
「ここが今日から君の家だよ。キラ」
「…わ…」
不規則に揺れていた車が止まったのは、一度しか行ったことのないアスランの実家、ザラ男爵家と変わりないくらい大きなお屋敷の玄関先だった。
子爵といえば、公爵、侯爵、伯爵の下の位だ。貿易で富を得たとは聞いていたが、実家がまさかここまで大きな家だとは知らなかった。彼はただ、目を丸くするしかなかった。
物心ついた時からあの閉ざされた館の中しか知らなかった。
外の世界を初めて教えてくれたのはアスランだったが、それはあくまでも一時的なものだ。確かに、花魁が身請けされてこの館を出ていくことがあるということは知っていたキラだったが、あの館で一番の稼ぎ頭である自分をネオがそう簡単に手放すとは想わなかった。正直、二年後にアスランが帰国しても、すぐにこの館から出られるとは思っていなかったのだ。
なのに…ネオはあっさりとキラをギルバートに引き渡した。
ネオが実は優しい男であることは知っている。だが、金が絡めば話は別だろう。ギルバートが花紫の実の親だと名乗り出たとしても、そう簡単に手放すとは思えなかった。
自分の身請け代のために…アスランはイギリスで留学の傍らに二年間働くと言っていた。おそらく、普通の大人が何年も働かなければ購えないような途方もない金額だろう。一体、ふたりの間でどれだけの金が行きかったのかを考えると…怖い。
けれど…悩んだ末に彼は『花紫』という名前も『ヒビキ』という名前も捨てることを選んだ。
そして…新しく『キラ・デュランダル』として…生きることを選んだのだ。
「どうかしたかね?キラ」
「いえ…何でもありません」
慌てて小さな頭を振るキラにギルバートは瞳を細める。
「おかえりなさいませ。旦那さま」
その時、玄関先で立ち話をしている主の元に歩み寄る男がひとり。
上品な三つ揃え纏ったオレンジ色の髪の男が頭を下げる。
「ああ、ただいま。そうだ。紹介しよう、キラ。この家の執事、ハイネだ」
そう言って、この家へ来たばかりの息子の背中を押す。
それまで、ギルバートの影になっていたので見えなかったのだろう。突然、姿を現した少年に執事は驚いたような表情を見せる。
「…ヴィア様!」
しかし…彼が驚いた理由はキラが想像した理由とは少し違っていた。彼は、突然現れたキラに驚いたのではなく、突然現れたキラがもうこの世の何処にも居ない人に似ていたから驚いたのだった。
「やはり、おまえもそう思うかね?」
満足そうにギルバートは橙色の瞳を細める。
「……はい」
彼はまるで信じられないものを見ているかのようにキラを見つめている。
「あの…」
「彼の父親は私の父の代の執事でね。その息子である彼も、昔からこの家に出入りしていたんだ。ヴィアのこともよく知っている」
「…そうだったんですか」
確かに、母のことを知っている人間であれば驚いても不思議はないだろう。キラはそう思った。
「ハイネ。キラは…ヴィアの忘れ形見だ。私が引き取ることになったんだ。今日から…このデュランダル家の後取り息子だよ」
その言葉に、ハイネはグリーンの瞳をゆるりと細めた。
「そうでございましたか」
「あの…初めまして。キラと申します」
「デュランダル家執事、ハイネ・ヴェステンフルスと申します。…若君」
そう言って、彼はうやうやしく新しい主に頭を垂れた。
娼館一の花魁だけあって、そういう風に人に傅かれることには慣れていたキラだったが…ひとつだけなれないことがあった。
―――『若君』
これまで、娼館では女性として扱われてきたキラにとって、その呼び方はなんだかとてもくすぐったかった。
「タリアとレイは?」
ギルバートの言葉にハイネはすぐに答える。
「おふたりともお出かけです。夕刻には戻られるそうです」
「…そうか」
使用人たちが空けてくれた玄関扉からギルバートは迷いのない足取りで屋敷の奥へと進む。少し遅れてキラもそれに続いた。
「ここが君の部屋だよ」
「……」
通された部屋は、とても美しい洋間だった。色彩の異なる木材が組み合わされた寄木の床に、蔦と葡萄が絡み合う図案が天井へ向かってのびる壁紙。大きなフランス窓に…まだ火が入っていない暖炉。
自分が棲んでいた館も、市井の人々が暮らす兎小屋のような長屋と比較すると広くて綺麗な部屋だとは思っていたが…それは、娼館でナンバーワンの花魁に与えられた部屋だ。キラ本人に与えられた部屋ではない。
そこは、彼にとって初めての自分のための部屋だった。
「…キラ」
「はい」
部屋の中央に置かれたソファに腰掛け、デュランダルは手招きする。彼の向かいに座ろうとしたキラだったが…どうやら父はそれが気に入らなかったらしい。彼の手を掴むと、強引に自分の方へと抱き寄せる。
「…わ…!」
体重の軽い躯はすぐにギルバートに引き寄せられる。勢い、彼の膝に座ってしまうような形になり…キラはかあっと頬を赤らめる。
「あの…」
とても心臓に悪い体勢だ。その場所から退こうとしたキラの細い腰にギルバートは両腕を巻きつけて彼の動きを封じてしまう。
腰を抱きこまれてしまうと動けない。両手の置き場に困ったキラは…そろそろと父の肩に手を回した。
「…キラ」
息子の胸に額をつけるように項垂れ、低い声でギルバートは言った。
「…話しておかなければいけないことがある。私は…君のお母さん…ヴィアを失った後、他の女性と結婚した」
「……」
その言葉に、さきほどの玄関での父と執事の会話を思い出す。
