〜After Story "Romanesque Serenade"〜



ゆらゆらと…万華鏡のように刻一刻とその表情を変える光の海。キラは、一匹の小さな魚になってそこを泳いでいた。右へ左へ。まるで、空を羽ばたくように、自由自在にその光の海を泳いでいると…不意に甘いテノールが響く。

『…キラ…』

 こんな風に自分の名前を呼ぶ人を、キラはひとりしか知らない。普段は口数の少ない彼だからこそ、自分の名前を呼ぶ時、言葉には現しきれないほどの愛しさを滲ませてくれているのだとそう思っている。
「…アスラン…?」
 愛しい人の名前を口にした瞬間、深い海の底でたゆたっていた意識が、ゆっくりと水面に向かって浮上していくように覚醒していく。
「…キラ」
 今度は、その声は確かにキラの耳に響いた。いや、耳元で囁かれているらしく、彼の吐息がキラの耳朶をくすぐった。
「…ん…っ」
 その瞬間、昨夜の熱を思い出した彼の躯がぴくりと反応を示す。ゆるりと開かれたアメジストの瞳。そこには、天蓋つきのベッドに腰を下ろして自分を見下ろしている恋人の姿があった。
「おはよう」
怜悧なエメラルドの瞳に、さらりとした宵闇色の髪。まるで、真冬の星のような、神々しいほどに冴え冴えと美しいその相貌は大好きだが…朝から至近距離で見ると心臓に悪い。
「…おはよ…」
 キラはまだ眠いふりをして、瞳をこする。
 しかし、意地悪な恋人はキラのその嘘を簡単に見破ってしまったらしい。華奢な手首を掴むと、キラの躯をやわらかなシーツの上に縫いとめてしまう。
 昨夜は…何度も何度も抱き合った。一体、絶頂の波が何度押し寄せたのか…記憶にない。躯に触れるのは清潔なリネンの感触。抱き合ったまま、何も纏っていないらしい。
 おそらく、自分の肌にはいくつも紅い所有の証が刻まれているだろう。目の前の恋人は、すべての民に平等で、正しく、優しい王だが…自分に対してだけは話が別らしい。あからさまな独占欲を隠しもしないのだ。
「そろそろ起きないか?」
 そう言って、アスランはキラの唇にひとつキスを落とす。
「…うん…いま、何時?」
 恋人の首にキラは細い腕を巻きつける。こんなことをしていると、またアスランもベッドに逆戻りになりかねないが…今はまだ、昨夜の余韻を楽しんでいたかった。
「もうすぐ十時だよ」
「…えっ…!そんな時間…!?」
 さすがに、そんなに遅い時間だとは思わなかった。キラは慌てる。
 アスランは近衛の竜騎士部隊と共に毎朝、国内の身回りを欠かさない。いつもはそれをベッドで見送り…彼の帰城にあわせて一緒に朝食を食べることにしているのだが、どうやら今日はかなり寝坊したらしい。
「ご…ごめんっ…!」
「かまわないよ。…昨夜、少し無理をさせたからな」
 そう言ってアスランは笑う。その笑顔にまたどきりと鼓動が撥ねた。
確かに、昨夜は自分でも無茶をした覚えがある。しばらく、アスランはクライン王国へ出掛けていたので…抱き合うのが久し振りだったせいもあるかもしれない。
広いベッドにひとりきりで眠るのは寂しかった。だから…ぬくもりを手放したくなくて…もっと深い場所でひとつに交じり合いたくて…あさましく、自分から脚を開いて何度も求めた。
 考えていると、躯の奥にまたうっかり熱が灯りそうだった。
「…キラ…?」
 黙っているのを不審に思ったのだろう。また呼ばれる名前のやさしさにどきどきする鼓動をおさえながら、キラは半身を起こす。どうやら、意識を失っている間にアスランが躯を清めてくれているらしい。躯を動かしても、脚の間を伝うものはなかった。
 

