綺 阿 (Gravity Free) 『Glass Magic』
「あっ…!」
ラボの壁にかかっていた時計を見て、小さく黒髪の少年が叫ぶ。彼の声に部屋に居たものすべての視線が集中した。
少年の名はシン・アスカ。この会社の開発部第一課に勤務する新人SEだった。
「どうしたの?シン」
そんな彼に、おっとりと話しかけるのは少し長めの鳶色の髪をした青年だった。華奢な躯はロングニットに包まれている。ほっそりとした鎖骨にアクセサリーがないことと女性にしては控えめすぎる胸であることから、その人が男性であることが分かる。
彼は開発部第一課主任、キラ・ヤマト。いくつも歳が変わらないシンの上司にあたる人物だった。
「すみませんヤマト主任!オレ、今日はお先に失礼します!」
そう言うが早いか、彼はモニターいっぱいに広げていたプログラム画面をばしばしと閉じていく。
「うん。いいよ。今日は特に急いでる仕事がある訳じゃないし…ね」
時計はまだ午後六時半をまわったばかりだ。彼らSEは顧客のオーダーどおりのシステムをプログラムするのが仕事だ。
仕事の納期までに時間がなければ残業や泊り込みは当たり前。
そんな職場環境に不平を言うことなく、毎日遅くまで頑張ることを厭わない彼にしては珍しく早い帰宅時間であった。
「ありがとうございます!」
そう言って、彼はがたん、と勢いよく立ち上がるとロッカーへと走っていく。
五秒でジャケットを取ってきたかと思えば…その姿は瞬く間に後ろ姿となった。
「どうしちゃったんだろう…シン」
かわいい後輩の異様な行動に小首を傾げるキラに、隣のデスクでキーボードを叩いていた少女がぼそりと呟く。
「知らないの?キラ」
「…え?何を?」
キラが口にした疑問系に答えるべく、目の前の椅子がくるりと振り返る。
そこには袖と裾がフレアになったチュニック・ワンピースにロングブーツをあわせた少女が細い脚を組んでいた。
雪のように白い肌に燃えるような緋色の長い髪。意志の強いグレイの瞳は不機嫌そうな色に染まっていた。
「…シンのやつ、彼女が出来たらしいのよ」
「えっ…彼女!?」
思わず、キラは小さく叫んでしまった。
今年の四月。大学を卒業してこの会社に入社したばかりのシンは…まだ社会の荒波に揉まれておらず、初々しくて可愛かった。
中学からずっと男子校出身で大学は工学部。
これまた男の園だったというシンは、これまでまったく女の子に縁のない生活を送ってきたらしい。
しかし、中学・高校は部活三昧、大学は同性の友人たちとつるむ方が楽しかったというだけあり…これまで彼女が欲しいと思ったことはなかったらしい。
そう言った彼を、同期入社のフレイ・アルスターはまるで珍獣を見るような目つきで見た。
シンとは対照的に彼女はずっと女子校育ちだ。
アルスター財閥の当主、ジョージ・アルスターのひとり娘である彼女は、幼稚園から大学まで一貫教育のエスカレーター超お嬢様学校に通っていたのだ。
夏は真っ白なセーラー服、冬は胸元を臙脂色のベルベットのリボンで飾った濃紺のブレザー。衣替えの季節になれば必ずと言っていいほどどこかのチャンネルに登場する可憐で清楚な制服で有名なその学校だったが…それを纏っている少女たちは共学の公立高校に通う女子よりも総じて早熟だった。
(たいがいにおいて、このくらいの年齢では男子よりも女子の方が精神年齢が高い)
化粧やパーマ、ネイル・アートにピアスはあたりまえ。放課後になれば彼氏のお迎えの車が通学路にずらりと並ぶ。休み時間は、おしゃれの話か彼氏の話のどちらかだ。
朱に交われば赤くなる、と言うが、そんな環境で育てば、まだ十代半ばから『男』を異性として認識するのは当然だ。