おそらく、会話に出てきたタリアかレイのどちらかが、現在のギルバートの妻の名前だろう。キラはそう思った。
「もし、君が生きていると知っていれば…私は、君とふたりで生きることを選んだだろう」
「…ギルバートさん」
憔悴したような声。世界を相手に貿易してきたような大の男が、自分の腹の上でまるで子供のように感情を曝け出す。
これと同じようなことを、キラは何度も娼館の閨で経験してきていた。高級男娼であるキラの客はいずれも名門貴族や高級官僚たちばかりだ。彼らは、抑圧された世界で生きている。少しのミスも赦されない完全さを求められる世界だ。
日中、そのような戦場で戦ってきた男たちは…キラの元で傷ついた羽を休めるのだ。気位の高い妻や、本妻にとってかわろうとする愛人。彼女らの元でくつろぐことのできない男たちは、黒鹿鳴館を訪ねた。花魁であるキラがこの館を出ることはない。そして、プロである彼が他の人間に閨のことを口外することもない。
この館の中での出来事は、彼が墓の中まで持って行くのだ。それが分かっているからこそ、男たちは彼の側ですべてを曝け出すことが出来たのだ。
自分の腹に額を当て、静かに項垂れるギルバートの姿が…これまで相手してきた客のそれに重なる。
「…どうか、お気になさらないでください。あなただって…ずっと辛い想いをしてこられたのでしょう?」
その言葉に、ギルバートはふと視線を上げる。そこには、美しい紫水晶。かつて愛した女と同じその色彩がギルバートの心を癒してゆく。
「それより…新しい奥様がいらっしゃるのでしたら…先妻の息子である僕は…この家にとって、邪魔な存在なのではありませんか?」
キラは少しだけ眉を寄せる。
彼が心配していたのは、むしろ、自分の存在がこの家に悪い影響を与えるのではないかという一点だった。
どんな家でも…まして、貴族の家柄であれば、当主の血を引く男子の存在は見過ごせない。もし、ギルバートと新しい妻の間に子供が生まれていれば、その子と自分のどちらが家督を継ぐかで争いになるかもしれない。それが分かっているキラは先手を打とうとする。
「引き取ってくださったことをありがたく想っていますが…僕のことは…亡き者とお考えください」
天涯孤独だと想っていた自分に家族が居たことはとても嬉しい。
けれど、自分の存在がこの家に波紋を投げかけるのであれば、これ以上、此処にはいられない。デュランダル家に引き取られることが決められた時からキラはそう覚悟していた。
「…何を言うんだね、キラ!」
あまりにも大人びた冷静な息子の発言にギルバートは叫ぶ。
「やっと探し当てたんだ!私が君を手放すとでも思ったか?もう二度と離しはしないよ。覚悟しなさい。ヴィアの分まで…君には幸せになってもらう」
そう言って、ギルバートはキラを抱きしめる。
「や…ギルバ…」
力の強い男の腕。それがアスランではないことに、思わずキラは躯を強張らせる。
「…ギルバートさん、じゃない。『父さま』と呼びなさい。…私たちは…親子なんだからね」
「…!…」
その言葉に、キラは大きく瞳を見開く。まさか…そんな風に言われるとは思わなかった。
「…ギル…」
「違うよ?」
『父さま、だろう?』とギルバートはキラの耳元で呟いた。
しばらくして、遠慮がちに外から扉をノックする音。ギルバートの返事を待って部屋に現れたのはハイネだった。何やら、火急の用事で来客があるらしい。
その言葉で…キラは父が多忙な人であったことを思い出す。
「…あの…僕のことならおかまいなく。もう大丈夫です」
そういえば…ギルバートが戻ってきて鳶色の髪にキスを落とす。
「分かった。アフターヌーン・ティーを用意させよう。夕食まで、ゆっくり休むといい」
「…はい」
優しい笑みを残し、ギルバートは部屋を去って行った。
ようやく一人きりになれた部屋。さきほど、グレイのワンピースに白いエプロンをつけたメイドが、三段のトレイに乗った菓子と紅茶の入ったポットとカップを置いていった。
あたたかな紅茶をひとくち含み、キラはようやくひとごこちついたような気分になる。
「…この家で…ちゃんとやっていけるかな」
確かに、自分は血縁上、ギルバートの息子なのかもしれない。けれど、今まで屋敷からまったく離れたところで生活していたし…そもそも、遊女としての生活しか知らない自分が、貴族の子供として振舞えるのかどうか自信がない。
「…アスラン」
一体、此処から見ればイギリスはどの方角にあたるのだろう。
窓際にもたれたキラは、窓の外に広がる青空を見上げる。
あの日、彼が乗った船が消えて行った海が彼の居るイギリスに繋がっているように…この空もまた、彼が見上げている空に続いている。
「…僕…自由になれたんだよ」
キラは空に向かって呟いた。
.....To be continued
** Comment **
半年くらいお待たせしてしまってすみません。『花霞の空の下〜』の続編です。今回で完結です!
50ページくらいのつもりで書きはじめたのですが・・・70で終らず、あれ?気付けば80超えていて…最終100でした。
あまりの自分の見通しの悪さに絶望しました・・・。(失笑)
ギル×キラではありません。あくまでもギル→キラです。キラはアスラン一筋。(笑)
前編にはあまり出番のなかったニコルやラクス、出てきていなかったカガリが出てきてけっこうオールキャラになりました。
お楽しみいただけると嬉しいです。
2008.Sep 綺 阿
©Kia - Gravity Free - 2008