年譜

昭和8年5月15日  父 高田政之「滑川市出身」母 喜美子「高岡市出身」の長男として誕生
昭和12年4月 5歳の時父の転勤(東京貯蓄銀行)のため京都に転居、洛陽幼稚園入園。父は厳しい躾をしたが、優しかった。日曜日には、京都市内の歴史探訪に連れて行ってくれた。
昭和15年4月 

京都府立師範学校付属小学校(現京都教育大学京都付属小学校)入試合格、入学。

昭和16年4月 小学校⇒国民学校に改称 この年に太平洋戦争勃発
昭和19年9月 京都三条支店次長だった父が三人の息子の介護で腸チフスに感染し倒れる。病没享年41歳
昭和19年10月

東京・大阪大空襲に次いで京都の声が高くなり、母と妹を残し3兄弟は、ひとまず母の実家高岡へ疎開する。そして博労小学校に転学し、担任は盛田正雄先生となる。

昭和19年10月

アメリカB29による富山市大空襲があり、射水郡作道村野村にある善休寺に再疎開する。作道小学校に一学期転校するが、集団による苛めを跳ね返す。

昭和20年8月

第二次世界大戦終結となり、日本は、ポツダム宣言を受託し無条件降伏昭和天皇の終戦の詔勅がほうそうされ、国民は平和に向かって歩きだす、これを契機に高岡へ戻る。博労小学校へ再編入となる。

昭和21年3月

高岡市横田、津田製菓株式会社(母の実家が経営する)の社宅に入居する。

高岡市立博労小学校卒業(優良賞受賞)

昭和21年4月

富山県立高岡中学校(現高岡高校)の入試に合格したので入学。バスケット部・映画演劇部入部先輩に蒲田黎子(後のロバートソン黎子)が居た。

昭和23年10月 同校併設中学・3年学園祭のとき、メーテルリンク原作「闖入者」の父親役をやる。
昭和24年3月

高岡中⇒高岡中部高校併設中学を卒業。卒業式の当日上級生がリンチ殺人を起こす。このことで、菊池勘左右衛門名校長が佐渡へ行く

昭和24年4月

新学区制が施行され、クラスメートが東西南北に離散する。
富山県立高岡西部高校普通科に入学・後日同校の菊友同窓会副会長となる。
引続き演劇部へ所属「ベニスの商人」や坪内逍遙原作の不如帰弧城落月を変題し、「大阪城最後の日」とする。配役は、家老大野修理之助治長を演じる。

昭和27年3月 同校卒業後家業の製菓業に専念する。そして、近所の神島弥省先生「冶金研究」の紹介で、富山大学工学部精密機械科へ勤務し、その折「高辻雄三助教授や村中利吉工学部長」に世話になる。
これが縁で、村中利吉工学博士を創立した「北陸工業専門学校」の初代校長に推薦し就任される。
昭和28年6月

津田製菓株式会社に高松宮殿下がご来臨になる。

高岡産業博覧会に際し津田製菓のキャラメル自動包装機を展示即売する。この時津田マンマーショウーを高岡市民会館で開催する。歌手 並木路子「リンゴの歌」高倉 敏・漫才南 道郎等が出演、会場が満員になる。

昭和29年10月

津田製菓株式会社が解散となる。この時受けた法律のプレッシャーが、後日の運命を変えることになる。

生活のため、一家挙げて饅頭製造販売業を営む。しかし家業に疑問を持つ。

昭和30年4月

中央大学法学部入学、東京都大田区南馬込 小紫外一(叔父)小柴せつ(叔母)宅に下宿する。

昭和30年10月 在学中に行政書士試験合格/宅地建物取引主任者試験合格
昭和34年3月

同校卒業司法書士試験合格/同年11月富山地方法務局に登録、富山県司法書士会に入会する。

司法書士・行政書士事務所開設/高校の担任であった英語の岩田正弘先生が好意で一年家賃無料で事務所を提供してくれた。

昭和34年4月 高岡市太田雨晴、増井正雄の長女アツ子と結婚
昭和35年4月 長女典子が誕生
昭和36年6月 二級建築士試験に合格
昭和36年10月

土地家屋調査士試験に合格/富山地方法務局に登録富山県土地家屋調査士会に入会

昭和36年12月 次女智子が誕生
昭和37年2月

政府の高枚急増対策に着目した故荒井泰雄氏は、高岡市に高岡東高等学校(現向陵高校)を創立するため、石瀬地区において約4万u(約一万二千坪)の校地買収計画を立案し、高田地所(株)がこれを受けて買収に着手した。買収に成功。続いて、石川県の小学校木造校舎を解体し現在地に曳航して再建築に協力した。

