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心 の と び ら

 
  的をひとつにしぼるように  ★ 損得の智慧は凡夫の知恵
  今日一日を大切に喜んで  ★ 前進すれば希望が湧く
  相手の美点を探す人となれ  ★ 損得の智慧は凡夫の知恵
  愚痴のない人生は爽やかなり  ★ 笑いが出ればしめたもの
  心の広さだけ幸せが来る  ★ 如来の知見は廣大深遠
  人は情けの中に住む  ★ 帽子は頭にかぶり 靴は足に履くもの
  人生は演出なり  ★ 油断大敵
  押して駄目なら引いてみな・・・・  ★ 理想は高く、実行は綿密に
  ゲンコツ(握りコブシ )人生を悟る  ★ くれない族にならぬように!
  社会は智慧の温床なり  ★ 人生喜びが欠けたら 赤信号
  先の事より今が大切  ★ 人の意見を聞くことが大切
  撃たぬ鉄砲は強い  ★ 仏さまの考えを真似して
  奇跡が起きた  ★ 積善の家に余慶あり
  感謝の心でつなぎ合わせて  ★ 人生は読み 書き 算盤
  握手が出来れば平和が訪れる  ★ 人生はドラマ 宗教は演出
  正見-正しく見る  ★ 人生の価値とは
  おかげさま、ありがとう!   ★ 幸福の法則、目的と方法 
  人間の根本は、皆仏性   ★ すべては自分の心が作り出す
  出合のご縁を大切にする  ★ 狭い正義は身を滅ぼす
  本当の豊かさ、幸せとは何か   ★ リストラを乗り越える
  笑顔  ★ STOP the 愚痴
  妙法とは、感謝と奉仕   ★ 仏さまの言葉は宇宙語
  感謝の心、和の心  ★ 考えよう!家族の絆
  正法(妙法)に目覚めよ   ★ 顛倒の衆生、幸せの秘訣?


的をひとつにしぼるように 

 お釈迦さまは「悩みの原因は、自分さえ幸せになればいいという自己中心的な強い欲望が元である」と言われ

ました。人間の欲望は、果てしなく終わるところを知りません。

反面「もっと幸せに成りたい」という願望が、人を向上させ奮い立たせる原動力にもなっています。けれども、一度

にあれもこれも思い通りにしたい。自分さえ良ければいいと欲張れば、たちまち苦しみに変わります。目標を一つ

に絞り、自分も人も共に幸せになれることのために行動すれば、どんな難問題も打ち破ることができるのです。

 

 

損得の知恵は凡夫の知恵 

 仏さまの智慧は、常に相手を生かし、人に喜んでもらえることを第一に考えている。まず自分の都合を中心に考

えるのは凡夫の知恵である。「まず人さまの幸せと利益」を考えるのが仏さまの智慧です。物事を損か得かで判

断する人の人生は、薄っぺらで寂しい。

目先の利益に迷わず一見遠回りのように思えても、善か悪か、白か黒か、大自然の真理に叶った生き方こそ幸

福への真の近道である。

目的の大きさと正しさに応じて、幸せの器が用意されるのである。

 

 

今日一日を大切に喜んで

 足もとの今日が喜べなかったら、未来の幸せはやって来ない。「明日」という字は明るい日と書く。

しかし、今日の不満や心配、怒りを明日に引きずってしまったら、明るい太陽はさえぎられ、明日もまた曇り空にな

ってしまう。今日の嫌な出来事は「たまたま運が悪かった。何とかなるさ」と明るく楽天的に考えよう!

やれなかったことよりも、今日出来たことに目を向けて感謝しよう。

明日の成功を心に強くイメージして安眠しよう。そうすれば明日は希望と可能性の中から始まる。

 

 

前進すれば希望がわく

 目も耳も口も鼻も、皆前向きについている。すべてのことを前向きに見、前向きに聞き、前向きな言葉を発し、前

向きに雰囲気を感じ取る。神様仏様が、「常に前進し、進化するように」与えてくださったお手配である。そして、手

も足も前に進みやすく備えて下さっている。神仏の御心にそって、前進し続けよう! どんなに辛くても、後退して

いけない。「朝の来ない夜はない」誰にでも幸せの夜明けが来ることを信じ、前へ進むことを考えよう。悲観的に考

えてよい結果は得られない。幸せは向こうからやって来ない。こちらから幸せに向かって前進し続けよう。そうすれ

ば、光が見え始め、希望が湧いてくる。

 

 

相手の美点を探す人となれ

 叩けば叩き返されるのが世の常である。欠点は誰にでもある。意見の違い、立場の違いを乗り越えて、相手の

優れた所を探してみよう。欠点の指摘は誰でもできる。隠れた美点は智慧がなくては見つけられない。お互いの

長所を認め合い学びあう所に平和と発展が生まれる。国会での与野党の攻防を見るに、まるで子供かヤクザの

喧嘩である。自分だけが正しくて相手の言葉に耳を傾けようとしない。本当の防衛力とは一致団結の力である。

外に向けてどれだけ軍備を整えようと内輪がもめてひびが入っておれば、他国に付け入るスキを与えるだけであ

る。国家も会社も家庭も真理は同じである。

 

 

損得の知恵は凡夫の知恵

 昔から「読み、書き、算盤」という。相手のニーズ(気持ち)を読み、それに応えるように実行すれば、そろばん勘

定は自ずから合ってくる。目先の利く小利口な人は「先ず自分の儲け、目先の利益」と浅はかな凡夫の知恵をめ

ぐらせて最初に損得の算盤をはじく。一旦は儲かったように思うが、最後は読みが外れて損をするのが世の常で

ある。先ず人さまの幸せ、お客さまの利益を優先する人が賢者であり、仏の智慧である。世の中はたらいの水と

同じである。向かへ押し出せば、脇から水は戻り、手元へかき寄せれば、脇から水は外に出ていく。他人事では

い。利益を最優先したJR西日本の大惨事の原因を肝に銘じたい。

 

 

愚痴のない人生は爽やかなり

 貪(むさぼり)、瞋(怒り)、痴(愚痴)、を仏教では三毒という。質素倹約を心がけて贅沢や無駄遣いというむさぼ

りを省くことは出来やすい。自分が怒っていることもよくわかる。

 しかし、愚痴をこぼしていることは解りにくい。愚痴は当たり前と思ってこぼしているからである。どうにもならない

ことを心配するのが愚痴である。どうにかなる方に目を向けて頑張ってみよう。きっと希望が湧いてくる。愚痴の多

い生活は暗く、人は離れてゆく。反対に愚痴のない人生は明るく爽やかであり、人が集まって来る。人の集まり具

合が愚痴のバロメーターである。あなたの周りは大丈夫ですか?

 

 

笑いが出ればしめたもの

 笑う門には福来てる。どんなに一生懸命頑張っていても、笑顔が少ないうちは幸せは遠い。すべてを難しく考え

、自分は運が悪いと思う心が貧乏神なのです。福の神は自分自身であるとわかれば、行動が変わり運命が好転

楽しく考え、喜んで働けば幸せは足元にある。真剣になっても深刻にならず明るく、楽しく毎日を迎えよう。

 

 

心の広さだけ幸せが来る

器に応じて中身が決まる。徳利にはお酒が入り、湯飲み茶碗にはお茶が入る、バケツには雑巾が入る。そして、

どんなに美味しいお酒も徳利が小さければ、たくさん入りません。また器は大きくても口が小さいと入りにくく、こ

ぼれてしまいます。私たちの心の器も同じです。心の質によって入ってくる幸せの質が変わります。小さなことに

こだわらぬ大きな口になり、すべてを良きに受け止め、どんな人もどんなことも許せる大きな器になれば、幸せは

すんなりと十分に入って来ます。

さて、あなたの心の器の質は良いですか? 心の入り口は狭くありませんか? 大きさは大丈夫ですか?

折角の幸せが吹きこぼれないように心を大きくしましょう!

 

 

如来の知見は廣大深遠

 如来の知見は「広大深遠」なりと経典にあります。

佛様のお考えは「広くて、大きくて、深くて遠く先を見通す」遠大なる智慧即ち考えであります。

 佛さまの智慧を学びますと、私達暗雲垂れ込めた生活に光明が差し込み希望と勇気の活力が湧いてくるのです。

病人に告ぐ

 闘病の 思想では病気は治らない。正しい佛さまの思想から言うと、病気を敵にまわして闘うのではなく、病気を

味方にして楽しく生活をし、病気から何かを学ぶ心になったとき、病気は家来となるのです。

 

 熱心な県外のご信者から電話相談がありました。

「先生ご存知のように、あの難しいお爺さんに教えのお陰で精一杯尽くし面倒見させて頂き、無事葬儀も済ませ

一息ついた今日この頃、近所に住む小姑(主人の妹)が毎日のように出入りし、お婆さんと長話をして帰られます。

一生懸命わが家を守っている私の存在は無視され、嫁の私は蚊帳の外で生活をせねばなりません。こんな 淋しい

ことはありません。どのように考えたらよろしいでしょうか」と真剣なる相談です。電話の事ですから単刀直 入にお答

えをしたのです。

「幸せになる人には常に宿題があり、これに挑戦し、やりこなした時、幸福がやってくるのです。人生に宿題がな く

なったら進歩も向上もありません。七難八苦の宿題こそ、私達凡夫が幸福を得る最大のチャンスと考えて下さ い。

あなたも今四人の男の子を育て、将来に幸せの夢を抱いておられるでしょう。この先、十年も経ちますと皆お嫁さん

をもらい、あなたは息子の母としてお嫁さんと仲良く暮らせたらこんな幸せはないでしょう。そのため小姑と言う 宿題

を与えられているのです。

目先の事にとらわれる凡夫の考えではこの小姑は喜べないでしょう。しかし、佛さまの広大なる考えで眺めます

と、お爺さんを死なかした寂しい母の元へ、再三訪れる小姑をあなたが温かく迎えることは、あなたの将来を幸せ

にする今が種まきの時なのです。あなたが温かく小姑を迎える後姿を見て四人の男の子は母の偉大なる行動に

感動し、尊敬するでしょう。母を尊敬する男の子は必ず素晴らしい女性と結婚し、幸せな家庭を築くことが出来る

のです。十年先にあなたは、今の小姑問題の宿題を上手に乗り越えたご利益で、優しい四人のお嫁さんから大切

に温かく護られる事間違いありません。佛様の広大深遠なるお智慧で考えを変えて下さい。前途は揚々と開けて

参りますよ」と話しました。

 

「先生有難う御座いました。なんだか、胸のしこりがすっきりしました。」と大変喜んで電話が切れました。

 科学万能時代となり、世の中のすべての出来事は、コンピューターやITで解決するかの如く考えますが、そうで

はありません。

 我欲に走る凡夫の心を救うのは、科学や医学ではありません。尊い佛様の考え以外にありません。正しい信仰

心があればすべての出来事は解決します。心、即ち考え方次第で世の中は何とでもなるのです。

 

 

人は情けの中に住む

 鳥は木に住み、魚は水の中に住み、人は情(なさけ)の中に住む。

 この 真理に逆らって、平和も安心も訪れない。人間生活に「ぬくもり」即ち情 慈悲心が欠けたら、早晩人間関係

は闘争か破滅か取り返しの出来ぬ事態が起きるのである。

 人を育成するには、怒りを含んだ指導に成功した試(ためし)がない。叱られた相手は非力を反省する知恵もな

く、上司に反発し怒りを含めて職場を去るか、逆に自分の未熟さに縮みあがって落ち込むだけである。

 いくら理屈はと通っていても、怒りを含めた北風の冷たさ、厳しさでは部下は育たない。逆に太陽の如き、ぬくも

り、真の暖かな情、怒りのない指導には、必ず人は従ってくるのが真理である。

 

 事業は人なり、上司と部下、親と子の関係に於いて信頼と尊敬の和が出来たら企業は必ず発展し家庭は繁栄

します。

 応々にしてまじめな人ほど、理が通らぬと怒って事に当たって取り返しのつかぬ事態を起こしてしまう。

 益して力のない小人こそ、己の非力を悟らずして上司目上からの忠告に反省する余裕もなく、反発し怒ってさも

自分が正しいと道を外して一生棒に振ることがある。

 結論は、佛様の教えから言いますと「怒っては駄目」「よく怒る人の知恵は三歳の童子より劣る」と教えられてい

ます。

 しかし自分の進むべき道に「迷い」を生じたり、途方に暮れる非常時が訪れたら「初心に戻って自分を良く見直す

か」或いは「信頼と尊敬の出来る師に」相談し、人生の道を尋ねることである。

 

異体同心

 体は異なっていても、心(思想)は同じであるの意。信仰をする私達にとって大切な謹言であります。

 過日理事長が静岡県掛川市の布教から帰り、私にこんな嬉しい報告をしてくれました。掛川市の古い熱心なる

御信者が、永年のお勤めを無事定年退職でき、過日夫婦揃って中国旅行をされたそうです。

 このご主人が「会長先生のお土産に墨を買ってきました。墨の良さは解りませんでしたが、この墨ならきっと喜ん

いただけるかなぁと思って選んできました。先生に渡して下さい。」との伝言で化粧箱に入った墨を頂戴しました。

 永い間、この地方へは布教に行っておりませんが、よくぞ私を忘れずに慕って頂き、中国旅行のお土産まで下さ

った御好意に感動しました。

 早速お土産を開封しましたら、私が古くから愛用している「大好山水」の墨でありました。何の打ち合わせもして

ありませんのに、「大好山水」の墨をお土産として下さったにはビックリ仰天、涙の出るほど感動しました。

 理屈では「異体同心」でなければならぬと思いますが、余程自分を磨き修行しない限り「異体心ばらばら」の家庭

や職場の人間関係はありませんか? 私たち、佛様と異体同心、家庭に於いては親を始め夫婦の間は異体同心

でありますか?

 どこを切っても佛様と同じ血が流れ、どこを切っても社長と同じ血が流れる人間になるように修行をし、世の為、

人の為に尽くせる人間とならねばなりません。

 

 

帽子は頭にかぶり、靴は足に履くもの

 こんな分かりやすい事は、三歳の幼児でも知っている。

 ところが、立派な大人がこの真理の反対の事を平気で行い、自分の尊い人生を狂わせ、社会にも迷惑をかけて

いる。文明文化の幸せの影に潜む悲しい心の間違いを、今こそ知って正しい人生の軌道を歩まぬ限り家庭の和

も、世界の平和もやって来ないのであります。

 学歴があるからと言って、これをかさに着て親を見下したり、年寄りを馬鹿扱いする若者が増えてきた。この姿

こそ、ハイヒール(靴)を頭にかぶり帽子を足に履く気違いの姿であります。

 

稔れば稔るほど 頭を下げる稲穂かな

の諺があるように、立派になればなる程謙虚さと慢心の心を慎む人格者になりましょう。

 常に良い感じを人に与える人は、帽子をかぶっても、ステッキをついても、人様からステキと評価されるのであり

ます。

 新品の靴が素敵なのではない。古くとも良く磨いてある靴、手入れしてある靴は、見る人が見れば、オシャレに

見えるのである。

 

この道、通るべからず

 の立て看板、立て札があったら、この道は通ってはなりません。

 有名な大学の山岳部で鍛えた中年紳士がありました。標高三六五メートルの小山で足を滑らし、一命を落とす

ところ九死に一生を得て一命を救われました。

 紳士に尋ねてみました。

 「あなた程、山に詳しい人がどうして遭難しかけたのですか」

 「はい先生、私の過信でした。山頂に「この道通るべからず』の立て看板がありましたが、私はかつて山岳部に

いましたので、こんな山位となめてかかり大失敗しました。」

 ここにも人生の尊い道しるべがあるのです。親か先輩か信用のある人が注意してくれた事を自己の欲で強引に

通った人は、取り返しの出来ぬ事故や信用を落とし、再起不能となる人があまりにも多い。

 

チャンスを逃すのは不平不満が原因

 一流企業に勤める前途有望なる青年社員が海外出張から帰り、職場で゛こんな一言を洩らし、上司からも同僚か

らも、がっかり信用を落としたと聞く。

「国外出張がこんなに続いては殺されてしまう」と一言こぼしたそうだ。

 殺されるほどの激務だったら、なぜ上司に相談せぬのか。

 常日頃自分は仕事が出来る、エリートであると高上がりの慢心が相談できぬのでありましょう。

 社員の誰から見られても彼は顔色が悪く、不平不満の生活で体が資本であるのに、病人となっているのです。

 「無知は罪悪なり」と教典にあります。全てを正しく眺める知恵がないと大失敗するのです。

 この有名な青年も人生の師を求め、こぼしてならぬ不平不満を脱しぬ限り出生はストップしてしまいます。

 

 

