実行犯検証 「新撰組説」




龍馬暗殺の実行犯を探っていきます。
まず事件当初,もっとも有力な説と云われた 「新撰組説」 についてまとめます。








内容のまとめ

この説は当初、もっとも有力視された説です。
有力視された理由としては、

(1)取り調べを行った土佐藩:谷干城の証言(中岡慎太郎の証言)
(2)現場に残された刀の鞘
(3)現場に残された「瓢(ひさご)亭」の下駄

の3つがあると言われているようです。

(「物証・手がかりの検証」のところと若干だぶりますがご了承ください。)

まず1つ目の証言についてですが、中岡慎太郎が襲撃を受けた際、その刺
客が 「こなくそ」 と叫んだと言います。この言葉は伊予弁で、伊予出身の
人間が疑われました。

2つ目の鞘ですが、尾張藩/鳥取藩の記録には「刀之鞘壱本、但し黒塗」
とあるそうですので鞘は確実に現場に残っていたと言っていいでしょう。この
鞘は誰の者か調査したところ、新撰組脱退者で薩摩藩邸にかくまわれてい
る人間 (高台寺党の面々) から、新撰組:原田佐之助のものだという証言が
あったようです。

3つ目の「瓢亭」の下駄ですが、新撰組御用達の料亭であった「瓢亭」の
下駄のため、やはり新撰組があやしい、となった理由です。かなり有名な
話ですが、事件当初はまったくこの話はでていなかったそうです。
この話は、大正15年に近江屋新助の子供、近江屋新之助が父親に聞いた
話を公表しただけのことで、のちのこの話が脚色されて度々登場するよう
です。たぶん記憶違いではないか、ということです。
(詳しくは 「物証・手がかりの検証」 を参照のこと。)

上記の理由、特に1・2つ目の理由により、新撰組で伊予出身の原田佐之
助が疑われるわけですが、幕府大目付:永井尚志の調査では、新撰組には
全員アリバイがあり、局長の近藤勇は完全否定したようです。

ただ土佐藩と薩摩藩は最後まで新撰組説を強固に主張したと言います。

近藤勇が明治元年に下総流山で新政府軍に捕まった際、武士の最後として
切腹させようとしたのに対し、土佐藩は龍馬・慎太郎の暗殺犯に対して、
そんな温情は必要なし、と強固に反対し、結果、斬首の刑およびさらし首
になったそうです。

薩摩藩の主張は「薩摩黒幕説」で述べますが、大久保利通から岩倉具視に
宛てた手紙の中で「暗殺犯は新撰組である」と断言した文章が残っている
ようです。




解説・疑問




龍馬は倒幕の志士として常に幕府から狙われる立場にあったわけですが、
永井尚志は徳川慶喜の命により、新撰組・見廻組等に捕殺禁止の通達を出
していたと言います。

(ただし、通達は暗殺後に出された、つまり1日遅かったと言う説もありますが)

この点からは黒幕幕府説は薄いようですね。

しかし新撰組には確かに違う観点からの動機はあります。有名な寺田屋
事件です。龍馬と長州:三吉慎蔵が伏見奉行に襲われた際、龍馬はピス
トルで2人を射殺したと言います。

つまり新撰組は「殺人犯」として龍馬を捕殺する義務があったわけですから、
もし暗殺を行っていたとしたら否定する理由はどこにもないわけです。

ましてや新撰組の遥か上の親分である大目付:永井尚志の設問に対し、
嘘は絶対つかないと私は思います。

それでは何故、土佐藩は最後まで 「新撰組説」 を唱え続けたのか・・・。
土佐藩幹部は、当初,海援隊と陸援隊の不仲が原因では?、という疑い
を持っていたようです。その不仲を世間に知られたくないようでした。

そのためには犯人を幕府系に仕立てて、世間の矛先をかえる必要があり
有名な新撰組説を声高らかに言っていた、という説があります。
後に 「京都見廻組」 説で解説しますが、今井信郎が自供した後も、公に
出来なかったのは、最初に 「新撰組」 説を唱えていたため、また、近藤
勇惨殺の過去から、最後まで強固に 「新撰組」 説を唱えなければならな
かったのでしょう。

新撰組実行犯説は薄そうですね。









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