そんな訳で、中学生の時から高校生の彼氏とつきあっていたフレイにとって、彼女いない歴二十二年のシン・アスカという男は…珍獣にしか見えなかったのだった。
「ちょっと!フレイ…!シンの彼女って…だれっ!」
がたん、と音をさせてキラはフレイに詰め寄る。
キラにとってシンは可愛い弟分だ。その彼に初めての彼女が出来たといえば、気になるのは当然なのだろう。
「営業アシスタンドのバイトちゃんらしいわよ」
「…営業の?どこで知り合ったんだろう?」
キラは首を傾げる。
コンピューター・ソフトの販売やシステム設計を手がけるこの会社は、業界で急成長を遂げている企業だ。それは、この天才プログラマーであるキラ・ヤマトの存在に負うところが大きい。つまり、ここで大手を振っているのはキラたちが所属する開発部である。彼らには最新型のパソコンやサーバー機がずらりと並ぶ専用ラボが用意されている。
そこは営業部や総務部のある本部ビルと隣接された別棟だ。別部署の人間とあまり顔を合わせる機会はない筈だった。
「それがねぇ…聞いたら笑うわよ。迷子になっていたところを助けたっていうのよ。猫じゃあるまいし」
そう言って、フレイは苦笑する。
「…迷子」
確かに、この会社の敷地は無駄に広い。その中にいくつかのビルが点在しているのだから、まだ慣れていないバイトの女の子ならば迷ってしまうことは考えられた。
「でも…此処って、セキュリティかかってるから、他の部署の子は入れない筈だよねえ…?」
「そういえば、そうよね。ってことは…シンが迷子になってたんじゃないの?」
「オレが何だって?」
その時、不意に聞こえた声にフレイはびくりと肩を震わせる。そこには、腕組みをしたシンが立っていたのだった。
「あら。シン。おかえり」
「おかえり、じゃねーよ!勝手に人の噂話してんじゃねぇ!」
そう言って、彼はくちびるを尖らせるとずかずかと部屋を横切り、自分の机の引き出しを乱暴に開いた。
「何?帰ったんじゃなかったの?…ひょっとして忘れ物?」
そう問うたフレイに、シンはばつが悪そうに答える。
「…肝心の映画のチケット忘れた…」
机の引き出しから出てきたのは、封切されたばかりの恋愛映画のチケットだった。
「……バカね」
項垂れるシンに、フレイはふう、とひとつ溜息をつく。
「うるさいなあ!ほっとけよ!」
小馬鹿にされているのが癇に障ったのか、シンはがるる、と牙をむき、フレイに臨戦態勢だ。しかし、やはり彼女の方が一枚上手だった。
「はぃはぃ。…いいの?早くしないとデートに遅刻よ?」
「うわ…!そうだった…!待ち合わせに遅れる!」
はっとしたようにシンは時計を見上げる。
「やだ。やっぱりシン…あんた、ステラとデートなの?」
どうやら、ステラというのがシンの彼女の名前だったらしい。シンの顔がぱあっと笑顔になる。
「そうなんだ!ステラが映画みたいっていうから!」
「…へぇ…それで、シンだったら絶対に選びそうにない恋愛映画…」
彼が握り締めているチケットを見てキラが呟く。
典型的な体育会系男子のシンは、映画だったら絶対にSF大作かアクションものしか選ばないようなタイプだ。そんな彼が女の子が彼氏にしたいナンバーワンに選ぶような男優が主演している恋愛映画など選ぶはずがない。
「あんたねぇ…彼女と行くのにこんな映画選んでどーすんのよ。彼女の視線はスクリーンの中の男にくぎづけよ」
その言葉に、シンははっとしたように気付く。どうやら、そこまで考えてはいなかったらしい。
「う…うるさいな!口惜しかったらフレイも早く彼氏つくれよ!」
思わずシンが無意識に噛み付いた場所は、フレイにとっては非常に痛いところをついていた。
「…余計なお世話よ。うるさいわね」
不機嫌そうにそう言って、フレイはしっし!とシンを追い出しにかかる。
