ヤマトのおっちゃん

 

人生を卒業してしまったおっちゃんへの追悼文

 

 ヤマトのおじさん、個人的に僕は「ヤマトのおっちゃん」と呼んでいた。そのおっちゃんが亡くなった。僕は、ヤマトのおっちゃんがいなかったら、これほどスキーにのめり込んでいなかっただろうし、このHPもたぶん出来ていないはず。また、たとえ出来ていたとしても、これほどのアクセスのあるHPは出来なかったと思うし、今までHPは続かなかったと思う。なぜかというと、一番はじめにこのHPの評判を作ってくれたのは、このショップの話だったから。そのおかげで、今でもHPが続いているんだと思う。おっちゃんは、それほど僕に影響を与えてくれる大きな存在だったと思う。そのおっちゃんが人生を卒業してしまった。66歳だった

 

 僕はおっちゃんに出会う前は、ブーツの足の傷みに、スキーに行くたびに困り果てていた。ほんの10分さえもバックルを締めたまま滑れなかった。その痛みのはしるブーツを買うときには、用心に用心を重ねて40足以上もブーツを履き、有名店の店員さんのアドバイスもあって、一番満足のいくブーツを買った。だけど、スキーに行っていざ履いてみると、耐えられないほどの激痛が板を踏みつけるたびに足にはしっていた。いつも滑りたくても滑れないという状況で、休憩ばかりが中心のスキーライフだった

 けれど、それがこのヤマトスポーツというショップに行っておっちゃんに出会い、すんなりと自分にあうブーツが見つかってしまった。  (それがエッセイ「スキーショップに行こう」というエッセイの話である。このエッセイは、本当のスキーのプロショップと、量販店との違いについて書いたようなエッセイである。)  そのおかげで滑り倒すという練習方法ができるようになり、一日で普通の人の1.5倍から5倍くらいの滑走距離を稼ぐ練習 ( 野麦峠 ) ができるようになった。また、出会った年のシーズンで2級。そして、その次のシーズンは1級と、すんなりとバッジテストにも通ってしまうことになった。

 僕は、よくお店に行ってスキーの技術やいろいろな話を聞かせてもらった。ヤマトのおっちゃんに会って話をしたことがある人はわかると思うけれど、おっちゃん自身がほんとうにスキーが好きで好きでたまらなかった人だと思う。スキーの話になると止まらないくらい、いろいろな話がでてきた。ブーツ作りで特許を取ったりもしたけれども結局は大損したこと、スキー金メダル三冠王と一緒に滑ったこと、苗場スキースクールの校長と一緒に滑っていたこと、ほんとうにいろいろな話がでてきた。すべてを書いていたら、いくら時間があっても足りないほどだと思う。けれど、すこしおっちゃんをしのんで、エピソードを書いてみようと思う。

 


 

 なくなってから聞いたことだが、家族の方によると、ヤマトのおっちゃんは、40年以上前にたった一人でお店を作って、はじめは仕入先に信用がないからといって商品を売ってもらえなかったそうだ。それも、現金で買うといっても、なかなか取引をはじめてもらえなかったという。今でもある国産メーカーの板も、わざわざその会社まで行ってなんとか買い付けてきたという。そしてかなり苦労をしてきて、信頼も信用もつけてきて、なんとかここまできたという。そんなおっちゃんは、ほんとうに「これまで苦労ばっかりしてきた人」だったそうだ。

 また、おっちゃんは基本的にかなりの努力家だったそうだ。「その日の仕事は、絶対に翌日にするということをしなかった人」だったそうだ。倒れる前の数週間は、スキーシーズンの真っ最中の忙しさの中、お店が終わってからも眠る時間を削って、深夜まで一生懸命に仕事をしていたという。家族の人があきれるほど、よく働いていたという。なにひとつイヤな顔をせずに。

 というか、ヤマトのおっちゃんは、こころの底からスキーが好きだったようだ。例えば、お店に新しいモデルの板とかが入荷すると、それがお昼の食事している途中だったとしても、そのまま食事を抜け出して、「まるで自分がはじめて買った板のように、すぐにケースから取り出して、そのあたらしい板を眺めていた」そうだ。

