遠い将来の世界 〜 戦争と平和 〜 




平和な世の中を。
世界中の人がそう願い続けているはずなのに、世界中では戦争は一向になくならない。
いつになったら戦争というものが終わるのだろうか。
いつになったら、世界平和が訪れるのだろうか。
世界平和って、夢のまた夢の世界なんじゃないか。
世界中が平和になるだなんて、考えられないし信じられない、僕たちがそう思うのも無理はないだろう。

 
けれど、これからの時代、これからの世界がどう変わってゆくのか、
これは、これまでの歴史を見れば、およその見当はつくんじゃないかと僕は思っている。
これから、これまでの歴史を振り返りながら、僕が考えた、僕たちがこの世に存在しなくなってからの、
遠い遠い遠い将来の世界の推論を書いてゆこうと思う。

 

日本の昔、江戸幕府以前の世の中は、戦国時代があり、安土桃山時代があった。
そこで行われていたのは、狭い日本の中での、憎しみと覇権を賭けた権力抗争から来る戦争だった。

それが江戸時代になり、そして戦争はなくなり、平和な世の中になった。
数百年間、時代と国と人の生活を疲弊させる戦争がなかったことは、
日本人が日本で平和というものを知る、たいへん大きな意義のある時代になった
と思う。

その後は、明治維新前後に戦争が起こったが、さほど長期間や大規模にならずに、
日本はひとつにまとまっていった。

 

日本だけでなく、世界に目を向ければ、戦争はつづいていたし、今でも戦争は繰り返されている。
それも、大きな規模で戦争が起き、核兵器とかという、より悪質な大量殺人兵器ができている。
地域的な戦争から、世界中のたくさんの国が参加する世界大戦に発展する戦争も経験している。

これは、世界がさらにひどい世の中になるプロローグだった、とみることもできるかもしれない。
でも、これまでの歴史の流れから見ると、僕はそう思うことができない。

 

西ヨーロッパでは、第一次世界大戦、第二次世界大戦を経て、冷戦の時代を超え、
ベルリンの壁が崩壊し、国と国とが戦争をする時代は終わりを告げた。
これは、歴史的流れからして、画期的な変革なのは間違いがないと思う。

有史以来、西ヨーロッパの歴史は、戦争ばかりを繰り返してきた深い歴史がある。
国と国が戦争をする時代が終わるなんて、それ以前の歴史からは考えられなかった。
その歴史に終止符を打ったのである。(未来はもちろんわからないけれど)

今では、電車に乗ってドイツを出発すると、フランス、スイスを通過し、イタリアまで乗り換えることなく、
自由に行き来できる時代になっている。
パスポートさえあれば、フランスのパリジェンヌがスイス旅行に行ってくるというのは、
東京の人が北海道に行くより気軽にいけるのである。

日本に住んでいるとわからないけれど、ヨーロッパは国という一つの国家の概念がまったく違うもので、
スイス旅行に行って、テレビのチャンネルをひねれば、60くらいチャンネルがあって、
英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語でのそれぞれの放送があり、かなり驚かされてしまう。
それだけ、国際性というものが、日本では考えられないくらい日常生活に密着しているのである。



またさらに、西ヨーロッパで大きな新しい流れとして、国と国とが経済的に結びつきをはじめている。
これは、それぞれの国が、一国の経済だけでは成長に限界があると感じたからだろう。

そして、共存をめざして、より有機的に各国の経済が結びつくよう、共同通貨ユーロができた。
これによって西ヨーロッパ経済は、かつてない大規模な経済的結びつきをはじめている。
ほんの100年前には考えられなかったことだろう。(50年前もかな)

こうして、西ヨーロッパでは数え切れないほどの戦争を経験し、憎しみ合う時代を乗り越え、
今では共存共栄を模索する、大規模な経済圏を作り始めている。
戦争抜きに可能になるとは夢にも思えなかったこと、それが現実になりはじめている。

 