昭和37年4月

富山大学「経営短期大学部」2年次に編入ゼミ「管理会計学」飯田助教授の指導を受ける。

昭和37年10月 中部測量株式会社を創立、建設省に測量業者登録をする。
昭和38年7月

高田地所株式会社を設立、社団法人富山県宅地建物取引業協会に入会、理事に就任。

同協会常務理事・高岡支部専務理事となる。
昭和38年10月

富山大学「経営短期大学部」学友会長に選任され文化祭に松村謙三(元文部大臣)先生を招き「ヨーロッパEEC」の講演会を開催する。

同時に私の初めての演出で小山内薫原作の「息子」を上演する。

昭和39年3月 富山大学「経営短期大学部」卒業ゼミ(管理会計学)指導教官 飯田修三「現在追手門学院大学 経済学部 教授
昭和39年4月 三女奈保子が誕生・成長して、マンガ家で活躍する。
昭和39年10月 中越パルプ工株式会社能町工場貯木場役120.000uの用地買収に協力して農地転用手続き(農政局)及び測量登記・契約等多大の成果を挙げた。
昭和41年8月

関西方面で盛んになったバッテングセンターをみてきてピッチングマシン25台を購入、庄川大橋のたもとで、「富山県バッティングセンター」を開設する。

野球は廃れないというコンセプトをもつて、オープン当時は大人気だつたが、冬季期間に苦戦する。

昭和42年4月 専修大学大学院法学研究科「民事法専攻」修士課程合格入学。村 教三法学博士に師事する。
昭和43年3月

高岡市広小路にあった加趣能鉄道敷地を分譲計画に参画高田地所本社ビル(鉄筋コンクリート造地下1階付4階建)を新築完成する。

掘市長が祝辞を述ベる。

昭和44年3月

専修大学大学院法学研究科卒業法学修士学位記授与修士論文「根抵当権現代分析」(仕事しながら通学、富山空港→東京空港→JR)

昭和45年4月

日本司法書士会連合会のヨーロッパ司法書士制度視察団に参加。この間の取材データー纏めて著書を自費出版する。

「アヴエとアボカ」ロツパ司法書士制度・1000部を発刊・KNB興産発行

昭和46年4月

大型店ユニー(本社名古屋)を高岡駅前「延対寺荘跡地」誘致に成功。駅前商店街との共存共栄なる。

後日ユニー撤退後の跡地処分を一任される。

昭和47年4月

妹美由紀と林善暢氏(ダイエー本社社員・小矢部出身)と結婚。

これが縁で後日高岡駅南にダイエー高岡店が進出することになる。

昭和47年10月

高岡市長掘健治氏が駅南区画整理事業に着手、その発展の中核になるものを当社に要望されたので、これを受けて大型店ダイエーの誘致を実現した。

その折駅地下道の延長とダイエー地下とのドッキングの認可(建設省所管)が下りる。これが後の駅南発展の起爆剤となる。

昭和48年2月

北陸四県測量設計業協会が垂涎の的になつている則量士養成施設の建設大臣指定校を富山県に設置する運動を展開。その共同陳情書をもつて上京する。建設省国土地理院の総務課へ日参する。しかし問題にされず資料収集の為全国の測量専門学校12校を歴訪する。

昭和48年4月

第二議員会館の綿貫民輔代議士(後日自民党幹事長・衆議院議長となる)】を訪ね、富山県に是非建設省指定の測量学校を創設したい旨を告げ、代議士の理解を得る。

昭和48年6月

専任教官を求めて、北海道から沖縄までの行脚が始まる。当時全国で12校存在した。北陸に初の新設校北陸工業専門学枚が誕生する。

昭和49年4月

綿貫代議士や在京富山県人の有力者各位のご尽力により遂に開校式を挙行する。第一回の入学生は85名、松本小矢部市長の斡旋で校地約6千uを買収、鉄筋コンクリート造三階建延面積約2,200uの校舎を小矢部市蓮沼に完成する。小矢部市では、開校記念に御子舞や餅撒きをして祝ってくれた。