 食事が冷めるし、いつでも板の片付けなんてできるのに、すぐに届いた板をケースから取り出し、ニコニコしながら、眺めて、さわって、その板の感触を楽しんでいたという。そのときのおっちゃんは、ほんとうにうれしそうだったという。「まるで自分がその板をもらったみたいに、ほんとうにうれしそうに板を見ていた」そうだ。「自分がもらったわけじゃないのに、夢中で板の感触を確かめていた」とも話していたが、おっちゃんはスキーの話をし出したら止まらないという時とまったく同じように、ほんとうにうれしそうに板をずっと眺めていたという。

 


 

 また、おっちゃんは自分がスキーが好きだったから、ほんとうにスキーが好きな(熱心な)お客さんを見ると、ほんとうにおっちゃん自身がうれしくなるような感じだったと思う。時々、お店に行って「ありがとうというメールが来たんですよ」というと、目を細めてとてもうれしそうにしていた。

 また、おっちゃんはよく僕に「スキーが好きなお客さんから大もうけしようなんて気持ちは全然ない。みな一回でもスキーにたくさんいけるように、少しでも安くしてあげることが、お客さんのためになることだと思う」という話もしていた。ほんとうにショップの話を載せて、今まで一度も高かったというメールをもらっていないので、ほんとうにそうなんだと思う。

 特に最近は何度か「こんなに安くしてお店をやっていけるのですか」という質問のメールも来ていた。その話をするとおっちゃんは、「ウチは宣伝広告は今はなんにもしてない。宣伝なんてしても、お客さんはこんなとこ(布施)まで来ないから。安くするのは宣伝費用と同じと考えてる。ウチがやっていけるのは、安いという口コミがあるから。そうでなかったら、今まで店をやってくることが出来なかっただろう。」と、以前にも書いたことのある話をしてくれた。

 


 

 また、僕は一度おっちゃんがひどく怒っているのを見たことがある。「板を買いに来たあるお客さんが、よそでこのブーツをこんな値段で買ったと言っていた」と言って、ひどくおこっていた。

 このブーツをこの値段で売っているお店がある。10万くらいとか、もっとひどいところは10万以上も取らなければその人に合うブーツがない(つくれない)だなんて言って売っている。高ければいいものだと思うお客さんも多いこともあるけど、人の足の痛みにつけ込んで、高い物を売りつけては技術料とか言ってすごい値段にしてしまうのは、あまりにもひどすぎる。ウチじゃ絶対そんな商売はしない。

 スキーというものは、ほんとうにお金がかかるスポーツで、みんなスキーに一回行くのにも大変なのに、お客さんのことをぜんぜんわかっていない。それよりもすこしでも安くしてあげて、スキーにたとえ一回くらい余分に行けるよう安くしてあげて、その人の上達の手助けになることができれば、もっともっとスキーというものが広まってゆくことにもなる。それを板を満足に操れない人にさえも、レベルに合わない固くて高いブーツを売りつけておいて、その芽をつみ取るかのような事をするのは、ほんとうに許せない

と真剣におこっていた。いつもは物腰の柔らかいおっちゃんなのに、その時ばかりは真剣におこっていたのをおぼえている。この言葉がただの出任せかどうかは、ショップに行った人ならわかると思う。例えば、ほかのショップで定価で売っている最新モデルの板さえも、「定価でも売れる商品なんやけど」といいながら、値引きして売っているくらいだから

 


 

 おっちゃんは、何かを一つ売っていくらもうけるという発想はなく、一人のお客さんにどれだけ安くしてあげられるか考えて商売をしていると言っていた。正直なところ、気になるのはこれからのショップのことだけど、そのあたりを遠回しに聞いてみると、ショップの跡を継いだ息子さんは、「オヤジの遺志を継いで、今までと同じ商売をしてゆきます。」と言っていたので、これからもそれはかわりがないと思う。また、僕もHP上に嘘を載せるわけにはいかないので、その言葉はHP上にアップしている限り、大丈夫だと思ってもらえたらと思っている。

 ブーツに関しても、おっちゃんがいなくなったからといって、ブーツのエキスパートがいなくなった訳ではない。

 もともとおっちゃんがブーツ作りをはじめたときも、今お店を継いでいる息子さんが一緒になってブーツ作りに協力していた。そのへんが、ほかのプロショップとも一線を画するところだと思うが、HPではおっちゃんの印象的な話しか載せてないけど、ヤマトのお客さんの半分くらいは、息子さんがあわせているのは確か。

 確かにおっちゃんのブーツフィッター40年の歴史にくらべれば見劣りするかもしれないけれども、物心ついたときからお店を手伝い、ただ単にお客さんの足にブーツを合わせるだけでなく、ブーツ作りにも協力して技術的な知識も持っているので、やっぱりほかのショップとは違いがわかると思う。僕のブーツも、おっちゃんが忙しいときには、息子さんに合わせてもらったし、すべてのお客さんをおっちゃんが引き受けていたわけじゃない

