ひらり、ひらり。
風が吹くたびに、薄紅の花びらが舞い踊る。


それは、アスランがこの国へはじめて来た日、エアポートで目にした桜という名の樹だった。
ぐるりを塀で取り囲まれたこの館には、庭の中央に大きな桜の樹が植わっていた。
一刻も早くこの場を立ち去りたいと思っていたアスランだったが、その桜の美しさにしばし視線を奪われる。
「…綺麗だな」
別に、美術に造詣が深い訳ではない。むしろ、絵画や音楽と言ったものは退屈なだけで、幼馴染のニコルや婚約者のラクスのコンサートでさえ居眠りをしてしまうアスランだ。
そんな彼が、この樹の前で脚を止めたのは本当に偶然だった。
「…ん?」
ふと、視界の端に、何かが見え隠れする。
どうやら、大人がニ〜三人で手を回さなければ囲めないほどの太さの幹の向こう側に誰かが居るようだった。
褐色の幹の端から、風が吹くごとにちらちらと翻った真っ赤な袖が見え隠れしている。
「……」
びっくりさせてやろう、と足音を忍ばせて桜の樹に近寄る。
軍人であるアスランにとって、気配を消すなど造作もないことだった。
そっと幹を辿って反対側を覗いたアスランは思わず息を飲む。
紅色の振袖を着た鳶色の振り分け髪の少女が、桜に向かって手を伸ばしていたのだ。


「…あ…」


突然、現れた大人の男にびっくりしたのだろう。彼女はすみれ色の瞳を大きく見開いていた。
握り締めれば折れてしまいそうなくらいに細い手首。
ナチュラルの女は十六で一人前とみなされ、男と婚姻を結ぶことが出来るという。しかし、目の前の少女はその年齢にすら到底満たないのだろう。
アスランの胸の辺りにまでしか届かないような背丈のちいさな少女だった。
「…何をしていたの?」
アスランがそう問えば、少女はちいさな声で言った。
「…蝶々が…」
微かな声で彼女はそう呟いた。
見れば、桜の花びらに紛れるように、小さな一匹の蝶がふわり、ふわりと辺りを舞っている。
「…へぇ」
しかし、青年の視線を曳いたのは違う蝶だった。
アスランはじっと少女を見つめる。
肩よりも長く伸びた鳶色の髪は癖がなく、さらさらだ。
白い肌は頬だけが淡い薔薇色に染まっている。
すうっと通った鼻筋に、大きなすみれ色の瞳。長い睫。
まだ、大人の躯になりきっていないほっそりとした少女の躯。
まるで、市松人形のようだった。
「……」
おそらく、あと二年もすれば、さきほどの生意気な女をしのぐほどの美人になるだろう。
性格も素直そうだし、見るからに愛らしい。
まだ男を知らない躯を自分の好みに育てていくのもいいかもしれない。不意にそう思った。
「…ザラ様!」
その時、必死で追いかけてきたガルシアがアスランに追いつく。
「このようなところに…!」
彼の声が響いた瞬間、少女の躯がびくりと強張る。
「…あ…」
おそらく、ガルシアに此処に居るのが見つかってはマズいのだろう。困ったように少女は視線を彷徨わせる。
隠れようにも、こんな庭の真ん中では隠れる場所などないのだ。
「…いいよ。此処に隠れておいで」
そう言って、アスランは自分の纏っていた外套で彼女をすっぽりと包んでしまうと、背後に少女を隠してしまう。
「…ありがと」
まるで鈴の鳴るような声で彼女は小さく呟いた。
「ザラ様!お探しいたしました。さきほどは大変失礼をいたしました。あのフレイは、父親を戦争で失っておりましてな。コーディネイターを恨んでおるのです。ザラ様には、もっと美しい別の花魁を…」
「必要ない」
「…え?」
表情を凍らせたガルシアの目の前で、アスランは外套を持ち上げる。軍服にしがみつくようにして彼の背後からガルシアの様子を伺っていた少女は、突然、自分を隠していたものの存在を失い、びっくりしたように身を縮こまらせる。
「おや、蝶々さんや、こんなところに居てはいけないと言っているだろう?さっさと廓にお帰り」
顔こそ笑っているが、ガルシアは厳しい声で少女を叱る。
「ご…ごめんなさい…!」
これまでに叱られたのは一度や二度ではないのだろう。少女は可哀想なくらいに身を小さくしていた。
「…戻らなくていいよ」
そう言って、アスランは震えるちいさな躯を抱き上げる。
「…え?」
まるで、担ぎ上げられるようにアスランの肩に乗せられた少女は、状況がうまく理解できずにすみれ色の瞳を瞬かせる。
「この子をもらうよ」
「ザラ様!?蝶々はまだ十五、子供でございます…!」
慌てるガルシアにアスランはあっさりと言った。
「あと二年もすれば少しは大きくなるだろう?スレた女より、素直な子供の方がよっぽどいい」
金は払ってあるだろう?そう言えば、ガルシアは完全に黙ってしまった。


* * *


「…さくら、さくら」
館を出て、しばらく無言で歩いていたが少女は下ろして欲しいとアスランに強請った。さすがに、米俵のようにいつまでも男の肩に担ぎ上げられているのは嫌だったらしい。
そうっと、地面に下ろしてやると、少女はちいさな手でアスランの手をぎゅっと握り締める。
ずっと過ごしてきた廓から出たことで言葉を失っているのかと思ったが、どうやら『戻る』といわないところを見れば、その場所に未練はないらしい。
おそらく、この少女も緋色の髪をした花魁と同じで、何処かから売られてきた身なのだろう。
さくら、さくら、と単調なメロディを繰り返す少女に、ことさら優しい声色でアスランは問う。
「…桜が好きなのか?」
「はい」
少女は小さく頷く。
おそらく、長い間あそこに居たのだろう。鳶色の髪には、まるで髪飾りのようにさくらの花びらがいくつもついている。
アスランはくすりと笑いながらそれをひとつひとつ、指先でつまんだ。
「名前は?」
「…蝶々」
そういえば、さきほどガルシアが彼女をそう呼んでいたことをアスランは思いだす。
彼女が身につけている紅い振袖には、薄紅の蝶々が舞っている。
それは、どこかふたりの両側に等間隔で並ぶ桜並木の花びらにも似ていた。
「それは、店がおまえにつけた名前だろう?親からつけられた名前は何というんだ?」
少しばかり考えた後、少女は俯いたまま言った。


「…キラ」


その短いけれど、美しい響きを持った名前は、夕暮れに一番に輝く綺羅星のような少女にはとても相応しい名前だと思った。
「そうか。…キラか」
アスランは『キラ』と、口の中でその名前をもう一度繰り返す。


坂道の多い街。石畳の道を、ふたりは手を繋いで歩いた。
頭上には桜のアーチ。
はらり、はらりと薄紅の花びらが舞っていた。


この前は、まるで淡雪のように見えたその花びら。
今日、それはまるでうららかな春を精一杯に生きる、小さな蝶々のように見えた―――。




 **Comment**

オペラ[蝶々夫人]のWパロなんですが…いきなり前置きもなく話の途中ですみません。任地での現地妻を捜しに来たアスランが、結婚仲介人ガルシアの屋敷でキラに出会ったシーンです。

原作はかなりの悲劇的結末ですが、こちらはHappy End仕様。
アスキラはかなりの歳の差設定ですので、ご注意くださいねv
あと、原作を知っている方は御存知でしょうが、ふたりの間に生まれた子供が出てきます。
が、一応キラは女の子ではない設定・・・。トリカゴと同じです。


2008.04.20 綺阿


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