人生は演出なり

 人間は非常時(病気・貧乏・不和)に遭遇した時、真価を発揮するか、うろたえるかの二通りに分かれます。それ

には常日頃から人間として歩む道を正しく見極める努力をしなければなりません。

 人間のこの世に生まれてきた目的は何か

 「魂を磨きに来た」のであります。だから、自分から磨く努力をしない限り、常に誰かから磨かれるか、或いは大

自然から磨く宿題が出るのが当然であります。弱い人間程、宿題を逃げようとする。しっかり宿題を受けて立つ人

間になってこそ、成功もし人生に喜びが生まれるのであります。

 次に、人間として生きていく目標は何か。

 「徳(善行)を積むのが目標」であります。この揺るがぬ目的と目標を自覚できれば、非常時にうろたえ動揺する

ことはありません。

 この世は楽しいところ、即ち、極楽は足元にあります。だから、「馬鹿殿役」もあり「お姫様役」もあり、「貧乏役」も

「金持ち役」もあります。

 人生は演出であります。どの役が回ってきても、「楽しく精一杯やりこなせば」自分も満足でき、大衆からも天から

も拍手喝采のご褒美が授かるのです。せっかく与えられた今日の檜舞台で、精一杯親のため世のために汗を流

せたら、これが人間最高の歩む道であると佛様は教えておられます。

 ある日、突然駆け込み寺の如く、悩みを訴えられて来られたご婦人がありました。悩みの内容は大学一年生の

娘が、仲良しの二人の友達から突然つまはじきにされて、楽しく計画されていた誕生会からも外され、二学期が

始まっても学校へ行く気力が無くなり、家で泣いてばかりいる娘の姿を見るに見かね、総本山真生寺の広告をタ

ウンページで見て、「このお寺なら私の悩みを解決して貰えるだろうと心が引かれ、飛び込んで参りました。」との

ことです。

 会長の私は、心から

「よくお見えになりました。どんな事でも必ず解決しますよ。ご安心下さい」と開口一番奥様の立場になって苦しみ

を聞きました。

 世の中の出来事はすべて困る者の罪(考え方の間違い)であります。

先ず、家族構成をお尋ねしました。七十歳を超えた両親とこの奥さん夫婦と子供三人の計七人家族です。

 私は先ずこんな事から話を進めました。

「奥さん、あなた程幸せ者はありませんよ。世の中が変化し、若夫婦が老夫婦との生活を避け、別居生活がさも

当然と考える若者が多くなった今、親と同居生活をされるあなたは、幸せの宝の山に住んで居られますね」

 私の問い掛けに突然わっと泣かれるのです。よくよく内容を聞いて見ますと、気丈夫で気短かな姑に朝から晩

まで叱られ責められ、毎日毎日はオッカナビックリの連続で生きた心地がありませんとのことです。

 「あなたの心境はよく分かりました。しかし、世の中は幸せになる前に必ず一山二山乗り越えねばならぬ道が

あるのですよ。幸せになる秘訣は、どんなことでも善きに悟り喜びに変えたとき運命は好転します。あなたほど

幸せな奥さんはありません。毎日毎日、家庭教師(姑)付きで人生行動を進んで居れる人は町内一番であります」

と申しました。

 色々申し上げる内に、この奥さんがはたと気付かれたのでしょう。涙を流しておられた顔に明るみが出て参りま

した。しめたもの。 家庭教師付きの私は、幸せを忘れて姑を鬼のように考えていました。この結果が可愛い女大

生の娘が親友から嫌われ泣くのだ。親の道を子が通るとお悟りになり、雨のうち晴れの心に「またお伺いします」

と喜んでお帰りになりました。

 

 うきつらき 心に沿そわぬ事をみな 善きに悟りて よろこびを得よ

 

 

油断大敵

 人生は大・中・小の歯車の組み合わせで成り立っています。順調なる回転をしておればよろしいが、一度歯車に

油が切れ、錆びつき回らなくなりますと、破壊となってしまいます。

 この戒めの言葉が油断大敵として残っているのであります。

 解りやすく解説しますと、家庭の親子関係も企業における人間関係も国際関係も同じであります。

 人間という歯車に油(喜び・感謝・ありがとう)が切れた時、歯車は錆びつきギクシャクし、動かなくなるのであり

ます。

 油断して感謝の一言を忘れますと、大敵が出てきます。体の弱い人であったら大病が訪れ、人間関係に「あり

がとう」の油が切れますと分裂となり、「事業は人なり」の大切な和は破壊され倒産となります。国際関係なら戦争」

となるのであります。

常に、相手を尊ぶすばらしい油をさす事を忘れなかったら、この世は極楽であり、人間関係はスムーズに回り、地

上天国が建設されるのであります。

 

佛教は「中道」を歩む教えであります。世間では、「硝子張り」で無ければならぬと心の狭い人ほど上司に噛みつき、

怒りを含めますが、これが正しいのでしょうか?

 すべての事を正しく見る方法は、一点に止まらず拡大してみると正しい道が見出せるのです。

 例えば、「トイレを硝子張りにし、鏡張りにしたら用が足せますか?」

 又三人の娘の内、中の娘が経済に苦しんでいたら親として財を三等分するのが硝子張りで正しいのか、人情と

して苦しんでいる娘には親として内緒で少し応援したいのが世渡りの道であります。これを法律では三等分が正道

あると、財産分けで争うところに折角平和の兄弟間には憎しみと恨みが残り、両者とも破滅します。

 財産分けで争うと必ず子孫に「田分け」が出現するのが因果の二法であります。

 さて、事業面や官公庁の取引では談合は断じて許せぬと庶民では怒っておりますが、これとても佛法から考えま

すと一考が必要であります。

 欲に走り金に目がくらんだ談合は断じて許せませんが、佛様の考えでいう談合は話し合いであります。難しい

問題こそ時間をかけて何回でも話し合うのが正しい談合であります。

 硝子張りの主張も欲得の談合も、大きく全体から見ると度胸のない凡夫の悲しい姿であります。

 佛様の広大なるお考えは常に中道を歩む事が平和であり、全ての人を幸せにする道であると説いておられます。

 良い事は真似から初めて本物になるのです。

 正しい佛法が理解でき実行出来るようになれば、「鬼に金棒」世渡りに怖いもの無しとなり安楽道が歩めるので

あります。

 

 

押して駄目なら引いてみな 引いて駄目なら 時間をかけてみな

 琴の弦(糸)の如く、強く張りすぎても駄目。緩く張れば音がたるみ、これも妙音ではない。高からず、低からず。

これが世渡りの秘訣であり、妙技であります。

 魅力ある場所に人が集まる

 魅力ある話に人は耳を傾ける

 魅力ある上司に人材が育つ

 魅力はどこから生まれるのか。

 答え、新鮮なる喜びと感謝は、感動から生まれる。

 

 若手のオーナであり、IT関係の仕事をやり、時代の先端を走って居られる社長さんにも悩みがあり、毎月一回私

の元へ心の栄養剤を仕入れにこられるのであります。

 (相談内容)

 「十人ばかり若手社員を確保し、時代の先端を走るITの仕事で前途有望と張り切っておりますが、人材が育ちま

せん。

三年、五年と務めてくれる社員がこれからと期待しておりますと、社長の気持ちも汲み取らず、義理も人情もなく

『今日から辞めさせてもらいます』と次の会社へ移ってしまいます。折角、期待をかけてこれからと言う大切なとき

に人材が育たぬというのは何故でしょうか? これを今日は教えて頂きたい」と真剣なる相談であります。

私は単刀直入にこんな話をしました。

 「毎朝社員に朝礼訓示をしておりますか」

 「はい。毎日社長室へ幹部を集めて朝礼をしております」

 「集まる幹部・社員は皆、社長室へ集まる事を喜んでおりますか? 今日もまた苦虫を噛んだ社長の顔を見、指

導と言うより、小言を聞くのはごめんと言う空気ではありませんか?

 喜びのない会議・明るい話題のない会社は知恵の行き詰まりですから、何回やっても会社の成績は上がらず、

社員は嫌になって辞めるのですよ。社長室へ入れる喜び・社長室に呼ばれる光栄に胸のふくらむ事をお考えに

なるのが優秀な人材の育つ秘訣です。

 和やかさのない職場・笑顔のない人間関係の職場はやがて成績は上がらず、人は育ちません。

社長さん自らが、にこやかに話をするようこれだけを実行されれば、優秀な人材は育ち会社は前進しますよ。人生

は自分が中心ですから、自分の優秀なる考え通りになるのであります。

 真の佛法をしっかり学び佛の智慧でもって全てを実行されれば成功間違いありません」と太鼓判を押しました。

この若い事業家が私の話が腹に入ったのか満面笑みを浮かべ、次回参上の折は嬉しい報告をしますと喜んで帰

られました。

 人間の知恵では行き詰まります。佛の智慧には行き詰まりはありません。

 

 

理想は高く、実行は綿密に

私(会長)の信念

 死ぬまで生きて、法を説く

 人間は使命を使って生きなければならぬ。私利・私欲の為に生きるか、人の為、世のために生きるかで生き抜

く勢いが違う。

 どうせ生きるなら、小さくともメダカの頭になるか、大きくとも鯨の尻尾でよいか、人皆、理想はまちまちである。

 同じ貧乏でも、明るい貧乏と暗い貧乏がある。明るいところには花が咲き、虫でも寄ってくる。暗いところは、じめ

じめしてカビが生え、物は育たぬ。

 こんな事は三歳の童子でも知っているが、案外人間の生活、大人になってもこの優しい真理が分からぬ大人が

多いから困ったものであります。

 新年を迎えるに当たり、今年こそは希望に燃えて、第一歩を踏み出しましょう。

 お釈迦様は「天上天下唯我独尊」とおっしゃられました。

 「私は天にも地にも唯一人しかいない尊い存在です。自分でなくては果たせない使命を持ってこの世に生を受け

ました。」と宣言されました。

 この尊いお釈迦様のお言葉を、子供の養育に困り果てている若い女性にお話しました。

 「あなたは今日の不幸に泣くばかりであって、自分にはこんなすばらしい良きところがある。と自分の尊さ、言い

換えますと『唯我独尊』自分の長所を誉めたことがありますか? 

 不幸というベールをかぶり自分の不幸に泣き、相手(夫)の欠点ばかりを責めておっては運命は変わりません。

 今から人間として生まれてこれた尊い自分、今日まで幾多の峠を乗り越えて来た自分を誉めてみませんか?

自分の尊さを知らぬ限り人の尊さも理解できず、唯私は不運であり、不幸と嘆くだけでは誰も救ってくれません。

 ましてや、あなた様には、今は亡き御両親がどれ程、あなたの将来を心配しながら亡くなったのですよ。どうに

もならぬ時は佛様を念じ親を念じ、『私はこんな事にへこたれず今日も前向きで頑張ります。見ておって下さい』と

明るい報告、あなたの尊い心を御報告しなさい。

 亡き親はどれ程、あの世から喜びのエールをあなたに送ってくれますよ。佛様はあなたのすばらしい迫力に全服

の守護をしてくださいますよ」

とお話をしている間に彼女の両目からは涙がこぼれ始め、顔には明るさが現れてきて「先生、初めて自分の尊さ

が分かりました。」と大感動して再度来教を誓って帰られました。

 人悪人少し、皆仏性をもっております。自分の尊さを発見し喜びに変えましょう。

 

 

ゲンコツ(握りコブシ)から人生を悟る

 

 みなさん! 手を開いて下さい。

次に親指を中に入れて、ゲンコツを作ってください。

しっかり握れば握る程、力が入ります。

逆に親指を外に放り出して握ってください。

力を入れれば入れる程、四本の指の爪がくい込み、

放り出した親指から力が抜けてしまいます。

この二通りを実演してください。

成る程と納得が出来ます。

次に親指はどの指よりも長いことを知らねばなりません。

ズングリして太くグロテスクな形をしているではありませんか。

 しかし、よく調べると見えぬ所に一節あり、どの指よりも長いのです。

親指に小指をはじめ、どの指でもよろしい 合わせて見て下さい。

○が必ず出来ます。○とはお金のことです。親指以外○の出来る指はありません。親を尊び、親と意見を合わせ

ようと努力する人は、どんな不況時代でも金運が良く事業は成功するのであります。

 この大切な真理は日本人ばかりでなく、外国人にも必ず通じます。どんな馬鹿な親でも親は親であることを認識

し、尊ぶことを学び理解するのが信仰の力であります。親を尊び、親の心を汲み取る努力する人の子供は必ずた

のもしく成長します。

 世相が狂い親子の断絶、夫婦の離婚、老人の嘆き、青少年の無気力振り、目を覆う事実がわが日本の足元に

渦巻いております。

 この悪癖、膿血を取り除くには、信仰即ち宗教心以外ありません。大きく世界の立て直しも、家庭教育から始め

なければならぬ重大期であります。

 かつてソ連の大統領ゴルバチョフ氏が、何故日本を訪れようとしたのか? 日本のすばらしい家庭教育を確認し、

取り入れるのが目的であったと聞きます。日本の田舎に行くと「立派な仏壇が祭られ、先祖を大切に奉安されてい

るのに驚き、これが小さな島国で資源が乏しくとも世界のリーダーになる発展の要素である」と驚嘆されたと聞く。

残念ながら終戦六十有余年は過ぎ、文明の先端を走る日本には何不自由もなく優雅な生活に甘えておりますが、

日本のすばらしい家庭教育の基礎を忘れた今、何から立て直すかを国民が襟を正して反省し目覚める重大な時

に来ているのです。

 仏陀(仏様)はすでに今訪れる世界を洞察されていたのであります「われ滅後二千前後を末法という。この時に

こそ東方に大乗相応の一小国あり、この国より世界を救う教えの光を放つであろう」と予言されております。インド

より東方の一小国とはまさに島国日本の事であります。世界の大きなうねりを正しく方向告付けるのは、正しい日

本の宗教以外ありません。今将に立ち上がる時であります。

 

 

くれない族にならぬように!

 親は私に何もしてくれない

 会社は私を認めてくれない

 社会は私に応援してくれない

 

 くれない族、すなわち不平不満の根性の人で幸福になった人は一人もいない。学生でも自分の好きな科目の授

業は成績がよい。

 勤め人でも与えられた仕事が好きになれたら、絶対成績は上がるものである。大病をわずらっても、病気に感謝

の心が起きたら絶対全快するものである。

貧乏も明るい貧乏になれたら経済は楽になる。

いかに不平不満の生活は、暗闇を無灯火で進むと同じで行き先は見えず、足元は不安定で希望もなく、ただ生き

ているだけど言う情けない人種が増えたのが現在の日本である。

 このままでは将来の日本は大自然から見離されてしまう、大自然は一刻も早く真の人間の歩む道を目覚めさせ

る為、天災地変をもって私達に示唆を与えていると考えます。

 地球の異常気象と温暖化は化学の力や人間の考えでは防ぎようがありません。世界中の人間に感謝が欠け、

争う事が正しいと錯覚し、喜びのない不徳の結果と思います。地球を救い人類を救うのは、私達一人一人の喜び

と感謝の実行以外ありません。

 今こそ正しい考えを学び、各自が「相手を尊ぶ」心を養い実行したら、この世は極楽となり平和な世が築けるの

であります。

 

 ある日、総本山を訪れた青年が、大御本佛様の前で真剣なる祈りを捧げておられます。

 祈りの目的を尋ねると近々に目の手術をするので手術成功の祈願を佛様にお願いしているとの事でした。

 「近代医学は進歩しているので手術を受けるのも常識でしょうが、手術をしたから絶対に百人が百人成功すると

は限りません。世の中のすべての出来事は原因のない結果はありません。

 『眼病の諸々は、佛に灯明を惜しんだ罪』と仏教では因果を説いております。

 わかり易く解説をしますと、眼病の原因は佛様に灯明を惜しんだ如く、大切な人から受けている恩を忘れ、自分

本位の考え即ち感謝の目が開けていないのが原因です。

 この尊い仏心が開けたら、必ず運命は好転し眼の手術は成功する」とお伝えしました。

 ここにも佛法の偉大さがあるのです。

 

 

社会は智慧の温床なり

 学力(学ぼうとする力)があれば、智慧は無限に落ちている。学力は学歴に勝る。

 「鳥は旅立つとき、いつも向かい風に向かって飛びたっている」と聞く。新たなる闘志は、向かい風に向かって走

り出せば、力強い闘志が湧いてくる。

 学ぶなら敵から学べ。

 親子、同士は温室のぬくもりであって、甘えてしまって真の実力は身につきにくい。昔の諺に「可愛い子には旅を

させよ」、「他人の飯には骨がある」と厳しいが真実が叫ばれている。

 敵を味方にする度量と智慧があれば人生は万々歳、渡る世間は佛様ばかり、即ちこの世は極楽なのであります。

 

 「渡る世間は鬼ばかり」と嘆きテレビドラマで放映していますが、この考え方は一考を要します。正しい佛法を学

びますと「人生善人ばかりなり、人皆佛性あり、人皆佛の子」であると説かれております。

 不幸、不運と言って泣く人は、訪れてくる出来事をすべて人のせいにして悪く不平不満、愚痴のるつぼに落ち入

り、自らが這い上がる手段も知らねば勇気もなくなり、人生に行き詰まり、生きる希望も知謀も失って親が悪い、世

の中が悪い、人が悪いと嘆き、あげくの果てには、自殺に走り他殺に踏み込む現状が、経済に恵まれた日本国

民の嘆かわしい現実ではありませんか。

 何が欠けてこんな不安定な国になったのでしょうか。

 一言で申しますと心が栄養失調となり「感謝も、感動も、歓喜も」なくなった末路と思います。今こそ襟を正して私

達一人一人が人間として正しく生きる道に目覚めるときが来たと考えます。

大自然は暖冬異変の気候で私達凡夫に何かを悟れと教えているのです。

 明治の偉人西郷隆盛は「子孫に美田を残さず」と説きましたが、弟の従道は東京の目黒から渋谷にかけて十四

万坪に及ぶ広大な土地を残した。従道のひ孫である大正大学教授の西郷泰之(52才)は、その相続につい最近

まで苦しんだ。数億の上がる相続税が発生し、物納だけでは足りず借金を余儀なくされた。

 西郷隆盛が死んで百三十年、「大相続がやってくる」(日本経済新聞H19 ・2 ・24記事より)

 この現状を見聞きするとき、私達は財産、地位、学問、権力の上にあぐらをかかず、人の為に徳を積む事に心掛

ける事が、自分も幸せになり子供も徳の力で幸せになる事は間違いないと叫びます。

 徳は将来をうるおし、子孫の栄える秘訣はここにある事を大きくして叫びお伝えします。

 

 

人生喜びが欠けたら赤信号

 ○健康人から喜びが欠けたら病人である。

   病人が喜び始めたら健康人になれる。

 ○金に喜びが欠けたら貧乏人になる。

  安月給でも、これだけでも、もらえるから有り難いと喜びだしたら、金は集まってくる。

 ○考え方に喜びが欠け、不平不満が充満したら運命は下り坂となる。

 ○仕事に喜びが欠けたら失業者となる。

  不平不満を喜びに切り替えたら、運命は向上し、人からも好かれ、この世極楽となる。

  喜びは人生を幸福にするエネルギーであり、福の神である。喜びの多い人は行動に明るさがあり、言葉に角

がなくなり人相も穏やかになり、人が寄り易く人徳が充満する。企業なら順調に発展し、家庭なら円満となり、頼も

しい子供の成長に喜べること間違いない。

どうしたら喜びを産み出せるのか?

