかし、季節の変わり目ばかりではなく、人生には様々な節目があります。結婚、出産、入学、就職、葬儀、相続等
が人生を大きく左右する変化の節目です。この大きな変化の時に、烈火のごとく怒ったり、大切な人を恨んだり憎しん
だり、損得勘定の欲違いで財を握り罪を作ると、大病や大事故、家庭崩壊、事業の失敗等取り返しのつかない大き
な不幸を招くことが多いのです。
今解決の難しい問題に直面している方は、自分の人生を振り返り、心当たりがないかよく考えてみましょう。
火の車、 作る大工はおらねども、己が作りて己が乗りゆく
よく「怒った方が悪いのか、怒らせた方が悪いのか」と言う人が見えます。どちらも罪作りでしょうが、「怒りは病気、
貧乏、災難のもと」と教えられます。怒った方、恨んだ方が罪を受けるのです。
つまり自分が誤解や錯覚、思い通りにしたいという欲から怒りの炎に包まれた「火の車」を作りだし自分がそれに乗
っているのです。
そう気付いたら、一刻も早く怒り恨みの炎に包まれた火の車を自分で降りなければ焼け死んでしまいます。世の中
にはこんな事が多いのです。
蒔いた種は自分で刈り取る
ある日、若いご夫婦が生後三か月の可愛い女の子を連れて教会に相談に来られました。
「今日はどうされましたか」
「はい、実はこの女の子は私たち夫婦の初めての子供です。元気に生まれて順調に育っていたのですが、右足の様
子が少し変だったので、お医者さんに診てもらったら、股関節が脱臼していたのです。その上、レントゲンを撮った結
果、『右又関節の受け手の方の骨盤の骨が一部欠損していてすぐ外れてしまうので、夜寝る時以外は当分の間コル
セットをして下さい』と言われましたが、赤ちゃんが痛がり嫌がって泣き続けるのです。
かわいそうで見ていられませんので、お医者さんに外してはいけないか聞きましたところ、骨が出来るまで外して
はダメだと言われました。欠損した骨がいつ治るのかもわかりません。どうしたらいいのか困ってしまい相談に来ま
した。
「事情はよく分かりました。夜はコルセットを外してもいいのなら、そんなに嫌がるのであったら、外してあげなさい。
小さな子供の病気は親の心得間違いを身をもって教えてくれているのです。
女の人に罪を作ると体の右側に出ます。足の骨を受ける股関節の親骨である骨盤の一部が十分発育しておらず、
足がすぐ外れるということは、あなた方夫婦が母親の心が汲めず心が離れているということです。何かの思い違いと
いう種まきが、今日の子供の病気の原因です。思い当たることはありませんか。」
「私たちは恋愛結婚ですが、妻は一人娘の跡取り娘で、嫁には出れない立場でした。私も長男で跡取息子ですか
ら、外には出られません。そこで妻の母に反対されましたが、どうしても結婚するのなら、両家の中間に住んで気軽
に行き来できるようにして欲しいと言われ、やむなく中間にアパートを借りることにしました。
すると今度は私の母親が、父が早くに亡くなっていますので、長男の私を頼りにしており、同居して欲しいと言うので
す。
とりあえず、アパートに住むことにしましたが、実はどちらの母にも困っているのです。」
「お釈迦さまは苦の原因は『根本の無明』であると教えられました。無明とは無知、本当のことを知らないということ
です。あなたたちは双方のお母さんの本当の気持ちが分かっていないから罪を作り、子供に結果現象が出たのです。
二人のお母さんのあなたたちを思う本当の心が汲めば、赤ちゃんの足は必ず治ります。
二人の母が無理を言うのではなく、あなた方が無理な結婚をさせてもらったのです。それぞれが跡取り息子 跡取
り娘と期待して大切に育てて下さったことに心から感謝することです。そして休みの度に交代交代に親元に足を運び
孫の顔を見せて喜ばせてあげること『お父さんとお母さんの考え間違えであなたに痛い思いをさせてごめんなさいね。
心を入れ替えて一生懸命親孝行するからね』と言って毎日我が子の足を妙法を唱えて拝むこと。月に二度の日曜法
座にお参りして教えを学び、拝んでもらうこと。これを真剣に続ければきっと良くなります。」
「よくわかりました。心から親の気持ちを汲むようにして先生に教えてもらったように夫婦で実践します」と喜んで帰
られました。
言葉通り率直に一生懸命実践され三か月ほどが過ぎ、足も外れないし痛がりもしないので、病院に行ってもう一度
レントゲンを撮って診て欲しいとお願いしたら、短期間に何度もレンドゲンは取れないと言われたので、別の病院に連
れて行って事情を話し、レントゲンを撮ってもらったら、どこにも異常はないとの結果でした。
お医者さんに三か月前のレントゲン写真では骨が欠けていましたが、そんなに早く骨ができるのかと聞きましたら、
二カ月や三カ月でなかった骨が出来ることは考えられないとのことでしたが、現実の写真にはちゃんと骨が写ってい
ましたと、嬉しい報告がありました。
人間の常識や医学の常識では考えられないこんな不思議なことが世の中にはあるのです。
すべての不幸や災いは、思い込みや考え違いから生じる。反省しようとするならば、心を落ち着けて物事の本当の
意味に気付けば、すべての罪は朝露や朝霧が朝日に照らされるとあっという間に無くなるように罪も瞬く間に消える
のです。これが妙法の教えであり真実なのです。
拝む心
先祖や亡き親に感謝して拝むことは当然であり、何宗も教えています。
しかし、罪を作るのは生きた人間関係であります。罪を作る人間関係において、相手を拝む修行が出来たら、毎日
の生活は直ちに極楽の生活に変わるのです。
親が我が子を拝んで育てた偉大な信仰的努力は、成長してから人から拝まれ、尊敬される人格者となるのです。
商品や機械も同じです。この商品のおかげ、機械が動いてくれるおかげと感謝の心を持って拝んだ商品や機械が成
仏しないはずはありません。
拝む心こそが仏なのです。
毎日を喜んで
過ぎた日を追うな
追い過ぎると愚痴が出る
まだ来ない未来を追うな
追いすぎるとため息が出る
ただ今日なすべきことを
やれることを喜んでやろう!
今日を幸せに生きるためには
現在の幸福を
犠牲にしてはいけない
人生は徳次第
「徳積めば物は自由になるものを、徳も積まず困る世の人」「徳が本なり、財は末なり」これが永年の真理です。幸
せになるには、「自分の力に応じて徳を積む」ことが大切です。第二に先祖供養と親孝行、第三に社会や人様に喜
んでもうら善行をすることが徳積みです。分に応じた施しの徳積みがしてないとお金があっても、学歴があっても、
地位があっても、最後は本当の幸せにはなれないのです。何故なら、すべての人間の生まれながらの共通の目的
は「徳を積んで仏になる」ことだからです。病気の人は体に徳が無いので体で徳を積み、貧乏な人はお金に徳が
無いので生活を切り詰めてでも「貧弱の一灯」のお金で徳を積むことです
あるテレビ番組で芸能人豪邸ベスト10という企画がありました。第十位は約二億円の豪邸で、第一位は約十八億
円の絶景を目の前にした豪邸でした。しかし、約半分の方は離婚をしたり、連れ添いに先立たれたり、子供が警察
にお世話になったり、独身の身であったり、お金ではどうにもならない家庭的な寂しさや家族に問題のある方達でし
た。徳のない財産があるばかりに身内で醜い財産争いをしたり、
子供が道楽者になってしまう家もあります。また、学歴というプライドが邪魔をして頭を下げることや謙虚になることが
出来ずに余分な苦労をしている高学歴の人もいます。地位が出来たばっかりに高慢になり高圧的になり、嫌われてい
る人のいるのが現実です。
ご利益の頂ける信仰とは
お釈迦さまご在世の頃、釈迦教団に入門する条件は「三宝帰依」の一点でした。三宝とは「仏・法・僧」のことです。
帰依とは「命がけで信じる」ということです。つまり「仏さまに帰依します。法に帰依します.。僧に帰依します」というこ
とをお誓いすれば、お釈迦さまのお弟子になれたのです。私たちも「三宝帰依」の実行ができたら仏弟子であり、あら
ゆる苦を乗り超えて仏さまと同じ大安心の人生というご利益が必ず頂けるのです。
では、具体的に何を実践したらよいのでしょうか?
