★ 我 | ★ 人生の目的、生まれて来た意義とは |
★ 大物と小物!! | ★ 信心決定、信じ切る! |
★ 放下(ほうげ) | ★ 得の絆と徳の絆 |
★ 法華経は抜苦与楽の教え | ★ 信じること |
★ よき種を蒔く | ★ 日本再生の時が来た |
★ 見佛、すべては仏さまのはからい | ★ どうした日本? どうする日本!! |
★ ピンチの裏にチャンスあり | ★ 妙法は蘇る教え |
★ 人を育てる | ★ プラス発想を持続し、幸せを掴む原動力 |
★ 法華転法華!ありのままを生きる | ★ 親子別居世帯を考える |
★ 今こそ人間力を養う時代 | ★ 自分の花を咲かせよう |
★ 自分が蒔いた種は自分で刈り取る | ★ すべてが因縁果報 |
★ やりきること | ★ 落とし穴 |
★ 祈りこそ幸福の第一歩 | ★ 目覚めよう 報恩の生活に |
★ 心の劣化を防ぐ! | ★ 言葉の力 |
★ 成仏とは | ★ 幸せへの道、仏知見 |
★ 人生の舞台 | ★ 素敵な笑顔 |
★ ありがとうと言われる年末 | ★ 法の輪を広げる |
★ 自分の中に法の輪を広げる | ★ 修行 |
★ 煩悩即菩提 | ★ 最高の笑顔 |
★ 最高の親孝行は親に法を伝えること | ★ ご先祖に法の輪を広げる |
★ 法を伝える功徳は最高 | ★ 大変とは |
★ わが子に法を伝える 最高の財産相続 | ★ 愉楽 |
★ 人間の価値 | ★ 慢心のこころ |
★ すべては因縁果報 | ★ 何のために生きるのか |
★ 正観 | ★ 着眼 |
★ 幸せな人生は報恩の倍返し | ★ 平和とは |
★ ありのままを喜ぶ、成ったことを喜ぶ | ★ 六道輪廻と教えの道 |
★ 悪因縁転じて善果となる | ★ 常に法を伝える |
★ 成仏と勤勉 | ★ |
我が取れれば楽になる。
我が取れれば優しくなれる。
我が取れれば軽くなる。
他人のために尽くす。
他人の幸せになるような行為をする、
それが布施行。
他人が喜んでくれる布施行を
実行していると、
ひとりでに我はだんだんと薄められていく。
常に向上心を持って生きよう
★仏様に近づくための人生
私達は好むと好まざると、知っていようといまいと、生まれながらにして宇宙(仏)の大姓名、法則のなかに
生かされています。
仏は「一大事因縁を持ってこの世に出現したもう」と経典にあります。すべての人に仏の智慧と生き方を示し、
成仏して欲しい、仏と同じ境涯に達して欲しいと願っておられるのです、
つまり、すべての人の人生の目的、生まれて来た意義は「仏様の近づくための人生」であるということです。
仏さまは、常に何とかしてすべての人を仏道に導いてあげたいという大慈悲の心から嬉しいこと(己事)を出し
たり、悲しいこと苦しいこと(他事)を出して気付かせて下さるのです。
また、仏様と同じ境涯に到達するまで、向上心をもって努力精進して、一歩一歩段階を登って行くことが万人
共通の目的なのです。
★善い事をしなければ運気は下がる
人の運気は、4年上がって5年下がるのです。だから、悪いことをしなくても、善いことをしない限り、年々運
気が堕ちてジリ貧の人生となるのです。」平々凡々の人生を願っていても、諸法無我といって誰しも人のお世話に
なり、人に迷惑をかけながら生きているのですから、心し善い事を積み重ねていかなければ人生は、下り坂になっ
ていきます。
★進化発展することが宇宙の法則
法華経寿量品に「罪の衆生は、三宝の名を聞かず」とあります。罪の衆生とは、殺生したり、盗みをしたり、
騙したりという事ではなく、「向上心を失った人(罪の衆生)」には、「真の幸福はやって来ない(三宝の名を聞
かず)という意味です。宇宙は諸行無常、常に変化し発展向上、進化に向かってベクトルは動いています。地球
太古より、進化発展を止めた生物は自然淘汰されて絶滅しています。私たち凡夫の思いや認識にかかわらず、大
宇宙の真理法則はそうなっているのです。
★幸せを阻む三つの慢心
①我慢 自分は間違っていないと真理に耳をかたむけない
②邪慢 徳がないのに有徳と錯覚し、人の精進を非難したり、馬鹿にする
③増上慢 自分はやってきたと自惚れる
信仰をしていく上で私たちが最も気をつけなければならないこと、この三つの慢心こそ向上心を失う落とし穴です。
★納得出来たら即実行、今日から始める
白隠禅師は「一大事因縁とは今日只今のことなり」と言われ、道元禅師は「学道の人、只明日を期することな
かれ。今日今時ばかり、仏法に随って行じゆくべきなり」と教えられました。昔はよく頑張った !またそのうちに
頑張るからではなく「今現在、仏法に随ってやっているか。信仰が出来ているか。喜べているか。実行出来てい
るか。情熱を持っているか。昨日までの過去や明日からの未来の問題ではない。仏法とは只今現在のことなので
ある。」
★心が柔和で率直な人が幸せになれる
柔和質直なる者は、すべての現象が「仏様の説法(お慈悲)」と見ることが出来るのです。師のご指導、教
えの真理に『はい(拝)」と受けられるかどうかがポイントです。「我」が取れれば、仏法(真理)が率直に心
に入ってくるのです。「日々是好日」とは、好悪を超越して、今日一日に生き甲斐を感じているかどうかです。
そのエネルギーを与えてくれるのが①朝夕の読経 ②徳積み ③法話を聴く、ことです。
調御丈夫(じょうごじようぶ)(仏の徳分の一つ)
自分の心をコントロールする力
自分に厳しく 自己規制できる人が大成できる大物。
自分に甘く、自己規制が出来ず、自分の感情のコントロ
ールが出来ない人が小物。
自分の面子を気にしているうちは、小物である。
腹が決まれば、仏様が動いて下さる!
★仏光普遊
仏様の救いの光り、お慈悲の光は、あまねくすべての人を平等に包み、私たちの周りに満ち満ちています。
正しい信仰に心が定まれば、この世の中は良い人ばかりであり、すべての人がのびのびと楽しく生活をする所です。
信仰は、私たちが一生かけて命懸けで自分と家に流れる因縁を浄化し、闘争堅固の競争社会、金、物、地位の
物欲社会を浄化をして、この世の中を楽園化する一大事業です。趣味や道楽で信仰しているのではありません。毎日
が真剣勝負です。
★祈ること徳を積むことが自力、結果現象は他力
道徳は人間の力、実践しなければ結果は出ません。
信仰は仏様のこ加護、祈ること、徳を積むこと(自力)がしっかり出来れば、結果現象は仏様のはからいの世界で
す。心が仏様の方を向いてブレなければ、仏様が後押しして一番良いようにして下さるのです。要は仏様を信じ、仏
様にお任せする腹が決まっているかどうか。信心が決定しているかどうかなのです。
仕事や趣味、遊びや旅行といった自分の都合や用事より、仏様のご縁を優先する腹が決まっているかどうかなので
す。気が向いた時や困った時だけつまみ食いして、ちょっと良くなると元の木阿弥のようなご都合信仰では仏の本当
の救いは現れません。
釈尊はなぜ悟りを聞き仏となられ、大安心の境涯になられたのか?
人様の幸せの為に自分の財産や家族や家庭を捨て、個人的な用事や対外的な用事も惜しみなく、自分自身の体さ
えも、すべてを投げ打って人の幸せの為につぎ込まれたのです。
理屈で考えているうちは、仏様の力は動きません。理屈を超越して腹が決まれば、「よくそこまで決心出来ました」
と仏様が認めて下さり、苦しみからの卒業免状が頂けるのです。
★腹が決まれば答えが出る
中途半端では仏様は動きません。
仕事でも喜んで働くか、嫌なら辞めるか、どちらかです。辞めたら生活が出来ないのなら心を入れ替えることです。
愚痴をこぼしながら、いやいや働いているから病気になるか、事故を起こすのです。
結婚生活でも、意見が合わずどうしても愚図愚図せずに離婚すれば良いのです。さっさと別れて後は泣き言を言わ
ない。子がいるから、生活に困るから・・・・と別れられないのなら、心を切り替えてこの人と添い遂げると決心すること
です。腹が決まれば結果現象が出ます。良いか悪いかどちらかです。病気なら死ぬか生きるかどちらかです。
仏様の真理に添って、苦から卒業出来、運命が変わります。
良寛和尚が大地震にあった知人に当てた見舞い状の一節です。
「災難に遭う時節には災難に遭うがよく候。死ぬ時には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にい候」
現実から逃げず、しっかり向き合い、すべては仏様のはからい通りと腹を据えることが災難を乗り越える一番良い方
法ということである。
投げ捨てる、手放す
何ものにもとらわれず
自分を縛る一切を捨てる
地位も財も学歴も
小さなプライドも
そうすれば楽になれる
裸で生まれて来て、
裸で帰る人生
裸の自分は誰でも尊い
信仰の絆・・・・・師弟のつながり
★二つの絆
東日本大震災発生以来、人と人との絆、人と社会との絆の大切さが見直されています。
絆には大きく分けて二つあります。
一つは「得の絆」です。経済社会を基盤とした「損か得か」「勝ち組になるか、負け組みになるか」の関係性。
金、物、地位が、幸福のバロメーターという価値観のギスギスした冷たい人間関係です。
もう一つは、「徳の絆」です。心のつながりを基礎とし、「お陰さま(信頼と感謝)とお互いさま(共生と分か
ち合い)」の関係性。人徳と人徳でつながれた《愛と思いやり》のホッとする暖かい人間関係です。
『人間は社会的動物である」と言われるように、人間は一人では生きられないのです。仏教ではこれを「諸法無我」
と言い、すべてはつながっており、ご縁の世界、関係性の中で生かされているのです。
★いざ遊行(伝道)せよ。すべての人の利益と幸福のために
これは釈尊の布教伝道の決意であり、宣言であります。仏教は個人の利益や幸せのためにだけあるのではなく、
すべての人の利益と幸せのために説かれたのです。
ノーベル平和賞を受賞したダライ・ラマ氏(チベット仏教の最高指導者であり、チベットの国家元首)が某大学での
記念講演の時、「あなたは中国政府によりチベットを追われ、多くの同胞が捕らわれ犠牲になり、今なお中国に支配
され、国に帰ることが出来ないのにどうしてそんなにハッピーで、笑顔でいられるのですか?」という学生の質問に
こう答えています。
『チベットの国が攻めら多くの犠牲者が出たことは悲しいことであるが、それはチベットの因果である。私達は中国
に占領されるまで、チベットの国とチベット仏教の繁栄と幸福だけを祈ってきました。自分だけの救い、自分だけの
幸せ、自国だけの繁栄、自分の宗教だけの発展を願い、小さな平和と平和に自己満足しているのは狭義の宗教で
あり、宗教者の慢心であり、本物の仏教ではない。国を失い、多くの犠牲を払って初めて、世界のため。人類のため、
地球のための平和運動が出来るようになったのです。私はそれが嬉しく有り難くいつも笑顔でいられるのです。』
今の日本と日本人も同様ではないでしょうか? すべての人の平和と幸福のために生きることが、本当の幸せに
つながる徳の絆なのです。
★スティーブ・ジョブス氏はなぜ早世したか
コンピューター企業「アップル」の創業者の一人である天才スティーブ・ジョブズ氏は、若き青年時代「世界を変えよ
う。歴史を作ろう」と人類の発展のために情熱を燃やし、大成功を収め、巨万の富と地位を手に入れた。そんな時代
の寵児が五十六歳という若さでこの世を去った。なぜだろう?
故あってアッブル社を追われたジョブズ氏は、リベンジを心に誓い「恨みと復習の念」をエネルギーとして、アップル
社に返り咲く目的を果たした。しかし、既に病が彼の肉体を蝕み帰らぬ人となった。どんな天才でもお金持ちでも、「
悪念と悪言は他を傷つけず、ただ己のみ傷つく」の真理には勝てなかった。
「欲深き 人の心と降る雪は、積もるにつれて 道を忘るる」
人間は財が貯まり過ぎたり、地位や名誉を手に入れると慢心して、すべてを自分の思い通りにしたいという我欲が
心に充満し、進むべき道も、歩んできた道も見失ってしまうということです。
人生は「正しい目的」に向かって「正しい方向」で努力した時のみ、成功と大安心を得ることが出来るのです。目的
が正しくとも、手段方法が間違っていたら、目的は達成出来ません。ましてや目的が間違っていたら、成功は愚かな
失意の人生となってしまうことは明らかです。
人間の成功と幸福は憎しみと恨みでは築けません。愛と思いやりこそが幸福の原動力となるのです。最新の脳科
学によると「妬む、恨む」という感情と肉体的な苦痛を感じる働きは脳の同じ場所が司ると言います。「人を呪わば
穴二つ」天才ジョブス氏も自分の心のコントロールが効かず、恨みによって自らの肉体を傷つけ自滅したのです。
何よりも惜しまれることは、彼には「信仰の絆、師弟のつながり」がなかったことてす。自力独学の人であり、折角
の才能を正しく生かすための「人生の師」がなかったのです。師の存在は偉大である。師匠を持たぬ人間は、どん
な深遠な理屈を知っていても、人を動かすことは出来ない。「仏祖の大道」は面々として師弟に受け継がれた大宇
宙の真理であり、智慧であり、何十年かの自力独学の及ぶ所ではありません。
開祖さまは「生きた師を持て」と教えられ、最後まで求道の生涯を歩まれたことを深く受け止めて精進いたしまし
ょう。
抜苦とは
経済的に貧しい時、目の前に病気、貧乏、不和(争い)という切羽詰まった三大苦悩を抱えた時の信仰スタ
イルです。
つまり、自分のこと、自分の悩み解決の為に努力精進する段階です。一生懸命お参りし奉仕をし、徳を積んで
お願いをするのです。誰しも抜苦から信仰に入るのですが、目前の苦が無くなったところで止まってしまう人が多い
のです。でもそれは本当の御利益ではなく、仏さまの教えの半分なのです。だからそこで止まってしまったり、信
仰を卒業してしまうと漠然とした不安が芽生え始め、躍動する充実感が失われていくのです。
与楽とは
経済的物質的に豊かになった時のスタイルです。苦しい時の神頼みは信仰の折り返し地点であり、幸せになっ
て
からが本当の信仰の深みが現れるのです。自分の悩み苦しみが無くなったらそれでおしまい卒業ではなく、
人様
に楽(喜び、生きがい)を与えていくところにこそ、自分の生きがいと充実感が生まれ、人生の不安や心配が
消
えていくのです。《抜苦は自分のための行、与楽は他人に対する行》なのです。
得楽の人生になっていませんか?