喜びの研究

上を見れば欲しい欲しいの星まるけ 下見て暮らせ 欲しいの毛もなし

 この簡単な理論が納得出来ないのは、悲しいかな凡夫の良く深い智慧の行き詰まりである。佛法にご縁を結び

佛様の考えを生活に率直に活用したら、運命はどんどん向上し、今世、人間として生まれた使命に目覚め、毎日

を希望に燃え「ありのまま」を喜び、「成った事を心から喜べる」ようになったら人間として最高の道が歩めるのです。

さぁ勇気を出して正しい佛法を学び、佛の智慧を習得し、家庭を社会を国を救いましょう。

 

 まじめな青年が「先生、おかげ様で指圧師の試験が合格しました。これひとえに佛様、会長先生のお陰でありま

す。」と嬉しい報告とお礼の挨拶に総本山に来てくれました。

 私は彼の努力を誉めながら、将来に向かっての心構えを指示しました。

 「国家試験に合格し、これから数多くの体験を積んで患者さんに健康になってもらおうと努力する指圧師は数多

くあると思います。君は有り難い事に信仰深い両親の元で成長し、父は当真生会教団の副会長と大阪教会長と

の要職を以って人心救済に大活躍をしておられる親の良縁をもって真面目に成長されて来ましたが、このままで

は折角の人生が惜しいと思います。

 医学的には資格をとり、これからどんどん体験を積み患者に接する事が大切ですが、病人は精神的に喜びが

欠けている人が多いのですから、医学的な治療と精神医学(即ち信仰)を併用して患者に接しられたら鬼に金棒

です。肉体の治療と精神的即ち心の治療が出来ましたら、やがて日本一の治療師になれるでしょう。これからも

しっかり佛法を学び医学的と精神的の治療に精出して下さい」と合格祝いとして前途に希望をもてる話をしました。

彼は大変感動し、一歩前進した考えに明るい笑顔で「先生今後ともよろしくお願い致します」と淡々と頭を下げて

帰られました。

 佛法あればこそ、前途ある青年に勇気と希望の与えられた事を喜ぶのであります。

 

 

先の事より今が大切

 過去を悔やんでみたところでどうにもならぬ。

 過去を追うな。

 未来を願うな。

 過去はすでに捨てられた。

 そして未来はまだやって来ない。

 過去を悔やんでみたところで、過去を変えることは出来ません。

 ならば過去を捨てましょう。

 未来は、あれこれ考えてみても、どうにもなるものでもありません。

 所詮はなるようにしかなりません。

 わたくしたちは、今なすべきことを、しっかりやればいいのです

 

 苦しいときは、しっかり苦しめばいい。

 悲しいときは、しっかり悲しめばいい。

 うれしいときは、しっかり喜べばいい。

 それがお釈迦様の教えであります。

 

 台風は、いつまでも続くものでない。

 雨降りの後は晴天となり、台風過ぎれば日本晴れがやって来るのが自然の流れであります。

 平和の人生を求めるのであれば、大自然の哲理に逆らってはなりません。

 都合の悪いときは、小さくなって時を待つ事であります。

 人生の台風は必ず治まります。

 台風が吹き始めたとき、ある漁師が考えた。

 こんな時舟を出して魚をとれば、大儲けが出来ると考えて船出した。

 ところが台風には勝てず、舟は沈没舟頭は死んでしまった実例がある。

 何が間違ったのか。

 儲けのため(欲のため)に大自然に逆らった結果であります。

 

 まじめに働きながら金に困る人、

 正直者でありながら不運である人、

 努力しながら中々幸運に恵まれない人、

 世の中にこんな割り切れない人生にやり切れず、

 不平不満のストレスに苦しんでいる人はいませんか。

 一刀両断解決の道があります。 

 自然の哲理に逆らっていてはどんなに努力しても幸せはやって来ません。

 

 

人の意見をよく聞くことが大切

 世の中に不幸で泣く人は、「この道通るべからず、この橋渡るべからず」の目上の忠告や親の意見に逆らっ

て行動を起こした結果で有ります。この原因が理解できたら、運命は好転します。

 佛語に『聞思修」即ち先づ聞け、そして良く考え、間違いないと思ったら修う、即ち実行しなさないと教えられて

います。

どんなに出世しても、「聞思修」を繰り返すのが、安心立命できる世渡りの方法であります。昔の諺に「聞くは当

場の恥、聞かぬは末代の恥」と教えられております。人間は、どんなに地位が出来ても常に人様の意見には耳

を傾け、どんなに成功街道を走っていても、常に上司や信頼出来る師には「添削」を受ける謙虚さがなくてはなり

ません。

 

 私の青年時代こんなエピソードが有ります。法華経を学び歓喜雀躍し、寝るのも忘れてお師匠様のお供をして

飛び回りました。しかし我が家は、父の商売が思うように回らず、四十年の歴史ある店が倒産寸前になりました。

両親のこの苦しみを何としても救わねばならぬ、ましてや私が大病で倒れた時、両親は命をかけて救って下さっ

た。この恩を今こそ返す時と教えを聞いて一層親の恩に報いようと日夜がんばりました。

 しかし、何の土産も持たず郷里には帰れません。万策尽きて品川駅で野宿し、噂に聞いている人情家である政

治家の大野伴睦邸に乗り込みました、早朝ではありますが地元岐阜からの陳情団に混じって伴睦邸の応接間で

代議士をお待ちしておりました。夜明けの六時頃でありました。和服姿であの太い眉毛、達磨さんのようなどんぐ

り眼で人を睨みつけた様な顔の大政治家が出てこられ、私の顔を見るなり「キサマ(貴様)何だ」と一喝されました。

「公務御多忙の先生に私事で恐縮ですが、先生は岐阜では親孝行の神様と聞いております。父の非常時を救う

道を教えて下さい」と平身低頭申しました。

 すると伴睦翁は大喝一声「諸君朝の早うからユスリやタカリが来て困るんだ、奥には佐藤栄作、池田隼人、岸信

介が国事を論じ徹夜で集まっておるから」と椅子を蹴って奥へ入ってしまわれた。若い血の走る私は逆上してナイ

フでも持っていたら伴睦翁を刺し殺したかわかりません。

 しかし、教えのあった私は即座に自分の非に気付き、伴睦翁の激しいお言葉を聞き、直ちに悟ることが出来まし

た。

 「大恩有る親への恩返しに二年や三年真剣にやったから、人情深い伴睦翁が情けをかけて何かしてもらえるか

もわからぬ」と表には出しませんが、私の腹の隅っこにあった人に頼る弱い情けない心を伴睦翁は見抜かれ私を

叱りつけて下さったのです。この一激有った私は、強く立ち直り今日があるのです。常に人様の意見に耳を傾ける

事の尊さをお伝えします。

 

 

撃たぬ鉄砲は強い

 鉄砲を持つから、撃ちたくなる

 金を持つから、使いたくなる

 地位が出来ると、威張りたくなる

 欲が深くなると、人道を踏み外す

 仏さまのお考えと私たち凡夫の考えは「月とすっぽん」位違います。現代的に言いますとプラスとマイナス位違

います。

 仏さまの真似をすれば仏さまに似てきます。泥棒の真似をすれば泥棒になります。だから私たちは正しい信仰

心を起こし、凡夫の欲深い考え方から一刻も早く脱皮し、完全無欠の真理である仏教を学び、安心立命の世の

中を作らなければなりません。

 

 『鉄砲の弾が飛んできたら、真綿で受ける』 この幼稚なような考え方が真理であります。家庭も企業も政治も

国際間の問題も、円満解決し発展する基本は、仏教で申します『和を尊ぶ』この一言に尽きるのであります。勝っ

ても負けても争いは早晩両方とも破滅であります。

 この真理は、世の巷によくある財産相続の争いにも当てはまり、両家とも自滅します。

 日本は、六十年前アメリカの原爆投下により、広島、長崎は廃墟と化し一大悲劇を受けましが、戦争を放棄し

争いから手を引き、平和のために立ち直りました。それが世界に冠たる経済大国になり、産業発展につながったの

です。

 こんなすばらしい立ち直りをした国は、日本以外他国にはありません。これは仏さまの真理に叶った実行をした

結果であります。ところが、苦しい戦後の生活から立ち直りながら「喉も過ぎれば、熱さ忘れる」の諺の如く、

平和のために戦争を捨てたこのすばらしい過去の行跡を忘れ、最近は一触即発の行動に傾きつつあるのは誠に

危険であります。

 今こそ正しい信仰を持って、日本人の私たちが世界に向かって精神的指導をする非常時が来たと思います。

大乗仏教のすばらしいのは、右にも左にも片寄らず、中道を歩むことです。

 五人の仲間が山登りに行ったとします。ハイキング程度の登山ですが、メンバーの一人が体調を崩し八合目あ

たりに来た時「自分はここでやめてもう下りたい」と言います。このとき残る四人はきっと「もう頂上はそこじゃない

か、がんばれ・・・・」と言うことでしょう。しかし、体調を崩している人間にとって「がんばれ!」と言われることはとて

も辛いのです。その人の事を思うのであれば、「そうか、じゃあ、みんなで下りよう」と言うべきでしょう。

 そんな無理して登ったって、たかが山じゃないか。頂上をあきらめて山を下り、皆で楽しく一日を過ごそうとする考

えが、大乗仏教の生き方であります。

 この一ページを読んで下さった皆様は、何とお考えになられますか?

 

 

仏さまの考えを真似して

  仏様の智慧は「廣大深遠」にて、私たち凡夫の行き詰まっている悩みを、立ち所に正しく道を示し救って下さる

のが大乗仏教であります。

  自分の幸せのみを願って修行するのが小乗仏教であって、真の安心立命はありません。

  常に相手の立場を考え、相手の幸せを優先する大乗的思想こそ、幸福をつかむ道であります。

  「相手を建てれば、蔵が立つ」 この考え方が幸福をつかむ秘訣であります。

 

 県外の老婆から泣くような声で電話の質問がありました。

  「先生助けて下さい! 私の可愛い娘の悩みですが、娘の亭主が怠け者で働きもせぬのに贅沢で有り、その上

 他の女との交際もあり、箸にも棒にもかからぬ不出来に困っております。娘と孫が可哀想ですから、別れさせよう

と考えておりますが、いかがでしょうか。」

  一寸待った。一方的に娘可愛さの煩悩からの行動は、取り返しのつかぬ結果を招きますよ。無茶とヤンチャを

通そうとするこの婿さんこそ可哀想な人ではないでしょうか?

  佛様のお考えから申しますと、「この世の中はすべて善人であります」 不幸にして悪に走る人は気の毒な人で

ある。 せめて大乗仏教を学んでいる私が、救済せねばならぬと発想の転換をなさってはいかがでしょうか。

  少々解決に時間が掛かるかも知れませんが、相手を責めるのではなく、私が救わせてもらうんだという大慈大

悲の観音様の心、大乗仏教をお残し下さった仏様の心になって、悪人と思われる婿に対する想いを考えてみませ

んか?

  こんな馬鹿なくじは引きたくありませんが、仏様は損なくじ、馬鹿なくじの引ける人こそ、幸せになると教えてお

られます。

  道を間違える悪事に走る婿に、我が娘可愛さの我流の考えを、悪人の婿こそ可哀想な子供だと母の愛情ぬく

もりを与える事が、時間がかかっても両者平和に暮らせる佛道であり、永遠に栄える幸福の道であります。

  遠地でありますが、大乗仏教をお伝えしている真生会の教えを今一歩踏み込んで実行して下さい。

 

  話は変わりますが、あなた様は視力が衰え御不自由と聞いておりますが、佛法を通じますと、「眼病の諸々は佛

に灯明を惜しんだ罪」で有ると因果経で教えられております。

  馬鹿な娘婿にあたたかい情けの目を掛けられる功徳によって、医者から見捨てられた眼病も、馬鹿な婿に暖か

い救済の手、施しの心を持たれた功徳によって、あなたの目は生活に困らなくなるでしょうとお答えしました。

 

 

奇跡が起き

 正しく仏法を学び、実行すれば奇跡が起こる。熱心なる会員さんにお尋ねしました。

 「あなた方親子は、熱心なご信者ですが、何が動機で会員になりましたか?」

  「先生のご指導通り、命がけで相手の喜ぶ事に徹しましたら、医者も驚く奇跡が起きたのです。主人は元気はあ

りますが、わがまま一杯、やりたい放題の生活の結果、突然病に倒れ緊急入院いたしました。

  医師の診断では『手遅れです。手の打ちようもなく全身に黄疸が広がっています。家族の皆様も、万が一のこと

が起きても、動揺せぬよう覚悟してください』と死の宣告をされました。」

  人間は非常時にぶち当たって初めて、善玉の心になるか悪玉の心がはびこるかで運命は定まります

  平素あんなに主人の横暴なる振る舞いに腹を立て、怒ってばかりの私にも佛心があったのか、咄嗟(ほんの 一

瞬、またたく間)に、こんなに苦しむ夫を救いたいという心が起きました。こんな非常時にこそ日頃信じご指導を

もらっている田中会長先生にご相談すべきと、溺れる者わらをもつかむ気持ちで息子と共に先生のもとに飛んで

行き、ご指導を受けました。

  先生は簡単に申されました。

「この病人はお金のことで身動きが出来ず、怒ってばかりおられるのが黄疸になら れたのです。その証拠に体中

真黄の金色になられたのです。治す方法は、あなた方親子の真心で、もう一度お父さんに元気になってもら いた

いと佛様、観音様のようにあたたかい心になってなって病人のお父さんに申し上げなさい。

 『お父さんの借金は私と息子がどれだけあっても必ず返しますから、安心 して下さい。』と宣言しなさい。お父さん

が心から必ず黄疸は全治します」と力強く私達親子の看護の心構えを教 えて下さいました。

 佛を信じ先生の言葉を信じ、過去の怒りも不満も捨てベットに横たっている夫に借金の事は いくらあっても心配し

なさるな私と息子と命がけで頑張って支払うから安心して下さいと心から申しました。

  余程嬉しかったのか、あのわがままな夫の目に嬉し涙が光りました。

 これを境にして夫の今日までの私生活も変り始め、怒らなくなりました。お陰様で病気も日々良くなり、医師も奇

跡的に良くなる病人を見て大変歓ばれ、 即刻退院出来ました。

  主人は大病を克服し、見違える程人間性も変わり、あの生死をさまよえる大病以来、十年程長生きをし、大安心

で他界いたしました。

  夫の借金なしで息子と協力し返済した功徳でしょうか、今は借金な しで毎日ご法の中に生かされ楽しく明るく息

子と共に菩薩行に精進しています。

 

 

