
宴のあった南殿から、キラは自分の部屋のある東の対へと、渡り廊下を歩いていく。
カガリ、ミリアリア。コズミック・イラに居る人たちと同じ名前、同じ顔を持つ人たち。(カガリの性別は多少違ったが)
ならば…他にも、コズミック・イラにおいてきた大切な人たちと同じ名前、同じ顔を持つ人がこの世界にも居るのだろうか?
「…アスラン」
するりと唇から零れたのは、今も愛しい恋人の名前。
もう二度と逢えない彼にそっくりな人も…ひょっとするとこの世界に居るかもしれない。
「…君に逢いたい」
一度、想い出すと…もうその想いを留めることなど出来なかった。
「…姫君の部屋があるのは東の対か。先に忍び込んで…戻ってくるのを待つかな」
大きな池のある南庭ではまだ宴が続いているらしい。
ニコルが奏でる琴の音や、それに合わせて奏される笛の音がかすかに漏れ聞こえる。
主賓である彼女もまだ宴の中に居ることだろう。
今宵は、菊を愛でる宴だ。
おそらく、使用人たちにも酒が振舞われているのだろう。
左大臣家の屋敷にしては、警備の人間も少ない。それは、自分の姿を見咎められたくないアレックスにとっては願ったりだった。
渡殿の暗がりを通り抜け、東の対へと辿り着く。
空には、望月を過ぎた十六夜の月が白く輝いていた。
「…帰りたい」
その時、か細い声が聞こえたような気がして、アレックスはふと声のした方を振り返る。
御簾の外、濡れ縁にひとりの少女が立ち尽くしていた。
丸く反った勾欄に手をつき、じっと、月を見上げている。
その白い横顔に、思わずアレックスは息を呑んだ。
先帝の第一皇子として生を受けたアレックスは宮中に生まれ育った。
幼い頃から、美しい女房たちに取り囲まれていたので、美人、麗人は見飽きている。
東宮として立太子した後、彼の元に入内してきた姫君たちも、薔薇か牡丹か、と言われるほどの美少女ばかり。
そして…何より、彼自身が生母、皇后譲りの美貌をそのままに受け継いだ美青年だ。
たくさんの美女を妃にしている彼だが、彼女らはすべて与えられた存在だ。
彼は今まで、自分から誰かを『欲しい』と本気で願ったことがなかった。
しかし…目の前に居る少女は、その彼の心を一瞬で虜にした。
ほっそりとした華奢な肢体。
月の光を受け、亜麻色に輝く艶やかな長い髪。
そして…憂いに沈む藤の花と同じ色をした紫色の瞳。
何より、アレックスの心を騒がせたのは、その頬を濡らす透明な涙だった。
「…あの日の月へ…帰りたい」
彼女は、アレックスには少しも気づいていないようだった。
決して手が届かないのが解かっているであろうに、無いもの強請りをするように、遠い月へと手を伸ばす。
衣の袖からちらりと見える手首は、つかんだら折れてしまいそうに細い。
唐花丸を綾織にした紅のグラデーションを描く重ね。夜目にも、彼女が纏っている衣がとても高価なものであることは解かった。
「…彼女が…姫か?」
疑問系になったことには理由がある。
宴はまだ終わっていないので、彼女が此処に居る筈がなかったこと、そして、この時代、姫君は滅多なことでは御簾の外には出なかったからだ。
いくら人目がない奥の御殿とはいえ…不特定多数の男が出入りしている宴の日に、格子を跳ね上げ、御簾も上げてしまったこんな端近まで出て来ているなどありえない。
もう少し、近くでその姿を見たい。
そう想ったアレックスは、一歩、足を踏み出す。
その時に、落ちていた小枝を踏んでしまったらしい。
ぱきり、と乾いた枝の折れる音が響いた。
「…誰?」
かすかな音を聞きつけたのだろう。
それまで、周囲のことなど気にもしていなかった彼女が、きょろきょろと辺りを見回した。
そして、彼女は衣擦れの音を残し、屋敷の中へと姿を消した。
月が美しい夜は、何故かとても哀しくなる。
キラにとって、月といえば、コペルニクスでアスランと共に過ごした幼い日々を差す。
他愛のないおしゃべり。幼年学校での生活。
当時の何気ない生活のひとこま、ひとこまが、彼を失った今となっては、すべて大切な想い出だ。