抜苦のところで停滞してしまうと「得楽」になってしまうのです。人に「楽、生きがい(教え)を与えるのでは
なく、自分と自分の家族だけが楽しければよいと言うような「利己的な幸せ」になってしまいます。ここが幸せの
落とし穴なのです。漠然とした不安が生じ、生活に感動が薄れ、かつての苦が姿を変えて因縁として現れてくる
のです。
信じることは難しい
でも、心が
率直になれば信じれる
柔軟になれば信じれる
信じれば楽になる
信じきれば安心できる
願うから苦しい
求めるから苦しい
だから、願わないこと
信じて仏様にお任せ
法華経のことを「下種の大法」と言います。法を伝え教えの種を蒔いた時、最高の計り知れないほどの大きな
功徳、ご利益が頂ける教えなのです。
でも自分一人がお参りし、ご法話を聞いて努力精進することは出来るけれど、人に伝えるのはちよっと苦手で・・・
という方もあるでしょう。ではどのようにしたら、法が伝えられるのでしょうか?
七仏通誡偈(つうかいげ)という仏教の真髄を解り易く示した教えがあります。
諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教(もろもろの悪を作すこと莫く、たくさんの善い行ないをして、自ら
その心を浄くする。是がもろもろの仏の教えなり)誰でもわかっているが、なかなか実行は出来ない真理です。
要は人の迷惑になること、人が嫌がることをしないように気を付け、人のお役に立つこと、人の喜ぶ小さな善を
たくさん積み重ねる。そうすれば自ら心が清らかになってきます。それが仏教の根本であると言うことです。
また人の役に立つ善い行ない、人の喜ぶことをする所に仏が存在し、仏の救いと功徳が現れてくるのです。
礼儀正しく、礼儀を重んじる。挨拶と返事をしっかりして、長幼の序をきちんと守る。
何も難しいことではありません。朝起きてきたら、「おはようございます」食事をする時は「いただきます。ご
ちそうさま。」帰宅したら「たたいま。お帰りなさい」何か手伝ってもらったら、「ありがとう。」「はい」とよい
返事をする。靴を揃えて家に上がる。ついで人の靴も揃えてあげる。気がついた人が、まず自ら善いことを実践
する。困っている人には親切にしてあげる・・・・等。恥ずかしがらずに当たり前のことを当たり前にする。法を説く
とは身をもって善いことを実践することなのです。
難しい仏教語や教義f伝えられなくても、礼儀正しくマナーを守り、優しく正しい言葉遣い、親切な行ないをす
る。つまり「善き種を蒔く」ことに、「あの人がやっている信仰なら、一度行なってみたい。お話を聞いてみたい」
と思われることが、最高の布教です。
正しいこと、善いこと、真理に合ったことはすべて法華経なのです。教えにご縁のない多くの人々が、「共に
仏道を歩むために」よき種(ご法の種)を蒔きましょう! 家庭を救い、日本を救い、世界を救う最高の近道は、
みんなで「善い種(ご法の種)」を蒔く続けることです。勇気を持って実践し多くの人を教えに導きましょう。
立ち上がれ若者、目標を持て、失敗を恐れるな
現実の日本を見ると物質に恵まれすぎた裕福な生活の中に、大人も子供もほとんどの人が、将来の、また
老後の空しい人生が訪れることに目を背けているか、気付いていません。目標を失い目先だけの幸せ、自分だけ
の利己的な小さな幸せに甘んじている刹那的な人が多いのです。だから、若者には、フリーターが多く、お金が
貯まれば海外旅行やブランド品、グルメにお金をつぎ込み、自分だけの楽しみを求め家や家族のことは関係なし。
それが青春と勘違いしている若者たち。これからの時代は、良い学校をいい成績で出るだけでは通用しません。
出た学校や学歴よりも、何が出来、何を目指し、何がやりたいのか、学歴よりも学力、実践力、価値観や個性
が問われる時代です。苦労は成功への原動力、失敗を恐れず避けず、大きな目標を持って日本のために立ち上
がろう。そして若者の持つ無限の可能性を大きく生かそう。
目覚めよ!! 大人たち、経験を宝にしよう
中高年に至っては定年退職を迎え、自分は充分働いたのだから・・・・と毎日庭いじりや孫の世話だけが楽しみ
で、果てはカラオケに旅行や趣味三昧、尊い人生経験を息子や嫁や孫に伝えようともせず、又伝えてもどうせ
通じないとあきらめてしまっている。ましてや世のため人のために自分の持てる力でお返ししようと言う心はさらに
なく、家族とも金の切れ目が縁の切れ目と年金を小出しに使い、老後はお金だけが頼りと姑息に生きる老人たち。
これでは個々の生活はどうにか良くても、肝心の日本丸が沈んでしまいます。苦労も失敗も過去はすべて人生の
宝、長年積み重ねてきた尊い経験、日本の良き伝統と優れた文化を若者に伝えよう。
高い目標と固い決意が困難を打ち砕く
「社会の良くなることや人の幸せのために役に立とう」と言う高い目標に燃え、必ず実現させると言う不退転
の人には、困難を打ち砕く活力が湧き上がってきます。大きな苦難に打ち勝って大きなプロジェクトを成し遂げた
人間は、顔が生き生きとし、目が輝き、言葉がいい、何とも言いようのないオーラが漂っています。いろいろな
事に行き詰った壁や悩みを、ピンチはチャンスとプラスに受け止め、憧れであった夢を、実現するための目標に
本気で切り替え、もっともっと大きな可能性を発揮する時がきたのです。
陰の向こう側には光がある
世の中の苦は、全て仮の姿です。陰(苦)には実体はありません。光の当たらないところを陰というのです。
つまり仏さまの慈悲はどこにでも誰にでも平等に当たっていますが、光をさえぎる障害物があるのです。愚痴、
不足、恨み、妬み、怠け心、悪口という心の障害物を取り去れば、たちまちに光が当たり問題は解決するの
です。
つまり苦の裏側には、今以上の幸せになれるように自分をレベルアップさせてくれる仏の慈悲があるのです。
すべてを仏さまからのメッセージとして正しく受け止められたら、人生は成功に向けて大転換していくのです。
現象に仏を見ることが出来るか!!
『見佛』現象の中に仏さまのお姿を見る。それは私たちの人生最大の課題であり、それが出来たら、すべて
の悩み苦しみは朝日の前の霜露のように一瞬のうちに消え去り、たちどころにして幸福になれるのです。
仏さまは、この娑婆世界の現実と、真実の姿をこう説いてみえます。
「この世のすべての現象は、過去から現在、未来に至るまで、その本質は一切が平等で大調和を保っている
世界である。しかし、凡夫の肉眼で見る現象の世界は、大きいとか小さいとか、生ずるとか滅するとか、止まっ
ているとか動いているとか、進むとか退くとかさまざまな差別や変化があるように見えますが、真空がどこをとって
も同じであるように、本当はひと色の世界である事を見極めなければなりません」
ところが
「多くの人は現象だけを見て、これはよくない、これはよい、これは得だ、これは損だと勝手に計算し、そのた
めに怒る、愚痴をこぼす、貪るなどの悪い行為をして六道(一喜一憂の人生)をグルグル回って、苦しみの世界
から抜け出すことが出来ないのです」
仏さまの本当のお心、宇宙の真理は、広大深遠で意趣解り難し、凡夫の浅い知恵では到底解らないのです。
仏さまの願いは唯一つ、何とかしてすべての人を仏の道に導き、成仏させてあげたいということです。
ではどうしたら現象に仏を見ることがで゜きるのでしょうか?
私たちが謙虚にどんなことがあっても仏さまに守られているという大信力を起し、率直で柔軟な心になり、心の
底から仏さまを見たいと念じ、先ず人様という生き方をする時、仏さまの方から私たちの前に出て来て下さるとい
うのです。何と有り難いことでしょう。
どうか皆さん、謙虚になりましょう。率直になりましょう。心から仏さまの存在を信じましょう。そして、自己中心
的な心を改め、人さまの幸せを優先出来る心の広い人間になりましょう。
みんな違っているけど、それぞれみんないい、大調和の中に生かされているのです。みんな一生懸命生きてい
るということに於いては平等なのです。
すべては、仏さまが出して下さっている現象です。私たちをもっとよくしてあげよう、もっとよい方に導いてあげよ
う、本当の幸せに気付かせてあげようという、仏さまのお慈悲なのですから、どんなことも悪く見ず、お互いの仏
性を信じて拝みあいましょう。
ありのままの生活に大歓喜の心で「あぁ! ありがたい」と手が合わさった時、現象に振り回されない大安心
の境地、大自信にあふれた人生、即ち成仏を得ることが出来るのです。
<何かが狂っている>
大企業の不祥事依頼、官庁始め各業界を代表する有名一流企業の目を覆い耳を疑いたくような失態の連続に、
いったい日本はどうなってしまったのか? 日本の将来は大丈夫なのか?と誰しも思っていることと思う。
某企業の牛肉偽装 米の偽造ブランド販売、外国産カキの国産偽装、電力会社の原子力発電所点検書類改
ざん事件等「犬も歩けば不正に当たる」状態である。いったいどこまで日本社会は腐ってしまったのか。
すべて最高学歴を修めたエリート、一流と称される大企業ばかりではないか! とんでもない不祥事の連続に
国民はいったい何を信じたらいいのか。人間不信の暗黒時代です。
<日本人の驕りと慢心>
かつて経済大国と言われ、奇跡の経済成長を見せた過去の栄光に対する誇りがいつしか利益優先の守銭奴と
化し、諸外国特にアジア諸国を低く見てきた驕りとと怠慢、学ぶ心をお座なりにしてきた学力、経済力の低下など
すべての面で世界はおろかアジアの後進国になってしまいました。それにもかかわらず、かつてのプライドだけが
残り、「国産国産」と異常な国産至上主義に弊害、経済大国の亡霊に取り付かれた結果ではないか。
<いったい何が欠けているのか?>
常識では考えられない事件ばかりです。今の日本人に欠けているのは、いったい何なのでしょうか。
常識でしょうか?
常識を踏まえることは大切ですが、常識は時代により、人により、大きく違います。普遍のものではなく当てに
なりません。不祥事を起こした彼らにとっては、偽装や改ざんや不正は誰でもやっている常識だったのでしょう。
道徳(モラル)でしょうか?
道徳は人が生きていく上の規範であり、人としての正しい生き方を教えています。しかし、それは人間を中心に
人間だけのことしか考えていません。不祥事を起こした人や企業は、エリートであり、一流と言われる人ですから、
ある程度の道徳心はあった筈です。しかし、人間しか視野になかったのでしょう。
欠けているのは信仰心!!
一連の不祥事k根底にある問題は、信仰心の欠如です。自由主義を履き違え、人さえ欺けばいい、人にさえ
分らなければ安心、自分さえ儲かれば幸せという利己主義です。
物質的豊かさが頂点に達した日本の社会は、無成熟社会です。
成熟社会の条件は、自己責任です。自由主義社会は一人一人が自らの行動に責任を持ってこそ成立つのです 。
「天知る、地知る、わが身知る」人は騙せても大宇宙には必ず通じる。神仏への畏敬の念がなくなった日本
人の驕り高ぶりの姿である。天地自然の働き=宇宙にはすべてを善導する何か偉大な力があることを知らぬエリ
ートの浅知恵、頭がいいことだけが優秀と思い込んできた頭でっかちの目先の利益しか考えぬ、愚か者の末路で
ある。
頭がいいのが善人とは限らない。頭はいいが、悪人もいる。
日本の文化は恥を知る文化である。事の恥ずかしさが自覚出来た時、真の知識人、経済人として再生出来る
のである。辞めれば責任を取ったと思うのは、片腹痛い。愚の骨頂と知るべきである。
一連の不祥事の関係者の自覚と気付きに期待し、本当の意味の引責を果たし再起を待ちたい。
<信仰心は家庭教育から>
戦後教育の大きな間違いは、宗教教育を悪者のように排除し、宗教は非科学的、無用の長物のように扱って
きた付けが回ってきたのである。
世界に目を転じてみよ!
宗教教育をしていない国などない。宗教を否定した共産主義の国は姿を消していったではないか。
真の国際人とは何らかの宗教を持ち、人生の機軸として活躍しているのが実情である。世界の一級と言われる
知識人も経済人もそれぞれの自己責任において宗教を持ち、生活の規範として事に気づかねばならない。
学校教育だけの責任ではない。深い信仰心が身につくのは、家庭の中で親から子へ、子から孫へと経験的に
受け継がれていく日々の実践以外にないのてす。
毎日、神さま仏さま、ご先祖さまに手を合わせ、感謝と畏敬の祈り(読経供養)を捧げる姿こそ、宗教教育の
基礎です。
<21世紀を生き抜く道>
信仰心に基づく生き方と企業経営とは何か?