これはアジアでも歴史的に同じ動きが見られる。
代表的なのは、中国
歴史小説の三国志は有名だし、春秋戦国時代とか、限りなく中国は戦争を繰り返してきた。
国が大きいだけに、そして人口が多いだけに、かなり大規模な戦争を繰り返してきた。
でも、いまや一つの国家として、見事にまとまりを持っている。
中国もまた、国内で戦争と殺戮を繰り返す時代は過ぎ去っているのではないだろうか。

 

アメリカ合衆国も、昔は一つの国ではなかった。
合衆国の形を作る以前は、それぞれの州が独自に法律を持ち、通貨を発行し、軍隊を持ち、
州同士では戦争も行われていた。
13の州がきれいに一つにまとまるだなんて、想像もつかない時代だったに違いない。

でも時が流れ、今は一つの国家として成り立っている。
州同士で戦争を繰り返していたなんて信じられないけれど、現実に一つの国家として成り立っている。
アメリカも戦争や数え切れない困難を乗り越えて、ひとつの国家としてまとまりを持っているのである。

 

また日本に目を戻せば、数百年前は戦国時代の世の中だったのに、
今ではもうそんな名残は、まったくなくなっている。
たとえば、日本一面積の狭い大阪府が、領土拡大といって奈良県や和歌山県に攻め入るなんてことは、今じゃ考えられない(笑)

けれども、日本の昔は、もっと小さな単位で戦争をしていた。
はじめは、土地や水などをめぐっての、村と村との戦いがあった。
その村と村との戦いがいつしか、すこし大きな豪族同士の戦いに変わり、時代が移り変わるとともに、
武士の世の中に変わって、より大きな規模の、日本の中での国と国との戦いになった。

ひるがえってみれば、村と村の戦いはどうなったのだろうか。
いつしか、村と村との戦いはなくなっていたのである。
もちろん、小さな紛争は残ったかもしれない。
けれども、今現在、日本中で昔から残っている村同士の戦争だなんて、聞いたことがない。

そう考えると、血を血で洗う戦争は、時代がうつりゆくと、いつしか消えてゆく宿命なのかもしれない。
そして、ひとつにまとまってゆくのではないだろうか。

 



歴史的な時代の流れからこれからの時代を読むとすれば、今の国家同士の対立、
そして人種同士の対立、さらに宗教同士の対立はこれからどうなっていくか、
僕はそれが見えてくるような気がする。

歴史というものがはじまってからの、それぞれの国の小さな歴史的な流れを読み、
そして大きな地域の歴史的な流れを読み、これからの世界全体の流れを読むならば、
試行錯誤を繰り返しながら時代はどこへ向かっているのか、だれもが読めてくるのではないかと思う。

数え切れない戦いののちに、人は共存の道を模索し、おおきな単位になってまとまってゆく。
それが歴史の大きな流れではないだろうか。
すなわち、たくさんのバラバラのものが、長い時間を費やし、そして一つにまとまってゆくというのは、
歴史的に証明されているといってもいいのかもしれない。

そう考えると、いま血を血で洗う状況にある地域があるけれど、大きな歴史の流れを考えれば、
いつしか戦争の無意味さ、武力の無力さを知り、やがて、過去の経験を貴重な教訓とする時が来て、
遠い遠い未来には、調和と共存の世界がうまれてくるのではないだろうか。

 

 

僕は歴史から見て、戦争をする時代は、遠い遠い未来には、いつしかなくなってゆくだろうと思う。
長い時間を費やし、たくさんの人の命を犠牲にし、たくさんの血と涙を流しながらも、
いつか世界中の人たちが、戦争をすることに意味がないことを悟り、武力の無力さを知り、
共存と共栄をめざし、そしてお互いのやさしさとかを大切にする時代が、
遠い遠い未来には、きっと必ずやってくるようになると思う。

そして、小さな闘争が残るにせよ、徐々に世界中の国が、よりよい世界作りをめざして、
すこしずつまとまりを見せはじめ、世界中の国が、軍事に力を入れなくてもよい時代になると思う。

