忘れてしまった君と
忘れられてしまった俺と
どちらが幸せで、どちらが不幸なのだろう・・・。

戦いの日々が終わり、訪れた平和な毎日。
春の日差しのような、甘いやわらかな日常。
そんな日々が何時までも続くと思っていたのに・・・・。
いつもと変わらない穏やかな午後。
キラは突然壊れてしまった。
需要な会議が入り、どうしてもプラントへ戻らなければいけなかったあの日。
キラは朝から熱を出していて、一緒に行くことができなかった。
力なくベッドに横たわったままのキラの細い躯。
アスランが腰掛けると、ギシリとベッドが不平を漏らす。
「・・・昨日、激しすぎたかな」
耳元で囁くと・・・。
「・・・馬鹿っ!」
目元を赤く染めたキラから枕が飛んできた。
自分でも反省している。
キラの躯が本調子でないことは解っていたのだが、また明日からしばらく離れると思ったら、この躯を離したくなかった。
何度抱いても足りない。
乾いた砂にいくらでも水がしみこんでいくように、この渇きは一生癒されることがないのかもしれない。
・・・・その底なしの独占欲が、キラの躯に負担を強いてしまったかもしれない。
戦争が終わって一年。
それでも、あの時の記憶は今なおキラを苦しめる。
コーディネーターはナチュラルと比較して、傷の治癒が早いという。
それは意思の力が躯の細胞の活性を後押しするからだ。
逆に、心に負った傷は、躯の治癒を妨げる。
一年経った今も・・・キラの心は自らが犯した罪に縛られ、今なお毎夜、悪夢に魘される。
生き残ってしまったことに罪を感じ、殺してしまった人に懺悔の涙を流し続ける彼。
それは恐ろしいほど躯の回復を遅らせ・・・漸く普通に生活を送ることができるまでに回復したところだった。
そんなキラをひとりに出来るわけがなく。
アスランはキラとふたり、幸せな想い出の残る月、コペルニクスで過ごしていた。
思考を邪魔するように、携帯端末のアラームが鳴る。
そろそろ出なければシャトルに間に合わなくなる。
「ごめん、キラ。そろそろ行くよ」
汗で額にはりついた前髪をはらってやる。
紫の瞳が覗いた。
「・・・うん・・・行ってらっしゃい」
「お昼ごろにはカガリが来るからね」
アスランの指先が、キラの頬を慈しむようになでる。
「・・・うん」
久しぶりに、妹が来る。
アスランと同じく、カガリも自分の国を・・・オーブの未来を背負っている。
そんな忙しい人が、こんなところまで自分のためだけに来てくれていいのだろうか?たとえ兄妹とはいえ。
おそらく、自分をひとり置いていくことが心配で、この人が呼び寄せたのだ。
もちろんそれを断るカガリでもない。
・・・愛されているなと思う。
それと同時に、彼を、皆を束縛していることに申し訳なさを感じる。
「・・・アス?」
「なぁに?キラ」
ふっとキラは微笑んだ。
壊れそうなくらい綺麗な・・・すべてを包み込むような微笑。
「・・・何でもない。愛してるよ」
そんな愛しい恋人に、アスランはひとつ口接けを落として部屋を後にした。
自分ひとりになった部屋は急に広くなったような気がする。
躯が弱っているから、心まで弱っているのかもしれない。そうキラは思った。
「・・・疲れた・・・」
ぽつりと呟く。
躯も痛んだ。
それ以上に心が痛んだ。
「・・・もう、休んでもいいかな?」
カガリが尋ねてきた時、キラはベッドにはおらず、リビングの床に倒れていた。
その時既になかった意識は、病院へ運ばれた後も戻ることはなく・・ずっと眠り続けたままだった。
「キラ?!」
ようやく、アスランがキラのICUへと飛び込んできた時。
彼の細い躯はたくさんのチューブでつながれていて。
「・・・どうして・・・」
呆然とつぶやくアスランに、カガリは静かに言った。
キラをここへ運んできてから、多忙なはずの彼女は公務をすべてキャンセルし、兄に付き添っていた。
「意識、まだ戻らないんだ。私があそこに行った時にはキラはもう倒れていて・・・いろいろ調べてもらったんだが、原因もわからない」
「どうしてキラなんだ」
運命はどこまで彼を追い込めば気が済むのか。
アスランはやり場のない思いを壁にぶつけた。
しかし、それからもキラは丸3日、眠り続けたままだった。
意識が戻らない以上、動かすことも出来ない。
しかし、ずっと月に居続けることもできない。
メールと衛星通信で可能な限りの仕事をこなしてきたが・・・後ろ髪を引かれながらも公務へ戻らざるを得なかったカガリと同じく、アスランもキラを置いて再びプラントへと戻ることとなる。