それは、天地自然の中で生かされていること、多くの人々によって支えられていることの自覚と感謝に立脚した
生活と事業経営です。人が見ていなくても、たとえ時間や手間際、資本がかかっても、目先の利益につながらなく
ても、本当に人様のためになること、地球環境に役立つを目指してこそ生き残っていけるのです。
どんなに儲かっても、楽な生活が出来ても、人のことなど考えず、地球環境を無視した会社や個人は、淘汰
されていくのです。
<仏祖の大道無上の行持あり>
成仏の道(救われの人生)は、善なる行ないのこの上ない接続(途切れのない、実践のむ連続)にある。
いついかなる時も、どこででも、誰に対してでも、本当に役立つこと、本当に正しいことを実践し続けることが時代
の縐勢(すうせい)に取り残されず、必ず生かされていくのです。
今こそ信仰心が問われる時代である。
明るく考える人が幸せをつかむ
世の中を見ると長引く不況による倒産、失業、就職難。離婚、子供の無気力化等親子夫婦の絆が薄れ、大き
な争いこそしないがお互いが無関心状態の家庭崩壊、医学が進んでも治らぬ病気、会社や親戚、友人等人間関
係の悩みや苦しみが絶えません。何か暗いことばかりです。教えを学び一生懸命努力精進しているつもりなのです
が、何かと思い通りになりません。どうしたら心から安心し、喜べる人生が送れるのでしょうか?
<人生の光と影、想念の壁が作り出す幻影>
私たちの人生、この世の中は実は宇宙の大生命(仏)の救いの光に満ち溢れているのです。しかし、自分の
「我」(執着や思い込み)という大きな壁によって光がさえぎられ、不幸、苦難という影が出来ているのです。
つまり影とは救いの光があたっていない場所であり、光をさえぎる煩悩という壁が作り出している幻影なのです。
この世の中に影か単独には存在しません。
<すべての現象は自分の心が作り出す>
人生は自分の心の奥にある「無意識の思い」=「想念(思い込み、信じ込み」が実現しているのです。
病気も事故も貧乏も自分の心が作り出しているのです。人間は頭で考えて願っている通りにはなりにくいが、
心の奥で思っていること感じている通りになるのです。つまり「一見不幸な出来事も、実は自分の「思い通りの
人生」が実現しているのです。意識の中では望んでいないことでも無意識・潜在意識の中では、何かの目的が
あって病気や事故、貧乏になることを望んでいてその思い通りのことが現実に現れているのです。これを仏教で
は「一念三千」一つの強い思いが目の前の三千(すべて)の世界を作り出しているといいます。
<すべては気づきのために起こってくる>
出来事の幸不幸は一概に言えません。受け止め方、解釈の仕方で決まるのです。「病気になったおかげで
こういうことに気づきました」と嘆きや悲観ではなく病気になったことによる「気づき」に感謝出来た時、現象と
しての苦はなくなるのです。つまり、「自分の内なる仏=仏性」が私たちが大切な事を忘れていたり、思い違い
をしていることに気づかせるため外なる自分に発しているメッセージなのです。つまり一人一人がそのメッセージの
意味に気づけば、外なる仏(宇宙の大生命 )と内なる仏(仏性)が感応道交して目の前の現象としての苦は
その役目が終り消滅するのです。
<自分のまわりは仏さまの慈悲で溢れている>
宇宙の大生命である仏様と私たち一人一人の心の奥底にある仏性とは表裏一体なのです。仏様の目から見た
ら『私たちの人生に無駄なものは一つもないのです。何か自分にとって必要があるから、起こって来る苦難な
のです。』それは今よりも優れた人格者になるために心を磨き、心のキャパシティーを広げてくれる出来事なの
です。つまり私たちにやってくる出来事は、すべて良い事であり仏さまの深く広い慈悲のメッセージなのです。
<明るい人が幸運をつかむ>
仏教の教え、特に法華経は「陽気な教え」と言って「何とかなる。必ず良くなる。この苦難を乗り越えたらき
っと幸せになれる。」と暗闇から明るみに向かって考える教え、いかなる困難に遭遇しても最善の結果を想定し
て、徹底したプラス発想に切り替える教えなのです。心の中の否定的イメージが目の前に「苦」という現象を作り
出しているのです。世の中は真面目でも常に悲観的なマイナス発想で暗く考える人、物事に批判的な人は幸せに
なれません。いつも明るく楽天的な人、プラス発想の人、相手の美点を誉める人が幸せになれるのです。
暗い人、愚痴と怒りの多い人に幸せは近づいてきません。
<仏の智慧で世の中の現象を見よう>
しかし、心底の明るさ、徹底したプラス発想は常識だけでは得られません。仏さまの智慧で見た時にこそ世の
中の環境が正しく理解できるのです。ピンチの裏にこそ一発逆転のチャンスが隠されているのです。常識を踏まえ
ることは大切ですが、常識は時代により、人により、場所により、大きく違います。普遍のものでなくては当てに
なりません。マイナス発想の悪循環を断ち切り、仏様の智慧を身につける方法が、祈りと陰徳を積む』こと、
何よりも法縁に足しげく接近することなのです。法縁から遠ざかっては仏の智慧は湧いてきません。
実行すれば必ず結果は出る
仏さまの居られる極楽世界には、沢山の蔵があるそうです。そのほとんどの蔵は空っぽなのですが、たった
一つだけは一杯で入りきらず、溢れているのだそうです。それは何の蔵かという「と耳の蔵」なのです。
なぜ耳の蔵だけが一杯なのかというと、娑婆世界では多くの人が仏さまの教えを聞いて感動して喜んでいます
から、耳だけが成仏して極楽に集まっているのです。
つまり話を聞いて喜んでいる人は多いけれど、教えを実行している人が少ないということです。仏教は聞いただ
けでは幸せにはなれません。
実行という字は「行なえば実る」と読みます。どんな小さなことでも、教えを信じて実行すれば、必ず徳が積
めて功徳という結果が出ます。教えは熱心に聞いているがなかなか功徳の出ない人は、実行が出来ていないの
です。
「やっているつもり。知っているつもり。解っているつもり。」でも、仏さまの目から見られて、「不自惜身命、
一心欲見佛」の精進が出来ていなかったら、嬉しい結果は出ないのです。
信仰とは、仏の教えを聞くことではなく、「仏の教えを実践する」ことなのです。「法華経=実行の宗教」
「実行即幸福」なのです。
実行の第一は、毎日お経をあげること。お題目(南無妙法連華経)を唱えるということは、妙法の教えを実行
するということなのです。蒔かぬ種は生えぬ。良い種を蒔かずして、良い結果=実りがあるはずはありません。
そして、沢山法話を聞いて自分の出来る身近なことから実行することです。人を喜ばすこと。周りにいる人たち
が喜ぶことをさせてもらう。そうすれは、必ず貧者は富者となり、病人は健康人になります。
法華経、即ち「妙法蓮華経」の「妙」とは「蘇る」という意味なのです。災い転じて福となし、地獄の生活も
極楽となるのです。そしてこの「妙の真髄」こそ「あの人を何とか幸せにしてあげたい。何とか救ってあげたい」
という慈悲心の実行にあるのです。
具体的には何を実行したらよいのでしょうか?
自らも成仏し、極楽の人生となるためには、何を実行すればよいのかいうと「六波羅蜜の実践」です。
六波羅蜜とは「①布施 ②持戒 ③忍辱 ④精進 ⑤禅定 ⑥仏智」です。
第一は「布施」であり、最も大切な実践行です。その布施には三段階あります。
①はお金や物の施し(下)
②は同情や情けの施し(中)
③は妙法を伝える教えの施し(上)
相手の機根(根性)や状況に応じて、まずお小遣いをあげたり、欲しい物を与えたり、辛い時には優しい言葉
や思いやりの心で支えてあげることもよいでしょう。しかし最後は、妙法の正しい真理の教えを伝えてあげることが
最高の施しであり、お金や物、同情や情けも、仏さまの智慧に基づいて施さない限り、本当に相手を生かす施し
にはなりません。
すべての施しが、最後は仏さまの教えに繋がらない限り、「本当の施し」にはならないのです。
お金や物、同情は一過性のものであり、教えは永遠のものです。教えの施しは、お金や物、同情の何百倍、
何千倍、何万倍ものの功徳があるのです。
期待と信頼が人を育てる
期待されてこそ人は「やろう」と変ることが出来
「やれるようになる」
君なら絶対に出来るよ
大丈夫
きっと良くなる
何とかなる
<人生楽しいフルコース>
うれしいこと、悲しいこと、辛いこと、大変なこと、すべては私たちが「幸せ一杯の人生」になるための仏さま
からのご馳走なのです。
フルコースのご馳走は、メインディッシュばかりではありません。食前酒あり、前菜あり、スープあり、デザート
あり、甘いものあり、辛いものあり、とにかくバラエティーに富んでいるのです。
すべて栄養のものばかりですが、食べるこちらにこなす力、消化力がなければどんなご馳走も身につきません。
また折角のご馳走も好きなものだけを食べ、嫌いなものを残していては栄養のパランスは取れません。
今日自分に訪れてきた問題が、自分の人生にとってどんな意味があるのかをこなす力、どんな栄養になるのか
を見抜く智慧、方法を諸法実相(すべての現象の真実を見抜く智慧 → すべては人格向上のために必要なこと
宇宙の真理・大生命からのメッセージ)と言います。
<栄養の消化吸収は懺悔(サンゲ)罪障消滅の行の持続>
懺悔とは、単なるお詫びではなく、足りないところが多く、至らない私を守って下さる「仏さま、ご先祖さまの対
する感謝の祈り」を捧げること、つまり先祖供養の祈りの行です。
罪障消滅とは、善いことをする「徳積み」の実践です。
先ず第一には、三宝(仏。法・僧)に対する徳積み、その次に衆生(家族始め大勢の人)に対する徳積みです。
それは、財施・身施・法施の実践です。この二つの祈りの行と得積みの実践を途中で休んだり、気を抜いたりせず
に続けることこそが、一念三千のプラスイメージ(すべてをプラスに切り替え、最高のハッピーエンドをイメージする)
を持続する原動力となるのです。継続は力なり、粘り強く続けましょう。
慈悲による家庭と社会を作る
三月十一日、東日本大震災発生一年を迎えました。真生会では総本山、各教会において、犠牲者の皆様、
行方不明の皆様への鎮魂慰霊の祈りと一日も早い復興を願い真心の祈りを捧げました。未曾有の大災害を通じ
て様々な教訓があり、それぞれに学びがあり、気づきもありました。
人と人との絆、人と地域との絆、地域と国との絆の大切さが改めて見直された一年でした。
しかし、絆もさまざまでお金と物との関わりである「得の絆」と心のつながり、思いやりのつながりである「徳
の絆」があります。
大震災では、防波堤も家もビルも車も、人間の築き上げたありとあらゆる物が一瞬のうちに破壊され、津波に
呑み込まれ、金と物、科学と人間の力の無力さを痛感いたしました。
しかし、現実は復興にも膨大なお金が要ります。そして、残念ながら今の日本ではお金や物、地位や学歴さ
えあれば何とかなる世の中になってしまいました。反面、会社や企業の経済競争に押しつぶされ、負組となって
働き盛りの中年層を中心に毎年三万人以上の方が自殺されています。学歴社会ではないと言いながら、高校・
大学受験はもとより小・中学生果ては幼稚園児に至るまで、ヒートアップする「お受験」競争は狂気の沙汰であ
り、その裏側では不登校、うつ病、引きこもり等精神的に病む若年層も後を絶ちません。
こんな矛盾がどうして起こるのでしょうか。
法華転法華
心が迷えば法華(目の前の現実、現象)に転がされ、心が悟れば法華(現実、現象)を転がす(変える)
ことができる。
《諸苦の諸因、貪欲これ本なり》と教えられるように、「もっと欲しい。もっとリッチになりたい。あれも欲しい これも
欲しい」という「足ることを知らない」際限のない欲望の結果、目先の欲、目先の現象に転がされ、右往左往して社
会の仕組みに振り回され正しい道が見えなくなっているのです。ありのままを感謝する心が芽生えると、すべてが
喜べる方へと転がり始める。
法慈悲による家庭と社会を作る
仏教の教えている理想の世の中は、「慈悲の実践」による家庭と社会を作ることです。仏さま(宇宙)から
見ればすべては仏の子あり、お金の有る無し、学歴や地位の高い低いは人間の価値において関係なく、すべて
の人は皆尊いのです。すべての存在がありのままで尊いのです。みんな一生懸命生きようとしているのです。
競争のすべてが悪いわけではありません。人と比べず、相手に勝つための無益な競争ではなく、相手を目標
として自分を高める有益な゜競争なら人も自分も傷つきません。
「どうかあの人に幸せにもなって欲しい。一緒に幸せになりましょう。いや、まず人様の幸せを」という心が
「慈悲の実践」です。
まずは苦しい人、悲しい人、辛い人の立場になって受け止めましょう。そして、目の前にある小さな幸せ、当
り前になってしまっている幸せに気づき、お互いに自分の良さ、持てる力を十分に発揮すること、自分の存在も
認め、相手の存在も認めていける人生に大安心が生まれるのです。
最近、結婚と同時に「親に気を使う生活が嫌だから。ニ~三年は新婚気分を味わいたいから」と親との別居
を希望する若い夫婦が急増しています。親の方も「嫁に気を使うより気楽なほうがいい」と安易に賛同する親が
増えています。同居しても、税金が安くなるからとの理由で玄関別々、一階と二階にそれぞれキッチンとお風呂
があり、生活が完全分離された二世帯住宅。また、年老いて痴呆の始まった親を病院や特別養護老人ホーム
に預けつぱなしで、見舞いにも行かない中年夫婦や家族。挙句の果ては「自分の親なんだから、あなたが面
倒見なさいよ」と夫だけが仕方なく看病し、協力しない中年妻が増えています。
親子や家族の絆、将来の日本は大丈夫でしょうか?