「おはようございます!アスラン様、キラ様!」
「おはよう。メイリン」
ダイニングに揃って姿を現したふたりの姿を認め、傍仕えの少女がにっこりと微笑む。
「アスラン様は珈琲ですよね?」
「ああ」
「キラ様は?今朝はダージリンになさいますか?それともアッサム?」
「今日はダージリンにしようかなぁ。ミルクいれてくれる?」
「かしこまりました!」
 手馴れたもので、てきぱきと少女はお茶の準備をしていく。
 他国から来客がある時に正餐を行なう、馬鹿みたいに広いダイニングではなく、ふたりきりのプライヴェート・ルームでの朝食はキラとアスランの密かな愉しみだった。
 国王としての政務で毎日、分刻みのスケジュールで動いているアスランだが、キラと過ごすこの時間だけは、片腕のニコルを部屋に入れることはない。キラの前でも、仕事の話は絶対にしなかった。 
「キラ様!」
 その時、居間へ飛び込んできたもうひとりの少女。
 ストロベリー・ブロンドの短い髪は、長さこそ違えど、お茶をいれている少女と同じ色彩だ。ふたりが似ているのはそれだけではない。悪戯っぽい蒼紫色の瞳も、顔のつくりもよく似ていた。
「騒々しいわよ。おねぇちゃん」
 銀盆にティーセットと珈琲カップを乗せ、眉をしかめているのは…さきほどの少女、メイリンだった。
 ルナマリアとメイリン。仲のよい年子の姉妹であるふたりは、一緒にキラとアスランの傍仕えをしていた。
「あら、おいしそうね。そのスコーン、あたしにもちょうだい」
「ダメです。これはキラ様の朝ごはん…!」
 伸ばされた姉の手をメイリンはぺしりと叩く。
「ちぇー。キラ様のだったら仕方ないわね。あんたのだったら遠慮なくいただくところだけど…!」
 そう言って姉はぺろりと舌を出す。
「もぅー!おねぇちゃん、何言ってるのー!」
 仲のよい姉妹のやりとりを、キラは瞳を細めて見つめる。
 彼自身にも、今は離れて暮らしているが…双子の姉が居るのだ。お客様用のお菓子を盗み食いして、城の厨房を預かっていたコックに怒られたり…家庭教師の目を盗んで城を逃走したり…。懐かしい幼い日々が脳裡を掠める。
「ルナマリアも一緒にどう?メイリンも」
「えっ!いいんですか?」
 主の言葉にルナマリアはきらきらと瞳を輝かせる。
他国から嫁いできた皇子妃だったキラ。ルナマリアとメイリンは、彼がまだ女性のふりをしていた頃からのつきあいである。彼が本当は男性だったということを知ってもまったく変わらずに接してくれるふたりのことがキラは大好きだった。
優しい主のことはふたりも大好きで…甘やかしてくれるのをいいことに、ついつい、まるで友達のような態度になってしまう。
「キラ様、ありがとうございます。でも…」
しかし、その隣に居たメイリンはちらりと違う方向へと視線を向ける。やわらかな布張りのカウチに座している青年は…キラの夫だった青年、アスラン・ザラだ。
かつて、ザフト帝国第三皇子だった彼は…その手で乱心した父皇帝パトリック・ザラを討った後…国を解放した。
国王になるつもりはないと、一度は辞退した彼だったが…国民が選んだのは彼だった。その気持を受け入れたアスランは…ザラの名を継ぐ最後の王になると宣言して王位についた。
かつては『暗黒皇子(ブラック・プリンス)』と呼ばれた、惨酷で冷酷な皇子。
それは、宰相ラウ・ル・クルーゼに操られた魔竜イージスによる彼のまやかしの姿であったことはメイリンもルナマリアも既に知っている。
寡黙な王は優しいけれど…傍に居ると緊張するのだ。
彼女のこわばった表情ですべてを察したのだろう。アスランはゆるりと瞳を細める。