「…アスラン…」
ずっと一緒だった幼馴染。
そして、未来を誓いあった恋人。
今でも、愛している。
なのに…彼はこの世界の何処にも、もう居ない。
その事実を突きつけられる度に哀しくて、キラはひとり涙を零す。
そして…もう届かないとは分かっていながら、月へ向って手を伸ばすことをやめられないのだ。
「…あの日の月へ…帰りたい」
優しい想い出だけが眠る、あの場所へ。
そんな風に、思考の海に沈んでいたので、気付かなかった。
微かな音がキラの意識を浮上させた。
ひょっとすると、誰かに姿を見られたかもしれない。
御簾の外に出てはいけないと言い含められていたのに、月に誘われてふらふらと出てきてしまった。
ふと我に返ったキラは、慌てて袿の前をかきあわせると自室へと戻ろうとする。
未だに慣れないこの時代の装束は、裾さばきが難しい。
長い緋色の袴と微細な紫のグラデーションを描く表衣の裾を気にしながら、御簾をくぐったところで…不意に、背後に人の気配を感じた。
「…!…」
くん、と後ろに引かれる感覚。
前へ行こうとするのに身体がついてこない。
「月の光の愛を受ける姫君の美しさに惹かれて…こんな処まで来てしまいました」
振り返ると、床に届く御簾をかきわけ、ひとりの公達が御殿へあがろうとしている。
自分が前へ歩けないのが、青年が自分の裳の裾を踏んでいるせいであることにキラは気づいた。
「…あ…」
キラはとっさに踏まれた衣を脱ぎ捨て、逃げようとする。
しかし、その後姿はいたずらに男の狩猟欲を駆るだけだった。
小さく舌打ちをした男は、キラが脱ぎ捨てて行った表衣を放り出し、キラに迫る。
「…あ!…」
几帳の影に隠れたつもりだったが、気づけばその衣ごと背後から抱きしめられていた。
風にあおられ、リボンのように長く垂らされた野筋が辺りに翻る。
自分の動きを拘束した強い男の腕に、キラはパニックに陥る。
その時、耳元で囁く甘いテノール。
「お静かになさってください」
その刹那、まるで呪いにあってしまったかのように身体が動かなくなってしまったのは、耳に吐息がかかったからではない。
その声は…自分がよく知っている声にそっくりだったのだ。
「…あ…」
小さく震える体に、もはや抵抗するだけの力は残されていない。
ぐいっと強引に腕を引かれると、キラはその男の胸に倒れ込んだ。
「…ようやく捕まえた」
静かに笑う男の顔は、御格子に遮られた微かな月の光ではよく見えない。
「…綺羅様?」
その時、物音を聞きつけたのか、キラ付の女房、ミリアリアが姿を現す。
彼女が手にした手燭の炎の光に、思わずキラは袖で顔を覆う。
たとえ、彼女にも今の状況は見られたくなかった。
「綺羅さま…っ!」
少女が目にしたのは、表衣と袿を床に落とし、紅の単一枚で男に抱きしめられる姫の姿だった。
これから何が行われようとしているかは一目瞭然だった。
綺羅には今上帝への入内の話が出ている。
こんな時期に他の男と関係を持ったことがばれたら、綺羅だけでなく父親である左大臣の政治生命にも累が及ぶ。
しかし、鍛えられた男を相手に、少女の身体ひとつではどうにも出来ない。
どうすればよいのか、と、がたがたと震えるミリアリアに、侵入者は言った。
「…女。他言は無用ぞ。夜が明けてから、もう一度参れ」
ミリアリアは、気丈に男を睨みつけている。
そんな彼女の耳に、主の柔らかなアルトが響く。
「…ミリィ。この人の言うとおりにして」
「……綺羅様?」
状況が分からない彼女はキラの意図が分からず、眉を寄せる。
「…お願い」
しかし、主の声は落ち着いていた。
「……はい」
何か考えがあるのかもしれない、と、彼女はその言葉に従った。
一礼をし、部屋を出ようとする少女の背後にアレックスはもう一度声をかける。
「それから…そこの高燈台に火を点してゆけ。姫君の顔が…よく見えぬからな」
その言葉に、抱きしめていた姫の身体がこわばるのをアレックスは感じていた。