今日の結果は自分の蒔いた種
昨今、若者が親との別居を希望するのが多いのは、ただ時代の流れなのでしょうか? それだけではないと
思います。自分たち自身が親と同居しながらも、喜べずにイヤイヤ生活し、窮屈に感じ出来ることなら別に暮ら
したい、「楽な生活がしたい」という、自分たち親の種蒔きが子供の代に実ったのだと自覚しなければなりませ
ん。その自覚と反省もなしに同居してもいずれもめ出すか、別居すれば連れ添いが無くなってから肩身の狭い淋
しく孤独な老後が待っています。同居、別居いずれにしても正しい懺悔があれば安心です。
「楽」と「楽しい」は全然違います。「楽」をして本当の幸せは得られません。苦労を乗り越え、良く耐えた
後にこそ、感動の「楽しい人生」がやって来るのです。
忘れていても因縁は必ず巡る
大きな因縁(若死、大病、離婚、不仲、大事故、倒産等)は、忘れた頃に十年 二十年の歳月をかけて芽
を出してきます。先祖や自分が経験した苦労や困難の年回りが来てから子供や孫に答えが出始めるのです。道
中が良くてもその時が来なければ分りません。
先祖の因縁切りは三代かかる大事業
病気でも隔世遺伝と言って、親の病気が子供に出ず、孫に出ることがあります。要因縁も「親苦労して 子楽
して、孫乞食}と言うように親が苦労して不幸の穴に蓋をしてくれても、子や孫がその後を受け継いでしっかりと
穴を埋め、重しをしておかないといつ不幸の蓋が開くか分りません。因縁というものはそういうものです。恐れるこ
とはありませんが、「こんなことぐらいは」「うちは大丈夫」などと軽く考えていると大変です。気付かぬ内にひ
たひたと因縁の足音が聞こえ始めてはいないでしょうか? 「気をつけなさい」という仏さまからのメッセージを見
逃さないように注意しましょう!
二世帯住宅の間違い
親、子、孫の三世代ニ世帯が共に助け合い、支えあって生活してこそ二世帯住宅なのではないでしょうか?
玄関もキッチンも風呂も別々で同じ屋根の下に住みながら、ほとんど顔を合わせることも話をすることも無い生活
は、まさに家庭内別居であり、心の通ずる家庭は築けません。そんな中で育った子供たちはどんな感性の大人
になるのでしょうか ?
このような形だけの同居を二世帯と認め、税金免除したり、補助金を出すような政治が間違いです。玄関は一
つ、キッチンも風呂も一つで、祖父母と子供夫婦、孫たちが親しく助け合い、人生経験が受け継がれている家庭
にこそ、減税や補助金の優遇をすべきです。
家族バラバラの食事は家庭崩壊の元
「同じ釜の飯を食べた仲」という言葉があります。毎日食事を共にしていると自然に一体感が生まれ、心が通
じ合うことを言うのでしょう。家族バラバラの食事は意志の疎通に欠け親子の生活パターンが変り、朝も昼も夜も、
日曜日や休みの日まで家族が揃うことの無い食生活になってはいませんか? 親子どころか夫婦の思いも伝わら
なくなってはいませんか? 皆が少しずつ都合をつけて、せめて週に一度か二度は家族が顔を合わせ、談話をし
ながら食事をする時間を作りましょう!
それこそが本当のゆとりのある生活ではないでしょうか!
あなたは出戻り娘になっていませんか?
親子別居が進む反面、主人の親元へは必要以外は行かないが、自分の実家には毎日のように入り浸るお嫁
さんが増えています。要注意です。実家の親も娘可愛さで当然のように受け入れしていませんか? 親元へ出
入りをし、親孝行をすることはいいことですが、子供の世話は親任せ、自分は楽して昼の食事はもちろんのこと、
主人 の帰りが遅いのを口実に夕飯までお世話になって据え膳、これではまるで「わがまま横着娘」です。
あなたは、「潜在的出戻り娘」になっていませんか?
女房が「楽」して夫の出世は望めません。
子供は「親の後姿を見て育つ」のです。母、妻、女性として尊敬できる正しく充実した行動の中で育てられて
こそ、子供も人様のひとを考えれる立派な大人に成長できるのです。
今こそ、正しいライフスタイルを見つめ直して見ましょう。
出口が見えない不景気列島日本。大学卒の60% 高卒の29%しか就職出来ない現状。学歴のネーム
バリューが価値を失ってきている。しかし、その神話を捨て切れない親と若者。就職出来ても、言われた事を
無難にこなしていくく《人材型人間》では通用しなくなっている。自ら考え、創意工夫の出来る《問題解決型人物》が
求められている。
しかし、戦後の学校教育は偏差値で進路を決め、価値をつけてきた。大量生産のため、一定レベルの画一化さ
れた人材を作るための教育体制の中でひたすら偏差値を上げ、人との競争に勝つこと、人と比べた自分という
価値基準で育てられてきた。
今こそ、外面の薄っぺらな価値ではなく本当の自分らしさ、この世に唯一という絶対的な個としての自分を育てる
内面の人間力を養う時代が到来したのではないか。
人間力ってどんな力?
非常時やイザ!という時、ここぞ!という時、困難や都合の悪いこと、自分の異に反することにぶつかった時、失
敗した時、行き詰った時、また成功した時、トップになって権力を握った時、お金持ちになった時の対応の仕方、そ
こにその人の本当の力、人間的包容力が言動として表に現れます。
それがその人が持つ人間として総合力、人間力です。
人にはいろいろな力があります。知識、体力、技能、教養、実行力、人間関係力=人脈の広さ、忍耐力、胆力、
洞察力、徳分等が年輪を重ね、いろろいな出哀や経験を通じて練り上げられ、一人の人格として結晶したものが人
間力です。
裸の自分が本当の価値
金の力、財力、社会的地位、学歴、家柄等の親のバックボーンも、人間力と考える人もあるかも知れません。
昔、ある若手国会議員が政財財界のドンである「親の七光りで当選出来た」とマスコミから揶揄されたことがあっ
た。すると彼は『世の中には親の七光りも利用出来ない人もいる・・・』と返した。どちらも一理ある。
しかし、そういった自分をデコレーションしている要素もその人の人間力の一部かも知れないが、地位、学歴、財
力、そういった外面を飾るすべての要素を取り払ってもなお、体全体から涌き上がりにじみ出る味わい、輝きを失
わない人格こそが、真の人間力ではないか! これをオーラと言う。
顔が自分の名刺になろう
自分より若そうだ、老人だ、女性だ等と軽く接していたが、名刺交換をした途端、その肩書きに恐れ入って態度
が改まり赤面した経験はないだろうか?
相手が誰であろうと、自分より若かろうと、一見どこかの一老人であろうと一女性であろうとぞんざいに扱わない。
誰に対しても、驕りもなく卑下もなく、すべては同じ仏の子であると一貫して優しく差別することなく接することの出
来る人こそ、尊敬される人格ではないか?
世の中には自分より弱い、若い、力がないと判ると態度と言葉ががらっと変る人がいる。見た目と肩書きで態度
が大きく変るとすれば、それは差別された方より、差別した方の人間性が問われる。また、肩書きがわかった途端
にこちらに対する態度が極端に変られるのも、こちらのにじみ出る人間力が足りないのであろう。
『四十になったら自分の顔に責任を持て』と言います。
紙の名刺に書かれた肩書きではなく、その人の人生観、価値館、人間性、それらが一体となって面に現れた自分
の顔が名刺変りになれたら素晴らしい。
人材ではなく、人物になろう
会合やパーティーで知らぬうちに人が集まり、そのあたりが何か輝いて見える時がある。そういった人の渦の中心
には、肩書きをど返しして、話している間に何となく引き付けられ、ずっとこの人のそばにいたい、またこの人に会い
たいと思われるオーラを放つ人物がいる。
人材は、入れ替え可能はパーツです。だから人材派遣業があるのです。人物は差し替え不可能の存在感があり
ます。
人間力のある人物になるには?
①発奪心があること
物ごとに出会い感動し、人がやれるなら自分にも出来ると向上心を燃やす。
②志を持つこと
人生にロマンを持つこと。人のためになり、世の中の役に立つ、価値の大きい夢を持つ。
③全力で事に当たる
常に自分の能力を最大限に出し切る。そうすれば何事にもネバーギブアップの粘りが出てくる。
④歴史と優れた人物に学ぶ
自分の言動を計る人生の物差しを持つ。我流ではなく、良き師を持ち、史実に学び、新しい価値を創造する。
⑤率直な心、柔軟な心を持ち続ける
松下幸之助は「率直な十段iなりましょう」といい続けた。人間力を高める上で最も大切な要素である。
人間の運命とは? 変えることは可能か!
あなたは運命に泣いていませんか?
あなたは現実という運命の前に、なすすべもなく呆然と立ちすくんでいませんか? 仕方がないと流さ
れままになっていませんか? 運命は宿命ではなく、変えることができる。
これを「立命」と言う。『因果応報の摂理』つまり常に善きことを思い続け(プラス発想)、善きこと
を行なう(世のため人のために役立つ)ことによって運命の流れを良き方向に変えることが出来ます。
運命と因果応報の理は人生のらせん構造
持って生まれた運命は決まっています。いや、厳密に言うと「天命、宿命、使命」の三つを併せて運命
と言うのです。
つまり「天命と宿命」は親や先祖から受け継いだ前世からの業であり変えることは出来ません。しかし
「使命」という自分の命の使い方、活かし方によって人生を進む運命という船の舵を動かし、進む方向を
変えることが出来るのです。
その命の使い方、活かし方によって因果応報という法則に従って結果が変るのです。「自分の思いのま
ま、行ないのままに結果が現れるのです」
「前世からの業」と「現世における思いや行動」が遺伝子DNAの二重らせん構造のように縒りあい、
互いに影響しあって人生が作られているのです。
だから善行を怠っていると持って生まれた業の渦に巻き込まれて流されてしまいます。
運命という業を超えるには、「善きことを思い、善きことを行なう」ことを実践し続ける以外にないの
です。途中でやめてしまったり、気の向いたときに時々やっているようなことでは、無始以来の重障(前
世から、先祖以来受け継いでいる血=因縁、DNAに刻み込まれた)を超えることは出来ません。、
『不昧因果(ふまいいんが)』と言う言葉があります。「因果に暗からず。因果応報の理をしっかり自覚せよ」
という意味です。因果が自覚出来ていないから、休んだり時々しか善なることが実行できないのです。
『仏祖の大道、無上の行持あり』仏や祖師の歩まれた道、すなわち悟りの道、真の幸福に到達するには、
途切れることのないこの上もない善行のむ連続であったということです。
続けましょう! 答えの出るまで善行を!