昭和49年6月

待ちに待った、測量法第五十条第三号及び第五一条第三号に規定する測量に関する専門の養成施設として建設大臣の指定認可が下りる。

「昭和49年6月24日建設省告示第926号」。後にこの日をもって「創校記念日」とする。

初代理事長に私、初代校長に村中利吉氏(富大工学部長・工学博士)、初代事務長に川岸孝太郎が就任した。

昭和49年9月

学校法人高田学園・北陸工業専門学校と名称が決まる。

つづいて、作詞高田政公、作曲宮下舜爾の枚歌ができる。

雪の結晶の中に工専の文字が入った校章もできる。

昭和50年3月

第一回の卒業生83名を就職率100%で社会へ送りだす。

その後年々入学生が増加していった。しかし富山県は国公立指向がつよく、新し私学に対する理解がなかなか得られなかつた。

昭和53年10月

次弟政禎のタカタ建設工業(株)の経営悪化の為二年間捨て身で協力したが及ばず。高岡市立野村小学枚の残工事を引き受け工期内に完成させる。しかし未経験の世界に突入したため満身創痍となる。遂に六億余の負債を被り内整理を断行した。周囲の人々の温かい協力があり、悉く私財を負債にあてたので、なんとか切り抜けることが出来た。人生の中で、誰でも経験のできない貴重な体験を得た。この後しばらく不遇の時代が続く。

昭和54年11月

学校長の時 北陸工業専門学校創立5周年記念式典挙行於小矢部市総合会館大ホール。

伊能忠敬の末孫伊能忠敏氏「国鉄金沢管理局長」の記念講演と、創立5年史を編纂する。

昭和59年3月

一級土木施工管理技士合格

昭和59年4月

建築工学科(二年制)測量本科(二年制)を設置する。

創校十周年記念式典を挙行する。於高岡問屋センター初代学園長に就任、『創立十年のあゆみ』の記念誌を発行

昭和62年3月

専修大学大学院法学研究科博士課程修了(英米法専攻)長い学生生活に一応終止符を打つ。

平成元年4月

五年の闘病生活をしていた母(80歳)が済生会高岡病院で死去。これを契機に、二上霊園の墓地に墓を建立する。そして若くしてよう夭逝した父の骨壷と母の骨壷を並べて安置した。奇しくも昭和天皇崩御の年であった。

平成5年10月

社団法人全日本不動産協会富山県本部役員一行と韓国慶洲へ第20回日韓不動産交流会議に出席する。

平成6年10月

第21回日韓不動産交流会議を富山県宇奈月町で開催する、国際会議をセレネ会議場・レセプションを宇奈月ニューオータニホテルで開催その際県本部長として韓国語でスピーチした。

参加国は、韓国・ロシア・台湾の3国であった。「新湊市六渡寺の獅子舞・おわら保存会」が出演した。
平成7年9月

アジア太平洋「APREF」不動産会議・於ソウルに富山県本部理事全員参加・ロッテワールドホテルに宿泊・イベントに出席する。

金 根永会長に再会する。

平成8年6月

日本行政書士会連合会定時総会の席上で、全国18名の会が自治大臣表彰を受賞した。その中の一人に推薦され当日北日本新聞に掲載された。

受賞地「仙台」から帰ると中沖知事から祝電が届いていた。

平成8年7月

東京日本橋三井不動産本社において、私と三井不動産坪井東相談役との紙上対談が会長室応接室で1時間収録された。北日本新聞が取材した。

しかしこの翌日にプールで遊泳中急逝された。

平成8年11月

高岡市より市民功労者表彰を受賞する。(佐藤孝志市長より)全国公募「水墨画大賞展」「樹間」入賞

平成9年4月11日

第三回高岡市市民美術展「日本画部門」に八十号「かざはな」を出品し、初入選となる。当該作品は、後日高岡市立定塚公民館に寄贈し、大村孝一官庁から感謝状と銀杯を受領する。