積善の家に余慶あり

徳は、将来をうるおす。

 徳積めば、物は自由になるものを、徳も積まずに困る世の人

  こんな素晴らしい謹言を私は学び、歓喜雀躍、闇夜に灯火を得たるが如く、勇気が湧き、もやもやの心の曇りは

取り除かれ今日生かされている自分の幸せに歓喜でき、徳を積む事を目指して努力して来ました。

  三毒の業火を三徳の徳積みに切り替えた、真の幸せ真の極楽はこの世で出現するものと確信を深め、今日ま

で積善の努力をして参りました。

 三毒とは、怒り、愚痴、不足であります。

  三毒の生活が当然と考えている内は、働けど働けど家計は楽に成らず、病気がちの生活は続き、自分は不運

であり不幸であると決め込むのが凡夫の浅はかなる考えでありました。

  よく怒る人は無知な姿であって常に破壊的な考えなので平和を乱し、和が保てないので、貧乏から抜け出すこ

と が出来ません。

  よく愚痴をこぼす人も「徳のない」姿であります。済んだ事をいつまでも、グズグズこぼす人から嫌われ、自分も

明るいはありません。

  昔の格言に照らしますと「美人薄命」「美人は不幸な人が多い」と警告を発しています。何を意味しているかと言

いますと、美人になれば成るほど心を磨かなければなりません。

  挨拶は丁重であり常に笑顔があり、ぬくもりが有る人に人徳が出来、人から好かれる真の美人です。美人とは

対照に、不美人があるからこそ私を引き立てて下さるのだ、ブサイクな不美人があるからこそ私の応援者と感謝

する心こそ徳のある美人であります。

  人間も相手から注意をされる内は安全です。

  余程の徳人でない限り逆に「まさか」の坂に転げ落ちる時があります。佛様はあらゆる角度から、私達凡夫の

我 流の世渡りに警告を発して下さったのが佛法であります。

  正道に立ち帰らねば成りません。

  徳に基づいた国家政策であれば、世界の指導者として恥じることはありませんが、ただ地位や学歴、経験だけ

で国を動かし世界を動かそうと考えたら大きな間違いを犯すと思います。

  この国家非常時のとき、先頭に立って国民を指導される政治家も大企業のトップも教育者も、家庭にあっては

年寄りも親も若者も、徳とは何かをよくよく学び、徳を積む事が平和の第一歩と気付き考えられたら、日本の将来

は大安心であり、我が家の子孫は永遠に栄えること間違いありません。

 仕事を通じ人脈を通じて徳を積むのが、人生の幸せの近道であり真理であることに目覚め精進いたしましょう。

  徳積みの一番近道は、人様に正しい世湯渡りの道をお伝えする菩薩行が最大の道であり、相手も幸せに導き、

 自分も幸せを握る最高の道である、子孫の栄える財産でもあります。

 

 

感謝の心でつなぎ合わせて

 世の中に同じ人、同じ物は一つもない。

  同じように見えても微妙に違うものです。同じ木の葉っぱにしても、一枚一枚形も色も違い同じ葉っぱはありま

せん。山の緑も、秋の紅葉もまったく違う色や形、微妙に違う葉っぱがお互いの特徴を競い合い、引き立てあっ

て自然の美を作り 出している。

  まったく同じ色や形ばかりでは風情も感動もない。違いを認め合い受け入れた時、調和の美、団結の力が湧い

てくるのです。

  「聖徳太子は「和を以って尊きとなす」国も社会も家庭も「和の精神」が平和と発展の本であると言われた。「和」

とは違うもの同士が交じり合い溶け合った姿である。ではいったいどうしたら、違うもの同士が打ち解け合うことが

できるのでしょうか? 

  仏様の教えは簡単明瞭です。

  パッチワークという手芸の作品があります。色や形、絵柄の違うバギレを縫い合わせて一つの作品に仕上げま

す。 お釈迦さまや修行僧が身にまとう法衣を「糞掃衣」といい、不要になって捨てられた粗末な布を洗って縫い合

わせ、身にまとう衣を作るのです。

  どちらも不揃いの布を縫い合わせます。

  私達の人生はまさにパッチワークや糞掃衣と同じです。誰一人として完璧な人間、スーパマンはいないのです。

  頭はいいけれど健康ではない、お金はあるけれど家庭的に恵まれない、家庭は楽しいけれど仕事がうまくいか

ない、美人だけれど人気がない、健康だけれどお金に困っているなど、お互い足りないものの同士が支えあい寄

り添って生 きているのです。足りないもの、形の不揃いの布を縫い合わせる糸は「感謝の糸」で縫い合わせるの

です。

  不必要な人は誰もいません。みんなのお蔭で自分もあるのだという感謝の心でつなぎ合わせた時、すばらしい

社会や家庭が出来上がるのです。

  手を見てください。五本の指は長さも太さも大きさもみんな違います。 違うからこそ仕事が できるので す。みん

な同じ長さや大きさだったら、かえって不自由です。

  しかし、この指を折り 曲げてみてください。指の高さは皆同じと なって頭が揃います。オレがオレがいう我を捨

てて、自分が一番正しいという自己主張を少し控えてお互いが謙虚になり、心が低く下れば人間は皆平等、生命

の尊さに優劣はなので す。

  違いを「苦」にするから腹が立つのです。

  形や大きさが番う布はそのままでは縫い合わせられません。 互いに少しずつ折り 曲げて、感謝という糸で縫い

合わせれば、掛け替えのない人生、家庭、社会が出来上がるのです。

  これこそが、釈尊が説かれた真理なのです。

 癇癪(かんしゃく)の苦(く)の字をとれば感謝なり

 

 

人生は読み 書き 算盤

 喉もと過ぎれば、熱さ忘れる

  日本中の「住の安全」を震撼させた姉歯設計士の耐震偽装事件が記憶から遠ざかり始めた今日、今度は「食

の安全」が揺らぎ始めている。

  ミートホープ、赤福餅、御福餅、果ては日本料理の老舗である船場吉兆までもが消 費期限偽装、牛肉産地偽

装など、雨後の竹の子の如く次々と不正が発覚している。

  また、防衛省高官と企業の癒着問題は、「国の安全」を食い物にする接待天国、贈収賄事件に発展してきた。

  地位や学歴があっても、正しい世渡りの方法がわかっていないのです。昔から「人生は読み書き算盤」お客様

の心(良い物を安く)を読み、それを実行(書く)すれば、最後は算盤は合う(儲かる)、この道理が学歴も地位も

金も 権力もある社長や組織のトップが解っていないのです。最初に損得の算盤をはじき、自分さえ得すればい い、

バレ なければいいと慢心し、最後に勘定にあわない落とし穴にはまっているのです。

  「天網恢恢、疎にしてもらさず」天の網目は粗そうでも、善悪は必ず答えが出るのです。人間は思うようになら

な いうちや苦労があるうちは、まだ大丈夫です。トップになり、地位や財力も権力もすべてが思うようになった時が

一番危 険なのです。山の頂上に着いたら、後はどちらを向いても下り坂なのです。月も満月になったら必ず 欠け

始めます。

 八分の利口に二分の馬鹿。自ら謙虚に一歩控えることが長続きの秘訣です。それが真理なのです。

 人事ではありません。日本国民みんなの問題です。

 ただ酒は身を滅ぼす。接待される方もする方も、その費用は自分のお金ではありません。すべて会社のお金で

す。すべて社会のお金です。余程自覚をしていませんと、ただ酒を飲みすぎた末路は、役職を離れたり、退職した

後に結果が 出るのです。病気になったり、早死にしたり、家庭が崩壊したり、自分の徳の器以上の生活を貪った

後はどんでん返しの「まさかの人生」が待っています。

 聖徳太子の十七条の憲法に

 「人はなはだ悪しきもの少なし、よく教うれば従う。それ三宝(仏法僧)に帰せ ずんば、何をもって曲がれ

るを直さん」とあるように 、小さな時から正しい宗教にふれ、信仰心を深めことが急務なのです。

 言い訳のない人生を渡りましょう。失敗したら率直に謝り、やり直すことが大切です。傷も切り口がきれいなら治

りも早いが 、ゴテゴテに切った傷口はそこから腐ってくる。自由主義の大前提は、個人の権利と責任です。社長も

従業員もない。

 責任者は自分であると自覚する所から健全な社会が育つのです。

 

 

握手ができれば平和が訪れる 

相手を認め自ら一歩あゆみ寄る

 

 お釈迦様は、仏滅後2500年以降を末法といい、人々の闘争堅固が万年続くと予言されました。

  世界の情勢、社会の出来事を見ると、予言どおり人と人、民族と民族、国と国が互いの利害や主義主張のぶつ

かり合いによって、争いや戦争が絶えません。

  愚かな争いをなくし、円満な家庭、安心できる社会、平和な世界が 訪れるには、正しい真理の道、仏様の教え

を学び実践する以外にないのです。

 

 このお釈迦さまの残して下さった真理の法、尊い八万四千の教えを煎じ詰めた行いが「握手」なのです。

 相手をやっつけるために暴力や武力を持って戦い、戦争という危険を冒すことは、本当の勇気ではありません。

それは野蛮な勇気、蛮勇です。

 「平和のために危険を冒す」 これこそが真の勇気であり、主義主張、利害損得を超えて、自分の方から相手

の心に飛び込み、一歩あゆみ寄り握手をすれば、悪人は一人もいないのです。

 ダライ・ラマはある会見で、テロ組織アルカイダの黒幕であるオサマ・ビン・ラディンと会い、話し合いをすること

ができますか?と問われた時に「平和のためなら、機会があれば話合う」と応えられました。

 「争いは争いによって止まらず、恩のみこれを止む」 

 これが釈尊のお考えです。

  人間の顔が一人一人すべて違うように、考え方も育った環境も歴史も全部違うのですから、ぴったりと合う人な

どないのが普通です。

  まずお互いが違いを認め、相手の言葉に耳を傾け、相手の立場を理解すること。握手ができれば平和が訪れ

る。相手を認め自ら一歩あゆみ寄る勇気を出しましょう握手ができれば平和 の道がはじまるのです。真の平

和の第一歩が始まるのです。

 

  昨年末、薬害肝炎訴訟問題が談判決裂寸前で和解し、握手ができました。長い苦しい戦いの末、握手ができた

 ことは、何かホッとし大変嬉しいことでした。まだまだ解決した訳ではありません。全員救済の第一歩が緒に付い

たばかりです。しかし、いったん握手ができたのですから、これからは戦いではありません。被害者と国と製薬会

社との話し合いなのです。

  保障額が減っても自分だけではなくすべての被害者を平等に救いたいと 他を思いやる心、政府の決断、大い

なる歩み寄りにエールを送り一日も早い救済をお祈りしたい。

 

 

人生はドラマ、宗教は演出 

人の喜びに生きる人生!!

 人間は徳を積み、魂を磨くために生まれて来たのです

 生まれて来た時よりも、死んで行く時の方がましな人間になること。

 昨日よりも今日、今日よりは明日とより良い人間になること。

 そのために、仏さまは病気、貧乏、不和などの試練を与えて下さり、私たちを磨いて下さるのです。

 苦労が宝であり、人格向上の磨き砂なのです

 人生は人格向上のために仏様が与えて下さった回り舞台であり、壮大なドラマなのです。人間の価値は、地位

や財産や学歴や家柄によって決まるものではありません。自分のお役を精一杯に演じ、どれだけ多くの人に感動

と喜びを与えたかによって、その人の人生の価値が決まるのです。大根役者になるか、千両役者になるかは、一

人ひとりの心意気や演じ方(演出)で決まるのです。

 

 私は常々「死ぬまで生きるから、大丈夫」と会員信徒の皆様に言っています。死ぬまで生きる?当たり前のこと

です。しかし、この当たり前の生き方が本当にできている人が何人いるでしょうか?

 栄誉栄華の何不自由のない王子の生活をかなぐり捨てて、難行苦行を超越し、三十五歳で第一の涅槃 (心の

安楽、悟り)を開かれ、八十歳で第ニの涅槃(肉体的な安楽、死)に入られたお釈迦様も、高齢と共に足腰が痛み 、

最後は病に臥されました。

  しかし、お釈迦様は、足の裏の土踏まずが平らになるまでインド中を歩き続け、人々の心の安楽と幸せのため

に最後の最後まで教えを説き続けられました。自分に与えられた使命と能力を最後まで発揮し続 けることこそ「死

ぬまで生きる」ということなのです。

 若い時代はもちろんのこと、年をとってからでも自分の生活のためにだけ働き、余生安楽、悠々自適の小さな幸

せにあぐらをかいていては、尊い人間に生まれさせて頂いた神様仏様、大自然の恵みに対し申し訳がたちません。

生きるためだけに一生懸命働くだけなら、虫けらや野生の動物と同じです。

 植物人間となって意志の疎通ができず、医学の力で生命を保ち続け、家族や看病に疲れ、喜べない日々を送る

人もいます。また、不治の病に冒され、看病に疲れ、余生を自分の体の安静と安楽のみに生きる人もいます。

 反面、病床に臥し物は言えなくなっても、家族が誠心誠意看病にいそしみ、生かし活かされてきた心のぬくもり

が通い合い、無言の教訓を伝え続けそこに寝ているだけで輝きを放ち、感謝と感動に包まれている人もいます。

 病人だけではありません。定年を迎え、毎日を趣味や旅行という自分の楽しみを中心に生きる人、シルバー人

材として老後の生活の足しにと無理をしないように働き続け、老後の健康維持のためにジョギングやスポーツクラ

ブで汗を流すのは大いに結構ですが、その健康を家族はもちろんのこと、定年まで無事健康に暮らさせて頂いた

お陰を神仏やご先祖様にご恩返し、地域に対しても少しでもお役に立たせて頂いてこそ「死ぬまで生きる」ことなで

す。

 

 私も八十二歳の高齢となりやや体力も衰え、脳梗塞や心臓病などで入退院をしていますが、病気も痛みもすべ

て人様の痛み苦しみを分からせて頂くための仏さまからのご褒美と受け止め、少しでも良くなったら勇敢に退院し、

一人でも多くの人にお会いし力いっぱい教えを伝え、言葉が不自由になればゼスチャーででもご法をお伝えしよう

と日々前向きに生き抜いています。

 会員の信徒の皆さん、また縁あってこの本を読んで下さっている皆さん、どうぞこの尊い命を!掛け替えのない

人生を! 自分だけの幸せや安楽のためだけに使うのではなく、ローソクの火が最後の最後まで身を焦がしなが

らも周りの人々に明るさを与え続けているように、自分の生き様が子や孫、周囲の人々に希望と感動の光をお伝

えすることが、お釈迦様が最後に説かれた自灯明の教え、「自らを灯明として生きよ」の本当の意味なのです。

 世のため人のためにお役に立とうと思ったら、楽をしていては成れません。

 善いことは無理をしないで、無理をするこれが私の持論であります。

 無理をして長続きしないこともいけませんが、楽をしていては、人のお役に立てる徳積みはできません。お金も

時間も体力も、ちょっと無理をして人様のために使ってこそ生きてくるのです。

 

 

正見-正しく見る

 仏さまの智慧で見る

 仏さまの教えに八正道という教えがあります。これは私たちが正しい日常生活を送り、本当に良い人になり、仏

さまの境遇に近づくための第一段階の教えです。

 正見、正思、正語、正思行、正命、正精進、正念、正定の八つの正しい道のことです。

 私たちは、目、耳、鼻、舌、皮膚の5つの五官を通じて、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れるという働きによって周

囲の情報を得、物事を判断して行動することです。

 ここで一番大切なのは『見る』ことなのです。

 仏さまのも八つの正しい道の一番最初に『正見』といって正しく見ることを教えられておられます。

 教えの歌に

 世の中の悪しく見ゆゆるはなかなかに己が心の良しからざるなりとあります。

 ある人から見ると悪い人でも、別の人から見ると掛け替えのない大切な人もいます。だから人が悪く見えるとき

は、本当は自分の心が曇っているのです。

 開祖さまは「自分の周りに気に入らない人や悪人と思える人がたくさんいる人が悪人であり、あの人も良い人、

この人もすばらしいと思える人が大勢いる人が善人なのです」と教えてくださいました。

 要は相手や出来事の良し悪しではなく、自分がどう見、どう受け止めるかで悪にも善にも変わるのです。

 昔から「好きな人なら痘痕(あばた)も笑窪(えくぼ)」と言います。好きだと思えば欠点も美点に見えてくるのです。すぐ

に人の欠点が見える人は、自分自身の心が重くなり人生が暗くなります。反対に人の長所を見られる人は、心も

軽く毎日が明るく楽しくなるのです。

 仏さまの知恵で物事を見る力を『仏知見』と言います。

 お釈迦さまは、この仏知見に人々の心を開かしめ、示し、悟らせ、仏さまの智慧で物事を判断し、大衆を成仏へ

の人生を歩ませるためにこの世に出現されたと言われました。

 やはりここでも『仏さまの智慧と眼で見る』ことの大切さが教えられています。

 

すべての存在は平等

 大自然から見れば、世の中はすべてが平等で、大きな調和が保たれているのに、凡夫の欲の肉眼で世の中の

表面的な現象だけを眺めているから、大きいとか小さいとか、生ずるとか滅するとか、止まっているとか動いてい

ると か、進むとか退くとか、様々な差別や変化があるように見えるけれども、本当はすべて平等なのです。

 しかし、凡夫は勝手に自分の小さな価値観でこれは良いとかあれは悪いと判断し、損だ得だと一喜一憂して苦

労のサイクルから抜け出せないでいる人が多いのです。

 開祖さまは、「成ったことを喜べ、ありのままを喜びなさい」と堂々教えて下さいました。

 貧乏だ、お金がないと愚痴らずに、○○銀行も△△銀行にもお金がいっぱい預けてある、取りに行かないだけ

さ! と思えばよい。使わないお金が通帳に何百万あるよりも、いる時にいるだけ回ってくる天の貯金、徳の貯金

が最高であるといつも笑っておっしゃられました。

 常に良き法縁に触れ、毎日お経を読んでいるうちに、仏さまの智慧の眼ですべてが眺められるになるのです。

 そこまで行けば、毎日が極めて楽しい「極楽」となるのです。

 

 

人生の価値とは!