人は誰しも約束ごとを持ってこの世に生まれて来たのです。すべての人に共通した約束ごとを「天命」といいま
す。そして個別に持った約束を「宿命」と言います。その二つの約束ごとを果たすことを「使命」といい、すべ
てをまとめて「因縁」といいます。
天命とは、人として生を受けた限りは「社会のお役にたって魂を磨き仏になる。つまり生まれて来た甲斐のある、
より善い人間に成長すること。」
宿命とは、男女の性別、長男次男、長女次女といった役目や誰を親として生まれて来た等、生まれついた条件
です。
使命とは、自分の置かれた現実の中でこの約束(因縁)を実践していく事です。
この天命、宿命、使命に課せられた因縁、つまり家庭環境や仕事、人間関係等 貧・病・争を通じて正しく前向
きに実行していけば、誰でも今日から大安心の「幸せな人生」を歩むことが出来るのです。反面、神仏(宇宙の
大生命)との約束から目を背け実践しなければ、地位、学歴、財産という表向きの幸せは掴んでも、内面にはど
うにもならない不安や悩み、苦しみを持った人生を送ることになるのです。
人生は輪廻転生です。今世は前世の続きであり、今世の種蒔きが来世につながるのです。前世「欲しい、惜し
い」の乞食根性で終った人は、今世は貧乏人から始まります。「自分で蒔いた種は自分で刈り取る」これが人生
の約束です。父を粗末にした人は仕事や経済で困り男の子で苦労し、母と縁の悪い人は家庭不和で困り女の子
で苦労するのです。この真実が納得出来れば自分の使命の実行が出来、運命が変るのです。
世の中はすべて因縁果報、自分の蒔いた種が時を経て、結果という実を結び、悩み苦しみという報いを受けるので
す。これが真理であり、すべての現実、現象はこの法則に貫かれており、狂ったためしはありません。
すべての原因は自分にあるのです。
今日までの間違った自分の行ないや心使いに原因となる種蒔きがあるのです。
それを見つけ、その因を取り除けば、縁が変り、結果が変りもすべてが喜びや大安心となるのです。
やりきれば答えは出る
やりきるとは、何事も喜んでやること
中途半端では結果は出ない
中途半端とは、愚痴、不足、批判の心
人間関係、病気、経済、結婚、夫婦の問題、就職・・・
何でも徹しきれば、次のステージが訪れる
自分のことにとらわれるとまわりが見えない
自分だけが正しいと思った時に落とし穴かある
自分の考えにのみとらわれていると苦しみを招く
苦しみの原因は自分の都合
自分の都合が苦しみを生む
自分の都合を小さくすれば悩み、苦しみも小さくなる
信仰の基本は祈りです。仏様とご先祖への真剣なる感謝の祈りの強さと、報恩の読経供養の積み重ねこそが幸
福への第一歩であり原動力なのです。
たかがお経と思ってはいけません。お経、祈りこそ自らの信仰力を高めるのです。
経典にいわく「仏の没度の後、この妙法を受持、読、誦、解説、書写する者は、将来必ず作仏することを得ん」
とあります。つまり、この教えを信じてお経を読み、暗誦するほど唱え切ると教えの意味が自然と理解出来るように
なり、言うこと為すことが仏様の真理と一体となり、大安心の境地(作仏)になれるということなのです。
老若男女は関係ありません。教えに対して《率直な心、信じる心、謙虚な心》を持ち、若ししばらくでも、この教えの
通り本当に実行できたら、仏様も諸佛も皆喜ばれ、一切の天、人が供養(実践)に応じて下さるのです。
ここに法華経の尊さ、有り難さがあり、妙法は「よみがえる教え」と言われる所以なのです。
四恩に生きる人は必ず栄える
仏教では、人は生まれながらにして四つの恩を戴いていると教えています。これを四恩といい、①父母の恩 ②衆生
の恩 ③国王の恩 ④三宝(仏、法、僧)の恩のことです。
そして、人間が他の生き物と決定的に違う点は、この四恩を自覚し、恩に報いることが出来るかどうかと言う一点で
す。四恩を忘れ、平気で踏みにじる人を「恩知らずは乞食の相」といい人間らしい幸福と安心は得られないのです。
①父母の恩・・・人はすべて父母を縁としてこの世に生を受けた大恩があります。そして、その父母にも父母があり、
その父母の恩の連鎖が先祖の恩なのです。だから先祖供養をしない人生は、根の切れた樹木と
同じでいずれ幹(自分)も枝葉(子孫)も枯れてしまいます。先祖供養をしない人に本当の幸せはやっ
て来ません。この真理に狂ったためしはありません。
②衆生の恩・・・人間は一人孤立して生きることは出来ません。自分を取り巻く、多くのお陰に支えられているのです。
そして、私たちが食する肉、魚、野菜などの生き物や石油、ガスなど様々な鉱物資源によって命を支
えられている恩があります。「自分は誰にも迷惑はかけていないし、世話にもなっていない」と豪語す
る「俺が俺が慢心の人」には、たとえ地位や学歴や財産があっても「孤独地獄」という辛い現実が何れ
訪れます。
③国王の恩・・・私たち日本人が日々平和な生活が出来るのは、天皇の徳と日本国という国家社会の庇護と恩恵を
受けているからです。有史以来、国王や国家がしっかりしているお陰なのです。いま世界の中で紛争
や内戦の起きている国は、国王や指導者が国の舵取りを誤り、民族同志の対立と破壊、殺戮の連鎖
が止まらないのです。その実体を見れば、国王や指導者の大切さと国家社会のご恩は一目瞭然です。
④三宝の恩・・・仏(宇宙の生命の根源)と法(真理の教え)と僧(真理を実践する仲間)に対する恩です。この世のす
べての存在は、宇宙の大生命の一部であり、真理の法即によって発展成長するのです。この三宝の
恩こそ幸せの根本であり、自ら自覚し、仏縁の無い人々にお伝えしお導きすることが信仰者の使命
です。
四恩を通して世相を見る
凡夫(信仰心の無い人)としての人間は真の智慧が足りず愚かですから、困ったことが起きて初めて平素の有り難
さに気付くのです。難が有ると書いて「有り難い」と読みます。つまり病気になって健康の有り難さがわかり、経済に困
まってお金の有り難さが身に沁み、親が亡くなって親の有り難さに気付くのと同じです。最近の日中韓の問題も根本
は同じです。何千年の間同じ文化圏の中で互いに支えられた隣同士が互いの恩に目覚めること以外に根本解決は
ありません。 仏様から見れば、地球上のすべての物は誰の物でも、どこかの国の占有物でもありません。みんな
が仲良く分け合い、共に幸せになって欲しいということが仏の願いです。「諸苦の諸因、貪欲これ因なり」すべての悩
み苦しみ争い事は、欲から始まります。地下資源があると分った途端に領有権を主張し合い、一触即発の様相はど
ちらにとっても得策ではありません。私たち日本人も、領土問題が起こって、初めて国土というものの大切さ、有り難
さに気付いたのではないでしょうか。いわゆる「国土の恩」を忘れていた忘恩の結果です。
天皇に対する謝罪発言も同じです。私たち日本人自身が天皇陛下を「象徴」と軽視して「国王の恩、天皇の恩」を忘
れていた忘恩の結果なのです。日本人自身が国土の恩、国王の恩に心から目覚め感謝しない限り、紺本解決には
なりません。これは一軒の家でも会社や組織でも同じです。先祖の恩、親の恩、家族の恩、家の恩、社長の恩、師長
の恩に心から気付きなさいという仏様からの警鐘です。日本人一人ひとりが「自分だけの幸せ、自分だけの利益とい
う自己中心的考え」を大きく革めなければ、世の中は良くなりません。太平洋戦争後、日本は家長制度から核家族制
度に変り、日本人の精神の柱であった「仏壇や神棚」が家庭からどんどん姿を消し、毎日の家庭生活から手を合わせ
る習慣がなくなり、神仏(目に見えない大自然の力と恵み)に対する畏敬の念が失われ、目に見える科学技術力が中
心の物質至上主義になってしまいました。自由主義、民主主義は良いことですが、行き過ぎて個人も国も自分勝手に
なってしまった現実は憂うべきことであり、日本の将来、人類の未来は危うい状況になりつつあります。
希望と感謝、思いやりと温もりのある安心立命の出来る社会を作るために「四恩に目覚め」言葉を合わせ、力を合
わせ、手を合わせ、心を合わせ、本当の幸せ(四合わせ)に向かって邁進しましょう。
仏縁に触れ、常によい心を使い続ける
どんな良い物でも、頑丈なものでも、長年使わなかったら知らず知らずのうちに劣化していざという時に使い物に
ならず、古くてもしょっちゅう使っていれば、劣化はしていないと思います。物だけでなく、私たちの心や仏性(まず
人様という良い心)も同じです。ダイヤモンドの鉱石でも磨き上げるから燦然と輝くのであり、せっかくの輝きも放っ
ておけば、すぐに曇ってしまいます。仏性も良き縁に触れ、徳を積み、心を磨いていないと劣化してしまい、いざと
いう時に正しい考えが出来なくなってしまいます。
「仏種は縁によって起こると知しめす」とありますが、この縁とは仏縁のことです。
仏性が目覚める良き縁とは「仏縁」しかないのです。三年も五年も仏縁を離れていると知らぬうちに心が劣化し、
損得中心の凡夫の考え方になり、物事が仏様の尺度で考えられなくしまいます。その結果、何事も破壊的(怒り)、
批判的(愚痴)、自己中心的(貪り)な三毒の考えになり、本当の幸せからだんだん遠ざかってしまいます。
一念三千とは心に描いた一つの念(思い)が三千の世界を作り出すという宇宙の法則です。
人間の心には①仏界、②菩薩界、③縁覚界、④声聞界、⑤天上界、⑥人間界、⑦修羅界、⑧畜生界、
⑨餓鬼界、⑩地獄界の十の段階があり、それぞれの心の段階にまた仏界から地獄までの十段階がある。
つまり10×10=100になります。その100の心が、十如是といって十の現れ方をします。
①如是相、②如是性、③如是体、④如是力、⑤ 如是作、⑥ 如是因、⑦如是縁、⑧如是果、⑨如是報、
⑩如是本末究竟名等という十如是の法則によって動いているから100×10=1000の世界を作り出す。
これを「諸法実相」といい、宇宙全体の本当の姿を表しています。
その心の変化が
①衆生世間(人との関係) ②国土世間(社会との関係) ③五蘊世間(心や体との関係)の三つの世界に及びます
1000×3世間=3000世界となります。
つまり、一瞬の思い、最初の考え方がきっかけとなり、自分と人との心の関係、自分を取り巻く人間関係や社会
環境等 様々な出来事や現象のすべてを作り出し、結果にまで影響するという宇宙の真理です。
この教え(法華経)は、実行教です。「即身成仏」の教えであり、「娑婆即寂光土」の教えです。妙法の真理
のままに行なえば、幸せが必ず実ります。そして、すべての人がその身そのまま成仏し、家庭と世界が楽園になる
教えなのです。
どんなに素晴らしいことでも、知っているだけなら単なる知識です。実行して初めて「なるほど」と実感し、すべて
を生かす「仏様の智慧」となるのです。
法座、法縁に足を運び、教えをしっかり学び、やれることから身近な所から勇気を持って実行しましょう!
必ず結果は出ます。
幸せは自分が作り出すもの
いつも声に出して言おう
昨日よりは今日が幸せ
今日よりは明日がよくなる
言葉には不思議な力がある
だから言霊という
愚痴は
幸せの土台を腐らせる
明るい言葉と明るい笑顔が
幸せを作り
人格を磨きあげること
仏さまの道とは下がる修行
稔るほど
頭の下がる稲穂かな
頭の低い人は
人から見上げられる
威張って気位の高い人は
人から見下げられる
簡単な人生の秘訣です。
師から学ぶ、仏さまの懐に飛び込む
本当の幸せ、大安心の幸せとはどういう人生なのでしょうか?
それは「感謝と奉仕」の人生です。言い換えれば「ありがたい! まず人さま」という毎日になっているかどう
かです。
誰かと比べた幸、不幸ではなく、ありのままの生活が「あァ、ありがたい」と感謝でき、自分の出来ることで少し
でも「人様のお役に立ちたい、喜んでもらえることがしたい」という奉仕の心を持ち続けることが出来たら、何の不
安もなく、毎日が輝き始めるのです。
この世の中は「苦の娑婆」と言って、お金や学歴、地位や権力、そして医学や科学など人間の知恵と技術力の
粋を以てしても、解決することの出来ない問題や苦悩が次々と沸き起こってくるのが現実です。
凡夫(信仰心の無い人、浅い人)は今ある幸せに気付かず、あるいは当たり前になってしまい、知らず知らず
のうちに、ついつい愚痴をこぼし、自分中心の小さな価値観で思うようにならないことを怒り、不幸の連鎖(六道輪
廻)に明け暮れているのです。
《諸仏世尊は、ただ一大事の因縁を以ての故に、世に出現したもう》
仏さまは「仏知見」の開示悟入のためこの世に出現されたのです。
つまり、私たち凡夫に「仏さまの智慧」と「仏さまのものの見方」を教え示し、なるほどそうかと理解させ、仏さまのも
のさしで人生を歩ませるためにこの世にお生まれなったのです。
《我が所行の仏道を普く衆生をして、亦同じく此の道を得せしめんと欲す》
仏さまはいつ如何なる時も、すべての人が平等に救われ、どのような変化にも動揺のない大安心の人生を送るた
めに、すべての人が、仏さまの歩まれた「成仏(人格完成)への道」を歩んで欲しいと願い続けられているのです。
《心に大歓喜を生じて、自ら作仏すべしと知れ》
心底からの喜びが、大安心の人生を作り出すのです。
他人ごとではありません。自分自身の問題です。何事に出会っても「ありがとうございます!」と感謝で受け止める
ことによって、本当の幸せになれるのです。『法=宇宙の真理法則』が解ればすべてが感謝出来るようになります。
《仏祖の大道、不断の行持あり》
それには独学ではいけません。途中で切れることなく仏さまにまでつながる師から師へ、弟子から弟子への「法と行
の継承」が無くてはなりません。つまり、善き師に学び、学んだ法を人に伝える実践が必須です。
開祖さまは「生きた師匠を持ち続けよ。死ぬまで勉強である」と身を持って実践され教えられました。師のない信仰
は、首のない人間、ハンドルの無い自動車、舵のない船と同じです。まっすぐ進んでいるつもりでも、どこに向かって
進むかわかりません。
皆さんには、ちゃんと生きた師匠はありますか?
自己採点の自分先生、自分流になってはいませんか?
最近、いつあなたは自分のことを師に相談しましたか?
大切な決断や実行は、ちゃんと師のご指導を仰いでいますか?
《聞・思・修が信仰姿勢の基礎》
「聞いて・考えて・行なう」が実践の基本です。会社でも新入社員のうちは上司に何でも相談してやります。信仰でも
最初は何でも相談しますが、慣れてきてベテランになった時が問題です。聞かないで、わかったと思い自分流に考え
て行なうようになる、ここに人生のエアポケットが生じるのです。
「報・連・相」という言葉があります。家庭に於いては親、組織に於いては上司、信仰に於いては師に対して「報告・
連絡・相談」をしっかりすることが、発展向上の秘訣であるということですが、順番が反対であると思います。
『相・連・報』先ずは、相談です。事を始める前、決断する前に相談して添削を受け、方向性や考え方を教えてもらう。
そして、途中経過の連絡を蜜にし、そのうえでの「結果報告」に意味があるのです。
最初の相談や途中での添削をおろそかにして、「こうしました、ああしました、こうなりました」の「報告」だけしていて
も意味がありません。
『任された』ということは、この『報・連・相』の大責任があるのです。
「師」とはいったいどんな存在なのでしょうか。
《衆生すでに信伏し、質直にして意柔軟に、一心心に佛を身奉らんと欲す》
・信伏し・・・「はいっ!」と無条件で自分が下がれる人が師です。
・質直 意柔軟・・・「教えて下さい」というまっすぐな気持ち。「なるほど、そうなんですね」と率直な気持ちで教え
を乞うことの出来る人です。
・一心欲見佛・・・仏さまにすべてをお任せするように、信頼して懐に飛び込んで行ける人を師というのです。
「知っています。やっています。解っています。」の自分先生になった時、添削を受けなくなった時が人生の峠で
あり、師を求め、法を求めて歩んできた人生の上り坂が、過信慢心の下り坂に転じる分岐点なのてす。
凡夫のものさし、一般の常識を超えた、仏さまの価値観、ものの見方「仏知見」が体得出来れば、今日から
家庭や職場が「常寂光土」の楽園となり、すべてが喜べ、生き生きと輝いた自分になれる「即身成仏」が実現す
るのです。
法や教えの如く実行し、あとし「仏さま、よろしくお願いします」とお任せしきれば、仏さまがきっと良い結果に計
らい導いて下さいます。
なかなか結果が出ない時は、まだ仏さまに任せ切っていないのです。どこかに自分の「我」が働いているのです。
大信力を以て安心して仏さまにお任せし、師のもとに飛び込みましょう。
人生はロングランの夢舞台
夢はずっとつながっている
千秋楽まで
投げず
あきらめず
おこたらず
自分の役を演じ切ろう
感謝を忘れなければ
光りが差す
ため息百回、不運を招き
ありがとう百回、福を呼ぶ
笑顔でいると
幸せがやってくる!!
