あの夏を忘れない



レノアがキラに依頼した仕事。それは、彼女の大切な薔薇たちの世話だった。
ザラ家の敷地は広大だった。私有地の中には、小高い丘や水鳥たちが羽根を休める池もある。そして…屋敷から程近い場所に彼女の丹精している薔薇園があった。
大陸の北部にあるディセンベルは冬になると大地が雪に覆われる。薔薇は寒さに弱い。そのため、彼女の薔薇は巨大な温室の中に植えられていた。
「…わぁ、素敵…!」
 そこに一歩脚を踏み入れた瞬間、キラの全身を甘い薔薇の香りが包む。
 原種と呼ばれるオールド・ローズ、ひとつひとつが見事な大輪のハイブリット・ティー。いくつもフリルを寄せたような八重咲きに、いくつもの花が房になったフロリバンダ。蔓が絡み合って高く伸びて鉄製のアーチを飾るクライミング・ローズ…。
赤、ピンク、オレンジ、白、黄色…。様々な色彩のバラたちがキラに微笑みかける。
「…僕…こんなにたくさんの薔薇を見たの、初めてです。お屋敷にこんな場所があったなんて、知りませんでした」
「綺麗でしょう?」
 まるで自分がほめられたようにレノアは嬉しそうに微笑む。
「はい、とても!」
 そこはまるで天国の花園のようだ。そうキラは思った。
「でも…お世話は大変ですよね…」
 水を枯らせては大変だ。それに、確か花は虫に弱いと聞いたことがある。この広い庭の手入れをするのはさぞかし大変だろう。キラは眉を顰める。
「大丈夫よ。お水と肥料は庭師のサムがちゃんとやってくれているの」
「じゃあ、僕がお手伝いするのは…?」
 ならば、わざわざ自分が手伝いをする必要はないのではないだろうか?そう思ったキラにレノアは微笑む。
「キラくんにお願いしたいのは…この子たちとおしゃべりしてやって欲しいの」
 レノアの言葉にキラはびっくりしたような表情を浮かべる。
「薔薇とお話…ですか…」
 それはキラの予想の範囲を超えていた。
「ええ。お話」
 しかし、レノアはごくまっとうに頷く。
「綺麗なお花を咲かせるのに必要なものって何だと思う?」
 そう問われたキラはとっさに答えを探す。
「ええと…たっぷりのお水と…太陽の光と…肥料…?」
「ええ。そうね。人間だったら、お水とお食事ってところね。でも、キラくんはそれだけで満足できる?」
 その言葉に、キラはしばし考える。
ザラ家での生活はキラにとってとても満ち足りたものだ。それは、あたたかいベッドと美味しい食事のおかげでもあるが…最大の要因は…恋人の存在だ。どんな日も、彼が傍に居てくれて、名前を呼んで、微笑みかけてくれるからこそ…キラは幸せだと感じるのだ。おそらくそれと同じなのだろう。
「…いいえ」
 そう言えば、レノアはにっこりと微笑む。
「薔薇も人も一緒よ。手間をかけて慈しんで育てれば…綺麗な花を咲かせるのよ。そう、あなたたちみたいにね」
 そう言って微笑んだレノアの姿が…一瞬、自分の母、ヴィアに重なる。
「…ええ。少しだけ…分かったような気がします」
 逆光に少し瞳を細めてキラはそう答えた。

***

それからというもの、キラは暇さえあれば薔薇園のある温室に足を運んだ。
八重咲きの豪奢なフリルが寄った淡いピンク色のエヴリン、名前のとおり、真っ白な羽を集めたようなスノー・グース。エヴリンほど派手ではないが、いくつものシフォンを重ねたように繊細なヘリテージ、夕暮れのオレンジ色をとかしこんだようなロイヤル・サンセット、そして、淡い紫色をしたブルー・ムーン。
その温室では、たくさんの薔薇が毎日かわるがわる花を咲かせていた。
「…あ。やっと咲いたね」
 キラはひとつの薔薇の前で足を止める。
 そこには今、まさに花を開こうとしている淡いピンクの薔薇があった。花弁の中心が濃いピンクで外へ向かうにつれ淡くなっていくその薔薇の名前はサマー・レディ。ここのところ、毎日、今日は咲くか、と、毎日、様子を見ていた薔薇だった。
その姿は、名前のとおりほんのりと頬を染めた少女のようで…それを見ていたキラの顔にも自然と笑みが浮かぶ。
 最初はただ、庭を散歩して花を眺めるだけで、庭師のサムの仕事を遠巻きに見ているだけだった。だが、温室はあまりに広く、よく見てみれば、庭師の手が届いていないところもあり…キラはしがみつく場所がわからなくて迷子になっている蔓をアーチに絡めてやったり、しおれかけている枝にたっぷりじょうろで水をやったりするようになった。
 そのうち、自分も手伝えることはやってみようと彼の作業を見様見真似でやっていると…見かねた彼に逆に教えてもらった。
ランバートと大差ない歳のサムは、キラからすれば祖父と孫ほど年齢が離れている。お坊ちゃんの学友と、最初はかしこまっていたサムだったが…キラの人あたりのよさにすぐに慣れ、今では先生と弟子のような間柄となっていた。
 その日も、教えてもらったとおりに鋏を持って蔓薔薇の剪定をしていると…長靴を履いたサムが慌てて駈け寄ってくる。
「キラ様!お外に出る時はお帽子を…!」
 季節は初夏から夏へとうつりかわろうとしていた。ここ、ディセンベルは大陸の北の方にあるせいで夏が短い。しかし、やはり冬に比べて太陽の光は強い。躯の弱いキラにとって、長時間の外での作業は負担になりかねなかった。
「え?あぁ…ごめんなさい。忘れてました」
 キラは鋏を持ったままぺろりと舌を出す。そういえば、今日は朝からとてもいいお天気だった。
 額から流れる汗を拭ったキラは、視界がぐにゃりと曲がるのを感じた。
「…あれ?」
 しまった、と思った時にはもう遅かった。