①仏帰依とは、毎日お経を上げ、仏さまを真剣に拝むことです。
どのご家庭にも仏さま、ご本尊さまをお祀りしましょう。仏さまのお祀りしてない家は、どんな新築の立派な家でも気
の抜けた廃家と同じであり、仏さま(大自然)のご守護はかかりません。また、ご本尊をお祀りしてもお経も上げず、
手も合わせなかったら、何のご利益も出ません。
仏を敬えば仏力を得、師を敬えば師力を得、親を敬えば親力が得られるのが真理です。
②法帰依とは、妙法(真理)の教えを実行することです。
法は拝んでも功徳は出ません。実践した時にのみご利益が出るのです。妙法(真理の教え)を疑わず、喜んで実
行することです。交通法規を守っていれば、事故を起こしても法律によって守られるのと同様に、妙法の心理を守っ
て実行していれば、いざという時に宇宙に心理の法則によって守られるのです。
③僧帰依とは、教えを伝えて人を僧伽(教えの仲間)に導くことです。
人を教えに導いた功徳は、誰かのスポンサーになり、一生の間有り余る衣食住の応援をした功徳の百倍、千倍、
百千万億倍の功徳が頂けると経典(随喜功徳品)にあります。この僧帰依の功徳が一番大きいのです。
三宝帰依のすべてができなくても、どれか一つでも実行すれば、必ず三宝の功徳が頂けるのです。知っていても、
実行しなければ、功徳は出ません。
拝んだ事実、祈りの功徳
ある夜法座の会場に三十代の若いお父さんが悲壮な顔で相談に来られました。「一か月前の夕飯時、三才の娘と
散歩から帰ったおばあさんとみそ汁の鍋を持った嫁とが振り向きざまにぶつかり、その勢いで三才の女の子が頭か
ら煮え湯をかぶり、全身大やけどを負い、今も意識不明の瀕死の重体で生死をさまよっています。ここの法座宅の奥
さんから『真生会の法華経の教えを聞けば必ず助かる、うちの法座に是非来なさい』と言われ、藁をもすがる気持ち
で来ました。何とか助けて下さい」という緊急事態です。
翌日、入院先である最新の設備の整った大きな国立病院の集中治療室に伺いました。全身を包帯でぐるぐる巻き
にされた幼気な女の子が力なく横たわり、何本もの点滴の管が手足に刺されていました。小さな声で妙法を唱え、そ
っと手をかざし全身を拝ませてもらい、控室で心配そうに待つ若い両親に、この災難の原因と看病の心構えや実行す
べきことをお話しました。
「怒りは地獄の業なるべし 病気・貧乏・災難の本」怒りはすべての幸せを破壊してしまうのです。罪のない幼女がこ
のような大やけどをするのは、平素から積もり積もった嫁姑の憎しみ合いの怒りの業家が原因であり、仏さまがこの
幼女を通じて教えて下さったのです。
「〇〇ちゃん、ごめんね。これからはお父さんも、お母さんも、おばあちゃんを大切にして仲良くするからね。仏さま
どうぞお守り下さい」
と心から懺悔と心の切り替えの必要性を説きました。
ただ側に付き添っているだけでは奇跡のご守護は頂けません。諸経中の王であり、最も尊いお経である法華経の
寿量品の中にある「衆生見劫尽 大火所焼時 我此土安穏 天人常充満」の四句を唱え続けて下さい。私は遠方で
月に一度しか来れません。私の数珠を差し上げますので、一緒に拝んでもらえると思って毎日何時間でも手をかざし
て拝み続けて下さい。
「健康な体が大やけどで全身が焼けただれたと見える時も、仏さまに守られたその体は、元通りになり大安心が得
られる」というご守護がかかるのです。不安と心配で泣いている暇があったら拝み続けることですと厳しいご指導を
しました。
その後一か月の間に主治医から「今晩が山です。覚悟して下さい」と五回も宣告されましたが、奇跡を信じて昼夜
一心不乱に拝み続ける両親の姿に、お医者さんも「どうぞ、一生懸命拝んであげて下さい」と運を天に任せる以外な
かったのですが、命だけは取り止めることができました。しかし、煮え湯をかぶった時のダメージで脳が委縮している
ので、植物状態であり話すことも意志の疎通もできない、命が助かっただけでも奇跡ですと言われました。
しかし、このご夫婦は意識回復の奇跡を信じ、来る日も来る日も拝み続け名前を呼び続けられたある日、両親の
呼びかけに突然返事をしたのです。
驚いた医者が脳の検査をしましたが、やはり脳は縮んだままで医学的には喋れる状態ではありませんでした。この
日を境に、日に日に驚くほどの回復を遂げ、無事退院し親子三人そろって総本山真生寺(岐阜市)までお礼参りに来
られたのです。ここに信仰は信じた者が救われ、実行した時に医学や化学を超越した不可能な功徳、ご利益が現れ
ることが証明されたのです。
下がる修行
少々頭が切れ、仕事ができる人ほど「ここは」という時に主張
をして、徳人や上司に噛みつき、信用を無くすのである。
振り返って自分を見つめてみましょう!
夫婦の間で、下がる修行はできていますか。
親子の間で、下がる修行はできていますか。
上司に対して、下がる修行はできていますか。
恩人に対して、下がる修行はできていますか。
下がる修行ができる人こそ有徳に人であり、周囲からも
尊敬されるのである。
あなたには、無条件で下がることのできる人はいますか?