入れ替わりに月へとやってきたのは、イザークだった。
「・・・すまんな」
彼だって、暇な躯ではない。
退役した彼は、母の跡を継ぎ評議員としてプラントの未来を支えようとしている。
自分と同じで、戦時中はキラと敵対していたイザーク。
イザークが乗っていたモビルスーツ、デュエルを撃破し・・・その顔に傷を付けたのはキラだった。
戦争が終わり・・・お互いがそれを知った時・・・泣きながら謝罪したキラに、イザークは何も言わなかった。
それ以来・・・イザークがあの時のことを口にすることはなかった。
正直、彼がキラに対して今どういう感情を抱いているのか解らなかった。
しかし・・・・キラが目覚めた時、ひとりきりでいるよりは、誰かがついていてやる方がいいのではないかと思った。
自分の代わりに月へ来たというイザークからの申し出に、多少なりとも驚きを隠せなかったアスランであったが、背に腹は変えられない状況で。
ありがたく受け入れることにした。
『キラの意識が戻った』
その知らせをイザークから受けたのは、1週間後。
やっと休暇をもぎ取って、月への着陸シークエンスに入ったシャトルの中だった。
宇宙港からエレカをマニュアル運転で飛ばし、ホスピタルに飛び込む。
入院患者をかわしながら廊下を走る。
ナースステーションの前で看護婦に睨まれたが、そんなこと気にしない。
病室の角を曲がる前、アスランは手ぶらで来てしまったことに気付いた。
一刻も早くキラに逢いたかった。
普段ならば、花やお菓子・・・キラが喜びそうなものを持ってくるのに。
そこまで必死な自分に、アスランは苦笑した。
「・・・ま、顔を見てから買いにいってもいいか」
角を曲がったら、病室の扉の横にイザークが持たれていた。
銀色の髪がその表情を隠している。
「イザーク!」
声に、彼は顔を上げる。
いつもと変わりない秀麗な・・・冷たいアクアマリン。
「キラは?中か?」
息を弾ませて問うアスランに。
「・・・逢わない方がいいかもしれんぞ」
イザークは、短くそう告げた。
「何をバカなことを言っている!」
自分が、愛しいキラに逢わない方がいいなんて・・・ありえない。
アスランはその横をすり抜け、病室へと向かう。
自動ドアが開くのももどかしい。
躯を割り込ませて、部屋に入る。
ベッドを覗き込むと、白い枕にやわらかな鳶色の髪が広がっている。
まだ眠っているのか、瞳は閉ざされたままだった。
でも、その表情は安らかで・・・もう彼が悪夢にうなされていないことに安堵する。
アスランはシーツの上に落とされていた細い手を握った。
「・・・キラ・・・」
名前を呼ぶ。
愛しいその名を。
「・・・ん・・・」
声が聞こえたのか、眉が切なげに寄せられ、睫が震える。
ややあって、紫の綺麗な瞳が見開かれた。
「・・・キラ・・・」
届いた祈り。
ずっと握り締めていたキラの手を、アスランはそのまま自分の額に当てた。
閉じた瞳から、涙が溢れる。
「・・・よかった。」
その透明なしずくは、キラの指先を濡らした。
「・・・キラ?」
アメジストは、ただアスランの姿を映しているだけで。
「・・・・・・?・・・・・・」
言葉のない、やわらかな微笑みは、すべてに対して甘く・・・そしてすべてを拒絶していた。
「・・・記憶・・・喪失・・・」
一言も話さなかったのは、自分のおかれている状況を理解していないから・・・心がまだ目覚めていないからだと医師は言った。
信じられない事実に、室内に居た全員が言葉を失った。
キラに付き添っていて、一部始終を知っていたイザークだけが、変わらぬ表情だった。
一体、彼を何が襲ったのか。
キラは自分の過去も、アスランのことも・・・自分の名前すら覚えていなかった。
「あいつは・・・全て忘れたいと思っていたのかもしれません」
ぽつりとアスランは呟いた。
そんなに辛かったのか。
戦いの記憶は。
3年ぶりに再会した自分と敵対し、殺し合い・・・友人を自分に殺され、アスランの友人を殺してしまい・・・。
やっと戦争が終わり、もう敵味方に分かれることもなく、これから甘い日々を重ねていくはずだったのに。
それは、幸せだった幼い日々の想い出と、これからの未来までもを一緒に消し去ってもかまわないくらいにキラの心を苦しめていたのか。
・・・ただ、哀しかった。
2004.07.04 綺阿
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