富山県信用組合定塚支店ロビーで個展を一ヶ月間開催。

平成9年5月2日

ロシア「ウラジオストック」視察。友人の堺 征三君・藤村君の案内で行く

ウラジオストック新聞社副社長グレポフ・オレグ氏と対談。岬でライフルや散弾で射撃をする。始めての体験だった。そして4日間滞在する。

平成9年5月30日

第五回中央大学卒業生による「法律」「会計」「税務」「登記」各部門の無料相談(富山県民会館)司法書士として参加する。他は弁護士・公認会計士・税理士5名が参加。相談者数51名。司法書士は、私と森 雅志君「現在富山市長で活躍中」」

平成9年6月8日

第九回富山県高校OB対抗ゴルフ大会に高岡高校OB代表選手として出場。

於高岡カントリークラブ。[予選9位]於花尾CC(約63組252名参加)

☆決勝戦→高岡高校 3位入賞。その時、次男政禎が高岡商業・三男政勝が高岡工芸から出場した。

平成9年6月12日

社団法人全日本不動産協会第46回通常総会において代表監事・日政連副幹事長・国会対策委員長に再選される。又、7期目の富山県本部長に就任する。

平成9年6月16日

法務大臣表賞受賞(於 東京都港区高論「ホテルパシフィック」)第五十三回日本土地家屋調査士会連合会定時総会の席上にて。

平成9年7月5日

三女奈保子が描いた4コママンガ「あしたはきっと晴れ!」が、北日本新開に連載になる。

平成9年10月6日

俳優「米倉斉加年」氏と終戦時の児童作文や絵画についてテレビ対談する。
(KNB北日本放送がVTRに収録)

平成11年4月 高岡市民美術展 「雨の大雄殿」が奨励賞受賞
平成11年10月 富山県勤美展「日本画部門」において画題(静響)50号が「北陸日中新聞社賞」を受賞する。
平成11年11月3日 中沖知事より富山県功労者表彰を受賞する。
平成11年12月 社団法人 全日本不動産協会富山県本部長 小西広一氏が提唱して、受賞記念パーティーを開催する。「ホテルニューオータニ高岡・鳳凰の間」政・官・財・業界「全国」出席者数130余名になった。乾杯の音頭は、立山アルミニウム(株)会長竹平栄次氏により始まる。
平成13年10月 南画院同人「東京」・審査員に推挙される。
NPO特定非営利法人 南画院 理事に就任
平成13年12月 全国公募 水墨画大賞展に出品、大賞受賞「大笠山」150号(賞金20万円付)全国美術雑誌に掲載される。翌年県民会館美術館において、個展を開催、高岡市民美術展で2回目の奨励賞受賞
平成15年11月3日 「秋の叙勲」旭日双光章を国土・交通大臣 石原伸晃より受ける。
平成17年 7月1日 ライオンズ国際協会334−D地区2R1Z ゾーンチェアパーソンに就任する。
平成17年 9月7日 社団法人 全日本不動産協会第28期 常任相談役に就任する。
平成17年10月 国立大学法人 富山大学 芸術文化学部の「テンペラ画」公開講座を受講した、作品を完成、展示する。
平成17年11月8日 ウイングウイングの大ホールに於いて、高岡開町400年のフォーラムのコーディネーターをつとめた。(パネラーは、東京高岡会会長・元神奈川県副知事 室谷千英 ・ 福岡町町長 石澤義文・古城ライオンズ会長 矢留文男・富山大学長 西頭徳三 ・334−D地区副地区ガバナー 伊勢豊彦 高岡古城ライオンズクラブ1000回例会記念フォーラム)
平成20年1月 高岡市開町400年記念・市民会館にて、18万人の市民による「第九の合唱」にテナーとして参加する。
平成22年9月 母校高岡高校へ、全国水墨画大賞展・大賞受賞作品「大笠山」を寄贈し、石井知事から感謝状を授与される。
平成23年6月 ・日本司法書士政治連盟富山会長に就任(3期目)。
・(社)全日本不動産協会相談役に就任。
・中央大学学員会富山県支部相談役、専修大学校友会富山連合会顧問に就任。
・高岡ライオンズクラブ55周年記念大会委員長に指名される。