人生を作り出す言葉
言葉は人生を作り出す
良い言葉、きれいな言葉、前向きな言葉は
良い人に恵まれ、良い環境の中で発展的な人生が訪れる
汚い言葉、荒い言葉、ネガティブな言葉は
悪しき人に囲まれ、厳しい環境の中で辛い人生が訪れる
徳 不徳の総決算
十二月は一年の総決算の月ですから、良いことも悪いことも答えが出て来ます。お互い様この一年を振り返り、早
めに足りなかった所があれば 急ぎ善行をして徳の補給をしましょう。もし、間違った行いや考え方に気付いたら、しっ
かり懺悔と訂正をしておくことが大切です。
借金でも今年のうちに返しておかないと利息をつけて来年に持ち越されます。もし良いことをして来たのにご利益
の無かった人は、徳積の貯金も利息を付けて持ち越されますから安心して下さい。徳の貯金、天への貯金は自分の
都合では下せませんが、仏さまが見られて一番必要な時に結果現象を出して下さいます。
目と口の使い方で幸不幸が決まる
誰でも幸せになりたいと思い毎日一生懸命生きています。しかし、多くの人は周囲と比べて幸せだとか、自分の都
合でそう思っているのです。
お釈迦さまは、世の中は一見違いがあるように見えるが本質的には、平等で大調和していると教えてみえます。絶
対的は幸福や不幸はないのです。それぞれのものの見方、ものの言い方によって「人が幸せそうに見えたり、自分が
不幸そうに思えたりする」のです。要するに物事の見方 受け止め方次第で「楽も苦となり、苦も楽となる」のです。
「苦を苦と受け止めない智慧」が法華経の教えなのです。
若い子育てのお母さんが、思い余って相談に来られました。このお嫁さんは、長男の嫁として結婚し、離れに住ん
でいますが、母屋には夫の両親と離婚して出戻って来た妹さんとその子供が同居しているのです。
「先生、私が最近浮かぬ顔をしているのを見かねて、主人が『何かもやもやすることがあるのなら、何でもいいから
言ってみろ』と言いましたので、実は母屋で生活している妹さんのことが喜べないのです。
休みの日は好きなだけ寝て、お勤めもパートで週に二三日、しかもフルタイムで働くわけでもなく、炊事も掃除もほ
とんどお母さんにやってもらって、朝ご飯も夕飯もお据え膳、子供の幼稚園の送り迎えもほとんどお父さんやお母さん
にしてもらって、自由気ままな生活をしているのに・・・私は炊事、掃除、洗濯はもちろんのこと、毎日あなたのお弁
当作りや子供の離乳食作り、あなたのお休みの日でも私はゆっくり遅くまで寝ることなく一生懸命やっているのに、
妹さんは幸せでいいなぁと思うと喜べないの」と思い切って言いました。
すると「なんだそんなことか、俺は知らん。お前は妹が幸せそうに見えるかもしれないけれど、妹には夫がいないん
だぞ、本当に幸せか?」と言ってそれっきりです。言ってみろと言われたので言ったのに、そんなことか俺は知らんと
いう返事に何かすっきりしません。どう考えたらいいんでしょう」という相談です。
「あなたの気持ちはよくわかりますが、ご主人の言って見えることの方が本当でしょう。『そんなことか』というのも、
夫婦の問題か、もっと重大な悩みがあるかと思ったからでしょう。
妹さんを見る見方を変えてみたらどうですか。あなたは自分と妹さんを比べて見ていることが苦の始まりです。自分
は自分、妹は妹の生活パターンがあるのです。そして主人の言われる通り、夫もいない実家に世話になって自立した
生活も出来ていない妹さんは本当に安心の出来る幸せですか?
あなたは勘違いしているんですよ。妹さんは家事や子育て、生活の援助をしてもらっていますから《楽そうに見えま
すが、本当の幸せではないでしょう》楽と幸せを勘違いしているのではないですか?
自分の身に置き換えてみたらどうでしょう。実家の親に経済も子育ても家事もおんぶにだっこの生活が幸せなら、あ
なたも離婚して実家に帰った方が幸せですか? 妹さんの方が幸せだなぁと本気で言っていると、言葉は言霊(ことだま)
ですからあなたも離婚して実家に戻ることになってしまいますよ。
世の中は、してもらう立場より、させてもらう立場の方が幸せなんですよ。生活保護をたくさんもらって生活している
人より、国のため人のために税金をたくさん払っている人の方が豊かでしょう。
見た目の労力は楽そうに見えるけれど、離婚して戻って来ている妹さんは可哀想だなぁ。両親が元気なうちに再婚
をして新しい家庭を築くか、自立出来ますようにと、陰から拝んであげることが仏さまの教えですよ。よく考えて見方を
変えてみましょう。」
「先生、よくわかりました。納得出来ました。私は『楽な生活と幸せな生活』を勘違いしていました。切り替えて頑張
ります。」と笑顔で帰って行かれました。
拝む行動が仏心を作りだす
高校生の女の子を持つお母さんのご相談です。
「先生、娘も高校生となり反抗期ということもありますが、最近口答えが多くなり、ついつい言い合いになることがあ
ります。先日も些細なことから言い合いになり、勤めに行く車の中で大声で「誰のおかけでここまで来れたのか・・・」
と叫んでスカッとしましたが、いけないことだったでしょうか。」
「誰も聞いていない所で娘に対する不平不満や怒りをぶちまけたのですから、直接本人に言うよりはましですが、
人間の吐いた言葉は宇宙に響いて天の台帳に記録されると経典に書いてあります。もし、怒りに任せて『あんな娘
の顔も見たくない』と叫んでいたら、娘さんはいづれ家出して顔が見れなくなりますよ。心で思っても同じです。」
「先生のおっしゃる通り、腹立ちまぎれにそう言いました。どうしたらいいでしょう。」
「すぐにしっかり懺悔して、腹立ちまぎれそうに心にもないことを言いました。大切な娘です。大事に育てます。仲良
く暮らしますから、叫んだことは訂正します」と天の台帳に記録された言葉を、懺悔という消しゴムでしっかり消してお
くことです。
そして、陰からでも娘の登校する後姿に手を合わせて「仲良くやれますように、娘の善い所が見えますようにお守り
ください」と合掌して毎日拝んで送り出すことです。怒れたことは心から拝めないかもしれませんが、形だけでも手を
合わせて拝むことです。そうすればいづれ心から拝めるようになります。
そして仏心が育てば自然と手が合わせられ、行動に現れます。形からでもいいので何事にも手を合わせ、毎日お
経を上げていれば、「無量の功徳この経に集まれり」と経典にある通り、すべての人に仏心が芽生えてくるのです。
人生の鏡
どんな動物も鏡をもたない。人間だけが鏡をもっている。
鏡は本当の自分の顔を教えてくれる。人生の鏡こそ、神仏の教えであり宗教である。
宗教、即ち信仰心を持つ人と持たない人はどこが違うか。いったん非常時が起きた時の考え、心の在り方に大きな
差が生まれ、次に来る自分の運命を左右するものである。
信仰心のある人は、常に自分の心を教えの鏡に照らすから、我流に走れる愚かな行動、煩悩に負ける己の弱さ、
慢心の自分の未熟さがわかるので、懺悔し感謝の生活をしようと精進を重ねるから、自然と血行もよくなり健康が保
たれ、年以上に若々しく活動的となるのである。
笑顔は人間生活になくてはならぬ宝であり、魅力である。信仰の深さによって、笑顔はにじみ出るのである。