 また、以前エッセイで書いたように、息子さんは技術選にも出場した経験を持ち、金子デモがはじめてデモ認定された年の技術選で、金子デモの5つ後ろで滑っていたくらい、スキーにのめり込みまくった人で、当たり前だけど量販店のアルバイトの店員さんのアドバイスとは違った話が聞けると思う。板に関しても、お店においてある板の扱いも特性を十分理解して、きちんと見合う板をすすめてくれるだろうし、高けりゃいい物だというめちゃくちゃな商売はすることはないはず。基本的におっちゃんもカービングに変わってきてからは、自分が乗って滑って確かめた上で、息子さんの意見をも確認するために聞いていたくらいだから、マテリアル選びに関しても、ブーツに関してもこれからも充分信頼できると思う。

 


 

 けれども、やっぱりおっちゃんはなんといっても、ヤマトスポーツというショップの顔だったと思う。創業者だから、当たり前といえば当たり前なんだけれど、だけども、おっちゃんほどほんとうにお客さんのことを考えた人はいなかったと思う。足が痛いというお客さんが来たら、必死になって合わせてくれる。それもブーツ修正は何回でも一切無料だから、たとえ2時間かけてブーツ修正をしたとしても、おっちゃんにとっては一銭の得にもならない。それでも顔を真っ赤にして作業をし、ブーツをなおしてくれる。

 それは、遠方から来た人たちばかりでなく、家が近所の僕も、高校生の友人のブーツも、女性であろうが男性であろうが、常連さんであろうが、はじめてきた人であろうが、子供であろうが、老人であろうとも、ほんとうにだれかれと分け隔てなく、ほんとうに必死になって、何時間かかってもブーツを合わせてくれ、滑りのアドバイスをしてくれ、いろいろな話をしてくれた。ほんとうに一銭の得にもならないのに。そんなショップというのは、なかなかないと思う。

 だからこそ、僕もHPで紹介しても苦情がくることなく、なぜか僕に感謝のメールが送られてくるんだろうと思う。ショップのレポートは今までたくさんいただいたけれども、そのほとんどが、なぜか感謝のメールだったりする。感謝はショップへされるものだと思っていたのに、なぜか僕へ感謝のメールが来るのである。

 僕は逆に、ショップに行ったというレポートをいただいただけでも、その方へこころから感謝したい気持ちなのに、逆に感謝されていたら、感謝の気持ちの持っていくところがなく、いつもしかたがないので(?)ショップに感謝の気持ちを伝えにゆき、おっちゃんに感謝の気持ちを伝えたら、おっちゃんからも実は逆に感謝されていて、これまた感謝の気持ちを持っていくところがなくなって、結局は、スキーというもの、ひいては雪というもの、そして自然というものに感謝する気持ちが、僕の中でいつしか強くなっていた。

 そして、その結果、はじめたのが「雪の危険な体験談」というコンテンツであり、これは僕が雪の世界や自然という世界に感謝する気持ちを持ち始めたときに、こころにふと思い浮かんだもので、雪の世界でたくさんの人たちが、幸せに、楽しく過ごせることができればと思ってはじめた。それが、その後にHPがラジオで紹介されることにもなり、雑誌にも紹介されることにもなった。

 


 

 出会いとはほんとうに不思議だと思う。

 僕は、おっちゃんに出会うことがなかったら、スキーもほどほどで終わってしまい、まずこのHPは今頃終わっていたと思う。そして、日本オリンピック委員長の先輩の僕の師匠のFさんとも知り合いになることが出来なかっただろうし、金子デモの弟さんにも出会うことがなかっただろうし、そして金子デモSIAの元デモの方にも知り合う機会もなかっただろうし、さらに、危険な体験談をファンスキーの話雪道の話もHPで取り上げることにはならなかっただろうし、野麦峠の公式HPからもリンクされることもなかっただろうし、ラジオや雑誌などのマスコミにも取り上げられることはなかっただろうし、スイス行きのチケットをとある大会でゲットすることにもならなかっただろうし、冬の乗鞍の雪山を一人で京都から7000円もって旅してきたサイクリストや、すごいスノーボーダー、そして2001年現在94歳の研究熱心なスキーヤーの方とも知り合うこともなかっただろうし、最近では、タイの親善大使である5国語を操るFさんとも知り合うこともなかったと思う。(この方は、日本でもタイでも本もたくさん出版されておられていて、いずれ、HP上でも紹介する予定) また、たくさんの人たちからのあたたかいメッセージも受けることなく、励ましの言葉やいろいろな情報をいただいたりすることもなかっただろうと思う。