笑っているから幸せになる
苦しい時でも誰かが
一人が笑っていれば
いつか
みんなが笑顔になれる
ありがとうと言える年末
感謝と奉仕の心が信仰生活の基礎です。感謝の生活とは何事にも「ありがとう」と言うことです。相手の働きや親切に
対して、はっきり分るように言葉に出して言うことです。簡単なようで案外難しい。心で思っているだけでは、なかなか通じ
ません。
また言葉に出すことは、自己表現であり、率直な心にならなくては言えません。
つまり、、夫婦の間や親子兄弟、上司や部下、同僚や友人に対してありがとうと言うことは、『我を取る修行』にもなるの
です。一言で言えば『お陰さまの心』です。
奉仕の心とは『まず人さま』ということです。
自分がしてもらって嬉しいことは人にもさせてもらう、人が困っている時は勇気を出して「何かお手伝いしましょうか」と手
を差し伸べる。人が嫌がる仕事を進んでやらせてもらうということです。人さまから思わず「ありがとう」と言ってもらえる生
活です。
漢字で書くと「有り難う」、難が有ると書きます。困ったことがあるから智慧が出て、努力をするから向上するのです。だ
から「有り難い」のです。
また、どんな事にも誰にでも「ありがとう、ありがとう」と言っていると「有り得ることが無難しい」ことが起きるのです。つま
り、一般常識ではありえないような「まさか」という嬉しいことが起きるのです。「病気のお陰さまで・・・病気さんありがとう」
と本気で感謝していると奇跡的によくなるのです。
年末は一年の徳、不徳の総決算の月です。不徳の答えが出たら猛反省をし、反面、今年のうちに罪が取れたから有り
難いと感謝をし、しっかり徳を積んで新しい年を迎えましょう。
一生懸命徳積みをしてきたのに、徳の答えが出なかった人は、、「来年に徳の利息と共に持ち越しである。天の貯金は
必要な時に必ず預ける」と信じて新年を迎えましょう。
嬉しいに付け、悲しいに付け、良きに付け、悪しきに付けて徳を積み、仏縁に触れ、心の垢を落とし、精進することが幸
せ作りの鉄則です。
まず、毎日家で仏さまやご先祖様に感謝の読経供養をすること。次に教会にお参りし、読経供養できるようになりましょ
う。そして、総本山にお参りし、感謝の読経供養(お経の一文字一文字は仏様そのものです。毎日の読経供養の力は甚
大です)のできる信仰を致しましょう。
仏さまの願いには「別願」と「本願」の二つがあります。私たちがこの世に生まれて来た人生の願い、目的は「人格を
磨いて、人に喜ばれ、世間に役立つ人間になること」と教えられます。
別願とは、個々人それぞれの夢や目標です。「人格を磨く」とは、まさに自分の目的達成のためにスキル(技術)や人
間性を高めることです。
そして、別願で高めた技術や人間性を活かして、社会に貢献できる人間になることが「究極の目的である本願」です。
たとえ人様や世間に迷惑をかけていなくとも、自分の出世や成功、夢を叶えるためだけの努力は「生き甲斐」の人
生と言います。個人の生き甲斐だけでは、この世に生を受けた人生の目的の半分だけであり、「大安心」という本当の幸
せはつかめません。仏さまがこの世に出現された本当の願いは、この仏の道をすべての人が同じように歩んで欲し
いというただ一点です。
簡単な真理です。世の中の仕組みは、洗面器の中の水と同じです。自分の方にかき寄せれば、水は手元からニ手
に分かれて出ていきます。反対に向こう側へ押し出せば、手元に二方から倍になって入ってきます。「まず人さま」と
いう生き方、つまり゛「生まれて来た甲斐のある生き方、人から当てにされる生き方」にこそ幸せになる秘訣があるの
です。こんな簡単な真理に気付かず、出口の見えない苦労をしている人がいっば゜いいるのです。
今ほど法の輪、教えの輪を広げることが大切な時はありません。
自分一人だけが黙々と頑張るという「点の信仰」の人は、誰かに声がけのお誘いをし、一緒に歩む「線の信仰」になり
ましょう。そして法友と共に家族や親戚、友人・知人等、より多くの人に声がけをし、みんなが力を合わせる「面の信仰」と
なるよう法座にお誘いしましょう。本当に世の中が良くなるには家族が一緒に信仰できる家庭信仰が最も大切です。しっ
かりと「法の輪を広げ」家庭と世の中が明るく本当に幸せになれるよう、力を合わせましょう。
胎教からの法縁、結婚前がポイント
開祖さまは、「どこを切っても、妙法の血が流れる信仰をしなさい。そのためには、身に口に心に妙法を唱えよ」と教えら
れました。つまり、すべての行動や、言動、発想が教えに沿った生活をすれば、必ず幸せになれるのです。
不思議なもので無心にお経を唱えていると、まもなくいい気持ちになってきます。
その時、脳科学的には脳波はα波(リラック波)になっており、私たちの感性(五感)も冴え、物事の本質がよく見え、
すべてがよく聞こえる状態になるのです。
反対に読経の最中に何かを考えると必ず間違えます。だからお経の内容についても、願いやな悩みについても唱え
ている時は考えないで一心に唱えるのです。「読誦」の読とは、経典の字を見て読むこと、誦とは暗誦のこと、何も考
えずにすらすらとお経を唱える状態です。丸暗記しているお経を唱え始めると、「私」がなくなってしまい、自分の心と
いう小宇宙の中がお経の声、真理の音で充満されるのです。それこそが「自分の中に法の輪を広げる」ことなのです。
朝夕のご供養でお経を唱えることは、自分の考えを「仏さまの悟り」に近づける最も基本的な修行なのです。
お釈迦さまは、身と心を浄め、深い瞑想(無心無我)の後、悟りを開かれました。そして「苦」を産み出す元であ
る「私」をとにかく瞑想によって滅尽せよと、繰り返し説かれました。瞑想には鍛錬が要りますが、じつは丸暗記した
お経を唱えることで簡単に同じ状態になれるのです。「私」がなくなれば、そこには争いも矛盾もストレスもなくなり、
様々な現象や出来事を直感的におおらかに受け止め、正しく判断できるポジティブ人間、プラス思考の人に成れるの
です。
経典に「無量の功徳この経に集まれり」とあります。お経に功徳力があるのですから、年齢や学歴に関係なく、お
経の内容など解らなくても、無心になって唱えているだけで脳の中がα波で充満し、体も頭もリラックスして癒されプラス
発想になるのです。
またお経は口先だけで小さな声で唱えるのではなく、大きく息を吸ってお腹の中から大きな声で朗々と唱えることによ
って自然に複式呼吸になり身も心もリラックスし健康になれるのです。
脳がα波により活性化され正しく機能すれば、生活スタイルの様々なことに対し意欲的になり、健康を保つことが出来
ます。そして勉強・仕事・スポーツなど、毎日の生活が活き活きしてきます。
赤ちゃんが生まれてからの環境や幼児教育も大切ですが、胎内教育は赤ちゃんの性格と人格の青写真を形成する大
切な時です。夫婦ともにポジティブに明るく考え、日々仏縁法縁を深め、お腹の赤ちゃんにお経を聞かせ、法話を聞か
せることは、一人の人間の人格という土台を作る何よりの胎内教育です。
結婚してからや妊娠してからでは遅いぐらいです。男性も女性も結婚前から、法話を聞き、お経を唱え、体の隅々ま
で仏さまの教えを浸み込ませておけば、心豊かで優しく、芯のしっかりした子供がきっと授かります。備えあれば憂いな
しです。教えは独身のうちから一日でも早く縁に触れることが幸せな家庭を築くコツです。
善いことはみんなでやる
みんなでやるから菩薩行
善いことを一人で黙々やる
一人で善いことをやるから独善となる
一人でやる方が楽だけど
みんなでやることは難しい
難しいことをやるから修行になる
煩悩は生きる力であり
欲と希望の両刀の刃である
暴走すれば貪欲となり
制御出来れば活力となる
核エネルギーと同じである
一挙に暴走すれば原爆
ゆっくり制御すれば原子力
貪欲の暴走を制御するのが
信仰の力
最高のエコライフは「笑顔でいること」
笑顔でいると周りに人が集まり
何事もうまくいく
最大の環境破壊は「不機嫌でいること」
不機嫌でいると雰囲気が
暗くなり人が離れていく
何も出来なくてもいいから
いつも笑顔でいよう
親孝行は人生の成功と幸せの基礎であると教えられます。この世の中に親の無い人は誰もいません。その尊い親の
恩に報い、孝養を尽くし、「本当の幸せ」になって頂いてこそ、子である自分たちが幸せになれるのです。
親に信仰心を起こさせることこそが最大の親孝行であり、ひいては自分の幸せにつながるのです。親を正しい信仰に
導くためには、口先の理論や説得だけではなく、自分の態度や行ない、生活姿勢を改め、目に見える実践をもって示す
こと。そして一度や二度であきらめず、何としても導くという命がけの覚悟が大切なのです。父子に限らず、妻が夫を、
部下が上司を、つまり目下の者が目上の者を導くには、自分自身が変るという実践こそが導きの秘訣なのです。
先祖供養が幸せの基本
先祖供養は自分や家族が幸せになるための最も大切な徳積みです。平素いろいろなご祈願やご供養をされる皆様は、
毎月の供養をされる時「先祖供養」だけは外してはいけません。
木に例えれば、ご先祖様は根っこであり、根が切れていたり、つながりが細かったり、腐っていたら、幹(自分)や
枝葉(子や孫)に栄養が行き届かず、早晩木は枯れてしまいます。特に弱い枝葉(子や孫)から枯れていくのです。
ご先祖様とのつながりは、幸福の補給路であり人生の生命線と言えます。一生懸命真面目に努力しているのに。ど
うも運がよくない、調子が上がらないという方は、ひよっとしたら生きた家族(幹や枝葉)のことは一生懸命大切にして
いても、肝心の根っこである先祖供養がしっかり出来ていないのではないでしょうか?
先祖は家族と人生の土台
またご先祖様と家族の関係は、一軒の家と同じです。地震や災害に強い家を作ろうと思ったら、地盤と基礎の土台
が堅固でなくてはなりません。地盤とは数え切れない多くのご先祖様方です。基礎となる土台は親や祖父母、曾祖父
母です。柱は家族で、屋根や階上は孫たちです。いくら柱や造作がしっかりしていても、地盤が軟弱であったり、土台
の一部が欠けていたり傾いていたら、平素は大丈夫でも大きな地震でも来たらひとたまりもありません。一階よりも二階
三階と上へ行くほど揺れが激しく被害は大きくなります。
事が起これば先祖の歪で子孫が揺らぐ
ご先祖様の誰かに「早死、病苦、家庭苦、無念の事故死、離婚、倒産」等人生に歪みがありますと、必ず子孫に
も同様かそれ以上の四苦八苦の苦しみ、人生の歪みが出てきます。これを昔から因縁の順送りというのです。大苦労
をしたり、不遇であったり、無念の人生であったりしたご先祖様の悲しみや苦しみの心の穴埋めを補うことが先祖供養な
のです。言ってみれば、人生まさかの時に備えた耐震補強です。
社会人になったら自分でご供養を!
独身の方も社会人になれば一人前です。本当の一人前の人間とはいつまでも親におんぶにだっこではなく、自分の
ことは自分でやる。そして、恩に目覚め、恩をお返し出来る人のことを言うのです。せめて父方のご先祖の報恩供養だ
けでもさせてもらいましょう。人は悪いことをしないから幸せになるのではありません。徳を積み、良いことをするから幸
せになれるのです。
「我利我利亡者」とは自分(我)の得することだけ、利益となるだけをする人を言います。そしてそういう人は『
亡者』と同じ、つまり死んだ人と同じで、生きる喜び、本当の生きがいのある人生が味わえないのです。
仏さまとご先祖様に祈りと真心を捧げ、「まさかの坂」に備え、大安心の出来る生活を築きしょう。
信仰生活の基本行は朝夕の読経供養です。経典に「色相の文字は即ち是れ応身なり。無量の功徳皆この経に集ま
れり」とあります。つまりお経の一字一字が仏さまであり、お釈迦さまが悟られ、開祖さまが体得された真実がこの経典
の中にあり、計り知れない功徳があるのです。毎日お経をあけることは、仏さまと直接お会いし、直接お説法を頂いて
いることと同じなのです。これからはその真実を私達一人一人が掴んでいくのです。今日までは、仏さま、開祖さまにお
すがりし、懐の中に飛び込んでいけば、抱えて下さり救って頂けましたが、これからは「仏の子から、一人前の大人に
なるのです。自分が真実を掴んで、仏さまと開祖さまに見守れながら自分が実行して行く「自立精神」の時代です。
仏さま、開祖さまの本当の願いいとは何か。
それは『みんな平等に仏の子なんだ。だから何があっても大丈夫なんだ。みんな仏さまと同じ道を歩んで、仏の自
覚を持って幸せになってほしい。「まず人さま」「今日も一日お陰さま」の奉仕と感謝の人生を歩んでほしい。そして
成仏してほしい』ということなのです。
すべての現象や出来事は私たちをより良くしてあげたいという仏さまの大慈悲心の表れであり、私たちが本当に良い
人間になるための仏さまのはからいなのです。
そして、仏の道を歩むには一人ではなく、支え合い励まし合う「法の善き友」法友と共に歩むことが大切なんです。
それこそが「法の輪を広げる」ということなんです。病気も貧乏も不和も、仏さまの御心の気付かせてもらう、自分の
足りない所に気付かせてもらうためのお慈悲なんだと気付けば状況が一変するのです。
それには法を伝えることが一番です。人に伝えることによって「自分の心の至らなさ」が見え、「どう生きればよい
のか」の気付きが生まれるのです。法華経は法を伝えた時に一番功徳が出るのです。計り知れない功徳が頂けるの
です。それこそが、仏恩、開祖さまのご恩に報いる最大の菩薩業なのです。
予期せぬ事態が起こることを「大変」という
「大変」とは人生が大いに変る時である
「大変」だと慌てふためく前にじっくり考えてみよう
何を変える時なんだろうときっと神仏のはからいが見えてくる
そうすれば自体は好転する
どんなに科学が発達し、物が豊かになり、お金や地位や学歴があっても、この世から病気の苦、人間関係の苦、経
済的な苦はなくなりません。
お釈迦様は、苦を諦めたり、苦から逃げるのではなく、「苦と向き合い、苦を乗り越える道」を教えて下さいました。そ
れが法華経の教えであり、永遠不滅の真理なのです。この真理さえ解れば、どんな問題が起こっても動揺することはあ
りません。
二千五百年前、お釈迦様が悟られた真理とは、
①諸行無常・・・この世のすべての物事は移り変わり、永遠の存在はない。同じことはいつまでも続かないのだから、執
着から離れること。
②諸法無我・・・世の中のすべての人も物事もそれだけ単独では存在しない。お互いに生かし活かされているのだから。
思い通りにならないのが普通。
③涅槃寂静・・・ありのままを喜び、お陰さまの心になれば現実の家庭や職場がそのままで極楽となり、心配や動揺が
無くなる。
④親が手本を示すこと
子供に教えを伝えるには、親が教えの手本を示すことです。子供や家族から見られて「なるほど、やっぱ
り信仰のあるうちの親は違う、素晴らしい」と認められ、尊敬される親になることです。
そのために次のことを実践しましょう!