理屈では解決出来ない
大いなる放棄、捨心
深い哀しみや恨み憎しみも
時が癒し解決してくれる
時が経っても癒されない時は
渇れるまで涙を流し、
思い切っり叫び
そして一方的に赦し、忘れ、
捨て去るしかない
争いは争いによって止まらず
憎しみは憎しみによって止まらない
理屈では解決できない
難しい学問は出来ても、簡単な工夫や機転が利かないのは、余りにも日常生活の経験、実学が足りないのです。
だから就職してちょっと厳しいことを言われたり、面倒な仕事を与えられるとすぐに辞めたり、精神的にダウンしてしま
うのです。建物に例えれば、高学歴という立派な高層建築になればなるほど基礎の土台がしっかりしていないと地盤
沈下を起こすかバランスが崩れて傾き始めます。大学卒という学問に経験という実学が伴ったら、鬼に金棒です。
家庭での手伝いが基礎力
今は高校生の半分以上が大学に行く時代になり、学問や知識はありますが、日常生活の常識や当たり前のことが
出来ないのは、子どもの頃から家の手伝いがさせてありませんから、生活していく知識と粘りがないのです。工夫す
る力や忍耐力という基礎力が不足している若者が多いのです。
平素から家事手伝いをしてもらい忍耐力と工夫が出来機転の利く子供に育て、就職したら家に生活費を入れる徳
積みをさせ、肉体的、精神的、経済的体力を身に着けさせることが親の大切な役目です。塾通いや勉強だけをさせる
のではなく、大掃除やタイヤの交換等、親が一緒に見本をしめしながら大いに実学を身に付けさせる時です。学生時
代 独身時代に生活力という基礎が身についていないと、就職してから上司やお局さんに鍛えられるか、結婚してか
ら姑や小姑から鍛えられるのです。
人生のどここかで、女中か小僧の修行をしてこそ立派な奥様、旦那様になり、立派な社会人となり、幸せな家庭が
築けるのです。
便利さの落とし穴、スマホの功罪
昨今は教えなくてはいけない親も、学ばなくてはいけない子供もスマホのゲームやインターネットの虜となり、家庭
での会話や触れ合いが希薄になっています。スマホやパソコンはどんなことでも調べられ、あらゆる情報が得られ、
世界中の誰とでも一瞬のうちに繋がる大変便利なツールですが使い方を間違えると、便利さの裏側に大きな落とし
穴が待ち受けています。
世間を騒がせている大相撲の暴行問題も、人が話をしている時、ましてや各上の先輩が話をしている時にスマホを
操作していたのが引き金になったとつたえられていますが、どこでも見られる日常茶飯事の情景です。他人や遠く
にいる人とは繋がるスマホにより、目の前にいる家族や大切な人とのつながりは切れているのです。
職場や会議の場、上司が話をしている時でも平気でスマホを操作している人もよく見受けられます。家庭において
も、食事中や団らんの時にも同じ部屋の隣同士に家族がいても、会話もなく各自が銘々我々好き勝手にスマホをい
じっている異様な情景がどこの家庭にもあるのではないでしょうか。家庭崩壊、意思疎通を欠く危険信号です。
某市で起きた連続殺人事件も、自殺願望の悩みを身近な家族や友達がいながらネットで知り合った素性の知れな
い犯人によって無残にも殺害されてしまった事件を思う時、IT化された便利社会の闇を思い知らされた感があります。
折角家族が一堂に会している時にこそ会話をし、お互いの情報共有や意志の疎通を図る時なのではないでしょか?
一人でいる時や自分の部屋にいる時にスマホをたのしめばいいのです。親から子に伝えおしえなくてはならないこと、
親や目上の人から学ばなければならないことは山ほどあるはずですが、大人も子供も家庭疎遠になっていないでしょう
か。麻薬中毒と同じようにスマホ中毒は常習性があり、知らぬうちにに家庭生活や人間関係が蝕まれて行くのです。
生涯学びの人生
江戸時代の儒学者、佐藤一斎の言志四録に三学戒という教えがあります。
小にして学べば、壮ににして成すあり。壮にして学べば、老いて衰えず。老いて学べば、死して朽ちず。
若い時にしっかり学びよく鍛えれば、壮年期に必ず何事かを為し成功する。壮年期に更によく学び心身を鍛えれば、
元気で生き甲斐のある老後となる。年老いて良く学び励めば死んだあとも忘れられない。
人生は死ぬまで修行です。開祖様は「死ぬまで生きる」と最後まで手抜きをせず、精一杯生き切る見本を示され「一
服するのはあの世でよい」と喝破されました。老人となればこそ、安易に趣味や旅行、カラオケやグルメだけを楽しん
でいる暇はありません。人生の知恵袋としての重大な役目があります。
人間いつ目覚め、どのように鍛えるかによって人生の充実度が決まるのです。学ぶ心が衰え、自分を磨くことを止
めてしまった時から、毎日ワクワクする生き甲斐が無くなるのです。
すべてが仏様からのメッセージ
仏様は、人々の行いの度合いに応じて、それぞれにふさわしく有用な人物に成長させるため、いろいろな現象を現し
て導いて下さるのです。
人生は病気や怪我や事故等困った問題に直面したり、ご褒美のような嬉しいことが起こったりしますが、出来事に右
往左往、一喜一憂するのではなく、「某中閑あり」ちよっと立ち止まり、今の自分を振り返り、仏様のどういうメッセージ
なのだろうか、仏さまは私をどこべ導こうとしておられるのだろうかと自分を見つめ直す機会です。仏様の御心に気付
けば、きっと希望と勇気の湧く日々が迎えられます。
徳分を高める方法
芽を出すためには、まず種を蒔き、水や太陽の温かみや肥料等の手間暇かけて育てます。そうすれば、やがて花が
咲き実を結びます。
私たちも幸せになるには、良い種を蒔き、成長するために徳を積み続け、自分を磨き続けることが大切です。人の幸
せはお金や物、学歴や地位によって決まるものではなく、その人の徳分によって決まります。
徳さえあれば、誰でも幸せになります。その人の徳分、徳の質とレベルに応じた幸せがやって来るのです。
人は生まれながらに不徳な人はあっても、悪人はいまぜん。赤ちゃんは誰でも純真無垢の心で生まれますが、育つ
に連れ様々な触れる縁によって悪にも善にも染まって行きます。
聖徳太子きは「人もと悪少なし、よく教えうればこれに従う」と申されました。
それはお金儲けや常識や学問だけではありません。小さな頃から、成長に応じて人として正しい道を歩むために仏
法の真理を教えることなのです。
世の多くの人は仏法を知らないが故に、間違った自己中心の煩悩まるけの人生を歩み、財産や地位や学歴がありな
がら四苦八苦する人も大勢います。
しかし、自分だけは仏法に触れ、正しい道を歩んでいたも、周囲の多くの人が教えを知らず、怒り、愚痴、貪りの我流
の生活をしていれば、影響を受けて不幸な現実に巻き込まれて行く人もいます。すべての人が幸せになるためには、
より良い世の中を作るほかありません。それには勇気を持って家族や友人、知人に聞いた教えをすぐに伝える以外
にありません。
宗教は時代遅れであるとか、非科学的であるとか、意志の弱い人がやるものだと無用の長物のように言う人があり
ますが、大きな間違いであります。
特に仏教は宇宙の計り知れないマクロの世界からミクロの世界に通じる真理の法です。科学、医学、芸術、学問を究