 仏さまの本当の願い

 宇宙の真理である仏さまが、人間の姿をもってお釈迦様としてこの世に出現された本当の理由の事を「仏の本

願」と言います。それは、すべての人を成仏させてあげたいと言うことです。

 そして仏に近づくためには、まず菩薩の道を歩む事を教えて下さったのです。

 その道筋を説かれているのが法華経なのです。ですから、法華経のことを「教菩薩法」菩薩を教え育てる法とい

い、たくさんの菩薩を作ることが、常寂光土すなわち平和で明るい家庭、社会、世界を実現する最も大切なことな

のです。

 私は「仏になろうとは思わないし、なれるはずもない。自分のささやかな願いが叶えばそれでいい」という人もあ

るかもしれませんが、それは「別願」と言って人それぞれの夢や目標なのです。百メートル競走で言うなら、五十メ

ート ルあたりの通過点に過ぎません。

 悉皆成仏(すべての人が仏になる)と言う百メートル先のゴールに向かって走る時に本当の人生の価値が実感

できるのです。「幸せになりたかったら、まず人さま。自分のことは後回し」この実践が菩薩業であり、成仏への道

なのです。

 

意識改革は家庭から

 仏さまは「すべての人に仏性あり」仏になれる種(仏性)が備わっていると教えられています。

 但し、その種に水や肥料を与え、陽の光に当てる手間暇を掛けてこそ、仏心が芽生えやがて花を咲かせ、成仏

(感謝と喜びの人生)の実を結ぶのです。

 それには、先ず家庭生活の中から意識改革をしていくことが不可欠です。

 一部の大企業を除いては、まだまだ厳しい経済状況の中、フリーターや派遣社員が急増し、ちよっとしたことで

すぐ仕事を変る若者が増えています。

 「自分探し」は結構ですが、似て非なる「自分のことしか考えない人」が増えているのでしょう。学校教育だけでは

なく、幼少からの家庭教育が重要なのです。

 

家事手伝いが大切

 慶応義塾大学の創設者である福沢諭吉翁は著書『子育ての書』の中で、子供といえども小さな時から、お風呂

掃除、 玄関の戸締り、買い物のお使い、料理の手伝い、お洗濯、部屋の掃除などその年令や分に応じて役割分

担をして、家で使うことの大切さを述べている。

 そして、家族といえども、年は小さくても勤労の意欲を育て「働かざる者食うべからず」ということを身につけさせ

な ければならないと教えている。

 少子化と家庭の電化、自動化などで子供たちは、家の中でやる事を失い、お据え膳のお客様状態ではないでし

ょうか?

 だから、会社でちょっと詰まらなかったり、きつかったりすると仕事を放棄したりすぐ逃げ出してしまうのです。

 しかし、口で用だけを言いつけても子供は率直には動きません。

 やって見せ 言って 聞かせ させて見せ 誉めてやらねば 人は動かじ  (山本五十六)

親の後姿を見て育つと言いますように「人間としこのように生きて行くものなんだな」と人生のお手本となるような

生 き方、はっきりわかるような生き方を見せるのが真の家庭教育でしょう。

 今、社会問題になっているモンスター・ペアレンツ(何でも学校のせいにして責任を転嫁し、非常識な苦情を平気

で言う理屈屋の親)では、百害あって一利なしの有害な見本です。

 

 幸せの近道

 『人には親切にしよう。弱い者いじめはしない。うそをつかない。神仏を拝むこと。 世の中には自分は見えない、

人間の力を超えた大きな力によって生かされている』ことを教え込んでいく。

 人の事で辛抱することがあっても、自分のわがままや言動で人を辛抱させるような事があってはならない。

 『まず人さま』と我を忘れて誠心誠意を尽くしている姿こそが菩薩であり、仏様なのです。そして何よりも幸せの

近道 である事を幼な心から植えつけるように育てることが本当の家庭教育であり、人間教育なのです。

 自他ともに仏性に気付き、仏性が開いて来れば、後は仏さまが動いてくださるのです。嬉しいことも悲しいことも、

この世の中のすべては自分を輝かせ、仏性を開かせるご縁なのです

 

 

おかげさま、ありがとう!

 

口ぐせが現実を作り出す

 言霊と言って言葉には不思議な力があります。常に明るく前向きな言葉を使っている人は、知らず知らずのうち

に自分の人生が明るくなり、うれしい事が身の回りに起こり始めます。

 反対に、いつも批判や愚痴の多い人は、次々と喜べないことが重なり、不幸の連鎖が始まり、苦労の絶え間が

ないのです。

 仏さまの教えは簡単明瞭です。

 明るい人には明るい人生、暗い人生には暗い人生、厳しい人には厳しい人生、優しい人には優しい人生が訪れ

るのです。

 そして、世の中は山彦と同じで、言ったことが何倍にもなって戻ってくるのです。

 ホラでもいいから景気のいい事を言っていた方が幸せになれるのです。

 テレビの政治報道番組やニュースを見ていると批判と悪口、悲観的な話ばかりで気が重くなります。これでは、

日本はいつまでたっても景気はよくならないし、安心のできる国にはならないと思います。

 

見方を変えれば、いいとこばかり

 私は布教の岐路、駅からタクシーに乗ると必ず運転手さんに「景気はどうですか?」と尋ねます。すると、どの運

転手も「さっぱりですわ、駅前も商店街も飲み屋もちらっと人がいませんわ!」と明るい話はほとんど返ってきませ

ん。

 また、駅前の再開発整備工事が進められていますが、一度に予算が組めないせいか二年も三年もかかってまだ

完成しません。

 ついつい私も「駅前も中々完成しませんね!」と話しかけると「お客さん、本当ですよ。このくらいの工事いつまで

かかるんですかねえ? 東京や大阪から来たお客さんに恥ずかしいですわ。笑われますよ・・・・」

 これを聞いて私ははっと気付きました。これではいけない。タクシーの運転手も私も悪い所ばかり見て、生まれ育

っ た郷里に対する感謝や喜びが欠けている。市民が愚痴や不足を言っているようでは市は良くならない。良い所

を見つけて明るい事を言おうと切り替えました。

 「工事もだいぶ進みましたね。きれいになりましたね!」未完成の方を見て不足を言うのではなく、出来上がった

方を見て、明るく考えることにしたのです。

 すると運転手からも「そうですね。」もう少しですね」と前向きな言葉が返ってきます。自宅までの十数分間が明る

く楽しい時間に変ったのです。

 相手ではありません。先ず自分が明るく楽しい言葉を発することです。そうすれば明るい言葉が返ってきます。

 

愚痴のない人は好かれる

 数年ぶりにある地方に布教に出かけました。地元の熱心な会員さんが集まられ、楽しい法話のひと時でした。

 久しぶりにお会いする法座先の奥さんに「お変わりなく、お元気そうですね」と声を掛けますと、「先生、おかげさ

までもう八十六歳になりました。股関節には金属が入っていますが、お陰で痛みも無く、毎日を楽しんでやってい

ます。

幼い時から貧乏で育ったお陰で、小さな時から肉や魚などほとんど食べず、野菜や小魚など今で言うダイエット食

品や健康食品のようなもので育ったおかげで兄弟姉妹全員が芯が丈夫でみな八十代、九十代と長寿なのです。

 それにここは楽園です。花園です。三階の屋上を見て下さい。家庭菜園では胡瓜や茄子が小さな実を一杯付け、

ミニ花壇にはきれいな花が咲きほこり、花が過ぎたら緑がまたきれい、空を行きかうヘリコプターにもどうぞご無事

にと手を振っています。毎日が楽しいのです。その上、この春から外孫が、高校へ通うために私の家の下宿に入

って来たのです。毎日のお弁当作りも、洗濯物もちょうどいいリハビリと喜んでいます・・・・」このおばあさんには愚

痴が無いのです。

 愚痴のない人は人気があり、七十歳以上も年の違う孫でも喜んで同居してくるのです。

 

感謝で受けて笑顔で合掌

 人間の努力は小さな力です。最後は仏さま(宇宙の真理)が動かして下さるのです。

 何があっても、『おかげさま』(目に見えない=陰の神さま仏さまのお計らい)と感謝で受けて『ありがとう』と笑顔

で合掌できたら、幸せは必ずやってきます。

 

 年の数だけ「おかげさま、ありがとう」

 毎日自分の年の数だけ、「おかげさま、ありがとう」と言いましょう。

 世の中は、頭で考えた願い通りにはなりませんが、言った通り、常に心で感じ思っている通りになるのです。

 いつも「お陰さま!有り難い」と言っていると、仏さまが動いて下さって(普通では有り難い=有り得ない様な思

いもよらない嬉しいこと、楽しいこと)が起こり始めるのです。

 だから本当に仏さまに動いていただこうと思ったら、毎日必ず御本尊さまの前で感謝のお経を上げましょう。

声を出してお参りをするのです。

 自分で唱えたお経の言葉が、耳を通じて心に刻まれ、自分の心の中の仏性が輝き始め、仏さまのようにすべ

ての良い所を観る力が備わり、慈悲の心、動じない心、許す心、誉める心で何事にも接することができるようにな

るのです。そうすれば、毎日が極楽に変ります。

 

 

幸福の法則、目的と方法

 

 目的が正しく、方法が正しいこと

 日本がどこかヘンになってしまった。日本人の良識はどこに消えたのか?

 度重なる食品偽装やブランド偽装、○○偽装、濡れ手に泡のうまい話に翻弄される投資詐欺事件が後を立た

ない。世間の記憶が薄らいだ頃、この手の事件は再発し、なくなることはない。

 どこに原因があるのでしょうか。仏さまの真理から見れば、一目瞭然です。

 それは欲です。小欲知足を忘れ、自分だけが少しでも得をしたい、楽をして儲けたい、「リッチ」イコール幸せと

言う、飽くことなき「貪欲」の結果なのです。

 騙す方は、商売を通じて「お客様に喜んでもらう」と言う目的が、どこかで「まず金儲け」と言う目的に変ってしま

い、儲けるためには手段を選ばずと方法までも狂ってしまったのです。

 騙される方も、人生の目的は金持ちや偉い人になることではなく、「いい人になること、世の中に役立つ人にな

ること」そのための方法は、「人の喜んでもらえる事をすること」を忘れてしまっているのです。働くことの目的が、

物質的富を得ることのみに片寄ってしまったのです。

 そして今、日本人のブランド志向は異常です。ヴィトンやグッチ、エルメス、シォネル等の高級衣料や装飾品に

始まり、学歴も、日常品の水や野菜までもがブランド化され、もてはやされています。

 マスコミの報道やあおり方にも問題があります。

 その反面で地球上には十分な食べ物やきれいな水も無いため、約八億五千万人が飢餓と栄養不足に苦しみ、

毎日二万五千人もの人が餓死している。五歳以下の幼児にいたっては五秒に一人の割合で餓死しているので

す。

 六十余年前太平洋戦争の敗戦後、驚異的なスピードで世界有数の金持ち国になった成金根性、おごり慢心が、

日本人の心を蝕んでいるのです。

 

 金持ちより、お大尽になれ!

 お金持ちとお大尽はどこが違うか? 儲けたお金を自分の楽しみや贅沢のためにだけに使う人は「ただの金

持ちであり、成金」です。

 一人前の社会人になっても、家に生活費も入れず、自分にご褒美とばかりに海外旅行やブランド商品を買い

捲る若者は単なる一時金の金持ちに過ぎません。蓄えた財、稼いだ収入を親は家族はもちろん大いに人のた

め社会のために使って尽くすのが「お大尽」であり、人からも尊敬と信頼を受け、必要な人生が送れます。

 お金を持っているだけなら、その辺のクズ鉄を握っていても金持ちだ。お金は生かして使ってこそ価値があり

ます。

 「飢饉普請」という言葉があります。

 昔のお大尽は、地震や台風、洪水や農作物の飢饉があると家を建て替えたり、増築したり、土塀を修理した

り、立派な庭を作ったのだそうです。それは自分の贅沢のためではなく、農民や避難民に仕事を与え、その代

価として食べ物やお金を差し上げて、村民や民衆を救済したのだそうです。可哀想だからお恵みとして、お金

や物 をあげるのではなく、仕事として提供し、受け取る方の人格を尊び、誇りと感謝を持って働いてもらったの

です。

 

金儲けではなく、働くことが大切

 中学三年間、不登校で学校へ行けず、この春卒業して、就職したがうまく馴染めず落ち込んでいる少女の相

談を受けました。彼女は自信を無くし、親や家族に迷惑や心配ばかり掛け、働いていないので自分はダメな人

間だと落ち込んでいました。

 以前この家に伺った時は、掃除や片付けの出来ていない家でしたが、今回伺ったら、見違えるほどきれいに

なっていました。聞くとこの少女が一人でやったのだそうです。

 私はこの少女に言いました「心配しなくても大丈夫。あなたはお金儲けをしていないだけで、働いています。き

っと良くなれます。働くというのは、人の為に動いて、傍(自分の周囲の人)を楽にすることが『働く』という本当の

意味ですよ」

 地位や学歴があっても、金儲けのためなら何でもありの「傍迷惑」な人も一杯います。船場吉兆の食べ残し使い

回し事件などは「もったいない」のではなく「儲からない」からやったまさに自己中心の傍迷惑な事件です。

 

仏壇、神棚は幸福への心の扉

 聖徳太子は「教え無き者禽獣に等しい」と断言されました。連鎖する無差別殺人事件や後を絶たない偽装事件

、振り込詐欺、自殺、談合、汚職等、日本社会の異常は、日本の家庭から、仏壇や神棚が消え、信仰心が薄らぎ

、目に見えない神仏(大自然の力)を信じなくなったからだと言えます。

 仏壇や神棚は、神仏(人知を超える大宇宙の力)に心の波長を合わせメッセージを受け取るテレビの画面です。

 朝夕の読経はテレビのスイッチをONにする作業です。

 法話は、届いたメッセージ、目の前に起こった現象を正しく受け止め理解する智慧を磨く学びです。

 先ず家庭に神さま仏さまを祀り、毎日必ずお経を上げること。

 そして週に一度か月に一度は法話を学ぶことです。この繰り返しが、日本人の心と良識を取り戻し、家庭と社会

を健全にする唯一の方法です。

 もし都合で神さま仏さまが祀ってない方は、寺院や教会に足を運び、神仏にお祈りをし、宇宙自然の恵みに感謝

の心を通わせ、教えを学びすべてを良きに悟る智慧を身につけることです。

 近くに法話を学べる所が無かったら、電話相談の通信教育でも結構です。

 先ず自分からわが家から、早速始めましょう。

 

 

人間の根本は、皆仏性

 すべての人の心は磨けば光る仏性なり

 参拝にこられたあるご婦人が、「先生、私たちの心はもともと醜い汚いものだから、一生懸命精進させて戴く喜び

の反面、やればやるほどに自分の心の汚さに気付かされます。だからどこまでも幸せになろうと高望みせず、普通

並のそこそこの幸せでいいと思うのですが?」と消極的なお話でした。

 私は申し上げました。

 「奥さん、そうではないですよ!お釈迦様は『悉有仏性、すべての人の心の根本は仏性である」と説かれました。

 どんな人の心も、根本はダイヤモンドのような光輝く宝石と同じなのです。

ただ、我欲や煩悩、愚痴不足という岩石や泥に包まれたダイヤモンドの鉱石なのです。だから磨かなければ光って

こないのです。もともとのダイヤモンドの輝きを表に出すために修行精進するのです。

 

