きみが居た夏


夾竹桃(きょうちくとう)の香りに誘われるように目を覚ましたのは、もう夜半を過ぎてからだった。
寝台に起き上がってから、夕餉を食べた後、じきに眠ってしまったことを思い出す。
慣れない列車の旅に加え、夏の暑さが躰にこたえたのだろう。
紅の花の、甘く気怠い蜜の香りが開け放した窓から忍び込んでくる。
流石に陽が落ちて真昼の熱気はないものの、少し汗ばんでいた。
一度醒めてしまうとなかなか寝付けないもので、少年特有の好奇心も手伝って、思い切って散歩に出てみることにした。


どうせ暗いのだから誰も見ていないと、着替えもせずに裸足で田舎道を歩く。
こんな風に行儀の悪いことをしたことは、初めてだった。
父母も、彼を幼い時から見つめてきた執事も、躾には厳しかった。
その監視下を離れたことで、彼は自由を実感していた。
行くあてもなく、気のむくままに歩いてゆく。
始めは気になっていた小石の凸凹も、じきに慣れた。
見上げると、薄い玻璃の破片のような月が静かに傾いていた。
昼間と全く違う透明な夜の静けさに、すべてが沈んでしまったかのような錯覚に陥る。
溜息のように明滅する螢が路傍の叢に小さな天の川をつくる。
それよりもっと鋭い、無数の黄水晶(シトリン)の輝きが頭上に拡がっていた。
射干玉(ぬばたま)の夜の色を通すから、綺麗なものはより綺麗。
柔らかな青柳の下をそんなことを考えながら歩いていると、視界に何か白いものがぼんやりと映った。
バス停の標識の側にある旧い木製のベンチに誰かが座っている。
こんな時間にバスが通っている筈もない。
そこにちょこんと座っているのが白い服を着た子供だと気づいたころには、もうそれを無視できないところまで接近していた。


『幽霊かもしれない』


およそ、ありそうもない非現実的な事が一瞬、彼の頭を掠めた。
普段から、とても現実的な自分がそんな絵空事みたいなことを考えるとは、やはり環境の違いだろうか?
それは夏期休暇中の彼自身が日常生活から離れていたからかもしれなかった。
しかし、自分のことを棚に上げても、同年代の子供が一人歩きする時間ではない。
盂蘭盆(うらぼん)も間近だし、季節柄から言っても、そっちの方に説得力がある。
相手も彼の姿を認め、元々大きな瞳をさらに驚いたように見開いていたが、そんな思惑に気づいてか、気づいていないのか、柔らかく微笑んだ。
「こんばんは」
今、ひょっとして自分は世にも稀な体験をしているのではなかろうかと彼は思った。
「・・・こんばんは」
彼の返事がなかったため、聞こえていないのかと思ったのか、子供はもう一度繰り返した。
やけにリアルな幽霊だ。
とりあえず、返事をしても行きなり取って食われはしないだろうという結論に達する。
「・・・今晩は」
応えてくれたことが嬉しいのか、その子はまた柔らかく微笑む。
まるで、花のような綺麗な微笑みだと思う。
柔らかな鳶色の髪。
零れ落ちそうなくらい大きな紫水晶(アメジスト)の瞳。
その、平生はなかなかお目にかかれない容貌からも、ますますその子が現実のものとは思えなかった。
でなければ、何処の世界に、こんな真夜中に旧い街道沿いの停留所のベンチに一人優雅に佇んでいる子供がいるというのだ?
あまりに奇妙な状況設定に、少年の頭には疑問符しか浮かばない。
「・・・どうしてこんな処に居るの?」
「きみは、どうして一人でこんなところを歩いていたの?」
逆に問いただされるとは思っておらず、また、彼は困惑した顔をする。
押し黙ってしまった少年に、ふわりと投げられる柔らかな微笑み。
「空を見てよ。すごく星がきれい」
―――成程。
見上げると夜に瞳が慣れたせいか、先の倍以上の黄水晶が煌いている。
一体、何等星くらいまで見えているのだろうか。
あまりに星の数が多すぎるので、見知っていたはずの夜空が全く違う星図に書き換えられたような気さえする。
真夜中をすぎているので、少し早い季節の星座が、真南に輝きを放つ。
「本当に綺麗だ」
草の上に寝転がって、二人でどのくらい星を眺めていたのか。
ふと、隣にあった存在が遠くなる。
振り返ると、その子は微笑を浮かべたまま、小さく手を振っている。
「・・・夜が明ける前に帰らなくちゃ。・・・ねえ、きみ。今夜の事は、ふたりきりの秘密だよ?」
清流の中、手を伸ばすと掌から逃げて行く魚のようにその子は軽やかに身を翻した。
白い服が、ふんわりと鰭のように揺れる。
「また、逢おうね」
夜の杜(もり)の闇に溶け込むように、小さな躰は消えた。
しかし、その後も暫くの間、白い残像が鮮やかに彼の胸に残っていた。



*** Comment ***

真夏の夜の夢、のようなお話が書きたくて、このお話が生まれました。
プレビューで既にお分かりになったかと思いますが、ガンダムのガの字も出てこない、100%パラレルのお話です。
ちなみに、全く名前が出てきておりませんが、序盤から出ている方がアスランで、彼が幽霊と間違えたのがキラです。
キラとアスランが出逢う、ひと夏の想い出。
(エセ)純文学を目指してみました。(笑)
お楽しみいただけると嬉しいです。

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