めつくした一流の学者は、人知を超える宇宙の大きな力を感じ、宗教的境地に到達するのです。
中途半端な学者や知識人や成功者が、自分の能力に応じ、信仰の素晴らしさ、宗教の奥深さを知らずに非難し、否
定するのです。
酵素「ヒト・レニン」の遺伝子解読に成功した分子生物学者 村上和雄氏(筑波大学名誉教授)のお話です。
現代の科学で遺伝子の複雑な二重らせん構造を解明しましたが、その構造は働きを知れば知るほど、いったいこれを
誰が作ったのだろうか? 構造は解明したが人間の科学力では作れないだろう。仮に作れたとしてもそこに命を吹き
込むことは出来ないだろう。生物の不思議を知れば知るほどそこには何か人間の力の及ばない神仏の存在がきっと
ありますと断言されました。
現代科学の基礎ともいえる「相対性理論」を唱えたノーベル物理学者アインシュタイン博士の宗教に通ずる名言が数
々あります。
①信仰ない科学は不完全であり、科学のない信仰は盲目だ
信仰と科学は相反するものではなく、相通ずるものなのです。信あって解がなければ盲信となってしまいます。反対
に解(理論)があって信がなければ邪見となって人を責めます。信、解が整ってこそ正しい信仰となるのです。
②人の価値とは、その人の得たものではなく、その人が与えたもので測られる
。財は無くても施しの強い人が真の富める者なのです。菩薩の修行である六波羅蜜の教えも第一番は布施です。一
番身近な布施行は親孝行です。
③誰かのために生きてこそ、人生には価値がある。成功した人間になろうとするな 価値のある人間になろうとせよ
一生懸命稼いで、飯を食べていくだけなら虫けらと同じです。世の中や人さまのお役に立ってこそ人間として生まれ
て来た甲斐があるのてす。働くことは単なるお金儲けではない。傍(まわり)の人を楽にすることが本当の働きです。
仏教はすべての人が仏になる教えです。そのためには「まず人さま」の菩薩行を続けることです。
④人生には二つの生き方がある
一つ目は、人生に奇跡等はないという生き方
二つ目は、すべてがまるで奇跡の連続であるという生き方
毎日の当たり前のことを感謝し感動して生きる人と、毎日を不足不平の思いで生きる人とは、先に行く幸不幸に大き
な差が出て来ます
身近な所から法を伝える
開祖さまは、入信当初仕事が済むと毎日法座にお参りされ、法座から帰られると同居していた姉夫婦に聞いた教え
を伝えられ、家族や親戚を導かれました。
開祖さまも最初は私たちと同じ一信者であり、苦難のどん底から立ち上がられ、因縁を乗り超え幸せとなられ、多く
の人々を救われたのです。私たちも開祖さまをお手本として真似をしましょう。真似とは真に似ると読みます。開祖さま
の真似をし続ければ、やがて本物の菩薩となり、多くの人が救えるようになれるのです。
そして、真の法華経行者となれば「上七代下七代の因縁が切れ」子々孫々に至るまで幸せが訪れるのです。勇気
を出して人に教えを伝えましょう。
相手を生かせば生かされる
開祖さまは布教の傍ら書道塾を開いておられました。毎週土曜日に小学生から社会人に至る大勢の生徒さんが学
びに来られ大変賑わっていました。
一人一人の作品を添削されたり、お手本を書いておられました。
ある時、何年も開祖さまの下で修行してこられた社会人男性のお弟子さんが、展覧会に出品するお手本を書いてほし
いとお願いされました。
すると、開祖さまはちょっと思案され、こ申されました。
「〇〇さん、、あなたは長年私の下で修行され、大変上達してこられ、私とはほぼ同等の腕前になられました。もう私
はあなたのお手本は書けません。
これ以上上達するためには、もっと上の先生に付くことことが大切です。日展書道家である私の師匠を紹介するから、
これからはその先生に付いて修行して下さい」とお弟子さんの更なる上達のために開祖さくは自らが推薦して送りださ
れたのです。その後、大師匠の下で腕を磨かれ、多くの展覧会で賞を取られ、書道では開祖さまを越える存在となりま
した。
何年か後、この紳士はご夫婦揃って開祖さまを尋ねて来られ、「今日あるのは開祖さまのおかげです」と感謝の気持
ちを伝えに来られました。
書道の世界で自分を越える活躍をするようになった弟子の成長と成功を開祖さまは大変嬉しそうに微笑まれておら
れた姿が印象に残っています。
親以上に成功した子、師匠や先輩を超えて活躍する弟子や後輩を褒めたたえることのできる人は、立派な目上であ
りましょう。
また「恩知らずは乞食の相」というように、どれだけ成功し、親や師を超えてもその恩を忘れない人こそ真の成功者と
言えましょう。
師長の恩を忘れず、また後進や弟子の成功を称えられる人の人生は穏やかで安心立命の人生が送れるのです。
変化を受け入れ、執着のない人生を渡るか、自分を守る保身に生きるかによって人生は大きく変わります。どちらを
歩むかはそれぞれの判断です。
すべての現象は仏さまのメッセージ
真生会が実践する法華経は、諸経中の王と言われる法華経の教えであります。その法華経の深淵なる真理は「難
信難解、意趣悟り難し」と言われ、釈尊の教えは煩悩多き我々凡夫にはなかなか信じることも理解することも難しく、
仏さまのお心を知ることは大変難しいのです。
様々な自然現象や出来事、人間関係や人の言動は、正しい生き方に気付き、反省と実践によって「すべての人が
仏になる」ための仏さまからのメッセージ」なのです。
自分のまわり起こる出来事や気になる人の言動が、仏さまのメッセージとして正しく受け止めることが出来れば、「苦
も楽となり」誰でも幸せになれるのです。
そのためには
①毎日お経をあげて「我の心」を柔軟にする。
② 先祖供養や親孝行、人に役立つ「徳積み」をする。
この精進を続ければ、徳分が高まり徳の器が大きくなって、現実のありのままを喜び、すべてを感謝で受け止める豊
かな感性が磨きあげられるのです。
正しい目的と方法が大切
〇友問題に端を発する某政権と野党の対立、レスリング界のパワハラ問題、相撲界における暴力事件とその対応に
おける〇〇親方と□理事長執行部の確執等連日TVを賑わす問題も仏さまの計らいという観点で見れば沢山の学ぶ
べき示唆があります。
①目的が正しく、方法が正しくなければ事は成らない。
②中道実践。 何事も極端のやり過ぎはよい結果を生み出さない。
③実るほど頭を垂れる稲穂かな。本当の実力者は頭が低い。自信と慢心は紙一重。常に謙虚さを失わないこと。
との問題を見ても、根底に驕りや慢心があります。地位や権力に驕ったり、自分だけが正しいという慢心、皆さんの
お蔭という謙虚さの欠如が根底に柿間見えます。
実力のある人が謙虚であれば、こんな素晴らしい美しい姿はありませんが、反対に地位や権力、学歴や金の力で
強引にことを進めるほど、醜い姿はありません。見るも縁聞くも縁、他人事ではなく私たち一人一人が自分を振り返る
ための教訓なのです。
徳とご法が不滅の財産
◇◇元国税庁長官の国会証人喚問には、あんなに頭のいい人たちが何故?という苛立ちとあきれる思いを感じ、気
の毒でかわいそうに思える時もありました。皆さんはどう感じられましたか?