 中国唐の時代、馬祖道一という高僧がまだ修行中の頃、懐譲という師匠が、

「お前は感心に座禅をしているが、その目的は何か?」と尋ねました。馬祖が、「仏になるためです」と答えると、

懐 譲は庭に落ちていたひとかけらの瓦を拾い上げ、石にこすり始めた。それを見て不思議に思った馬祖が、「どう

するんですか?」と尋ねると、懐譲は、「磨いて鏡にするのさ」と答えました。そこで馬祖が、「瓦を磨いて、どうして

鏡にすることができましょうか。無理なことです!」

 と言うと、懐譲が言うには、「それならば、座禅をしてどうして仏になることができるのか?」まさに禅問答です。

 つまりは、皆元々仏様と同じ魂を持っているからこそ、修行し磨くほどにダイヤモンドのように光輝いてくるのです。

 自分はダメな人間だ、価値の無い人間だ、鉛か泥のようなものだと思いながら努力していても、決して輝き出しま

せん。

 私も良い所があるんだ、いい人間なんだと信じること、ありのままの自分を率直に受け入れることが大切なのです。

 人生は、蓋なしの底なしの桶のようなものです。幸せにも不幸にも、もうこれで終わりというゴールは無いのです。

 

ある時、お釈迦様のお弟子で目の不自由な阿那律尊者が、「誰か私のために針に糸を通して、功徳を積んでくれる

人はいませんか」と大きな声で手助けを求めますと、「では、私が功徳を積ませて頂きましょう」と声がしました。

 阿那律は仰天しました。それはお釈迦様の声だったからです。恐縮した阿那律は、「世尊よ、お許し下さい。私は

世尊に言ったのではなく、どなたか別の僧が居られると思って言ったのです」 「どうして私ではいけないのですか」

「お釈迦様は悟りを開かれ、完璧な徳をお持ちの方ですから、これ以上徳を積まれる必要なないのではないですか

?」 「阿那律よ、私だってもっともっと功徳を積んで、皆と同じく幸福の道を求めているのだよ」仰せられました。

 これこそ私たち仏の教えを信じている者の心構えです。

 やればやっただけ、どこまでも幸せになれるのです。

 「先生ありがとうございます。私の今日までの思いが間違っていました。人間の心は汚い醜いものだと思っていま

したので、どこかで諦めのようなものがありましたが、<根本は皆仏性なのだ>という事がよく分かりました。なん

だか胸につかえていた物がスカッとしました。勇気が湧いてきました。がんばります!」と大変明るくお帰りになりま

した。

 

薫習、真似し続ければ本物になる

 私たちが朝晩お経を上げるのは、せっかく生まれながらに頂いている仏性についた汚れや泥を取り除く、地道な

がら大切な仏行なのです。

 明るく大きな声でお経を上げることは、自分の声を通じてお釈迦様の説法を聞き、心に教えを刻み込むことにな

るのです。

 それを毎日繰り返していると、薫習といって、毎日服や着物にお香を焚いていると、その匂いがすっかり染みつい

て、どこへ行ってもお香の良い香りが漂うのと同じように、毎日お経を上げていると、知らず知らずのうちに、仏さま

と同様の考え方や行動が取れるようになるのです。

 

いずれにせよ私たちは生まれながらにして尊い仏性を持っているのですから、人と比較したり、自分を低く見たり

せずに、ありのままに自分を認め、受け入れて、自分の一番いい所を発揮していけば、必ず希望と勇気が湧いて

くるのです。

 

 

すべては自分の心が作り出す

 星野ジャパンはなぜ負けたのか!

 北京オリンピックも成功裏に閉幕した。

 輝かしい祭典の中にも、悲喜こもごも、勝負の世界なので勝ち負けは当然であるが、様々な教訓があった。

 大きな期待を一身に背負った日本選手団。みんなが精一杯頑張ったが、その結果は明暗を分けた。

 特に野球の「星野ジャバ゜ンの無冠」は大方の予想を裏切る結果となった。

 なぜ「最高選手」を揃えたはずの星野ジャパンが、金メダルはおろか銅メダルすら取れなかったのか教えを通して考

えて見たい。

 言葉は人生を表す。その人の吐く言葉は、その人の将来を現すのです。

 荒い言葉の人には荒い人生が、厳しい言葉で人を叱り続ける人には厳しい人生が待ち受けているのです。反対にい

つでもどこでも誰にでも、明るく楽しい言葉や前向きの言葉を使っている人の人生は希望と勇気に満ち溢れてくるので

す。これが言葉の言葉の持つ威力、言霊なのです。

 星野ジャパンもこの真理のむ通りになったのです。

 最大の原因は「金しかいらない」と公言していた星野監督の言葉に象徴されている。言った通りになったのです。

 決勝トーナメントに残った四強チームは実力伯仲で、みんなが金メダル獲得を目指していたのですから、取れるかど

うかは思い(念)のに強さだったのかもしれません。星野監督も帰国会見で認めています。金は一つしかないので取れ

なかったことは仕方ありません。

 問題はなぜ銅メダルすら取れずに、惨憺(さんたん)たる結果になったかのです。金が取れなかったので、銅を狙ったの

ですが時既に遅し、「金しかいらない」ということは、それ以外のメダルは最初から放棄していたのですから、急に方針

転換しても間に合わないのは当然です。

 

 すべては自分の心が作り出す

 私たちの目の前に起きる現象は、誰のせいでもありません。知らず知らずのうちに私たち自身が心に描き、言葉に

発して通りになっているだけのことなのです。

 そして、それは決して無駄なことではなく、私たちの次なる成長につながるための仏さまからのメッセージなのです。

 結果が良いとか悪いとか、損だとか得だとか言っているのは、私たち人間が自分の都合と価値観で判断しているだ

けで、仏さまの眼から見ればすべて必要なことであり、根本はすべて守られているのです。

 そのことについて気付かせていただく智慧が「仏智」なのです。

 

 本と末は等しい

 ある初老のご婦人の深刻なご相談です。「先生、私は三年ほど前、交通事故に合い、腰や手足を骨折し大手術をし、

九死に一生を得て約一年間入院生活が続きました。主人や家族が毎日看病に来てくれました。その甲斐あって無事

退院することが出来ました。

 しかし、まだ足が不自由で松葉杖の生活で何をするにも思うようには行きません。その上、一年前から事故の後遺

症なのか、毎日のようにおしっこが漏れて大変不愉快な悲しい思いをしています。

 医者に診てもらったら、手術をするしか方法はないが、よくなる可能性は50%と言われました。どうしたらいいのでし

ょうか? また何をサンゲしたらよいのでしょうか」と大変お困りの様子です。

 私はこう申しあげました。

 「それは大変お辛いことですねぇ! 手術をしてもしなくても、自分の決心次第ですが、教えから言うと『本と末とは等

しい』と教えられます。下の口が緩んで漏れてしまって困るということは、きっと上の口で愚痴がこぼれているということ

です。『喉もと過ぎれば熱さ忘れる』の諺のように大けがからやっと退院できた喜びや主人や家族のお陰に対する感

謝が薄れ、してもらえるのが当たり前になって、不平不満の毎日になっていませんかそれに心から気がついて、愚痴が

こぼれなくなれば、きっとよくなりますよ」

 「先生、その通りです。退院してきた頃は何でもなかったのですが、月日がたって主人や家族に対して愚痴不足が多

くなった頃から、おしっこ漏れが始まりました。これからは心を切り替えて感謝の言葉を言うように心掛けます。

 なんだか希望が湧いてきました。きっと治れるような気がします」と憂鬱な顔から、明るい絵顔に変られました。

 悟れば極楽、迷えば地獄。

 すべては自分の心の現われと悟れれば、希望と勇気が湧きあがり、何を実行すればよいのか、自信を持った人生が

歩めるのです。

 

 

出会いのご縁を大切にする

 仏さまの教えはご縁の教え

 ふれ合うご縁を大切にしよう。

 

 出会いは無限

 出会いからすべてが始まる

 勇気を持って心を開こう

 家の中から外へ出よう

 そして

 自分の小さな世界から一歩踏み出そう。

 出会いはいろいろ

 

 過ぎ去った過去は変らない

 悲しい過去

 つらい過去

 許せない過去を引きずっていたら

 今日が暗くなり、未来が見えてこない

 出会いが、出哀になる。

 

 無駄な過去はない

 どんな過去でも、あったから

 今日の自分がある

 過去を率直に受け入れ、感謝が出来れば

 出合いが、出愛になる。

 

 頑張りすぎていませんか?

 好きなことなら頑張っても疲れない

 嫌いな事を無理して頑張るから

 心が疲れて体に疲れが残る。

 

 幸せはじっと待っていてもやって来ない

 動き出せば出会うもの

 人との出合いの中にあるのです

 幸せは人に求めてはいけません。

 幸せは追いかければ逃げていく。

 

 人のために尽くしてあげる

 よいことを、真心こめて、繰り返す

 そんな毎日を繰り返しているうちに

 気がついたら、幸せは影のように

 あなたにそっと寄り添っているのです。

 

 幸せは、あなたの心の中に感じるもの

 幸せは物や形ではありません

 幸せは感じるものです。

 

 ありがとう おかげさま

 といえるあなたは

 もう幸せの真っ只中

 ちよっと勇気を出せば言えること

 幸せはどこか遠い所からやってくるのではありません。

 あなたの小さな勇気の中に芽生えます。

 

 あなたの歩んできた人生の受け止め方の中にあるのです。

 あなた自身の心の持ち方の中にあるのです。

 

 幸せは西にあらず、東にも 来た(北)道さがせ

 みな身(南)にぞある。

 

 人は何のために生きるのでしょう

 だれかを幸せにしてあげられるから

 どんな非力な自分でも

 きっと誰かのお役に立てる

 人のために生きる

 それが人生最高の幸せです。

 

 己が身を思うが如く

 いつわらぬ

 誠をつくせ、ことのよろずに

 

 箱の中のみかんは一つ腐ると

 他のみかんも次々に腐ります

 幸せも不幸もまわりに移ります。

 

 自分が幸せと感じている人は

 人を幸せに導くことが出来ます。

 自分は不幸と感じている人は

 人も暗くしてしまいます。

 

 愚痴や不満は不幸の連鎖を生み出す

 喜びは喜びを生み出し

 今日が輝き、明日が光り始めます。

 

 自分が幸せになれば

 家族や友人、周囲の人に伝わります。

 あなたは幸せになる使命があるのです。

 

 良き友と出合いましょう

 良き友を得ることが人生のすべて

 

 悩みを心の中にため込むと

 耐えられなくなって

 いつか心が破裂する

 弱い自分、つらい自分、悩む自分 汚い自分

 すべてを見せよう。

 

 それでも離れない人、それが本当の友

 心の通じ合う不断の友

 きっといる、あなたの真の友が

 あなたが心を開けば、きっといる。

 

 

狭い正義は身を滅ぼす

 ある中年男性のご相談です。

 「会長先生、二つの質問がございます。一つは自分の職場のことです。

 私の会社のオーナーは、時々思い付きのように配置転換をしたり、組織を変えたりしますが、またすぐ元に戻した

りで、社員はその度に右往左往したり、   大変混乱します。特に古参の私は、そのたびに若い人のやりたがらない

部 署に回されます。

 私の会社は、業務の性格上、お客様の都合で年中無休、土曜日も誰かが当直出勤しなければなりません。

 先日も急に、今まで交代制の土曜日曜出勤を固定制にするとの発表があり、私にその役が申し付けられました。

 数年前も同じ事があり、私に当直が当たりました。その時も先生にご相談して、率直に受けさせてもらいましたが、

今回もまた私を名指しのご指名です。

 働きの悪い若い社員がもっといるのに何で私ばかり・・・・と思うといい気分はしません。

 そして、嫌なら辞めてもらってもいいと言わんばかりの対応です。

 社長曰く、君は子供も大きくなっているし、学校や家の用もそんなに無いだろうから・・・・と勝手に決め付けてこち

らの都合はまったく聞いてもらえません。

 とうにも納得いきませんが、どのように考えたらいいのでしょうか?」

 「人間の本当の使命は、いつでも、どこでも、誰のためにでも、人さまや世の中のお役に立ついい人間になること、

どんな時にでも先ず人様の喜んでもらえる人間になること(人格完成=成仏)が目的です。

 心一つの置き所、楽も苦となり苦も楽となると教えられます。

 私が真面目で何も文句を言わないから、馬鹿にしてつまらない役ばかりをあてがっていると思えば腹が立って『苦』

になりますが、私には頼みやすいんだ、真面目だからこそ、休みの日に一人宿直を任せても安心なんだと受け止め

れば、勇気も湧きますよ!社長さんの言うように若い人に休みを譲って喜んでくれれば徳が積める。自動車でも『お

先にどうぞ』と書いてある車に事故は起こりにくいものです。

 もし都合の悪い時などには、誰かに頼めばきっと変ってもらえるからと前向きに考えていればまた変ってきます。

 人の目にはいろいろと欲や自分の都合がありますが、仏さまの目から見られて善くやっていると認められれば、

運命はよくなります。」

 「ありがとうございます。教えを聞いていてわかってはいるつもりでしたが、会長先生のご指導を頂いて割り切れま

した。頑張ります。」

 

 もう一つは、私の叔父のことです。入院闘病中ですが、意識もはっきりせず余命いくばくもない状態です。お見舞

いに行って一心行で拝ませていただこうと思いますが、なぜあの真面目な叔父が、六十代の若さで命が尽きるの

だろうと思うと可哀想です。

 本家のご長男は若い時から放蕩三昧で財産家であった一家も衰退し、叔父たち他の兄弟は大変苦労したそうで

す。その長兄はずいぶん前に亡くなりましたが、だれも葬式に行かなかったそうです。特にこの叔父は今でも長兄

を恨み、悪く思っています。他の兄弟も長兄をいいふうに思わなかったためか、子供はすべて女の子ばかりで跡取

りの男の子はありません。これはどう考えたらいのでしょうか?」

 「昔から正直者が馬鹿を見るという諺があります。これは、自分が正直なのは大いに結構なのですが、人の不真

面目が許せないでよく怒る狭い了見の正直な人は善い結果が出ないということです。

 仏教に「六道輪廻」と言う世界があります。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六つの世界です。人間の心は

この六つの世界をコロコロと移り変わり、都合の悪い時は地獄の境涯に落ち込み、調子のいい時は有頂天の天上

界になる。しかし、それも束の間また地獄に落ちる・・・・これを繰り返しているのです。

 その中の修羅とは「阿修羅」のことなのです。阿修羅はもと正義の神さまです。その正義の神さまがなぜ人間界

より下にあるかと言いますと、ある時、力の神である帝釈天に自分の可愛い娘が連れ去られてしまったのです。い

わゆる略奪婚です。

 もともと阿修羅は、力の神である帝釈天にわが娘を嫁がせたいと思っていたのですが、親に許可も無く、強引に

連れて行って妻にしてしまったことが許せません。何とか娘を衝け戻そうと何度も戦いを挑みますが、力の神には

勝てません。ますます阿修羅は怒りの権化となって執拗に戦い続けるのです。

 しかし、娘はもともと乳からも、帝釈天に嫁がせたいと聞いており、自分も帝釈天好意を寄せていたので、方法は

乱暴でしたが、娘は子供も授かり幸せに暮らしていたのです。しかし、阿修羅はもう娘のことよりも自分のプライド、

自分が受けた屈辱、その悔しさが許せなくなっていたのです。

 現在で言うならば、大切な娘が親に黙って同棲を始め、果ては「できちゃった結婚」相手の男性のことが何時まで

も許せず、娘の気持ちや孫の幸せよりも、親の意地とプライドが優先し執着になってしまったのです。

 間違ったことを正す正義はいいのですが、狭い心の正義、自分の気が済まないから許せないと言う正義は身を

滅ぼすのです。周囲の人は、認め許したことを一人何時までもこだわり続ければ、かえって周囲のみんなに迷惑を

かける結果になるのです。

 「罪を怨んで人を憎まず」です。

 阿修羅は、その激しい怒りと執拗なまでの恨みによって、神様の世界を追放され、人間界より下の世界になって

しまったのです。あなたの叔父さんも、ご苦労をされ長兄をよく思えなかったことは己無終えませんが、亡くなってし

まってからでも、いつまでもいつまでも悪念を引きずり、正義の心から始まったことが自分が許せないという怒り怨

念に変ってしまったのです。

 「悪念と悪言は他を傷つけず、己のみ傷つく」というのが自然の法です。

 義憤が私憤になり最後は、ともかく許せないと怒りを爆発させる「馬憤」になってしまえば、最初は同調していた

周りの人までもが、辟易(へきえき)し離れていき、ひとり孤独になってしまうのです。

 

 

本当の豊かさ、幸せとは何か!!