軍事力があったとしても、いまや大阪府が大阪城に大阪軍を持たない(持つ必要がない)ように、
警察程度の、あくまでも小規模なものとなるのではないだろうか。

すべての国の、これまでの歴史の流れから考えても、地域が一つのまとまりをみせ、
たとえ問題があっても、話し合いによる解決方法をそれぞれの国が尊重するようになり、
やがて世界が一つになり始めたら、巨大な軍事組織は次第に必要なくなってしまうだろうから。

 

そうすれば、今の軍事費はどのように使われるようになるのだろうか。
人が人を殺戮するためだけに投資を続けてきた恐ろしくも膨大な資金は、どう使われるのだろうか。

その頃になれば、人と人との共存世界をもとめて、国家同士の結びつきが強くなり、
社会福祉に力点が置かれる時代にかわっているだろうと思う。
また、技術開発や医学にも振り分けられるようになり、そして財政赤字を減少させ、
税金の負担を減らすという、よりよい社会への発展の資金となってくるはず。

また、世界的な取り組みは、地域的な経済格差から来る貧困に向けられ、飢餓で苦しむ人たちが、
ようやく、世界的な取り組みによって救済される時代がやってくるのではないかと思う。

 

現在、国連(国際連合)という存在があるけれど、100年前にはそんなものは存在しなかった。

すべての国家は、みなバラバラな存在で、話し合いによる国家間の紛争の解決というものは、考えられもしなかった。また、今から考えれば戦争も局地的で、地域的な紛争しか経験していなかった。

世界は産業革命を経て、飛行機や戦車などの兵器によって、機動力が格段に向上し、国家同士の紛争は、地域レベルではなく、世界的な戦争へと発展していった。そして、ヨーロッパだけでなく日本を含めた、第一次世界大戦という、世界規模での戦争を経験した。

その第一次世界大戦の反省をふまえて、国際的な紛争を話し合いで解決するために1920年に国際連盟が国際平和機構として発足したが、紛争解決に何ら効果を発揮できなかった。そして、第二次世界大戦がおこってしまった。

そして、その反省をふまえ、1945年に現在の国際連合(国連)が発足した。

ただ、この国連も、現在はさほどの強力な権限は持ってはいない。アメリカ・イギリスによるイラクへの戦争も防ぐことができなかったが、いずれは、あたらしい枠組みが再構築され、国連のような平和維持の機能が強化され、こういった地域紛争や格差問題に取り組む強力な機関として、役割をになうようになるのではないだろうか。

 

  
 
でも、僕等が生きている時代では、平和な世界の実現は不可能かもしれない。
今後、数百年以上という長い時間を必要とするかもしれない。

けれども、これまでの歴史は、果てしないと思われた戦争や目を覆いたくなるような闘争のあとには、
完璧ではないものの、かならず秩序が訪れるのをいくつも見せてくれている。

たくさんの血と涙を流し、数え切れない悲しみと憎しみとむなしさを乗り越えて、
武力の無力さや限界を知り、話し合いによる解決の大切さを身をもって実感し

すこしずつまとまりを持ち始めてきた、大きな歴史の大切な経験を持っている。

だから、今は目をそむけたくなるようなことばかりの世界でも、きっと世界中が平和になり、
そして世界中の人たちが共存をめざす時代がやってくるのではないかと思う。

 

 

世界中の国家が資源をわかちあい、そして太陽のエネルギーによって農作物ができて、
それを同じようにわかちあえるなら、世界中にある飢餓をすぐにでも終わらせることができるといいます。

今はこんなすさんだような世の中であり、目を伏せたくなるような時代かもしれないけれど、
これから何世代かあとには、そんなすばらしい世界が来るのではないかと僕は思っています。

 

 

数年前に書いた、「ゆうひがおかの総理大臣」のエッセイにもすこし書いてありますが、
歴史を知ることは、未来を知ることになるというのは、おそらく間違いではないと思います。
歴史は繰り返され、そして、確実に方向性はあるのが見えるような気がします。
僕たちは歴史を知ることによって、未来を知り、夢と希望を持って生きていけるのではないかと思います。
そして、人が人生を生きる上でも、とてもプラスになることかもしれないですね。



2004/6/2 UP