公文章改ざんは、前代未聞の不祥事で決して許されることではありません。事件の真相は検察が調査し、司法が裁き
を下すでしょう。
しかし、誰が責任者であろうが、どんないきさつがあろうが、◇◇元理財局長、元国税庁長官は「徳の無い人だなぁ」
と思います。超エリートで、キャリアとして日の当たる場所を順調に探してきた人が、最後に前任者の尻括りの役が
回り、国会で犯罪者の如く悪者扱いされ、名誉ある職を辞任に追い込まれたのは、「徳がなかった」しか言いようがあ
りません。
学歴も地位も努力もあったでしょうが、肝心な徳がなかったのです。こんな問題の時に役が回ってきたことが不徳で
す。事件の前か、済んだ後に役に付けばこんな不名誉なことにはならなかったのです。
学歴も地位もお金も無いより有った方がいいでしょう。しかし、それに見合っただけの徳がないぐらい情けない不幸
なことはありません。
子供に高額な塾に通わせたり、小さな時から習い事やスポーツに通わせることよりも、人に好かれ人に尽くせる徳の
ある子供に育てましょう。
地位や学歴があっても徳がないと、惨めな人生になります。お金があっても徳がないとお金でもめたり、お金ではど
うにもならない問題で苦労します。
まず親孝行、家の足しになる。面倒な仕事でも嫌がらずにやり、給料以上の働きをして、お客様や会社に喜んでも
らう人間に育てることです。積んだ徳は非常に役立ち、学んで身に付けたご法は永遠のもので無くてはなりません。
出来るすべてを出し切る
努力することが楽しくなければ
本物になれない
楽しくなければ成功しない
笑顔で全力を出し切ろう
笑顔がなければ勝負には勝てない
笑顔と笑いと集中
人を楽しませることが最大の喜び
親の積む徳の光
岐阜市の金華山の頂上には岐阜城が建っています。夜には投光器によって暗黒の夜空にくっきりと浮かび上がり、
威厳が崇高な姿となって岐阜を象徴しています。
子育ても同様、どんな馬鹿な子供でも、非行暴力に走る子供でも、親の積む徳の光で応援し照らし出すなら、暗黒の
人生から浮かび出て、少年らしく溌剌と希望に向かって進むでしょう。
親自らが襟を正して私生活を改め、誰から見られても恥ずかしくない道を歩み、徳を積み続ければ、子供は善人とし
て立ち上がり、期待の持てる青年になることは間違いありません。「今に良くなる」と子供を心から信じ、子どもの寝姿、
寝姿を拝んで育てる親になって初めて、人から仰がれる人間になるのです。
親から拝まれて育った子供は、人から拝まれる人となります。
信じることは難しい
信じることは難しい
でも、信じれば楽になれる
信じ切れば安心できる
願うから苦しい 求めるから苦しい
だから、願わないこと・・・
信じて仏様にお任せしよう
くじけてもいい
また 立ち上がればいい
すべてはご縁の世界
二千五百年お釈迦さまの説かれた八万四千の教えの根本、悟られた真理は[縁起の法」であります。すべての出来
事は「縁によって生じ、縁によって滅する」ということです。
人間は生まれながらにして、悪人、善人の区別はありません。生まれた環境や表面的な違いはあっても、みな平等に
仏性「仏になれる種」を持った仏のなのです。車のギアで言えばニュートラルな状態なのです。育っていく間に前進かバ
ックか、一速 、二速、三速と心のギアをどう入れるかによって人生が大きく変わっていくのです。
しかし、人間は成長するに従って[欲」が生じてきます。次から次へとあれが欲しいこれが欲しいという際限のない欲
が煩悩となって、すべての苦しみの本にになるのです。しかし、煩悩則菩提と言って欲や煩悩、言い換えれば目標があ
るから頑張ることができ向上するのです。大事なことは煩悩のコントロールができるかどうかなのです。心の正しいコン
トロールは良き縁によるしかないのです。
昔から「主に交われば赤くなる」と言います。パチンコ好きの人、ギャンブル好きの人と親しくなればパチンコやギャン
ブルがしたくなります。愚痴や怒りの多い人といつも出会っていれば愚痴っぽく怒りっぽい人になります。親孝行や喜ん
で働く人と付き合えば親孝行が゛したくなり、生き甲斐を持って働くようになるでしょう。良き縁こそが人生を豊かにしてく
れるのです。
楽して儲けようという怠け根性は「濡れてに泡」のバブル崩壊に泣くことになります。現在ならビットコインに代表され
る仮想通貨も同様です。現金を持ち歩かないという便利さよりも投資をしてボロ儲けしようとする成金根性で手を出すと
大やけどをするのです。歴史が証明していますが、貪欲の苦悩は繰り返されるのです。
良き縁とは仏縁のこと
仏になれる種が芽を出すのは、仏の教えのご縁次第ということです。そして、その仏縁も二乗三乗ではなく「即身成仏
を説く一乗の法、即ち法華経の教えによる」のだと明言しておられます。
法華経は白蓮華「泥中の蓮」の教えです。泥の中という汚い厳しい環境の中でも上に向かって真っ直ぐ育ち、泥に染
まらず美しい純白の花を咲かせます。
毎日仏さまのご縁に触れていれば、知らず知らずのうちに仏さまの境涯に近づいて行きます。一日に一回は仏さま
の縁に触れること、目に見えぬ仏さまやご先祖様に手を合わせる生活が「お陰さま、まず人さま」という「感謝と奉仕」
の心、仏さまの価値観、ものの見方が身につくのです。
三つ子の魂が人生の土台作り
特に母親の存在は子育てにとって重要です。生活のために働くことも大切ですが、お金よりも母の無償の愛情と、賢
い工夫と手間暇が「心豊かな良い人間を育てる」のです。小さな時に小手間を抜けば、大きくなって大手間がかかるこ
とが起きるのが真理です。
真生会の若いお母さんたちは、妊娠中から教会にお参りし、出産後は幼児を連れてお参りされます。胎教中や赤ち
ゃんの時からお経を聞き仏縁に触れているうちに、お経の片言を唱えるようになり、小さな紅葉のような手を合わせ、お
母さんの背中を拝むようになり、微笑ましい限りです。
きっと親孝行で思いやりのある、世のためになることを自然に当たり前のようにできる素晴らしい大人になっていくと
思います。
建物でも土台の基礎作りがしっかりしてたいれば上物が安定し立派な建物が立ちます。人生も胎教中、幼少期の土
台作りが一生を左右するのです。
人間も仏縁と徳分という土台作りがしっかりしていないと、折角の学歴や能力や財力が傾いたり 地盤沈下して文字
通り「台無しの人生」になってしまいます。
超エリート集団である財務省はじめ、省庁の官僚の不祥事や国会答弁の姿勢が、人間性や価値観の大切さを実証
しています。
今こそ法華経を伝える時代
世界は大きく変化しています。
国際的には北朝鮮問題、中東、アフリカ諸国の紛争、EUヨーロッパ連合の不一致、自然界においては火山噴火、気
象変動、巨大地震等予断を許しません。平和のためのノーベル賞までもが不正やセクハラ問題に揺れ動き、五濁悪世
の末法の様相が鮮明になってきました。
法華経の教えは末法の世を救うための教えです。法華経の考え方と実践を世に伝える以外、本当の安心立命はあり
ません。遠いよその国の出来事や他人事のようにノホホンとしている時代ではないのです。
最後は徳次第なのです。人事を尽くして仏さまが動いて下さるかどうかなのです。仏さまが動いて下さるには、仏さま