 古来「五福自来」と言って次の五つの要素が整った時が本当の幸せと言われています。

 ①富裕 ②健康 ③尊敬 ④円満 ⑤長寿

 この五つの要素が、ほどよくバランスが取れてこそ、安心の出来る真の幸せが保てるのです。

 しかし、今日本人の幸せの価値観が、どこかで大きく狂ってきています。

 富裕だけが幸せのバロメーターとなり、お金や物だけが異常に突出した片寄った幸せを追い求めているのです。

 一攫千金を夢見、起業家として巨万の富をつかみ、時代の寵児となり、一世を風靡した若き経営者が、一転奈

落の底に落ちていく現実が、この異常な価値観に警鐘を鳴らしているのです。

 大金持ちになって、豪邸に住み、高級車を乗り回し、贅沢の粋を極み、自分の楽しみだけに明け暮れた結果が、

IT企業のA氏、音楽プロデューサーB氏の姿です。金の切れ目が縁の切れ目、あれだけ持て囃された彼らの周り

からはほとんどの人が、あっという間に去っていきました。

 「急上昇は、急降下の恐れあり」まさに大自然の真理のとおりです。

 心と心、信頼と尊敬の絆ではなく、お金中心の欲と欲のつながりであったのでしょう。実に虚しいものです。

 しかし、彼らがいつか仏縁に出会い、正しい人生の価値館に目覚め、その才能や実力が真に人生のために生

かされる時が来る事を願います。

 なぜ才能も実力もある人が、大きく道を誤ったのでしょう。

 一言で言うと人生の師匠がなかったのでしょう。

 そして、幼い頃からの家庭的な寂しさが根底にあるのでしょう。つまり円満な家庭、信頼と尊敬によって結ばれた

家族関係が希薄だったのでしょう。

 だから若くして、富と地位と権力を握り頂点に上り詰めた時、オラ(俺)が天下で誰の意見も聞けなくなり、お金の

力に頼り暴走してしまったのでしょう!

 人間は社会生活を営む生き物ですから、家族や会社、誰かのお役に立っていると実感した時、お金や物に換え

られぬ生き甲斐を感じるのです。

 換金できない無償の愛、慈悲の心こそが、他の生き物にはない人としての尊い価値なのです。

 聖徳太子は「教えなき者は禽獣に等しい」と言われました。

 禽獣とは何か?自分のお腹が満腹になることが生活の中心です。要は、自分のことだけしか考えないのが禽獣

なのです。

 自分は人に迷惑を掛けていないから、人の事も関係ないという人がいます。

 果たしてそうでしょうか?

 誰一人として他者の世話にならずに生きていける人はありません。住む所にしても、生きている限り誰かとの関

係性の中で生かされているのです。

 これを仏教では「諸法無我」と言って、すべてのものは網の目のようにつながっているのです。

 仏教では「布施」を第一に勧めますが、布施はして頂く方がお礼を言うのではなく、させてもらう方が、徳を積ませ

てもらうことにお礼を言うのです。布施は上からのお恵みではないのです。捧げて、もらっていただくのです。その

奥ゆかしさ、謙虚さが尊いのです。

 皆さんはどうお考えになりますか!

 お金の価値は儲けた額、貯まった額ではなく、その使い道と使い方によって決まるのです。身近な所で言えば、

社会人になったら、育ててもらった感謝の心を込めて、親に生活費の三万円や五万円くらい捧げてこそ本当の一

人前ではないでしょうか!

 そういう社会慣習が失われつつあるところに家庭の絆が薄れ、若者の無力感、老介護の悲劇が起こるのではな

いでしょうか!

 心の難民は、物の豊かになった日本の中に存在しているのです。権利の主張だけでなく、義務の遂行「させてい

ただける幸せ」に感謝できる人生送りたいものです。

 

 

リストラを乗り超える!

 百年に一度の大不況を乗り超える方法は何か?

 派遣社員、期間従業員、正規社員までもが次々とリストラになっています。明日は我が身をいかにして乗り越え

るか?

家族の心構え

 働き手の主人を家庭の中で「社長扱い」して尊び大切にすること。家庭においても平社員扱いの夫はいの一番に

リストラの対象となります。

 

本人の心構え

 家庭で威張っているだけの社長ではダメです。会社の愚痴不満をこぼさず、泰然自若として尚かつ家族に思いや

りのある尊敬される主人であることが第一です。そして、正規であろうが、派遣であろうが、期間であろうが、言われ

たことだけを黙々とこなすだけの給料どおりの真面目社員では生き残れません。

 人材派遣?材料としての人は、差し替え、切り捨ても簡単です。給料以上に喜んで働き、目に見えない徳の貯金

が出来る働きをする「人物」になることが重要です。「人物」には、掛け替えがありません。

 それでも、もし万が一にもリストラされたらどうするか。大丈夫!

 「鳥は木に住み、魚は水に住み、人は情けの中に住む」と言います。会社も家庭も今こそ、一致団結、思いやりと

感謝、和(輪)がポイントです。

 「貧すれば鈍する」非常時の愚痴、怒り、不平不満や批判は、じり貧の悪の連鎖を生み出します。

 家庭が円満で夫を中心に家族の心が通じ合い和ができていれば、たとえリストラになっても次の道が必ず現わ

れます。

 どの指でも親指と連絡すれば丸が出来ます。丸とはお金であり、円満であり、安心の姿です。いつの時代も働き

に感謝と喜びがあり、徳が積めていれば、なったことがよい方向に向かいます。

 自殺はいけません!

 どんな重い荷物もみんなで担げば軽くなります。この非常事態を自分だけで背負わず、年老いた親にも、小学校

の子供にも現実を伝え、みんなが少しずつ協力し辛抱すれば、きっとあたたかい春がやってきます。何よりもお金

に換えがたい堅固な家族の絆と信頼が生まれるチャンスです。

 会社も生き残るために、従業員を部品の如く情け容赦なく切り捨てる所行は、会社という幹を守るために枝葉を

切り落とすのと同じです。あまりに切り過ぎたり、切り方が悪いとそこから幹が腐りだします。

 今こそ景気の良かった時に《よく働いてくれた》《よく働かさせていただいた》と労使共に感謝の実践をすることで

す。

 「人を生かせば生かされる」のが大自然の真理です。会社も好景気で儲けさせてもらった「内部留保金」があるは

ずです。お金の価値は、遣い方で決まるのです。国も会社も家庭も、こんな時こそ「埋蔵金、へそくり」を使う時です。

ワークシェアリングと言うことばがあります。自分だけが生き残れた事を喜んでいてはいけません。今日はリストラ

を免れても、明日は我が身です。就労時間をみんなで分け合い、給料減額の痛みをみんなで分け合い危機を乗り

越えようという方法です。

 叡智を絞れば、光は見えます。自分の豊かさのためだけに働く「金儲け主義」から、みんなが楽になるための

「働(傍楽)」に目覚めましょう!

 

 

笑顔

 笑顔に国境はありません。笑顔に勝る宝はありません。どんな人でも笑顔はその人の最高にいい笑顔です。

 無財の七施という教えがあります。財は無くても誰にでも七つの施しが出来るということです。その一つは「和顔

法悦色施」つまり笑顔のことです。しかし、開祖さま(真生会の開祖さま)の笑顔には誰にも真似の出来ない温かみ

と深み、ほっとする安心感がありました。

 それは、ただ嬉しいからニコニコしているという笑顔ではなく、病気、貧乏、不和という人生の三大苦、幾多の艱

難辛苦を乗り越えながら、自らの幸せを得るための信仰から、すべての悩み苦しむ人を正しい教えに導き、幸せに

してあげたいと言う血の出るようなご法精進によって体得された深い慈悲の願いに裏打ちされた笑顔だからです。

 開祖さまにあやかり、私たちも常に笑顔がこぼれるような人間になりましょう。

 あらゆる人達が本当に笑顔で暮らせるような世の中にすることが、開祖さまの願いであり、諸佛如来の本願でも

あるのです。

 心の底から湧き出るような笑顔は、「先ず人さま、常に相手の幸せを願う」実践から生まれるのです。

 人は良き縁に触れることによって栄えるのです。ひとりでも多くの方に一声かけて教えに導き、仏さまに手を合わ

せ、開祖さまの教えに触れて「仏さまの境涯に一歩でも近づこう! 開祖さまのような生き方がしたい」と思い憧れ

れば、誰でも幸せになれるのです。

 真に似ると書いて「真似」と読みます。

 仏の真似をすれば仏になり、開祖さまの真似をすれば開祖さまに近づくことが出来るのです。それこそが安心立

命の近道です。

 

ピンチはチャンス、百年に一度という大不況、大混迷の時代だからこそ、大改革、世直しの絶好のチャンスです。

仏さまは、いったいどんな功徳、救いを下さるのだろうかとご利益を求めるのではなく、私たち一人ひとりが、人の

幸せと世の中が明るく平和になるために何かしてあげたい! 菩薩行に目覚め、実践する時代が到来したので

す。

 

 高学歴社会になり、高卒の二人に一人が大学に行く時代になりました。学問的知識はあっても、真理を知らない

智慧のない人が溢れています。何も難しいことはありません。「蒔かぬ種は生えぬ、根のない草木は早晩枯れる」

この真理が本当に分かれば、人生に行き詰ることはないのです。

 

 

STOP the 愚痴!!

 不況を乗り越える特効薬

 

同じことはいつまでも続かない

 世界中に大不況の嵐が吹き荒れ、テレビも新聞も「不況!不況!」の大合唱です。

 今や大企業も中小企業も個人商店も例外なく、すべての業種が行き詰っています。

 怠けたり、うまい話に乗って失敗した訳ではありません。どなたに会っても異口同音に「働こうとしても仕事が無い

んです。」と深刻な問題です。真面目に一生懸命やって来た会社でも仕事がなく、打つ手がないのが実態でしょう。

 一体どうしたらこの大不況を乗り越えられるのでしょうか?

 仏さまは「諸行無常である」と教えられました。どんな良い事も、どんな悪いことも永遠に同じことがいつまでも続か

ないということです。不安、不満、心配などマイナス発想の悪循環に陥らないことです。

 真生会の開祖さまは「朝の来ない夜はない。雨降りの後は晴天がくる。寒さが厳しければ春は近い」と常々分かり

やすく諭し励まして頂けました。

 

愚痴はすべてを腐敗させる

 信じるものは救われる、鰯の頭も信心からといいますが、信仰し、お参りし、祈るだけでうまくいくのでしょうか?

 そうではありません。

 人間の力は大自然に比べたら小さな存在です。しかし、神仏を信じ、お参りし、祈るという大自然に対する謙虚で

敬虔な心を土台とした上で、物事の受け止め方が目の前の現象を変えていくのです。

 物事の受け止め方は三通りあります。

①「半分しかないのか」と        否定的に受け止める人

②「半分もあるじゃないか」と     肯定的に受け止める人

③「半分も残っている、ありがたい」と感謝の心で受け止める人

 

 言葉で言うとちよっとした違いですが、毎日の積み重ねが自分の運命を大きく変えていくのです。

 不景気だ、儲からない、仕事がない・・とどれだけ言っても、お金が増えるわけでも仕事が入って来るわけでもあり

ません。

 言っても考えてもどうにもならない事を悲観的に言うことを『愚痴』というのです。

 怒っていることは誰でもよくわかりますが、愚痴をこぼしていることはなかなか分かりません。愚痴はすべてを腐ら

せてしまいます。知らず知らずのうちに足元が崩れ傾いていくのです。

 この不況の行き詰まりを脱出するには、先ず愚痴をこぼすことをやめましょう!

 

思ったとおり言ったとおりになる人生

 世の中は、心の底で思っている通り、いつも言葉に出している通りになっているのです。

 法華経はこれを『一念三千』といって、心に描く強い思い(一念)が自分を取り巻く世界(三千世界)を作り出すと教

えています。つまり、自分の心がすべての現象を生み出しているのです。

 『念』とは今の心と書きます。今言ったひとことが、今思っていることが現実として現われてくるのです。

 どんな小さな仕事でも、儲けが少ない仕事でも、面倒な仕事でも「あぁ!ありがたい。お陰さまで」と感謝で受け止

めていれば、仕事を見つけ出すチャンスは見逃しません。暇なら暇で愚痴をこぼし、忙しくなったらなったで不満を言

う、どちらに転んでも愚痴る『愚痴ぐせ』になっていませんか?

 『儲からない、仕事がない』と愚痴や不平をこぼしていると仕事を見つけるチャンスを見逃すのです。

 それでも仕事がなかったら、今日まで仕事を続けてこれたこと、健康で働けたこと、どんな小さなことでもいいから

まず感謝することです。とにかく、前向きな言葉、感謝の言葉を発していることが、不況を抜け出す秘訣です

 心で思っているだけでは、目の前の現実に負けてしまいますから、とにかく声に出して言うことが大切です。自分

で言った言葉を自分で聞いて、心に刻まれていくのです。

 そして毎日、声を出してお経を上げましょう。お経はお釈迦さまの説法が書いてあるのです。声に出して読むと言

うことは、自分の声を通してお釈迦さまの説法を直に聞いていることと同じことなのです。

 「読書百篇、意自ずから通ず」毎日お経を上げていれば、自然に仏さまの考え方に近づいていくのです。

 開祖さまは『何とかなる。きっと良くなる。今に善くなる』といい続けられました。

 これこそ人生を潤す魔法の言葉です。

 今日から早速試してみましょう!

 

 

妙法とは、感謝と奉仕

 「妙法」の教えは、釈尊が説いて下さった八万四千ともいわれる膨大な教えの中で、人が救われていく最も優れた

最高の教えなのです。

 妙法の教えには二つの大きな意味合いがあります。

 一つは「妙」であります。妙とは、妙なる教え、妙なる力、人智を超えた不可思議なる力ということなのです。

 私達はうっかりすると自分の力で生きていると思っていますが、日常生活はもちろんのこと、自分の体さえも自分

の 意識を超えた力で守られているのです。

 心臓も、胃も腸も無意識のうちに昼夜一時も休むことなく動き続けているお陰で生きているのです。

 医学や科学の研究と進歩はすさまじく、人の遺伝子というミクロの世界をどんどん解明していますが、その構造を

知 ることが出来ても、科学の力では、たった一個の細胞や分子を作り、命を吹き込むことは不可能なのです。つまり

神様仏 さまと言う宇宙の大生命なのです。私達の命と人生は「守られている人生」であり「生かされている毎日」であ

るというの が真実なのです。

 その真実が心から理解できたら、もう「すべてが感謝」になるのです。

 「妙」とは、科学が神仏の領域にまで近づいてきた現代こそ、目に見えない今日守って下さっている仏さまのお陰

に対し、ただただ感謝しお祈りすることなのです。

辛いことや一見不幸そうに見えることも、すべてお手配でありお計らいであると感謝の心で受け止めさせてもらうの

です。

 人智をはさむ余地はありません。

 人の死は最も不幸で悲しいことに思えますが、それすら人智を超えたお計らいなのです。誰しも死にたい人はあり

ませんが、死にたくても死ねない苦しみの人も多くおられるのも事実です。

 

次に「法」であります。法とは『真理」のことです。真理は祈ってもご利益は出ません。真理とは数学で言えば方程式

です。

方程式は知っているだけでは役に立ちません。正しく使ってこそ、答えが出るのです。

 つまり法しは、真理の実践=奉仕することなのです。奉仕とは、仕え奉ると読みますが、何に仕えるのかというと、

人 の喜んで下さることむ、世の中の良くなること」に仕え奉ることなのです。お金儲けや自分のために一生懸命働く

ことは奉仕とは言いません。

 ボランティァ活動も奉仕の精神で尊いことですが、仏さまの教えから言う奉仕とは少し違います。人様に喜んでもら

え ることを実践することは同じですが、こちらが一方通行で尽くすのではなく、相手にも「自分も人の役に立てる行いを

しよう! 」と善なる心と勇気を起こさせること、つまり菩提心を起こさせる働きが出来てこそ、本当の奉仕なのです。

 これを仏教では「菩薩行」と言います。

 すなわち「妙法」とは、生かされている喜びを持って日々心から感謝し祈り、人様と供に人の喜んで下さることの実

践をすることなのです。

 死はどんな人種むや民族にも、大人にも子供にも男女の区別もなく、万人に平等に与えられています。人生の長い

短 いの差はありますが、平等に与えられた死までの人生をどう過ごすかで、人生の価値が決まるのです。

 何も難しいことはありません。

 毎日、どんな人にも、どんなことにも、生きている間にどれだけ心から「ありがとう」と言えるか! 「すべてにありがと

う」と言えるかと言うことです。

 死んでいく時にも「ああ、いい人生だった。仏さま、ありがとうございました。皆さんありがとうございました」と言える

人生こそ最高ではありませんか!

 幸不幸は、出来事の受け止め方で決まるのです。感謝で受けてありがとうで返す人生です。

 うきつらき 心にそわぬ ことをみな よきに悟りて よろこびをえよ

  感謝!  感謝!  合掌!  合掌!

    ありがとうございます

     ありがとうございます

      ありがとうございます

 

 

仏さまの言葉は宇宙語

 どうしたら理解できるか?

 

 知っていますか?

 神様や仏さまは宇宙語で話されるのです。だから、私たち凡夫には理解できないのです。みなさんは、宇宙語って

聞 いたことがありますか? きっとみんなそんな言葉は聞いたことがないとおっしゃるでしょう!

