行徳の由来
「行徳」という地名の由来について、前からちょっといぶかしく思っていた。
旧い地名というのは「○○谷」とか「××浜」とか地理的な特徴からつけられたり、「有楽町」「八幡(やわた)」など、その地にある(あった)屋敷地や寺社の名前に因んでつけられていることが多い。そう考えてみた時に、地理的特長を指す言葉でも屋敷を持っていた人の名でもなさそうな「行徳」という地名は興味を引く。
実家にあった郷土誌によれば、行徳という名は、昔「行徳様」と呼ばれ民衆からの信頼のあつかった修験者(山伏)に因んで、いつとなく呼ばれるようになったものらしい。
修験者の名は金海法印という。行徳の地に来たのは、諸説あるがだいたい16世紀から17世紀初めのことらしい。
江戸川が運んできた大量の土砂が堆積し、河川沿いに自然の堤防のようにわずかに高まった帯状の土地をつくった。これが今の行徳街道沿いの土地であり、行徳という土地の原型である。いつしかこの地に移り住んだ人々が荒野を開墾し、干潟であった東京湾側の土地を塩田として開発していった。これらの人々と共に土地の開拓に努め、信仰を集めたのが金海法印である。金海法印は行徳山金剛院という寺を建立したというが、18世紀に廃寺となり、今はない。
さて「行徳」は「徳を行う」という意味である。「徳」という字を漢和辞典で引くとさまざま意味があることが分かるが、大別すれば次の3つに分類することができる。
(1)性格とか本質とかいう意味にあたる、本性。
(2)道徳。および人格者。
(3)「得」という字につながる、恩恵や利益。
郷土誌「行徳物語」の著者は、行徳の「徳」については道徳を指すものでないだろうと言う。著者は書いている。
『続日本紀』で奈良時代の行基が、弟子をひきいて橋をつくり堤を築いていると、伝えきいたかぎりの民衆はみな集まって協力したこと、教化のために行基が滞在したところには、道場(寺)が建ったこと、各地で霊威を示し、民衆は行基菩薩とたたえたこと、また大徳と呼ばれたと記されている。「行徳さま」の徳は、行基の大徳と同じ意味ではなかったろうか。
行徳さまは、寺の堂上で美しい袈裟をまとってただ教義や説法を説くだけの人ではなく、人々と共にあって治水や開墾について指導し、加持祈祷によって人々を病や飢えへの不安から救った人であったろう。行徳さまの徳は、彼が民衆の指導者として人々に現世利益をもたらしたことを意味するものであったと思われる。
16世紀といえば、戦国時代である。当時の行徳の地に生きた人々はどのような人々だったろうか。戦乱に明け暮れた時代である。江戸時代のような大資本を投入した開拓事業が行われたわけではなかったろう。生国を追われて、この地に流れてきた人が多かったのではないか。人々の暮らしが豊かであったはずはない。
また、当時は一面の葦原であった行徳の土地に鍬を入れ堤を築く仕事は辛く厳しいものだったろう。甘えた気持ちで生きられる土地ではなかったに違いない。
そのような暮らしの中で、人々の関心は高尚な文化よりもより実利的なものに向かったであろう。花より団子、俗な言い方をすればそういう人々であったと思う。
人々が金海法印に期待したのは、自分達の生活をより豊かにすることであり、苦痛を取り除いてくれることであったろう。また、そのような素朴な人々であるだけに、自分達と同様に土にまみれて働く者をこそ信頼もし愛しもしたであろう。
金海法印と人々との関係は、そのようなものであったように思う。400年前の行徳の風景が目に浮かぶようで興味深い。
※行徳さまと呼ばれた人物は金海法印とは別人の、それよりも前に当地に住み着いた修験者である、という説もある。
※参考文献 宮崎長蔵 綿貫喜郎 共著 「行徳物語」 1977年 市川新聞社
2005/3/3 |