の教えに沿った生き方をする以外にありません。
すべてはご縁、仏縁なのです。「縁なき衆生は度し難し」仏縁のない人は救われようがないのです。「あの人もどうか
幸せになって頂きたい、苦から救ってあげたい」という慈悲の心で声掛けをし、教えの本を渡してあげるだけでいいの
です。「大丈夫ですよ。法華経の教えを実践すればきっとよくなりますよ」と寄り添い、ともに歩ませてもらうのです。あ
とは仏さまが無上道を歩めるように計らってくださいます。
経典に「無量の功徳この経に集まれり」とあります。つまり仏さまの教え、真理の教えに力があるので、聞いたことわ
伝えるだけで救いの現象が出るのです。ご本尊をお祀りし、毎日仏さまに手を合わせ仏縁に触れましょう。週に一度か
月に一回は教会に足を運び 仏縁を深め心を清らかにしましょう。総本山や教会には聖なる場の力があります。遠く離
れた遠方の方も月に一度は手紙やお電話で教会に連絡し、仏縁を深めて下さい。
必ず仏さまのご加護は働きます。
人と比べない
全能の人間はいないが
まったくの無能な人もいない
誰にでも一つはいい所がある
自分の持つ素晴らしい能力に
気付こう
ありのままの自分を受け入れ
られれば、ありのままの相手も
受け入れられるようになる
末法の世(現代)で法華経の功徳を頂き、あらゆる苦を乗り超え、毎日が安心で生き生きとした人生を送るためには、
毎日五種法師の行を繰り返し行じることであると法華経の教えの中で何度も説かれています。
五種法師の行とは、受持、読、誦、解説、書写のことです。仏さまの教えを信じ(受持)を唱え(読誦)聞いた教えの一
言一句でもよいので家族や人に話し(解説)、聞いた教えを実践する(書写)ことです。
まず第一に毎日欠かさずお経をあげ、仏さまに守られていることへの感謝と先祖供養の祈りを捧げ、三日坊主になら
ないように続けることです。
メタボを解消し、健康を維持するために毎日スクワットをして体幹を鍛え、サプリメントを飲んで体質改善をすることが
大切だと言われます。毎日お経をあげることは心のスクワットであり、信念という体幹が鍛えられます。仏さまの教えは
心のサプリメントであり、考え方という心の体質が改善されます。
なぜお経には力があるか
経典に現された文字の一字一句は仏さまのお姿そのものであり、無量の功徳がこの経の中に集約されています。
内容はわからなくても教えが身となり心に浸み込み、知らないうちにご利益が頂けるのです。
読経供養、拝む功徳は大きい
昔、ある赤ちゃんが九百グラムという手のひらに載るほどの超未熟児で生まれました。「二十四時間以内に自力でお
母さんのお乳を吸うことが出来なければ諦めて下さい。見守るしかありません」と医者に告げられました。その時、赤ち
ゃんのお爺ちゃんが「仏さま、どうか孫の命を救って下さい」と孫の横で十時間以上の時間をかけて、真剣に法華経三
部経(四二五ページ)を読誦されたのです。すると、その後、不思議にも自力でお乳を吸い始め九死に一生を得て、無
事成人されました。
また、四十歳過ぎの晩婚のご夫婦に待望の赤ちゃんがうまれましたが、やはり未熟児で成長が危ぶまれ、藁もすが
る思いで相談に来られました。
「田舎で暮らしている母親を毎日拝みに行きなさい」
「先生、悪いのは母でなく、生まれたばかりの赤ちゃんです」
「心配で病院に行っても赤ちゃんを見守るだけでは助かりません。あなた方は、晩婚で親に大変心配をかけてきた因
縁で。親となって子供の成長に大心配しなくてはならないのです。田舎で一人生活している母のもとに三七、二十一日
足を運び、これまで大苦労と大心配を掛けたことを心から懺悔し、一心にお経を唱えて夫婦で親の背中を拝まさせて頂
きなさい。親の恩に心底目覚めた時、仏さまのご守護がかかるでしょう」
「わかりました。夫婦で毎晩親を拝みに行きます」と誓われました。
今日の苦の原因が分かったこのご夫婦は、聞いた教えをしっかり実践され、無事窮地を脱し、この赤ちゃんも立派な
娘さんに成長されました。
このような事実を知る時、科学万能医学万能の現代にも妙法経力は存在すると言えます。ただ口先で読むだけでは
なく、身に口に心に全身全霊を込めて唱える時、人知を超えるご守護がかかるのです。
拝んでよくなるのは病気や人間だけではありません。教えの真理は商売にもお勤めにも学業にもすべてのことにあて
はまります。
子育て中のある若い奥さんからの相談です。
「主人が独立をして自営業を初めて二年余りです。広告を出し出したり、常連に電話を掛けたり、主人なりに一生懸
命努力をしているのですが、仕事がなかなか軌道に乗らず悩んでいます。私は子育て中で本業のほかにアルバイトを
したり、転職も頭をよぎります。どうしたら商売がうまくいくのでしょうか」という切迫した孤゛相談です。
「手を見て下さい。親指と他の四指のどの指をつないでも丸ができます。丸とは平和であり、お金であり経済のことで
す。小指のような細くて弱い指でも親指と連絡すれば丸ができます。これが何万年たっても変わらぬ真理です。
幸いあなたたちご夫婦には、すぐ近くに四人の親が健在で見えます。どちらの親にとっても赤ちゃんは初孫です。週
に何回か孫の顔を見せに行って喜ばせてあげなさい。そして、親を拝ませてもらいなさい。特に経済や商売の因縁は
父親の因縁です。実践すれば必ずご守護がかかり、知らぬうちに順調になると思いますよ」
「自分の親は何とか出来そうですが、主人の親はちよっと・・・」
「最初だけです。大きな石を動かす時でも最初にパワーがいるのです。動き出せばそれほどエネルギーはいりません。
きっと待ってもらえるようになりますよ。そうなれば商売も軌道に乗り始めます。勇気を持って始めましょう」
「わかりました。勇気を出して実行します」と決意されました。
行えば実と書いて実行です。きっとうれしい結果が現れることでしょう。
この場が救われの場となる
日々の生活の中で受持、読、誦、解説、書写の五種法師を行い、教えの通りに実践している場所は、家庭であろうと
職場であろうと その場所こそが仏さまの道場であり、悟りを開き、教えを伝える場なのです。そして、毎日が大安心し
て楽しい暮らしなの出来る極楽浄土となるのです。
お経と祈りで身を守る
「身放無数光」と言ってお経の上がっている家からも、お経を上げている人の体からも生き生きとした無数の光で出て
いるのです。また「舌相至梵天」と言って唱えたお経や願い事は宇宙の果てまで響き渡り、願った通りの現実に守り包ん
でもらえるのです。遠く離れている子供や家族の健康や無事を願い読経と共に祈りの言葉を唱えれば、相手の体に届
き、身に浸み込み、仏さまの光に包まれて悪縁や悪人が近づけなくなります。人間は触れる縁によって悪人にも善人に
もなります。特に子供や青年は純真で率直ですから、どちらにもすぐ染まってしまいます。
しっかりお経の力と祈りの力で自分自身と家族の健康を守り、良き運命に守られるよう、毎日五種法師の行を続けま
しょう。
子供や部下の成長を確かめずに、大人や親や上司の都合で人工的な手を加え過ぎたり、時期や与えるものを間違え
るとかえって成長を阻害してしまいます。放任主義で何も教えないのもダメですが、その人の能力や特性に合った育て