でも実は日常生活において私たちはしばしば宇宙語に出会っているのです。そして、その宇宙語が理解出来ないの

で、悩んだり、困ったり、怒ったり、苦しんだりしているのです。

 では、宇宙語とはいったいどんな言葉なのでしょうか。

 職場で自分だけがよく怒られる。要領よく仕事をさぼったり、言われたこと以上に働かない人がのうのうとしている

のに、一生懸命働いている自分だけが何故?

 欲深く自己中心的で、やりたい放題わがままいっぱいにやって周囲に迷惑をかけている人が栄えているのに、真面

目 に働き周囲に気遣いをしている自分が当たり前にされ、経済苦に悩んでいるのは部に合わない。

 思わぬ病気になったり事故に遭いやすい。

 いつも嫌な事を言われたり、辛い思いを強いられたり、道理に合わぬつまらぬ目に遭う、なんと自分は運が悪いの

だろ う!不幸なんだろう・・・・・・・・ということはありませんか?

 実はこれが宇宙語、神さま仏さまの声なき声なのです。

  私たちの生まれてきた目的は、金持ちになったり、豪邸に住んだり、政治家や一流企業の社員になって地位や権

力や名誉を得、偉い人になるために生まれてきた訳ではないのです。

 私達の人生は、良い人間になる、人に尽くせることが喜べる人間になる》ために生まれてきたのです。

[願生]と言って菩薩業をして人様を仏道にお導きするために自分から志願して、わざわざ苦の娑婆に生まれてきた

ので す。

 ところが多くの人は、その使命とち誓いを忘れて自分の幸せのためだけに汲々(きゅうきゅう)としているのです。だから、

この人は見込みがある、早く生まれて来た使命に目覚めて世のため人のために活躍してほしいと思われる方に仏さ

まが人を通じ、出来事を通じて呼びかけておられるのです。

 しょっちゅうこの宇宙語が聞こえてくる人は、仏さまがまだかまだかと一生懸命催促しておられるのです。

 しかし、普通の人では理不尽な悪言苦言、事故や病気、意に沿わぬ出来事が、宇宙語すなわち仏さまのメッセージ

と し て聞き取れないのです。どうしたら、宇宙語を仏さまのメッセージとして理解することが出来るのでしょうか?

 簡単です。宇宙語の翻訳機か辞書があれば意味を読み取ることが出来ます。もしくは、宇宙語の通訳してくれる人

が いれば、意味を教えてくれます。

 宇宙語の翻訳機、辞書は朝晩の読経です。なせならお経の本は、まさにお釈迦さまの教えそのものであり、宇宙の

本 なのです。「読書百遍、意おのずから通ず」で難しい宇宙語の意味が段々と理解できるようになるのです。

 また宇宙語の勉強会をするところが教会です。みんながお互いの経験した宇宙語(仏さまのメッセージ)の研究発表

を する場です。そして、難しい宇宙語の受け止め方を教えてくださるのが教会長先生です。

 教会が近い人は大いに足を運びましょう。遠方で教会が近くにない人は、お電話やお手紙等で直接教会長先生の

指 導添削を受けましょう。どちらも大切です。

 お経は熱心に上げていても、法話を聞いたり、添削の指導を受けていなかったら我流になり、正しい進歩が止まって

し まいます。教えはもうわかったと思った瞬間から、解らなくなってしまうのです。

 また逆に、法話を沢山聞いて、常に相談の添削は受けていても、信仰の基本行である朝夕のお経上げ、読経修行

をし ていなかったら、問題集の答えを教えてもらっているだけで、楽な信仰をしていては本当の実力は身に付きません

《依法不依人》人に頼らず、法に頼れと教えられています。

 宇宙語を正しく理解し、消化吸収出来るようになりましょう。そして、表面的な変化に動じない安心立命の人生を渡

り、 仏さま、開祖様さまに喜んでいただける《良い人間、人世のお役に立てる人間》になれるよう共々に精進いたしまし

ょう!

 

 

感謝の心、和の心

 人の頭の上が輝いている姿が"v光"と言う文字であります。笑顔でいる時は、頭からオーラ(後光)が出ているのです。

喜ぶこと笑顔でいることが、いかに大切であるかと言うことを古代の人々は直感的に感じていたのでしょう。

 反対に怒っている時、嘆いている時、悲しんでいる時、愚痴をこぼしている時は体から「真っ黒な煙」が出ていると言

わ れます。ある実験では怒っている妊婦の母乳をマウスに注射したら死んでしまったそうです。そのくらい怒ると言うこ

とは、体の中に毒素が発生しているのです。

 

 また私達の人生は、人に使われて生活しているのです。お勤めの方は、会社や社長に使われ、社長や会社や従業

員 のに一生懸命頑張りますから、結局使われているのです。親は子のため、子は親のために努力しますから、やは

り使われています。人間は使われている限り、お互いさま誰かを使い、誰かに使われているのです。

 "つかわれる(使われる)"の「(和)」が欠けたら"つかれる"(疲れる)となり、心身ともに疲労感脱力感が残るだけです。

 社長と社員、上司と部下、先輩と後輩、仲間同士、親子、夫婦、兄弟とすべての関係において「和」が欠けていたら

どうなるでしょう。

 それは単なる労働であり、ギフ&テイクの自動販売機的人間となり、情けも温かみもない、まさに機械的な冷たい関

係になってしまい、やる気とか勇気とか元気は湧いてこないのです。

 

 世の中には失敗はないのです。失敗と思うから落ち込んだり投げやりになり、犯人探しをして人を責め、最後は自

分を責め、もう先はないと悲観して自殺人が急増しているのです。

 すべて神さま仏さまから頂いた「経験」なのです。離婚も倒産も、リストラや受験の失敗も就職浪人も、すべて豊かな

心 、強い心、思いやりの心など幅広い人生感を養うための栄養なのです。つらい経験、悲しい経験、苦しい経験があ

るからこそ、喜びや感動、達成感が沸き上がるのです。

 失敗を経験としてとらえ、人生の糧として立ち上がった人は、すべて魅力的な人となり魅力的な人生を渡れるので

そういう経験豊かな人の話は、成功談も失敗談もワクワクして聞くことが出来ます。

 失敗ではないのです。

 「取り間違え」つまり「受け止め方を間違えた」だけなのです。だから、出来事の受け止め方を変えれば、すべて人

生のエキスになるのです。

 その受け止め方の勉強をする所が宗教であり、その実践の場が職場であり、家庭なのです。

 いろいろな苦労や悲しみ、妬みや嫉みのある現実生活で、笑顔と感謝の修行精進が一日でも実践できたら、その

功徳は計り知れないものものと教えられています。

 自信と希望を持って、日々前向きにプラス思考の人生を目指して共々に歩んで行きましょう。

 

 

考えよう!家族の絆

 根には肥料を! 枝葉には光を!

 

家族は一本の大樹

 お盆の月を迎えました。

 亡き親はご先祖様にお参りし、今日家族が無事に暮らせて頂いてことへの報告と感謝の祈りを心から捧げる時で

す。

 家族を樹にたとえれば、幹は夫婦、枝葉は子供や孫、根は亡き親やご先祖です。

 家族の中で一人でも真の法華経行者になれば「上七代、下七代の因縁が救われる」と教えられます。ご先祖様を

七代 さかのぼると直系のご先祖も夫方のご先祖様が254人、妻方のご先祖様が254人、最低でも508人のご先祖

様があり ます。たとえ名前はわからなくても、この中のたった一人でもなかったり、別の人であったら、今の自分はこの

世にいないか、人生がまったく変ってしまいます。

 そうした現実を考えると、生命の根っこ、ルーツであるご先祖様の大切さがわかります。もし親が再婚したり、養女

養子になっていれば根っこの数はもっと多くなります。ましてや先祖の兄弟姉妹を考えたら数え切れません。

 あなたはご先祖様のどこまで名前や因縁がわかりますか? どこから、生命の根が切れていますか!

 また下七代の子や孫、子孫も同様です。

 成功の花が咲き、幸せの実がなる枝葉は幹に支えられ、幹は根に支えられています。でも根は見えないから忘れが

ちです。

 根っこが切れていたり、腐ったり弱っていると枝葉という子や孫に心配事や異常が生じ、最後自分という幹まで枯れ

始めます。あなたの家庭の樹は大丈夫ですか?

 

枝葉には光と温かさが必要

 枝葉には太陽の光と温かさがあればいいのです。つまり、子や孫には親の明るさと手間暇惜しまぬ愛情の温かみ

が一番大切なのです。学習塾や習い事、スポーツクラブにブランド商品など異常なまでにお金をかけ、力を入れてい

ることが 愛情と勘違いしている親が多いのです。それは親の自己満足であり、親の願いや夢を子供に押し付けてい

る姿です。

光や温かさではなく直接の肥料です。

 親が仕事に疲れ、愚痴をこぼし、いつも暗い顔や気持ちにゆとりが無かったら何もなりません。子供や孫は決して

お金や物で育つものではありません。母親がいつも元気で明るく、父親は仕事で力強く活躍し、夫婦仲良く話し合い、

笑顔と 笑いのな絶えない家族の温かさで枝葉は伸びるのです

 

根には祈りとご供養の肥料が不可欠

 幹である夫婦の役目は根に肥料を与え、幹と根がしっかりつながり、根から栄養が来ている事をしっかり伝えること

です。根っこは隠れて見えないのだから、教えないと気付きません。

 学歴や物やお金を与える以上に、子や孫に祖父母や先祖のお陰さまという心を起こさせ、感謝とご供養の習慣を

身に つけさせることが本当の親の役目であり慈悲です。

 ご先祖さまに毎日感謝しお祈りをすると言うことは、根っこにつながるということです。そして思いのつながった根に、

ご供養、布施の肥料を与えるのです。

 しかし、現実には神仏やご先祖様に手を合わせることはもとより、ご供養の徳積みをするご家庭がどんどん少なく

なっ ています。これでは根は弱り、、枝葉はうつ病、不登校、ニート、就職難となり、幹は離婚、失職と枯れ始めるの

は当然です。

 

一人前になったらご供養は自分で

 結婚すれば親と戸籍は別になります。株分けです。株分けしてこそ、樹は大きくなり育ちます。感謝と祈り、肥料の

ご供養は、いつまでも親任せではなく、社会人になり結婚したら、それぞれが自ら実践しなければ自分の人生という

樹は立派に育ちません

 徳積めば ものは自由にになるものを 徳も積まずに困る世の人

 自然の道理に沿った正しい生活をし、充実した人生を築いていきましょう。

 

 

正法(妙法)に目覚めよ!

 混迷の世を乗り切る、家庭実践のとき

 

 長引く世界同時不況、政治の混迷、気候不順、忍び寄る温暖化地獄、新型インフルエンザの恐怖、毎年三万人を

超える自殺者・・・・どちらを向いても光の見えない暗い出来事ばかりが続いています。仏教で言うまさに末法万年の

様相を呈しています。

 政治家も評論家も学者も、これこそ特効薬という解決方法が見つかりません。このまま手をこまねいて見ているだ

けでよいのでしょうか?

 お釈迦様は、末法の世のために「是好良薬を今留めてここにおく、汝とって服すべし」と法華経をお残し下さいま

した。

 今こそ正しい仏法という薬を自ら飲み、家庭や会社や社会で実践する意外に解決の方法はありません。

 

 「社会は家庭の延長なり」今こそ、一家の長たる父親を中心に家庭が、信仰心を持って家庭を整えることが急務です。

 世の中には、信仰を軽く考え、「自分は何十年と真面目に働いてきた。人様には迷惑はかけていないし、常識がき

ちんと分かっている」と威張り、頑固なだけで子供たちに正しい人生観や決断を示せない父親も多い。

 何十年かぐらい前の個人的常識など当てにはなりません。常識は時代により、場所により、個人により違います。そ

ん な不確定な価値観をもって自分は間違いないと錯覚し、ただ真面目に働くだけであったり、退職後は自分の趣味か、

町内 会の役員か老人会のお世話ぐらいで自分は常識人である善人であると思うのは、仏法を知らぬ真面目人間の驕

慢と言えます。

 

 聖徳太子は「十七条の憲法」で仏教を国づくりの根幹に置かれ、また「教え無き者は禽獣に等しい」と仏法を知らな

い者は、損得勘定で自分のことだけしか考えないまさに動物と同じであると仏法の大切さを示されました。

有能で勤勉なる日本のお父さん方!正しい仏法に目覚め、自由の中にも秩序ある家庭作りの大黒柱となり、「敬天愛

人」天を敬い人むを愛する日本の家庭をしっかり築き直しましょう。

 今こそ立ち上がる時です。

 夫が仏法に目覚め立ち上がり、子供たちが正しい信仰を承継してくれるか否かは、今あなたの情熱と実践の姿にか

か っているのです。家族信仰が世の中を良くす第一歩なのです。

 


顛倒の衆生、幸せの秘訣?

 執着心を離れれば、道は開く!

 仏さまの目から眺めると私たちの生活は、間違いだらけの価値観でいっぱいです。教えのない人達の基準は、

損か 得か」でであり、仏さまの教えの価値基準は、「徳か不徳か」なのです。言い換えれば何事も「先ず自分

の都合を 考えて行動するか、「先ず人さま」の幸せを考えて行動するかの違いなのです。

 この教え無き自己中心の大衆を仏さまは、《顛倒の衆生》と言われました。つまり、仏さまの教えを鏡に映すと

正反対の、ひっくり返った生き方をしているのです。

 仏さまは、四つの顛倒を示されました。

常顛倒(じょうてんどう) 世の中は無常であるが常住と考える。即ち変化するものを変化しないように見ること。

楽顛倒(らくてんどう)  本来苦であるものを一時的現象と見て楽と考えること。

淨顛倒(じょうてんどう) 不浄なものの表面だけを見て清浄と考えること。

我顛倒(がてんどう)   この世の中は持ちつ持たれつでで成り立っているのに、自分だけの力で成り立っていると

               考えること。 

 

 顛倒にはこの逆の場合もあり、他にも尊い価値のあるものを、価値のないように見たり、さまざまな価値観の顛

倒 があります。

これは人間の執着や煩悩から正しい生き方を見誤るのです。常に仏さまのご縁に触れ、法話を学んでいませんと

知らず知らずの間に凡夫の欲得の価値観に逆戻りしてしまいます。

 

 あるご家庭の現状です。初老のお父さんが何度も脳梗塞で倒れ、お母さんがお世話をして自宅療養してみえる

のです。 先日もお父さんが家の中で転倒して、救急車で運ばれたのです。幸い大事には到りませんでしたが、私

は早速このお宅に伺いこんなお話をしました。

 このご家庭は、初老の親夫婦と、小学六年の子供を抱えたバツイチの娘さん、また結婚前のご長男の五人暮ら

しです。

シングルマザーの彼女は、将来の自立と自分の夢の実現のために正看護士を目指して働いています。

 私はこの娘さんに申し上げました。

 「今は家の非常時です。このままでは老老介護でお母さんまで倒れてしまいます。今こそ親孝行のチャンスです。

仕事を止めて親の看病に徹する時期です。親の看病は仕事の片手間では充分出来ません。」

 幸いこのご家庭は、彼女が仕事をやめても何とか生活できるだけの経済力はあるのですが・・・・・

「先生、今私は仕事をやめるわけにはいきません。」

「なぜですか?」

「子供を私立中学に入れるため、学費を稼がなければならないのです。そして、子供も私立中学に行きたいと言っ

ています」というのです。

 子供の夢は大切にしてあげなければなりませんが、うっかりすると親の自己満足やプライド、自分の果たせなか

っ た夢のリベンジになっていることがあるのです。子供は親の思いが自分の夢のように刷り込まれていることが多

いのではないでしょうか。

 子供と親を同じ天秤には掛けられませんが、物事には優先順位があります。遠回りのように思えても、先ず仏さ

まのこと、ご先祖様のことが第一です。根を養う大地である仏さま、幹や枝に栄養を送る根である親や先祖がおろ

そかになっていては木は早晩枯れてしまいます。

 一家の非常時であり、経済もあまり余裕の無い中、なぜそこまでして子どもを私立中学に入れたいのか聞いてみ

ま した。

 すると『私が主人と離婚する時、主人のお母さんから『どうせあなたでは、子供も立派に育てられないに決まって

る。ろく な 学校にも入れないだろう』と言われたことが忘れられません。何としても程度の高い私立中学に入れて見

返したいのです。』

 

 悪言と悪念、他を傷つけず、ただ己のみ傷つく

 人を見返すための努力や執念は決して幸せの結果になりません。ましてや親の非常時にあなたの意地のために

道を誤っ たり、子供の人生を利用してはいけません。親孝行したい時には親は無しといいます。

 今あなたの人生観は「顛倒」しています。執着を離れれば、心が楽になり正しい判断が出来るのです

 

著 田中偉仁  田中庸仁

のオアシス 心のとびら

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ウンド・ロッヂ伊吹(音楽合宿 ゼミ合宿歓 

 

心のオアシス 心のとびら 心のひかり