 これらの出会いはすべて偶然で、またスキーをしていたから、知り合った人たちばかりというもの。けれども、スキーが与えてくれた出会いは、このおっちゃんがブーツを合わせてくれて、そしてスキーにのめり込むことができるようになったのが一番大きなきっかけとなったような気がする。だから、僕はおっちゃんに、こころから感謝しても感謝しきれない気持ちがとても強い。いまとなっては、たくさんの人たちとのすべての出会いを偶然で片づけることには、あまりにも偶然すぎる話だし、やっぱりその道を作ってくれたおっちゃんは、僕の一番の恩人とさえ思っている。

 


 

 あぁ、とても長い文章になってしまった。書きたいことがいっぱいあるけれども、あまりにも長く書いてゆくのは、もう無意味になってしまうと思う。もうそろそろ、書くのも終わりにしないといけない。書き終えるのはさみしい気持ちもするけれども、だんだんと書くことも混乱してきたので、そろそろ最後に、おっちゃんが僕に以前語ってくれた言葉を書いて、おっちゃんへの追悼文を終わりにしたいと思う。

 スキー好きが高じてスキーショップを40年以上前に作り、商売という立場であっても、同じスキー好きの人たちを応援し続けていたおっちゃん。新しい板が入ってきたら、食事も忘れて、ひたすらその板の感触を楽しんでいたおっちゃん。ブーツに痛いところがあるといえば、自分が痛くて困っているかのように、すぐにでも何時間かかってでも親切丁寧に対応してくれたおっちゃん。

 こころをこめて、ご冥福をお祈りします

 

 

 ウチははっきり言って、商売が成り立つか成り立たないかという、すれすれのところでやってきてます。ブーツを売っても、板を一本売っても、正直言ってほとんどもうけがないけど、お客さんを大切にすることは、お客さんからもお店を大切にしてくれる。そしてそのお客さんがまた、新しいお客さんを連れてきてくれる。いままでそういう商売をしてきたからこそ、こんな下町のへんぴなところでも40年以上、店をこれまでやってこれたんじゃないかと思ってます。

 この布施にも、昔はスキーショップが5軒以上あった。そしてみな繁盛していた。それが今じゃもう遠い昔の話で、ウチ以外すべてつぶれてなくなってしまった。また布施だけでなく、大阪中にはウチみたいなスキーの専門店が、ほんとうにたくさんあった。でも、ほとんどがつぶれてしまった。小さなところで残っているのは、ほんの数えるほど。ウチもいつつぶれるかわからないけれど。でもまぁ40年以上もやってきて、真面目に商売をしてきているから、お客さんに助けられて、今でもなんとかやっていけてると思います。

 

 

 

PS1

 おっちゃんのお葬式は、親しい人だけにしか知らされなくて、またスキー業界の関係者も関東の重要な展示会へほとんど全員が出かけている中、行われました。そのため、お葬式は、スキー業界関係者がほとんどいないという状況で行われ、家族の人たちは「親族以外、ほとんど誰もくることがないだろう」と思って、お葬式の準備をしていたといっていました。

 けれども、たった一日のあいだに、お店に行って話を聞いた常連のお客さんから、ヤマトに親しい人たちのあいだにおっちゃんの訃報が流れ、300人を超える方がお葬式に参列されたそうです。これには家族の方も驚かれたそうです。僕の近所の方も元ヤマトの常連さんなのですが、どこから話を伝え聞いたのか知らないのですが、参列されていました。また、遠くは岡山からもお通夜とお葬式にも参列された方もおられました。おっちゃんは生前、「わしの葬式にはほとんど誰も来ないだろう」と言っていたそうですが・・・

 

PS2

 ショップのおっちゃんがなくなって、このお店に行く価値がなくなったと思われるかもしれませんが、跡を継いだ息子さんも、かなり信頼のできる方です。ブーツも板も、相談だけでも行くといいと思います。おじさんがなくなってからショップにはじめて行ったお客さんからも、すでにショップの報告がいくつか届いています。そのお話は、また近日中にアップする予定でいます。

 

2001年3月26日