衣擦れの音が遠ざかり、あたりが再び静寂に支配されるまでアレックスは黙って腕の中でおとなしくしている姫君を見つめていた。
俯いているため、顔は見えない。
だが、さきほどやってきた女房が彼女のことを『綺羅』と呼んだところを見ると…どうやら彼女が左大臣自慢の一人娘であることは間違いなさそうだった。
「衣を脱ぎ捨て、空蝉のように逃げようとされても、私は物語の中の愚かな男とは違って逃がしませんよ。月の女神のように美しいと聞く『輝夜姫』」
その言葉にキラの胸は痛む。
此処にも、自分のことを本物の綺羅姫だと誤解している人が居る。
自分は彼女の偽者でしかないのに。
「…わたくしは『輝夜』ではありません」
「へぇ?ならば…そろそろ…お顔を見せてくださいませんか?」
さきほど、女房が残していった灯りを青年は手繰り寄せる。
「…嫌…見ないで」
しかし、少女は彼の腕の中でわずかに抵抗する。
素顔を隠そうとする紅の袖が邪魔だ。
細い手首を掴んで、少女の背中で一まとめにすると…アレックスは長い亜麻色の髪をかきわける。
伏せられた瞳。唇は真横に引き結ばれている。
知らない男に自由を奪われた少女は、小さく震えている。
そこから姿を現したのは…朝露のような雫を眦に残したままの、おびえたような華のかんばせだった。
「…美しい」
思わずそう嘆息し、アレックスは涙で濡れた頬に手を触れる。
「…あ…」
冷たい手が頬に触れた刹那、彼女は小さく身体を震わせるとぎゅっと瞳を閉じた。
長い睫が、白い肌に影を落とす。
「本当に…月の光を集めて作ったようだな」
くい、と顎に手をかけると、アレックスは驚いたように薄く開かれた桜色の唇に自分のそれを重ねる。
「…ん…!」
びくりと、華奢な身体が撥ねる。
逃げようとする体を強く抱きこむと、アレックスは口付けをなおいっそう深くする。
唇を割り開き、自分の舌を侵入させる。
口内の一番奥で縮こまった舌を引きずり出しては、何度も甘噛みをする。
「あ…ん…」
初めて与えられる刺激に、少女の身体が震える。
角度を変え、何度もしつこいくらいに口付けを繰り返し、口内を蹂躙すると…やがて少女の身体から力が抜ける。
ゆるゆると上げられた瞼の下から姿を現したのは…宝玉のような澄んだ紫。
その色に、アレックスは思わず息を呑んだが、彼の顔を見た少女の顔にも驚愕が浮かぶ。
「アスラ…!」
震える声で、彼女はそう言った。
「君が…どうして…」
大きく見開かれた瞳から、はらはらと涙が零れ落ちる。
目の前に居る青年は…あの日、ヤキン・ドゥーエから帰ってこなかった恋人、アスラン・ザラにそっくりだったのだ。
「どうして…」
男の低い声に、彼女ははっと表情を固くする。
「何を泣くことがある?おまえに逢うために、此処まで来たと…言っただろう?」
変わらない甘いテノール。
優しい言葉に、キラの頬に涙が伝う。
「…アスラン!」
もう、それ以上我慢できず、キラは男の頸に抱きつく。
嗚咽で震える背中を、なれた手が優しくさすってくれる。
想い出の中のように優しい恋人に、キラはすべてを委ね切っていた。
*Comment*
ものすごく話の中盤なんですが、一番書きたかったシーンです。
アスランではなくアレックスですみません・・・。
種版『竹取物語』なのですが、お話はコズミック・イラと平安時代をいったりきたりしています。
アスラン≠アレックス、でアレックス×キラなシーンがありますので(というか、R指定シーンはアレックス×キラのみでアスラン×キラはありません・・・あれ・・・?)
キラの相手はアスラン以外ダメ!という方だとか、アスラン死にネタが苦手な方はご注意ください。
最後は摩訶不思議マジックによりアスキラに落ち着きます。(身もフタもない言い方だな)
こ・・・こんな話が誕生日祝いですまなんだ、アスラン・・・・。
(綺阿さん、アスランファンって本当ですか?)
2007.Oct 綺阿。
©Kia - Gravity Free - 2007