① 毎日、仏さまやご先祖様に手を合わせ報恩感謝の読経供養をする。
② 信仰の愚痴をこぼさない。生活の愚痴をこぼさない。
③ 自分の思うようにならない時でも、すぐカッと怒らない。
④ 月に一度は教会に足を運び、何かにつけて添削指導を頂く。
⑤ 自らの信仰に自信を持って教えの素晴らしさを伝え、教えを聞くように声をかける。
⑥ 自分の趣味や都合と重なった時、ご法の事を優先する。
何よりも赤ちゃんの頃から仏縁法縁に触れさせて育てることです。三つ子の魂百までと言います。子供は頭も心も率直
ですから、毛穴からでも教えが浸み込み、信仰やお参りが何の違和感もなく、生活の一部になって育ちます。そして「ま
ず人さま、みなさまのお陰さま」という仏さまの価値館が身に付き、優しく思いやりがあり、親切で働きに喜びを感じる人
に育ちます。
混迷する世の中で絶対と言えるものは「仏さまの真理の教え」以外にはありません。どんなにお金があり、学歴や地位
があっても、困ることは必ず怒ってきます。どんな困難に直面しても動揺することなく、正しく困難を乗り越えていく力を与
えることこそ、親から子供への最高の財産相続です。わが子わが孫に、正しい信仰を継承し、希望と大安心のある家庭
づくりを目指して精進致しましょう。
すんだことは忘れよう
悔しかったこと
恥ずかしかったこと
恐ろしかったこと
そんなことは
みんな忘れてしまって
未来に目を向よう
そこには
無限の愉楽がある
人間の本当の価値?
レッテルを貼ると
大切なものが見えなくなる
学歴、地位、財産、美人・・・
どれも表面的な一部に過ぎない
レッテルを外した無印良品!
明るさ、思いやり、謙虚さ、直向さ・・・
本当の味わいがにじみ出る
そんな人間になりましょう
無知は罪悪なり
智慧の無い親切は人を傷つける
智慧のない技術は生活を狂わせる
何事も智慧無き行動は善意の押し付け
となりやすい
「知ってます、わかってます、やってます」
気を付けよう慢心のこころ
この世の中は常に変化を繰り返し、不変の存在は何もありません。但し、真理だけは不変であり、すべては「因果の理
法」つまり因縁果報で動いています。 どんな出来事も偶然ということはありません。すべて自分が蒔いた種(因)が、時期
と場所(縁)に触れて、四苦八苦の現象(果)となり、悲喜交々(ひきこもごも)の人生(報い)を送っているのです。今日の結果
現象、つまりわが子の姿や病気や経済苦、人間関係苦は、自分の「我や欲」自分中心の小さな価値館による「思い違い、
心得違い」を見せられているのです。妙法の教えに照らして、悩み苦しみの根本原因に気付き、心が明るくなれば朝露
や霜が、太陽の光に当たれば一瞬のうちに消え去るように悩みは解決するのです。
報恩の人生は栄え、忘恩の人生は滅ぶ
大安心の本当の幸せになるために忘れてならない四つの恩があります。
①仏の恩・・・・ 今日生かされている天地自然の恩
②師の恩・・・・正しい人生観を教えて下さった師の恩(信じる師の無い人生は、舵の無い船、ハンドルの無い車、首が
ない人間と同じです)
③親の恩・・・・親の無い人はいません。いかなる理由があってもこの世に産み育てて下さった恩を忘れてはいけません。
親不幸者に幸せな人はいません。
④衆生の恩・・如何なる人も自分一人の力だけでは生きられません。直接的、、間接的に多くの人々のお世話になって
生きているのです。
実例1 真生会の柴垣世祖様のご体験です。先生の実父は、事業に行き詰まり当時小学生であった先生と弟さんを残し
て自殺されました。以後別々に親戚に預けられ、大変苦労されました。六十を過ぎた頃、弟さんが鼻のガンになり、膿血
がたまって息も出来ないくらいになられました。早速お見舞いに行かれた先生が、濡れタオルを鼻に当て妙法で真剣に
拝まれました。、その時先生は弟さんに説法されました。
「私たちの父親は若くして鉄道自殺をし、その後お互いに大苦労をして生きて来たが、私は妙法の教えに出会って親の
恩に目覚め、家族を置いて自ら命を絶って行った父親の苦悩、隠された真実に気付き、毎日手を合わせて感謝をし、今
日幸せにさせて頂いている。お前は、苦労の人生だったが故、父を悪く思い、恩を忘れているのだよ。これから私が一
心に妙法で拝むから、心の中で父を思い出し、父の名を呼び続けなさい。きっと父の想念いが護ってくださるから・・・」
拝まれる弟さんの眼からは涙が流れました。
翌日、弟嫁から電話があり、「お兄さん有難うございました。拝んで頂いた後、しばらくしたらびっくりするくらい鼻から
膿血が流れ出て、鼻が通り息が楽に出来るようになりました。お医者様から『この分なら大丈夫』と退院の許可で出まし
た」との朗報でした。嘘のような話ですが実話です。
ここにどんなに真面目に努力して生きて来ても「親の恩を忘れた忘恩の人生は滅び、親に目覚めた人生は栄える」
という真実があるのです。
子供は親の心の鏡、蒔かぬ種は生えぬ
子供の姿を通じて自分の思い違い心得違いを見せられるのです。
実例2 ある奥さんが導かれてご相談に見えました。
「私には二十才になる娘と十九才になる娘がいます。ところが立て続けに二人の娘が子供が出来たので結婚させて
欲しいと言い出し、びっくり仰天しました。どちらの彼氏も二十才でまだまだ経済力もなく、心配でなりません。どうした
らよいでしょうか」と切羽詰まったご相談です。
単刀直入に申し上げました。
「 お母さん、今二人の娘さんが。もろ手を挙げて賛成できない結婚問題を持ってきましたが、あなたの結婚はいかがで
したか。親は賛成でしたか?」
「はい私の主人は長男でしたが養子に来てくれ、家業を継いでくれましたが、私の親、特に母親が反対でした。結婚
はしたものの何かにつけて主人や主人の実家のことを悪く言い、一緒に仕事はしていますが、良くは思えていません。」
「それが原因です。親の反対の結婚で心配をかけ、その後も親から認められる行いが十分出来ていないから小言を言
われるのです。それを反対に悪く思っていること。また長男で在りながら養子に出してくれた主人の親の恩に目覚める
事です。両方の親に結婚で心配をかけてきたことの不徳を二人の娘が見せてくれているのです。早速親にお詫びと感
謝のサンゲをすることです。」
「親が針、子は糸」親が気付けば子も気付くのです。後日、長女が相談に訪れ、心境を語ってくれました。事態が正しく
動き始めたのです。
人生は「三世両重の因縁」といって過去(前世を含む)に蒔いた種(因)が現在の結果を生み、また現在の心遣いや
行動が種となって、将来(来世を含む)の結果現象となるのです。つまり因果は過去・現在・未来の三世にわたり、
また親、自分、」子供の三代に巡って現れるのです。しかし諦めることはありません。因縁をよく見極め、因果を乗り
超える方法に生きることです。因果を乗り越える方法を学ぶのが妙法の教え、因果の理法なのです。
行き詰る問題、割り切れない問題がありましたら、勇気を持って総本山真生寺や真生会の教会をお尋ね下さい。
一刀両断解決の道をお伝えします。
豊かな生活 VS 豊かな人生
何のために生きるのか?
「幸せになるために」では、幸せってなんなのか?
幸せには二つの幸せがあります。
一つは金や物が豊かにあるという幸せ。
もう一つは心の幸せです。
法華経では、私たちの人生の目的は「人格完成のための人生(即身成仏)と教えられています。
つまり、生まれて来た時よりも死んでいく時の方が、ましな人間になって逝くこと、一歩でも仏さまの生き方に近づき、
人間的にレベルアップして人格を向上させるための修行の人生なのです。
ちなみに、「修行」は人に役立つための努力、「修業」は自分のスキルアップのためだけの努力を言います。
人生は四つのパターンに分かれます。
①貧しい生活で貧しい人生・・・生活も苦しく、孤独で寂しい。家族との絆が切れている。
②豊かな生活で貧しい人生・・・見た目は幸せそう。物やお金は足りているが、家族は互いに無関心で。
③貧しい生活で豊かな人生・・・生活は充分ではないが、楽しい家庭。
家族が助け合い、思いやりと温もりがある。小欲知足。
④豊かな人生で豊かな人生・・・健康、富裕、尊敬、円満、長寿の五つが揃った五福自来の優雅で楽しい家庭。有頂天
の生活なので、油断すると「まさかの坂」がやって来る。
あなたの生活と人生はどのパターンでしょうか?
今の日本は②の方が多いのではないでしょうか?
民話に「姥捨て山」(うばすてやま)の昔話があります。生活の貧しさのために年老いた親を口減らしのために山に捨てる
話です。
現代版姥捨て山は、特別養護老人ホームや高級な医療介護付き老人ホームではないでしょうか。立派な施設の中
で生活しながらも、家族はほとんど訪ねて来ない。最期の臨終を看取るのは、お医者さんと看護師さん?という方も
多いのではないでしょうか? まさに豊かな生活貧しい人生です。これで家族といえるのでしょうか? 手塩にかけて
育ててくれた親の恩はどこに行ってしまったのでしょう。
仮に同居していても、子供の学習塾や習い事の送り迎え、スポーツクラブのお世話に寸暇を裂いて応援し、子供の
生活とリッチな生活の為のお金儲けには忙しいが、年老いた親は放ったらかしという家も多いと思います。
子供は親の言った通りにはなかなか育ちません。しかし、親のやったことを日に焼付け心に刻み、いすへれ同じよ
うにするのです。
開祖様ご健在当時にある金属機械会社の社長さんが相談に来られました。
男気があって、努力家で優秀な技術を持つ社長さんですが、取引先の倒産により二度までも会社を潰してしまい、
今また三度目の倒産に直面しているということです。
開祖様が申されました。
「どんなに技術があり人以上に努力をしても、父親と因縁が悪かったり、悪く見ていると最後は必ず行き詰りますよ。
あなたのお父さんはご健在ですか」
すると社長さんは「はい父親はいません。」
「亡くなったのですか。」
「いいえ、私に父はいません。父は道楽者で私の小さい時に家族を捨てて家を出て行きました。その後、私達家族は
大変苦労をしました。だから私に父と呼べる人はないのです。」
「あなたの気持ちは、よくわかりますが、いかなる理由があろうとも軽蔑し、切って捨てた人に真の成功は訪れません。
今日から父親の写真に手を合わせ、ここまでやって来れたことの感謝と、子として何の親孝行もしてあげられなかった、
申し訳なかったと懺悔の手を合わせるのです」とこんこんと親の大切なこと、親親足らずとも、子は子の道を歩むこと
の大切さを諭されました。この社長さんは、心を切り替え先祖と親に手を合わせる生活を続けられ、三年余りの間に社
運を挽回されたのです。
世の中には、まったく仏さまにも、ご先祖さまにも手を合わさない人が沢山あります。これではいけません。こういう人
は、一生涯かけてたとえ立派な家を建て財産を築き、高い地位につきましても、また苦労して子供を立派に育て一人
前にしても、その後にその人が求めた老後の安泰は、安泰どころか不安と悲しみの末路を受けるのです。それはすべ
て大切な親を思う心を忘れ、親に対する感謝の生活を忘れ、仏さまに護られている感謝の心を忘れているからであり
ます。木に例えれば、親やご先祖さまという根を切り捨て、仏さまという大地から離れた生活は、早晩自分や子供達と
いう幹や枝葉が枯れてしまうのです。この真理に外れることは決してありません。
物やお金に満たされた見た目の豊かな生活を求めるあまり、感謝、喜び、思いやりという家族の絆が薄れ、心の貧し
い人生とならないように、毎日仏さまやご先祖さま、親に手の合わさる毎日を送りましょう。そこには、安心、安全、安
楽な人生が訪れます。
仏さまの物差し(価値観)で見る!