方が大切です。たとえ兄弟でも十羽ひとからげの大量生産や企画商品ではなく、特別注文のように一人ひとりのび妙
違いを見極めて丁寧に育てることが必要です。
開祖さまはいつも良き師を持ち、常に師の添削を受けながら、努力精進することの大切さを説かれました。そして「幸
せになる人も不幸になる人も一生懸命です。 しかし、不幸になる人は自己流で真理とは違う方向に向かって、不幸に
不幸に頑張っているのです。ご法に照らし合わせて師の添削を受けなければ労多くして功少なしどころか、災い多しの
結果になってしまうのです」と教えられました
仏さまの声を聴く
自分の身の回りの現象や出来事のすべては、仏さまの声であり、仏さまのお姿そのものであると言うことです。そう
受け止めればすべてが感謝となります。さて私達は身の周りの出来事を仏さまの声おお姿と受け止められているでしょ
うか。
欲や煩悩で曇った凡夫の心では、出来事の本当の意味が分からないのです。私たちの心の奥にある仏さまと同じ価
値のある「仏性」で受け止めた時、本当の意味が理解出来、目の前の苦が苦でなくなるのです。
欲や煩悩で包まれた仏性を磨き出すには、毎日の読経供養と善根功徳の徳積みが欠かせません。
すべての出来事に無駄はなく、凡夫では気付かない意味があるのです。気付けば感謝と極楽、気付かねば不安と地
獄なのです。
今こそ信仰心が必要
幼い我が子を平気で虐待死させたり、「誰でもよかった。人を殺してみたかった」という異常な無差別殺人事件が日
常茶飯事のように報道されます。
このような事件の根本には、日本人の信仰心の欠如があると思います。信仰とは特定の宗教を信じ、神仏を信じ仰ぐ
ことだけではありません。「相手を信じ仰ぐ心」が信仰心なのです。神仏を信じ仰ぐことはもちろんのこと、家庭において
は親を信じ仰ぎ、我が子を信じ仰ぎ、学校においては先生を信じ仰ぎ、生徒を信じ仰ぎ、会社においては社長を信じ
仰ぎ、社員を信じ仰ぐことが、本当の信仰心であり発展幸福の原点なのです。国会においても、意見や政策の違いは
あっても、根本的には総理を信じ仰ぎ、議員を信じ仰ぎ、与野党ともどもに相手を信じ仰ぐ姿勢があってこそ、国が栄え
国民の安心と幸福が得られるのです。今日本に欠けていることは、すべての国民が正しい信仰を持ち、神仏を信じ仰
ぎ、互いの存在を尊敬し、違いがあっても信じ仰ぐ信仰心なのです。
因縁果報、すべては蒔いた種
一見仲の良いご夫婦の一人娘さんが三十半ばを過ぎ、結婚に縁遠いことが心配なお母さんからの相談」です。
「世の中は蒔いた種が生えるのです。苦になること、心配なことと同じ種まきがあるのです。娘さんの結婚のことが苦
になるということは、あなた自身がご主人との結婚が喜べていなかったか。子供の胎教中にこんな結婚はするんじゃな
かったと思う出来事はありませんでしたか?」
「私は跡取りの嫁としてこの家に嫁いできましたが、ある時主人から、『お前と結婚したのは跡取として子孫を残すた
めだ』と言われて、私でなくても誰でもよかったのか、私は子を産むためだけの存在だったのかとカチンと来ました。
こんな家に嫁に来ない方がよかったと情けなく、腹立たしく思いました。今でもその言葉が忘れなく心の奥底に残ってい
ます。」
「お母さん、蒔いた種は小さくても実は大きいのです。今日から、この家に嫁いだことが喜べなかったという心の根抜
きをしっかりすれば、きっと娘さんにも良いご縁がやってきます。このご主人の妻でよかった、ここまで一緒に来させて
もらって有りがった幸せだったと切り替えれば、必ず娘さんも幸せな結婚が出きますよ」
「よくわかりました。今日から主人の良い所を見つけて感謝し、この家に嫁いできたことことを心から喜ぶように切り替
えます」と明るい顔で答えられました。
今日の出来事の本当の意味と解決方法が納得できた時、煩悩ありといえども煩悩なきが如く、希望と勇気が湧いて
来るのです。運命は自分の心の持ち方で変えることが出来るのです。
オシャレな言葉 (感謝の心)()
顔は笑顔、言葉はオシャレしなくては人間的魅力はない
どんなに美辞麗句ほ並べても、笑顔がなければ人は寄り付かない
どんなに笑顔を作っても、言葉や挨拶に「感謝の心)がなければ
人気はあつまらない
信仰心が薄らいできた昨今ですが、幸い日本人には良き伝統としてお盆のお墓参りがあります。私たちの人生は、
目に見えませんが、大宇宙のご本仏さまはもとより、亡きご先祖さまの思いに守られて子孫がある私たちの今日の生
活があるのです。
亡くなった方のことを霊と言います。
霊は「零」、つまり「ゼロ」に通じ、特殊な霊感のある方以外には、霊の姿かたちも見えず、声も聞こえません。しかし、
一般の人にはには見えたり聞こえたりしませんが、霊魂は不滅であります。私たちの周りには、すべての人を仏の境界
にまで引き上げたいというご本仏の御心や子孫の幸せを願うご先祖さまの思いで満ち溢れているのです。
こちらがそれに気付き、心がつながった時、「ああ有り難い。本当に守っていて下さるんだ」と実感できる現象が現れ
るのです。
私たちが思い出したり、念じたりしなければ何の力も現れません。私たちが念じ感謝すれば守って頂けるのです。
ご守護がかかるかどうかは、私たちの心のアンテナが仏さまやご先祖さまの想念の方に向いているかどうかなのです。
こちらの心にスイッチが入れば、瞬く間に仏さまのご先さまのお姿が飛び込んでくるのです。
お墓参りでお経を上げましょう
お墓参りには、是非みんなでお経をあけましょう。
「亡き親に手向くる徳は、利と敬と行の三つを兼ぬべかりけり」とあります。
<利供養> お盆とは「皿を分ける」とあります。自分の食べるものをご先祖さまに分けてお供えするという意味です。
お墓参りに行ったら、個人の好きだった食べ物や季節の食べ物等をお供えします。
<敬供養> みんなでお墓をきれいに掃除して、お経を唱えて感謝の心をお供えすることです。
<行供養> 仏さまやご先祖さまが安心し、喜んで下さるような世のため人のためになる行いを実践することです。
この利供養、敬供養、行供養が揃った時、本当の先祖供養になるのです。
持戒、続けることの大切さ
毎日の信仰の基本である朝夕の読経供養を疎かにしないこと
積んだ徳は非常時に役立つ
誰しも業や罪の無い人はいません。自分の不徳な因縁の穴をどれだけ埋めるか、また徳の器にどれだけ徳の貯金が
出来ているかで幸不幸の現れ方が違うのです。穴埋めがしっかり出来ていれば、穴にはまったり、躓くことはありません。
徳の貯金が充分たまっていれば、ちよっと良いことをしただけで、徳の結果が溢れ出てくるのです。
開祖さまは、徳積にゴールはない、死ぬまで修行だと教えられました。いつも徳を積み、お経をあげている人は、ちよ
っと怠っただけでもお知らせが来るのです。
いつも心の洗濯をしているから、少しの間違いや怠け心というシミがよく目立つのです。
信仰心のある人とない人の違いは、事が起こった時の反省力と切り替える力、善に対する実行力が違うのです。しっ
かりとご先祖さまを念じ、仏4さまを信じてご守護の頂ける毎日を過ごしましょう。
著 田中偉仁 田中庸仁