「いいわねー。職場恋愛は。とっとと職場結婚でもしちゃいなさいよ!」
「じゃ、すみません。いってきま〜す!」
フレイにはべーと舌を出し、キラにはきちんと挨拶をしてシンはラボを出て行った。
「……」
「……」
慌しくシンが出て行った後、部屋に落ちたのは沈黙だった。
それには理由がある。
今から三ヶ月ほど前…フレイは失恋をした。
彼女は幼い頃からアルスター家のひとり娘として大切に育てられてきた。
母親を幼い頃に亡くした愛娘を父親は哀れに思ったのだろう。ドレス、アクセサリー、お人形…幼い頃から望むものは何でも与えられてきた彼女は、普通の女の子よりもやや我儘に育ってしまった。
母親譲りの燃えるような赤毛にぱっちりとしたグレイの瞳。可憐な美少女はすぐに社交界の花となった。当然、幼い頃から彼女に言い寄る少年は後を絶たなかった。
しかし、フレイが『緋薔薇の君』と呼ばれる所以は、花のようなかんばせのためだけではない。
勝気な彼女は好き嫌いも激しく…そのガードの堅さは薔薇の刺のようだと男たちの間では噂されていた。
並の男では歯牙にもかけない。そんな彼女の婚約者に選ばれたのは…アルスター財閥に並ぶザラ財閥の御曹司、アスラン・ザラという青年だった。
男性にしては少し長めの宵闇色の髪に、深い森のような切れ長の翡翠の瞳。
百八十センチの長身に、バランスの取れた体躯は痩せすぎでもなければスポーツ選手のように筋肉質すぎでもない。そんな人が淡く微笑んだそのポートレイトは王子様然としていて、さすがに男を見る目の肥えたフレイにも外見で難癖をつけることには躊躇した。
そんな彼は、父親の跡を継ぐため学問に勤しみ、大学院の博士課程に在籍中という。幼い頃から成績は学年トップ、スポーツをやらせれば弓道でインターハイ優勝と…文武両道のアスラン・ザラは、確かに釣り書き上は申し分のない相手だった。
しかし、悲しいかな…フレイはこの手の優男がダイキライだった。
自分自身も気性がはっきりした彼女は、どちらかというと他人とはちょっと違う個性的で天才肌の男を昔から好きになる傾向があったのだ。
まぁ、しばらくの間、デート(とは名前ばかりのショッピング。もちろん、相手のおごり)にでもつきあってやって、あとは適当に父親に言って断ってもらおう。そんなことを考えていたら…なんと、一度もデートをしないうちに、相手からはやんわりと断りの言葉が入った。
これまで、フレイは自分の方からフることはあっても、相手にフられたことは一度もない。たとえ、気乗りのしない形だけの婚約者であろうと、自分がフラれる立場になったのは初めてのことで…それだけでもショックだったのだが…更に彼女の傷口に塩を塗りつけたのは、仮初の婚約者が自分をフッて選んだ相手が…なんと、彼と同じ性別の男だったということだった。
アスラン・ザラにとってもフレイは父親からあてがわれた形だけの婚約者だったらしい。彼女がどんな人物かを知るために、名前と身分を偽ってこの会社に潜入したアスランは…そこで知り合った青年と恋に落ちたという。
―――つまり、フレイは男相手に負けたということだ。
しかし、当時、フレイには想いを寄せる人が居た。好きでもない男にフラれようが、その人とうまくいけば気にすることなんて何もない。そう思っていたフレイは…翌日、更に大きなショックに陥ることになる。
何故なら…アスランが選んだその相手とは…フレイの上司、キラ・ヤマト。フレイが密かに想いを寄せていたその人は…告白するよりも前に、自分をフッた婚約者の恋人になっていたというわけだ。彼女の受けた衝撃は、震度九レベルの大激震だったのだ。
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