「…構わない。ルナマリアもメイリンも、ゆっくりすればいい」
「ありがとう。アスラン」
 その恋人の思いやりに、彼の隣に座っていたキラは…自分よりも大きな手に自分のそれを重ねる。
「アスラン様、ありがとうございます!」
 許可をもらったルナマリアは、いそいそと(恐れ多くも)王の向かいに座る。
「おねぇちゃんてば!まったく…何しに来たのよ…」
 呆れたような表情を浮べた妹は、アスランとキラの前にカップを出す。
「…あ!すみません!忘れてた。そういえば、お手紙を預かっていたんでした…!」
 うっかりしてました、と、ルナマリアは舌を出しながらクリーム色の封筒をアスランに手渡す。
「ドラゴン・メールで今朝、届いたそうです」
 元々、ザフトにしか生息しなかったドラゴンだが…戦争が終わった後、ザフトの第一皇子であったディアッカがグリスタリア公国の王位を継ぎ、第二皇子であったイザークがエレンディア王国の王位を継いだ際…彼らの下についていた竜騎士部隊もそれぞれの国に向かった。
 クライン王国には、近衛騎士団長、ラスティ・マッケンジーが、そして、オーブにも一隊が派遣され…近隣諸国は、ドラゴンによって空路が結ばれたというわけだ。
どんなに離れた国であろうと、彼らの翼であればひと飛びだ。馬を走らせるより余程早く…今では、それぞれの国の定時連絡を兼ねた一日一便のドラゴン・メールが各国に飛ばされていた。
封筒の表に刻まれた文字を見つめていたアスランは、キラへとそれを託す。
「おまえ宛だ」
「…僕?」
 きょとんとした顔でキラはそれを受け取る。
 南の大国、オーブの王子として生まれたキラだったが、手紙をくれそうな友人はといえば、ザフトに囚われていた間に仲良くなった同じ皇子妃たちくらいしか居ない。
「…フレイかな。それともミリィ…」
そう呟きながら封筒を裏返したキラは…驚きにアメジストの瞳を見開く。
「ア…アスラン…これ…っ!」
「ん?どうかしたのか?」
 震える声でキラは叫ぶ。
「カ……カガリからだ…!」
「…それが…どうかしたのか?」
現在、オーブ女王陛下であるカガリ・ユラ・アスハは、キラの双子の姉だ。姉が弟に手紙を送るのに、何かおかしなところがあるのだろうか。眉を寄せたアスランにキラは続ける。
「カガリの筆不精は有名なんだよ!僕…手紙なんて一度ももらったことないよ…!」
「…そうなのか…」
「何かあったのかなぁ?」
 キラは首を捻る。
魔力の強いキラは水鏡を使って遠くの場所を覗くことができる。つい数日前、久し振りにカガリと話をした時には特に何もないと言っていたが…その後に何かがあったのだろうか。
「しかも…なんかこれ、ものものしいよねぇ…」
 そう言ってキラは手元の封筒を見つめる。
 クリーム色の封筒には、オーブの紋章である黄金の獅子の姿が印字され…臙脂色の密蝋でしっかりと封がされている。
銀色のペーパーナイフで手紙の封を切ったキラは…中に入っていたのが薄い便箋ではなくカードであることに気付く。
「…なになに…?」
 それを開いたキラは…刻んである文字にただでさえ大きな瞳をこぼれんばかりに見開く。
「ア…アスラン!大変だ…!」
「どうした?」
ぱくぱくと、陸に打ち上げられた魚のように口を開く恋人の髪をアスランは優しく撫でる。 
「…カ…カガリが…」
「怪我でもしたのか?」
 それならば、こんな大仰な手紙を送らずとも、ドラゴンに乗ってきた騎士の報告で事足りるだろう。
 一体、何が?と眉を寄せたアスランの纏う漆黒の衣を掴んで…キラは叫ぶ。