物事を正しく見るということは、簡単そうでなかなか難しいことです。平等な観点で見ているようで、案外自分にとって
損か得かも好きか嫌いか、または第一印象で事の善悪を判断してしまうのです。ここに苦しみの原因が生じるのです。
例えば、ここに水が入っているコップがあるとします。あなたならどう見ますか?
①「何だ半分しか残っていない」と見るか。
②「有り難い半分も残っている」と見るか。
同じコップの水を見ても正反対に違います。
目の前にある現実、事実をどう見るかでその後の考え方と行動が左右され、人生の幸不幸が大きく分かれて行くの
です。事実の裏にある真実が見れるかどうか、言い換えれば目の前の現実が良きに悟れるかどうかということです。
凡夫の価値観は自分を中心に我や欲、損得や差別意識を基準にしています。仏さまの価値観は相手の立場に立ち、
差別意識や先入観を離れ平等に物事を見るのです。つまり目の前の現実を正しく見ることが出来るようになれば、す
べての人が調和し、平等で平和な生活が目の前に現われ、毎日が楽しい人生になるのです。そのためには毎日一回
は手を合わせ、心から妙法を唱えることなのです。そうすれば、知らず知らずのうちに仏さまの価値観が身に付き、す
べてを良きに悟り、正しく見ることが出来るようになります。
毎日のニュースを見ると殺人、自殺、悲惨な事故死、自然災害による災害死などの報道の流れない日はありません。
「金、物、地位、学歴」という人間的価値には限界があるとしか言いようのない現実です。世の中には人智や人間的実
力や努力だけでは防ぎきれないことがあるのです。ではどうしたら安心する人生が送れるのでしょうか?
それは『多くの人の想念に護られて生きる人生』に切り替えることです。それには「まず人さま。仏さま、ご先祖さま、そ
して皆さんのお陰さま」の実践、これこそが最高にして最大の安心を持った秘訣です。仏さまやご先祖様に毎日手を合
わせ、人とは言葉を合わせ、力を合わせて、感謝合掌の生活をしましょう。
着眼がすべて
何をどう見るか
長所を見るか欠点を見るか
相手の立場で見るか
自分の立場で見るか
すべてを平等に見るか
先入観で見るか
無心で見る 仏眼で見る
欲と我は
すべての真実をさえぎる
世の中には親や兄弟、親戚、友人に対して十年も二十年も、いつまでも一生恨みや憎しみを持っている人がいます。
そういう人は気の毒です。「怒りは地獄の業なるべし、病気、貧乏、災難のもと」怒り恨みの結果は、自分だけではなく、
大切な家族にまで災いが及ぶ不毛の人生となるのです。
★報恩の先祖供養で奇跡のご守護
(三度の食事忘れても、忘れてならぬ親の恩)
◇甲状腺の異常が二週間で治癒(40才のキャリアウーマン)
微熱が続くので病院で診てもらうと「甲状腺ホルモンの病気」と診断されました。原因もはっきりせず治りにくい病気で
す。今年のお盆に実家に帰省された折、「妙法の一心行」で拝まさせてもらい心遣いをお話しました。
「あなたは大学を出てすぐに東京に出て、自分の夢に向かって頑張ってきましたが、この二十年間親がどのくらい心配
し応援をしてくれたか、そしてご先祖さま、亡き祖父母に護られて今日があるという恩が分っていなかったのです。甲状
腺は首の喉ぼとけの両側にあり、頭(先祖や親)や体(自分)をつなぐ場所です。今晩から覚えのある無しにかかわらず、
父母母方の祖父母祖父母に心から報恩感謝の手を合わせ、帰省している間毎晩両親を一心行で拝まさせて頂きなさい。
親が拝める人は人間として優等生なのです。優等生になれば病気は卒業できます。そしてお母さんも毎晩も毎晩我が
子を拝んであげて下さい。きっとご守護が頂けます。」
「二週間後、東京に戻り診察を受けると医者が首をかしげ「不思議だけれど数値が正常に戻っています。」との嬉しい
診断でした。奇跡は自分の心が産み出すものなのです。率直に行えば実る。これが幸福への道です。
◇肺がんの進行が止まる(60才代男性)
半年前に左肺がんの診断を受け、精密検査の結果脳にも転移の様子が見られるとの結果でした。本来なら、患部の
摘出手術をするところ、若い時に肺気胸を患い右の肺が機能していないので手術は不可能との診断でした。
私はこうお話しました。「手術が出来ないということは、手術しなくても治る可能性があるということです。体の手術の
代わりに心の手術をしっかりすることです。今日から亡き親やご先祖様に手を合わせ、若いころに肺気胸を患い親に心
配かけたこと、弱いながらも定年退職まで元気に勤めさせて頂いたことに感謝することです。」
詳しくお聞きすると、子供の絶えた分家の跡継ぎ問題などで複雑な状況もありましたので、思い当たるご先祖をしっか
りご供養することをお話すると、早速に真心から先祖供養の大きな功徳を積まれました。そして感謝と祈りの生活が始
まりした。何回かの抗ガン剤治療がありましたが、ほとんど副作用もなく、元気に嘱託の職場に通って見えます。
「やられたらやり返す」は凡夫の知恵。誤解や錯覚、自分中心の狭い了見で相手を悪く見ていつまでも恨みに思う人
生、「恩を忘れた人生」は不幸を招き、「徳積みや施しの少ない人生」は、じりじりとジリ貧の先細りとなります。
反対に「受けたご恩の倍返し」は仏さまの智慧。恩に報い、施しの強い人は、いざ非常時に計り知れないご守護を頂
き、先へ行くほど、歳をとるほど大安心の人生が送れるのです。
平和とは戦争や争いのない世界ではない
違いを認め合い
相手の過ちを許し
助け合える世の中である
無関心こそが寂しく悲しい世界である
いつもみんなの幸せを祈る世界を作ろう
十二月は一年間の総決算です。しかし、徳・不徳の答えの出る十ニ月を迎えてからでは、あわてて仕上げをしていて
は遅いのです。この十一月から心して追い込みの徳積みをすることが大切です。しかし、日々の努力が何のためなの
か分らず、闇雲に頑張っても仕方がありません。
そこで、人生の目的がはっきりつかめれば、勇気も希望も情熱も喜びも涌いてきます。人の夢や目的は千差万別さ
まざまに違います。しかし、お釈迦様は法華経において「人として生まれて来た根本的な目的、人と人、人と社会の正
しい在り方、人と仏(宇宙・大自然)との関係」を説いて下さいました。
人としての目的・人生の目的は何かと言いますと二つあります。
一つ目は善行を積んで仏と成ること(即身成仏)
簡単に言うと「良い人になる。頼りにされる人になる」ということです。あなたは何人ぐらいの人から頼りにされてい
ますか? 家庭や職場で当てにされていますか? 誰でも自分が豊かになり、自分が幸せになりたいと努力していま
すね。でも、自分のために頑張っているだけでは「良い人」とは言いません。では、どうしたら良い人になれるのでしょう
か。それは毎日の生活の中で「まず人つまという生き方」をすることです。
二つ目は教えの輪を広げる明るい家庭と社会を作ること(常寂光土の建設)
どういう家庭や社会が明るく楽しいのでしょうか? 自分一人だけが良い人になっても安心出来る良い世の中には
なりません。おれが、おれがの『我』のぶつかり合い、自分さえ良ければいいという自己中心、勝ち組負け組みの足の
ひっ張り合いでは本当の安心は得られません。お互いに支え合い、今日の現実に感謝をする「お陰さまの世の中」に
することです。どうしても家族やご縁のある人にこの教えを伝え、一人でも多くの人に仏さまの価値観、ものの見方を
お伝えしなければなりません。
お釈迦様は「人にはすべて仏性あり」仏になれる種があると教えて下さいましたが、放っておいては芽は出ません。
良田に種を蒔き、水をやり、肥料をやり、太陽の温もりによって植物は芽を出し育っていきます。人の仏性も同じです。
せめて月に一度は教会に足を運び、良き縁(仏縁)に触れることによって、知らず知らずのうちに人生観、価値観が
仏さまのお考えに近づいていくのです。
「ありのままを喜ぶ。成ったことを喜ぶ」こんな簡単なことがなかなかできません。でも朱に交われば赤くなるの諺の
ように、仏縁に触れている間に「仏さまの価値観、ものの見方」が心にしみこんで来ます。今まで苦になったことや一
見困ったと思えるような事が「ああ、ありがたい。お陰さま」と感謝で受け止められるようになり、そうすると不思議に
良い結果につながります。これを妙法功徳不思議の力と言います。
まず足元からの実践です。家族が月に一度は教会に足を運べるように手を変え品を変え、あらゆる手段を駆使し
てお誘いしましょう。無上道(仏さまの教え)に導くためのあらゆる手段方法を「方便」と言います。そして、人様を仏縁
にお導きすることが最高の徳積みなのです。そのためには何よりも、あの人のように前向きで明るい人になりたいと
思われるような実践をしましょう。
★六道輪廻 (苦しみの世界)
カッカ (地獄の世界)
ガヅガツ (餓鬼の世界)
ブーブー (畜生の世界)
イライラ (修羅の世界)
有漏有漏 (人間迷いの世界)
ルンルン (有頂天の世界)
★教えの道 (悟り・仏の世界)
晴れ晴れ (すべてが感謝)
十二月は一年間の徳不徳の総決算の月ですが、何か答えがでましたか?
もし悪い結果が出た人は、今年は中に不徳の結果が清算できた、来年はきっと良くなると希望を持ちましょう。嬉しい
結果の頂けた人は、今年一年徳積みが出来ていたことを喜び、来年は更なる精進をお誓いしましょう。
さて、世の中はすべて因縁果報「蒔かぬ種は生えない」ということが真理であります。つまり、善い事も悪い事もすべて
は自分が原因であり、自分の責任なのです。その上、親やご先祖の因縁も、好むと好まざると係らず誰にでも因縁の流
れはやって来るのです。
しかし、法華経の教えを信じ、先祖供養と日々の徳積みの実践をし続けていれば、どんな悪因縁も浄化され善い結果
が頂けるのです。法華経が「よみがえる教え」と言われる所以なのです。そして、教えを通じて積んだ徳は「宇宙への貯
金」となります。宇宙貯金は自分では引き出せませんが、仏さまから見られて一番必要な時に大きな利息を付けて現れ
るのです。
★年忌法事は運命切り替わりの時
開祖さまはご生前、親は祖父母、恩人の年忌法事の年は人生の節目であり、報恩感謝の心で法事を迎えるとき、大き
なご利益が頂けると教えて下さいました。
★不昧因果、因縁を知る者を智者と名づく
『因果を昧くら)まさず』読み禅の公安です。誰も因果律の法則から逃れることは出来ないという意味です。自分に流れる
親や先祖からの因縁をよく知り、「因縁を乗り越える道に生きよ」とす開祖さまは教えられました。つまり日々徳積みの人
生を送れば、どんな悪因縁も「大難が小難、小難が無難」となって幸せな人生が訪れるのです。
「徳積めばものは自由になるものを徳も積まずに困る世の人」
「裸で来て裸で帰る人生だ、徳を積め罪を作るな」
「徳は将来を潤す」
私たちすべての人が等しく仏さまの子なのです。そして、仏さまの広大深遠なるお慈悲は、すべての人に等しく注がれ
ているのです。「私だって、きっと幸せになれる。いつかきっと陽の当たる人生になる」と信じましょう。それには、仏さまの
お慈悲をさえぎる怒りや愚痴、人を悪く思うという心の壁を取り除きましょう。そうすれば今日からあなたも幸せになれま
す。
《報恩に生きる人は栄える》
幸せな人生の基本は恩に報いることです。いろいろな恩がありますが,最も大切な恩は「仏恩(天地自然の恩)」に報い
ることです。私たちは生まれてより今日まで、そしてこれから先の人生も、天地自然の中で生かされ有形無形の「お陰を
頂いて」暮らしていきます。そのご恩に報いることこそが幸福な人生の第一歩であります。「仏恩に報いる」には、一にも
ニにも仏さまの教え、ご法を一人でも多くの人にお伝えすることです。そして「ありのままを喜ぶ、まず人さま、お陰さま」
という世の中にすることが仏恩に報いることなのです。
私たちの人生は、ご縁によってどのようにも変っていきます。いつも「前向きで明るいプラス発想の人」とご縁を結んで
いますと明るく積極的な人生に変っていきます。法華経は「陽気な教え」ですから誰でも明るい考え方になり、幸せに
なれるのです。
《手まめ》 手紙を通して教えにお誘いすることです。できれば温もりのある手書きの手紙が良いでしょう。現代的には
メールによるつながりもあります。ご法話や体験談をお伝えするするのもいいでしょう。
《口まめ》 誰かに一言声をかけて「良い教えがありますよ。一緒に行きませんか」「教会法座法座に一緒に行きません
か」と新しい人や家族、法友をお誘いすることです。相手の幸せを願う思いやりのある言葉は、相手の心を変える力が
あります。
《足まめ》 困っている人や法縁に遠ざかっている人の所へ何度も足を運びお誘いすることです。
手まめ 口まめ 足まめ、どの方法でも結構です。「何とか家族に教えを聞いてほしい。あの困っている人に何とか幸
せになってもらいたい」という「まこごろ」と「情熱」をもって自分の出来る方法で何度も何度も繰り返しお伝えしましょう。
人さまにご法を伝えお誘いする功徳は計り知れません。経典にも、八十年間、金銀財宝、大きな家、おいしい食べ物等
あらゆる求めに応じて施した功徳よりも、百倍、千倍、百千万億の功徳があると示されています。人のためにさせて頂い
たことは最期自分の功徳となって帰ってくるのです。
成仏とは、ありのままの自分で輝くこと
勤勉とは、自分のしたいことを一生懸命すること
働いていることが楽しい
勉強していることが楽しい
歌っていることが楽しい
楽しいことはどれだけやってもくたびれない
著 田中偉仁 田中庸仁