「軽い熱射病です」
「…ごめんなさい…」
 大慌てでザラ家へやってきた若い医師にベッドに横たわったキラは小さく謝罪した。体調管理には気をつけていたつもりだったが、ついつい我を忘れてしまったらしい。
「奥様とのお約束を律儀に護られるのは感心ですが…キラ様が倒れられては元も子もありませんよ」
 反省してます、と顔に書いているキラを医師は怒るようなことはしなかった。淡いクリーム色のシャツに、上品なベージュのスラックスと同じ色のベスト。ネクタイは濃いモス・グリーン。
 明るいオレンジ色の髪をかきあげてキラの現在の主治医でもあるハイネ・ヴェステンフルスは笑った。
 ザラ家のホーム・ドクターである彼は、腕の立つ心臓外科医でもある。そんな訳で、ディセンベルへ来てからキラの主治医も兼任していた。
「でも…それほどキラ様が夢中になられるお庭でしたら、私も拝見してみたいものですね」
 診察が終わり、ベッドの脇に置かれた琺瑯の洗面器で手を洗ったハイネは新しいタオルで手を拭く。
「実は…私も薔薇を育てているんですよ」
「そうなんですか?」
 キラは瞳を輝かせる。
 アスランにも、毎日、薔薇園であった出来事を話していたが、植物のことは専門外の彼はもっぱらキラの聞き役になるだけで、話し相手にはならなかったのだ。けれど、自分だってアスランが勉強している経済のことはさっぱりで…仕方のないことだとキラは思っていた。
「薔薇って…本当にいろんな種類があるんですね。手入れの仕方も違うなんて僕、全然知らなくて…」
「ああ、種類によって枝を切る場所や時期も違いますからね。色々と注意が必要ですよ」
「そうなんです!実はこの前も…」
 純粋に、話し相手が増えたことが嬉しかった。ハイネはキラの言葉に耳を傾けてくれて…きちんと答えを返してくれたから。

***

「…それで?おまえは薔薇の世話に夢中になって自分の躯のことはすっかり忘れてたってことか?」
「……」
 帰宅してきたアスランは、キラのベッドサイドで腰に手を当てて仁王立ちになっている。日頃、端正な顔は怒りを浮べると、それはとても怖い。彼がキラに対して怒ることは滅多にないが…なるべく見たくない表情だった。
「キーラ」
「…はぃ…」
 顔が半分隠れるくらいまで羽布団を引き上げたキラは小さく返事をする。
「いくら、心臓がよくなったからと言って…まだまだおまえの躯は普通の人と比べると弱いんだ。それを忘れるな」
 アスランにしてみれば、その言葉は心配の裏返しだったのだがキラにとって彼が指摘した事実は認めたくないことだった。
「大丈夫だよ!」
 長い間、『健康』という言葉と無縁だったキラは、たとえ空元気だと言われても…『元気』だと言いたかったのだ。
「…大丈夫じゃないだろ。熱出して」
 そう言ってアスランは恋人の鳶色の髪を払って白い額に手を当てる。そこはいつもよりも温かい。…というより、むしろ熱い。
「しばらく庭に出るのは禁止だ」
「…えっ!」
 恋人の言葉にキラは慌ててベッドの上に半身を起こす。
「嫌だよ!アスランの意地悪!」
 薔薇の世話はレノアから託された大事な仕事だ。このお屋敷の中では、キラが出来ることはほとんどなくて…それはようやく、見つけた仕事だったのだ。体調のせいで、またそれを手放したくなどなかった。
「意地悪じゃない!俺はおまえの躯を心配して言ってるんだ!部屋でおとなしく寝てろ!」
「すぐによくなるもん!」
「…それで?治ったらまた外に飛び出して、また倒れるのか?」
 憎たらしいことを言う恋人にキラは枕を投げつける。
「…っ…!キ…キラッ!」
 羽根枕をぶつけられたアスランがベッドの方を振り返ると…キラはアスランに背中を向けて布団を頭まで被っている。
「…寝る」
「…は?」
 布団の中からくぐもった声が聞こえる。
「君が寝ろっていうから…僕、寝るんだから!もう、出て行ってよ!」
 そう言ったなり、キラは黙り込んでしまった。
 こんもりと盛り上がった布団を見ていると…さすがにアスランの頭も冷えた。
(…さすがに、ちょっと言い過ぎたかな)
「…キラ?」
 そっとベッドサイドに腰掛ける。スプリングの軋みで自分がすぐ傍に来ていることは分かっただろう。けれど…キラは黙ったままだった。



*** Comment ***

『きみが居た夏』の続編です。
書き下ろしの『Secret Gadern』より。キラがディセンベルのザラ家にご厄介になっています。
というか、ほとんど嫁状態!?
再録のうち『きみと居た夏』のみが6歳の幼年、残りと書き下ろしはほとんどが15年後のものとなります。
ちょっと年齢的につじつまがあっていなかったものを、再録にあわせて修正しています。(元々、こんな長い話になるとは思っていなかったのでね・・・。)ご容赦ください。

2009.3.2 綺阿


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