「カガリが結婚するんだって…!」

 その言葉は…さすがにアスランの予想の範疇を超えていた。
「…は?」
 気付けば、思わず馬鹿のようにそう返していた。
 その時の…唖然としたように口を半開きにしたアスランの顔。日頃、いつも凛とした恋人のそんな呆けた顔をキラが目にするのは初めてのことだった。
「…あのカガリが…結婚…?」
 おそるおそるアスランは問う。

―――カガリ・ユラ・アスハ。

キラの双子の姉である彼女は、オーブ陥落の際、戦死したと聞いていたが…当時、国を預かっていたオーブの将軍、ムウ・ラ・フラガによって一命を取りとめたらしい。
マリュー・ラミアスによる、性別を入れ替える魔法。それは、キラだけではなくカガリにもかけられていた。
元々は少女でありながら、魔法で少年となった彼女は…剣の腕を磨き、クライン王国に騎士として入団する。めきめきと実力をつけていった彼女は、近衛騎士となり…ザフト帝国によって両親を失った王女、ラクスを支え…ザフトとの戦の第一線で闘った。その時、アスランも彼女と剣を交えているが…確かに女性にしては恐ろしい強さだった。

現在、そんな彼女は祖国、オーブの女王陛下の座についている。本当は、彼女自身は弟のキラに玉座を継いで欲しかったらしいが…意外に頑固なこの弟はそれを拒んだという。
そして、旧ザフト帝国の支配から多くの国が解放された半年後、再び仲間たちがクライン王国に集まった折…キラはアスランと共に生きることを選んだ。そのため…オーブはもう彼女が護る他ないのだった。

生い立ちのせいなのか、それとも元々の性格なのか…。今ではちゃんと女性に戻った後も、彼女はそこらの男子にも負けないほどの『漢』ぶりだ。
剣の腕はもちろん…さばさばとした性格も男性のようだ。
もちろんそんな彼女に浮いた話などひとつもある訳がなく…次々と、側近たちがみつけてくる見合い相手に『私と剣を交えて勝ったら、結婚してやってもいい』と言っては…相手の剣を折りまくっているという噂が遠く離れたザフトにも届いていたほどだ。

―――その彼女が結婚。

 アスランの動揺も、尤もだった。
「…相手は…人間か…?」
 思わず、そう告げたアスランにキラはくすりと笑う。
「それ…いくら君でも失礼…」
 笑いながら、キラは結婚式の招待状をアスランにも見せる。
「…相手はねぇ…シンだって」
もうすぐ…世界で一番立場の弱い(?)男、オーブ女王陛下の婿となるのは…シン・アスカ。
「おまえを…此処に助けにきたあの子か?」
「うん。そう」
アスランの言葉にキラは頷く。
オーブが落ちた日、王宮を追われたキラをずっと護り続けた元将軍、トダカの義理の息子である。彼は、カガリの代わりとして離宮に幽閉され、姫君として育てられたキラをずっと護り続けてきた少年だった。
父に指南を受けたその剣技は、カガリにも負けない。
なるほど、彼であればカガリをうち負かしたかもしれない。そんなことをキラは考える。
「あのふたりが…結婚、かぁ…」
 カガリもシンも、キラにとっては家族に等しい存在だ。
 そのふたりが…本当の家族になるのだ。
 小さな封筒をキラは抱きしめる。
「結婚式にオーブに来て欲しい、って。アスランも…一緒に来てくれる?」
恋人のそのお願いに…アスランは勿論、と頷いた。




*** Comment ***

『Romanesque Serenade』続編です。
あまりに久し振りだったので、自分でも設定を忘れていて、鈍器本を取り出しました・・・。
それでもおかしなところがあったらごめんちゃい。
ひさしぶりにがっつりファンタジーだったので…大変でもありましたが、楽しかったです。
ドラゴンズが大好きなので、(プレビューには出ていませんが)ブリッツやらストライクやらがでしゃばって困りました・・・。


2009.4.28 綺阿


©Kia - Gravity Free - 2009